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2017/03/14

柴田宵曲 續妖異博物館 「鎌鼬」

 

 鎌鼬

 

 鎌鼬(かまいたち)が事は「伽婢子(とぎばふこ)」以來、かなりいろいろなものに出てゐる。形も何にもない怪物で、旋風のあらく吹き當る際、人間の皮膚が剃刀ででも切つたやうに裂け、痛みは甚しくないといふのだから、どうにも捉へやうがない。「想山著聞奇集」などは最も多くの説を擧げ、鎌のやうな疵が付くため、この稱があるのだと云つてゐる。疵の付くのは股とか、膝とか、臑(すね)とかいふ箇所で、膝口が最も多い。從つてこの怪の跳梁するのは、原則として地上一尺餘りに過ぎぬことになる。稀に顏とか頭とかをやられることもあるが、それは轉んだ際に出來るものらしい。

[やぶちゃん注:私は鎌鼬〈らしき〉現象(というか事件)を目の当たりにしたことはある。それは「耳囊 卷之七 旋風怪の事」の注で語った。但し、私はそれが真に〈鎌鼬現象〉(例えば次の次の段で寺田寅彦が述べるような物理現象、という意味である)であったかどうか、微妙に留保するものである。リンク先を是非、読まれたい。

「伽婢子」の「鎌鼬が事」は「五 鎌鼬(かまいたち) 付(つけたり) 提馬風(だいばかぜ)」であるが、既に正篇「妖異博物館」の「提馬風」の注で電子化した。そちらを参照されたい。

「想山著聞奇集」のそれは「卷の貮」の「鎌鼬の事」(かなり詳細)であるが、近いうちに電子化注をするのでカテゴリ「怪談集」で同書の全電子化注を作業中)、暫くお待ちあれかし。]

「伽婢子」は鎌鼬と提馬風とを一括して述べてゐる。その他の書物にも多く相關的に書いてあるが、畢竟ともに風中の現象であり、一方は人に疵付け、一方は馬を斃すといふ共通點があるからであらう。提馬風には馬の鬣(たてがみ)がすくすくと立ち、赤い絲のやうな光りがさし込むとか、更に進んでは玉蟲色の小さな馬に、猩々緋の衣服を著、金の瓔珞(やうらく)を冠つた女が乘つてゐるとかいふやうな、目に訴へる現象があるが、鎌鼬には何もない。風の中で人が疵付けられるだけだから、甚だ殺風景である。

 寺田博士は「怪異考」で提馬風を取り上げた後、「化物の進化」といふ文章の中で鎌鼬に關する見解を述べた。旋風の中では氣壓が甚しく低下するため、皮膚が裂けるのであらうといふ説もあるが、この話は「物理學者には少し腑に落ちない」とある。たとひ可なりな眞空になつても、「ゴム球か膀胱か何かのやうに脚部の破裂する事はありさうもない」から、「強風の爲に途上の木竹片或は砂粒の如きものが高速度で衝突する爲に皮膚が裁斷される」のだといふのである。博士はこの説明を證すべき一例として、麥藁の莖が大旋風に吹き付けられて、堅い板戸に矢のやうに突き刺さつたといふ事實を擧げてゐる。かういふ科學的な問題になると、到底吾々の口を出す餘地はないので、或はこの説明に該當しはせぬかと思はれる「夜譚隨錄」の「怪風」を引いて置きたい。

[やぶちゃん注:「怪異考」寺田寅彦のそれは柴田が既に「妖異博物館」の「提馬風」で取り上げている。昭和二(一九二七)年十一月発行の『思想』初出。

「化物の進化」昭和四年一月発行の『改造』初出。「青空文庫」のこちらで新字新仮名で読める(入力・「(株)モモ」/校正・かとうかおり氏)が、短いので、当該箇所をコピー・ペーストしておく。判り易さを考え、前後を少し含めた。

   *

 古人の書き残した多くの化け物の記録は、昔の人に不思議と思われた事実の記録と見る事ができる。今日の意味での科学的事実では到底有り得ない事はもちろんであるが、しかしそれらの記録の中から今日の科学的事実を掘り出しうる見込みのある事はたしかである。

 そのような化け物の一例として私は前に「提馬風(たいばふう)」のお化けの正体を論じた事がある。その後に私の問題となった他の例は「鎌鼬(かまいたち)」と称する化け物の事である。

 鎌鼬の事はいろいろの書物にあるが、「伽婢子(おとぎぼうこ)」という書物によると、関東地方にこの現象が多いらしい、旋風が吹きおこって「通行人の身にものあらくあたれば股もものあたり縦さまにさけて、剃刀かみそりにて切りたるごとく口ひらけ、しかも痛みはなはだしくもなし、また血は少しもいでず、うんぬん」とあり、また名字正しき侍にはこの害なく卑賤(ひせん)の者は金持ちでもあてられるなどと書いてある。 ここにも時代の反映が出ていておもしろい。 雲萍雑誌(うんぴょうざっし)には「西国方(さいごくがた)に風鎌(かざかま)というものあり」としてある。この現象については先年わが国のある学術雑誌で気象学上から論じた人があって、その所説によると旋風の中では気圧がはなはだしく低下するために皮膚が裂けるのであろうと説明してあったように記憶するが、この説は物理学者には少しふに落ちない。たとえかなり真空になってもゴム球か膀胱(ぼうこう)か何かのように脚部の破裂する事はありそうもない。これは明らかに強風のために途上の木竹片あるいは砂粒のごときものが高速度で衝突するために皮膚が截断(せつだん)されるのである。旋風内の最高風速はよくはわからないが毎秒七八十メートルを越える事も珍しくはないらしい。弾丸の速度に比べれば問題にならぬが、おもちゃの弓で射た矢よりは速いかもしれない。数年前アメリカの気象学雑誌に出ていた一例によると、麦わらの茎が大旋風に吹きつけられて堅い板戸に突きささって、ちょうど矢の立ったようになったのが写真で示されていた。麦わらが板戸に穿入(せんにゅう)するくらいなら、竹片が人間の肉を破ってもたいして不都合はあるまいと思われる。下賤(げせん)の者にこの災わざわいが多いというのは統計の結果でもないから問題にならないが、しかし下賤の者の総数が高貴な者の総数より多いとすれば、それだけでもこの事は当然である。その上にまた下賤(げせん)のものが脚部を露出して歩く機会が多いとすればなおさらの事である。 また関東に特別に旋風が多いかどうかはこれも充分な統計的資料がないからわからないが、小規模のいわゆる「塵旋風(ちりせんぷう)」は武蔵野(むさしの)のような平野に多いらしいから、この事も全く無根ではないかもしれない。

 怪異を科学的に説明する事に対して反感をいだく人もあるようである。それはせっかくの神秘なものを浅薄なる唯物論者の土足に踏みにじられるといったような不快を感じるからであるらしい。しかしそれは僻見(へきけん)であり誤解である。いわゆる科学的説明が一通りできたとしても実はその現象の神秘は少しも減じないばかりでなくむしろますます深刻になるだけの事である。たとえば鎌鼬(かまいたち)の現象がかりに前記のような事であるとすれば、ほんとうの科学的研究は実はそこから始まるので、前に述べた事はただ問題の構成(フォーミュレーション)であって解決(ソリューション)ではない。またこの現象が多くの実験的数理的研究によって、いくらか詳しくわかったとしたところで、それからさきの問題は無限である。そうして何の何某が何日にどこでこれに遭遇するかを予言する事はいかなる科学者にも永久に不可能である。これをなしうるものは「神様」だけである。

   *

文中の「フォーミュレーション」「ソリューション」はそれぞれ「構成」「解決」のルビである。

「夜譚隨錄」は清代の和邦額(かほうがく)著になる志怪小説集。一七九一年成立。その「怪風」は「卷二」の以下。例の仕儀で示す。

   *

涼州大靖營所汛有松山者、在沙漠中、古戰場也。先大父鎮五涼時、游擊將軍塔思哈、因公過其處、以兵三十五騎從、至則日已西。白草黃雲一望無際。忽見一山、高約數千仞、色蒼紫、中有火星、萬點如瑩、蔽日而來、有聲若千雷萬霆。眾皆失色、馬亦驚嘶。塔驚疑、謂此必山移矣。俄而漸近、不及回避、乃同下馬、據地閉目、互相抱持、自分齏粉。頃之大震、天地如黑、人人滾跌、不由自主、馬踣人顛、逾時始定。次第蘇醒、彼此懼呼、幸不失一人、但皆脱帽露頂、滿面血流、石子嵌入面皮、深者半寸、抉之乃出。大者如豆、小者如椒。驚定知痛、超乘即馳、回望高山、已在數十百里之外矣。日暮抵大靖營、參戎馬成龍見之愕然。塔述所遇、馬乃大笑曰、「苟山移、公等無噍類矣。據雲所遇、蓋旋風也、入秋則有之、至冬尤甚。今隆冬無足怪、所可慮者、公與彼三十餘人、從此胥成麻皮、年貌冊又須另造矣。」。塔因嘆沉浮宦海中、歷有年所、衝鋒破敵、幾歷危途、今行年五十矣、從未嘗見獰飆、不特未見、亦未之聞。今塔面多疤痕。在額角左頰者尤巨、即石子所嵌處也。

蘭岩曰、「非宦途不能遭此險苦、亦不能及此怪異。」。

   *]

 涼州の沙漠の中で起つた出來事である。遊撃將軍塔思哈なる者が兵三十五騎を率ゐてやつて來ると、沙漠の末に忽然として一つの山が現れた。蒼紫色の中に無數の星の光るやうなものが、夕日を蔽うて近付くと同時に、恐ろしい雷鳴が聞えた。人は皆色を失ひ、馬はおびえていななく。塔が驚いて、あの山は動いて來ると叫んだ時、山はもう眼前に在つてどうすることも出來なかつた。一同馬を下り、地に坐つて目を閉ぢ、互ひに抱き合つたと思ふと、やがて地が大きく震ひ、天地は眞暗になつた。人も馬もそこに倒れて沙まみれになつたが、暫くして氣が付いて見れば、一人も死んだ者はない。ただ皆帽を吹き飛ばされ、顏が血だらけになつてゐる。小砂利が人の顏に食ひ込んで、深いのは五分にも達してゐるのである。取り敢へずその小砂利を抉り出したら、大きいのは豆ぐらゐあつた。疲れた馬に鞭打つて大靖營まで歸り著いて、參戎馬成龍に今の話をしたところ、大きな聲で笑ひ出した。もし山が移動したのだとすれば、君達は一人も生きてゐられぬ筈だ、それは旋風にやられたので、この邊では秋になると時折さういふことがあり、冬は最も甚しい、今は冬の最中だから不思議はないが、顏の傷痕は生涯なほるまいよ、といふことであつた。塔はその後も軍事に奔走し、五十になつても元氣であつたが、馬成龍の云つた通り、傷痕は面上から消えず、額と左の頰にあるのが一番大きかつた。

[やぶちゃん注:「涼州」現在の甘粛省(ここ。ウィキ画像)及び寧夏回族自治区(現在、特に砂漠化が進んでいる地域である。ここ。同前)一帯に設置されていた古い州名。現在では甘粛省の別称でもある。

「塔思哈」「トウシゴウ」(現代仮名遣)と読んでおく。

「五分」一分(ぶ)は中国では古代から概ね三ミリメートルであるから、一・五センチメートル。砂がめり込んだ深さ(傷の)としては甚だ深い。

「大靖營」「ダイセイエイ」(同前)と読んでおく。不詳であるが、「靖」は世を安泰させるの意があるから、この涼州での辺境警備の本営、前線本部のことであろう。

「參戎」参謀。]

 この話は「子不語」にも出てゐる。小砂利を飛ばすやうな強風は、普通の土地には滅多に起るまい。倂し最も厚い面の皮に、小石嵌入するやうな事實が稀にある以上、もう少しお手柔かな竹木片や砂粒が高速度で衝突して皮膚を裁斷することは、考へ得られさうな氣がする。どういふわけで鼬が飛び出すのかわからぬが、その傷痕が無生物の所爲らしくないところから、手近な動物に附合したのではあるまいか。「想山著聞奇集」に從へば、支那で風狂といひ、溪鬼蟲といふのも鎌鼬の同類らしいといふことである。

[やぶちゃん注:「子不語」のそれは「第六卷」に出る以下。ほぼ相同の内容ではあるが、かなり簡略化されている。前との比較のために例の仕儀で示しておく。

   *

涼州大靖營有松山者、在沙磧中、古戰場也。將軍塔思哈因公領兵過其處、白草黃雲、一望無際。忽見一山高千仞、中有火星萬點、蔽日而來、聲若雷霆、人馬失色。哈大驚、謂是山移。俄而漸近、不及迴避、乃同下馬閉目據地、互相抱持。頃之、天地如墨、人人滾地、馬亦翻倒、良久始定。麾下三十六人、滿面皆血、石子嵌入面皮、深者半寸。回望高山、已在數十里之外。日暮、抵大靖營、告總兵馬成龍。馬笑曰、「此風怪、非山移也。若山移、公等死矣。此等風、塞外至冬常常有之、不傷性命。但公等爲沙石所擊、從此盡成麻面、年貌册又須另造矣。」。

   *

 先の注で述べた通り、「想山著聞奇集」はお待ちあれ。そこで「風狂」も「溪鬼蟲」(けいきちう)も考証する。]

 歳時記には鎌鼬を冬の部に入れ、鎌風その他の別稱をも擧げてゐる。「倭訓栞」には「其年嚴寒の時にありて陰毒の氣なり」とあるが、「伽婢子」をはじめ諸書の記載には、季節の事は見當らぬやうである。關八州の事とあるかと思へば、越後の七不思議の中にもあり、「雲萍雜志」などは「西國方に風鎌といふものありて、人の肌をそがるゝなり」と云つてゐる。「齊諧俗談」は蝦夷松前の例を擧げ、十二月嚴寒の時節に凶風の吹くことがある、道路を行く人がこれに逢へば、卒然として倒れ伏し、頭面或は手足に疵を蒙るが、死に至るほどの事はない、津輕などにもあると云ひ、「關田次筆」は上方にはない事と思つてゐたら、自分の知合ひの下婦が庭で倒れ、正氣に復した後、頰の邊に刀で切つたやうな疵のあるのに氣付いた。下總國弘教寺の小僧は、この風に當つて惱まされたが、古曆を黑燒にして付けたらなほつた、といふやうな調子で、正に諸説紛々、いづれに從つていゝのかわからぬ。形のないものは捕捉しがたいと見える。

[やぶちゃん注:所持する昭和五八(一九八三)年講談社刊「日本大歳時記」(水原秋櫻子他編監修)の「鎌鼬」(火村宅造氏担当)によれば、三冬(晩冬)の季語とし、別称を「鎌風(かまかぜ)」とし、解説では、

   《引用開始》

冬季、突如として、人間の皮膚、特に頰(ほお)や脚などに鎌で切ったような裂傷(れつしょう)ができることがある。これは旋風などが起った時、空気中に真空状態ができ、皮膚の一部がそこに触れると、体内の気圧と体外の気庄とがバランスを保とうとして起る創(きず)だと、今では説かれている。が、昔は鼬のような妖怪じみたけものの仕業(しわざ)であると信じて、この言葉ができたものである。信越、東北地方などの北国に多く、地方によっては七不思議の一つに数えている所もあった。

   《引用終了》

として、

  鎌鼬男は苗に裏返り   橋本鶏二

  広重の富士は三角鎌鼬  成瀬櫻桃子

  鎌鼬瓦礫(ぐわれき)の山の日暮れ時

              田中冬子

  馬売りて墓地抜けし夜の鎌鼬

              千保霞舟

の四句を示す。そもそもが鬼趣属性の季語を用いては句柄全体に斬新な鬼趣を与えようがない。こういう季語はない方がましな部類の季語であると私は思う(私は芭蕉が言った如く「季の詞」とならぬ季語はないと考えており、無季語俳句を支持する人種である)。

「倭訓栞」「わくんのしをり(しおり)」と読む「和訓栞」とも書き、江戸中期神道家で国学者であった谷川士清(たにかわことすが 宝永六(一七〇九)年~安永五(一七七六)年)が著わした国語辞典。全九十三巻。前・中・後編三編として著者没後の安永六(一七七七)年から明治二〇(一八八七)年まで実に百年をかけて刊行された。古語としての上代語・雅語としての中古語・俗語(口語・方言)まで渉猟し、第二音節までの五十音順に配列、出典を示して語釈を加え,用例を挙げてある。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここから次の頁にかけて「かまいたち」があるが、不審なことに、柴田の述べている叙述はない。他に項があるのかも知れぬが、探すのに疲れた。

「關八州」江戸時代の関東の八ヶ国の称。相模・武蔵・上野・下野・安房・上総・下総・常陸。現在の関東地方と一致する。

「越後の七不思議」各種(総数四十余り)の名数があるが、「鎌鼬」が数えられているもので知られているのは、私の愛読する、越後国の文人画家橘崑崙(たちばなこんろん 宝暦一一(一七六一)年~?(文政二(一八一九)年には存命))の筆になる「北越奇談」の「俗説十有(ゆう)七奇(しちき)」(十七不思議)があり、彼はさらにこの十七種から「新撰七奇」として「燃土(もゆるつち)」(長い年月で形成された腐葉土のようである)「燃水(もゆるみづ)」(「臭水(くさみづ)」で石油)「胴鳴(ほらなり)」(秋の晴天に鳴る雷鳴でこれが鳴るのは風雨の予兆とする)。「無縫塔」(僧籍の者の墓である卵塔であるが、ここのそれは、とある淵から自然とその石が出現するという奇談である)「石鏃(せきぞく)」(橘の附図を見ると、所謂、出土した古代の鏃(やじり)や磨石斧・石棒である)「鎌鼬」「火井(くはせい)」(天然ガス)の七つを選んでいる。序でなので、「卷之二」の「俗説十有七奇」の「鎌鼬」を引いておく。底本は野島出版(新潟県三条市)の同書を用いたが、恣意的に正字化した。読みは一部(表記は底本のママ)に限った。踊り字「〱」は正字化した。

   *

其三 鎌鼬、一二構太刀(かまひたち)時所(じしよ)に定(さだま)りなし。多くは社地を過(よぎ)る者、不慮に面部手足(しゆそく)なんど皮肉割破(さけやぶ)れて白くはぜかへることなり。きづ口の大小にかはりあれど、さして血も不ㇾ出(いでず)痛ミもなく、何のわざとも更に名付がたきものなり。或説に鬼神(きしん)の刃(やいば)にゆきあたり、其觸(ふる)る所此奇をなす。故に構太刀といふと、此説當れりといふべきか。凡(およそ)鬼神は北方陰分(ゐんぶん)の地にあつまるものにして、卽(すなはち)坤(うしとら)を鬼門となす。依ㇾ之(これによつて)か北越は鬼神の奇(き)甚だ多し。然れども天地の化(くは)長じ人氣(じんき)滿てるに隨(したがつ)て、自然と幽冥に歸するものと覺ゆ。此(この)奇北越三五十前年(ぜんねん)までは甚だ多かりしが、今は稀に有事なり。伊夜日子(いやひこ)より国上(くがみ)山にかけ踰(こ)す所、黑坂といふあり。此所にあやまつて躓倒(つまづきたを)るゝ者必(かならず)此(この)奇をうく。如ㇾ此こと所々(しよしよ)にあり。又一説に、寒気皮膚の間に凝封(ぎようふう)せられて、暖(だん)を得るときは皮肉さけ其(その)氣(き)発(おこる)といへり。是医家(いか)の説なるべし。左(さ)あらば甲信の二國奥白河(おくしらかは)の邊は極きはめ)て地高(ぢだか)なる所にして、寒氣北越に倍す。しからば此(この)奇却(かへつ)て甚しかるべし。又其治方(ぢほう)に古き曆紙(れきし)を燒(やき)て貼れば卽(すなはち)效(しるし)あり。是(これ)邪(じや)を去ル(さる)のゆへか。只(たゞ)し構ひたる刃(やいば)ニ觸(ふる)るとにはあらず。是も鬼神の氣にふるゝなるべし。今は他邦(たほう)も此(この)奇稀(まれ)にあるといへり。

   *

「雲萍雜志」のそれは「卷之二」の以下。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。柱の「○」は除去した。

   *

つむじといふ風は、春のころは風(かぜ)地(ち)を吹をもて、土挨を吹き卷きぬ。長閑なる日などに、ふと風いでてを巻あぐるなり。辻風なるべし。また西國方に風鎌(かざかま)といふものありて、人の肌へをそがるゝなり。そぐ時に傷むことなし。しばらくして破血して、その傷(いたみ)堪(たへ)がたし。このことをふせぐには、古き曆をふところにして居るときは、そのうれひなしと、ところの者は申し侍りぬ。

   *

「齊諧俗談」は「卷之一」の「一目連(いちもくれん)」の附記に現われる。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。ルビはそのまま附した。

   *

   〇一目連(いちもくれん)

伊勢、尾張、美濃、飛騨の四ケ國にて、不時に暴風吹來りて、大木を倒し巖を崩し、民屋を破る事あり。然れども唯一路(ひとすじ)にして、他の所を吹ず。是を一目連(いちもくれん)と名付て神風とす。則伊勢國桑名郡多度山に一目連の祠をまつる。また相模國にも是に似たる風あり。鎌風(かまかぜ)と名付。駿河國にも有、惡禪師(あくぜんじ)の風と名付。土俗傳て云。この神の形、人の如くにして、褐色の袴を着すと云。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が一字下げ。]

按ずるに、蝦夷松前にて、十二月嚴寒の時節、晴天の折ふし、凶風吹事あり。自然道路をゆく人、是にあへば、卒然として倒れ伏。かならず頭面あるひは手足のうちに、五六寸ばかりの傷を蒙る。しかれ共死にいたる程の事はなし。俗に是を鎌閉太知(かまへたち)と云。急に莱菔(だいこん)の汁を傅(つく)れば卽愈。其あと金瘡の如し。此事、津輕の地にも間に有と云。全極寒の陰毒にして、一目連と同からず。皆惡氣風なり。

   *

最後の「間に」は「ままに」(時々)と訓じておく。また、「一目連」は私の『柳田國男「一目小僧その他」附やぶちゃん注 一目小僧(十八)』の本文及び私の注を参照されたい。脱線して止めどなくなるので、リンクに留めておく。

「關田次筆」のそれは「卷之一 紀實」にある。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。柱の「○」は除去した。踊り字の一部を変更或いは正字化した。

   *

過し壬戊のとし七月晦日、上京今出川邊に一道の暴風、星を壞(ヤブ)り、天井床疊をさへ吹上、あるひは赤金もておほへる屋根などもまくり取離たり、纔に幅一間ばかりが間にて、筋に當らざれば咫尺(シセキ)の間にて障なし、末は田中村より叡山の西麓にいたりて止りしとぞ。蛇の登るならば雨あるべきに、一雫も降らず。これ羊角風(ヨウカクフウ)といふものかといへり。北國にては折々あることにて、一目連(イチモクレン)と號(ナヅ)くとぞ。又別に一種の風有て、俗にかまいたちといふほ、かくのごとく甚しからねど、此筋にあたるものほ、刄(ヤイバ)をもて裂たるごとく疵つく、はやく治せざれば死にも及ぶとなん。これは上方にてはなきことなりと思ひしに、今子のとし、が相識人の下婢、わづかの庭の間にて、ゆゑなくうち倒れたり。さてさまざまに抱へたすけて、正氣に復して後見れば、頰(ホウ)のわたり刀もて切たるごとく疵付しとなん。卽これなるべし。又是につきて、ある人の話に、下總國大鹿村の弘教寺の小僧、この風にあたりて惱みしに、古曆を霜にして[やぶちゃん注:夜霜に晒すことか?]付しかば、忽ち治したるとなり。曆を霜にして付るといふことは、予もかねて聞及びしが、これは現證なり。下總甲斐の邊にては、窓明り障子なども曆にて張る。かゝれば彼風いらずといへり。さて其わたりにては、風神太刀を持といふより、かまへだちと稱(トナ)ふとかや。かまいたちと稱(トナフ)るは、此語をあてやまれるにや、是は語に理あり。

   *

「下總國弘教寺」前に掲げた「關田次筆」のそれには「下總國大鹿村の弘教寺」とあり、これは現在の茨城県常総市豊岡町にある浄土宗寿亀山天樹院弘経(ぐきょう)寺ここではないので注意!)の公式サイトのこちらに、同寺の嘆誉良肇上人(延文四(一三五九)年生まれ)が『下総相馬郡大鹿村(現在の取手市)に草庵を設け、弘経寺と称したが、飯沼の弘経寺と区別するため「新弘経寺」と呼』んだというのが、ここに出るそれであると考えてよかろう。孰れにせよ、「弘經寺」の誤りである。

「古曆を黑燒にして付けたらなほつた」先の「北越奇談」にも同処方があるが、民間療法ではしばしば古い暦(こよみ)の服用がこのような治療に用いられる。天文の運行を示して名指した暦には相当な呪力があると考えられたからであろう。]

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