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2017/03/01

柴田宵曲 妖異博物館 「そら礫」

 

 そら礫

 

 只野眞葛の「むかしばなし」に、何者か頻りに礫を打つことが書いてある。袖ケ崎の屋敷といふのは、多年人も住まぬ山を切り開いたところであるせゐか、長屋の内へ礫を投げ入れることが度々であつたが、その中でも晝夜の別なく投げ込まれる長屋が三箇所ばかりあつた。雨の降る夜は特にそれが烈しかつたさうである。その石は大概握り飯ぐらゐの大きさであつたが、怪異はそれに止まらぬ。殿樣の命令で、丈庵といふ醫者が一晩泊つて見屆けることになつた。氣を張つてゐても、ついうとうとするうちに、燈火が暗くなつたやうなので、目を開かうとしたが、容易にあかぬ。漸うちらりと見得たのは、大きな猫か狸かの蔽ひ隱すかと思はれた。はたと灯が消えるや否や、蚊帳の釣手が四方一度に切れて落ちる。人を呼んで灯をつけさせ、馬屋から取寄せた鎖で蚊帳を釣らせたが、その後は何事もなかつた。とにかくかういふ怪事が續くので、下役の人に云付けて空砲を放させたが、それには一向恐れず、大きな犬ほどの獸が、太い尾を見せて、白晝庭木の梢を走り渡つた。直ちに八方から鐡砲を打ちかけたけれども、どこへか逃げ去つた。礫を打つことが間遠になつた頃、長屋の軒下に晝寐してゐる猫を打ちとめた者がある。大きな猫であつたが、果してこの猫の所爲であつたかどうか、はつきりわからない。

[やぶちゃん注:これは既に私が注の中で述べたが、「天狗礫(てんぐつぶて)」などと呼称された、石が空から突然降ってくるという、かなり知られた怪奇現象。海外では、こうした「その場にあるはずのないもの」が突如、降って来る現象を総称して“Fafrotskies”(ファフロツキーズ:英語)と呼ぶが、そちらは石だけでなく、魚や蛙やオタマジャクシ、獣類の毛、血のような雨等を含んだ異物の広範囲な降下を含んでいる。ウィキの「天狗礫によれば、『まるでどこかから投げられたようでいて、どこから飛んできたのか分からないところから、天狗が投げた石つぶてではないかなどと言われる。天狗が人々に素行の悪さを悔い改めさせようとしているともいい、狐狸の仕業ともいわれる』。『石川県加賀市の怪談集『聖城怪談録』には、大聖寺町(現・加賀市)で大聖寺神社の神主が体験した天狗礫の怪異がある。空から石が降ってくるが、足元を見ると地面に落ちたはずの石はなく、川に石が落ちたような波紋ができるものの、やはり石自体は見えないという、不思議な現象だったという』。『また郷土史家・森田平次の著書『金沢古蹟志』によると同じく石川県、百万石の城下町・金沢市の市中繁華街にも天狗礫が現れたと言う』。宝暦五(一七五五)年三月、『尾張町、今町に昼夜を問わず礫を打つことが甚だしく、それが止まらないために天狗の仕業といわれ、その後も頻繁に続いたという』。嘉永七(一八五四)年には、『江戸の麹町の卵商人の家に盛んに天狗礫が起きたという。少ないときでも』二十個から三十個、多い時には五十個から六十個もの『小石がどこからか飛んで来るといった有様で、屋根に登って石を投げる者を見極めようとすると、石は背後から飛んでくるので、相手が背後にいるかと思い後ろを振り向くと、今度は反対側から石が飛んで来たという。さらに不可解なことに、石が人に当たっても、確かに当たった感触があるにもかかわらず、体には一切傷が残らなかったという。その家は次第に不思議な家として見物人が増え、町方同心たちが見回りを強化すると、次第に飛んで来る石の数は減り、ある日を境にこの現象は完全に消え失せたという』。近代になっても報告例は多く、錦絵新聞『東京絵入新聞』(明治九(一八七六)年三月十四日の『記事には、屋外ではなく家の中に天狗礫が起きたという事例がある。同月』十日に『中村繁次郎という男の家の中で、正午頃から急に石が降り始め』、一時間ほど『降り続けた。繁次郎は驚いたものの、病床にある父を心配させたくない思いと、世間に知られたくないとの思いから、このことを敢えて話題にせず、降ってきた石を神棚に上げ、酒や食べ物を供えて妻とともに怪異の鎮まるのを祈った。すると神棚の石はいつの間にか消え、さらに激しく石が降り始めた。繁次郎は刀を振るって見えない敵を威嚇したものの、効果はなく、この日を境に毎日同時刻に石が降るようになった。やむを得ず繁次郎は警察に届け、巡査が家を訪れたところ、巡査の目の前でも石の降る怪異は起きた。その内に噂が広まって見物人が押し寄せてきた。そんな中を小林長永という人力車夫が現れ、自分が狐狸を追い払う祈祷を行い、それで効果がなければ専門の先生を紹介すると申し出たので、繁次郎は喜んで同意した。この祈祷の効果については、『東京絵入新聞』には記載されていない』。私はこれは九〇%以上が、人為的な意識的詐欺の非怪異現象と考えている(残りが怪異だというのではなく、後の一〇%も概ね、竜巻等で吸引されたものが遠く離れた場所に落下する自然現象として説明がつくと考えている)

 以上は「むかしばなし」の中の以下。所持する一九九四年国書刊行会刊「叢書江戸文庫」の「只野真葛集」から恣意的に該当箇所を含む一条の内の前半部を正字化して引く。【 】は原典の割注。もっと続くが、後は天狗礫の怪異とは全く無縁な袖ヶ崎屋敷に纏わる親族からの伝聞懐旧エッセイなので省略した。

   *

袖ケ崎御やしきへ御うつりがけには、色々のあやしきこと有しとなり。他[やぶちゃん注:参考底本にはここに『(多)』と訂正注が入る。]年人もすまぬ山を御ひらき被ㇾ遊し故なるべし、長屋の内へ石つぶてを打いるゝこと度々、其内晝夜をわかずうたるゝ長屋三所ばかり有しとなり。雨ふりてくらき夜には、別してつぶて打ことおほかりしとなり。ぢゞ樣長屋へも兩三度打いれしこと有し。大がいのむすび程の石打いれしが、一番大きかりしを紙につゝみて御持、御出勤被ㇾ成、御覽に入れられしとなり。御殿中にも色々ふしぎのこと有。泊番の人かならず枕がへしする所有。又ともし火ねむるとすぐに消、蚊帳の釣手おちる所有しとなり。獅山樣御選(ゑ)り人にて、「丈庵ふして事のよし見よ」と仰有て、一夜御とまり被ㇾ成しこと有。【此御ゑり人は、御そばの衆いかでか左樣の事を見あきらめぬ程のことも有まじけれど、侍にてはことがましと思召、わざと長袖の中よりつかはされしならん。】さばかりのきこん人なれども、ねむき事かぎりなく、おもはず少しまどろまれしに、ともし火くらく成たりとおぼへられし故、目をひらかんとするに、しぶくてあかず、やうやう橫目にちらと御覽ぜられしに、大きなる猫か狸などの、おほひかくすかとおはるゝ[やぶちゃん注:底本は右にママ注記。「おもはるゝ」(思はるる)の誤記であろう。]やうなりしが、はたとあかしのきゆるやいなや、四方のつり手一度に切おちたり。人をよびてともし火付させ、御馬屋よりくさりをとりよせて、蚊帳つらせ御やすみ有しが、後何事もなかりしとぞ。

餘り妖怪がちなる故、下役の人に仰付られて、晝夜空(から)筒を放させられし故、耳かしましかりしと御はなしなり。から鐵砲にはおそれぬ所を見せんとや、ある日大犬ほどの毛物、あか毛にて尾のしたゝかにふときが、白晝に御うゑこみの梢を、はしりわたりしを見つけて、それ打とめよと、四方八方より雨あられのごとく鐵砲を打かけしかども、飛鳥のごとくかなたへはしりこなたへはしり、終にかたち見えず成しとなり。是何物にや、ふしぎ千萬のことゝ、父樣ばゞ樣御はなし度々うかゞひし。

 人のすみなるゝまゝに、つぶて打ことも間遠になりしに、ある長屋の軒下のひさしの端に、おほきな猫の晝寢してゐたるを、となり長屋より見付て、にくゝおぼへしまゝ、有合鐵砲にて打とめしが、大ふる猫にて有し。打たる人も一寸なぐさみにせしことにて、さのみほこりても人にかたらず、御家中にしらぬ人もおほかりしが、其猫うちて後あやしきことたへてなかりしは、其猫のせしことにや。さあらば打し人はかろからぬ手がらならんを、何のさたもなかりしと、折々被ㇾ仰し。

   *

柴田の言う医師「丈庵」を真葛は「長袖」(ながそで)と言っているが、これは武士が袖括(くく)りをして鎧を装着するのに対し、常に長袖の衣服を着ていることから、公家・医師・神主・僧侶・学者などを指したのである。実際には武士身分から下に見た卑称である。]

 何者とも知れず礫を打つ話は方々にある。「四不語錄」に見えたのは能登の羽咋で、吉村何某の宅に礫を打つ。砂まじりの小石で、それが一の宮の坂にある砂石であるところから、神の祟りとする者があつたが、何某は狐狸の所作として更に驚かなかつた。正體は何であるかわからない。「甲子夜話續篇」には淺草馬道の話が出てゐる。眞珠庵と稱する寺僧の隱宅のほとりに貸長屋があり、小石はこの屋根越しに投げられるので、そこにある鰻屋の看板や掛燈籠はこの石のために打破られた。石は每晩、夕方から初更にかけて投げられるが、數は三つか四つに過ぎぬ。石は多く水に濡れて居り、時に半ば濡れたのや、全く濡れぬのもまじつてゐる。この評判が高いため、町奉行から見物の群集を禁ずる程であつた。松浦靜山侯などは人を遣してその石を貰はせ、寫生圖を「甲子夜話」に入れ、目方まで書き添へてゐるが、その後、眞珠庵の中で古狸が捕へられ、爾來投礫の事も止んだといふ話である。眞珠庵は町中ながら庭が廣く、樹木を植ゑ、大きな石なども配してあつたから、多分その邊に棲息したものだらうといふ噂であつた。

[やぶちゃん注:既に述べた通り、「四不語錄」は所持しないので原話を提示出来ない。

「淺草馬道」こちらが江戸の切絵図を比較しながら、現在位置が一目瞭然。

「初更」は五更の第一で、だいたい現在の午後七時又は八時から二時間を指す。戌の刻に同じい。

 「甲子夜話續篇」のそれは「卷第三十七」の第十二条目の「古狸、馬道町(うまみちまち)鰻灸屋(うなぎや)に礫(つぶて)を打(うち)し事 礫の圖」である。挿絵とともに東洋文庫版を恣意的に正字化して示す。「迺」は「すなはち」と訓ずる。「文政六」年は一八二三年。「暮六半」は定時法なら午後六時頃(不定時法ではもっと遅くなる(午後八時前)が、後の時刻の推移から考えて、それと採る)。「市尹」(しいん)は町奉行の別称。「歇し」は「やみし」(止みし)。

   *

過し文政六七年の頃か、六月三日の暮六半頃にもあるべきに、淺草寺の東、馬道と云町街(マチ)の東に、眞珠庵と稱せし寺僧の隱宅あり。この宅地の中貸長舍(カシナガヤ)あるが、其屋脊(ヤネ)を擲越(ナゲコシ)て小石を投(ウツ)こと多く、其石、貸舍(カシヤ)の向ふ、街(マチ)の西側なる、鰻灸店(ウナギミセ)の看判掛燈籠(カケアンドウ)を打破る。始めは店主も知らざれば、何者なるやと詈りけるが、石來ること繁く、人を疵づくべければ迺戸を閉したり。是より連夜やまず。或は晩景、又は初更、されども其數三四五に過ぎず。石多くは水に濡れ、或は濡ざる、半ば濡たるあり。因て後は市尹より、町吏を使て、見物の群集を嚴禁す。されば予も怪しく思ひて、密に人を遣はして見せしめるに、其人暮時より初夜の頃まで窺ゐけれど、其夜は投ずること無くして還れり。たゞ町吏が守りゐる挑燈五六張も有りて、是等を見たれば、家主庄七なる者にかの投石を請ひたるに、尹令ありて人に示すことを禁ずと云けれど、強て乞たれば、竊にその二つを與ふ。迺圖を作る。

 

Tengutubutegenseki

 

[やぶちゃん注:キャプションは上が、「常ノ路石 大サ二寸九步 オモサ六十八匁二分」で、下のそれは、「同上 大サ一寸八步 重サ十四匁四分」(「步」「分」孰れも「ぶ」と読む)で、「二寸九步」は八・八センチメートル弱、「六十八匁二分」凡そ二百五十六グラム、「一寸八步」は五・四センチメートルほど、「十四匁四分」五十四グラムである。]

 

後に聞けば、かの眞珠庵の中にて古狸を生捕(イケドリ)せしが、夫よりこの投礫のこと歇しと。予も常にこの庵には故ありて往見しが、市坊には似ざる園地ありて、山水を造り樹木を植ゑ、巨石ども累置せり。されば狸も、この園の巖間に住たる者歟。

   *

この話も如何にもだ。なまぐさ坊主の数寄を凝らした別宅というのがそれ自体まさしく妖しいし、私も一つ投げて見たくなるような気がする。役人が固めた途端に投石がなくなったというのも怪しい。狸の一匹もその屋敷に投げ入れて、実際に鬱憤晴らしに石を投げた江戸っ子連中が処分されなかったというのはいい。ただ大きな提灯を破られた鰻屋の主人には同情はする。しかし、或いは、この被害者面をした鰻屋の亭主も、糞坊主とともに嫌がられていたのかも知れぬし、実は彼も投石犯の共犯の一人であったとしてもこれ、少しも可笑しくはないとも言えるようにも思われるのである。]

 猫にしろ、狸にしろ、礫を打つところを目擊した者はないので、たまたま猫が打たれたり、狸が捕へられたりしたため、その所爲に歸したと見られぬこともない。「續蓬窓夜話」の記事は、京都の染物屋に石を投げる話である。結局それはこの染物屋にゐる小者の仕業ときまつた。小者は自ら石を打つことを知らず、何かに憑かれたやうになつて打つので、これも幾分か狐狸の世界に近付いて來る。單なる惡戲で濟みさうなところを、何者かに魅せられた結果になるのが、如何にも江戸時代の話らしい。

[やぶちゃん注:既に述べた通り、「續蓬窓夜話」は所持しないので示せない。しかし、これ、柴田が「小者は自ら石を打つことを知らず、何かに憑かれたやうになつて打つ」という辺りに、小者の染物屋での過酷な仕事や、人間関係でも激しいストレス、さらにそこから精神疾患を発症、マニアックに石を主家に投げ打つ、というシチュエーションを強く感じさせるものがあり、私はそういう意味で是非、原典を読みたくは感ずるものである。]

 石を投げるのは人間の最もよくするところだから、市井の出來事としても平凡な筈であるが、「眞佐喜のかつら」に見えた麹町の例の如く、玉子を賣る家に向つて、晝夜おびたゞしく小石や瓦の缺けが投げられる。どこから投げるのかわからぬ。それを見極めようとして屋根に上つて見ても、石はうしろから來る。その方を向けばまたうしろから來る。然も誰も怪我をせぬのが不思議だとなつて、人の仕業よりも怪に結び付くのである。深川永代寺門前の場合もほゞ同樣であつたが、或人がさういふ時は古い塔婆を集めて焚くのがいゝと教へた。それ以來ぱつたり止んだなどは、どうしても怪異でなければ治まらない。

[やぶちゃん注:「眞佐喜のかつら」も以前に述べた如く所持しないので原典は示せぬ。

「永代寺」(えいたいじ)は現在の東京都江東区富岡にある真言宗の寺。(グーグル・マップ・データ)。

「或人がさういふ時は古い塔婆を集めて焚くのがいゝと教へた。それ以來ぱつたり止んだ」私はちっとも怪異と思わぬ。というのは寧ろ、その教授して呉れた人こそが投石者の一人だったと考えると如何にも腑に落ちるからである。ここでは自家の先祖の古塔婆としていないから、何の縁も所縁(ゆかり)もない(原典を見ていないので、この文脈ではそう解釈するしかない)古い卒塔婆を永代寺からでも調達して焼くことが鎮めになるということ自体、私には意味不明で、水子供養同様に如何にも怪しいではないか。石投げからここまで総てが古塔婆の処理に困った当時の永代寺のサシガネかも知れぬではないか!

 以上の話に比し、著しく妖氣の加はるのが「笈挨隨筆」に見えた豐後杵築の話である。雉子を打つ目的で、二三人連れ立つて夜をこめて山道にかゝると、突然左右から石を投げ出した。もう少しで身體に中(あた)るところだつたから、皆驚く中に心得た者が居つて、まあ靜かにして坐つてゐろ、といふ。一言を發する者もなく、ぢつと控へてゐる頭の上を、おびたゞしい大石が飛び違ひ、凄まじい響きがする。暫くして止むのを待ち、立ち上つて步き出したが、前の心得た者の説によると、これは天狗礫である、決して中るものではないが、もし中れば病氣になる、またこの事に逢へば、その日は獵がないときまつてゐる。倂しこれから引返すには道が遠いから、とにかく出かけて見よう、といふことであつた。果してその朝は何の獲物もなかつた。これも石を投げる者の正體はわからぬが、眞暗な山の中で頭上を大石が飛び違ふのは慥かに恐ろしい。猫や狸のよくするところではなし、舞臺も山中だから天狗礫といふことになるのであらう。

[やぶちゃん注:原典は次の段の注で示す。

「豐後杵築」現在の大分県杵築(きつき)市。]

 同じ書にあるもう一つの例は、大津の醫師祐庵、膽吹山から異草二三種と盆山の石を取つて歸り、石は床に置き、草は庭に植ゑさせたところが、その夜から頻りに石を打つ者がある。祐庵は狐狸の仕業だらうと云つて意に介せなかつたが、投石は毎晩續くので、朝になれば手頃の石が十四五ぐらゐも溜つてゐる。その始末に困つて、空地を掘つて埋めると、今度は砂を打付ける。丁度膽吹の村人が來たのに、この話をしたら、それは山から持つて來た石を山神が惜しまれるのでせう、とにかくもとの所へお返しなさい、私が持つて歸つて山に納めませう、といふことで、草も石も持つて行つた。果してその晩から何事もなくなり、家内の者も漸く安堵した。最も不思議な事は、その後に祐庵が表の溝を普請するに當り、いつか空地に埋めた石のことを思ひ出し、積石の不足なところにあれを使はうと云つて掘らせたのに、どうしたのか一つもない。これにはさすがの祐庵も驚歎せざるを得なかつた。

[やぶちゃん注:「膽吹山」「いぶきやま」で滋賀県最高峰の最高峰(山頂部は滋賀県米原市内に属し、標高千三百七十七メートル)で記紀神話に登場する現在の伊吹山のこと。「膽吹山」は「日本書紀」での同山の一表記。大津からは東北六十七キロメートル。

「盆山」庭に石などを積み上げてつくった人工の山。

 以上は前の段の事例と、この段のそれが前後する形で、「笈挨隨筆」の「卷之一」の「山神の怪異」に同一条として載るものである。以下に吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。一部にオリジナルに歴史的仮名遣で読みを附した。

   *

   ○山神の怪異

江州大津の町に祐庵(いうあん)といふ醫師、同國膽吹山(いぶきやま)の麓に賴まれ療治に往(ゆき)けるに、逗留の中、彼(かの)山藥草ありと聞(きき)ければ、所の人を案内させ、あちこちと見𢌞りて、異草二三種と盆山(ぼんさん)の石一つ取歸(とりかへ)りて、石は床に置(おき)、草は庭に植(うゑ)させけるに、其夜石を打(うつ)事夥し。家内大きに騷ぎ、何事なるやとおそれけれども、祐庵元より強氣なる人なれば、狐狸の所爲なるべしとて騷がず。夫より每夜打ける故、每朝手ごろ成る石拾四五程ヅヽ溜りて置所もなかりしかば、空地を掘(ほり)て埋(うづ)みけり。後には又砂を打て戸障子の透(すき)より内に入りて、朝々の掃除に家内も困り、祈禱すべし守札(まもりふだ)を張(はら)んといへば、祐庵更に同心せず。自然と止むべしと捨置(すておき)ぬ。折ふし彼(かの)膽吹山の村人來りければ、此樣子をまづ物語りしに、村人いふ。是は彼山より取來り給ふ石を、山神の惜み給ふならん。兎角元の所に返し給へ。我(われ)持歸り山に納むべしとて、彼藥草幷盆石とりて歸りける。其夜より砂石を打事も止みて、また何の怪敷(あやしき)事もなかりけり。此に不思議なることは、其後祐庵、表の溝(みぞ)を普請しけるに、風(ふ)とおもひ出し、積石(つみいし)の不足に彼埋置(うめおき)たる石を用ゆべしとて掘(ほら)せけるに、ひとつもなかりけるこそ、祐庵も驚きたり。誠に希有なる事也。是に付ておもふに、靈山などに詣でぬる時、其心得あり。陸奧金華山、或は富士山に禪定(ぜんじやう[やぶちゃん注:行者や参詣人が富士山・白山・立山などの霊山に登って修行・参拝をすること。])して下山の時、麓の砂ふるひといふ所にて、かならず新しき草鞋(わらぢ)に替(かへ)て、古きを脱捨置(ぬぎすておく)事也。殊に富二山(ふじさん)の砂は、願(ぐわん)おろしたるほど、其夜山に上ると申傳(まうしつた)ふ。實(げ)に數百年の間、夏の中(うち)日々夜々同者[やぶちゃん注:「道者」に同じい。参詣人。]の蹈落(ふみおと)す所の砂夥しといへども、曾て其麓に砂のたまりたる所なし。只(ただ)脱捨(ぬぎすて)し草鞋は山をつかねたる[やぶちゃん注:「束ねたる」で、一つに纏めて括り纏める。]が如し。昔源廷尉(ていゐ[やぶちゃん注:検非違使(けびいし)の佐(すけ)及び尉(じょう)の唐名。義経の官位は左衛門尉・検非違使であった。])義經公、右大將家の勘氣を蒙り、京をひらき[やぶちゃん注:逃げる。]吉野に忍び隱れ居給ふとき、武藏坊瓣慶用(よう)の事ありて出行(いでゆき)しに、時(とき)極寒なれば降(ふる)雪谷(たに)を埋(うづ)み、其道路もさだかならざるに、狐一疋先へ步みゆく。辨慶少しも心にかけず道を尋行(たづねゆく)に、雪の中なれば白晝のごとく、日の暮たるとも知れがたし。兎角するに道たしかならねば、辨慶思ふに、扨は彼の畜生めが進行(すすみゆく)にや。斯(かく)て大道(だいだう)人を迷はせんとす。にくき仕業也。目にもの見せんと、かたへなる大岩のありしを輕々と引起(ひきおこ)し、微塵になれと後(うしろ)より彼(かの)狐に投(なげ)けるに、狐には中(あた)らずして、向ふなる大岩に打當り二つに成(なり)て、狐はカウカウと鳴(なき)て逃去りぬ。辨慶憎しとおもへどもせんかたなく、その儘にして漸(やうや)くたどり着ぬ。頓(やが)て臥たりしに、晝の草臥(くたびれ)にやありけん、大(おほき)にうめきければ、大の法師のおそはれたるや。家内もひゞくばかりにうめく音(こゑ)に、みなみな騷ぎ起しければ、大汗をかきてあり。扨又寐入らんとすれば、はじめのごとくいかなる事やと、おのおの不審す。主(あるじ)の坊出(いで)て其樣(そのさま)を問ふていふ。いかに貴僧の如き勇武の人、いかでか狐狸の妨(さまた)ぐべき。おもふに貴所(きしよ)は聖寶(しやうぼう)僧正[やぶちゃん注:聖宝(しょうぼう 天長九(八三二)年~延喜九(九〇九)年)は平安前期の真言僧で醍醐寺の開祖。また、後に当山派修験道の祖とされる。天智天皇の六世孫に当たる。役小角に私淑し、吉野の金峰山(きんぷせん)で山岳修行を行い、参詣道整備・仏像造立など、金峰山の発展に尽力した。従ってここでのロケーションは金峰山附近であることが判る。]の大法修行の地なりといふに、扨は淸淨(しやうじやう)の靈場を打崩(うちくづ)しつる咎めなるべしとて、夜の中(うち)彼(かの)所に行至(ゆきいた)り、破れたる石を覗き石の下を見れば、蟹の打ひしがれたるなどあり。實(げ)にも殺生の大禁を犯せしなりと、年頃の行法をもて祈念し歸りぬ。斯(かく)てより何の故障もなかりけるとなり。誠に權者(ごんじや[やぶちゃん注:狭義には神仏などが衆生を救うためにこの世に仮に人の姿となって現れたもの、権化(ごんげ)の意であるが、ここは高僧などの謂い。])の行場(ぎやうじやう)など、假初(かりそめ)にも無禮すべからず。是等は辨慶なればこそ、早くも心付て懺悔(さんげ)しけるこそいとも尊(たつと)けれ。

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が二字下げ。]

因云(ちなみいふ)、石を打(うつ)事家(いへ)などにては何ぞの[やぶちゃん注:何かの。]祟りなり。途中にて打事あり。これは土民の云(いふ)、天狗道筋(みちすぢ)に行還(ゆきかへ)りたる時なり。先(まづ)何々の山にて山神の森とて、大木二三株四五株も茂りて覆ひたるごとくなる所は、その道なりと知ると云へり。佐伯玄仙(さえきげんせん)といふ人、豐後杵築(ぶんごきつき)の産なり。今(いま)京に住めり。この人の云、國に在りし時、雉子(きじ)打(うた)んがため夜込(よご)み[やぶちゃん注:夜間に行う狩猟。]に行(ゆき)たりしが、友二三人銘々鳥銃(てうじゆう[やぶちゃん注:先込(さきご)め式歩兵小銃のこと。呼称は、元々がこのように鳥を撃つために使ったところからとされる。])携へて行けり。とある山道へかゝる所に、左右より石を投(なげ)たり。既に中(あた)りつべく覺(おぼえ)て大(おほき)に驚きたる、中(なか)に能く心得たるものあり。押靜(おししづ)め先(まづ)下(した)に座(ざ)せよと云(いひ)て、言(げん)を交えず默して居るに、夥(おびただし)き大石(だいじやく)頭上に飛違(とびちが)ふ程なり。そのひゞきおびたゞし。暫くして止みければ立上(たちあが)つて行ける。心得たる友の云樣(いふやう)、是を天狗礫(てんぐつぶて)といふ。曾て中るものにあらず。若(もし)あたりたらんものは必ず病む也。また此事に逢へばかならず獵(れう)なし。今宵歸るには道遠ければ是非なく來(きた)るといふ。果して其朝ひとつも打得ずして歸りぬとなり。

   *

「カウカウ」が、いいね!]

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