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2017/03/08

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 橋姫(2)

 

 さて自分が爰に御話したいと思ふのは、是程馬鹿げた埓も無い話にも、やはり中古以前からの傳統があると云ふ點である。其は今昔物語の卷二十七に、紀遠助と云ふ美濃國の武士、京都からの歸りに近江の勢田橋の上で、婦人に絹で包んだ小さな箱を託せられ、是をば美濃方縣郡唐の郷段の橋の酉詰に居る女に屆けてくれとの賴みであつたのを、うつかり忘れて家まで持つて還り、今に屆けようと思つて居るうちに細君に見咎められ、嫉深い細君は窃かに之を開けて見ると、箱の中には人間の眼球、其他の小部分が毛の附いたまゝむしり取つて入れてあつたので、夫婦とも大に氣味を惡るがり、主人は早速之を段の橋へ持參して行くと、果して婦人が出て居て之を受取り、此箱を開けて見たらしい、憎い人だと言つて凄い顏をして睨んだ。其から病氣になつて還つて程も無く死んだとある。勢田橋は御承知の如く昔から最も通行の多かつた東路の要衝であるが、しかも此橋の西詰には世にも恐しい鬼女が居て、屢〻旅人を劫かしたことは、同じ今昔物語の中にも色々と語り傳ヘられて居る。又神から神へ手紙を送るのに人間の手を借りたと云ふのも、古くからの話である。例へば宇治拾遺の卷十五に、越前の人で毘沙門を信仰する某、不思議な女の手から書狀を貰ひ、山奥に入つて鬼形の者に之を渡して、一生食べても盡きない米一斗を受取つた話があり、三國傳記卷十一には比叡山の僧侶が、日吉二宮の文を愛宕の良勝と云ふ地主の仙人へ持參して福分を授かつた話がある。其話が日本だけに發生したもので無いことは、支那でも酉陽雜俎卷十四に邵敬伯と云ふ人、呉江の神の書翰を託せられて濟河の神の處へ使に行き、寶刀を貰つて歸つた話もあり。まだ其他にも古い處に是に似た話が有つたのを見ても分る。

[やぶちゃん注:「今昔物語の卷二十七に、紀遠助と云ふ美濃國の武士……」これは「今昔物語集」の「巻第二十七」の「美濃國紀遠助値女靈遂死語第廿二」(美濃國紀遠助(きのとほすけ)女(をむな)の靈(りやう)に値(あ)ひて遂に死ぬる語(こと)第廿二」である。以下に示す。複数の所持するものを校合して読み易く書き直した。

   *

 今は昔、長門の前司藤原の孝範と云ふ者、有りき。其れが下總(しもつさ)の權の守と云ひし時に、關白殿に候(さぶらひ)し者にて、美濃の國に有る生津(いくつ)の御庄(みしやう)と云ふ所を預かりて知りけるに、其の御庄に紀の遠助と云ふ者、有りき。

 人、數(あまた)有りける中(なか)に、孝範、此の遠助を仕ひ付けて、東三條殿の長宿直(ながとのゐ)に召し上(のぼ)せたりけるが、其の宿直、畢(は)てにければ、暇(いとま)取らせて返し遣りければ、美濃へ下りけるに、勢田(せた)の橋を渡るに、橋の上に女(をむな)の裾取りたるが立てりければ、遠助、

「怪し。」

と見て過る程に、女の云く、

「彼(あ)れは、何(いづ)ち、御(おは)する人ぞ。」

と。然れば、遠助、馬より下(お)りて、

「美濃へ罷る人也。」

と答ふ。女、

「事付(ことづけ)申さむと思ふは、聞き給ひてむや。」

と云ひければ、遠助、

「申し侍りなむ。」

と答ふ。女、

「糸(いと)喜(うれ)しく宣ひたり。」

と云ひて、懷(ふところ)より小さき箱の絹を以つて裹(つつ)みたるを引き出(いだ)して、

「此の箱、方縣(かたがた)の郡(こほり)[やぶちゃん注:旧岐阜県方県郡(かたがたぐん)。現在の岐阜市の一部であるが、以下の地名や橋の位置は不詳。]の唐(もろこし)の郷(さと)の收(おさめ)の橋の許(もと)に持て御(は)したらば、橋の西の爪(つめ)に女房御(おは)せむとすらむ。其の女房に此れ奉り給へ。」

と云へば、遠助、氣六借(きむつかし)く思(おぼ)えて、

「由無き事請(ことう)けをしてける。」

と思へども、女の樣(さま)の氣怖(けをそろ)しく思(おぼ)えければ、難辭(いなびがた)くて、箱を受け取りて、遠助が云く、

「其の橋の許に御はすらむ女房をば、誰(たれ)とか聞(きこ)ゆる。何(いづ)くに御はする人ぞ。若(も)し不御會(おはしあは)ずは、何(いづ)くをか可尋奉(たづねてたてまつるべ)き。亦、此れをば、誰(た)が奉り給ふとか申すべき。」

と。女の云く、

「只、其の橋の許に御したらば、此れを受け取りに其の女房、出で來なむ。よに違(たが)ふ事不侍(はべら)じ。待ち給ふらむぞ。但し、穴賢(あなかしこ)、努々(ゆめゆめ)此の箱開けて不見給(みたまふ)な。」

と。此樣(かやう)に云ひ立てりけるを、此の遠助が共なる從者(じうしや)共は、女有るとも見えず。只、

「我が主(あるじ)は馬より下(お)りて由無(よしな)くて立てるえを。」

と見て、怪しび思ひけるに、遠助、箱を受け取りつれば、女は返りぬ。

 其の後(のち)、馬に乘りて行くに、美濃に下(くだ)り着きて、此の橋の許(もと)を、忘れて過ぎにければ、此の箱を不取(とら)せざりければ、家に行き着きて、思ひ出だして、

「糸(いと)不便(ふびん)也ける。此の箱を取らせざりける。」[やぶちゃん注:「たいそう悪いことをしてしまった。この箱を渡し損なってしもうた。」。]

と思ひて、

「今故(いまことさら)に持ち行きて、尋ねて取らせむ。」[やぶちゃん注:「今故に」は「そのうちに時改めて」の意。]

とて、壺屋立(つおやだち)たる所[やぶちゃん注:自分の個室風の部屋。]の、物の上に捧げて置きたりけるを、遠助が妻(め)は嫉妬の心、極(いみ)じく深かりける者にて、此の箱を遠助が置きけるを、妻(め)、然氣無(さるけな)くて見て、

「此の箱をば女に取らせむとて、京より態(わざ)と買ひ持て來たりて、我れに隱して置きたるなめり。」

と心得て、遠助が出でたる間(あひだ)に、妻(め)、蜜(ひそ)かに箱を取り下(おろ)して、開けて見ければ、人の目を捿(くじ)りて數(あまた)入れたり。亦、男の𨳯(まら)を、毛少し付けつつ、多く切り入れたり。

 妻(め)、此れを見て、奇異(あさま)しく怖しく成りて、遠助が返り來たるに、迷(まど)ひ呼び寄せて見すれば、遠助、

「哀れ、『不見(みる)まじ』と云ひてし物を。不便(ふびん)なる態かな。」

と云ひて、迷ひ覆(おほ)ひて、本(もと)の樣(やう)に結びて、やがて卽ち、彼(か)の女の教へし橋の許(もと)に持ち行きて立てりければ、實(げ)に女房、出で來たり。遠助、此の箱を渡して、女の云ひし事を語れば、女房、箱を受け取りて云く、

「此の箱は、開(あ)けて見られにけり。」

と。遠助、

「更に然る事、不候(さぶらは)ず。」

と云へども、女の氣色、糸(いと)惡氣(あしげ)にて、

「糸(いと)惡しくし給ふかな。」

と云ひて、極(いみ)じく氣色惡(あ)しげ乍ら、箱をば受け取りつれば、遠助は家に返りぬ。

 其の後(のち)、遠助、

「心地、不例(れいなら)ず。」

と云ひて、臥しぬ。妻(め)に云く、

「然許(さばか)り『開くまじ』と云ひし箱を、由無(よしな)く開(あ)けて見て。」

とて、程無く(ほどな)死にけり。

 然(しか)れば、人の妻(め)の、嫉妬の心の深く、虛疑(そらうたが)ひせむは、夫(をうと)の爲に此(か)く吉(よ)からぬ事の有る也(なり)。嫉妬の故に、遠助、思ひ懸けず、非分(ひぶん)に[やぶちゃん注:道理に反して。]命をなむ失ひてけり。女(をむな)の常の習(ならひ)とは云ひ乍ら、此れを聞く人、皆、此の妻(め)を惡(にく)みけり、となむ語り傳へたるとや。

   *

「同じ今昔物語の中にも色々と語り傳ヘられて居る」例えば、前掲話の直近では同じ「卷第二十七」の「從東國上人値鬼語第十四」(東國より上る人、鬼に値(あ)ふ語(こと)第十四)が勢田の橋及びその付近をやはりロケ地としている(但し、後半が欠文)。

「劫かした」「おびやかした」。

「宇治拾遺の卷十五に、越前の人で毘沙門を信仰する某……」これは「宇治拾遺物語」の一般に第百九十二話(「卷十五」の第七話)とされる「伊良緣世恆毘沙門の御下文を給はる事」(伊良緣世恆(いらえのよつね)、毘沙門(びしやもん)の御下文(おんくだしぶみ)を給はる事)である。以下に同前の仕儀で示す。

   *

 今は昔、越前國に伊良緣の世恆といふ物有けり。とりわきてつかふまつる毘沙門に、物もくはで、物のほしかりければ、

「助け給へ。」

と申しける程に、

「門(かど)にいとをかしげなる女の、『家主(いへあるじ)にもの言はん』との給ふ。」

といひければ、

「誰(たれ)にかあらん。」

とて出であひたれば、土器(かはらけ)に物を一盛り、

「これ、食ひ給へ。物ほしとありつるに。」

とてとらせたれば、悦びてとりて入れて、ただ、すこし(く)ひたれば、やがて飽(あ)き滿(み)ちたる心(ここ)ちして、二三日は物もほしからねば、これを置きて、物のほしきをりごとに、すこしづつ、食ひてありける程に、月比(ごろ)、過ぎて此物も、失(う)せにけり。

「いかがせむずる。」

とて、又、念じ奉りければ、又、ありしやうに[やぶちゃん注:「在りし樣に」。先と同じように。]、人の告げければ、始めにならひて、惑(まど)ひ出でてみれば、ありし女房のたまふやう、

「これ下し文奉らん。これより北の谷、峯(みね)百町を越えて、中に高き峯あり。それに立ちて『なりた』と呼ばば、もの出で來なん。それにこの文(ふみ)を見せて、奉らん物を受けよ。」

と言ひて去(い)ぬ。この下し文をみれば

「米二斗わたすべし。」

とあり。やがてそのまま行きて見ければ、實(まこと)に高き峯あり。それにて、

「なりた。」

と呼べば、おそろしげなる聲にていらへて、出で來たる物あり。見れば、額に角おひて、目一あるもの、あかきたうさぎ[やぶちゃん注:褌(ふんどし)。]したるもの出で來て、ひざまづきて、ゐたり。

「これ、御下し文なり。この米、得させよ。」

といへば、

「さる事候ふ。」

とて、下文をみて、

「是は二斗と候へども、一斗をたてまつれとなん候ひつる也。」

とて、一斗をぞ、とらせたりける。そのままに請け取りて、歸りて、その入れたる袋の米を使ふに、一斗、盡きせざりけり。千萬石とれども、只おなじやうにて、一斗は、失せざりけり。

 これを國守(くにのかみ)ききて、こ世恆を召して、

「其袋、我に得させよ。」

といひければ、國の内(うち)にある身なれば、えいなびずして[やぶちゃん注:断わり切れずなくて。]、

「米百石の分(ぶん)、奉る。」

と言ひて、取らせたり。一斗、取れば、又、出で來(き)出で來(こ)しければ、

「いみじき物まうけたり。」

と思ひて、持たりける程に、百石取り果てたれば、米、失せにけり。袋斗(ばか)りに成りぬれば、本意(ほい)なくて、返し取らせたり。世恆がもとにては、又、米一斗、出で來にけり。かくて、えもいはぬ長者にてぞありける。

   *

「三國傳記」室町時代の説話集で沙弥(しゃみ)玄棟(げんとう)著(事蹟不詳)。応永一四(一四〇七)年成立。八月 十七日の夜、京都東山清水寺に参詣した天竺の梵語坊(ぼんごぼう)と、大明の漢守郎(かんしゅろう)と、近江の和阿弥(わあみ)なる三人が月待ちをする間、それぞれの国の話を順々に語るという設定。全十二巻各巻三十話計 三百六十話を収める。ここで読めるが、表示に時間がかかるので、探すのは諦めた。悪しからず。

「日吉二宮」筑摩版全集では「ひえ」と現代仮名遣でルビする。これは現在の滋賀県高島市新旭町深溝にある日吉二宮(ひよしにのみや)神社のことか。よく判らぬ。

「酉陽雜俎卷十四に邵敬伯と云ふ人……」「ゆうようざっそ」(現代仮名遣)と読む。唐の段成式(八〇三年~八六三年)が撰した怪異記事を多く集録した書物。二十巻・続集十巻。八六〇年頃の成立。ここで言っているのは、以下。中文サイトのものを加工して示す。

   *

平原縣西十里、舊有杜林。南燕太上末、有邵敬伯者、家於長白山。有人寄敬伯一函書、言、「我江使也、令吾通問於濟伯。今須過長白、幸君爲通之。」。仍教敬伯、「但於杜林中取樹葉、投之於水、當有人出。」。敬伯從之、果見人引出。敬伯懼水、其人令敬伯閉目、似入水中、豁然宮殿宏麗。見一翁、年可八九十、坐水精床、發函開書曰、「裕興超滅。」。侍衛者皆圓眼、具甲胄。敬伯辭出、以一刀子贈敬伯曰、「好去、但持此刀、當無水厄矣。」。敬伯出、還至杜林中、而衣裳初無沾濕。果其年宋武帝滅燕。敬伯三年居兩河間、夜中忽大水、舉村俱沒、唯敬伯坐一榻床、至曉著履、敬伯下看之、床乃是一大龜也。敬伯死、刀子亦失。世傳杜林下有河伯塚。

   *]

 そんなら此類の諸國の話は、支那から若くは和漢共通の源から起つて、段々各地に散布し旦つ變化したと解してよいかと言ふと、自分は容易に然りと答へ得ぬのみならず、又假にさうとしても、何故に我々の祖先が其樣な話を信じて怖れたかに就ては、新たに考へて見ねばならぬ事が多い。手紙の託送を命ぜられた人が其爲に命に係はる程の危險に陷り、其が一轉すれば又極端の幸福を得るに至ると云ふのには、何か仔細が無くてはたらぬ。今日の如く教育の行渡つた時代の人の考へでは、文字も言語も輕重は無いやうに見えるかも知らぬが、田舍の人の十中の九迄が無筆であつた昔の世の中に於ては、手紙は其自身が既に一箇不可解たる靈物であつたのである。支那でも日本でも護符や呪文には、讀める人には何だ詰らないと云ふやうな事が書いてある。恰も佛教の陀羅尼や羅馬教の祈禱文が、譯して見れば至つて簡單なのと同じである。「いろはにほへと」と書いてあつても無學文盲には、「此人を殺せ」とあるかとも思はれ、「寶物を遣つてくれ」とあるかとも思はれ得る。是がこの奇拔な昔話を解釋するに必要なる一つの鍵である。併しまだ其前に話さねばならぬことがあるから、其方を片付けて行かうと思ふ。

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