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2017/02/28

柴田宵曲 妖異博物館 「氣の病」

 

 氣の病

 

 或大守の姫君が、自分の鼻が少し大きいことを氣にして居られたところ、或日ふと鼻に手を觸れると、拳ぐらゐの大きさになつてゐる。鼻は次第に大きくなつて、顏中鼻といふほどに發達したから、姫君は昔風に衣引きかづきて臥し、遂に物狂ほしいまでになつた。こんな病氣になつては人に顏も見せられぬ、飮食を斷つて死なうと決意されたのを、父母の勸めに從ひ、名醫何某の藥を用ゐてゐるうちに、鼻はだんだん小さくなり、遂にもとの通りになつた。姫君が鏡を取つて見られると、以前よりも小ぶり――人竝の鼻になつてゐるので、從來の不安は全く一掃された。醫師には謝禮として多くの黃金を賜はつたと「反古のうらがき」に見えてゐる。

[やぶちゃん注:以下、治癒させた医師の多くは、これを現在のノイローゼや強迫神経症様(よう)の一種と認識しており、プラシーボ(擬薬)を投与して治癒に成功させている。

 以上は「反古のうらがき」の「卷之一」の「奇病」である。以下に示す。底本は「日本庶民生活史料集成 第十六巻」(一九七〇年第一書房刊)を用いた。踊り字「〱」「〲」は正字化した。一部に歴史的仮名遣の表記の誤りや濁点脱落が見られるのはママである。

   *

 

  ○奇病

 

 いつの頃にや、或太守の姫君一人持玉ひけるが、二八の春を向へて、花の姿世にいつくしく生立玉ひけり、父母のよろこびめで玉ふものから、よき婿君もがなと、よりより尋玉ひけり。此姫自から思ひ玉ふに、十二分の顏色かく處はなけれども、少し鼻の大きく思ひ玉ふにぞ、つねづね、心にかゝり玉ひけり、或日何心なく自から探り見玉ふに、鼻の大きさこぶしの大きさになりけり、こわそもいかにと驚き玉ふ、いよく大きくなりて、おもてとひとしくなりけり、今はたまりあへず、衣引かづきて伏し玉ひけるが、いよいよ大きくなるにぞ、聲を上て泣叫び、物狂るはしく見え玉ひける。人々おどろき、そのよふを聞くに、吾何の因果にや、かゝる奇病にかゝりたれば、とても人に面てを見すること能はず、此儘飮食を絶ちて死んと思ふなりとて、絶て飮食もし玉はざりけり。其頃名醫の聞へありける何某とかいへる者、御藥りすゝめけれども、つやつや用ひもし玉はさりけるを、父母せちにすゝめ玉ひければ、止事を得ず用ひ玉ひけり、數日を經て少しづゝちいさくなりて、元の如くになりけり、姫君うれしく鑑を見玉ふに、元より少し小ぶりになりて、人並みになりて、はじめ心にかゝりけるも、此病のつひでにちいさくなりつることこそめでたけれとて、殊に黃金あまたをたびて、醫師に謝し玉ひけるとなん。これは世にある病にて、鼻の大きになるにあらず、かゝる心持に覺ゆる心の病也と、後醫師、人に語りけると聞けり。

 予が友櫻園鈴木分左衞門も、この病を煩ひけり、これは手の大きくなるよふに覺ゆる病也、夜の間は殊甚しく、衾の内にてだんだんと大きくなりて、後に箕の大さ程になるよふなれば、ともし火の下に出して見れば、何もかわることなし、眼を閉て寐んとすれば、だんだん大きくなる、探りてみるにやはり大きなるよふ也。かかる故に寐こと能はず、燈火明くして手を見つめて夜を明すより外なし。外に苦しむ處なしといへども、身の疲るゝこと甚しく、大病となりけり。肝氣の病なるべし、これも數月の後癒たり。予も訪ひ行けるに、先病も癒侍りとて、手を出して撫さすりつして、人に見せ侍りては、初より手の病にては非ざる物を、手を見たりとて何にかせん、かゝればこれはも肝氣の病とは知りながら、兎角に手の大きくなる病と息ふ心は忘れがたしと見ゆとて、人に語りて笑ひけり。されば彼姫君の鼻の、前よりちいさく成たるよふに覺るも埋りこそと思ひ合せて、同病とおもわるゝ也。

   *

文中に出る「櫻園鈴木分左衞門」は底本の朝倉治彦氏の注によれば、筆者醉桃子鈴木桃野の友で大田南保畝の門人であった鈴木幽谷。「櫻園」(わうえん(おうえん))は号。幕府徒(かち)目付を勤め、諸著作がある。また、そこでこれらを「肝氣の病」と断じているのは、洋の東西を問わぬ面白い一致である。西洋でも古代より「メランコリア」(現行の鬱病や抑鬱症状)は「胆汁質」タイプ(体質・性質)に発生し易い病いとされ、肝臓を病原臓器として強く挙げているからである。]

「耳鳴草」にあるのは「京都何某の婦人」とあるだけで、身分の事は書いてない。この人のは鼻の高くなる病で、次第に伸びて一二尺の高さに見える。倂し眼を閉ぢて探つて見ても、何も手に觸れぬので、自分でも氣の病であることを知り、醫を更へ藥を改めて見るが、一向癒る樣子がない。これを聞いた或醫者が、この病人を診察し、成程、私の眼にも高く見えます、藥を改めませう、と一劑を與へた。夕方にまた來て、まだ大分高いやうですが、はじめ拜見した時より低くなつたかと思ふ、如何ですか、といふ。仰しやる通り、少し低くなつたやうです、と病人も云ふので、また藥を與へて去つた。その次の日は、昨日よりもう少し低くなつた、といふと、病人もこれを肯定する。遂に日を重ねて全く病は癒えた、といふのである。

[やぶちゃん注:「耳鳴草」不詳であるが、国立国会図書館の蔵書内の明四四(一九一一)年春陽堂刊の「俳諧奇書珍書」の中に、随筆として谷田部石三著「耳鳴草」なるものがあるが、同一物かどうかは不明。]

 芥川龍之介の「鼻」の材料になつた禪珍内供の鼻は、自他ともに鼻の異常なことを認めたのであるが、右の二つの例は、他人が見ては何事もなく、自分だけ異常に感ずるのだから始末が惡い。かういふ心の病は女性の上に限るかといふと、必ずしもさうではないので、「反古のうらがき」の著者鈴木桃野の友人、鈴木櫻園の罹つたのは手の大きくなる病であつた。夜は殊にそれが甚しく、衾の中で箕のやうな大きさになる。燈火の下に出して見れば、別に變つたこともないが、眼を閉ぢて眠らうとすれば、だんだん膨脹するのである。この故に眠りをなさず、燈火を明るくして手を見詰め、夜を明すより仕方がない。苦痛は何もないけれども、身體の疲勞甚しく、數箇月を經て漸く癒えた。最初から手の病ではないので、手を見たところでどうにもならぬのだが、手が大きくなるといふことを忘れ得なかつた、と笑ひながら話したさうである。夏目漱石が若い頃晝寐をすると、よく變なものに襲はれたといふ一例として、「親指が見る間に大きくなつて、何時迄經つても留らなかつた」と「硝子戸の中」に書いてゐるが、これなどももう少し發達すれば、鈴木櫻園のやうになつたのかも知れぬ。

[やぶちゃん注:言わずもがなであるが、芥川龍之介の「鼻」(大正五(一九一六)年二月『新思潮』)の主人公は「禪珍内供」ではなく「禪智内供」で誤り

 夏目漱石の「硝子戸の中」は大正四(一九一五)年一月十三日から同年二月二十三日にかけて三十九回に亙って『朝日新聞』に掲載された小品で、漱石最期の随筆となったもの漱石は翌年十二月九日に満四十九で没した)で、ここで柴田が示したのは、そのまさに掉尾から一つ前の「三十八」。短いので、全文を示しておく。底本は岩波旧全集を用いた。踊り字「〱」は正字化した。「拾い」はママ。

   *

 

     三十八

 

 私が大學で教(おす)はつたある西洋人が日本を去る時、私は何か餞別を贈らうと思つて、宅(うち)の藏から高蒔繪(たかまきゑ)の緋の房(ふさ)の付いた美しい文箱(ふばこ)を取り出して來た事も、もう古い昔である。それを父の前へ持つて行って貰ひ受けた時の私は、全く何の氣も付かなかつたが、今斯うして筆を執つて見ると、その文箱(ふばこ)も小搔卷(こがいまき)に仕立直された紅絹裏(もみうら)の裲襠(かいどり)同樣に、若い時分の母の面影(おもかげ)を濃(こまや)かに宿してゐるやうに思はれてならない。母は生涯父から着物を拵へて貰つた事がないといふ話だが、果して拵へて貰はないでも濟む位な支度をして來たものだらうか。私の心に映(うつ)るあの紺無地(こんむぢ)の絽(ろ)の帷子(かたびら)も、幅の狹い黑繻子(くろじゆす)の帶も、矢張嫁に來た時から既に簞笥の中にあつたものなのだらうか。私は再び母に會つて、萬事を悉く口づから訊いて見たい。

 惡戲(いたづ)らで強情な私は、決して世間の末(すゑ)ツ子(こ)のやうに母から甘く取扱かはれなかつた。それでも宅中(うちぢゆう)で一番私を可愛(かはい)がつて呉れたものは母だといふ強い親しみの心が、母に對する私の記憶の中(うち)には、何時(いつ)でも籠つてゐる。愛憎を別にして考へて見ても、母はたしかに品位のある床しい婦人に違なかつた。さうして父よりも賢こさうに誰の目にも見えた。氣六づかしい兄も母丈(だけ)には畏敬の念を抱(いだ)いてゐた。

「御母(おつか)さんは何にも云はないけれども、何處かに怖(は)いところがある」

 私は母を評した兄の此言葉を、暗い遠くの方から明らかに引張出(ひつぱりだ)してくる事が今でも出來る。然しそれは水に融(と)けて流れかゝつた字體を、屹(きつ)となつて漸(やつ)と元の形に返したやうな際(きは)どい私の記憶の斷片に過ぎない。其外の事になると、私の母はすべて私に取つて夢である。途切(とぎ)れ途切(とぎ)れに殘っている彼女の面影(おもかげ)をいくら丹念に拾い集めても、母の全體はとても髣髴する譯に行かない。その途切途切(とぎれとぎれ)に殘つてゐる昔さへ、半(なか)ば以上はもう薄れ過ぎて、しつかりとは摑めない。

 或時私は二階へ上(あが)つて、たつた一人で、晝寐をした事がある。其頃の私は晝寐をすると、よく變なものに襲はれがちであつた。私の親指が見る間に大きくなつて、何時迄(いつまで)經(た)つても留らなかつたり、或は仰向(あふむき)に眺めてゐる天井が段々上から下りて來て、私の胸を抑へ付けたり、又は眼を開(あ)いて普段と變らない周圍を現に見ているのに、身體丈(だけ)が睡魔の擒(とりこ)となって、いくら藻搔(もが)いても、手足を動かす事が出來なかつたり、後で考へてさへ、夢だか正氣だか譯の分らない場合が多かつた。さうして其時も私はこの變なものに襲はれたのである。

 私は何時何處(いつどこ)で犯した罪か知らないが、何しろ自分の所有でない金錢を多額に消費してしまつた。それを何の目的で何に遣(つか)つたのか、その邊も明瞭でないけれども、小供の私には到底(とても)償ふ譯に行かないので、氣の狹い私は寐ながら大變苦しみ出した。さうして仕舞に大きな聲を揚げて下にいる母を呼んだのである。

 二階の梯子段(はしごだん)は、母の大眼鏡と離す事の出來ない、生死事大無常迅速(しやうじじだいむじやうじんそく)云々と書いた石摺(いしずり)の張交(はりまぜ)にしてある襖の、すぐ後(うしろ)に附いてゐるので、母は私の聲を聞きつけると、すぐ二階へ上(あが)つて來て呉れた。私は其所に立つて私を眺めてゐる母に、私の苦しみを話して、何うかして下さいと賴んだ。母は其時微笑しながら、「心配しないでも好いよ。御母(おつか)さんがいくらでも御金を出して上げるから」と云つて呉れた。私は大變嬉しかつた。それで安心してまたすやすや寐てしまつた。

 私は此出來事が、全部夢なのか、又は半分丈(だけ)本當なのか、今でも疑つてゐる。然し何うしても私は實際大きな聲を出して母に救を求め、母は又實際の姿を現はして私に慰藉の言葉を與へて呉れたとしか考へられない。さうして其時の母の服裝(なり)は、いつも私の眼に映(うつ)る通り、やはり紺無地の絽の帷子(かたびら)に幅の狹い黑繻子の帶だつたのである。

   *

……母なる存在とは常にこういうものである…………]

 永富獨嘯庵は「漫游雜記」に、或婦人が、私の顏は今日何寸も長くなつたとか、今日は何寸短くなつたとかいふ話を書いてゐる。獨嘯庵は醫者だから、かういふ婦人は嫉妬心の強いもので、主人の多情のため、常に鬱悶を懷くと云ひ、三黃湯を氣長に服用させたら癒えた、すべて氣の病で、怪狀をなす者は大概これだといふのであるが、前に擧げた鼻の例も、この診斷に該當するのであらうか。病は鼻に在らず、顏に在らずとすれば、いくらその爲に醫療を盡したところで、驗の見える筈がない。直ちに病源を洞察して適藥を與へるのが、名醫の名醫たる所以であらう。

[やぶちゃん注:「永富獨嘯庵」「漫游雜記」永富独嘯庵(ながとみどくしょうあん 享保一七(一七三二)年~明和三(一七六六)年)は江戸中期の医師。ウィキの「永富独嘯庵」によれば、『山脇東洋の門下であり、古方派の医師であるが、古方派に欠けるところは西洋医学などで補うことを主張した』。『長門国豊浦郡宇部村(山口県下関市長府町王司)に生まれ』、十三歳で『医師、永富友庵の養子となった』。十四歳で『江戸に出て医学の修業を始めるが、医学にあきたらず山県周南のもとで儒学を』び、十七歳で『帰郷して儒学を講じてすごすが、京都の古方派の山脇東洋や香川修庵の存在を知り、京都に赴き東洋の門人となった。以後、医学に熱意をもって取り組み、その才能は広く知られるようになった。諸侯から多くの招聘の声がかかるが、東洋は任官を勧めなかった』。二十一歳の『時、東洋に命じられて越前の奥村良筑のもとに赴き、「吐方」(嘔吐させて治療する方法)を学んだ』。二十九で、『諸国を漫遊し』、『長崎ではオランダ医学を吉雄耕牛に学んだ。この旅行の見聞をまとめ』たものが、ここに出る「漫遊雑記」である。同書は『華岡青洲が読み、乳がん手術を行う契機になったとされる』。三十歳で『大阪で開業し、多くの門人を育て』たが、三十五歳の若さで病没した。彼の言葉に、『病を診すること年ごとに多きに、技(わざ)爲すこと年ごとに拙(まづ)し。益々知る、理を究(きはむ)ることは易く、事に應ずることは難きことを。』があるという。同書(漢文)は早稲田大学図書館古典総合データベースにあり、当該箇所はここ(右頁四行目)である。

「三黃湯」現行の漢方調剤に「三黄瀉心湯(さんおうしゃしんとう)」が現存する。正式な薬剤会社のデータによれば、『比較的体力があり、のぼせ気味で、顔面紅潮し、精神不安で、便秘の傾向のあるものの次の諸症』に効果があるとして、『高血圧の随伴症状(のぼせ、肩こり、耳なり、頭重、不眠、不安)、鼻血、痔出血、便秘、更年期傷害、血の道症』を挙げる。成分は「オウゴン」「オウレン」「ダイオウ」とある。]

 嘗て雜誌「阿迦雲」で讀んだ「東三筋町」(歪頭山人)の中に出て來るのは、明治のドクトルの話であつた。このドクトルのところへ來たのは、顏の長くなる患者で、どこの醫者へ行つても取合はず、或は鏡を見せて然らざる所以を證明しようとするが、患者の方は、噓の鏡を見せてごまかすのだ、と云つて承知しないのである。ドクトルはこの患者の顏をつくづく見て、先づ顏の尺を測つて見せ、幸ひにまだ手おくれにはなつて居らぬ、きつと治して上げる、と云ひ、沁みるやうな藥を塗つた上、顏にぐるぐる繍帶を卷いて、毎日通はせた。時々尺を測つて次第に短くし、遂に繍帶を外して鏡を見せた。このやり方は「耳鳴草」の醫者と同じである。かういふ病があるならば、療法に古今の差別はあるまい。このドクトルは後に大きな腦病院を經營し、代議士に出てゐたかと記憶する。

[やぶちゃん注:「阿迦雲」「あかぐも」と読み、「子規庵歌会」が昭和五(一九三〇)年から戦後の昭三〇(一九五五)年まで出していた機関誌。柴田宵曲はかつての正岡子規の門弟で、『ホトトギス』社編集員でもあった。

「東三筋町」現在の東京都台東区三筋か。

「歪頭山人」「わいとうさんじん」(現代仮名遣)と読んでおく。不詳であるが、「大きな腦病院を經營し、代議士に出てゐた」とある以上、かなり知られた人物と思われる。識者の御教授を乞う。]

 

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