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« 小穴隆一「鯨のお詣り」始動 底本書影・「螢のひかり」 | トップページ | 小穴隆一「鯨のお詣り」(3) 「妓女」 »

2017/02/04

小穴隆一「鯨のお詣り」(2) 「車夫仲間」

 

 車夫仲間

 

 今日でも、子供の絵本に、浦島太郎が龜に乘つて龍宮に赴く畫(ゑ)があるか、如何(どう)であるか、「家に子供なし」であるから、知らないのであるが、私はいま浦島太郎が龜に乘つて龍宮に赴く圖を、甚だ面白いものに思つてゐる。何故ならば、波の向うに見える龍宮は今日でも中國に行けば見られる建物(たてもの)であつて、日本の物ではないからである。姑娘(クーニヤン)であるか、小姐(シヤオチエ)であるか、乙姫樣の風體(ふうてい)さへ百美新詠圖傳のなかにある班倢伃(はんせふじよ)である。

[やぶちゃん注:「姑娘(クーニヤン)」一般に、未婚の女の子・娘・乙女の意。

「小姐(シヤオチエ)」チー氏の中国語解説サイトの『「小姐」の本当の意味は?』によれば、(古語)立場の低い女性の呼び名。未婚の女性の敬称。その手の風俗産業に携わる女性等を指す語とあり、以下、以下のような注意すべき記載が示される。即ち、この「小姐」は『端的に言うと、地方によってだいぶ違ってい』るというのである。『例えば、南方ではとても礼儀のある言葉として既婚・未婚に関わらず、一般女性を呼ぶ際に広く用いられて』おり、『日・中どちらの辞典にもない広い範囲の使われ方がなされている』とする。『上海などを舞台にした中国のドラマで「小姐」という言葉が今でも頻繁に使用されているのはそのため』だという。『一方で、北京を含めた北方の方では、全く礼儀のない仕方で使用されて』いる、『つまり、風俗系の仕事をしている低俗的な女性を指す言葉として使われている』とあるのである。従って、『南方では見知らぬ女性を呼ぶ際に 「小姐 ! 」と声を掛け』られるが、北方ではそれは失礼に当たるとある。現地でも、『南方から北方に来たばかりで、まだ地元の文化に慣れていない方が、ときどき「 小姐 ! 」と呼んでいる光景を見聞きする場合があ』るが、『そのようなときは、周りの地元の人たちは思わず苦笑いをしていたり』するともある。但し、ここでの小穴隆一の謂いは、前の「姑娘(クーニヤン)」を良家のお嬢様風の意、この「小姐(シヤオチエ)」を庶民的な姐(あね)御風に使っている感じではある。

「百美新詠圖傳」清代の顔希源になる中国歴代の美女伝。早稲田大学古典総合データベースで全冊を視認出来る。

「班倢伃」(生没年不詳)は現行では「はんしょうよ」と読む方が一般的。前漢の成帝の側室で悲劇の美女の代名詞。「倢伃」とは女官の名称で「婕妤」とも書く。参照した同女のウィキには、『成帝の寵愛を得たが、後に趙飛燕に愛顧を奪われ、大后を長信宮に供養することを理由に退いた。長信宮に世を避けた倢伃は、悲しんで「怨歌行」を作』ったとされ、以後、『失寵した女性の象徴として、詩の主題にあつかわれることが多い』とある。「百美新詠圖傳」の班倢伃の図はここ(先の早稲田大学古典総合データベースのHTML画像)。]

 この支那事變以來、軍人はともかくとして、數多くの人々が種々の名目の下(もと)に一度は中國に渡つてゐる。龜をいぢめたこともないが、生憎助けたこともないので、龜の背を借りずに、私も亦、汽船で野球放送を聞きながら波の向うに行つてみた。

[やぶちゃん注:「支那事變」昭和一二(一九三七)年七月の盧溝橋事件を発端として始まった、日本と中華民国の間で行われた長期間に渡る大規模な戦闘を指す(但し、両国ともに宣戦布告を行なっていないことから「事変」と称する)。現在、称されているところの「日中戦争」の前半戦に当る(ここはウィキの「支那事変」に拠った)。小穴隆一のこの中国旅行は本書刊行の二年前の、昭和一三(一九三八)年である(前の「螢のひかり」参照)。]

(十月十六日)朝、宿ノ中庭ニ拾煤(シフバイ)(石炭殻拾ヒ)ノ少年二人ヲ呼ビコミ、スケツチヲシタ。五錢ヅツヤツタ。夕方、流シノ藝人、父親、娘、息子三人ヲ呼ビコミスケツチ、コレ三二十一錢五厘ヤル。一錢五厘ノ紙幣ガアルノダ。

(十月二十日)サテ義足ノタメ小生ノ向脛(ムカウヅネ)ノ化膿シタルトコロ、昨夜カラソロソロツブレカケテキテ、ヤツト明日ハ二十號ヲ描キニユカレルカ如何(ドウ)カトイフトコロダ。コノ三日間部屋カラ動ケズ、佐佐木夫人ノ紹介ノ人ヲ賴ンデ、近所ノ支那ピーヲ、(○○其他相手ノ淫賣、亞米利加(アメリカ)人ハ亞米利加人相手ノトイツタヤウニイロイロアリ、ロシヤ人ソノ他イロイロアル由)モデルニ交渉シテ貰ヒ四號畫布ニ描(カ)イタ。毎日一時間ギメ、一時間ハヂツトポーズヲシテヰルトコロハ、ナカナカ約束ガカタイガ、アトハナンダカンダイフ。トコロガコイツノ言葉ハ下衆ノ言葉ラシク小生ニハトントワカラン。前便ニモ書イタ向(ムカ)ヒノ雜貨店ノ小僧サンヤ車夫ガ、(皆支那人)今日ハ小生ノタメニ物賣リヲ二人ツレテキテクレタノデ一人ハ十五錢、一人ハ十錢ノ約束デスケツチシタ。小生ノ風俗スケツチハ宿ノ前ニ居ル支那人ニモ興味ヲ起シタラシク、變ツタモノガ來(ク)レバアレモカケ、コレモカケト言フ。但シ中流階級ノ人々ヲ指サシテ、俺ハアアイフノガ畫(カ)キナイト言ツテモ、手ヲ振ツテ駄目駄目トイフ仕種(シグサ)ヲスル。マタ下級階級ノ人デモ、必ズシモ皆金ヲ要求スルノデナカラウト思ハレルノハ、乳母車ニ乘ツタ子供ヲツレテキテ、車夫達ヤ小僧ガ總ガカリデスケツチノ間子供ヲアヤシテヰテクレテ、コレハオフクロガツイテヰタガ、タダデアツタ。又若イ一人ノ車夫ハ、門前ノ小僧デ、小生ガステツキデ體ヲササヘテヰル姿ヲ、紙ギレニスケツチシテヰタ。コイツガ描(カ)イタ柳樹(リウジユ)ノ繪ヲ持ツテ歸ル。

[やぶちゃん注:「二十號」文脈から風景画と思われるからPサイズで七二七×五三〇か。

「佐佐木夫人」佐佐木茂索夫人房子(作家ささき・ふさ)。

「支那ピー」この「ピー」とは当時の中国人売春婦のことを指す語と思われる。後で小穴隆一は疑問を呈しているが、日中戦争勃発後に中国の日本陸軍将兵の間で使用された、中国語口語からの借用語である兵隊支那語の一つ。「(ピー)」で、華北に於いて「女性器」「売春婦」の意で用いられた(ウィキの「兵隊シナ語」に拠った)。ここでも考証しているが、そこでは英語起原説もあるとする。

「四號」人物であるからFサイズで三三三×二四二。]

 私はいまここに一寸、自分が留守宅に宛てて書送つてゐた手紙のなかから、話に必要な部分を拾つてみた。我畫畫(ウオホワホワ)、給你一毛錢(ケイニイマオチエヌ)。一毛五(イマオウ)、といふのは、スケツチ・ブックに鉛筆スケツチのモデル賃である。

 ピーとか、ピーヤとかいふのは、一體(いつたい)中国話(チオウンクウオホワ)なのか、如何(どう)いふ字を書いてゐるのか、下衆(げす)の言葉であるといふ。差畫(さしゑ)は支那ピーの肖像である。私はここに肖像といふ文字を使用した。私は一日、天橋(テイエヌチヤオ)のなかの藥舗(くすりや)の店さきでいろいろの繪を見たが、癬蟲(せんちう)の雌雄を並べて畫いて癬蟲肖像と書添へてあつたのを發見して、をかしかつたのを思出してゐるからである。

[やぶちゃん注:「天橋」民国期の北京を代表する巨大な市場の一つで、遊芸の中心でもあり、庶民の歓楽地として知られた。

「癬蟲」コナダニ亜目ヒゼンダニ科 Sarcoptes 属ヒゼンダニ変種ヒゼンダニ(ヒト寄生固有種)Sarcoptes scabiei var. hominis 。ヒトの皮膚に穿孔して寄生し、疥癬を引き起す。嘗ては性交渉で感染することが多かったことから性行為感染症の一つに挙げられているが、必ずしも感染経路はそこに限定されないし、近年の本邦の感染者はそうでない方が多く、私はこの規定は誤りであると考えている。

「ピーヤ」は「ピー屋(や)」で、売春屋(宿)の好いであろう。]

 

Kujira2

 

 四本柱に圍まれた寢臺は江南地方の物か、私がをS君を賴んで、この癬蟲は寫生してゐる間じつとしてゐるか如何(どう)かと、鉛筆スケツチで試してゐるときに、隣室の寢臺がぎしぎしきしむ音が聞えてきた。S君が、おやアと首を傾げると、癬蟲は小さい聲で、隣りの室に佛蘭西人がただ酒を飲みにきてゐて、醉つぱらつてゐるのだといふ。寢臺のきしむ音が消えると異人の口笛でわが日本の愛國行進曲だ。あの晩のそとは霧雨であつた。

[やぶちゃん注:「この癬蟲」モデルになって貰った売春婦の蔑視的比喩表現。確かに売春は疥癬の感染源の一つではある。なお、前に掲げた挿絵のモデルかどうかは判らぬ。]

 私は癬蟲をモデルにはしたが、體を買ひはしなかつた。しかし私は、私の宿の前に住んでゐる朦朧(もうらう)車夫の一派の者が、また五月蠅くなりはせぬかと思つてゐた。ところが奇妙にそれ以來、二人同心(アルレントオウシン)などとしなびた腕に入墨のある先生まで、ぶらぶらしてゐる時には、道を通る人のなかから、一毛錢(イマオチエヌ)のモデルをつかまへる手傳ひをしてくれた。聖人でない私が癬蟲に晩に來いと言はれて、前門外(チエヌメヌワイ)の妓女の寫眞を見せて、俺はこれが好きだからと断つただけの話であつたが。

[やぶちゃん注:「朦朧車夫」本邦の近代の隠語。狭義には、遊廓吉原近傍を徘徊するタチの悪い不良車夫を指す。廓(くるわ)内に入り込んで低級な妓楼と契約を結び、郭外で田舎者の客などがあれば、これをその楼に引き込み、不正の利を貪った連中を指す。広義にには辻待ちの車夫の中で、客を騙したり、言い掛かりをつけては高値を吹っかけて来る不良車夫を指す。例によって小穴の叙述は匂わせが多く読みづらいが、「二人同心」などと刺青しているところからは、中国版の前者っぽい感じでは、ある。]

 A君が案内でS君と三人で、中国人ばかりがゆくといふ遊廓をのぞいて、寫眞でなく實物の纏足(てんそく)も見た。醉雲、流霞、妙齡、學裝、藝芳、牡丹、晴波、晩霞、男化、停雲、流海、媚娓(びび)、摩登(まと)、新月、童式(どうしき)、これは宿の傍(そば)の小さい理髮店の壁に掛けてあつた最新美化女式(ぢよしき)理髮型(がた)圖の物を寫しとておいたものであるが、斯樣(かやう)な文字(もにいじ)の間(あひだ)を縫つて、暗いい地下室を步きまはつた氣がするが、私はそこに、アンリ・マチスのオダリスクのコンポジションの大部分を見て感心した。私はオダリスクの一人に、我畫畫(ウオホワホワ)。給你(ケイニ)○○錢(チエヌ)――と言つて、S君に、スケツチをする間、そのままでぢつとしてゐてくれるやう、話を賴んだところ、そのオダリスクは猛烈な勢で、通澤をしたS君の體を寢臺に抱きこんで、かたく離さないのである。それをまたA君が引離(ひきはな)す。描(か)く數分の時間の間に幾度かそれが繰返(くりかへ)される。三人は笑つて笑つたが、上衣(うはぎ)を脱いだままのオダリスクが、門口まで走つてきてわめいてゐたのは、如何(どう)話が間違つてゐたのか、オダリスクの悍馬(かんば)の如き怪力に私達は怯(お)ぢてしまつてもゐた。

[やぶちゃん注:「オダリスク」(odalisque)はトルコ語の“odaliq”(部屋)から派生した語で、イスラムの君主のハレムに仕える女奴隷或いは寵姫のこと。 アングルやルノアール、ここに出るマチスなど、十九世紀初頭のフランスの画家たちが好んで作品の主題とした。フォーヴィスム(野獣派)の首魁アンリ・マティス(Henri Matisse 一八六九年~一九五四年)の代表作の一つ、L'Odalisque au pantalon rouge(「赤いキュロットのオダリスク」 一九二一年)はよく知られる。これ。]

 私は北京で何も女ばかりを眺めてゐたわけでもないのである。思ひもよらなかつたことには、中國には、美少年が多いといふ言葉が、自分の口をついて先に出たくらゐである。小孩(シヤオハイ)と言つてゐる十本入五錢の香烟(シヤンイエヌ) THE BABY に、キユーピー染みた唐子(からこ)の繪がついてゐるほどであるが、唐子にもいろいろ變化があつて見てゐてほほゑましいものがゐる。路傍で大人を寫してゐる時と子供を寫してゐる時とでは、まはりの人々の表情はかなりに相違するのである。朦朧組の年も若くいつも身綺麗にしてゐた車夫の一人が、一日車のランプを提げてきて私に見ろと言つた。そのランプの後ろの小さい丸い穴には幻燈の種板(たねいた)ででもあつたのか、小孩がちよこんと坐つてゐた。

[やぶちゃん注:「小孩」赤ん坊を含めた幼児・子どもの総称。本来は、少年少女ではなく、もう少し下の年端の行かぬといったニュアンスのようである。

「香烟(シヤンイエヌ) THE BABY」「香烟」は煙草で、「THE BABY」その銘柄。当時のそのパッケージを見たく思ったが、ネットでは見当たらなかった。

「唐子」中国風の髪形や服装をした子供。或いは「唐子人形」でそうした装いをした童子の人形。]

 小孩(シヤオハイ)といへば、一日(にち)、雜貨店の小僧さんは香烟(シヤンイエヌ)の小孩と、天津(てんしん)出來(でき)のメンソレータムの商標である虎を模寫した物を呉れるといふし、また二十歳(さい)の囘囘教(ホイホイけう)の車夫も柳(やなぎ)を畫(か)いてきて、二人共何(どう)してもそれを呉れるといふのである。囘囘教にわざと何の樹かわからない顏をしてゐたら、囘囘教は困つた顏をして、年下の雜貨店の小僧さんに説明をしてくれと賴んでゐた。小僧さんは、字が書けない囘囘教に、お前が書けと一寸からかつてから、柳樹(りうじゆ)と書入(かきい)れて私を顧みて笑ひながら囘囘教に渡した。小僧さんに謝謝(シエシエ)と言つてにこにこと私に渡した囘囘教に私は謝謝を言つた。

[やぶちゃん注:「天津出來のメンソレータム」お馴染みの「メンソレータム」は、アメリカのユッカ社が一八九四年に開発し、大正九(一九二〇)年に「近江セールズ株式会社(現在の近江兄弟社)」が輸入販売を開始、その後に同社が日本に於いて、「メンソレータム」の製造・販売権を取得しえ国内製造販売を行ってはいる。しかし、この昭和十三年の段階で同社が天津に工場を持っていたという確認がとれない。しかも「虎」である。これは「商標である虎」というのから推しても、所謂、「タイガーバーム(Tiger Balm)」、「虎標萬金油」か、その類似(偽造)商品(タイガーバームを調べても、天津との接点が上手く見つからないからでもある)ではあるまいか? ウィキの「タイガーバーム」によれば、タイガーバームは一八七〇年代に『清の薬草商人・胡子欽によって、ビルマのラングーンで発明され、彼の死の床』(一九〇八年)『で、息子の胡文虎と胡文豹に完全な製薬法が伝えられたと言われている』。『タイガーバームのパッケージに書かれている記載事項』には『タイガーバームは、中国の帝政時代(清朝)にまで遡る秘密の製薬法によって、作られています。胡文虎と胡文豹の胡兄弟が、清を飛び出た薬草商人の父から受け継いだ製薬法でもあります。この薬は、文虎(中国語で「虎」を意味する名前)にあやかってタイガーバームと呼ばれ、多くの東アジアや東南アジアの国々で優れた販売戦略を展開したことにより、タイガーバームの名を広く一般に知られた物とする事に役立ちました』とある。一九三〇年代に、『胡一家はシンガポールと香港、中国(福建省)にタイガーバームの販売促進のため、タイガーバームガーデンと呼ばれる庭園を開いた』とある。因みに、私は二〇年前に貰った白と赤を未だに持っている。

「囘囘教(ホイホイけう)」イスラム教(回教)のこと。ウィキの「回教によれば、中国語音写では「ホイホイチャオ」で、これは中国や日本などの漢字文化圏で「イスラム教」を指す語として伝統的に使われてきた。『回回教(フイフイきょう)という場合もある。回教は、回回教がつづまったものとみられる』。『この名称の起源については正確にはわかっていないが、回回とは、中国では北宋の時代に現在の新疆ウイグル自治区、甘粛省に居住していたウイグル(回鶻、回紇)を指して用いられていた。ここから転じて、ウイグルの居住地方の方面から東アジアへ訪れるイスラム教徒(ムスリム)まで回回と呼ばれるようになったと考えられている。他に、イスラム教徒がメッカを巡礼する際にカアバ神殿内を回ることから回回と呼ばれるようになったという説や、スーフィズムにおける回旋舞踊から回回と呼ばれるようになったという説もある』とある。]

 私は小孩(シヤオハイ)で一度失敗した。失敗したといつても私のは、X氏のやうな、可愛がつてゐたつもりであつたのが、先方にとつてみれば、それがとりもなほざず虐待であつたといふやうな面白い話とは違つて是非畫(か)きたい、唐子をみて、宿(やど)のおかみさんに交渉を賴んだら、かつぷくのよいその子が十歳どころか、まだ學校にもあがれない歳のあまつたれの一人子で駄目であつたことにすぎないのである。しかし、困つたことにはモデル交渉以來、その子が私の顏をみると息せき切つて逃げかくれしてゐるのをみなければならなくなつた。

 子供でなくとも、大人でも逃げるのがある。ピーヤの前で相當な面構へをした笊(ざる)やなにかの修繕屋が、店をひろげて仕事をしてゐたそれを見て、私の後に退屈でついてきてゐた車夫に、我畫畫(ウオホワホワ)いつたら、車夫が修繕屋に私の希望を傳へてくれたのであるが、修繕屋な私の顏ををふり仰ぐなり、道具を捨てて逃げていつた。私は自分の僅かな經驗で、なかには逃げる者もあり、壹塊錢(イクワイチエヌ)よこせと強氣を張る者もあることは承知をしてゐたが、あまりのその敏捷さには驚いてしまつてゐた。するとそこらピーヤ關係の小柄な地(ぢ)まはりが、自分を描(か)かぬかと言つて出てきた。俺はお前など描きたくはないよと言つたら、五錢でよいから描いてくれと言ふ。そこでスケツチをしたら、五錢の地まはりが十錢呉れぬかと言ふ。約束が違ふといふ中国語を話せない私のかはりに、スケツチを見物してゐた人達が、不是(プシ)とかなんとか大勢でその浪人(ランシン)をとつちめてゐた。

 中國のお婆さんといふものも、スケツチをしておくと隨分面白さうである。我畫畫(ウオホワホワ)。給你(ケイニ)○○毛錢(マオチエヌ)。だけ、私の口からすらすら出るやうになつた。私はああいふのをなんと呼ぶのか知らないが、妓女の身のまはりの世話をしてゐる母親とか、義理のおつかさんとかいふものの下に働いてゐる女であるが、私はそれに我畫畫とやつてペらペらとやられた。A君に聞くと、そのペらペらは、わたくしのこの白毛頭(しらがあたま)を描いて如(ど)うなさる。それよりも畫(か)くべきひとの容貌をお畫きなさい。と言つてゐるのであるといふのである。さうと聞いて、私は妙にしんみりしてしまつた。

[やぶちゃん注:小穴隆一に同感。]

 東京に歸つてくると私は早速、たつた一本のフヰルムを現像させ燒付(やきつ)けさせて、北京の同じ宿であつたOさんに送つて、私が撮つた彼等の寫眞を一枚づつ、雜貨店の小僧さんと囘囘教(ホイホイけう)の車夫に渡して貰ふやうにした。ところが囘囘教のはうのは、車を曳きながら、私に牌樓(パイロウ)や招牌(チヤオパイ)の、文字の中國讀(よみ)を授けやうとした、その車夫を乘せて立つ姿であつたので、圖(はか)らずもこの両人の間に、一枚の寫眞をめぐつて、その所有權を爭ふ一ト騷動があつたさうである。これに對してOさんは乘客は常に車夫に支拂ふべきものなりとの名判決を下したので、等しく車夫ではありながら、寫眞の上で客になつてゐた中国讀が納得して敗(ま)けたといふのである。もつとも私は、その後一寸歸國した際東京の私の家に立寄つてくれたOさんに、この中国讀にもと別のを渡して賴んだ。Oさんは北京に歸り、さうして現在では天津にゐる筈である。

[やぶちゃん注:この両車夫の話もいい。

「牌樓(パイロウ)」中国の伝統的建築様式の門の一つで、屋根や斗拱(ときょう:軒などを支える木の組み物)のあるものを言う。本邦の中華街の四方の門を想起されたい。

「招牌(チヤオパイ)」商店の看板。]

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