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2017/03/14

柴田宵曲 續妖異博物館 「雨乞ひ」

 

 雨乞ひ

 

 雨を乞ふ話は多く、晴を禱る話は少い。日本の雨乞ひで有名なのは小野小町、能因法師、下つて江戸の其角であるが、これは歌とか句といふものに結び付いた爲、特に人口に膾炙したものであらう。其角自撰の「五元集」を見ると、例の「夕立や田をみめぐりの神ならば」の句の後に「翌日雨ふる」と註してゐる。古人もなかなか自信が強いから、其角なども自己の十七字の功德により、大旱に慈雨を降らし得たと眞面目に考へてゐたのかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「雨を乞ふ話は多く、晴を禱る話は少い」「禱る」は「いのる」。「祈る」に同じい(「祈禱」は畳語である)。しかし和歌でいいなら、以下の詩歌より真っ先に私は、源実朝の、

 

   建曆元年七月、洪水漫ㇾ天土民愁歎き

   せむ事を思ひて、一人奉ㇾ向本尊

   聊致念と云

 時により過(す)ぐれば民のなげきなり八大龍王雨やめたまへ

 

を想起する。因みに前書は「建曆元年[やぶちゃん注:一二一一年。]七月、洪水、天に漫(はびこ)り、土民、愁ひ嘆きせむ事を思ひて、一人、本尊に向ひ奉りて聊か念を致して云く」と読む。群書類従本では「念」は「祈念」。底本は貞享本を底本とした一九六三年(改版)岩波文庫刊の愛読する齋藤茂吉校訂「金槐和歌集」を用いた(卷之下雜部。即ち、「金槐和歌集」の掉尾に配されてある忘れ難い一首なのである)。

「小野小町」彼女が勅命を受け、神泉苑で「雨乞い」のための和歌を詠み、その功徳(くどく)で雨が降ったという伝説は長唄・浄瑠璃・歌舞伎などの題材になっている。知られたそれは、

 

   日の照り侍りけるに、雨乞ひの和歌

   よむべき宣旨ありて

 ちはやぶる神も見まさば立ちさはぎ天(あま)の戸川(とかは)の樋口(ひぐち)あけたまへ

 

或いは、

 

 ことはりや日の本(もと)ならば照りもせめさりとてはまた天(あま)が下(した)とは

 

だとされている(前者は「小町集」に載るもの、後者は謡曲「雨乞小町」のそれ)。願文であるから仕方がないが、孰れもお手軽な洒落に過ぎず、実朝の「直(なほ)き心」の現われたそれの方が遙かによい。

「能因法師」「金葉和歌集」の「卷第十 雜部下」に載る能因法師の次の一首(第六二五番歌)、

 

   範國朝臣に具して伊予國にまかりたり

   けるに、正月より三四月までいかにも

   雨の降らざりければ、苗代(なはしろ)

   もえせで騷ぎければ、よろづ祈りけれ

   ど、叶はで堪えがたかりければ、守、

   能因を歌よみて一宮に参らせて祈れと

   申(まうし)ければ、參りてよめる

 天(あま)の川(がは)苗代水(なはしろみづ)にせきくだせあま下(くだ)ります神ならば神

    神感ありて大雨降りて、三日三野夜を

    やあまざるよし、家(いへ)の集に見

    えたり

 

今じゃ腐った文科省のそればかりの「天下り」に「雨降り」を掛けたやはり何だかなの和歌である。これで鬼神も感じてしまうぐらいなら、腹の腐りきった官僚も泣くであろう。

「五元集」俳諧集。四冊。蕉門の高弟榎本(宝井)其角(きかく 寛文元(一六六一)年~宝永四(一七〇七)年)自撰で小栗旨原(おぐりしげん)編。延享四(一七四七)年刊。其角自撰の千余句の発句集「五元集」と句合わせ「をのが音鷄合(ねとりあわせ)」に、旨原編の「五元集拾遺」を添える。同句は「五元集」には、「夏」の部に、

 

   雨乞するものにかはりて

 夕立や田を見めくりの神ならは

    翌日雨ふる

 

と出る。柴田は述べていないが、この句は折句で、各句の頭を並べると「ゆたか(豊か)」となって、降雨による豊作を祈念する願文ともなっているのである。]

 弘法大師の雨乞ひも「今昔物語」に書いてあるのは、さう面倒な話ではない。大師が勅を奉じて、神泉苑に於て請雨經の法を修した時、その七日目に壇の右の上に五尺ばかりの蛇が現れた。その蛇はまた五寸ばかりの金色の蛇を戴いて居つたが、暫時にして神泉苑の池に入る。その座に列なつた僧二十人のうち、この蛇を見た者は四人に過ぎなかつた。大師にこの蛇の事を尋ねたら、天竺に阿耨達智池といふのがある、その池に住む善如龍王がこの池に通ひ給ふ、今こゝに現じたのは修法の驗ある證據だと答へた。果して戌亥(いぬゐ)の空に黑雲が起り、大雨となつて旱魃は止んだといふのである。

[やぶちゃん注:「阿耨達智池」「あのくだつちち(あのくだっちち)」と読んでおく。諸本は「池」だけを「いけ」と訓ずるが私は採らない。所謂、禅宗の庭園によくある「無熱池」のこと。本来は「贍部洲(せんぶしゅう)」=(閻浮提(えんぶだい)=インドの中心の大雪山の北にあるとする古代仏教の霊池。

「善如龍王」「ぜんによりうわう(ぜんにょりゅうおう)」。「善女龍王」に同じい。

「戌亥」北西。

 以上は「今昔物語集」の「卷第十四」の「弘法大師修請雨經法降雨語第四十一」(弘法(こうぼふ)大師、請雨經(しやううきやう)の法(ほふ)を修(しう)して雨を降らす語(こと)第四十一(しじふいち)」である。以下に複数の諸本を参考に、最も読み易い本文に加工して示す。

   *

 今は昔、□□[やぶちゃん注:天皇の諡号の明記を避けた意識的欠字。第一次資料の時制から「淳和」である。]天皇の御代に、天下旱魃(かんばつ)して、萬(よろづ)の物、皆、燒け畢(は)て枯れ盡きたるに、天皇、此れを歎き給ふ。大臣以下(いげ)の人民に至まで、此れを不歎(なげか)ずと云ふ事、無し。

 其の時に、弘法大師と申す人、在(まし)ます。僧都(そうづ)にて在ましける時に、天皇、大師を召して、仰せ給ひて云く、

「何(いか)にしてか此の旱魃を止(とど)めて、雨を降(ふ)らして、世を助くべき。」

と。大師、申して云く、

「我が法の中に、雨を降す法、有り。」

と。天皇、

「速かに其の法を可修(しゆす)べし。」

とて、大師の言(こと)ばに隨ひて、神泉(しんせん)にして請雨經の法を令修(しゆせし)め給ふ。七日に法を修(しゆ)する間、壇の右の上に五尺許りの蛇(へみ)、出來(いでき)たり。見れば、五寸許りの金(こがね)の色したるを戴(いただ)けり。暫(しばし)許(ばか)り有りて、蛇(へみ)、只、寄りに寄り來て池に入りぬ。而るに、廿人の伴僧、皆、居並(をな)みたりと云へども、其の中(なか)に止事無(やむごとな)き伴僧四人(しにん)こそ、此の蛇(へみ)を見ける[やぶちゃん注:係り結びしていないのはママ。]。僧都はたら更也[やぶちゃん注:「はたら」は副詞で「~は言うまでもなく」の意。]。此れを見給ふに、一人止事無き伴僧有りて、僧都に申して云く、

「此の蛇(へみ)の現ぜるは何(いか)なる相ぞ。」

と。僧都、答へて宣(のたま)はく、

「汝(なむ)ぢ、知らずや。此れは天竺に阿耨達池(あのくだつちち)と云ふ池、有り。其の池に住む善如龍王(ぜんによりうわう)、此の池に通ひ給ふ。然れば、此の法の驗(しる)し有(あ)らむとて、現ぜる也。」

と。而る間、俄に空陰(くも)りて、戌亥の方より黑き雲出來(いできた)りて、雨降る事、世界に皆、普(あまね)し。此れに依(より)て、旱魃、止(とどま)りぬ。

 此より後(のち)、天下旱魃の時には、此の大師の流れを受けて、此の法を傳へたる人を以つて、神泉にして此の法を被行(おこなは)るる也。而るに、必ず、雨、降る。其の時に、阿闍梨(あじやり)に勸賞(くわんしやう)を給はる事、定まれる例(れい)也。于今(いまに)絶えずとなむ語り傳へたるとや。

   *]

 雨乞ひにも弘法大師にも關係はないけれど、この話を讀むと「四不語錄」にある蜥蜴(とかげ)の話を思ひ出す。或人が山中で二尺ばかりの蜥蜴が走り出て切株に上るのを見た。普通の蜥蜴とは樣子が違ふので、立寄つてよく見ようとしたところ、あたりにゐた山人が止めた。この蜥蜴が切株に上つて四方を見渡せば、忽ち雷鳴暴雨となる、別にこの點が龍のやうに天上するといふのでもなし、時として雷鳴のないこともあるが、うつかりこの蟲を驚かすと、雷に打たれる者が多い、だからこの蟲が出たら立ち退いて構はぬやうにするのだ、といふのである。それから道を急いで漸く目的地に達すると同時に、恐ろしい迅雷驟雨となつた。蜥蜴が雨を呼ぶか、雨を豫知して切株に上るか、いづれにしてもかういふ動物が天候の變化に敏感であるのは事實であらう。

[やぶちゃん注:既に注したが、「四不語錄」は和書で、加賀藩士で国学者であった浅香久敬(きゅうけい 享保一二(一七二七)年~明暦三(一六五七)年)著。正徳六(一七一六)年板行。私は所持しないので、原典は示せない。]

 弘法大師の話に守敏と法力を競ふ傳説がある。先づ守敏が雨を禱つたところ、七日の間に多少降ることは降つたが、僅かに京中を潤しただけで、それ以外に及ばなかつた。更に弘法大師をして神泉苑に請雨經の法を修せしめた時、七日たつても遂に雨が降らぬ。大師これを怪しみ、ひそかに定(ぢやう)に入つて見ると、守敏が呪力を以て諸龍を悉く水瓶に狩り籠めてゐるためとわかつた。倂し北天竺の無熱池の龍王はこれに漏れてゐるので、修法二日の延期を乞ひ、遂にに沛然たる大雨を降らすことが出來た。「負腹の守敏も降らす旱かな」といふ蕪村の句は、この事を詠んだのである。弘法大師には修圓僧都と法力を競ひ、修圓が火を用ゐずして栗を煑るのを妨げる話が「今昔物語」に出てゐる。そんなことが雨乞ひの方に附合されて、だんだん話が大きくなつたものかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「守敏」(生没年不詳)は平安前期の僧。出自不詳。大和国石淵寺の勤操らに三論・法相を学び、真言密教にも通じた。弘仁一四(八二三)年に嵯峨天皇から空海に東寺が、守敏に西寺が与えられたが、空海と守敏とは何事にも対立していたとされ、ここに出る翌年の旱魃の際の神泉苑での雨乞いの儀式に於いて、空海に敗れたことに怒り、彼に矢を放ったが、地蔵菩薩に阻まれたと伝わる(これにちなみ現在、羅城門跡の傍らに「矢取地蔵」が祀られている)。同じくして西寺も寂れていったとされる(以上はウィキの「守敏」に拠った)。本文で出る後の「修圓」(「しゆゑん」と読める)は発音が酷似しており、咒合戦の様相からも同一人物である可能性が高いようにも思われる。

 前の守敏の話は先に示した「今昔物語集」の「卷第十四」の「弘法大師修請雨經法降雨語第四十一」の変形譚の一つで、例えば「太平記」の「卷第十二」の「神泉苑(しんぜんゑん)の事」(濁音はママ)などに出る。「太平記」のそれ(旧事をする記すシークエンス)を(かなり長い)、以下に諸本を参考にオリジナルに改変した形で示す。

   *

兵革(へいかく)の後(のち)、妖氣(えうき)猶(なほ)禍を示す。其の禍ひを消すには眞言祕密の效驗にしくはなしとて、にはかに神泉苑をぞ修造せられける。

 かの神泉園と申すは、大内(だいだい)始めて成りし時、周の文王の靈囿(れいいう[やぶちゃん注:禽獣を放って養う神聖な園その)。])、方(はう)八(はち)町に築(つ)かれたりし園囿也。その後、桓武の御世に、始めて朱雀門(しゆしやくもん)の東西に二ちの寺を建てらる。左をば名東寺と名づけ、右をば西寺(さいじ)と號す。東寺には高野大師、胎藏界の七百(しちひやく)餘尊を安じ、金輪(こんりん)の寶祚(ほうそ)を守る。西寺には南都の守敏僧都(しゆびんそうづ)、金剛界の五百餘尊を顯はして、玉體の長久を祈らる。かかりしところに、桓武の御宇、延曆二十三年春の頃、弘法大師、求法のために御渡唐(ごとたう)ありけり。その間、守敏僧都一人、龍顏(りようがん)にたてまつり、朝夕、加持をいたされける。ある時、帝、御手水(おんてうづ)を召されけるが、水(みづ)氷(こほつ)てあまりにつめたかりける程に、しばしとさしおきたまひたりけるを、守敏、御手に向つて火の印(いん)を結び給ひけるあひだ、氷水(ひようすい)忽ちに解けて沸(わ)ける湯の如くなり。帝、御覽ぜられて、あまりに不思議におぼしめされければ、わざと火鉢に炭を多くおこさせて、障子を立て囘(まは)し、火氣を内に籠められたれば、臘裏(らふり[やぶちゃん注:十二月の内。])の風光、あたかも春三月の如くなり。帝、御顏(ぎよがん)の汗を押し拭(のご)はせたまひて、

「この火を消さばや。」

と仰せられければ、守敏、また火に向つて水(すい)の印(いん)をぞ結び給ひける。これによつて爐火(ろくわ)、忽ちに消えて空(むな)しく冷灰(れいくわい)に成りにければ、寒氣、膚(はだへ)を侵(をか)し、五體に水をそそくが如し。これより後(のち)、守敏、かやうの奇特(きどく)・不思議を顯はす事、神變(じんぺん)を得るが如し。かかりしかば、帝、これを歸依・渇仰(かつがう)したまへる事、尋常(よのつめ)ならず。かかりけるところに、弘法大師、御歸朝あり。すなはち、參内しやまふ。帝、異朝の事ども御尋ねあつて後、守敏僧都の、この間(あひだ)、樣々(さまざま)なりつる奇特どもをぞ御物語ありける。大師、これを聞こしめし、

「『馬鳴(めみやう)、帷(とばり)をかかぐれば、鬼神(きしん)去り口を閉ぢ、栴檀(せんだん)塔を禮(らい)すれば、支提(しだい)、破れて尸(かばね)を顯はす』と申す事候へば、空海があらんずる處にて、守敏、よもさやうの奇特(きどく)をば顯はし候はじ。」

とぞ欺(あざむ)かれける。帝、

「さらば兩人の效驗(かうげん)を施こさせて威德の勝劣を御覽ぜられん。」

とおぼしめして、ある時、大師、御參内有りけるを、かたはらに奉隱し置きたてまつり、守敏、敕に應じて御前(おんまへ)に候(こう)す。時に帝、湯藥(たうやく)をまゐりけるが、建盞(けんざん)をさしおかせたまひて、

「あまりにこの水つめたく覺ゆ)る。例のやうに加持(かぢ)して暖められ候へかし。」

とぞ仰せられける。守敏、

「仔細(しさい)候はじ。」

とて、建盞(けんざん)に向つて火の印を結び、加持せられけれども、水、あへて湯に成らず。帝、

「こは、いかなる不思議ぞや。」

と仰せられ、左右に目くはしありければ、内侍典侍(ないしすけ)なる者、わざと熱く沸き返りたる湯をついで參りたり。帝、また、湯を立てさせてまゐらんとしたまひけるが、また、建盞をさしおかせたまふ。

「これはあまりに熱くて、手にもとられず。」

と仰られければ、守敏、前(さき)にもこりず、また、建盞に向つて水の印を結びたりけれども、湯、あへて醒めず、なほ、建盞の内にて沸き返へる。守敏、前後の不覺に色を失ひ、氣損じたまへるところに、大師、そばなる障子の内より御出(ぎよしゆつ)あつて、

「いかに守敏、空海これにありとは存知せられ候はざりけるか。星の光(ひかり)は朝の日に消え、螢の火は曉(あかつき)の月に隱る。」

とぞ笑はれける。守敏、大(おほ)きにこれに恥ぢて、欝陶(うつたう)を心中に插(はさ)み、嗔恚(しんい)を氣上(きじやう)隱し、退出せられけり。

 それより守敏、君を恨み申す憤り、骨髓に入つて深かかりければ、天下に大旱魃(だいかんばつ)をやりて、四海(しかい)の民を一人(いちにん)も無く飢渇(けかち)にあはせんと思ひて、一大三千界(いちだいさんぜんかい)の中(うち)にあるところの龍神どもを捕へて、わづかなる水瓶(すいびん)の内に押し籠(こ)めてぞ置きたりける。

 これによつて孟夏(まうか)三月の間、雨降る事無くして、農民、耕作を勤めず。天下の愁(うれへ)一人(いちじん)の罪にぞ歸(き)しける。

 君、遙かに天災の民に害ある事を愁へおぼしめして、弘法大師を召し請じて、雨の祈りをぞ仰せ付けらる。大師、敕を承つて、まづ一七日(ひとなぬか)の間、定(ぢやう)に入り、明らかに三千界の中(うち)を御覽ずるに、内海(ないかい)・外海(げかい)の龍神ども、ことごとく守敏の呪力を以つて、水瓶(すゐびん)の中(うち)に驅(か)り籠めて、雨を降らすべき龍神、無かりけり。ただし、北天竺(ほくてんじく)の境(さかひ)、大雪山(だいせつせん)の北に無熱池(むねつち)といふ池(いけ)の善女龍王(ぜんによりうわう)、ひとり、守敏より上位の薩埵(さつた)にておはしましける。大師、定(ぢやう)より出でて、この由(よし)を奏聞(そうもん)ありければ、にはかに大内(だいだい)の前に池を掘らせ、淸涼(せいりやう)の水を湛へて、龍王をぞ勸請したまひける。時に、かの善女龍王、金色(こんじき)の八寸(はつすん)の龍に現(げん)じて、長(たけ)九尺(くしやく)ばかりの蛇(くちなは)の頂(いただき)に乘つて、この池に來たりたまふ。すなはち、この由を奏す。公家、殊に敬嘆せさせたまひて、和氣眞綱(わけのまつな)を敕使として、御幣・種々(しゆじゆ)の物供(ぶつく)を以つて、龍王を祭らせらる。

 その後(のち)、濕雲(しふうん)、油然(ゆぜん)として雨を降らす事、國土にあまねし。三日の間、をやみ無くして、災旱(さいかん)の憂へ、永く消えぬ。眞言の道を崇(あが)めらるる事、これより、いよいよ盛んなり。

 守敏、なほ、腹を立てて、

「さらば、弘法大師を調伏したてまつらん。」

と思ひて、西寺に引つ籠り、三角(さんかく)の壇を構へ、本尊を北向きに立てて、軍荼利夜叉(ぐだりやしや)の法をぞ行かれける。

 大師、この由を聞きたまひて、すなはち、東寺に爐壇(ろだん)を構へ、大威德明王の法を修(しゆ)したまふ。

 兩人、いづれも德行薫修(とくぎやうくんじゆ)の尊宿(そんしゆく)なりしかば、二尊(にそん)の射たまひける流鏑矢(かぶらや)、空中に會ひて中(なか)に落つる事、鳴り休(や)む隙(ひま)も無かりけり。

 ここに大師、守敏を油斷させんとおぼしめして、にはかに御入滅(ごにふめつ)の由を披露せられければ、緇素(しそ)悲歎の淚を流して、貴賤、哀慟の聲を呑む。守敏、これを聞き、

「法威(ほふゐ)、成就(じやうじゆ)しぬ。」

と悦びを成し、すなはち、壇を破られけり。

 この時、守敏、にはかに、目くれ、鼻血(はなぢ)垂(た)つて、心身惱亂せられけるが、佛壇の前に倒れ伏して、遂に無はかな成りにけり。

 「呪咀諸毒藥(じゆそしよどくやく)、還着於本人(げんぢやくおほんにん)」と説(とき)たまふ金言(きんげん)、誠(まこと)に驗(しるし)有つて、不思議なりし效驗(かうげん)なり。

 これよりして東寺は繁昌し、西寺、滅亡す。大師、茅(ちがや)といふ草を結んで、龍の形(かたち)に作つて壇上に立てて行(おこな)はせたまひける。法成就の後(のち)、聖衆(しやうじゆ)を送りたてまつりたまひけるに、眞(まこと)の善女龍王をば、やがて神泉園に留めたてまつて、

「龍華下生三會(りゆうげげしやうさんゑ)の曉(あかつき)までこの國を守りわが法を治(おさ)め給へ。」

と、御契約(おんけいやく)ありければ、今まで迹(あと)を留(と)めて、かの池に住みたまふ。かの茅(ちがや)の龍王は大龍に成つて、無熱池へ飛び歸りたまふとも言ひ、あるいは)言はく、聖衆(しやうじゆ)とともに空(そら)に昇つて、東を指して飛び去り、尾張國熱田(あつた)の宮(みや)に留(とど)まりたまふとも言ふ説あり。佛法東漸(とうぜん)の先兆(せんてう)、東海鎭護(とうかいちんご)の奇瑞(きずい)なるにや。

 大師(だいしの)言はく、

「もし、この龍王、他界(たかい)に移らば、池、淺く、水、少なくして、國、荒れ、世、とぼしからん。その時は、わが門徒、祈請を加へ、龍王を請じ留(とど)めたてまつり、國を助くべし。」

とのたまへり。

 今は、水淺く、池、あせたり。おそらくは、龍王、他界に移りたまへるか。しかれども、請雨經(しやううぎやう)の法、行はるごとに、掲焉(けちえん)の靈驗(れいげん)、なほ絶えず、いまだ、國を捨てたまはざるに似たり。風雨、時に叶ふ、感應奇特の靈池なり。代々の帝、これを崇(あが)め、家々の賢臣、これを敬(うやま)ふ。もし、旱魃起る時は、まづ、池を淨(きよ)む。しかるを後鳥羽法皇、おりさせたまひて後[やぶちゃん注:退位遊ばされてからこのかた。]、建保(けんぽう)の頃より、この所、すたれ、荊棘(けいぎよく)、路(みち)を閉づるのみならず、猪鹿(ちよろく)の害蛇(かいじや)、放たれ、鏑(かぶら)の音、護法(ごほふ)の聽(き)きを驚かし、飛蹄(ひてい)の響き、冥衆(みやうしゆ)の心を騷がす。心ある人、恐れ歎かずといふ事無し。承久の亂の後、故武州禪門[やぶちゃん注:北條泰時。]、ひそかにこの事を悲しみ、築垣(ついがき)を高(たこ)うし、門を堅め、雜穢(ざふゑ[やぶちゃん注:不浄の者や対象(の立ち入り)。])を止(と)めらる。その後(のち)、涼燠(りやういく[やぶちゃん注:元来は寒気と暑気であるが、転じて季の移り変わり・年月の謂いとなった。])、しばしば改まつて、門牆(もんしやう)やうやく全(まつた)からず[やぶちゃん注:その禁足が全く機能しなくなってしまった]。不淨汚穢(ふじやうわゑ)の男女(なんによ)、出入(しゆつにふ)制止すること無く、牛馬、水草(すいさう)を求むる、往來、憚ること無し。定めて知(し)んぬ。龍神、快(こころよ)まらざるか。早く修理を加えへ、崇(あが)め重(おも)んじたまふべし。この所を崇めば、國土、治まるべきなり。

   *

弘法の台詞に出る『馬鳴(めみやう)、帷(とばり)をかかぐれば、鬼神(きしん)去り口を閉ぢ、栴檀(せんだん)塔を禮(らい)すれば、支提(しだい)、破れて尸(かばね)を顯はす』は、馬鳴(元はバラモンの学僧として議論を好み、当初は仏教を論難していたが、論破されて舌を切って謝罪しようとし、諭されて仏教に帰依し、名僧となったとされる)が、相手を美事に論難するバラモン僧が鬼神の助言を得ていることを見破って、これと対決して遂に帳の中でその秘事の真相を暴いて勝ったという逸話を指し、後半は月支の王が七宝を鏤めた塔を見出し、それを礼拝した途端に崩れ去ったのを、王は自身が王位を失う凶兆と思ったが、ある人の曰く、それは王の福徳が偉大であったが故に、自ずから崩れたのだと教え、その塔の後を掘ると、外道の比丘尼の木乃伊(ミイラ)が出土したという説話に基づく謂い(ここの注は一九八〇年刊の「新潮古典集成」の「太平記 二」の山下宏明氏の注を参考にして記した)。

 後の呪力合戦は「今昔物語集」の先に示した前話「巻第十四」の「弘法大師挑修圓僧都語第四十」(弘法大師修圓(しゆゑん)僧都(そうづ)と挑(いど)む語(こと)第四十)である。先と同じ仕儀で以下に示す。入れ込んだ注は小学館の日本古典全集版の頭注を参考にさせて貰った。

   *

今は昔、嵯峨の天皇の御代に、弘法大師と申す人、おはしましけり。僧都の位にして、天皇の護持僧にてなむおはしましける。亦、山階寺(やましなでら)の修圓僧都(しゆゑんさうづ)と云ふ人、ましましけり。其れも同じく護持僧にて、共に候(さむら)ひ給ひぬる。此の二人の僧都、共に止事無(やむごとな)き人にて、天皇、分(わ)き思食(おぼしめ)す事、無かりけり。

 而るに、弘法大師は唐に渡りて、正(まさ)しく眞言教を受け傳へて、弘(ひろ)め行ひ給ひけり。修圓僧都は心廣くして、密教を深く悟りて、行法を修(しゆ)す。

 而る間、修圓僧都、天皇の御前に候ふ間、大(おほき)なる生栗(なまぐり)有り。天皇、

「此れ。令煮(にしめ)て持ちて參れ。」

と仰せ給へば、人、取りて行くを見て、僧都の云はく、

「人間の火を以て不煮(に)ずと云ふとも、法(ほふ)の力を以つて煮候(さむらひ)なむかし。」

と云ふ。天皇、此れを聞き給ひて、

「極めて貴(たふと)き事也。速かに煮るべし。」

とて、塗りたる物の蓋(ふた)に栗を入れて、僧都の前に置きつ。僧都、

「然(さ)れば、試みに煮候はむ。」

とて、加持せらるるに、糸(いと)吉(よ)く煮られたり。天皇、此れを御覽じて、限無(かぎな)く貴(たふと)むで、卽ち、聞(きこ)し食(め)すに、其の味はひ、他(ほか)に異(こと)也。此如(かくのごと)く爲(す)る事、度々(どど)に成りぬ。

 其の後(のち)、大師、參り給へるに、天皇の此の事を語らせ給ひて、貴ばせ給ふ事、限無し。大師、此れを聞きて、申し給ふ樣(やう)、

「此の事、實(まこと)に貴し。而るに、己(おの)れ候はむ時に、彼(かれ)を召して令煮(にし)め給ふべし。己れは隱れて試み候はむ。」

とて隱れ居(ゐ)ぬ。其の後(のち)、僧都を召して、例の如く栗を召して令煮(しにめ)給へば、僧都、前に置きて加持するに、此の度(たび)は不被煮(られ)ず。僧都、力を出だして、返々(かへすがへ)す加持すと云へども、前(さき)の如く被煮(にら)るゝ事無し。其の時に、僧都、奇異の思ひを成して、

「此れは何(いか)なる事ぞ。」

と思ふ程に、大師、喬(そば)より出で給へり。僧都、此れを見て、

「然(さて)は、此の人の抑へける故也(なり)。」

と知りて、嫉妬の心、忽ちに發(おこ)りて立ちぬ。

 其の後(のち)、二人の僧都、極めて中惡(なかあし)く成りて、互ひに、

「死々(しねしね)。」

と呪詛(じゆしよ)しけり。此の祈は、互に止(とど)めてむ[やぶちゃん注:とどめを刺してやろう。]とてなむ、延(の)べつつ行ひける。

 其の時に、弘法大師、謀(はかりごと)を成そて、弟子共を市に遣して、

「葬送の物具共を買ふ也。」

と云はせむとて、令買(かはし)む。

「空海僧都は早く失せ給へり。葬送の物具共、買ふ也。」

と教へて云はしむ。修圓僧都の弟子、此れを聞きて、喜びて走り行きて、師の僧都に此の由を告ぐ。僧都、此れを聞きて喜びて、

「慥かに聞きつや。」

と問ふに、弟子、

「慥かに承はりて告げ申す也。」

と答ふ。僧都、

「此れ、他(ほか)に非ず、我が呪詛(じゆしよ)しつる祈りの叶ひぬる也(なり)。」

と思ひて、其の祈りの法を結願(けちぐわん)しつ。

 其の時に、弘法大師、人を以つて、竊かに修圓僧都の許(もと)に、

「其の祈りの法の結願しつや。」

と問はす。使ひ、返り來たりて云く、

「僧都、『我が呪詛(じゆしよ)しつる驗(しるし)の叶ひぬる也(なり)』とて、修圓は喜びて、今朝(けさ)、結願し候(さむらひ)にけり。」

と。其の時に、大師、切(しき)りに切(しき)りて、其の祈りの法を行ひ給ひければ、修圓僧都、俄かに失せにけり。

 其の後(のち)、大師、心に思はく、

「我れ、此れを呪詛し殺しつ。今は心安し。但し、年來(としごろ)、我れに挑(いど)み競(きは)ひて勝(すぐ)るゝ時も有りつ、劣る時も有りて、年來を過ぐしつるは、此れ、必ず只人(ただびと)には非(あら)じ。我れ、此れを知らむ。」

と思ひて、後朝(ごてう)の法[やぶちゃん注:反魂(はんごん)の法。死者蘇生の秘法であろう。]を行ひ給ふに、大壇(だいだん)の上に軍荼利明王、蹈□て[やぶちゃん注:欠字。「ふみはだかりて」か。「仁王立ち」になって。]立ち給へり。其の時に、大師、

「然(さ)ればこそ、此れは只人に非(あら)ぬ者也けり。」

と云ひて止(とどまり)ぬ。

 然(そ)れを思ふに、菩薩の此(かか)る事を行ひ給ふは、行く前(さき)の人の惡行を止(と)どめむが爲也となむ語り傳へたるとや。

   *]

 玄宗皇帝の時代に大旱があり、聖善寺に居る天竺の僧無畏なる者がよく龍を呼び雨を致すといふ評判であつたので、特に使者を遣はして請雨の事を命ぜられた。無畏は、今下手に龍を呼ぶと、必ず烈風雷を起すことになるから、さういふことはなさらぬ方がよろしうございませう、といふ意見であつたが、玄宗から重ねて使者があつて、現に久しい炎暑で人は皆苦しんで居る、暴風疾雷もよからうではないか、と云はれたので、已むを碍ず詔を奉ずることになつた。有司の方では型の如く祭壇を設け、像とか幡幢とかいふものを列ねたが、無畏は斯の如きものは雨を致すに足らずとし、悉く撤去せしめた。さうして鉢に一杯の水を盛り、小刀を以て搔き𢌞しながら、頻りに呪文を唱へる。暫くして指ぐらゐの太さの龍の形をした者が、水の中から首を出したり引込めたりしはじめた無畏は依然として呪文を唱へ、搔き𢌞すことを續けてゐるうちに、鉢の中から烟のやうな白氣が立ち騰り、それが次第に伸びて講堂の外にたなびくやうになる。無畏は使者に向ひ、速かにお歸り下さい、雨が參ります、と云つた。使者は直ちに馬を飛ばして去る。振り返つて見れば、白氣は已に空の半ばに到り、一條の素絹の如くであつた。雷雨は使者の後から容赦なく追迫つて、路傍の大樹の根こぎになるものも少くない。まことに凄まじい有樣になつたが、使者は一散に馳せ歸り、ずぶ濡れのまま御前に出て復奏した。

[やぶちゃん注:「玄宗皇帝の時代」玄宗(六八五年~七六二年)の在位は七一二年から七五六年。

「無畏」善無畏(ぜんむい/シュバカラシンハ 六三七年~七三五年)はインド・摩伽陀国(マガダこく)の国王で訳経僧。「輸波迦羅(すばから)」とも記される。参照したウィキの「善無畏」によれば、『中部インドの貴族家庭に生まれる。幼年より神童と称され、摩伽陀国の国王となる。兄弟との戦争平定後』に『出家、ナーランダー寺院にて達摩掬多(だるまきくた、ダルマグプタ)に師事し』、『顕密両教を兼修』した。七一六年、玄宗統治下の唐の長安に赴き、「虚空蔵求聞持法」や「大毘盧遮那成仏神変加持経(だいびるしゃなじょうぶつじんべんかじきょう)」(略称「大日経」)といった経典などを漢訳した。『同時代の人物には金剛智、不空、一行、恵果等がいる。中国密教では三蔵法師の一人でもある事から「善無畏三蔵」と尊称し、日本の真言宗でも「真言八祖」とは別の系統である、「伝持の八祖」では第五祖に配される』。なお、『日本書紀などの公的な記録には無いが』、本邦への渡来伝承があり、『布教のために来日した善無畏が、』現在の福岡県糟屋郡篠栗町若杉山の『道中にグーズ(大亀)に出会い山頂まで運んでもらう。善無畏は感謝して八大龍王の儀式を行なうとグーズは岩と化した。これが現在グーズ岩と呼ばれる大岩として残存しているという』(本章に出る龍王が関連するところが面白い)。養老元(七一七)年には、現在の『京丹後市の縁城寺に千手観音像を安置し』、翌二年には、現在の富山県の『南砺市の安居寺を』(『後に行基が伽藍を造営』)、奈良県『橿原市の久米寺に仏舎利と大日経を納め』、『宝塔を建立』、養老四年には現在の『横浜市の』、『後に弘明寺となる地に結界を張って浄域とした』(ここも『後に行基が伽藍を造営』)という。彼の玄宗との関連は中文であるが、玄宗朝翻經三藏善無畏贈鴻臚卿行狀(PDF)があり、「創価教学研究室(赤鬼のブログ)」の日蓮の記した「善無畏抄」(建治元(一二七五)年著。但し、他のサイトではそれ以前と記すものもある)について、「善無畏抄  第一章 善無畏の事跡を挙げる」で略述ながら、この話が出ているので参照されたい(但し、そこで日蓮は堕獄した善無畏を素材に批判的に語って「法華経」の功徳を語る内容である)。柴田が引いた内容(彼は珍しく典拠を示していない)は「太平廣記」所収の、「雨」にある「無畏三藏」であろう(そこでは「柳氏史」を典拠とする)。以下に中文サイトより例の仕儀で示す。

   *

玄宗嘗幸東都、大旱。聖善寺竺乾國三藏僧無畏善召龍致雨術、上遣力士疾召請雨。奏云、「今旱數當然、召龍必興烈風雷雨、適足暴物、不可爲之。」。上彊之曰、「人苦暑病久矣、雖暴風疾雷、亦足快意。」。不得已、乃奉詔。有司陳請雨之具、幡幢像設甚備。笑曰、「斯不足以致雨。」。悉命撤之。獨盛一鉢水。以小刀子攪旋之、胡言數百祝之。須臾有龍、狀類其大指、赤色。首撤水上。俄復沒於鉢中。復以刀攪呪之三。頃之。白氣自鉢中興。如爐煙、徑上數尺、稍稍引出講堂外。謂力士曰、「亟去、雨至矣。」。力士馳去、還顧白氣、旋繞亘空、若一匹素。既而昏霾大風、震雷而雨。力士纔及天津之南、風雨亦隨馬而至、天衢大樹多拔。力士比復奏、衣盡沾濕。

   *

この「力士」はかの楊貴妃を縊り殺した、玄宗の腹心として権勢を揮った宦官高力士(六八四年~七六二年:安史の乱後に失脚)のことであろう。]

 弘法大師のは眞言祕密の法だから、全く外聞の窺知することを許さぬが、無畏のは或程度形に現れてゐる。葛湯を煉るやうな恰好をしてゐる手許から、一道の白氣が立ち騰り、講堂の外にたなびき出すと、忽ち雷鳴驟雨となる順序が頗る愉快である。

[やぶちゃん注:「窺知」(きち)は窺(うかが)い知ること。

「葛湯」「くずゆ」。]

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