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2017/03/29

「想山著聞奇集 卷の壹」 「吉夢應を顯す事」

 

 吉夢(きちむ)應(おう)を顯(あらは)す事

 

Hujitotakatotomikuji

 

 東都芝口に吉嶋屋市兵衞と云いふ)古瀨戸物屋有(あり)。名古屋出生(しゆつしやう)にて、予、竹馬よりの知己(ちき)なり。才智賢く、文學も少し有(あり)て、遊藝抔(など)、何にも一通りは行渡(ゆきわた)り居(ゐ)て、品々(しなじな)咄(はなし)のある面白き男也。此者云樣(いふやう)、私は、不思議成(なる)事、また奇怪成(なる)類(たぐひ)の事は、多くは聞違(ききちがひ)や或は噓にて、先(まづ)は理外(りぐわい)の奇怪など云(いふ)事は少きもの故、人々是は實なりなどゝ云(いひ)て、慥成(たしかなる)事も、人よりは疑(うたがひ)深くて、實と受兼(うけかね)る甚だわるき性(しやう)にて御座候。勿論、奇妙不思議と云(いふ)事は決(けつし)て有間敷(あるまじき)とは存(ぞんじ)奉らず候らへとも、人よりは唯、疑心多くて、大躰(だいたい)の事は心伏(こころぶせ)なしかね申候らへども、鳥渡(ちよつと)せし事ながら、眼前に合點のゆかぬ事を見請(みうけ)申候。最早十二三年も以前、天保の初つかたと覺(おぼえ)申候。鐡砲洲に紀伊國屋久兵衞とて、紀伊の國の船問屋御座候。或時、此久兵衞の申(まうす)には、昨夜、妙成(なる)夢を見申候。富士の山上より麓迄、繩一筋引張(ひきはり)有(あり)て、鷹が富(とみ)の札一枚捉(つか)み來りて、其繩へ引懸(ひきかけ)たり。是は妙成事と思ひて、其札を見れば、何十何番と慥(たしか)に讀覺(よみおぼ)えたり。變成(なる)夢を見るものかなと咄す。此夢の咄は、其座に居合せて聞置(ききおき)申候らへども、最早、久敷(ひさしく)相成(あひなり)申候故、聢(しかと)とは仕り兼(かね)候へども、先(まづ)夢の趣(おもむき)は右の通りに御座候。然るに其席に居合(ゐあひ)たる、これも紀伊の國の船問屋長嶋屋の代(だい)の者、此はなしを聞(きき)て、それは此上もなき吉兆なり。急ぎ其番の札を求められよと勸めけれども、久兵衞は寛優(ゆたか)にして、別(べつ)してその樣成(やうなる)事は一向好まざるものにて、是は夢なり、騷ぐ事に非ずと云(いひ)て、心なきゆゑ、かの代の者、左候はゞ其番を我等に下さる間敷(まじく)かと云しに、何も進ぜる迄もなし、ほしくば尋(たづね)て求められよと答へぬ。扨、此代の者は至て富好(とみずき)にて、常々雨に付(つけ)、風に付ても、是ぞ吉兆なるべきなどゝ云て、富札を穿鑿して求(もとむ)る程の事なれば、是ぞ天より我等に與ふる福也とて、悦ぶ事限りなく、直(ぢき)にその札をたづね懸りけれども、何分、差番(さしばん)の札なく、富札の賣捌所(うりさばきじよ)も數百軒なるまゝ、己(おの)れ一人にては、一時に穿鑿出來兼るゆゑ、己(おのれ)とおなじく富の好(すき)なる友を兩人かたらひ、三人して江戸中端々まで悉く尋ね索(もとむ)れども、かの夢の番附の札はなく、尋(たづね)わびて詮方なさに、夢と一番違ひの札を見付置(みつけおき)たる故、せめてあの札なりとも買取(かひとる)べしとて、漸(やうやう)、其札を買取て、富(とみ)興行を待居(まちゐ)るに、彼(かの)夢のふだ、第一ばん百兩の當り札と成(なり)たる故、代の者の求め置(おき)し札も、一番違ひなれば、袖札(そでふだ)と成(なり)て、僅か五兩とか取(とり)申候。是は現在、私(わたくし)存居(ぞんじをり)申候事にて、如何にも合點の行(ゆか)ぬ事ながら、爭はれぬもの、不思議と申(まうす)も有(ある)ものにて御座候と市兵衞語りたり。予おもふに、昔、栗田の大臣在衡(ありひら)公、未だ六位の時、鞍馬寺に籠り給ひけるに、御帳(みちやう)の内より笏を給ふと夢に見給ひしに、其笏に右大臣從二位在衡とかゝれたりけり。後、其夢の如く、大臣と成(なり)給ひしと申(まうす)事あり。又、或著に、右大臣歳(とし)は八十二と示し給(たまひ)て後(のち)、意の如く昇進して、八十三の時、左大臣に進み給ふゆゑ、彼(かの)寺に詣(まうで)て、往日(わうじつ)右大臣八十二の由、示現(じげん)を蒙(かうむる)といへども、今既に此(かく)の如しと念じ給ふと。昆沙門天、亦夢の中に示し給ふには、官は右大臣にて有(あり)しに、年來(としごろ)、勤(つとめ)の功に依(より)て左大臣に至れり。歳は八十七と示し給ふて、件(くだん)の歳に薨逝(こうせい)なりと云(いふ)事有(あり)。是等は正敷(ただしく)、鞍馬の多門天の示し給ふ靈夢なれども、此久兵衞の夢は、如何なる神のみせ給ふ夢にや。市兵衞の不審(いぶかしく)思ふも理(ことは)りにて、實(げ)に一奇事といふべし。

[やぶちゃん注:「心伏」心底から納得することの謂いであろう。

「鳥渡(ちよつと)」一寸(ちょっと)。

「最早十二三年も以前、天保の初つかた」天保は一八三〇年から一八四四年で、本書は想山没年の嘉永三(一八五〇)年に板行されているから、謂いとしては不審がない。

「鐡砲洲」現在の東京都中央区の東部、月島に面した湊(みなと:「町」は附さない)や明石町(あかしちょう)に相当する。呼称は徳川家康入府当時にここが鉄砲の形をした洲(島)であったことに由来する。或いはまた、寛永の頃にこの洲で鉄砲の試射をしたことに依るともされる。江戸後期は大名の蔵屋敷が多くあった。

「長嶋屋の代の者」その長嶋屋の当代の当主の謂いととっておく。

「寛優(ゆたか)」推定で二字でかく読んでおいた。バーネット作若松賤子訳の「小公子」の若松の「自序」にこの用法を確認出来るからである。

「その樣成(やうなる)事」富籤を買う趣味。因みに、私も全く、ない。

「差番(さしばん)の札なく」不詳。ウィキの「富籤」によれば、富籤は大きな箱に札の数と同数の番号を記入した木札を入れ、その箱を回転して側面の穴から錐を刺し入れて木札を突き刺し、当選番号を決める方式で、当たりには「本当(ほんあたり)」が一から百まで、つまり、百度、錐で札を突いて挙げられた。例えば第一番に突き刺したのが三百両、以下五回目ごとに十両、十回目毎に二十両であるが、五十回目は二百両、百回目(これを「突留(つきとめ)」と称した)には千両といったように褒美金が貰えた。また、この連続の突きの内の二十一回目のそれを「節(ふし)」と称し、節を除いた残りを「平(ひら)」と名付け、この「節」の何回目かについて事前に「間々(あいあい)」という呼称で定めおき、この特異点で少額金を与えることもあった。「節」の番号数の前後の番号に幾許(いくばく)かの金額を与えたが、これを「両袖」と言い、「両袖」のかたわらの番号を「袖」と称して、少額の物が配られることもあったとある(本文の後に出る「袖札」は後注するようにこれとは別)。ここはその富籤の場所或いはその差し手(興行主に社寺が強制的に分与させた冥加金目当てに行った)を現わす符牒が富籤の当選番号とは別に存在したものか? 識者の御教授を乞う。

「一番違ひなれば、袖札と成て」現在の大当たりの当選番号の一番違いの前後賞に相当するもの。

「栗田の大臣在衡(ありひら)公」平安中期の公卿藤原在衡(寛平四(八九二)年~天禄元(九七〇)年)。藤原北家魚名流中納言藤原山蔭の孫。最終官位は従二位の左大臣で贈従一位。「粟田左大臣」「万里(まで)小路大臣」と称した。参照したウィキの「藤原在衡によれば、『僧侶の子息で五位の諸大夫の養子という、その出自に比して異例の出世を遂げたこともあり、数々の説話に彩られた人物である。若年時に鞍馬寺において天童から大臣への昇進と長命の予言を受けたという』とあるが、これは「古事談」の「第五」「神社佛寺」の「在衡、鞍馬にて宣託を蒙る事」である。岩波の新日本古典文学大系を参考底本として恣意的に正字化して以下に示す。〔 〕は原典の傍注、【 】は原典の割注を示す。読点を追加し、読みはオリジナルに歴史的仮名遣で附した。

   *

 栗田左大臣在衡〔山蔭中納言孫、但馬介有賴男、實は如無(によむ)僧都子〕、文章生の時、鞍馬寺に參詣し、正面の東の間において禮を爲す間(あひだ)、十三四歳の童(わらは)、傍に來たりて、同じく禮を爲(な)す。七反(へん)許りと思ひけれども、此の小童の禮終らざる前に、しはてたらむはわろかりなむ、と思ひて、不意(こころならず)、禮し奉る間、既に三千三百三十三度に滿つる時、此の童、失せ畢(をは)んぬ。爰(こ)こに在衡、奇異の思ひを成し、渇仰(かつげう)の信を致(いた)す。然(しか)れども窮屈の餘り、聊か睡眠(まどひ)する間、先の童、裝束天童(てんどう)の如くにして、御帳の中(うち)より出で來たりて云はく、「官は右大臣、歳(とし)は八十二」と云々。其の後の昇進、雅意に任すが如し。【臣に任ぜらるる時、饗(きやう)無し、と云々。】左大臣、八十三の時、彼の寺に詣でて申して云はく、「往日、右大臣、八十二の由、示現ありと雖も、 今已に此くの如し」と云々。毘沙門亦た夢中に示し給ひて云はく、「官は右大臣にてありしに、奉公の勞に依りて左に至る。命はあしくみたりけり。八十七」と云々。果して件(くだん)の歳に薨ずるなり、と云々。其の後、彼の寺の正面の東の間をば、人以て進士の間と稱す、と云々。

   *

文中の「天童」は毘沙門天脇侍である護法天童善膩師童子(ぜんにしどうじ)のこと。在衡は安和二(九六九)年に右大臣、翌安和三年正月に左大臣となっているが、同年の十月十日(同年五月に天禄に改元)に致仕・出家入道・薨御している。但し、ウィキの生年が正しいとすれば数えでも七十八で、上記の伝承の享年とは合致しない

「鞍馬の多門天」毘沙門天は四天王の一人として示す場合には多聞天として表わされる。ウィキの「毘沙門に、『日本では四天王の一尊として造像安置する場合は「多聞天」、独尊像として造像安置する場合は「毘沙門天」と呼ぶのが通例である。庶民における毘沙門信仰の発祥は平安時代の鞍馬寺である。鞍馬は北陸若狭と山陰丹波を京都と結ぶ交通の要衝でもあり古くから市が栄え、自然と鞍馬寺の毘沙門天の本来の神格である財福の神という面が強ま』ったとある。]

 

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