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2017/02/10

小穴隆一「鯨のお詣り」(32) 「二つの繪」(21)「芥川夫人」

 

     芥川夫人

 

[やぶちゃん注:「二つの繪」の「芥川夫人」の原型。]

 

 ――夕方、秋の夕日を浴びながら、海岸のはうへ僕ら二人は步いてゐた。

「わたしははやくに父をなくしてゐたから、どんなのんだくれでもいい、お父さんがあつたはうがよいと思つてゐた。それだのにと言つて泣かれた時は僕は實際、‥‥」

 夫人の述懷をかう話し出した彼は、そのまま、「俺は實際女房にすまない。」「いくぢが無いんだ。」と言葉も胸もこみあげてしまつて路(みち)に立つた格好で淚を拭つてゐた。(どこまでも淋しい鵠沼の思出だ。)

 芥川夫人は、龍之介の評に從ふならば餘りに非の打ちどころのない女である。人生に於いて、男子から觀て非の打ちどころがない女、非の打ちどころのない女が非を男子にきたすと考へもするが、自分はここに、彼がやたらに、他の女性に縋ろうとしたのは、助平(すけべい)でもない。夫人は奥さんでなくて、三人の男の子方(こがた)のお母さんである。もしも三人の子のなかに女の子が一人ゐたとしたならば、もう少し樣子が變つてゐた事でせう。と、さういふ一つの意見も採用し、夫人は父を、彼はその母を、共に幼少の年(とし)に於いて失つてゐる人である事を加へ、二つの思出を記して、彼のいふ姉さん女房といふ種に屬する女性ではなくとも、彼が、「自分には過ぎた女房だ。」と口ぐせに言つてゐたその夫人の章はこれで終りたい。以下――

 

 一日(にち)、鵠沼から東京に出た時、晩飯を食べるのに新橋驛で下車した。驛前の薄暗い有樂軒? で晩飯を喰べた時の當時を考へる。大きい卓(たく)を間にして、自分達は並んだ。椅子に腰をおろした夫人は眠つてゐる也寸志君を抱いてゐた。自分達の前に幾箇(いくつ)かの皿が並んで皿の物を喰べてゐる間、その食卓の上の隅には父の外套を褥(しとね)とした也寸志君がねんねこに包まれたまま眠りつづけてゐた。

 也寸志君! 悲しい君の兩親と食事する僕が、君を食卓の上に、寢かせておいたらどうだ? といつたのだ。

[やぶちゃん注:既に注したが、芥川龍之介の三男也寸志の生年月日は大正一二(一九二三)年七月十二日で、これは小穴隆一転居後の鵠沼生活中のことであるから、大正一五(一九二六)年八月以降で満三歳であるが、本書刊行の昭和一五(一九四〇)年当時は十五歳で、東京高等師範附属中学校(現在の筑波大学附属中学校・高等学校)三年生であった(彼が音楽を志すようになる前年に当る)。]

 

 ホテル事件後の一日(にち)、彼は夫人同伴で下宿の自分の室(しつ)に這入(はい)つて來た。常とは變つたその樣子を、「今日は何だか女房が君にお詑びをしたいと言ふので來たのだ。」「君を疑つてゐてすまなかつたといふのだがね。」と笑ひながら彼は自分で説明したゐた。(手帳に依る、1の冒頭數行參照。)

[やぶちゃん注:手帳に依る、1の冒頭數行は『手帳に依る、1に於いて自分は大正十五年四月十一日〔昭和元年〕より翌昭和二年花見頃に至る、丁度一年間になる日數があり、ジグザクに動く彼を追つて、夫人及び葛卷、僕の生活も亦ジグザクに動いてゐたのである。この四人の動靜を描き、彼の胸像を彫刻してゆきたい。』であるが、小穴隆一お得意の〈藪の中の藪の中〉でとんと判らぬ。年喰った小穴の「二つの繪」版(本書刊行時は四十六であったが、当時(昭和三一(一九五六)年)は六十一歳)の「芥川夫人」では、達意となって『(夫人の誤解といふのは、僕が芥川の「死ねる藥」の話相手をしてゐたことかも知れない、)』とある。]

 其日淺草にジヨン・バリモアの「我(われ)若(も)し王者(わうしや)たりせば」を見に行つた。彼等夫妻と、自分ら、皆で步くことは鵠沼以來始めてであつた。われわれの見た映畫のなかのバスター・キートンには、彼も、夫人から貰つた板チヨコをしやぶりながら、他(ほか)の見物人同樣相當笑はされてゐた。文藝春秋に書いてゐた彼の、「若し王者たりせば」は其日、歸宅後に書いてゐたものであらうが、

(僕はこの映畫を見ながらヴイヨンの次第に大詩人になつた三百年の星霜を數へ、「蓋棺(がいくわん)の後(のち)」などと言ふ言葉の怪しいことを考へずにはゐられなかつた。「蓋棺の後」に起るものは神化(しんか)か獸化(?)かの外にある筈はない。しかし、何世紀かの流れ去つた後(のち)には、――その時にも香(かう)を焚(た)かれるのは唯「幸福なる少數」だけである。のみならずヴイヨンなどは一面には愛國者兼(けん)「民衆の味かた」兼模範的戀人として香を焚かれてゐるのではないか? (「若し王者たりせば」より)

[やぶちゃん注:太字「一面には」は底本では傍点「ヽ」。]

 この話をここに自分が引用したのはほかでもない。

 自分達二人が何か爭(あらそ)つたとする。後(あと)で自分が惡かつたと思つて、詑びようとして二階から下におりてゆく。すると矢張り女房のはうも謝りに來ようとして、廊下で鉢合(はちあは)せをする。よくそんな事がある、という風に、その夫人を、自ら彼説明してゐた事があつた。その實例を見せてつたやうな、朗(ほがら)かな記憶を、其日に自分は持つてゐるからである。

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