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2017/03/04

柴田宵曲 妖異博物館 「錢降る」

 

 錢降る

 

 錢が降ると云つたところで、雨のやうに天から降つて來るわけではない。いづれも屋内の話である。

 寛政か享和頃の事らしい。出羽の仙北郡齋内村の百姓嘉兵衞といふ者の家に、錢の降つたことがあつた。それより三年ほど前に、嘉兵衞の女房が、不思議な老翁から袋を與へられる夢を見た。目がさめると枕許に六寸ほどの木綿袋があつて、中に錢が八十文入つてゐる。神樣から授かつたものと思つて大切にして置いたが、或時老母が外出するのに、折惡しく錢がないので、袋の錢を半分ばかり出した。子供が錢を欲しいと云つた時にも、その袋から與へた。然るに殘つた錢を袋に入れて寺に參り、歸りにその袋を落してしまつた。こゝにまた夢の一條がある。川邊で六七人の僧に逢ひ、勸められるまゝに舟に乘ると、今度は唄をうたへといふ。お前は正直者だからと云つて小さな袋をくれた。目がさめれば枕許に袋があり、中に十八文入つてゐた。今度は失ふまいと箱に入れて置いたが、この事が世間に傳はつたらしく、見せて貰ひたいといふ者がある。隱す事でもないので、箱を開くと錢が三文殖えてゐた。その頃から錢の降ることがはじまつて、二文三文づつ晝夜絶えぬ。これを聞いて見に來る者もだんだん多く、錢も二貫文に達した。嘉兵衞の妻は無慾な性質だから、その錢で米を買ひ、酒を造つて來る者にふるまふ。それが神佛の意に叶ふらしく、錢の降ること愈々多く、日にまし家はゆたかになつたが、いつしかその事は止んだ。

[やぶちゃん注:「寛政か享和頃」一七八九年~一八〇四年。

「出羽の仙北郡齋内村」現在の秋田県大仙市太田町(おおたまち)斉内(さいない)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「二貫文」当時(江戸後期)のそれは一両の五分の一で、現在の一万円ほどには相当する。]

 以上は「眞佐喜のかつら」の記すところであるが、天明八年に秋田へ行つた津村淙庵も「雪のふる道」といふ紀行にこの話を書いてゐる。記述は「雪のふる道」の方が稍々委しく、「錢は家の天井よりふる、人つどひてうたひのゝしりにぎはしきをりは、かならずおほくふるといへり、その錢とて人のみせしはうらおもてとぎたてたるやうにひかりて、にてきりかけたるごとき跡ひまなくつきてありし」などとある

[やぶちゃん注:「眞佐喜のかつら」は所持しないので原典を示せぬ。

「天明八年」一七八八年。

「雪のふる道」「譚海」の作者津村淙庵(そうあん 元文元(一七三六)年~文化三(一八〇六)年:京都生まれであったが江戸の伝馬町に移り住み、秋田久保田藩御用達を務めた町人で国学者。名は教定、字は正恭)の紀行であるが、所持しないので示せぬ。]

 その淙庵が「譚海」に書いてゐるのは、寶曆五年正月二日とあるから、時代は少し前である。大黑天に槌で頭を打たれる夢を見たら、七種の粥を祝ふ時に、疊の上に錢が五六文落ちてゐた。後には圍爐裏の灰にまじつてゐることもあれば、土藏の中にあることもある。日々どこから持つて來るといふでもなしに、家の中のそここゝにあるので、錢の降る音がするから、行つて見れば必ず錢が落ちてゐる。聞き傳へて見に行く者が多く、國守から檢使を付けて糺されたが、決して僞りではなかつた。かういふ事が五六箇月も續き、拾ひ集めた錢は七十貫文に及んだ。その後主人が亡くなつて、錢の降ることも止んださうである。

[やぶちゃん注:「七十貫文」七両で今の三十五万円相当にはなろう。

 以上は、「譚海 卷之九」の末尾にある一条、羽州仙北郡(原典は前の同じ場所での出来事の記載の続きで『同所』とある)「家士の知行所肝煎宅錢をふらす事」である。以下に示す。歴史的仮名遣の読みは私の推定である。なお、「肝煎」は「きもいり」で名主・庄屋の異名。

   *

○秋田家士後藤庄五郎、知行所にて見聞く次第筆記。天明八未の十月初(はじめ)湯治の御暇(おんいとま)とて、仙北郡田澤村へ參候節、知行所同郡齋内村にて、肝煎所(きもいりどころ)に止宿致候所、當夏中(なつうち)近郷にて錢の降ふり)候事聞及(ききおよび)候が、實事(じつじ)に候やと尋(たづね)候得(さうらえ)ば、成程當所嘉兵衞と申(まうす)御百姓の家にて、今以(いまもつて)降(ふり)候。近處に候ゆゑ參(まゐり)て見可ㇾ申(みまうすべし)と申候得ば、肝煎隱居案内にて、嘉兵衞家へ參候へば、嘉平は他行(たぎやう)にて女房居(をり)候。委敷(くはしく)尋候處、五ケ年以前五月、或夜の夢に、老人來(きたり)て汝に小袋一つ授(さづけ)候間、かこ地[やぶちゃん注:どこそこの場所の謂いであろう。一般には基点からかなり離れた場所を指すのに用いるが、ここは寧ろ、当該地実名を伏せた意識的表現であろう。]へ參見(まひりみ)候やうに夢想有(あり)、翌朝もしやとぞんじ、かこ地へ參候處、果して木綿のはぬひ侯五六寸の古小袋のうちへ、錢八十文入(いれ)在ㇾ之(これあり)候ゆゑ、ふしぎにぞんじひろひ持歸差置(もちかへりさしおき)候所、其後姑(しうとめ)花番樂(はなばんがく)[やぶちゃん注:秋田・山形地方の鎮守社等で行われる山伏神楽(かぐら)の一種で、多くは盆から秋にかけて行われ、能の古態を残しているとされるもの。]見に參度(まゐりたき)由(よし)申候得共、折節錢無ㇾ之故(これなきゆゑ)、右錢の内(うち)四十文與(あたへ)候て遣し侯。又盆中(ぼんうち)世悴(せがれ)共(ども)踊(おどり)見物に參度願候故、是又右の錢の内廿文あたへ遣(つかはせ)候て、其後我等寺參(てらまゐり)の節殘り廿文賽錢(さいせん)にいたすべく、小袋へ入(いれ)かけ持參申候所、子供をいだき參候間(あひだ)、途中にて持參の小袋取落(とりおとし)、甚(はなはだ)殘念に存居(ぞんじをり)候處、當(たう)二月七日、又々夢に御出家六七人舟に乘(のり)、宮衣(きうえ)を召(めし)かぶりものなども召(めし)候御出家、我等ども是非々々船へ參候やうと申され候て、手を御取(おとり)候て無ㇾ據(よんどころなく)乘候へば、我等にうたひをうたひ候やうに御申候へ共、謠(うたひ)はぞんじ不ㇾ申といろいろ申候得共、是非謠候樣に御申候ゆゑ、無ㇾ據諷(うたひ)候得ば、汝はかねて正直成(なる)ものゆゑ、なんじならでさづけ候もの無ㇾ之故、此小袋を授(さづけ)候とて、木綿の小袋玉(たま)はり候。又々諷候やうに御申候て諷候せつ、夫(をつと)嘉兵衞をどろき目をさまし、何を叫(さけび)候ぞとてゆり起され、目をさまし右の物語いたし候ところに、既に夜も明(あけ)候て起(おき)候節、枕元に小袋萱つ在ㇾ之(これあり)、内に錢十八文入候故、何ともふしぎに存(ぞんじ)、夫(をつと)に願ひ箱を造(つくり)もらひ候て入貯置(いれためおき)、一向に沙汰不ㇾ仕(つまかつらず)候へ共、自然と承(うけたまはり)候や、近所の者參(まゐり)見度(みたく)願(ねがひ)候ゆゑ、箱をひらき候へば、箱の内に二三錢餘計有ㇾ之(これあり)候。其後家内諸所へ二三錢づつ降申(ふりまうし)候て、近郷よりも承及(うけたまはりおよび)候て、日々見物に參候故、濁酒(にごりざけ)をつくり振𢌞(ふるまひ)候て、打寄(うちより)候もの謠などうたひ、賑數(にぎはしき)節は一入(ひとしほ)餘計ふり申(まうし)候。春比(ごろ)群集(ぎんじゆ)し見物に御座候、當所御代官山崎甚兵衞樣も夏中御𢌞(おまはり)在ㇾ之(これある)砌(みぎり)、御出御覽被ㇾ成(おひでごらんなられ)候。凡(およそ)是迄三貫餘(あまり)も降申候。兼て困窮にて田地漸(やうやう)七百刈作(かりつくり)夏扶持貯(なつぶちたくはへ)も無ㇾ之候へ共、是迄如何樣(いかやう)にも取續(とりつづき)、濁酒四五斗(と)も造(つくり)、參(まゐり)候人々に振𢌞(ふるまひ)候由、女房物語いたし、拙者へも濁酒を振𢌞、下人迄も振𢌞候て、うたひ候やうに申候間、下人共謠候得ば、暫時の内三錢降(ふり)候。取上(とりあげ)見申候得ば、降候節隨分曖(あたたか)にて、或は文錢永樂錢など有ㇾ之、多分摺磨(すりみがき)にて裏表へ色々疵(きづ)付(つき)申候。嘉兵衞家者(は)至(いたつ)て茅屋(ばうをく)にて、雪國などにて、内も闇(くら)く候故、降候所は見得不ㇾ申候へ共、拙者膝元へも降落(ふりおち)候故、二錢迄請(こひ)候へば、外へは一向遣(つかひ)不ㇾ申候へ共、御地頭の事故(ゆゑ)指上(さしあげ)可ㇾ申(まうすべし)よしにてもらひ持參(もちまゐり)申候。右の女房年の比(ころ)四十近く相見得(あひみえ)、兼て人物よろしく實貞(じつてい)にて、第一姑(しうとめ)へ孝心を盡し、鄰郷(りんがう)ともろしく申(まうし)候よしにて、具(つぶ)さの義(ぎ)爲ㇾ承(うけたまはらせ)候處、舊冬拙者持參候錢、諸所より所望ゆゑ、則便(そくびん)に錢遣呉(つかはしくれ)候やうに申達(まうしたつし)候所、十三文遣(つかはし)候。右錢十文遣可ㇾ申(まうすべく)かぞへ居(をり)候内(うち)、三錢重(かさな)り降(ふり)候故、直(ぢき)に十三文さしつかはし申候由、近來鄰郷より世悴(せがれ)に錢五錢遣(つかはし)右錢と引替呉(ひきかへくれ)候樣(やう)に申達(まうしたつし)候所、右五文手の内へかぞへ相渡候半(あひわたしさふらはん)と、披見(みひらき)候へば六文有ㇾ之(これあり)、又手の内へ三錢降りて都合九文に相成(あひなり)候故、向方(さきかた)へ授(さづか)りし事とぞんじ、九文直(たぢき)に遣申候。近來(ちかごろ)は十四五錢づつ降候事まゝ有ㇾ之由、今以(いまもつて)相替儀(かはるぎ)無ㇾ之(これなし)。猶又ふしぎ成(なる)事有ㇾ之候、當月七日は去(さる)二月の期日故[やぶちゃん注:最初の霊夢が二月七日であったことを指す。]、近所の者招候て心祝可ㇾ仕(つかまつるべく)、濁酒舊冬よりの遣殘(つかひのこ)りへ造添(つくりぞへ)可ㇾ申(まうすべく)、酒桶(さかをけ)の蓋をとり見申候處、酒桶より溢出(あふれいで)申候。去年中より米櫃に米無ㇾ之(こめなし)と存(そんじ)候所に、折々餘計に成(なり)申候事有ㇾ之、其上舊冬俵米壹俵餘計に相成候。是等餘り不思議の事に存候て、誰にも咄(はなし)不ㇾ申候へども、具(つぶ)さに御尋(たづね)故、咄候由(よし)嘉兵衞申候事(まうしさふらふこと)。

   *

文体が美事な準公式の報告書の体裁を整えており、この銭振り現象が事実あったことは最早、疑いない。但し、これが事実あったからと言って、それが超常現象であるとは、言えぬことも言うまでもない。因みに私は、この手のポルタ―・ガイスト的現象は概ね人為(無意識的・意識的詐術双方を含む)をによるものと考えている。]

 錢が降るのとは少し違ふが、「奇異珍事錄」には鼠の運ぶ錢の話がある。安永年間の話といふから、これが一番古い。御數寄屋組頭橫井松伯の祖父に當る西林といふ人が、自分の居間に薄い松板を釣り、神棚としたところ、或夜どこからともなく鼠が錢を銜へて來た。不思議に思つて、そのまゝにして置いたら、鼠ども數疋で毎晩運んで來る。後には板が撓んで危くなつたから、板の端へ釣木やうの木を付けると、それきり來なくなつた。鼠の運んだ錢は所々の佛神に捧げたが、その殘りが今もあると云つて、松伯が懷ろから出して見せた。――この話には夢の一條がない。横井西林は無類の正直者だつたといふやうな事もない。正月にはじまることは「譚海」の話と同じである。

[やぶちゃん注:というより、正月で、前話の夢に出てくる老人は大黒天で、米や酒が超常的に殖え、そこから大黒天の使者に模される後者の鼠に通底していると言った方が私にはしっくりくる気がする。

「御數寄屋組頭」若年寄に属し、殿中の茶礼・茶器などを掌り、数寄屋坊主を統轄した職の主任。

「奇異珍事錄」木室卯雲著。安永七(一七七八)年。以上は同書の「卷之五」の「福鼠」で、国立国会図書館デジタルコレクションの画像ので視認出来る。]

 銀の降る話とは切り離して見るべきであらうが、動物の因によつて「雪窓夜話抄」の話をもう一つ附け加へて置かう。古鐡買の次郎右衞門の妻、乳腫を患つてぶらぶらしてゐたので、向う側に住む七兵衞の娘の七歳になるのを相手に何か話してゐると、七兵衞の家の棟に鴉が一羽來て、頻りに鳴く。その鴉は白い紙を嘴でつゝいてゐたが、やがてその紙が屋根から落ちて來た。次郎右衞門の妻が笑談に、あの鴉が落したのはお金だから、早く行つて拾つておいで、と云つたのを、子供は眞に受けて拾つて來る。ところがその紙に元の字小判一兩が包んであつたのは、不思議といふより外はない。――これまでの話は全部錢であつたが、こゝに至つて小判に出世した。拾ひ主はその小判を賣りたいといふことだつたので、「雪窓夜話抄」の著者上野忠親が買つて保存したものの如くである。この話だけが屋外になつてゐるが、屋根から落ちて來たのだから、降る話にこじつけられぬこともない。

[やぶちゃん注:「元の字小判」元禄小判の別称。元禄八(一六九五)年一〇月から通用開始された一両額面の小判で、江戸時代の金貨としては慶長小判に次ぐもの。参照したウィキの「元禄小判によれば、『表面には鏨(たがね)による茣蓙目が刻まれ、上下に桐紋を囲む扇枠、中央上部に「壹两」下部に「光次(花押)」の極印、裏面は中央に花押、下部の左端に小判師の験極印、吹所の験極印さらに花押の左に「元」字が打印されている』とある。

 以上は、「雪窓夜話抄 上卷」にある「鴉小判を喞(くはへ)て來る事」である。国立国会図書館デジタルコレクションの画像ので視認出来る。]

 

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