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2017/03/28

柴田宵曲 續妖異博物館 「地中の別境」(2) /「地中の別境」~了


 

「稽神錄」に出てゐるのは、ずつと規模の小さな話で、建德縣の役人桂從義なる者の家人が山へ薪を伐りに行くと、不斷通る山路に石の崩れた跡がある。何の氣なしに覗いて見たら、そこに一室があつて、金や漆で飾つた牀がいくつも置いてあり、敷物の類もすべて新しい。その人は暫く牀の上に坐つてゐたが、誰も出て來る樣子がない。簞の下に角の柄の小刀があつたので、それを懷ろに入れて出て來た。崩れた石をもとのやうに塞ぎ、しるしを付けて歸つたが、家の者に告げて出直して見ると、石壁は固く鎖されてどこだかわからなかつた。地中の世界といふよりも地中の一室といふ方が適當な話で、その小刀にも後日譚らしいものは見當らぬ。西洋の話では、こんなところによく小人が住んでゐて、不思議な寶物をくれたりするが、こゝの居住者は何者であつたか。牀や敷物まで備へてある以上、無住の筈はない。石壁の固く鎖されたのも、侵入者の再來を嫌つた爲と思はれる。

[やぶちゃん注:「牀」ここは私は「ねだい」と訓じたい。寝台である。

「簞」「はこ」と訓じ、薄く削った竹で編んだ小物入れの意ととっておく。「簞」単漢字で「簞笥」の意とするのは私には少し抵抗がある。

「角」「つの」。獣類のそれ。

 以上は「稽神錄」の「桂從義」。「太平廣記」の採録より、例の仕儀で引く。

   *

池陽建德縣吏桂從義,家人入山伐薪、常字所行山路、忽一石崩倒。就視之、有一室、有金漆柏牀六張、茭薦芒簟皆新、金銀積疊。其人坐牀上、良久、因揭簟下、見一角柄小刀、取内懷中而出。扶起崩石塞之、以物爲記、歸呼家人共取、及至則石壁如故、了無所睹。

   *]

「御伽厚化粧」にある「藪中の隱里」は播州印南郡の話である。竹屋の庄兵衞といふ有德人があつて、屋敷の裏には五六町も續く竹藪のあるところから、竹屋と呼ばれて居つた。或日淺葱無垢に紗の十德を著て、頭を總髮にした七十餘りの老人がやつて來て、拙者は京都の者で穴山怪徹と申しますが、近頃勤めをやめて隱居致すことになり、然るべき隱居地を探しましたところ、なかなか思はしいところが見付かりませぬ、貴殿の大藪の内がまことによい土地なので、こゝを貸して下さるわけには參りますまいか、と申し入れた。庄兵衞は一見して、尋常の人物でないことがわかつたので、お易い御用でございますが、何分久しく茂りました藪の事で、御隱居地だけ竹を伐り、地ならしなどを致しましたら、時間もかゝり、お物入りも大變でございませう、まだ他に地形のいゝところがある筈でございますから、何卒適當の場所をお見立て下さい、と答へた。いやいや藪の中を貸してさへいただければ、竹一本切り拂ふことも要りませぬ、たゞそのまゝで拜借致したい、愈々お貸し下さるなら、この十二日に引越して參ります、と云ふ。何だかわけもなささうな話なので、庄兵衞も直ちに承諾し、いづれ小さな家を建てることであらうが、その筋は男どもにも手傳はせよう、などと考へてゐると、十二日を過ぎても何の音沙汰もない。そのうちに三十日ばかりたつて、老人はまたやつて來た。先日は勝手なお願ひをお聽き屆け下さつて、忝うござつた、十二日に妻子どもは引き移り、早速御挨拶に參る筈でありましたが、内普請などで取れ込み、延引の段、平にお許し下さい、拙者は隱居の身の上で、世間との付き合ひは致さず、殊に人間に逢ふことは面倒に存じますから、お藪の中に住みましても、重ねてお見舞ひも致しますまい、この儀は御宥免を願つて置きます、たゞこの御恩返しには貴殿御一生のうち、何か御難儀に及ぶ事がありました節は、-度だけは御助力仕ります、藪の中に來て拙者の名をお呼び下さい、と云つて歸つて行つた。庄兵衞もはじめて彼が人間でなしに、京都の狐であることを知つたものの、その後彼の姿を見る機會は絶無であつた。

[やぶちゃん注:「播州印南郡」「いんなみぐん」と読む。播磨国(現在の兵庫県)にあった旧郡(「南」は当て字であって方角とは無関係)。近代の郡域は概ね、現在の高砂市の大部分・姫路市の一部・加古川市の一部に当たる。

「五六町」一町は一〇九メートル。五四六から六五五メートル弱。

「十德」(じつとく(じっとく))は近世に男性が小袖(こそで)の上に着用した上衣。後の羽織の原形ともされる。二幅(ふたの:約六八〜七六センチメートル)の広袖で胸紐・菊綴(きくとじ:縫い合わせ箇所に付けられた総(ふさ)飾り)がある。江戸時代には中間(ちゅうげん)・小者(こもの)の服装として「十徳四幅袴(じっとくよのばかま)」が決まった形となっていた。

 以下に続くこれは「御伽厚化粧卷之二」の巻頭話「四 叢中之隱里」である。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここから視認出来る。ただ、この事例、この章に相応しいとは私は思わない。]

 二十年ばかりたつて庄兵衞の妻女が病氣になり、あらゆる醫者を招いて治療に手を盡したが、一つも驗が見えず、次第弱りに弱つて來た。庄兵衞も思案に盡きて、往年の怪徹の一言を思ひ出し、ひそかに藪の中へ一町ばかりも入つて、怪徹老、怪徹老、と呼んで見た。直ちにあツと答へて現れたのは、三十年前に見た通り、淺葱無垢に紗の十德を著た怪徹である。依然として七十餘りの老人で、顏色も步き方も少しも變つてゐない。互ひに久闊の挨拶を述べた後、拙者をお呼びなされましたのは、定めて何か御用、といふ怪徹を座敷に伴ひ、妻女の病氣の話をして、何とか本復すべき方法はござるまいか、と尋ねた時、怪徹は次のやうに答へた。御内儀の命數は未だ盡きて居りません、これはあまり醫者をお替へになりますため、藪醫者どもに病症がわからず、藥の盛り違ひと存じます、最初にお見せになつた菅沼仲的の見立がよろしいやうですから、仲的の藥方に拙者の用ゐるものを加へましたら、たちどころに御本復です――。庄兵衞は夢がさめたやうな氣持になつて、急いで仲的を呼びにやり、怪徹に引き合せると、怪徹が古今の醫書を引用して病歷を説くこと、恰も神の如くであつた。怪徹の指圖に從つて二服の藥を調合し、一服煎じて飮ませたら、妻女の容體は忽ちよくなり、粥が食べたいといふほどになつた。

 家内の空氣は一變した。怪徹は庄兵衞に向ひ、最早御心配はありません、仲的に委細話して置きましたから、早晩御全快なさるでせう。拙者は久しく貴殿の土地に住ひながら、まだ住所をお目にかけて居りません、今夜これから御同道致しませう、と云ひ出した。庄兵衞はいづれ改めてと云つたけれど承知せず、一緒に藪の中へ入つて行つた。一町餘りも來たと思へば、嘗て見かけたことのない大きな門があり、門番の足輕は怪徹を見て平伏する。式臺には上下姿の士が、頭を板間に擦り付けて出迎へた。怪徹は綺麗な一間に庄兵衞を伴ひ、大書院へお通し申すべきであるが、勝手に遠いので、こゝでゆるゆるお話を承りませう、と云ふ。こゝが彼の居間であるらしい。それより奧は妻子の居間と見えて、簾を半ば卷き上げた廊下を女達が行き通ひ、そらだきの匂ひが風に漂つて來る。臺所の方には男女が大勢集まつて、今宵の珍客のために用意をする模樣であつたが、不思議な事に暫く話す間、盃一つ、茶一杯持つて出なかつた。庄兵衞が辭去しようとすると、折角お招き申しながら、拙者の事なればおもてなしも出來ず、近頃殘念の至り、と云ひ、怪徹自身玄關まで送り出た。士どもは提燈をともして門外まで送る。門を出て十步ほど來て顧みれば、今の屋敷は影もなく、暗い竹藪に秋風の音が聞えるのみであつた。妻女の病氣は頓(とみ)に快方に向ひ、十日ばかりの間に全く快癒したが、怪徹は再び姿を見せなかつた。

 この話は舞臺も人物も道具立ても、すべて日本流に出來上つてゐるに拘らず、どこかに支那の匂ひがする。必ずしもその次に出て來る「千日醉眠酒」の話が「搜神記」にあるためばかりではない。地中の世界といふことはないけれども、竹一本も伐らずに引き移り、誰の目にも入らぬとすれば、地中と解する外はあるまい。怪徹が庄兵衞を伴つた邸宅は狐一流の幻術で、一杯の茶も持つて來なかつたのもそのためであらう。門を出づること十步、已にその館の所在を失するが如きは、支那妖異談の常套手段と云つていゝほど、頻出する事柄である。

[やぶちゃん注:『その次に出て來る「千日醉眠酒」の話』「御伽厚化粧」の先の話の次が「五、千日醉眠酒」である(国立国会図書館デジタルコレクションの画像のから始まる。墓場から酔いが醒めて蘇生する面白いシーンが挿絵として次頁に出る)。これは確かに柴田の言う如く、「搜神記」の「卷十九」にある著名な一話が種本である。原話は漢文の授業でも私がよくやったように個人的に好きな笑話で、短いので以下に引いておく。ダメ押しのオチがすこぶるいい。

   *

狄希、中山人也、能造千日酒飲之、千日醉。時有州人、姓劉、名玄石、好飲酒、往求之。希曰、「我酒發來未定、不敢飲君。」。石曰、「縱未熟、且與一杯、得否。」。希聞此語、不免飲之。復索、曰、「美哉、可更與之。」。希曰、「且歸。別日當來。只此一杯、可眠千日也。」。石別、似有怍色。至家、醉死。家人不之疑、哭而葬之。經三年、希曰、「玄石必應酒醒、宜往問之。」。既往石家、語曰、「石在家否。」。家人皆怪之曰、「玄石亡來、服以闋矣。」。希驚曰、「酒之美矣、而致醉眠千日、今合醒矣。」。乃命其家人鑿冢、破棺、看之。冢上汗氣徹天。遂命發冢、方見開目、張口、引聲而言曰、「快者醉我也。」。因問希曰、「爾作何物也。令我一杯大醉、今日方醒、日高幾許。」。墓上人皆笑之。被石酒氣衝入鼻中、亦各醉臥三月。

   *]

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