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2017/03/22

詩集「風は草木にささやいた」始動 / 序詩「人間の勝利」・自序・穀物の種子

 

詩集「風は草木にささやいた」

 

[やぶちゃん注:以下、大正七(一九一八)年十一月十五日白日社刊の詩集『風は草木にささやいた』の電子化注に入る。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの当該初版のモノクローム画像及び同初版で白神正晴氏の山村暮鳥研究サイト内にあるカラーPDF版を用いた。但し、時間を節約するために、「青空文庫」内の同詩集のテクスト・データ(底本は昭和四一(一九六六)年講談社刊「日本現代文學全集 54 千家元麿・山村暮鳥・佐藤惣之助・福士幸次郎・堀口大學集」。土屋隆氏入力・田中敬三氏校正)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる(なお、既に「自序」の中に初版と違う箇所が出現している)。校合活字資料は従来通り、彌生書房版全詩集を用いた。なお、本詩集は死の年の衰弱が激しくなった八月三十日に改版がイデア書院から刊行されているが(白神氏のこちらにカラーPDF版がある)、今回はあくまで初版に拘っての電子化注を目指すため、原則、参考にしなかった。死の直前(十二月八日午前零時四十分永眠)のものであるので(初版の以下に示す「自序」は、新たに書き下ろされた「卷首に――」に差し替えられているので、これは電子化する必要がある)、全詩を終えた後に校合してみようと考えている。悪しからず。]

 

 

風は草木

にささや

いた

 

[やぶちゃん注:表紙。濃い橙色で印字。改行はママ。]

 

 

POEMESYAMAMURA

 

[やぶちゃん注:背。表紙と同色で縦に印字。]

 

 

   此の書を祖國のひと

   びとにおくる

 

[やぶちゃん注:扉一(左)。同じく濃い橙色。]

 

 

 Mon P ê re

 

[やぶちゃん注: 前の献辞に続いて扉二(左。前にパラフィン様の遊び紙が入る)に顔だけを打ち抜いた写真(正直言うと、ちょっと異様な感じがするものである。白神氏のPDF版確認されたい。撮影者も不明でそもそも写真の人物が誰だかも確定出来ないので画像は示さない)があり、下に以上のキャプション(フランス語で「私の父」)が附されてある。山村暮鳥(本名は土田八九十(つちだはくじゅう))は出生に纏わるごたごたから旧姓は「志村」(母の実家の姓)及び「木暮」で、実の父は木暮久七であるが(実に面倒なことに実父でありながら後に彼を取り戻すに際して養子縁組をしている)、暮鳥は妻冨士と結婚に際して、その父でキリスト教教父であった土田三秀と婿養子縁組をしているため、最終的に「土田」姓となっている。但し、本文二篇目の「父上のおん手の詩」を読む限り、その父とは貧しい百姓であり、明らかに実父を詠んでいる。されば、この人物も木暮久七であると考えてよいように思われる。]

 

  なんぢはなんぢの面に

  汗して生くべし

 

[やぶちゃん注:以上は扉三(左)に黒(以下本文も無論、黒)で以上の通り、二行で印字。「面」は「おもて」と訓じておく。]

 

 

 

  人間の勝利

 

人間はみな苦んでゐる

何がそんなに君達をくるしめるのか

しつかりしろ

人間の強さにあれ

人間の強さに生きろ

くるしいか

くるしめ

それがわれわれを立派にする

みろ山頂の松の古木(こぼく)を

その梢が烈風を切つてゐるところを

その音の痛痛しさ

その音が人間を力づける

人間の肉に喰ひいるその音(ね)のいみじさ

何が君達をくるしめるのか

自分も斯うしてくるしんでゐるのだ

くるしみを喜べ

人間の強さに立て

耻辱(はぢ)を知れ

そして倒れる時がきたらば

ほほゑんでたほれろ

人間の強さをみせて倒れろ

一切をありのままにじつと凝視(みつ)めて

大木(たいぼく)のやうに倒れろ

これでもか

これでもかと

重いくるしみ

重いのが何であるか

息絶えるとも否と言へ

頑固であれ

それでこそ人間だ

 

[やぶちゃん注:以上は実は本文詩篇ではなく、謂わば、本詩集全体への「序詩」である(だからその後に「自序」が入っている)。

「ほほゑんでたほれろ」の「たほれろ」はママ。]

 

 

 

  自序

 

 自分は人間である。故に此等の詩はいふまでもなく人間の詩である。

 自分は人間の力を信ずる。力! 此の信念の表現されたものが此等の詩である。

 自分は此等の詩の作者である。作者として此等の詩のことをおもへば其處には憂欝にして意地惡き暴風雨ののちに起るあの高いさつぱりした黎明の蒼天をあふぐにひとしい感覺が烈しくも鋭く研がれる。實(まこと)にそれこそ生みのくるしみであつた。

 生みのくるしみ! 此のくるしみから自分は新たに日に日にうまれる。伸び出る。此のくるしみは其上、強い大膽なプロメトイスの力を自分に指ざした。遠い世界のはてまで手をさしのべて創世以來、人間といふ人間の辛棒づよくも探し求めてゐたものは何であつたか。自分はそれを知つた。おお此のよろこび! 自分はそれをひつ摑んだ。どんなことがあつても、もうはなしてはやるものか。

 

 苦痛は美である! そして力は! 力の子どもばかりが藝術で、詩である。

 

 或る日、自分は癲癇的發作のために打倒された。それは一昨々年の初冬落葉の頃であつた。而もその翌朝の自分はおそろしい一種の靜穩を肉心にみながら既に、はや以前の自分ではなかつた。

 それほど自分の苦悶は精神上の殘酷な事件であつた。

 此等の詩は爾後つひ最近、突然咯血して病床に橫はつたまでの足掛け三ケ年間に渉る自分のまづしい收穫で且つ蘇生した人間の靈魂のさけびである。

 一莖の草といへども大地に根ざしてゐる。そしてものの凡ゆる愛と匂とに眞實をこめた自分の詩は汎く豊富にしてかぎりなき深さにある自然をその背景乃至内容とする。そこからでてきたのだ、譬へばおやへびの臍を嚙みやぶつて自(みづか)ら生れてきたのだと自分の友のいふその蝮の子のやうに。

 自分は言明しておく。信仰の上よりいへば自分は一個の基督者(キリステアン)である。而も世の所謂それらの人人はそれが佛陀の歸依者に對してよりどんなに異つてゐるか。それはそれとして此等の詩の中には神神とか人間の神とかいふ字句がある。神神と言ふ場合にはそれは神學上の神神ではなく、單に古代ギリシヤあたりの神話を漠然とおもつて貰はう。また人間の神とあればそれは無形の神が禮拜の對象として人格化(パアソニフワイ)されるやうに、これは正にその反對である。其他これに準ず

 

 最後に詩論家及び讀者よ

 此の人間はねらつてゐる。光明思慕の一念がねらつてゐるのだ。ひつつかんだとおもつたときは概念を手にする。これからだ。これからだ。何時もこれからだとは言へ、理智のつぎはぎ、感情のこねくり、そんなものには目もくれないのだ。捕鯨者は鰯やひらめにどう値するか。

 ‥…何といふ 「生」 の嚴肅な發生であらう。此の發生に赫耀(かがやき)あれ!

 

[やぶちゃん注:文中の太字は底本では総て傍点「ヽ」。終りの方の「其他これに準ず」及び「最後に詩論家及び讀者よ」の後に句読点がないのはママ。現行では孰れも句点が打たれてはいるが、私は安易に孰れも句点が打ってよいとは思われない

「プロメトイス」ギリシア神話の男神で、ゼウスの反対を押し切って「天界の火」を盗んで人類に与えた。また、「人間」を創造したともされるプロメテウス(Promētheus)。ウィキの「プロメーテウスによれば、『その名は、pro(先に、前に)+ metheus(考える者)と分解でき、「先見の明を持つ者」「熟慮する者」の意である。他にも、ギリシャ語』の「促進する・昇進させる」+「神(ゼウス)」と『解釈すると、人類に神の火を与えた事で「神に昇進させた者」との説も有る』とある。

「つひ最近」はママ。

「橫はつた」「よこたはつた」。

「豊富」の「豊」の字は原典のママ。

「パアソニフワイ」英語“personify”。「擬人化する・人格化する・人間の形で表現する・具体(具現)化する・象徴(シンボライズ)する・(~の)化身となる」の意。

 以下に目次が続くが、省略する。]

 

 

 

   

 

[やぶちゃん注:以上は扉(左)の左寄り位置に濃い橙色で印字。]

 

 

 

  穀物の種子

 

と或る町の

街角で

戸板の上に穀物の種子(たね)をならべて賣つてゐる老嫗(ばあ)さんをみてきた

その晩、自分はゆめをみた

細い雨がしつとりふりだし

種子は一齊に靑靑と

芽をふき

ばあさんは蹙め面(づら)をして

その路端に死んでゐた

 

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