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2017/02/02

小穴隆一「二つの繪」(60) 「奇怪な家ダニ」(4) 不審には不審をもつて

 

     不審には不審をもつて

 

 葛卷がT新聞の記者T君に、僞物であるとか、疑はしいとか、僞物もみてゐないで講釋をしてゐたのは、第二卷のカバーに使つた河郎之圖、十四卷の靑中先生逍遙遊之圖、十七卷の山吹之圖、十八卷の盃自畫讚、などとともに僕に芥川が渡してゐた遺書(遺書といつてよいか、芥川は僕にさんざん口でいろいろこまかくしやべつておいてゐながら、死後よくせきの場合これをあけてくれと白の角封筒に封じたものを數度渡してゐた)の一つに對してである。

 僕が第二卷の畫だけをただ某氏所藏として紹介してゐたのは、その持主がほかならぬ岩波の小林勇であるから他に遠慮してあかしておかなかつたものであり、十七、十八卷のものは中央公論社の栗本和夫(故瀧田樗蔭の舊藏)のもの、及び僕が持つ遺書(十五卷一七四頁參照。「或舊友へ送る手記」がある以上、女人の姓を明かにしたものの發表はさしひかへ他の遺書と火中に投じた筈であつたのが、「羅生門」が映畫になつた當時、藝術新潮に寄せた「藪の中」についてを執筆中に燒きのこしてあるのをたまたまみいだし、その「藪の中」についてのなかで紹介したものだ)、どれとして人に疑はれる筋合があらう。靑中先生逍遙遊之圖にいたつて忘却もまたはなはだしい。布佐行繪卷は昭和三年に七月二十一日から七日間、當時有樂町二七にあつた村の會場(武者さんの)で催された芥川龍之介追慕展覽會に、芥川家藏として出品された奉書の卷紙に重かれた繪卷だ。葛卷は小人閑居で不善をなし、橫領してゐる芥川の日記(大正八年九月十日)の「□夫人に會ふ」といふやうなところばかりに目をさらしつづけてゐるから、(僕はT君の働きでこの日附を知つた。僕はこのT君のおかげで芥川がしばしば僕に、君にもう一年はやく會つてゐれば間違ひをおこさずにすんだのだ、といつてたことが遺書による年齡とは一年のずれがある、それはやはり芥川の記憶ちがひであつたのを知つた。)靑中先生逍遙遊之圖をみて、逍遙といへば散步をしてゐるところだが、寢てゐるのはをかしい、上か下かを切つたものではないかなどとごたくをならべ、枕をして布團にくるまつてゐる畫の上に逍遙遊之圖と書いてあつたら、夢路をたどるところとか、夢の中に往來するところとか、思ふべきが普通だが、それがそのまますなほに頭にはひらぬやうになつてしまつてゐて、未發表の原稿はくはしい注をつけなければ讀者には意味が通じない、現行全集ではこれが不可能だなどとほざけるのだ。僕は事のついでに、中村君がひとやすみしたら葛卷がこの十ヶ月(全集刊行中)にあちこちにだしてゐる電報や手紙を集めて「或狂人の手紙」といつたものを書いたらと思ふ。その注には皆が皆協力するにちがひない。

 不審といふことばは、例へば、ここにその寫眞を掲げれば一そうよく分るのだが、かういふものを見た時にこそいふべきであらう。この大正十五年初夏、芥川龍之介君之像、百穗作、といふもの、等身大の畫だといふ。

 十五年初夏の頃の芥川でもなく、すくなくとも平福百穗あたりが芥川を畫くにあたつて、かういふ取扱ひ方をしてゐよう筈はない。これは芥川ではなく、知る人は憶えてゐるであらうが、芥川の死後、紺飛白の著物をすてて背廣を著はじめた頃の葛卷の顏かたちそつくりである。この畫のモデルに葛卷がなつてゐるとも思へないが、ふしぎな畫である。

 この寫眞は早くに目白の人が岩波に送つてきたので、僕はK君(岩波の人)にどういふ經路で手に入れたかなど、その目白の人に照會してもらつたが、K君のいふには、なんだかその返事が曖昧なんですといふので、そのままになつて手もとにあつたのだ。

 かういふ畫についてこそ不審といふべきであつて、これこそわが葛卷先生の教へを受けなければならない。

[やぶちゃん注:異常にして人の言うことに耳を貸さぬ舌鋒ではあるものの、ここには確かに確認してみるに価値ある事象、小穴隆一が疑惑とする対象物が未だにある、と私は思っている。

「第二卷のカバーに使つた河郎之圖」私は第三次芥川龍之介全集(新書版)を所持しないので、どの河童図であるか不明。新初版全集を所持される方の御教授を乞う。なお、ここにある通り、小林勇蔵とすれば、小穴隆一編「芥川龍之介遺墨」の「山吹之圖」の解説中に出る「河郎自畫贊」とあるものと同一である。

「十四卷の靑中先生逍遙遊之圖」これは後に出る「布佐入」の前に寄せ書きされた「布施辯天」(「辯」は原画のママ。但し、小穴隆一編「芥川龍之介遺墨」の本絵巻の解説によれば、「布施辯天」と「布佐入」の絵巻は後の表装時に錯簡が生じているとあり、この図も或いは「布佐入」に入る可能性がある)の中の、芥川龍之介(号・了中)筆になる、「靑中」遠藤古原草(青兵衛)が横になって布団に入ったその後頭部を描いたそれを指す。「芥川龍之介遺墨」の(但し、モノクロ)その部分をトリミングして示す。

 

Seityusensei

 

それにしても小穴の言う通り、この「靑中先生逍遙遊之圖をみて、逍遙といへば散步をしてゐるところだが、寢てゐるのはをかしい、上か下かを切つたものではないかなどとごたくをならべ、枕をして布團にくるまつてゐる畫の上に逍遙遊之圖と書いてあつたら、夢路をたどるところとか、夢の中に往來するところとか、思ふべきが普通だが、それがそのまますなほに頭にはひらぬやうになつてしまつてゐ」る葛巻義敏は実に風狂心がない、救い難い俗物と言える。これは、眠る遠藤の寝姿、その見る夢に「荘子」の「逍遙游」の自由自在な広大な夢幻世界を洒落た賛だのに。

「十七卷の山吹之圖」これは小穴隆一編「芥川龍之介遺墨」に珍しくカラー図版で載る以下である。

 

Yamabukinozu

 

これには箱と巻止めがあり、その箱書画像を見ると『癸亥孟夏 芥川龍之介題』(最下部に落款)とあり、これは大正一一(一九二二)年初夏の作となる(箱表書は『山吹之圖』で、巻止めには『山吹乃図』として最下部に落款がある)。サイズは四一・三×五・三、絵の左下の添書きは、

 

樗陰瀧田君ノ為ニ山吹ノ圖ヲ作ル 僕未画ヲ学バズ唯庭前ノ山吹ヲ一一丹念に寫生セルノミ      澄江堂主人 (落款:「我鬼」)(落款:判読不能)

 

である。次の注も参照のこと。

「十八卷の盃自畫讚」同じくこれも小穴隆一編「芥川龍之介遺墨」に載る以下である。

 

Hainozujigasan

 

サイズはサイズは四一・三×五・三で、

 

輕からぬ病の後ぞ木米の猪口は得つとの酒をこすな 澄江堂主人墨戯

 

とある。小穴の解説によれば、箱書は前の「山吹乃圖」と同じく『癸亥孟夏 芥川龍之介題』で落款があり、『幼兒の茶わんほどの盃は藍で、乳兒の掌ほどの掌は朱でこしらへた肉色で彩つてゐる』とある。最後に本文にある通り、『栗本和夫氏藏』と記す(栗本和夫(明治四四(一九一一)年~昭和五五(一九八〇)年)は東洋大学東洋文学科卒で、在学中に坂口安吾らと同人雑誌『制作』を発行、卒業して昭和一〇(一九三五)年中央公論社に入社、『婦人公論』編集に従事した後、戦後の昭和二三(一九四八)年に専務となった。その後、中央公論美術出版社長・中央公論事業出版会長・中央公論社顧問を歴任した出版人)。狂歌の「木米」は「もくべい」で江戸時代の絵師で京焼の陶工であった青木木米(明和四(一七六七)年~天保四(一八三三)年)作の猪口(ちょく:盃)を指すものと思われる。なお、「芥川龍之介遺墨」の小穴隆一の解説冒頭には、これは前の「山吹之圖」とともに『瀧田樗蔭舊藏の物』とあって本文の「故瀧田樗蔭の舊藏」とも合致する。

「僕に芥川が渡してゐた遺書」『僕が持つ遺書(十五卷一七四頁參照。「或舊友へ送る手記」がある以上、女人の姓を明かにしたものの發表はさしひかへ他の遺書と火中に投じた筈であつたのが、「羅生門」が映畫になつた當時、藝術新潮に寄せた「藪の中」についてを執筆中に燒きのこしてあるのをたまたまみいだし、その「藪の中」についてのなかで紹介したものだ)』私の芥川龍之介遺書全6通 他 関連資料1通 2008年に新たに見出されたる 遺書原本 やぶちゃん翻刻版 附やぶちゃん注にある小穴隆一宛のもの。

「布佐行繪卷」これについては、「河童の宿」に詳述されている。私のそちらの注も参照されたい。なお、現在、これは二〇〇九年二玄社刊の日本近代文学館編「芥川龍之介の書画」でカラー版で全図を見ることが出来る(この本は出版者著作権管理機構委託出版物として無断複写を禁じている。先に部分で引いたように小穴隆一編「芥川龍之介遺墨」にもモノクロームで全図が載るのであるが、二玄社版の圧倒的な迫力の原色版を見てしまうと、とてもここにその全図を掲げる気にはならない。悪しからず)。

「昭和三年に七月二十一日から七日間、當時有樂町二七にあつた村の會場(武者さんの)で催された芥川龍之介追慕展覽會」既出既注。

『橫領してゐる芥川の日記(大正八年九月十日)の「□夫人に會ふ」といふやうなところ』これは現在、岩波の「芥川龍之介全集」に「我鬼窟日録」として一部が載っている。私の岩波旧全集を底本とした正字の我鬼窟日錄 附やぶちゃんマニアック注釈を参照されたい。但し、その当該大正八(一九一九)年九月十日の条には、

   *

 九月十日 雨

 午後菊池の家へ行く。宮島新三郎が來てゐる。三人で月評を作る。

 夕方から十日會へ行く。

 夜眠られず。起きてクロオチエがエステテイクを讀む。

   *

とあり、「□夫人に會ふ」(伏字は「秀」)とはない。但し、この日に確かに秀しげ子と十日会の席上で逢い、しかもそ解散後に後日の不倫の密会の約束をした可能性が頗る高い。だから「夜眠られず」なのである。詳しくはリンク先の私の注を参照されたい。

「僕はT君の働きでこの日附を知つた。僕はこのT君のおかげで芥川がしばしば僕に、君にもう一年はやく會つてゐれば間違ひをおこさずにすんだのだ、といつてたことが遺書による年齡とは一年のずれがある、それはやはり芥川の記憶ちがひであつたのを知つた」芥川龍之介が秀しげ子と本格的な不倫関係に陥ったのは大正八年九月十五日(推定)であるが、龍之介が小穴隆一と知り合ったのは同じ大正八年の十一月二十三日(この日、瀧井孝作に連れられて小穴が田端の芥川邸を訪れた)であることを指す。即ち、小穴は秀しげ子と龍之介がああした関係になって、凡そ一年後に小穴隆一と邂逅したと信じていた、というのである。但し、「君にもう一年はやく會つてゐれば」は必ずしも「芥川の記憶ちがひ」ではないと考える。秀しげ子に遭遇する一年も前に小穴隆一と親しくなっていたら、絶対に彼女とは危ない関係に陥らなかったのに、というのが龍之介の本音であり、私も或いはそうであったかも知れぬと大真面目に思っているからである。

「未發表の原稿はくはしい注をつけなければ讀者には意味が通じない、現行全集ではこれが不可能だ」この恣意的な自分勝手な操作や注こそが、岩波の葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の学術的価値を、致命的に低下させている元凶と言える。私も持っているが、初読時から、実にヘンな本だ、と感じた。

「ほざける」「ほざいているのだ」「ほざいいていやがるんだ」の意。

「大正十五年初夏、芥川龍之介君之像、百穗作、といふもの、等身大の畫」不詳。私は見たことがない。「平福百穗」(ひらふくひゃくすい 明治一〇(一八七七)年~昭和八(一九三三)年)は日本画家で歌人。詳しい事蹟はウィキの「平福百穂などを参照されたい。

「紺飛白」「こんがすり」。]

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