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2017/03/13

「想山著聞奇集 卷の壹」 「毛の降たる事」

 

 毛の降(ふり)たる事

 

Kenohurukoto

 

 古へより毛の降るといふこと、和漢の書に見ゆれども、心許(こころもと)なきことに思ひ居(をり)しに、天保七年【丙午(ひのえうま)】六月十九日の朝四つ時に、市谷(いちがや)蓮池(はすいけ)を通りたるに、商人(あきんど)のいふには、毛のふりたると云(いふ)事なるが、此所に落(おち)てありしとて拾ひ擧(あげ)たり。忽(たちまち)、人々寄合(よりあひ)て見居(みをり)たるまゝ、供の者に見せしに、二寸斗(ばかり)なる白き毛なりと云。其日、夫(それ)より追々、毛ふりしと人々囂(かまびす)しく云ほどに、火の見の屋根にても拾ひ、又、同所蜘(くも)の巣にも懸り居(をり)たりとて、專(もつぱら)評判仕出(しいだし)し、夕方、合羽(かつぱ)坂邊を通りたるに、同所曲り角の所にて六七毛(まう)拾ひたり。又、市谷御館(みたち)内(うち)或人の咄しに、松山と云所より法性寺谷へ下る所少しの廣場の邊に、ばらばらと澤山に落居(おちゐ)て、中には五六寸斗の長き毛(け)も有(あり)しを拾ひ取(とり)て、宅(いへ)に歸りて稚(をさな)き子ども達に咄すと、是も晝後(ひるののち)、近隣にて三四毛拾ひて悦び居たる所故、かの廣場にあまたありときくと、忽ち走行(はしりゆき)て七八寸位より尺斗の長き毛も四五筋拾ひ來りしと。夫(それ)より段々聞合(ききあひ)するに、風の吹𢌞(ふきまは)しによりて多少は有(あれ)ども、廣き江戸中、殘る所もなく降(ふり)たり。或人の云には、十八日の七つ過(すぎ)に、童(わらべ)どもの毛がふると云ゆゑ、何事にやと思ひ居たりしに誠(まこと)なりし。左すれば十八日の夜のみにもかぎらず、夕刻前よりふりたる事かと云(いへ)り。人每(ごと)に尋探(たづねさず)りて、二三毛或は十毛廿毛づゝ拾はざるはなきに、二三日が間は氣を付て見れば、澤山に落(おち)て居(を)る所も有(あり)。此事を能(よく)考(かんがふ)るに、追々(おひおひ)に降(ふり)たる樣(やう)にも思はれたり。其毛色は、白毛多く茶毛もあり。又、眞黑も有。黑白斑らなるも、白茶黑の交(まじ[やぶちゃん注:ママ。]りたるも有て、長さは二寸位なるが多く、三寸位なるも隨分あり。中には五六寸も有て、七八寸より尺二尺二尺七八寸、又、三尺ばかりなるも有たり。何の毛とも更に辨(わきま)へ難し。老人の噺には、天明年、淺間山の燒(やく)る前にも、此通りの毛降たりと云へり。是は、山燒(やまやけ)にて獸の燒毛(やきげ)の降たる成(なる)べしといひしが、如何にも不審也。扨、今度(このたび)降たる毛の論説、種々の事を申出(まうしいだ)し、何とか云(いふ)獅子(しし)のごとき猛獸、虛空(こくう)にて戰ふと云ひ、或は外國より降(ふら)する也などゝも云。其外、博識家の奇説珍論も少なからざれども、さもあらんと思ふ程の儀もなく、又如何成(いかなる)故(ゆゑ)と云(いふ)事は更に分らず。されども空より降たるには相違なく、其内、近邊松山と云(いふ)所に住(すめ)る小林某の門口にて予が拾(ひろひ)たるは、一撮(つま)みばかり拔(ぬき)たる如き毛にて、産毛(うぶげ)のごとき根元の毛迄、付居(つきゐ)たり。證據として貯へ置(おき)たれども、後の人は現(げん)に是を見ても、降たる毛とはおもふまじ。犬の毛、馬の毛など、いくらも落(おち)て居るもの故、呉々(くれぐれ)も後(のち)の人は誠(まこと)しからず思ふべし。去(さり)ながら、實々(げにげに)降たりとの事は、其時、意(こゝろ)をこめて拾ひたる人ならでは辨へがたし。皆々一毛づゝ散(ちり)々に成居(なりゐ)たるに、前の如く一撮(つま)みのまゝ拾ひ得たるは奇中の奇なりとて、人々感じあへり。甲州よりの書狀には、五月の末に白毛降候。四寸五寸より三尺に及びたるもあり。何とも名付け難き毛といへり。夫より諸國の事を尋(たづぬ)るに、五畿内より東國は悉(ことごと)くふりたり。大坂なども降たる事は慥(たしか)に聞(きき)たれど、讃州へは降(ふら)ぬと聞く。其餘(よ)如何(いかん)、國々殘らずは得聞訂(えききただ)さずして打過(うちすぎ)ぬ。殘(なご)り多し。江戸は、六月十八日より廿日頃に降(ふる)。奧州岩城平(いはきだひら)は六月の廿八九日にふり、名古屋は七月の八日七つ時より翌朝迄に降たれども、二三日の間はふりしか、其間は追々毛も拾ひたりと聞ゆ。皆、毛は同じ事ながら、甲州は白多く、名古屋は茶と黑多く、白は少しとの事也。呉々も辨へがたき事也。降たる日の東西前後なるも、又いぶかしき事なり。和漢合運に、慶長元年京師畿内關東諸國降ㇾ毛(けふる)長サ四五寸、同三年六月四日降ㇾ毛長四五寸。

 又、或(ある)記に、寛保三年七月十六日夜、毛降(けふる)。

 安永五年三月伊勢尾張邊、毛降。その頃の落首の哥(うた)なども見たりき。

 天明にも、餘國はしらず、江戸は毛ふりたるに相違なし。古き人はよくしりたり。其時降たる毛なりしとて、もちたるをも此度(このたび)見たり。然(しかれ)ども、何れも精しく詳(つまびらか)なる筆記を見ず。殘(なご)り多し。唯、南谿(なんけい)が北窓瑣談(ほくさうさだん)に記したるのみ、委(くは)しくして證とするにたれり。今、全文を左に記す。

北窓瑣談(ほくさうさだん)【前篇二の卷】寛政三丑年七月十五日、江戸小雨(こさめ)降(ふり)て、其中に毛をふらせり。丸の内邊は別して多かりしとぞ。多くは色白く長さ五六寸。殊に長きは一尺二三寸もあり。色赤きもたまたまありしとぞ。京へも親しき人より拾ひ取(とり)し毛を送り越せしが、馬の尾のふとさの毛なり。江戸中に普(あまね)く降りし事、何獸(なにじう)の毛にて幾萬疋(いきまんびき)の毛なりや、いと不審の事なりき云々。今年の毛も、此時の毛と全く同じ事なり。又、次に出す隋の時に降たるも同物と見ゆ。

[やぶちゃん注:以下の引用二段落は底本では全体が一字下げ。それぞれの後に〔 〕で私の訓読を附しておいた。]

漢書に、天漢元年三月天雨白毛三年八月天雨白氂【氂者毛之強曲者也】〔天漢元年三月、天、白き毛の雨(あめふ)る。三年八月、天、白き氂(け)の雨る。【「氂」は毛(け)の強曲(がうきよく)の者なり。】〕

又、晉書に、泰始八年五月蜀地雨白毛〔泰始(たいし)八年五月、蜀の地、白毛の雨る。〕

又、隋書に、開皇六年七月京師雨ㇾ毛如髮尾長者三尺餘短者六七寸【是年關中米粟貴】〔開皇六年七月、京師(けいし)、毛の雨る。髮の尾のごとく、長き者は三尺餘、短き者は、六、七寸。【是の年、關中、米・粟(あわ)、貴(たか)し。】〕

 扨、此天保の申年は米穀出來ずして甚(はなはだ)饑饉(ききん)に及びたり。天明の頃も格別の饑饉にて有(あり)たり。右隋の開皇年と全く同樣なるも偶中(ぐうちゆう)せしものか。此外、漢土にも往々(わうわう)有(あり)と聞(きく)。吾(わが)邦にても、なほ有(ある)事ならん。淺見(せんけん)故(ゆゑ)、しらぬ事のみ也。何にもせよ、不思議なる事なり。依(よつ)て予、現(げん)に見聞(みきき)たる限りを委敷(くはしく)記し置(おき)ぬ。

[やぶちゃん注:超常現象フリークやUFO好きはすぐに「エンゼル・ヘアだ!」と飛びつきそうだが、あちらは降下後に消失してしまい、事実、世界のどこを探しても〈真正〉の「エンゼル・ヘア」は現存していないはずである(一説に試験管で採取した学生がおり、それを科学的に検査をしたら、リンが検出され、地球内物質とも地球外物質とも特定出来ない繊維とされたが、全個体を検体使用した結果、現存しないというんだが、この報告の噂自体がコレマタ、ますます妖しいではないか)。翻って、非常に近似したものに、「ケサランパサラン」がある。これは私も知っているし、その実物とされるもの(真相物質とされるもの)も複数見たことがある。ウィキの「ケサランパサラン」によれば、『江戸時代以降の民間伝承上の謎の生物とされる物体で』、『外観は、タンポポの綿毛や兎の尻尾のようなフワフワした白い毛玉とされる』。『白い毛玉のような物体で、空中をフラフラと飛んでいると言われる。一つ一つが小さな妖力を持つ妖怪とも言われ、未確認生物として扱われることもある』。『名前の由来については、スペイン語の「ケセラセラ」』(ここ、まことしやかにこう書かれているだけだが、確かに“Que Será, Será”は英語の“Whatever will be, will be”「なるようになるさ」という意味のスペイン語だと言われるのであるが、実際はスペイン語の文としては非文法的で、スペインで用いられた歴史も事実ないものであり、これは専ら英語圏のみで(一種の擬似外国語として)使われたフレーズであると考えられている。ここはウィキの歌手ドリス・デイ(Doris Day)の一九五六年の楽曲「ケセラセラ」の解説に拠った)『が語源だという説、「袈裟羅・婆裟羅」(けさら・ばさら)という梵語が語源だという説、羽毛のようにパサパサしているからという説』、『「何がなんだかさっぱりわからん」を意味する東北地方の言葉との説』、『などがある』。『穴の開いた桐の箱の中でおしろいを与えることで飼育でき』、『増殖したり、持ち主に幸せを呼んだりすると言われている』。『だが、穴がないと窒息して死んでしまう、おしろいは香料や着色料の含まれていないものが望ましい』、一年に二回以上『見るとその効果は消えてしまうなどと言われることもある』。『ケサランパサランを持っているということはあまり人に知らせないほうがいいと言われているため、代々密かにケサランパサランを伝えている家もあるという伝説もある』。一九七〇『年代後半に、ケサランパサランは知れ渡り、この時』、『ケサランパサランとされた物の多くは、花の冠毛からできたものであった』。『ケサランパサランとの関係は明らかになっていないが、江戸時代の百科事典』「和漢三才図会」には『鮓荅(へいさらばさら、へいさらばさる)という玉のことが記載されている』。『同書によれば、これは動物の肝臓や胆嚢に生じる白い玉で、鶏卵ほどの大きさのものから、栗』の実以下の『小さいものまであり、石や骨にも似ているがそれとは別物で、蒙古人はこれを使って雨乞いをしたとある。著者・寺島良安はこれを、オランダで痘疹や解毒剤に用いられた平佐羅婆佐留(へいさらばさる)と同じものとしている』。『近代では、「鮓荅」は「さとう」と読み、動物の胆石や腸内の結石と解釈されている』(「和漢三才圖會」の「卷三十七 畜類」にある「鮓荅」については、私の古い電子化注である寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の「猨(ゑんこう)」の注で完全電子化注をしているので是非、参照されたい。但し、この部分の注はマニアックに長いので覚悟されたい。同ページで「鮓荅」で検索をかけ、七クリック目の挿絵が出るところからご覧あれ)。これらの『正体は明らかではなく、以下のように動物の毛玉”“植物の花の冠毛などいくつかの説がある。またはこれらすべてを総称してケサランパサランとして認識されている可能性もある』。以下「動物性」のそれ。『山形県鶴岡市の加茂水族館ではケサランパサランと思われる物体を展示しており、ここでは「ワシなどの猛禽類がウサギなどの小動物を食べた際に排泄される毛玉(ペリット)である」と説明されている。また、東北などの寒冷な地域において、小動物が捕食された際に食べ残された毛皮の皮膚の部分が縮まり、毛を外側にして丸まったものとも言われている。この他、牛や馬などといった動物の胆石や結石などだという説もある』。「植物性」(或いは黴説)のそれ、薊(キク目キク科アザミ属 Cirsium)や翁草(キンポウゲ目キンポウゲ科オキナグサ属オキナグサ Pulsatilla cernua)のような植物の花の冠毛が有意にあるもののそれが『寄り集まって固まったものであるとされる。ガガイモ』(リンドウ目ガガイモ科ガガイモ属ガガイモ Metaplexis japonica)『の種の綿毛とも言われる』が、植物ではなく、綿状の菌類(黴(かび))だとする説もあり、『白粉を与えると増えるというのはこのためだとも言われる』(私はこの説を真相の一つとして実は強く支持している)。『また、ビワの木でよく目撃されることから「ビワの木の精」とも呼ばれている』。「鉱物性」説として細いガラス状の繊維が放射状に伸び、多くは綿のボールのような、鉱物とは思われない非常に柔らかい団塊を作るオーケン石(okenite)が挙げられている。「昆虫由来」説も根強く、雪虫(所謂「しろばんば」。半翅(カメムシ)目同翅(ヨコバイ)亜目アブラムシ上科 Aphidoidea に属するアリマキ(アブラムシ)類の中で、綿状の白腺物質を分泌する腺が存在する種群の通称)のそれとするもの、アオバハゴロモ(同翅(ヨコバイ)亜目ハゴロモ上科アオバハゴロモ科アオバハゴロモ属アオバハゴロモ Geisha distinctissima。私は幼い頃、「鳩虫」と呼んでいたが、実際に地方名に「ハトポッポ」「ポッポ」などの愛称があることを知った時は少し微笑んだものであった)の幼虫などが正体だとするものもあり、私はこちらの昆虫説も強く支持している。但し、この三好想山の叙述の中には、「それって単に犬猫の抜け毛だろ!」とツッコミたくなるシーンがかなり出ることも事実である。

「心許なきこと」(本当かどうか知りたくて)気がかりなこと。猜疑から始まらずに、関心から始まる想山が大好き!

「天保七年【丙午(ひのえうま)】六月十九日」グレゴリオ暦一八三六年八月一日。

「朝四つ時」不定時法。こ時期なら午前九時半過ぎである。

「市谷蓮池」現在の東京都新宿区片町の東にあった池(現存しないが、現在の合羽坂下交差点付近とされる。切絵図で確認出来ないので江戸後期には既に存在しなかったものと思われる)及びその周辺の旧地名。ここ(グーグル・マップ・データ)。この北を斜めに下がる道が後に出る合羽坂である。

「寄合(よりあひ)て」ここで一言言っておくと、「寄り合ふ」という動詞は、単に集まるだけでなく、いろいろと議論談合することを含んだ動詞であるので、注意されたい。

「二寸」六センチメートル。

「火の見の屋根にても拾ひ、又、同所蜘の巣にも懸り居たりとて、專評判仕出し」挿絵がそれであるが、私はこの絵を見た瞬間に、この「毛」の正体の一つの可能性として考えていたクモ類の幼体が糸を使って空を飛ぶかなり知られた普遍的行動である「バルーニング」(Ballooning)を排除せざるを得なかった英語版ウィキのそれに出る地上に散ったその蜘蛛バルーニング後の糸の画像はなかなかそれらしくは見えるのであるが、火の見櫓の番人が、既に張った蜘蛛の糸と有意に識別出来たということはそれが糸ではなく、獣或いは織物の毛糸のようなものであったことを示しているからである。

「市谷御館」三好想山は尾張名古屋藩士であり、徳川御三家であった尾張家上屋敷は市ヶ谷(現在の防衛省及び陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地)にあった。それを指している。

「松山」不詳。叙述から推して、市ヶ谷近辺とは思われるのだが。

「法性寺谷」不詳。同前。「ほつしやうじだに(ほっしょうじだに)」と暫く読んでおく。

「五六寸斗」十五~十八センチメートルばかり。獣のそれとすれば、かなり長い。

「七八寸位より尺斗」二十一から二十四センチメートル越えより、三十センチメートルほど。

「七つ」定時法なら午後四時、不定時法なら午後四時半頃。

「追々に降たる」十九日に突如降り出したのではなく、前日の夕刻からだんだんに時間をかけて降り出した。降り終わったのは後の叙述から二十日頃であるから、三日間に亙って、この異常な毛の降下現象は発生したことになる。

「其毛色は、白毛多く茶毛もあり。又、眞黑も有。黑白斑らなるも、白茶黑の交(まじ)りたるも有」これはもうなんとも動物性の毛(獣毛)を普通には想像させる叙述である。しかし以下見て行くと、長過ぎることに気づく。長いものは馬の鬣の毛であるが、江戸時代の人ならそれと一発で判る。一言も馬の鬣や尻尾の毛と似ていると書いていないのは、全く異なることが誰が見ても一目瞭然だからである。

「三寸」凡そ九センチメートル。

「二尺」六〇・六センチメートル。

「二尺七八寸」八一・八~八四・八四センチメートル。

「三尺」九〇・九センチメートル。

「天明年、淺間山の燒る前」浅間山の天明の大噴火は天明三年七月八日(一七八三年八月五日)に発生(これより三日間)しているが、同年四月九日(旧暦。以下同)に活動を本格的に再開しており、五月二十六日と六月二十七日と一ヶ月毎に噴火と小康状態を繰り返しながら火山活動が続いたが、六月二十七日からは噴火や爆発を毎日のように繰り返すようになり、日を追う毎に間隔が短くなると共に激しさも増した(ウィキの「浅間山」に拠った)。この人物の謂いは、同年四月から六月末までの間と考えるのが妥当であろう。これは明らかに噴出物の中の鉱物性由来のそれと考えてよかろう。想山が「山燒にて獸の燒毛の降たる成べしといひしが、如何にも不審也」と言っているのはその通り、そんなものは飛ぶ前に焼けちまうわい!

「何とか云(いふ)獅子(しし)のごとき猛獸」恐らくは「雷獣(らいじゅう)」を指していよう。伝承では犬・狸・狼・鼬・猫或いは龍や蟹と蜘蛛の合体したような異形(いぎょう)ものとして描かれるものの、「獅子」に似ているとはあまり聞かぬ。しかし、まあ、獅子であってもおかしくはなく、寧ろ、私の所持する多くの妖怪画のそれは寧ろ、確かに獅子と言われればそうだと答えそうな風に描かれている。妖怪画の絵師は実在するその辺りに見るような動物に似たものでは、これ、大衆を怖がらせられぬと思うたからに外ならぬ。妖怪フリークの私はもっと語れるのであるが、ここは脱線になるので、雷獣の詳細はウィキの「雷獣」を参照されたい。

「外國より降(ふら)する也」この他動詞用法は面白い。異国が鎖国している我が国に害をなさんと或いは侵略せんとして「降らする」ところの、超常兵器或いは毒物兵器或いは生物(細菌を付着させた)兵器とでも思ったものか? いやいや、「奇説珍論」どころではなく、「毛」どころか今やとんでもないものがまさに大陸の半島から降ってくる昨今です。いや! 異国どころではない、眼に見えない致命的物質が静かに崩壊した自国の原発から放出し続けておる為体(ていたらく)で御座る、想山先生。

「四寸五寸」一二~一五センチメートル。

「奧州岩城平」「磐城平」とも書く。陸奥国磐前郡、現在の福島県浜通りの城下町。以下、三好の探査は緻密で、地域によって降毛の時期と毛色の違いを記しており、非常な実証家であったことが判る。

「和漢合運」底本の織茂三郎氏の注に、『「和(倭)漢皇統編年合運図」の略称。和漢の重要なできごとぉ、上・下の両欄に、対照的に記した年表。編者は京都要法寺の僧円智といわれる』とある。以下の記載は早稲田大学図書館の「古典総合データベース」のこちらの画像で視認出来るが、しかし同三年の条には以下のような記載はない。不審。

「慶長元年」一五九六年。

「或記」不詳。

「寛保三年七月十六日」グレゴリオ暦一七四三年九月四日。

「安永五年」一七七六年。

「その頃の落首の哥」不詳。もし残っているものならば、識者の御教授を乞う。

(うた)なども見たりき。

「天明」安永の次。一七八一年から一七八九年。

「其時降たる毛なりしとて、もちたるをも此度見たり」想山の没年は嘉永三(一八五〇)年であるから、この毛(少なくとも天明期に降った毛)は五十年近く消失せずに残っているのである。冒頭に私が述べた如く、エンゼル・ヘアとは自ずと異なる物質であることが判る。

「南谿」京の儒医橘南谿(宝暦三(一七五三)年~文化二(一八〇五)年)。

「北窓瑣談」南谿の遺著で文政一二(一八二九)年刊の随筆。以下の引用も原典と校合したが、内容面での問題点は一箇所もない。想山は引用も堅実である

「寛政三丑年七月十五日」(原典では「三」はない)一七九三年八月十四日。ここまで見て見ると、本邦でも毛降り現象は夏に多いようには思われる。

「隋の時」特に以下の「隋書」の記載内容が、今回の降毛現象の毛の属性(加えて飢饉の発生)がよく一致していると三好は言うのである。

「漢書」八〇年頃に成立した前漢の歴史を紀伝体で記した書で、後漢の班固(はんこ)が撰し、妹の班昭らが補訂した。全百二十巻。後世の史書の模範とされた。

「天漢元年」紀元前一〇〇年。

「強曲」毛のようで、よく伸縮するものの、容易に切れない性質をいうのであろう。

「晋書」唐の太宗の勅により房玄齢らが撰した晋代の正史。六四四年成立。

「泰始八年」二七二年。

「隋書」唐の太宗の勅により魏徴・長孫無忌らが撰した隋代の正史。六二九年成立。

「開皇六年」五八六年。

「京師」隋都は大興城(後の長安で現在の西安市)。

「貴」値段が高い、即ち、収穫が少なく、飢饉となったことを言っている。

「偶中」たまたま偶然にも相同する現象が起こること。]

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