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2017/03/15

「想山著聞奇集 卷の壹」 「狐の行列、幷讎をなしたる事 附 火を燈す事」

 

 狐の行列、讎(あだ)をなしたる事

  附 火を燈す事

 

[やぶちゃん注:本章本文は前半部分のみを既に『柴田宵曲 妖異博物館 「狐の嫁入り」』の私の注で示してあるが、今回、そこもブラッシュ・アップして注を附した。]

 

Kitunebi

 

 下男吉松が語りけるは、渠(かれ)が在所にて、家に抱へ置(おき)し馬方に、鐡と云(いふ)者あり。夜の引明(ひきあけ)に、馬を(ひき)て出(いで)たるに、直(ぢき)に村離れの藪蔭に、狐三四疋寄合(よりあひ)、孳尾(つるみ)て居たる故、礫(つぶて)を打(うち)たれば驚きて逃失(にげうせ)たり。鐡は夫(それ)より遠方へ馬牽行(ひきゆき)て、夜に入(いり)、每(つね)のごとく、何心なく細道を歸り來(きた)るに、大名の通り給ふに行き逢(あひ)て、久敷(ひさしく)片寄居(かたよりゐ)て、漸(やうやう)通行を過(すぎ)て馬を牽行(ひきゆく)に、又々通り人(びと)有(あり)て、通路成兼(なりかね)て待(まち)し間(あひだ)に、纔(わづか)二里程の道を二時半(ふたときはん)ばかり掛りて漸(やうや)く家に歸りたり。此日、吉松も同じ方へ馬を牽て行しが、暮合(くれあひ)前に先方(せんほう)にて聞合(ききあは)するに、鐡よりは二里程後れて歸るべしとの事故、其積りなりしに、鐡が歸りて間もなき所ヘ吉松も歸りたれば、何として斯(かく)は遲く歸りしぞと問ふに、今宵は又も又も引(ひき)つゞき大名に行逢(ゆきあひ)て、大きに道に手間どりしと答ふ。吉松云(いはく)、我等も同じ道に來りしに、何にも逢(あは)ず。何をかとぼけたるのなりと云へば、いや左に非ず正敷(まさしき)事也。扣(ひかへ)よ扣よとて散々罵られたりと云。夫(それ)は狐のわざにて化(ばかさ)れたるのなりとて、皆々笑ひて、何心なく夫成(それなり)に寢(いね)たりしに、間もなく入口をとんとんと叩く者有(あり)。誰ぞと問(とふ)に、中津屋より來たり、客三人有(あり)て、今より關(せき)の方へ行く客成(なる)が、少し斗(ばかり)の荷を付(つけ)て、馬に乘(のり)て行度(ゆきたし)との事、一人參らぬかと云(いふ)によりて、行(ゆき)てもよし、只一人かと問ふ。三人入用(いりよう)なれど、二人の馬は他にて出來(いでき)たれば、今一疋にてよしと云。左らば行(ゆく)べし、二人は誰が行ぞと問(と)ふに、助(すけ)の馬と三(みつ)の馬なりと答へ、少しも早く來(きた)るべしと云(いひ)捨て、中津屋の者は歸りぬ。【是は始終雨戸越(ごし)にて、内と外とにての應對なり。】夫(それ)より鐡は、馬に飼(かいば)を懸け、おのれも冷茶にて食事をなし、馬を牽(ひき)いだして先(まづ[やぶちゃん注:底本は「まず」とルビするが訂した。]、助(すけ)の所へ誘ひに行(ゆき)たるに、一向知らぬといふ。不審成(なる)事と思ひ、直(ぢき)に中津屋へゆきて見るに、寢て居る也。起して、しかじかのゆゑ、來(きた)ると云(いふ)に、我方(わがほう)には、今宵は客一人ならではなし。それも明朝四つ比(ごろ)より岐阜へ行(ゆく)客也。間違ひならんといふ。夫より三(みつ)の方へも行(ゆき)て尋(たづぬ)るに、何事も知(しら)ぬと云ける故、能々(よくよく)考へ思ひ出してみれば、今朝、狐に石打たる故なりと漸(ようよう)心附て、是も狐の業(しわざ)なるを始(はじめ)て知り、憎き事とは思へども、詮方もなく、大いに慰まれ申(まうし)候と、吉松語りたり。さて、其聲は正敷(まさしく)人の言舌にてもの云ひしかと問(とふ)に、人の通りには候らへども、狐は少し喘涸(しはがれ)聲にて、舌の短き人の言舌に似たるものに御座候。跡にて考(かんがへ)候らへば、前の聲も喘涸聲にて、其時は家内中の者、皆々聞居申候(ききをりまうしさふらふ)事にて、正數(まさしく)言(げん)を云(いひ)候に相違は御座なく候と申(まうす)。扨(さて)又、外に狐の化(ばけ)たるを慥(たしか)に見たるやと問(とふ)に、夜分、大行列の娵(よめ)入(いり)に逢(あひ)たる事と、大名の行列に逢(あひ)申候。是も跡にて能(よく)考(かんがへ)候へば、狐にて御座候。其譯は、田舍は一筋道に候らへば、其夜の中(うち)には、跡や先に村へ歸る者も御座候に、外に逢たるものは一人も御座なく候。そのうへ、街道通(どほり)りならねば、晝にても大名の通行はなく、若(もし)も通行のときは、半月も前より先觸(さきぶれ)御座候て、馬を牽(ひく)程のものは、兼て存(ぞんじ)奉り居(をり)候事に御座候といへり。扨、娵入(よめいり)は繪本に有(ある)ごとく、顏は狐にて、體(からだ)は人か、ものをもいひしか、慥に見留(みとめ)たるかと問に、顏も體も人にて、何も少しも替りたる事はなく候らへども、聲は何れも喘涸聲(しはがれごゑ)に御座候。一度は大娵入(おほよめいり)、一度は大名故、心得居(ゐ)て、其場にては誠の行列と心得、馬を傍(かたはら)へ引込居(ひきこみゐ)て通し過(すぐ)したる事、殘念に御座候。もし此後(こののち)、逢(あひ)候らへば、最早だまさるゝ事にては御座なく候。其行列は、先箱徒(さきばこがち)・駕籠・鎗長柄(やりながえ)・合羽籠(かつぱかご)に至るまで、實(まこと)の大名に替る事は御座なく候と語れり。此志津野村邊にては能(よく)有(ある)事故(ゆゑ)、さして珍敷(めづらしき)事共(とも)思はざる樣子なり。昔より美濃狐など云(いふ)事有(あり)て、人の妻と成(なり)て子を生み、狐直(きつねの(あたひ)の姓(かばね)の出來(いでき)たる事などあれば、其狐等の子孫の有(あり)て、餘國に勝れて奇變をなすか。予は都會の地にのみ住(すみ)たれば、是等の事は辨(わきま)へ兼たり。

[やぶちゃん注:既に出た話者で三好の下男吉松は「濃州武儀(むぎ)郡志津野(しづの)村の百姓」(現在の岐阜県関市志津野(しつの)。ここ(グーグル・マップ・データ))であったから、ここに出る。「關」も同地名を指すことが判る。

「狐(きつねの)直(あたひ)の姓(かばね)」の「直(あたひ)」とは、上古の身分を示す姓(かばね)の一つで、「臣(おみ)」「連(むらじ)」に次ぐものとして、多くは大化改新以前の国造(くにのみやつこ)に与えられた。「狐」という単独姓は流石に聞かないが、ネット上の情報では「狐」を含む姓は、現に、「狐塚(こづか)」「狐島(こじま)」「狐嶋」「狐井(きつい)」「狐坂(こさか)」「狐川」「狐野(この)」などがあるようである。しかもこれは事実、その土地にあった霊力を持ったキツネが、人間の妻となり、神通力を持った子孫を残したという伝承が、隠すことなく語られ、由緒ある旧家の証しとして語られたケースもある(例えば、かの陰陽師安倍晴明の出自を語るところの「信田妻(しのだづま)」伝説など)。例えば、「日本靈異記」の「上卷」の「狐爲妻令生子緣第二」(狐を妻と爲して子を生ましむる緣第二)などがこの叙述の最も古い濫觴の一つである。以下に示す。【 】は割注。角川文庫の板橋侖倫行校注本を参考底本とした。

   *

昔欽明天皇【是れ、磯城嶋(しきしま)の金刺(かなさし)宮に國食(を)しし天皇、天國押開廣庭命(あめのくにおしはらきひろにはのみこと)也。】の御世に、三野(みの)の國大野の郡の人、妻となすべき好(よ)き孃(をみな)をもとめて路に乘りて行く。時に曠野(ひろの)の中にうるはしき女に遇へり。その女、壯(をとこ)に媚(こ)び馴(なつ)く。壯、めかりうちて[やぶちゃん注:ウインクをして。]言はく、

「何に行く稚孃(をとめ)ぞ。」

といふ。孃、答へて、

「能き緣(えに)を覓(もと)めむとして行く女なり。」

といふ。壯、また語りて言はく、

「妻とならむや。」

といふ。女、

「聽(う)。」

と答へ言ふ。すなはち、家に將(ゐ)て交通(まじは)り相住(あひす)む。此頃(このころ)、懷任(はら)みて一(ひとり)の男子(をのこご)を生む。時にその家の犬、十二月十五日に子を生む。かの犬の子、每(つね)に家室(いへのとじ)に向ひて、期尅(いのご)ひ[やぶちゃん注:敵意を剝き出しにし。]睚(にら)み、はにかみ吠ゆ。家室、脅(おび)へ惶(お)ぢ、家長(いへをさ)に告げて言はく、

「この犬を打殺せ。」

といふ。然れども、慈(いつくしみ)の心ありて、なほ、殺さず。二月三月の頃に、設(まう)けし年米を舂(つ)く時、その家室、稻舂女(いなつきめ)等(ら)に間食を充(あ)てむとして碓屋(うすや)に入る。すなはち、かの犬の子、家室を咋(く)はむとして追ひ吠ゆ。すなはち、驚き躁(お)ぢ恐り、野干(きつね)となりて籬(まがき)の上に登りて居り。家長、見て言はく、

「汝と我との中に、子、相(あひ)生まる。故に、吾、忘れじ。每(つね)に來りて相ひ寐(ね)よ。」

といふ。故に夫(を)の語(こと)のまにまに來り寐き。故に名づけて「岐都禰(きつね)」となす。時にかの妻、紅染(くれなゐぞめ)の裳(も)【今、桃花裳(つきも)といふ。】を著き、窈窕(さ)びて[やぶちゃん注:身のこなしもしなやかに。]裳襴(もすそ)引き逝(ゆ)く。夫(を)、去(い)ぬる姿を視(み)、戀ひて歌ひて曰はく、

 

  戀は皆我が上うへ)に落ちぬたまかぎるはろかに見えて去(い)にし子ゆゑに

 

故にその相(あひ)生ましめし子の名を「岐都禰(きつね)」と號(つ)く。また、その子、姓(かばね)を「狐(きつねの)の直(あたへ)」と負ふ。この人、強き力、多(あまた)あり、走ること疾(と)く、鳥の飛ぶが如し。三野の國の狐の直等(ら)が根本(もと)、これなり。

   *

因みに実は同じ「日本靈異記」の「中卷」に載る「力女捔力試緣第四」(力女(りきによ)、力捔(ちからくらべ)し試みる緣第四」の怪力女こそがその子孫である。]

 又、狐の火を燈す事は衆人の知(しる)事也。如何成(いかなる)術にて燈すか知り居るやと問に、さればにて候。鳥の骨を咥(くは)へて燈すと申(まうす)諺(ことわざ)に候らへども、慥成(たしかなる)事は誰たれ)も存申(ぞんじまう)さず候。小雨(こさめ)など降る夜は、多く燈す事に御座候。何故に燈すか分り申さず候らへども、狐どもの慰(なぐさみ)に燈して、人抔(など)にも見する事かと存奉り候。或夜、五十も百も並び、夥敷(おびただしく)燈して向(むかふ)より來り候。わたくし思ひ候に、やがて此道へ來るに相違なし、如何成ものにて燈し來るか、見顯はしてやり候はと存奉り、此時も小雨降候らへども、傘をつぼめ、道筋をあけて田へ下り、稻の中に隱れて見候に、段々と火を燈し連ねて來り申候。直側(すぐそば)にて能(よく)見申候に、何もなく、火斗(ばか)り幾つも自然に行(ゆき)申候を、十斗(ばかり)も行過(ゆきすぎ)たる所にて、聲を限りに大聲して、ヤイと云(いひ)て道へ飛び出(いで)ると、狐も思ひよらざりしにや、誠に仰天して、足元にて唯一聲ワイと聲を限りに鳴(なき)て、數(す)十の火、一度に消失(きへうせ)て、跡は眞(しん)の暗(やみ)に成(なり)申候。餘りの足元にて、渠(かれ)が一所懸命にて聲の限り鳴(なき)申候故、私も誠に驚き申候て、直(ただち)に傘にて一つ二つめくら打(うちに打候らへども、何も當り申さず候。夫(それ)より馬の骨や有(ある)と、近邊を探り見るに、何も手にあたるものなけれども、夫切(それぎり)には止兼(やみかね)て宅へ歸り、提燈を燈し、畑中の近道をかけ行(ゆき)て能(よく)見るに、何もなき故、詮方なくて歸り來り申候に、其所より二丁[やぶちゃん注:二百十八メートル強。]餘も脇の方、家居の並びて御座候所の廣き道路一丁餘りの所に、馬の骨、五十も百も打捨(うちす)て御座候。されば全く諺の通り、是を咥(くは)へて火を燈す事と思はれ申候。然れども、如何成(いかなる)事にて此所迄、其骨を咥(くは)へ來りて捨(すて)申候歟(か)、合點行(がてんゆき)申さず。幷(ならびに)、此骨の有樣(ありさま)にては、數十疋寄合(よりあひ)燈し行(ゆく)事と見え申候。馬の骨もあの樣に多く近邊には御座なく候。何所(いづく)より取來(とりきた)り申候か、呉々(くれぐれ)も[やぶちゃん注:心底。]合點の行申さぬものに御座候と語れり。此吉松は、漸(やつと)母の懷(ふところ)を離るゝ比(ころ)より、馬好(うまずき)にて牽歩行(ひきありき)て、未だ若きやつなれども、性根よく居(すは)りて、温順にして勇氣も有(あり)、しかも落付居(おちつきゐ)て、何事も能(よく)見窮めよく覺(おぼえ)て居る故、色々慥成珍敷(たしかなるめづらしき)話も聞(きき)て、此筆記にも所々に記し置(おき)たり。

 狐火の事は鈴木牧之(ぼくし)が北越雪譜に云(いはく)、狐の火を爲す説はさまざまあれど、皆、信じがたし。わが目前に現(あらはれ)しは、或夜深更に、二階の窓の隙(すき)に火の映るを怪しみ、その隙間より覗きみれば、狐、雪の掘揚(ほりあげ)の上に在て、口より火を出(いだ)す。能(よく)みれば呼息(つくいき)の燃(もゆ)る也。其態(そのたい)、口より少し上に懸る事、寒火(くわんか[やぶちゃん注:熱を全く持たない妖しい火の謂いであろう。])のごとくおもしろければ、暫く覗き居たりしが、火を出す時と出さゞる時あり。かれが肚中(はらのなか)の氣に應ずるならん。かれが氣息(いき)、常に火をなさゞるは勿論なり。石亭が雲根志に、狐の玉の光る事を云(いひ)しが、狐火は玉のひかるにもあらずかし。狐の玉と云(いふ)物の光ると、常にみる狐火とは別なるべし、と云々。又、秦鼎(はたかなえ)の一宵話(ひとよばなし)にも、或人、狐火を見付て、稻田隱れに畷道(なはてみち)を這行(はひゆく)に、狐は入來(いりきた)るべしとはしらずして、大小二三十疋、叢祠(やしろ)の廣前(ひろまへ)にて、逐(お)つ逐(おは)れつ息を限りに戲れ居(をり)けり。近くよりて能(よく)みるに、火と見ゆるものは渠(かれ)が息(いき)なり。ヒヨウと飛上る時、口中よりフツト息吹出(ふきい)づ。其息、火のごとくヒラヒラと光る。大抵、口より二三尺前にて光る也。光り續けに光る事なし。勢に乘(のり)、ヒヨウと飛出(とびいだ)す時のみちらつく。遠方よりみれば、明滅斷續するも理(ことは[やぶちゃん注:底本のルビは「ことわ」でるが訂した。]りなりと有(あり)。是等は皆、正敷く(ただしく)記し樣(ざま)、疑ふべきにあらず。元來、吐息有(あり)と云(いふ)事は、能(よく)人も云ふ事也。去(さり)ながら又、我國にても、土俗は馬の骨にて燈すと云(いふ)事、美濃にて云傳(いひつたふ)る事と同談なり。又、同じ美濃の内にても、苗木邊の土俗は、馬の爪にて火を燈すとも云傳るよし。【馬の爪は、馬の灸治などする治療場に多く捨ありとなり。】又、予が知る人、房州館山侯の藩中高梨何某の云く、亡父は鐡砲を好みて山獵(やまりやう)をもなしけるが、或秋の夜、田小屋(たごや)に潛居(ひそみゐ)たるに、狐、火を燈して段々小屋の方へ來るまゝ、側(そば)へ引付(ひきつけ)て打取(うちとる)べしと待居(まちゐ)る内に、遂に狐は何心なく小屋の下まで來る故、鐡砲を取直(とりなほ)して打(うつ)べしと思ふに、狐、其機(き)を知(しり)しにや、ワイと一聲叫びて逃失(にげうせ)たり。翌朝、其叫びし所に馬の骨一つ有(あり)たり。是全く彼が仰天して取落(とりおと)し行(ゆき)たるならん。左すれば、土俗の云(いふ)通り、狐火は馬の骨にて燈すと云(いふ)ことも、虛(うそ)にてはなかりしかとの事也。是等を以(もつて)考ふるに、息と骨と爪と、色々の燈しかたも有るか。量りがたし。

[やぶちゃん注:「叢祠(やしろ)」は二字へのルビ。後に示した原典も同じい。

「鈴木牧之が北越雪譜」現在の新潟県南魚沼市塩沢で縮仲買(ちぢみなかがい)商と質屋を営んだ随筆家鈴木牧之(まきゆき 明和七(一七七〇)年~天保一三(一八四二)年)が越後魚沼の雪国の生活を活写した名作。初編三巻・二編四巻で計二編七巻からなる。真夏のスペインのコスタ・デ・ソルの海岸で読み耽ったほどの私の愛読書である。以上は同書の「初編 卷之中」の「狐火(きつねび)」。以下。岩波文庫版を基礎底本に、恣意的に正字化して示した。読みはオリジナルに歴史的仮名遣で附した。

   *

   ○狐火

 酉陽雜俎に、狐髑髏(どくろ)を戴き北斗を拜し尾を擊(うち)て火を出すといへり。かの國はともあれ我がまさしく見しはしからず、そは下(しも)にいふべし。狐は寒をおそるゝ物ゆゑ、我里にては冬は見る事稀也、春にいたり雪のふりやみたるころ、つもりたる雪中食(くふ)にうゑて夜中人家にちかづき、物を竊(ぬす)み喰(くら)ふ事甚(はなはだ)惡(にく)むべし。人これを知るゆゑ、かれに盜(ぬすまれ)じとて人智を以てかまへおけども、すこしの間(ま)に奪ひ喰(くら)ふ、其妖術奇々怪々いふべからず、時としてかれが來(くる)とこざるは鼠(ねずみ)のごとし。狐の妖魅(えうみ)をなす事和漢めづらしからず、いふもさらなれどいふ也。我(われ)雪中にはあかりをとらんため、二階の窓のもとにて書案(つくゑ)に倚(よ)る。或時故人鵬齋(ばうさい)先生より菓子一折(をり)を贈れり、その夜寢(いね)んとする時狐の事をおもひ、かの菓子折を紵繩(をなは[やぶちゃん注:イラクサ目イラクサ科カラムシ属ナンバンカラムシ変種カラムシ Boehmeria nivea var. nipononivea の茎の皮から作った丈夫な繩。])にて強(しか)と縛(くゝ)し天井へ高く釣りおき、かくてはかれが術も施しがたからんと自(みづから)傲(ほこ)りしに、さて朝に見ればくゝしたる繩は依然としてもとのごとく、菓子折は消失(きえうせ)たるがごとし。猶憎むべきは、くわしをりは人の置(おき)たるやうに書案の上にあり、ひらき見ればおほひたる紙もそのまゝにて、くわしはみなくらひ盡せり、その妖(えう)をなしし事不思議也。或時は猫の聲をなして猫を呼(よび)いだして淫(いん)し且(かつ)喰(くら)ふ。老狐は婦女を妖(ばか)して淫するもあり、淫せられし女はかならず髮をみだし其處(そこ)に臥して熟睡せるがごとし、その由をたづぬれども一人も仔細をかたりし女なし、皆前後をしらずといふ、しらざるにはあるまじけれども、事を恥(はぢ)ていはざるならん。さて狐、善(よ)く氷を聽(きく)と言(いふ)事、酉陽雜俎に見ゆ。こは本朝にても今猶諏訪の湖水は狐渉(わたり)しを視て人渉りはじむ、和漢相同じ。狐の火を爲す説はさまざまあれどみな信(しんじ)がたし。我が目前に視(み)しは、ある夜深更の頃、例の二階の窓の隙(すき)に火のうつるを怪しみその隙間より覗きみれば、狐、雪の掘揚(ほりあげ)の上に在(あ)りて口より火をいだす、よくみれば呼息(つくいき)の然る也。その儀口よりすこし上にもゆる事、まへにいへる寒火(かんくわ)のごとし。おもしろければしばらくのぞきゐたりしが、火をいだす時といださゞる時あり、かれが肚中(はらのなか)の氣に應ずるならん、かれが氣息(いき)常に火をなさゞるは勿論也。石亭(せきてい)が雲根志(うんこんし)に狐の玉のひかる事を云(いひ)しが、狐火は玉のひかるにもあらずかし。狐の玉といふ物の光ると常に見る狐火とは別なるべし。

   *

三好も引く「石亭が雲根志」というのは、石フリークの木内石亭の著になる、安永二(一七七三)年から享和元(一八〇一)年の永い年月をかけて編んだ石の博物書。三編十六巻。岩石や鉱物・化石・石器など約二千品を分類して記載したものである。私も所持するが、残念ながら、当該記事を今、引き得ない。発見し次第、追記する。

「秦鼎の一宵話」秦鼎(はたかなえ 宝暦一一(一七六一)年~天保二(一八三一)年)は江戸後期の漢学者。美濃出身で尾張藩藩校明倫堂の教授として活躍したが、驕慢で失脚したという。「一宵話」は三巻三冊から成る彼の随筆。以上は同書の「卷之二」にある「稲荷の狐」の中の一節。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で全条を加工して示す。【 】は頭書、〔 〕は割注。挿絵もあるが、カットする。

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むかし老狐ありて、我等が本とし崇(アガ)むべき御神は、いづれの御神ぞや。聞せ給へと、其時のものしり人に問ひしに、其人、それこそ稻荷の御神よ。【稻荷三殿、本殿は宇賀御魂神、二殿は素盞嗚尊、三殿は市比賣命なりと申。】其證(シヤウ)は、三狐(ミケツノ)神と申奉るなりと誑(タブラ)かせしを、さすがの老狐も、實(ジツ)と心得しから、今にては稻荷の社にて、數多の狐ども、官位する樣にはなれり。神のしろし召し事にもあらず。又狐の方に據(ヨリドコロ)ある事にもあらず。虛言(ウソ)が實となりしものなり。此神は、倉稻魂命(ウガノミタマノミコト)にして、御膳(ミケツノ)神と申す。それを戲書(タハレガキ)に、三狐神(ミケツノカミ)と書しが、後々は三狐神神とまでもなれるなり。此戲書(タハレガキ)より起れる老狐の神ならんと、或人、稻荷の社人にとひたゞしいへるは、推量(スイリヤウ)ながらも、奇説(キセツ)といふべし。又狐火の説、古より種々ある事なり。或(アル)人、少年の比、山中にて目前に見し事あり。七月廿五日の曉、隣村へ行んとする時、途中三四町隔(へダテ)て、山の麓(フモト)に炬火(タイマツ)のちらめくを見付、扨は狐火なり。いで試んと、稻(イナ)田の畷道(アゼミチ)を、稻葉(バ)がくれに這(ハヒ)ゆくに、狐はかゝる時、人來(ク)べしとはしらで、大小二三十疋、叢祠(ヤシロ)の廣前にて、逐つ逐はれつ、息を限りに戲(タハム)れ居けり。近くよりて見るに、火とみゆるものは、彼が息(イキ)なりけり。【狐火の類は、地に這ふて見るものなりと、俗言には虛言ならぬか。】」ヒヨウト飛上時、口中よりフツト息吹(イキフキ)出づ。其息、火の如くヒラヒラと光る。大抵、口より二三尺前にてひかるなり。光りつゞけに光る事なし。勢にのり、ヒヨツと飛び出す時のみちらつく。遠方より見れば、明滅(メイメツ)斷續(ダンゾク)するも理りなり。やがて人聲(ゴヱ)聞えたれば、それに驚き、はらはらちりぢりに、山の奧へにげ入ぬ。擊ㇾ尾(ヲオウチテ)出ㇾ火(ヒヲイダス[やぶちゃん注:「ヒ」は私の附加。])などと、古書にいひしは、口と尻との違ひなりと笑ひしも、今は昔の茶のみ話(バナシ)になれりと語る。此は吹口氣如ㇾ火[やぶちゃん注:底本に従って推定訓読を示せば、「口氣(かうき)を吹けば火のごとし」である。]といふによく合へり。〔狸睡(タヌキネイリ)は、懶眞子にも出て、よく睡れども、又目覺はやく、物音きけば、直にげ行くから、佯眠(ウソネ)して人を欺く樣に、人の方にておもふなるべし。若佯眠(ウソネ)ならば、魏曹操(ソウソウ)が佯眠(ウソネ)して、寵妾を殺せし事きかせなば、狸とも、扨曹操は、我等が祖神也と、其社にて後に官位すべしといへり。】

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私はこの筆者、驕慢で失脚というのが、この文章で何となく判る気がした。なお、「廣前」(ひろまへ)とは、神前を敬っていう「神の御前」或いは神社の前庭の意。

「苗木」既出。現在の岐阜県中津川市苗木(なえぎ)。美濃苗木藩は美濃国恵那郡の一部と加茂郡の一部を領有していた、江戸時代最小の城持ちの藩であった。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「馬の灸治などする治療場」先行する「頽馬の事」に出る。

「房州館山侯の藩」安房国館山(たてやま)藩。この頃は稲葉氏を藩主とする譜代小藩。

「田小屋」農作業用の仮小屋のことであろう。]

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