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2017/02/01

小穴隆一「二つの繪」(57) 「奇怪な家ダニ」(1) 家ダニは御免だ

 

 奇怪な家ダニ

 

     家ダニは御免だ

 

 芥川は大正十五年四月十五日の夜、「かういふことをいつていいものだらうか」「人にかういふこといふべきものではない。が、いつていいだらうか」「かういふことは友達にもいふべきことではない、が、友達として君は聞いてくれるか」といつて自決することを僕にうちあけた。このことは、同十年の晩秋湯河原の中西屋における一夜、同十四年は八月から九月にかけて輕井澤のつるやでみせてゐたその素振りからいつても、僕を不意に狼狽させたとはいへないのだが、芥川が芥川の口ではつきり自決するといつた以上、それはもう一人の力ではどうすることもできないことを、僕は改めて覺悟しなければならなかつた。僕は僕のいふことに耳をかして、芥川の死をくひとめにかかつてくれる人を、菊池寛、山本實彦、佐藤春夫と考へてみた。しかし僕は、僕がもしもこれらのなかの誰かに會つて話をし、その誰かが芥川になにかいふその場合は、それはかへつて芥川の自決をはやめる結果になることを思はざるをえなかつた。

[やぶちゃん注:「山本實彦」既出既注の改造社社長。以下、殆どが既出既注の事柄や人名であるのでそれらは原則、一切注さないこととする。分からぬ場合はブログ・トップ・ページで検索を掛けて戴きたい(私の現在のトップ・ページでは本書のここまでの電子化は一ページ内に収まっているからである)。]

 誰にもいへず、ただ一人でどうしたらば芥川に一日でもながく生きてゐてもらへるかと思案にくれはててしまつてゐる、さういふところに、〔これは僕の家内の叔父にして兼ねて僕の中學以來の友だちなり、御引見下さらば幸甚、小穴君、龍之介〕と書添へてもらつた名刺を持つて山本(喜譽司)さんが訪ねてきた。山本さんは、なんですか芥川が死にたいといつてゐますが、といふのだが、僕も山本さんもただ同じやうに困つたといふ感情だけで、しばらく向ひあつてゐたままでわかれて三十年の今日に至つてゐる。(私は向ふへ行かなければならないので、あとのことはなにぶんお願ひ致します、といつてブラジルに行つてしまつた山本さんの名刺の裏には、八月二十七日出發、と書いてあり、鵠沼に移つてゐた芥川のスクキテクレアクタカワの電報の日附印は七月十二日である。)どこか恒藤(恭)さんの靜かさがある人と思つてゐる、その山本さんに、僕は今度といふ今度は、はじめて手紙を書かなければならなくなつた。僕の手紙の内容は、

[やぶちゃん注:勘違いされると困るので言っておくと、以上の日付のある時系列部分は芥川龍之介自死の前年の大正一五(一九二六)年のことである。小穴隆一の文章が厄介なのは、一文や同段落の中で時間が目まぐるしく前後することである。以下の書簡発信は今度は「三十年の今日」の時制で、既に自死後の本書刊行(昭和三一(一九五六)年)直前のことである。書簡中に「三十年前」とあるのを数えで採り、前年の昭和三十年の小穴隆一の山本喜誉司宛書簡ということになろう。

 以下の書簡引用は、底本では全体が一字下げ。]

 

 芥川家では芥川の死後家ダニをわかしてゐる。家ダニは不埒にも、芥川家が受取る印税の三分の一を芥川家からとりつづけながら、そのうへに、全集の編集にいやがらせをし、且つ妨害を加へてゐる。すでに寫眞の類、一卷分になるノートの類を持去つてゐるので、岩波は二十卷と豫告はしたが、十九卷で終るのやむをえざる狀態である。岩波は奧さん(芥川夫人)さへしっかりして下されば、この際、なんとしてでも家ダニが持去つたものを取りかへして、芥川家のものとしてあげたいといつてゐるが、奧さんの態度がしつかりしないかぎり、これは如何ともできない。恐らく、家ダニはあと一、二年で版權がきれるその時を待つてゐるのであらう、あなたが持つてゐる芥川の寫眞や手紙を岩波に貸していただきたい。僕の現在の氣もちは、三十年前にあなたと會つたときと同じさまです。

 

といふのだ。

[やぶちゃん注:「全集」既注の戦後の第三次新書版全集。昭和二九(一九五四)年十一月から刊行が開始されて翌年の八月に刊行を終えた。全十九巻・別巻一。

「あと一、二年で版權がきれる」旧著作権法下では著作権は三十年(一九七〇年改定で五十年に延長)であったから、芥川龍之介の著作権は昭和三三(一九五八)年一月一日〇:〇〇を以って消滅した。]

 家ダニは筑摩書房の文學アルバムの芥川龍之介(二十九年十二月發行)の編集にことよせて、芥川家から芥川の寫眞を皆持去つたままで返さずにゐる。これで岩波は口繪寫眞を探すのに困つた。また抑へてゐる一卷分になるノートの類は、それを提出しないばかりではなく、その一部椒圖志異(三十年六月ひまわり社發行)を、禁轉載と掲げて出版し得意顏でゐる。このことは、奧さん(芥川夫人)には、岩波の全集には掲載を禁ず、と、ことわりがきをつけると揚言してゐた振舞であり、僕らに對してはこざかしい挑戰である。

[やぶちゃん注:「椒圖志異」芥川龍之介の趣味であった直筆の怪奇談蒐集帖で手書きの絵図等も含まれるもの。私は自分のサイト「鬼火」開設の最初期に既に全文を芥川龍之介 椒圖志異(全) 附 斷簡ノートとして公開している。このページを作った時には、実は私は小穴隆一同様、葛巻義敏に対する強いアレルギーを感じながら電子化した(それは一種のダニ・アレルギーだったのだなぁと今更に得心した)ことを、ここに初めて告白しておく。]

 僕は昭和七年十二月號、八年一月號の中央公論に「二つの繪」なるものを覺悟の上で發表して人々の憤慨を買つた。これは當時の記者、今日の社會黨の代議士佐藤觀次郎君がつけた「芥川龍之介自殺の眞相」といふサブ・タイトルがいまだに利用されて、なにかといふと、坊間の解説家たちに字數を稼がせてゐるたねであるが、人々は、當時、僕が單なる僕のメモにすぎない原稿を觀次郎君に渡すときに、これは修身ともいふべきものだ、といつて渡してあることを知らないのだ。もし幸ひに今日この「奇怪な家ダニ」が觀次郎君の目に觸れるならば、觀次郎君には僕がいつてゐた、修身といふことばの意味がはじめて了解できると思ふ。

[やぶちゃん注:「佐藤觀次郎」(明治三四(一九〇一)年~昭和四五(一九七〇)年)は愛知県出身。早稲田大学政経学部経済学科卒業後、中央公論社に入り、昭和八(一九三三)年に編集長、同十二年には中京新聞社取締役編集総務となった。戦後、昭和二二(一九四七)年、愛知県三区から衆院議員に当選、以来、当選八回。社会党教宣局長・社会党両院議員総会長・衆議院文教委員長などを務めた(以上は日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠る)。

「これは修身ともいふべきものだ」葛巻義敏を始めとして死せる芥川龍之介の死骸に未だに寄生して甘い汁を吸っている、指弾すべき批判すべき輩は有象無象腐るほどいるけれども、あくまでこれは私にとっての「修身」、自分の心と行いを治め正すことをまず目的として示すものだ、という謂いか。しかし多分、佐藤にも分らんよ、小穴さん。]

「二つの繪」は、前がきに□□□を食べ云々と書いたが、その食べた人達の無慙さに對しての憤りや、誰にも親しまれてゐた人間が、芥川が死ぬと、たちまちにして芥川家にうまれた家ダニの卵になつてゐるのをみてゐる不快さなどによつて書いてゐたのだ。

[やぶちゃん注:『二つの繪は、前がきに□□□を食べ云々と書いた』先行する「鯨のお詣り」の「二つの繪」パートの冒頭添書きを指す。以下。なお、近日、「鯨のお詣り」の電子化も開始する。

   *

 

 あはれとは見よ。

 自分は娑婆にゐてよし人に鞭打たれてゐようとも君のやうに、死んで燒かれた後の□□□を、「芥川さんの聰明にあやかる。」とて×××種類のフアンは一人も持つてゐない。それをわづかに、幸福として生きてゐる者だ。

        昭和七年秋      隆一

 

   *

いつもの小穴調の持って回った言い方に加え、意味深な伏字になっていて読解が難しいが、私は、本書の後半に横溢する葛巻義敏への強い糾弾内容から、

 

君のやうに、死んで燒かれた後のしやりを、「芥川さんの聰明にあやかる。」とて喰らふ種類のフアンは一人も持つてゐない。

 

と読み換えている。「しやり」は「舎利」で遺骨である。大方の御批判を俟つものではある。]

 僕は腹をすゑてブラジルの山本さんに、芥川家では、芥川の死後家ダニをわかしてゐると書いて送つた。(家ダニは芥川家の人達が「姉と弟とは義絶をしろ、義敏には三年間生活をみてやれ」といふ芥川の遺書を忘れてゐるうちにわいた。芥川は人一倍用心ぶかい男ではあつたが、情には脆すぎた。その芥川が、義絶を遺書にしておいたのはよくせきな事情があつた筈である。)僕は旅先に𢌞送されてきた山本さんの謙虛な手紙にガクンとなつた。〔小生と芥川とは中學、高等學校の頃の友達で芥川と私と、そしてもう一人平塚(これは〝吾が舊友〟と題した雜文中で出て來ます)が中學校で友達で、この三人が各々發狂した母を持つたと言つた奇緣で一つのグループを成してをりまして、この三人の間の話や手紙は鬼氣を帶びてをりました〕(十卷學校友だち二〇七頁參照)といふ。僕は芥川は所詮助からぬ人であつたかと、嘆きをまた新にしたのである。

[やぶちゃん注:小穴隆一は山本が姪である芥川龍之介未亡人文に葛巻との関係を完全に絶つように厳命してくれるものと思っていたのである。そこには龍之介亡き後の文や子らが、龍之介の遺書に反して彼と距離を置いていることから見ても、既に小穴隆一に対する不評は文から逆に叔父喜誉司に送られていたものと私は読ぐらいである。そうして、本書の芥川龍之介は橫尾龍之助とする私生児説、伯母フキが実母だというトンデモ発言、本章以下の葛巻ダニ義敏徹底駆除主張で、小穴隆一と芥川家は完全に切れたと言ってよいと私は考えている。そうしてそこには小穴隆一という男の性格の中に潜む、ある異常な一面を私は垣間見るようにも感ずるのである。但し、それでも世の芥川龍之介研究者が小穴隆一証言をその奇矯性から第一次資料として採り上げないのは、画竜点睛を欠くものでもあると大真面目に思っていることも言い添えておく。

「〝吾が舊友〟と題した雜文」既に「養家」で注したが、大正一四(一九二五)年二月発行の『中央公論』に掲載された「學校友だち ――わが交友錄――」の誤り。既に養家」の注で引用した。]

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