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2017/03/10

「想山著聞奇集」電子化注 始動 / 「凡例」+「出雲大社遷宮の時、雲出る事」

「想山著聞奇集(しょうざんちょもんきしゅう)」の電子化注をカテゴリ「怪談集」で始動する。先般ここで終了した柴田宵曲の「妖異博物館」で引用しているものの中で、注をしながら、最も惹かれたのが本書で、今まで所持しながら、拾い読みしかしていなかったことから、電子化注をしつつ、精読したいと望んだからである。私の電子化注は一種の、所持する本の遅過ぎた精読行為に外ならぬのである。

 本書は江戸後期の尾張名古屋藩士で右筆を勤めた大師流書家で随筆家としても知られた三好想山(みよししょうざん ?~嘉永三(一八五〇)年)の代表作で、動植物奇談・神仏霊異・天変地異など五十七話の奇談を蒐集したもの。全五巻。没年の嘉永三(一八五〇)年に板行されている。

 底本は森銑三・鈴木棠三編「日本庶民生活史料集成 第十六巻』(一九七〇年三一書房刊)の織茂三郎氏校訂の「想山著聞奇集」を用いるが、一部の読み(底本にはルビは極めて少ない。太字で示したのがそれ)はオリジナルに私が推定で歴史的仮名遣で附した。原典の歴史的仮名遣の誤りはママとし、注記も煩雑なのでしていない(誤字は別)。踊り字「〱」「〲」は正字化した。【 】は原典の二行割注。

 注はなるべく煩瑣にならぬように簡潔を心掛け(そのため、私自身には旧知の内容であるものについては省略するか、ごく簡潔なものとすることとし、一部は本文内に入れ込んだ。悪しからず)、スムースに進行するように努めたい。「序」と「目錄」は総てが終わってからとするが、その間に挟まっている「凡例」は最初に電子化しておいた。【2017年3月10日 藪野直史】]

 

 

想山著聞奇集

 

 

   凡例

 

予、若年より、聞(きく)所、見る所、千態萬躰(ばんたい)、數千箇條に及ぶ。然りといへども、年月を經るに隨ひ、次第に忘却し、記臆[やぶちゃん注:ママ。最後の一条のそれも同じ。]空敷(ぬなしく)、臟腑に腐爛す。故に鄙陋(ひろう:[やぶちゃん注:見識が浅はかなこと。])を顧(かへりみ)ず、如何樣(いかやう)とも筆記なし置(おき)、子孫にも示し、同友にも告(つげ)まほしく思ふ而已(のみ)にて打過ぬるも又久し。勿ㇾ謂今日不ㇾ學而有來日、勿ㇾ謂今年不ㇾ學而有來年、日月逝矣、歳不我延、嗚呼老矣、是誰之愆と、古人の誠も有。僅に限り有齡をもて、限りなき緩怠をなして、其優に閣(お:[やぶちゃん注:ママ。「擱筆」の「擱」。最後の青山直意(なおとも)の添書の「閣」も同じ。]かんも殘り多しと、去る乙未年の秋、頻りに思ひ立ち、奇談・雜談・祕談・深祕談の四條となして書記なし置(おか)んと、筆に任せて草稿なし、漸(やうやう)、五十卷に及びたり。同志の人々、右草稿を閲して、此書は閑窓の眠(ねむり)を覺(さま)す而已に非ず、童蒙、又は愚夫愚婦を善道へいざなふ教化にも成(なり)ぬれば、校訂して同友に示すべしと、あながちに勸めらるゝにまかせ、寸暇に隨ひ、追々校訂なして、綴り上置(あげおき)ぬ。

[やぶちゃん注:漢文部分は南宋の儒学者朱熹(しゅき 一一三〇年~一二〇〇年)の「勸學文」。

謂(い)ふ勿(なか)れ、今日(こんにち)學ばずとも來日(らいじつ)有りと。謂ふ勿謂れ、今年(こんねん)學ばずとも來年有りと。日月(じつげつ)、逝(ゆ)けり。歳(とし)、我と延(のび)ず。嗚呼(ああ)、老いたり、是れ誰(た)れの愆(あやまち)ぞ。

但し、「日月逝矣」の部分は更に「論語」「陽貨篇」の『日月逝矣。歳不我與』(日月、逝く。歳、我と與(とも)にせず)に基づくものである。

「五十卷に及びたり」現存するものはその十分の一の五巻分しかない。織茂三郎氏の解題によれば、『量的にあまりに厖大なため、五巻までで刊行が打ちきられたものであろう。未完の稿本は、いま、ほとんど散逸したらしいが、もし、全巻が残っていれば、『外集』若干と合わせて、近世最大の奇談集となりえたかも知れない』と述べられており、私も誠に惜しい気が強くする作品なのである。]

一、人の話を聞(きく)に、正説也と云(いふ)も、十に七八迄は、話傳えの違ひ、又は聞取違ひの誤謬(ごびゆう)と思はるゝも多く、或は定か成なる)話にても、首尾連續せずして、筆記なし難きなども多く、其外、奇なる事を好めるは世俗の常なれば、珍異を語るに、辯舌を以て面白く語りなし、甚敷(はなはだしき)に至りては、虛を添て、有し事の樣(やう)に言傳る族(うから)も有(あれ)ば、實(じつ)に取捨(とりすて)六ケ敷(むつかしく)、纔に實事に相違なきと思ひて記錄せしは、十が一なり。其纔(わづか)の一にも、首尾不決の事、又は十分に貫き兼る事もあるまゝ、猶、實事と相違の事も多かるべし。古人も夫(それ)を厭ふて、記し置ずして、勸善懲惡とも成(なる)べき譚の、其場限りに滅却せしも多かるべし。又、急度(きつと)、教誡の龜鑑(きかん)とも成(なす)べき事にても、傳聞の誤り有(あら)ん事を恐れて、其記なくして、後世へ傳らざるも多からん。倩(つらつら)此事を思慮するに、眞實のことなれども、疑は敷(しき)を恐れて記さずして、後世へ備えざるがよきか、疑は敷ながらも、記し置て傳ふるがよきかと、南端を考ふるに、記し殘し置)おき)なば、用捨は見る人の心にあり。或は又、後年にも其通りの事の出來て、漸(やつ)と後の證と成(なる)も有(ある)べければ、記し置(おき)かたや勝(まさ)るらんとて、斯(かく)は記し得たり。

一、抑(そもそも)、古來變異を語らざるは、一つの心得有(ある)事と聞置(ききおき)たり。靈應奇怪は自然の儀にして、再びせよ迚(とて)、出來ることならず。故を以、變怪を見て狐疑(こぎ:[やぶちゃん注:相手のことを疑うこと。狐(きつね)は疑い深い性質とする伝承に由る語。]する人多く、更に容(いれ)ざる人も有(あり)。又、不思儀を見て能(よく)感伏なし、幽明三世の理(ことわり)迄、悟る人もあり。左すれば、怪異も又、道を開く事、擧(あげ)て計(かぞ)へ難く、其身を隔(へだて)しも、またまた多かるべし。愼むぺき事歟(か)。人、是を眞とせば其通り、虛とせば其通り、強(しい)て論ずるに非ず、見る人の意に任するのみ。呉々(くれぐれ)も、唯此篇は、聞(きく)所見る所の違はざらん事を恐れて、文飾なくしるせし而已(のみ)。

一、此書は思ひ出るまゝ、又は人の語るを聞(きく)まゝ、或は古人の筆記を見るまゝに、記し置(おく)も多く、因て時代前後をわかず、混亂にして、殊に十餘年來、書置(かきおき)たるを、前後不次第に綴り上(あげ)、其儘、册子となしたる也。元來、此書は、勸善懲惡の爲、子孫に而已(のみ)、示さんと思ひおこして、筆記なしたるなり。去るに仍(よつ)て、此書の文躰(ぶんたい)は、古今著聞集(ここんちよもんじふ)を擬(ぎ)して書(かき)たるにも非ず、又、新著聞集に似せて書(かき)たるにも非ず、素(もと)より文勢をみがきて筆せしにも非ず、唯、俗通而已(のみ)を思ひて深く意を加へず、時に隨ひ筆に任せて寄集置(よせあつめおき)たる迄の事にて、敢て著述せしと云いふ)書に非ず。故を以、勿論、博識の君子に示すべき書に非ざれば、文面等の拙(つたな)きを笑ひ玉ふ事なかれ。

[やぶちゃん注:「古今著聞集」十三世紀前半の伊賀守橘成季なる人物によって編纂された世俗説話集。先行する「今昔物語集」「宇治拾遺物語」とともに日本三大説話集とされる。事実に基づいた古今の説話を集成することで懐古的な思想を今に伝えようとするものとされ、全二十巻三十篇七百二十六話からなり、「今昔物語集」に次ぐ大部の説話集。建長六(一二五四)年十月頃に一旦成立し、後年、増補がなされた(以上はウィキの「古今著聞集」に拠った)。にしても、卑下しながらも自分の著作を真似たのではない、というところに想山の隠された自負心が垣間見える。

「新著聞集」寛延二(一七四九)年に板行された説話集。日本各地の奇談・珍談・旧事・遺聞を集めた八冊十八篇で全三百七十七話から成る。俳諧師椋梨(むくなし)一雪による説話集「続著聞集」という作品を紀州藩士神谷養勇軒が藩主の命によって再編集したものとされる。前者「古今著聞集」を単に「著聞集」と呼んだことから、「新」を名乗っているのであろうが、それ自体、尊大な感じがする。]

一、此書は、元來、一つとして虛談と思ふは書載(かきのせ)ずといへども、猶、其所に、噓を云(いふ)人にあらず、或は慥成(たしかなる)事、又は實事也などゝ云置(いひおく)は、猶更、其事の妄ならざるを示さん爲なり。且又、語の義理筋道の外、情態等に至るまで、煩雜を厭はず、其優に書記(かきしる)せしは、其實の貫通を希ふ老婆心也。よつて鄙俚(ひり[やぶちゃん注:言語・風俗などが田舎染みていて賤しいこと。野鄙。])重複を省(はぶ)く事なし。

一、今は昔語りと成居(なりゐ)たる事、或は古人の筆記成置(なしおき)たるはなし、又は聞傳え置たる話等は、今、是を再應訂正せんと欲すれども、如何(いかん)とも力の及ばざる事は、捨て誌(しる)さゞる方まさるべけれども、其事を厭ひて、よき話の夫(それ)なりに消失(きえう)せんも殘り多くて、書記したるもまゝ有。見る人、其心し給へ。

一、此書、纔(わづか)の一事といへども、意の及ぶ丈は訂正して、事實ぬ齟齬せざる樣に記し置(おく)なり。然れども、事多端にして、理も又、極(きはま)りなければ、其事實と違ひ居(を)る事も有(ある)べし。是等の分を、自餘の條に及ぼし、悉く取にたらぬと咎むまじ。

一、土俗の口碑は、惣(すべ)て證とするに足(たら)ずとも云(いひ)難きか。朝(てう)にすたれて野に求むともいへば、農夫等の茶番話といへる中に、採用すべき事少からざれば、夫等(それら)の事をも、其儘に記し置ぬ。兎角、此書は自意を加へず、人の咄に任せて、有の儘に記すを第一とす。仍て田夫野人の鄙辭(ひじ)をも、違(たが)はぬ樣に書取(かきとる)を、却(かへつ)て主意とす。

[やぶちゃん注:「朝にすたれて野に求む」あえて「てう」と読んだのは、都の意で採ったからである。続く文からもこれはそれこそ古形のものが地方にこそ残っているとする柳田國男の方言周圏論を先取りする謂いのようにさえ見えてくる。それを記すことが却って主眼だなどと述べるに至っては、柳田國男も脱帽だろう。]

一、人名地名等を記すに、髣髴として分り兼る分、又は、其人其名の正敷(ただしく)しれ居(をり)たるをも、或人、又は何某、或は其の村などゝ記し置(おき)たるもあり。且、文字のしれ兼るは、かな文字にて記し置(おく)もあり。是、闇推のたがひを恐るればなり[やぶちゃん注:「闇推のたがひ」「闇推」は「やみおし」か? 「たがひ」は誤りで、ろくな根拠もなしに闇雲にいい加減な邪推をしてとんでもない人名地名違いをしでかすことを言っているのであろう。あらぬ差別引き起さぬように言い添える、想山、やっぱりタダモノではない!]。

一、予は尾陽[やぶちゃん注:尾張。]の産故、册中に、我云々と書置たるはみな本國の事なり。中年已後、東都に住する事、又久し。故を以、江戸の事も又多し。仍て國を名乘ずして、直(ぢき)に地名を云(いふ)ものは、皆江戸の事なり。

[やぶちゃん注:作者想山は尾張藩勘定方物書見習を皮切りに、右筆を長く勤めた後、文政二(一八一八)年からは江戸定詰となっている(底本解題に拠る)。]

一、予は無學管見、博く書を見されば[やぶちゃん注:ママ。濁点の落ちはしばしば以降も見られる。]、先人の論説等(など)有(ある)事を辨(わきま)へず、又、古來同樣の談有(ある)事等(など)も知兼(しりかね)たり。然共、適(たまたま)、見及べるをば、其(その)似(にる)類(たぐひ)を擧(あげ)て、後鑑(こうかん)に備(そなへ)るもあり。且、東遊記・西遊記、又は著聞集の類(たぐひ)は、人々の座右に有(あり)て知居(しりうを)る書なれども、童蒙の分り安き爲に、引書(いんしょ)なし置(おく)も有(あり)。強(しい)て意を加(くはふ)るにあらず。

一、猶、胸中に記臆する奇談雜談等、少からず。且、日々夜々聞(きく)所の珍異も量(はか)りなければ、已後も屢(しばしば)書記なすべしと思へども、勤務の餘暇多からざるうへ、自己の俗事、又多忙。しかのみならず、外に志す道も有(あり)て、此册の毛擧(まうきよ)は更に遑(いとまあら)ずといへども、是も又、予が癖にして、思ひとゞめ難し。嗚呼(ああ)、勞を己(おのれ)に求るも、所謂、因緣にや侍らん。

  嘉永二年己酉夏   想山齋主人誌

[やぶちゃん注:「毛擧」些細な箇所まで採り上げること。細かい事柄まで一つ一つ数え立てて示すこと。

「遑(いとまあら)ず」の本文には否定の助字は記されていない。

「嘉永二年」己酉(つちのととり)は一八五〇年で想山逝去の前年である。]

 

(そもそも)靈驗神異の第一は恐多くも太神宮の御蔭參りの一條にて、御幣御拔[やぶちゃん注:底本では右に『(祓)』と編者の訂正注がある。]の諸國へ降らせ給ふ事初(はじめ)、種々の奇瑞は申(まうし)迄もなく、且、國々の人民擧(あげ)て參詣なし、惣(すべ)て人氣の勇み立(だち)て、攝待施行(せつたいせぎやう)等(など)をなせし奇珍等を、聞きき)及ぶ丈(だけ)、悉く集錄し給ひて、是を奇談の卷首として、五卷となし置給ひつれども、思ふ子細有て、右の五卷は續ひて上木なさばやと暫(しばらく)閣(おき)き、こたびは、其次册の方より、斯(かく)上木(じやうぼく)なし畢(をはんぬ)

  庚戌孟春          青山直意(なほもと)

[やぶちゃん注:「庚戌」「ひのえいぬ」は「序」と先の「凡例」を書いた翌年の嘉永三年。一八五〇年。

「青山直意」想山の門人で美濃国苗木藩藩士。ご覧の通り、本書の刊行者である。]

 

 

 想山著聞奇集 卷の壹

 

 

 出雲大社遷宮の時、雲出(いづ)る事

 

Izumotaisya

 

 出雲の國の大社(おほやしろ)は、古昔より、甲子の年を以(もつて)、遷宮成奉(なりたてまつ)る事とぞ。大社の宮大工神門恒之進(がうどつねのしん)と云(いふ)人、長命にて、寛政の末に至り、八十一歳にて身まかりし由。此人、つねづね語かたり)て曰く、此大御社(おほみやしろ)の遷宮には、古(いにしへ)より、八雲山より白雲靉靆(たなびき)出(いで)て、渡御を覆ひ奉る奇瑞を、皆人、拜み奉る事にて、予も延享の遷宮には、眼前拜み奉りし事なれども、今は其瑞を拜みしものも希になりぬ。猶暫(しばらく)、長命して、願はくは、二度(ふたゝび)神瑞をも拜み奉り度(たく)、且は夫(それ)程まで命もながらへ度もの也と云て、口ずさみしには、祖父の常々示し給ふは、此神瑞は、語り傳ふるを聞(きき)しとは大に事替(ことかは)り、したしく拜し奉りて後(のち)、始(はじめ)て神明(しんみやう)の赫々(かくかく)たるをも心に辨(わきま)へ、此大御神(おほみかみ)の靈瑞、自餘の御神と別(こと)なるをも知明(しりあき)らむべしと宣ひしは、實(げ)にさる事にて、予がなき跡にても、今の人々は、最早、程遠からず、遷宮を拜み奉りて後、予が言(げん)の違(たが)はざるを知(する)べしとのみ語りしとぞ。【此処恒之進は遂に再度の遷宮に逢奉ら沒せしは殘(なご)り多し。】扨(さて)、文化元年は甲子(きのえね)なれ共、造營延(のび)て同六年【己巳】に至り、神殿造營出來て、七月廿一日の夜には遷宮あるべしと鬩(ひしめ)き渡り、古より、遷宮には決して雨の降(ふら)ざる事と申傳(まうしつた)ふれども、折節、此程は雨天のみにて、如何(いかが)あらんと神職の人々思ひわづらひしに、其日に及びて、速(すみやか)に雨も止(やみ)、雲も霽(はれ)て、やがて一天曇りなく晴渡りければ、人々勇み進みて、御設け事なし奉り、その刻の至るを待(まち)侍りしとぞ【遷宮の刻は夜の九つ[やぶちゃん注:午前零時。]を以て舊例となし奉るよし。】漸く子(ね)の刻にも及びしかば、其用意なし奉る人々、立集(つど)はんとせし折節、八雲山の峰より傘程の白雲(はくうん)出(いで)たり。是は、彼(かの)聞(きき)及びし八雲の立(たち)たる奇瑞ならんと、人々悉く頭を擧(あげ)て是を見るに、續(つづき)て左の方より又一むら雲(くも)立(たつ)と見るうちに、右の方よりも同樣に又、白雲一團生出(うまれいで)て、三團雲(さんだんぐも)とも忽(たちまち)此方(こなた)へ靡(なび)く有さま、月影にありありと見ゆるやいなや、白雲ひら一面に地に敷(しき)て、渡御のころは、神殿借殿はさらなり、國造(こくそ)の館、其外社家の屋の内に至るまでも、雲立籠(たちこめ)て白氣(はくき)となり神輿(じんよ)を覆ひ、渡御を拜み奉りたるもの一人もなし。良(やゝ)暫(しばらく)有(あり)て後(のち)、漸々(ぜんぜん)に雲消(きえ)、月輝きて、西山(せいざん)へ傾き居たり。斯(かく)の如き現顯(げんけん)の神靈なれども、古より語り傳ふるのみにて、急度(きつと)せし舊記も見奉らざりしに、眼前、拜み奉ること、今に忘れ侍らずと、社家何某の咄にて、具(つぶさ)に聞(きき)しまゝ記し置(おき)ぬ。此雲の出るより、出雲と云(いふ)國名(くにな)も起り、素戔嗚尊(すさのをのみこと)の八雲立の神詠有(あり)しも、此山の事也。上代以來の舊記の事は、博識に讓りて敢て贅(ぜい)せず[やぶちゃん注:「必要以上のことは言わない」の意。]。唯、聞(きく)まゝを記しぬ。

[やぶちゃん注:以下、想山が後に添えた評釈附記であるが、これらは一貫して底本では全体が二字下げである。]

案ずるに、黃帝(くわうてい)々位に登り給ひしとき、紫雲、殿前に垂(たれ)て瑞を顯(あらは)せしまゝ、雲の官を作り、又、雲書を造り給ふ事舊記に有(あり)て、人のしる事なれども、上古の事故、虛とする人もなく、實とする人もなく、又、不思議と思ふ人もなく、人々強(しい)て心にも懸(かけ)ざる事なり。是、本文に云(いふ)所と、和漢同談と云つべし。此時、造り給ふ書を瑞雲書(ずゐうんしよ)と云(いゝ)、又、垂たる故、垂雲書(ずゐうんしよ)とも云て、古聖の作法(さくはふ)、現に筆道に傳來せり。此垂雲に、治雲・豐雲・富雲・貴書・穀雲或は紫白黑等の差別有て、祕傳として道に傳ふ。かの御社の雲も、時に寄て色々の差別も有べきか。神變の靈應は、人智を以て論ずべきに非ず。唯々拜敬すべき事(こと)になん。

[やぶちゃん注:「出雲の國の大社は、古昔より、甲子の年を以、遷宮成奉る」これが事実なら、現行は全く守られていない。現在の「平成の大遷宮」事業期間は平成二〇年四月から平成二八年三月までと定めているが、開始年の干支は「戊子」、終了予定年のそれは「丙申」で当たり前乍ら、その間にも「甲子」の年はない(直近の甲子は昭和五九(一九八四)年である)。まあ、後述される文化年間のそれも延期しているわけで、こうした神意も人為に従う訳なんであろう

「神門恒之進(がうどつねのしん)」不詳。

「寛政の末」寛政は十三年二月五日で享和に改元している。

「八雲山」出雲大社本殿の裏手にある小高い山。神域として禁足地となっている。

「延享の遷宮」延享は五年で終わるが、延享元年(寛保四年/一七四四年)は確かに甲子である

「國造(こくそ)」出雲国造(いずものくにのみやつこ/いずもこくそう)出雲国(現在の島根県東部地方)を上古に支配した国造で、その氏族の出雲氏の長(おさ)が代々、出雲大社の祭祀と「出雲国造」の称号を受け継いできている。江戸時代までは千家氏と北島氏二家が「国造家」として並立されて出雲大社の祭祀職務を平等に分担していた(現行は出雲大社自体は千家家が祭祀を担っている)。

「八雲立の神詠」八岐大蛇(やまたのおろち)素戔嗚は、櫛に変じさせた櫛名田比売(くしなだひめ)を元の姿に戻し、彼女と暮らすための場所を出雲の根之堅洲国(ねのかたすのくに:現在の島根県安来(やすぎ)市を中心とした周辺広域)の須賀(すが:現在は島根県雲南市大東町(だいとうちょう)須賀。安来の西方。(グーグル・マップ・データ))の地へ行き、そこに新居を構えんと詠んだ和歌の濫觴とされる一首、

 

 八雲(やくも)立(た)つ出雲(いづも)八重垣(やへがき)妻籠(つまごめ)に八重垣作るその八重垣を

 

 

を指す(以上は「古事記」)。「八雲(やくも)立(た)つ」と読みを分立したのは、「八雲立つ」は雲が数限りなく盛んに湧き起こる実景であって、後の和歌の「出雲」の枕詞となる以前の実景としてのそれを味わうためである。古くは八色の雲(瑞雲)と解するのが普通だったが、仏教に於ける来迎などの瑞雲との類似を嫌ったものか、そのような解釈は最近は見かけないようだ。確かに私もこれを毒々しい彩色を施した如何にもな、総天然色雲特撮には絶対にしたくない。因みに私は素戔嗚のファンである。

「黃帝」中国の伝説上の古代の帝王。名を軒轅(けんえん)と称する。神農氏の時、暴虐な蚩尤(しゆう)と戦って勝ち、推されて帝となった。衣服・貨幣・暦・医薬・音律などを定めたとされる。最後の附記で書道の附言を細かに記しているのは想山が知られた書家であったからでもある。]

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