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2017/04/23

柴田宵曲 續妖異博物館 「羅生門類話」

 

 羅生門類話

 

 近江守といふだけで名は傳はつて居らぬが、その館(やかた)に若い男どもが集まつて、今昔の話をしたり、碁や雙六を打つたりして酒を飮んでゐるうちに、安義の橋の話になつた。昔はこの橋へ人も行つたものだが、今は絶えて人が行かなくなつた、と一人が云ひ出すと、いや安義の橋を渡るぐらゐは自分にも出來る、どんな恐ろしい鬼がゐようとも、この御館にある一の鹿毛にさへ乘れば渡れぬ筈がない、と力む男があつた。一座の者は口を揃へて、それは面白い、眞直ぐに行かずに橫道を𢌞つたのでは、譃か本當かわかるぞ、と云ひ、端(はし)なく一場の爭論になつた。この事が近江守の耳に入つて、無益の事を云ひ爭ふ者どもぢや、倂し馬はいつでも貸してやるぞ、と云はれたので、もうあとへ引込むわけに往かぬ。已むを得ず、馬の尻の方に油を多く塗り、腹背を強く結び、輕やかな裝束を著けて乘り出した。已に安義の橋の橋詰めにかゝつた頃は、先程の酒も興奮もさめかけてゐる。日も山の端近くなつて、何となく心細げである上に、人里遠く離れた場所で、振り返つて見ても家の夕煙りが幽かに目に入るに過ぎぬ。橋の半ばまで來ると、思ひがけず人が欄干にもたれてゐる。然もそれが女で、濃い紅(くれなゐ)の袴を長く穿き、口許を袖で覆うて居つたが、馬上の男が通り過ぎるのを見て、恥かしながら嬉しいと思つた樣子である。これが普通の場所であつたならば、男の方も自分の馬に乘せて行きたいところであるが、音に聞えた安義の橋の上では、今頃こんな女のゐるわけがない。必定鬼であらうと分別して、目を塞いだまゝ走り過ぎる。女は男が何も言はずに通り過ぎるのを見て、これはつれない、私は思ひがけぬ場所に捨てて行かれた者でございます、せめて人里までその馬でお連れ下さい、と言葉をかけた。「今昔物語」の作者はこゝに「頭身の毛太る樣に」覺えたといふ形容を用ゐてゐるが、男は馬を早めて行く。あら情(つれ)なの人や、と後から追つて來る女の聲は、もう前のやうな可憐なものではなかつた。男は一心不亂に觀世音菩薩を念じ、駿馬に鞭打つて駈け拔けようとする。鬼は馬の尻に手をかけて引摺らうとしたが、油で滑つて思ふやうにならぬ。男が走りざまに見返ると、朱色の顏は圓座のやうに廣く、額に琥珀色の目が一つ、手の指は三つで五寸ばかりの鋭い爪が生えてゐる。頭髮は蓬の如く亂れ、身の丈九尺ばかりもある鬼であつた。男は肝潰れながら、たゞ觀世音を念じて走るほどに、漸く人里らしいところまで來た。そこまで追つて來た鬼は、また逢はうぞ、と云つて消え失せてしまつた。

[やぶちゃん注:「安義の橋」「あぎのはし」は通常は「安吉の歌詞」で近江国蒲生郡安吉郷の地区内を流れていた日野川(現在の滋賀県中部(湖東地域)を流れる)に架かっていた橋と推定されている。「梁塵秘抄」にも出、かつては近江の名所として京でも知られていたものらしが、それが平安末期にはかくも怪異出来の場所とされて人の通りもなくなったのは解せぬ。

「端なく」(はしなく)副詞で「思いがけなく・出し抜けに」の意。

「頭身の毛太る樣に」「かしらみのけ、ふとるやうに思ひければ」で、「今昔物語集」で頻繁に現われる最大級の恐怖感覚を現わす常套表現であるが、言わずもがな、芥川龍之介が「羅生門」で、下人が門の二階の死骸の中に、松の木端に灯をともして蹲っている老婆を見つけたシークエンスの後に、『下人は、六分の恐怖と四分の好奇心とに動かされて、暫時は呼吸(いき)をするのさへ忘れてゐた。舊記の記者の語を借りれば、「頭身(とうしん)の毛も太る」やうに感じたのである。』と表現したことで、誰しも知るところの恐怖の語として今も生きている。

 この話は「今昔物語集」の「卷第二十七」の「近江國安義橋鬼噉人語第十三」(近江の國の安義(あき)の橋の鬼、人を噉(くら)へる語(こと)第十三)であるが、これは既に私の柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 目一つ五郎考(3) 一つ目と片目の注で電子化注を行っている。そちらを参照されたい。]

 それから近江守の館までどうして歸つたか、男は殆ど何も覺えぬくらゐであつた。館の人々は彼を出迎へて、口々にいろいろ問ひかけたが、男は腑拔けのやうになつてものも言はぬ。皆で氣を取り鎭めて、漸く安義の橋の顚末を聞くことが出來た。近江守は無益の爭論をして命を失ふところだつたではないかと戒めながら、馬はその男に與へた。男はしたり顏で家に歸り、妻子眷屬に安義の橋の話をして聞かせたが、内心の恐怖は全く去らぬ。その後も屢々家に怪しい事があるので、陰陽師(おんやうじ)に問ふと、これこれの日は重く愼むやうにといふことであつた。その日は朝から門をさし固めて、堅く物忌みをしてゐるところへ、門を敲く者がある。この男には同腹の弟があつて、陸奧守の家來になり、一人の母と一緒に任地に下つてゐたのが、久しぶりに歸つて來たのである。今日は堅い物忌みだから、明日になつたら對面しよう、それまでは人の家でも借りて居るやうに傳へさせたが、もう日は暮れてゐる。自分一人はどうにでもなりますが、連れて來た供の者やいろいろ持つて來た物の始末に困ります、實は母上も疾うに亡くなられましたので、そのお話も申さなければなりません、と云ふ。年頃老母の事は心許なく思つてゐたところではあり、この話を聞くと淚がこぼれて、たうとう禁を破つて逢ふことにした。廂の間の方に通して、兄弟泣く泣く語り合つてゐる。妻は簾の中で聞いてゐるうちに、どういふきつかけからか、二人が組打ちをはじめて、上になつたり下になつたりしてゐる樣子である。どうなさいました、と聲をかければ、早くその刀を持つて來い、と云ふ。氣でもお違ひなさいましたか、喧嘩はおやめなさい、と云つて刀を持つて行かなかつたところ、早く持つて來い、それではわしを死なせるつもりか、といふ聲が聞えたのを最後に、今度は弟が兄を組み伏せて、首をふつと食ひ切つてしまつた。取つた首を携へ、躍り上つて步きながら妻の方を見返つた顏は、夫から聞いた通りの鬼であつた。家内の者どもは皆泣き騷いだけれど、もうどうにもならぬ。鬼の姿は見えず、持つて來た品物とか、乘つて來た馬とかいふものは、すべて何かの骨や頭の類であつた。

 この話は何よりも謠曲の「羅生門」に似てゐる。つはものどもの酒宴に鬼の話が出て、爭論の末に渡邊綱が出かける順序は殆ど同じ事である。尤もこの男は綱のやうな勇士でないから、鬼の腕を切るどころの話でなく、辛うじて安義の橋を渡つて逃げ了せたにとゞまるが、羅生門の鬼が「時節を待ちて又取るべし」と云つたのと、腕を切られもせぬ安義の橋の鬼が「吉(よし)ヤ然リトモ遂ニ會ハザラムヤ」と云つたのとは揆を同じうするやうである。謠曲の作者は「今昔物語」のこの話からヒントを得たものと思はれる。

[やぶちゃん注:『謠曲の「羅生門」』観世信光(永享七(一四三五)年或いは宝徳二(一四五〇)年~永正一三(一五一六)年)作の能楽。羅生門に巣くう鬼と戦った渡辺綱の武勇伝を謡曲化した五番目物の鬼退治物。電子化してもよいが、こちらの宝生流謡曲 「羅生門」の』ページが、謡曲本文の電子化もなされており、いろいろ周辺的事象についての解説も豊富である。必読!

「渡邊綱」(天暦七(九五三)年~万寿二(一〇二五)年)はウィキの「渡辺綱」によれば、『嵯峨源氏の源融の子孫で、正式な名のりは源綱(みなもと の つな)』。『通称は渡辺源次』。源頼光(天暦二(九四八)年~治安元(一〇二一)年:父は鎮守府将軍源満仲。藤原道長の側近として知られ、後の清和源氏の興隆の礎を築いた名将)『四天王の筆頭として知られる』。『武蔵国の住人で武蔵権介だった嵯峨源氏の源宛の子として武蔵国足立郡箕田郷(現・埼玉県鴻巣市)に生まれる。摂津源氏の源満仲の娘婿である仁明源氏の源敦の養子となり、母方の里である摂津国西成郡渡辺(現大阪府大阪市中央区)に』住み、『渡辺氏の祖とな』った。『摂津源氏の源頼光に仕え、頼光四天王の筆頭として剛勇で知られた。また先祖の源融は『源氏物語』の主人公の光源氏の実在モデルとされたが、綱も美男子として有名であった。大江山の酒呑童子退治や、京都の一条戻橋の上で鬼の腕を源氏の名刀「髭切りの太刀」で切り落とした逸話で有名。謡曲『羅生門』は一条戻橋の説話の舞台を羅城門に移しかえたものである』。寛仁四(一〇二〇)年、『主君である頼光が正四位下・摂津守に叙されると、綱も正五位下・丹後守に叙され』ている。

「吉(よし)ヤ然リトモ遂ニ會ハザラムヤ」「……よし! よし!……たとえ今逃げおおせたとしても……何時か必ず再び会って……おのれの命、これ、捕らずに! おくものかッツ!」。

「揆を同じうする」「揆」は「き」で「軌を一にする」と同義。]

「前太平記」によれば、綱は雨の夜に羅生門まで出向いて鬼に出逢つたのではない。夜道にひとり佇む美女に同情して馬に乘せ、その家まで送り屆けようとする途中、忽ち鬼女と變じて綱を宙に吊り上げる。そこで刀を拔いて腕を切り落すのであるが、この趣向の端緒は安義の橋の女に見えてゐる。男は更に來し方行く末も思ほえず、搔き乘せて行かばやと考へたが、再案して通過するのである。綱だからこそ腕を切つて脱却し得たので、もしこの男が馬に乘せたら、卽座にお陀佛であつたに相違ない。物忌みに當つて腕を取り返しに來る一段も、「前太平記」では伯母になつてゐるが、これは弟を振り替へたのであらう。取り返すものはないから、命を取りに來たのである。綱のところへ來た鬼も、腕を取り返すばかりでなく、組み伏せて首を食ひ切りたかつたかも知れぬが、相手は賴光四天王中の隨一人で、さう手輕には往かなかつた。

[やぶちゃん注:「前太平記」のそれは「卷第十七」の「洛中夭怪(えうかい)の事 幷 渡邊綱鬼の腕を斬る事」である。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここから視認出来る。なお、この話は「平家物語」の「劔卷」にあるものとコンセプトは殆んど同じである。]

「今昔物語」に現れた鬼の話はいくつもあるが、もう一つ羅生門の參考になるのは「獵師母成鬼擬敢子語」である。兄弟の獵師が山へ行つて、高い木の又に横樣に木を結ひ、そこにゐて鹿の來るのを待ち構へる。兩人は或距離を置いて向ひ合つてゐるわけである。九月の下旬で夜は極めて暗く、何者も見えぬから、たゞ耳ばかり澄ましてゐたが、鹿の來るけはひがない。そのうちに兄の登つてゐる木の上から、何者か手を下して髮を摑んだ。驚きながらも摑まれた手を探つて見ると、かさかさした人の手である。兄は眞暗な中で弟に聲をかけて、わしの髻(もとどり)を取つて上に引上げようとする者があつたら、どうするか、と尋ねた。現在髻を摑まれた者の言ひ草としては暢氣過ぎるやうだが、弟は目分量で射たらよからうと云ふ。實は今わしの頭を摑んで引き上げるやつがあるのだ、と聞いて、弟は聲を目當てに鴈俣(かりまた)の矢を放つた。正に暗中のウイルヘルム・テルである。慥かに手應へがあつたらしいので、頭の上を探つて見たら、細い手が髻を摑んだまゝ手首から斷ち切られてゐる。鹿は來ず、怪しい手に摑まれたりしたので、その夜は斷念して家に歸つた。兄弟には起ち居も不自由な老母があつたが、二人が山から戾ると頻りに唸る聲が聞える。どうかなされたか、と聞いても返事がない。灯をともして射切つた手を見るのに、どうも老母の手に似てゐる。二人が老母の居間の遣戸(やりど)を明けると、寢てゐた老母が起き上り、おのれ等は、と云つて摑みかゝらうとする。その時例の手を投げ込み、これは御手か、と云つて、またぴたりと締めてしまつたが、老母はほどなく死んだ。兄弟が立ち寄つて見れば、母の手は懷かに手首から射切られて居つた。母が老耄の結果、鬼になつて子供を食はうとしたのだと書いてある。

[やぶちゃん注:以上はかなり知られた「今昔物語集 第二十七卷」の「獵師母成鬼擬噉子語第二十二」(獵師の母、鬼と成りて子を噉(くら)はむと擬(す)る語(こと)第二十三)である。私は既に「諸國百物語卷之三 十八 伊賀の國名張にて狸老母にばけし事」の注で電子化注しているので参照されたい。]

 かういふ話は後世の化け猫によくある。化け猫の場合は大概猫が食ひ殺して、老母に化けてゐるやうであるが、これは母がそのまゝ鬼になつたので、羅生門の鬼のやうな恐ろしいものではない。倂し羅生門の鬼もうしろから綱の兜のしころを摑んでゐる。切られた腕があとに殘ることも同じである。老母は片腕切られたまゝ死ぬのだから、何かに化けて取り返しに來る一條を缺くのは云ふまでもない。

「山嶋民譚集」(柳田國男)にある駄栗毛左京は、佐渡の本間氏の臣下であつた。風雨の夜に馬が急に進まなくなつたり、熊の如き手で馬の尾を摑まれたりするのは、渡邊綱の佐渡版に近いが、これは越後の彌彦山附近に住む農夫彌三郎の母親で、惡念增長して鬼女となつたものであつた。左京に腕を切られた後、毎晩のやうに戸を敲いて哀願し、身分を白狀して腕を返して貰ふのだから、大した鬼ではない。片腕返還の際、左京との約束によつて永久に佐渡を去つたとある。

[やぶちゃん注:「駄栗毛左京」の姓は以下に示す柳田國男の原典では「だくりげ」と読んでいる。但し、サイト「福娘童話集」のこちらを見ると、「たくもさきょう」(歴史的仮名遣なら「たくもさきやう」)と読んでいる。

 以上は柳田國男の「山島民譚集(一)」(大正三(一九一四)年刊)の中の河童伝承の手接ぎ等に続く、「羅城門」の標題パートの中の「鬼」(頭書きパート)附近に出る。当該の「羅城門」の前半部分に当たる、「鬼」パートの前後のみを「ちくま文庫」版全集から引く。本文自体は連続した記述になっているため、ここだけを抜き出すとやや読み難いのは悪しからず。本文は漢字カタカナ混じりである。但し、底本は新字新仮名。ルビは拗音がないが、そのままで附した。頭書きは省略した。しかし、こういう文章を新字新仮名にするというのは、まっこと気持ちの悪いキテレツな文章が出来上がるという美事な例と私は存ずる。打ちながら、虫唾が走った。

   *

羅城門 肥前ト甲斐・常陸トノ河童談ヲ比較シテ最初ニ注意シ置クべキコトハ、後者ニハ馬ト云ウ第三ノ役者ノ加ワリテアルコト也。但シ釜無(カマナシ)ノ川原、又ハ手奪川(テバイガワ)ノ橋ノ上ニ在リテハ、馬ハマダ単純ナル「ツレ」ノ役ヲ勤ムルニ過ギザレドモ、追々研究ノ歩ヲ進メ行クトキハ、此ノ系統ノ物語ニ於テハ、馬ガ極メテ重要ナル「ワキ」ノ役ヲ勤ムべキモノナルコトヲ知ル。ソレニハ先ズ順序トシテ羅城門(ラジヨウモン)ノ昔話ヲ想イ起ス必要アリ。昔々源氏ノ大将軍摂津守(セツツノカミ)殿頼光ノ家人(ケニン)ニ、渡辺綱通称ヲ箕田源二ト云ウ勇士アリ。武蔵ノ国ヨリ出タル人ナリ。或ル夜主人ニ命ゼラレテ羅城門ニ赴キ、鬼卜闘イテ其ノ片腕ヲ切リ取リテ帰リ来ル。其ノ腕ヲ大事ニ保存シ置キタルニ、前持主ノ鬼ハ摂津ノ田舎ニ住ム綱ノ伯母ニ化ケテ訪問ン来タリ、見セヌト云ウ腕ヲ強イテ出サシメ之ヲ奪イ還(カエ)シテ去ル。事ハ既ニ赤本乃至(ナイシ)ハ凧(タコ)ノ絵ニ詳(ツマビラ)カナリ。羅城門ニハ古クヨリ楼上ニ住ム鬼アリテ悪(アシ)キ事バカリヲ為シ居タリシガ、一旦(イツタン)其ノ毛ダラケノ腕ヲ箕田源二[やぶちゃん注:渡辺綱の通称。]ニ切ラレシ頃ヨリ、頓(トミ)ニ其ノ勢ヲ失イシガ如クナレバ、多分ハ夫ト同ジ鬼ナランカ。而シテ其ノ取リ戻シタル腕ハ帰リテ後之ヲ接ギ合セタリヤ否ヤ、後日評ハ此ノ世ニ伝ワラズトイエド(イエドモ)、兎(ト)ニモ角(カク)ニモ近代ノ河童冒険譚ト頗(スコブ)ル手筋ノ相似タルモノアルハ争ウべカラズ。羅城門及ビ腕切丸ノ宝剣ノ話ハ、予ノ如キハ四歳ノ時ヨリ之ヲ知レリ。頼光サント太閤サントヲ同ジ人カト思イシ頃ヨリ之ヲ聞キ居タリ。全国ニ於テ之ヲ知ラヌ者ハアルマジト思エリ。然(シカ)ルニ、海ヲ越ユテ佐渡島ニ行ケバ、此ノ話ハ忽(タチマ)チ変ジテ駄栗(ダクリゲ)毛左京ノ武勇談トナリテ伝エラル。左京ハ佐渡ノ本間殿ノ臣下ナリ。或ル年八月十三日ノ夜、河原田(カワラダ)ノ館ヨリノ帰リニ、諏訪(スワ)大明神ノ社(ヤシロ)ノ傍ヲ通ルトキ俄(ニワカ)ノ雨風ニ遭(ア)ウ。乗リタル馬ノ些(スコ)シモ進マザルニ不審シテ後ノ方ヲ見レバ、雨雲ノ中カラ熊ノ如キ毛ノ腕ヲ延バシテ馬ノ尾ヲ掴摑(ツカ)ム者アリ。大刀(タチ)ヲ抜キテ之ヲ斬リ払エバ鬼女ノ形ヲ現ジテ遁(ノガ)レ行キ、其ノ跡ニ一本ノ逞(タクマ)シキ腕ヲ落シテ在リ。之ヲ拾イテ我ガ家ニ蔵シ置キタルニ、其ノ後毎晩ノヨウニ彼ノ処ニ来テ戸ヲ叩キ哀願スル者アリ。九月モ中旬ニ及ビテ終(ツイ)ニ対面ヲ承諾シタル処、這奴(コヤツ)ハ又化ケズトモ既ニ本物ノ老婆ナリキ。羅城門ノ鬼ノ如ク詐欺・拐帯(カイタイ)ヲモセズ、又何等ノ礼物ヲモ進上セザリシ代リニハ、散々ニ油ヲ取ラレテ閉口シ、悉(コトゴト)ク其ノ身上ヲ白状シタル後、イトド萎(シナ)ビタル右ノ古腕ヲ貰イ受ケテ帰リタリ。彼女ノ言(ゲン)ニ依レバ、以前ハ越後国弥彦(ヤヒコ)山附近ノ農夫弥三郎ナル者ノ母ナリ。悪念増長シテ生キナガラ鬼女トナリシ者ナルガ、駄栗毛氏トノ固キ約束モアリテ、再ビ此ノ島ニハ渡ラヌ筈ニテ国元へ還リ、後ニ名僧ノ教化ヲ受ケテ神様トナル。今ノ弥彦山ノ妙虎天(ミヨウトラテン)卜云ウ祠(ヤシロ)ハコノ弥三郎ガ老母ナリ〔佐渡風土記〕。越後方面ニ伝エタル噂ニ依レバ、神ノ名ハ妙多羅天(ミヨウタラテン)トアリ。岩瀬ノ聖了寺ノ真言法印(ホウイン)之ヲ済度(サイド)シ、今ハ柔和ナル老女ノ木像ト成ッテ阿弥陀堂ノ本尊ノ脇ニ安置セラル。但シ話ノ少シク相違スルハ、腕ハ我ガ子ノ為ニ斬ラレタリト云ウコト也。越後三島郡中島村ニ弥三郎屋敷ト云ウ故迹(コセキ)アリ。鬼女ハ此ノ地ノ出身ナリト云ウ。弥三郎或ル夜鴨網(カモアミ)ニ出掛ケテ鳥ヲ待チ居クルニ、不意ニ空中ヨリ彼ノ頭ノ毛ヲ摑ム者アリ。持ッタル鎌ヲ振イテ其ノ腕ヲ斬リ取リ家ニ帰リシガ、母親ハ腹ガ痛ムト言イテ納戸(ナンド)ニ臥(フ)シ起キ出デズ。翌朝戸ノ外ヲ見レバ鮮血滴リテ母ノ窻(マド)ニ入レリ。老婆ハ片腕無キ為ニ鬼女ナルコト露顕シ、終ニ家ヲ飛ビ出シテ公然ト悪行ヲ営ムコトトナリタリト云ウ〔越後名寄(エチゴナヨセ)四〕。此ノ話ニハ言ウ迄モ無ク前型アリ。『今昔物語』ノ中ニモ之ト似タル鬼婆ノ腕ノ話アリテ、倅(セガレ)ガ「スワ此カ」ト切リタル片腕ヲ母ノ寝処ニ榔擲ゲ込ミタリトアル話ナリ。而モ弥三郎婆ノ話ハ越後ニハ甚ダ多シ。刈羽(カリワ)郡中鯖石(ナカサバイシ)村大字善根(ゼコン)ニテハ、狼(オオカミ)ニ成ッテ漆山(ウルシヤマ)ト云ウ処ニテ人ヲ食イ、後ニ我ガ子ノ為ニ退治セラレテ八石山(ハチコクサン)ニ入ルト伝ウ。赤キ日傘ニ赤キ法衣ノ和尚ガ葬式ニ立ツトキハ、サテサテ有難イトムライジャト云イテ棺ヲ奪イ中ノ屍骸(シガイ)ヲ食ウ故ニ、飛岡ノ浄広寺ノ上人(シヨウニン)ノ代ヨリ青キ日傘ニ青キ法衣卜改メタリ〔日本伝説集〕。[やぶちゃん注:以下、略。]

   *]

 綱の切つた腕も、左京の切つた腕も、もとの持主に還つた以後の消息はわからない、「譚海」の記載によると、大坂の藤堂家の藏屋敷には化物の足を切り取つた話があり、天滿の別當の許に納めてあつたさうである。うしろ足らしく、節のところから切られて居り、犬の爪のやうなものが生えて居つた。月山(ぐわつさん)の刀で切つたといふことが傳はつてゐるだけで、それに關する武勇傳もなし、化物の正體に就いても全く記されてゐない。

[やぶちゃん注:これは「譚海 卷之二 藤堂家士の子切取たる化者の足の事」である。リンク先の私の電子化注でお読みあれ。]

 

南方熊楠 履歴書(その15) ロンドンにて(11) 大英博物館出入り禁止から帰国へ

 

 こんなことにて兄の破産のつくろいに弟常楠は非常に苦辛したが、亡父存日すでに亡父の一分と常楠の一分を含め身代となし、造酒業を開きおりしゆえ、兄の始末も大抵かたづけし。しかるに兄破産の余波が及んだので、常楠が小生に送るべき為換(かわせ)、学資を追い追い送り来たらず。小生大いに困りて正金銀行ロンドン支店にて逆為替を組み、常楠に払わせしもそれもしばらくして断わり来たれり。よって止むをえず翻訳などしてわずかに糊口し、時々博物館に之(ゆ)きて勤学するうち、小生また怒って博物館で人を撃つ。すでに二度までかかることある以上は棄ておきがたしとあって、小生はいよいよ大英博物館を謝絶さる。しかるにアーサー・モリソン氏(『大英百科全書』に伝あり、八百屋か何かの書記より奮発して小説家となり、著名な人なり。今も存命なるべし)熊楠の学才を惜しむことはなはだしく、英皇太子(前皇エドワード七世)、カンターベリーの大僧正、今一人はロンドン市長たりしか、三方へ歎訴状を出し(この三方が大英博物館の評議員の親方たりしゆえ)、サー・ロバート・ダグラスまた百方尽力して、小生はまた博物館へ復帰せり。この時加藤高明氏公使たりし。この人が署名して一言しくれたら事容易なりしはず、よって小池張造氏(久原組の重職にあるうち前年死亡せり)を経由して頼み入りしも、南方を予よりもダグラスが深く知りおれりとて加勢しくれざりし。しかるに、今度という今度は慎んでもらわにゃならぬとて、小生の座位をダグラス男の官房内に設け、他の読書者と同列せしめず。これは小生また怒って人を打つを慮(おもんぱか)ってなり。小生このことを快からず思い、書をダグラス男に贈って大英博物館を永久離れたり。小生は大英博物館へはずいぶん多く宗教部や図書室に献納した物あり。今も公衆に見せおるならん。高野管長たりし土宜(どき)法竜師来たとき小生の着せる袈裟法衣等も寄付せり。ダグラス男に贈った書の大意は、日本にて徳川氏の世に、賤民を刑するにも忠義の士(倒せば大石良雄)を刑するにも、等しく検使また役人が宣告文を読まず刑罰を口宣(こうせん)せり。賤民は士分のものが尊き文字を汚して読みきかすに足らぬもの、また忠義の士はこれを重んずるのあまり、将軍の代理としてその言を書き留むるまでもなく、口より耳へ聞かせしなり。さて西洋にはなにか手を動かすと、これを発作狂として処分するが常なり(乃木将軍までも洋人はみな狂発して自殺せりと思う)。日本人が人を撃つにはよくよく思慮して後に声をかけて撃つので決して狂を発してのことにあらず。今予を他の人々と別席に囲いてダグラス男監視の下に読書せしむるは、これ予を発狂のおそれあるものと見てのことと思う人は多かるべく、予を尊んでのことと思う人は少なかるべければ、厚志は千万ありがたいが、これまで尽力しくれた上はこの上の厚志を無にせぬよう当館に出入せざるべしと言いて立ち退き申し候。大抵人一代のうち異(かわ)ったことは暮し向きより生ずるものにて、小生はいかに兄が亡びたればとて、舎弟が、小生が父より受けたる遺産のあるに兄の破産に藉口して送金せざりしを不幸と思い詰(つ)めるのあまり、おのれに無礼せしものを撃ちたるに御座候。

[やぶちゃん注:「逆為替」金の受取側が「振出人」で、支払側が「名宛人」となる「為替手形」。現行では専ら、輸出代金の回収で用いられている。

「正金銀行」既出既注

「小生また怒って博物館で人を撃つ」前回の殴打事件が一八九七年十一月八日、今回のそれはそのほぼ一年後の一八九八年十二月六日で、しかも前回と同じ閲覧室であった。サイト「南方熊楠資料研究会」の「南方熊楠を知る事典」内のこちらのページの牧田健史氏の「英国博物館 The British Museum」によれば、この時のトラブルは『女性閲覧者の私語が原因となって館員との間で紛争となったもの』とある。

「大英博物館を謝絶さる」南方熊楠は閲覧室への出入禁止だけでなく、同博物館図書室自体の許されていた利用許可が停止されてしまったのである。

「アーサー・モリソン」イギリスのジャーナリストで作家、また東洋美術蒐集家でもあったアーサー・ジョージ・モリスン(Arthur George Morrison 一八六三年~一九四五年)。ウィキの「アーサー・モリソン」によれば、『ロンドンのイースト・エンドで生まれる。少年時代や教育については詳しいことは分かっていない』。一八八六年から一八九〇年まで『事務員として働いた後、新聞界に身を転じ、『ナショナル・オブザーヴァー』に籍を置いた。彼はここで様々な寄稿をするとともにロンドンのスラム街を描いた作品を発表、本として出版して評判を得た。以後スラムの生活を描いた小説などを多く発表』(Tales of Mean Streets(「貧民街の物語」 一八九四年)等)、『作家として名声を得た。東洋美術の第一人者としても著名で、蒐集した美術品は現在大英博物館に収蔵されている』。一八九四年に『シャーロック・ホームズが『最後の事件』によって連載終了になると、その穴を埋めるべく『ストランド・マガジン』はモリスンに新しい推理小説の連載を依頼した。こうして』一八九四年から一九〇三年まで、『探偵マーチン・ヒューイットの登場する推理小説が連載されることになる。マーチン・ヒューイットは決して超人的ではない平凡な探偵だが、ロンドンの風俗描写やシドニー・パジェットの挿絵などでなかなかの人気を博した。後年ヴァン・ダインやその他の評論家からも高く評価されている』とある。サイト「南方熊楠資料研究会」の「南方熊楠を知る事典」内のこちらのページの松居竜五氏の「モリソン Morrison, Arthur 1863-1945」によれば、『熊楠とは一八九八年頃から頻繁に付き合っていたようである』とあるから、この二度目の殴打事件の年の事件前に出逢いがあったものであろう。松居氏は続けて、『モリソンには、のちに日本美術に関する著作があり、あるいはそうした関心がもとで熊楠と知り合ったかと想像される。熊楠の方も、他の年配の学者連とは違って、そう歳の変わらないモリソンとは気楽に付き合っていたのだろう。英国国王も会員となっているサヴィジ・クラブで遇されたことを「モリソンごときつまらぬものが英皇と等しくこのクラブ員たること合点行かざりし」といぶかしがっていたくらいである』。『ところが、それから十数年経った一九一二年に、熊楠は最新版の『エンサイクロペディア・ブリタニカ』の中にモリソンの略伝を見出す。生存中の人物のために一項を設けることはたしかに破格の扱いであり、やっと熊楠もモリソンの名声の高さに気が付いたのであった。それにしても、次のように描きだされたモリソンの飾らぬ横顔は、読むものに好感を抱かせずにはいないであろう』として、大正三(一九一四)年六月二日附柳田国男宛書簡から以下を引いておられる。『この人一語も自分のことをいわず、ただわれはもと八百屋とかの丁稚なりし、外国語は一つ知らず、詩も作り得ず、算術だけは汝にまけずと言われしのみなり。小生誰にも敬語などを用いぬ男なるが、ことにこの人の服装まるで商家の番頭ごときゆえ、一切平凡扱いにせし。只今『大英類典』に死なぬうちにその伝あるを見て、始めてその人非凡と知れり。』。

「大英百科全書」前注に出、以前にも注したEncyclopædia Britannica(エンサイクロペディア・ブリタニカ:「ブリタニカ百科事典」)。

「英皇太子(前皇エドワード七世)」(Edward VIIAlbert Edward 一八四一年~一九一〇年)は当時は母ヴィクトリア女王が在位しており、「プリンス・オブ・ウェールズ」(皇太子)の立場にあった。彼の王としての在位は一九〇一年から一九一〇年までの九年に過ぎず、崩御とともに次男ジョージ五世(George VGeorge Frederick Ernest Albert 一八六五年~一九三六年)が王位を継いだ。

「カンターベリーの大僧正」当時のカンタベリー大司教(Archbishop of Canterbury:イングランドのカンタベリー大聖堂を大司教座とするローマ・カトリック教会の大司教)はフレデリック・テンプル(Frederick Temple 一八二一年~一九〇二年)。

「ロンドン市長」事件は一八九八年末であるから難しい。ネット上のデータでは一八九八年はSir John Moore なる人物で、翌一八九九年ならば、Alfred Newton なる人物である。後者か。

「サー・ロバート・ダグラス」既出既注

「加藤高明」既出既注

「小池張造氏(久原組の重職にあるうち前年死亡せり)」小池張造(ちょうぞう 明治六(一八七三)年~大正一〇(一九二一)年)は外交官。松川藩士の子として福島県に生まれた。明治二九(一八九六)年に東京帝国大学法科大学政治学科卒業後、外交官補となって朝鮮に勤務、翌年、英国在勤となり、加藤高明公使に能力をかわれた。明治三十三年に加藤が第四次伊藤博文内閣の外相に就任すると、秘書官兼書記官として本省に戻されたが、翌年には清国、翌々年には英国の公使館書記官となった。その後、ニューヨーク・サンフランシスコ・奉天の各総領事を勤め、明治四五(一九一二)年に英国大使館参事官となった。第一次山本権兵衛内閣では外務省政務局長、続く第二次大隈重信内閣の外相は再び加藤となり、その下で対華二十一カ条要求や中国第三革命をめぐって精力的に活動したが、外務官僚としては異例の志士的心情を持っていたことから何かと物議を醸した。寺内正毅内閣下で英国大使館参事官に任命されたが、辞職、阪神財閥の一つである久原本店の理事となって実業界入りした(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「書をダグラス男に贈って」「南方熊楠コレクション」の注によれば、『同日付の「陳状書」には、前回の事件を含めて日本人への度重なる侮辱があったと述べている』とある。

「高野管長たりし土宜(どき)法竜師」簡単に既注している。明治二(一八六九)年より高野山の伝法入壇に入った高僧。当時、真言宗法務所課長(明治一四(一八八一)年に二十七歳で就任)であった彼は、明治二六(一八九三)年にシカゴで開催された「万国宗教会議」に日本の真言宗の代表として、釈宗演(臨済宗円覚寺派管長)・芦津実全(天台宗)・八淵蟠竜(浄土真宗本願寺派)の仏教学者四名で渡米、ニュヨークを経て、ロンドンからパリへ向かい、仏教関係の資料の調査・研究を行ったが、この時、ロンドンで横浜正金銀行ロンドン支店長中井芳楠の家に於いて南方熊楠と面会、以来、没するまでの三十年間に渡って膨大な往復書簡を交わしている。南方熊楠より十三年上。なお、彼が高野山(派)管長となるのは後の大正九(一九二〇)年であるので注意されたい。但し、ここは南方熊楠の誤りではなく、この書簡執筆時には「高野管長」であったのだから、問題ない。しかし、彼が「来たとき」に「小生」南方熊楠が「着」していた「袈裟法衣等も寄付せり」というのは私にはよく意味が判らない。土宜は自身の着替えの予備として持って来ていた袈裟や法衣を熊楠に贈ったものででもあったか。

「乃木将軍までも洋人はみな狂発して自殺せりと思う」乃木希典(嘉永二(一八四九)年~大正元(一九一二)年)年九月十三日)の自刃は熊楠の帰国から十二年後のことである。この熊楠の断定的謂いは、その頃に手紙のやりとりをしていた外国人からの情報の基づくものと思われる。

「大抵人一代のうち異(かわ)ったことは暮し向きより生ずるものにて、小生はいかに兄が亡びたればとて、舎弟が、小生が父より受けたる遺産のあるに兄の破産に藉口して送金せざりしを不幸と思い詰(つ)めるのあまり、おのれに無礼せしものを撃ちたるに御座候」これはかなり意外な自己分析と言える。彼はその暴力事件の最初にして最大の原因は弟の送金不通に対する鬱憤の山積に基づくと言っているからである。これは熊楠が自己の精神状態を平静に保てずに、他虐的行為によって代償的に暴行を揮ったという心的複合{コンプレクス)を認めている内容であり、はなはだ興味深いからである。]

 

 しかるに、このことを気の毒がるバサー博士(只今英国学士会員)が保証して、小生を大英博物館の分支たるナチュラル・ヒストリー館(生物、地質、鉱物の研究所)に入れ、またスキンナーやストレンジ(『大英百科全書』の日本美術の条を書きし人)などが世話して、小生をヴィクトリアおよびアルバート博物館(いわゆる南ケンシングトン美術館)に入れ、時々美術調べを頼まれ少々ずつ金をくれたり。かくて乞食にならぬばかりの貧乏しながら二年ばかり留まりしは、前述のロンドン大学総長ジキンスが世話で、ケンブリジ大学に日本学の講座を設け、アストン(『日本紀』を英訳した人)ぐらいを教授とし、小生を助教授として永く英国に留めんとしたるなり。しかるに不幸にも南阿戦争起こり、英人はえらいもので、かようのことが起こると船賃が安くても日本船に乗らず高い英国船に乗るという風で、当時小生はジキンスより金を出しもらい、フランスの美術商ビング氏(前年本願寺の売払い品を見に渡来した人)より浮世絵を貸しもらい、高橋入道謹一(もと大井憲太郎氏の子分、この高橋をエドウィン・アーノルド方へ食客に世話せしときの珍談はかつて『太陽』へ書いたことあり。アーノルドも持て余せしなり)という何ともならぬ喧嘩好きの男を使い売りあるき、買ってくれさえすれば面白くその画の趣向や画題の解説をつけて渡すこととせしが、これも銭が懐中に留まらず、高橋が女に、小生はビールに飲んでしまい、南阿戦争は永くつづき、ケンブリジに日本学講座の話しも立消えになったから、決然蚊帳(かや)のごとき洋服一枚まとうて帰国致し候。外国にまる十五年ありしなり。

[やぶちゃん注:「バサー博士」イギリスの古生物学者で特に棘皮動物門ウミユリ綱関節亜綱 Articulata に属するウミユリ類を専門に研究していたフランシス・アーサー・バサー(Francis Arthur Bather 一八六三年~一九三四年)。当時は大英博物館地質学部助手。因みに、彼は明治二六(一八九三)年夏に日本を訪れ、東京帝国大学理科大学を見学、動物学教授箕作嘉吉や飯島魁らと逢い、三浦の臨海実験所も訪問していることから、日本への近親感があったことも、南方熊楠との関係をよいものとしたものと言える。熊楠とは一九九三年講談社現代新書刊の「南方熊楠を知る事典」によれば、『交際は一八九四年からはじまったようだが、一八九七年六月十三日には、熊楠バサー夫妻に軍艦富士を見学させ、翌年十一月一日には、英国で建造された軍艦敷島の進水式に招いている。バザー夫人はスウェーデン人で』、『熊楠はこの夫人とも親しくなったようで、浮世絵を贈ったりしている』。『また、熊楠を大英博物館の植物学部長ジョージ・マレーに紹介したのも』彼で、後年の名著、冠輪(かんりん)動物上門腕足(わんそく)動物門 Brachiopoda の腕足類の化石をテーマとした考証論文「燕石考(えんせきこう)」の『執筆においても、熊楠はバザーから多大の恩恵を受け』た。熊楠より四歳年上。

「ナチュラル・ヒストリー館(生物、地質、鉱物の研究所)」ロンドン・サウスケンジントンにある「ロンドン自然史博物館」(Natural History Museum)のこと。この当時は大英博物館の一部門で、永らくその扱いであったが、一九六三年には独自の評議委員会を持つ独立博物館となって大英博物館分館扱いではなくなっている。

「スキンナー」不詳。綴りは“Skinner”か。

「ストレンジ」不詳。綴りは“Strange”か。

「ヴィクトリアおよびアルバート博物館(いわゆる南ケンシングトン美術館)」現代美術・各国の古美術・工芸・デザインなど多岐にわたる四百万点の膨大なコレクションを中心にした国立博物館でロンドンのケンジントンにあるヴィクトリア・アンド・アルバート博物館(Victoria and Albert Museum)。ヴィクトリア女王(一八一九年~一九〇一年)と夫のアルバート公(一八一九年~一八六一年)が基礎を築いた。前身は一八五一年のロンドン万国博覧会の収益や展示品をもとに、一八五二年に開館した産業博物館であった。現在、先の自然史博物館・人類学博物館・科学博物館・インペリアル・カレッジ・ロンドンなどと隣接している(以上はウィキの「ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館」に拠る)。

「ロンドン大学総長ジキンス」既出既注

「ケンブリジ大学」ケンブリッジ大学(University of Cambridge)。ウィキの「ケンブリッジ大学」によれば、『イングランド国王の保護なども受けて発展をはじめ、現存する最古のカレッジ、Peterhouse(ピーターハウス)は』一二八四年の創立で、『アイザック・ニュートン、チャールズ・ダーウィン、ジョン・メイナード・ケインズ等、近世以降の人類史において、社会の変革に大きく貢献した数々の著名人を輩出してきた』大学である。

「アストン」既出既注

「南阿戦争」「なんあせんそう」は「ボーア戦争」(Boer WarAnglo Boer War)のこと。イギリスとオランダ系アフリカーナ(ボーア人或いはブール人とも呼ばれる)が南アフリカの植民地化を争った二回に亙る戦争全体を指す呼称であるが、ここは時制上、第二次ボーア戦争(独立ボーア人共和国であるオレンジ自由国及びトランスヴァール共和国と、大英帝国の間の戦争(一八九九年十月十一日~一九〇二年五月三十一日)の開戦を指す。

「フランスの美術商ビング氏」サミュエル・ビング(Samuel Bing 本名:Siegfried Bing  一八三八年~一九〇五年)のことであろう。ウィキの「サミュエル・ビング」によれば、パリで美術商を営んだユダヤ系ドイツ人で、一八七一年にフランスに帰化している。『日本の美術・芸術を欧米諸国に広く紹介し、アール・ヌーヴォーの発展に寄与したことで有名』。『ハンブルクで生まれる。実家は祖父の代からフランスの陶器やガラス器の輸入業をしていた』。一八五〇『年代に父親がパリに店を開き』、一八五四『年にフランス中央部に小さな磁器製作所を買い取ったのをきっかけに、ハンプルグで学業を終えたのち渡仏』、『普仏戦争後に日本美術を扱う貿易商となり』、一八七〇『年代にパリに日本の浮世絵版画と工芸品を扱う店をオープンして成功する。初来日は』明治八(一八七五)年で、日本を訪問後は、『古いものから近代のものまで幅広く扱うようにな』った。『ゴッホが初めて浮世絵を目にしたのもビングの店と言われており』、『また、ベルギー王立美術歴史博物館が所蔵する』四千『点の浮世絵もビングから購入したコレクターのものである』。『そのほか、パリの装飾美術博物館はもとより、オランダのライデン国立考古学博物館、ロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館など、ヨーロッパ各地の美術館に日本美術を納品した』。一八八八年より一八九一年まで、『日本美術を広く伝えるために複製図版と挿絵が掲載された』Le Japon artistique(「芸術の日本」)『という大判の美術月刊誌を』四十『冊発行し、展覧会も企画した。毎号数多くの美しい浮世絵で彩られた『芸術の日本』は、フランス語、英語、ドイツ語の』三『か国語で書かれ、美術情報だけでなく、詩歌、演劇、産業美術といった各分野の識者による寄稿によって日本文化そのものへの理解に貢献した』。一八九五年には『「アール・ヌーヴォーの店」(Maison de l' Art Nouveau)の名で画商店を開いた。日本美術だけでなく、ルネ・ラリックやティファニーなど、同時代の作家の工芸品も多数扱い、店はアール・ヌーヴォーの発源地として繁盛した』とある。

「高橋入道謹一」(生没年不詳)はここに見るように、イギリス時代の熊楠の破天荒な相棒。サイト「南方熊楠資料研究会」の「南方熊楠を知る事典」内のこちらのページの中瀬喜陽氏の「高橋謹一 たかはし きんいち 生没年不詳」によれば、『広島県出身。熊楠の「新庄村合併について(十二)」によると、高橋ははじめ、シンガポールで事業を興すという大井憲太郎』(天保一四(一八四三)年~大正一一(一九二二)年:豊前宇佐生まれの政治家・社会運動家。二十で長崎で蘭学を学び、後に江戸に出て、幕府の開成所舎密局世話心得となった。明治維新後は自由民権運動の急先鋒として活躍、フランス革命思想に感じて「仏国政典」「仏国民選議院選挙法」を邦訳、明治七(一八七四)年の「民撰議院設立建白書」では尚早論を唱えた加藤弘之と論戦した。「愛国社」設立に参加、明治一五(一八八二)年立憲自由党に入党、明治十七年の秩父事件などの過激自由民権運動を指導、明治十八年十一月に朝鮮独立党への援助が露見して大阪で逮捕された。明治二五(一八九二)年には「東洋自由党」を創設、さらに日本労働協会・小作条例調査会を組織して機関誌『新東洋』発刊した)『について渡ったが』、『こと成らず、日本領事館、藤田敏郎らが醵金(きょきん)して、本人の希望するロンドンへ送り出したという。その時、藤田は大倉組龍動(ロンドン)出張所支配人大倉喜三郎に紹介状を書いた。それには、「此高橋謹一なる者、先途何たる見込無御座候へども、達(たつ)て貴地へ赴き度と申に故、其意に任せ候間だ、可然(しかるべく)御厄介奉願上候」とあったという。大倉は高橋を雇い入れたが、暇さえあれば台所を手伝うふりしてビールを飲んで眠ってばかりいるので、大倉夫人から疎まれそこを出たという。その時大倉出張店に、熊楠の中学時代の恩師鳥山啓(ひらく)の息子、嵯峨吉が勤めていて、鳥山が』「熊楠なら世話好きだから面倒を見てくれるだろう」と『話したので』、『高橋は大英博物館へ熊楠を訪ねてやって来た。明治三十(一八九七)年のことである』。『熊楠は高橋をエドウィン・アーノルド男爵』(後注参照)『宅へ世話したが、ここでも酒を飲んでは大声で歌をうたったりするので追い出されてしまう。しかし、ロンドンへ来て二ヵ月ほど経っていて言葉もどうやら話し、また書くことができるようになっていたので、骨董商の加藤章造』(サイト「南方熊楠のキャラメル箱」のこちらの記載によれば、『ロンドンで、日本の美術品・骨董品などの輸入販売の店を開いてい』た人物で、熊楠は『たびたび加藤章造の店を訪ねて』親しくしていたらしい。また、『熊楠のロンドン時代の手記には「武州忍藩の家老職の子」とあ』ると記す)『と組んで古道具の売買をして糊口をふさぐ術は心得ていた』。『そのうち熊楠が、大英博物館で乱暴を働いたとして出入りが止められる。高橋は、報恩はこの時だ、一緒に商売をしようと言って熊楠に浮世絵の解説を書かせた。この商売が当って画家ウルナー女史が二十点を九百円という大金で買い上げて熊楠らを驚かせたことがある』。『こうして一年あまりを過ごし、明治三十三年(一九〇一)九月一日、熊楠は帰国の途につくが、熊楠を見送ったのは、たった一人この高橋謹一だけであった。後日譚ではあるが、熊楠のもとへ大正十五年六月二十四日差出の加藤章造、富田熊作の連名の絵ハガキがロンドンから届いている。文中、ロンドンの近況を述べたあと、「高橋謹一の消息は不明」とあった。異郷で人知れず亡くなったのであろうか』とある。

「エドウィン・アーノルド」サー・エドウィン・アーノルド(Sir Edwin Arnold 一八三二年~一九〇四年)のことではなかろうか? イギリスのジャーナリスト・紀行文作家・東洋学者・仏教学者にして詩人。ウィキの「エドウィン・アーノルド」によれば、『ヴィクトリア朝における最高の仏教研究者・東洋学者とされる』。詳しくはリンク先を見られたい。この彼のところへ「食客に世話せしときの珍談はかつて『太陽』へ書いたことあり」は私は全集を所持しないので不詳。

「外国にまる十五年ありしなり」南方熊楠が渡米してサンフランシスコに着いたのは、明治二〇(一八八七)年一月七日で、イギリスから日本に帰国したのは明治三三(一九〇〇)年十月十五日(神戸上陸)であるから、実際の滞英期間は十二年と約九ヶ月であった。数えとしても十四年で、年数がおかしい。]

 

甲子夜話卷之四 2 御臺所御歌、近衞公返歌幷詩歌の事

 

4-2 御臺所御歌、近衞公返歌詩歌の事

當御臺所は陽明家の御養女なり。日光山二百年御神忌勅會のとき、近衞左大臣殿【御臺所の養兄。諱、基前】登山ありて、それより出府なり。登城御對顏、奧迄も通られたるよし。滯府中、御臺所より、螢を籠え入て贈り玉へるときの御詠とて傳聞す。

 めづらしき光りならねど時をしる

      淺ぢが宿の螢なりけり

   左大臣家のかへし

 言の葉の玉をもそへてをくりこす

      螢ぞやどの光りなりけり

此左府、鶴山と號せらる。器量ある人にて、文學にも長ぜられたりと聞く。其詩に、

[やぶちゃん注:以下の漢詩は総て底本では全体が一時下げ。]

  眞珠菴見盆梅

幾程盆梅始吐ㇾ芳。淸標不ㇾ競百花場。先教好鳥爭春信。未ㇾ使遊蜂竊晴香去蛾眉醉夢。吹來龍笛吟腸。慇懃調護避風雪。唯恐東君妬親粧

  又

培艱壺中別有ㇾ天。春魁獨占衆芳先。蘂含殘雪影愈潔。枝奪落霞色更妍。月桂讓ㇾ香多呈ㇾ媚。海棠分ㇾ艷未ㇾ論ㇾ眠。逋仙元有梅花癖。吟賞相親淨几邊。

  又

幾歳栽培能養成。順ㇾ天致ㇾ性自敷ㇾ榮。影隨姑射氷肌疲。香入羅浮春夢驚。綠萼濃呈千朶色。瓊容淡點十分淸。名花元是江南種。移得盆中子細評。

【殘雪、薄霞、月桂、海棠、皆梅名也。順ㇾ天致ㇾ性柳文語】

又よまれし哥ども世に傳へし中に、

 色に出て花野の秋にたくふらし

      蟲も千ぐさの聲のさかりは

いかにも新らしき趣向、これらをや秀逸とは申べき。この人宮中饗應の日、緋の直垂に打刀をぞさゝれける。これは足利家より讓られし故とぞ。京紳にて此裝束せらるゝは、陽明家の外に無しと云。惜哉、去年世を早うせられき。

■やぶちゃんの呟き

「當御臺所」第十一代軍徳川家斉の正室近衛寔子(このえただこ 安永二(一七七三)年~天保一五(一八四四)年)。後の広大院。実父は薩摩藩八代藩主・島津重豪(しげひで)、実母は側室市田氏(お登勢の方(慈光院))。ウィキの「広大院によれば、『最初の名は篤姫』(知られた後の第十三代将軍家定の正室天璋院が「篤姫」を名乗ったのはこの広大院にあやかったもの)、『於篤といった。茂姫は誕生後、そのまま国許の薩摩にて養育されていたが、一橋治済の息子・豊千代(後の徳川家斉)と』三歳で婚約、『薩摩から江戸に呼び寄せられた。その婚約の際に名を篤姫から茂姫に改めた。茂姫は婚約に伴い、芝三田の薩摩藩上屋敷から江戸城内の一橋邸に移り住み、「御縁女様」と称されて婚約者の豊千代と共に養育された』。第十代将軍『徳川家治の嫡男家基の急逝で豊千代が次期将軍と定められた際、この婚約が問題となった。将軍家の正室は五摂家か宮家の姫というのが慣例で、大名の娘、しかも外様大名の姫というのは全く前例がなかったからである』。『このとき、この婚約は重豪の義理の祖母に当たる浄岸院の遺言であると重豪は主張した。浄岸院は徳川綱吉・吉宗の養女であったため』、『幕府側もこの主張を無視できず、このため婚儀は予定通り執り行われることとなった。茂姫と家斉の婚儀は婚約から』十三年後の寛政元(一七八九)年に行われた。茂姫は天明元(一七八一)年十月頃に、『豊千代とその生母・於富と共に一橋邸から江戸城西の丸に入る。また将軍家の正室は公家や宮家の娘を迎える事が慣例であるため、茂姫は家斉が将軍に就任する直前』『に島津家と縁続きであった近衛家及び近衛経熙』(つねひろ 宝暦一一(一七六一)年~寛政一一(一七九九)年:従一位・右大臣)『の養女となるために茂姫から寧姫と名を改め、経熙の娘として家斉に嫁ぐ際、名を再び改めて「近衛寔子(このえただこ)」として結婚することとなったのである。また、父・重豪の正室・保姫は夫・家斉の父・治済の妹であり、茂姫と家斉は義理のいとこ同士という関係であった』とある(下線やぶちゃん)。当時、満四十二歳

「陽明家」近衛家の別称。宮中の門の一つである陽明門に因むもの。「近衛」も京都近衛の北、室町の東に邸宅を構えたことに由来する。

「日光山二百年御神忌勅會」文化一二(一八一五)年四月に挙行された東照宮二百回神忌。

「近衞左大臣殿【御臺所の養兄。諱、基前】」近衛基前(もとさき 天明三(一七八三)年~文政三(一八二〇)年)は父は近衛経熙の子。母は有栖川宮職仁親王の娘董子。この会見の折りは右大臣か左大臣。寔子より十歳年上

●以下、漢詩を我流で書き下しておく。但し、全部、意味が判っていて訓読している訳ではない。これといって深く惹かれ、意味を探りたい部分もない。されば細かな語注は附さぬ。悪しからず。判らないとどうにもならぬ箇所のみ先に附言しておくと、「逋仙」は宋代の隠逸詩人林逋(りんぽ 九六七年~一〇二八年)のこと。詩は作る傍から捨てたとされ、現存するものは少ないが、奇句多く、「山園小梅」の「疎影橫斜水淸淺 暗香浮動月黃昏」(疎影 橫斜(わうしや) 水 淸淺(せいさん) / 暗香(あんかう) 浮動 月 黃昏(わうこん))の二句は梅を詠んだ名吟とされる(「山園小梅」全詩はウィキの「林逋を参照されたい)。「姑射」は不老不死の仙人が住むされる山。藐姑射(はこや)山。「羅浮」とは広東省増城県北東に実在する山(標高一二九六メートル)であるが、大洞窟があって、古来そこには仙人が住むとされた仙境である。「瓊容」は珠玉のような美形。美しい梅花或いはそこにおかれた露の比喩か。

   *

 

  眞珠菴、盆梅を見る

幾程(いかほど)の盆梅 始めて芳(かんばし)きを吐く

淸標(せいひやう) 競はず 百花の場(ば)

先づ 好鳥をして春の信(まこと)を爭はしむ

未だ 遊蜂をして晴香を竊(ぬす)ましめず

蛾眉を點じ去つて 醉夢を醒まし

龍笛を吹き來たらせて 吟腸を惱ます

慇懃(いんぎん)たる調護(てうご) 風雪を避らしめ

唯だ 恐る 東君 親粧(しんせう)を妬(ねた)むを

 

  又

培艱(ばいかん)の壺中 別に天有り

春魁(しゆんくわい) 獨り衆芳先を占(し)む

蘂(しべ) 殘雪を含んで 影 愈(いよい)よ潔く

枝 霞に奪はれ落ちて 色 更に妍(うつく)し

月桂 香を讓り 多く 媚を呈し

海棠 艷を分ちて 未だ眠(ねぶ)りを論ぜず

逋仙(ほせん) 元(もと) 梅花の癖 有り

吟賞して相ひ親しむ 淨几(じやうき)の邊(ほとり)

 

  又

幾歳 栽培 能く養成す(やうじやう)す

天に順ひ 性(しやう)を致し 自(おの)づから榮を敷く

影 姑射(こしや)に隨ひて 氷肌 疲れ

香 羅浮(らふ)に入りて 春夢 驚く

綠萼(りよくがく) 濃呈(のうてい) 千朶(せんだ)の色(いろ)

瓊容(けいよう) 淡點(てんてん) 十分の淸(せい)

名花 元 是れ 江南の種(しゆ)

盆中に移し得て 子細 評せり

 

   *

「順ㇾ天致ㇾ性柳文語」『「天に順ひて性(しやう)を致し」とは柳の文の語(ご)。』「柳」は中唐の詩人柳宗元のこと。彼の「種樹郭橐駝傳(しゅじゅかくだでん)」という文の一節である。正確にはその「能順木之天、以致其性焉爾」(能(よ)く木の天に順(したが)ひ、以つて其の性を致すのみ)という表現を短縮したもので、木を育てるということは「木本来の持っている天然自然に従って、その内に持って生まれて「在る」ところの生きんとする性質(働き)を導いてやるだけのことに過ぎぬ」という謂いであろう。

「たくふ」「比ふ」「類ふ」で「似せる・匹敵させる」の謂いであろう。

「直垂」「ひたたれ」。

「打刀」「うちがたな」と訓ずる。室町時代以降は「刀(かたな)」と言った場合、日本刀ではこの「打刀」を指すと考えてよい。主に馬上合戦用である「太刀」とは異なり、徒戦(かちいくさ)用に作られた刀で、反りは「京反り」と称して刀身中央で最も反った形を呈する。これは腰に直接帯びた際に抜き易い反り方で、対人戦闘の際の実用性を考えてあるものである。長さも概ね成人男性の腕の長さに合わせたものが多く、これも即戦時の抜き易さが考慮されている。

「惜哉」「をしきかな」。

「去年」「こぞ」。この一語によって「甲子夜話卷之四」のこの部分は「甲子夜話」起筆から一ヶ月半以内に記されたものであることが判る。「甲子夜話」は文政四(一八二一)年十一月十七日の甲子夜を起筆とするが、近衛基前はその「前年」の文政三(一八二〇)年に逝去しているからである。されば、ここまでの記載は実に、その閉区間内(大晦日までは旧暦で四十三日間)に書かれたものであることが判り、静山の非常に意欲的な本書の記述スピードがここで知れるのである。

改版「風は草木にささやいた」異同検証 「Ⅱ」パート

 

   Ⅱ

 

[やぶちゃん注:「萬物節」は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:「種子はさへづる」は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:「或る雨後のあしたの詩」は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:「十字街の詩」は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:ポプラの詩は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:風の方向がかわつたは異同なし。]

 

[やぶちゃん注:はリンク先の私の注で示した通り、初版の最終行「見えない翼はその踵にもひらひらしてゐる」の「踵」は実際には《「路」-「各」+「童」》という異様な漢字活字になっている(底本二本とも確認)。しかし、この漢字は私は知らないし、大修館書店の「廣漢和辭典」にも収録せず、ネットの「Wiktionary」でも、この字を見出すことが出来なかったことから、この漢字をここに入れ込んでも、まず、殆んどの日本人は意味は勿論、それを読む(発音する)ことすら出来ないであろうと考えた。されば、初版ではここのみ、特異的に彌生書房版全詩集及び加工用データとして使った「青空文庫」版(底本・昭和四一(一九六六)年講談社刊「日本現代文學全集 54 千家元麿・山村暮鳥・佐藤惣之助・福士幸次郎・堀口大學集」)に従い、本文自体を「踵」の字として示したのであるが、案の定、この改版では「踵」になっている

 

[やぶちゃん注:は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:としよつた農夫は斯う言つたは、後半の初版の一行「われあ大(でけ)え男になつた」の「大」が改版では「太」になっている(ルビはママ)。孰れが正しいとも判じ得ない。私は普通に「大」でよいと思う。]

 

[やぶちゃん注:よい日の詩は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:「朝朝のスープ」は初版の四行目の「家の内の日日に重苦しい空氣は子どもの顏色をまで憂鬱にしてきた」「鬱」の字が「欝」に変わっている。]

 

[やぶちゃん注:初版ではこの後に(則ち、「Ⅱ」パートのコーダに)、

 

  或る時

 

よろこびはまづ葱や菜つぱの搖れるところからはじまつて

これから‥…‥

 

があるが、この一篇は改版では除去されている。]

 

2017/04/22

柴田宵曲 續妖異博物館 「龍宮類話」(その2) / 「龍宮類話」~了

 

 孫思邈の話で思ひ出すのが嘗て讀んだ「世界お伽噺」の「指環の魔力」である。前後にいろいろ話があるけれども、必要な點だけに切り詰めると、マルチンといふ少年が金持の百姓のところに奉公する。一年勤めた報酬に一袋の砂を貰つて、大きな森にさしかゝつた時、女の泣き聲が聞える。森を出はづれた草原の隅に火が燃えてゐて、その中に女の子が苦しがつて泣いてゐるのであつた。マルチンは卽座に袋から砂を搔き出して振りかけ、火が消えたと思つたら、女の子の姿は見えなくなつて、小さな綺麗な蛇がマルチンの頸に卷き付いた。自分は蛇の王の娘であるが、うつかり遊びに出たところを村の子供達に見付かり、燒き殺されるところであつた、あなたにお禮をしたいから一緒に來て貰ひたい、父に今の話をすれば、お禮に何か上げるといふに違ひないが、その時は他の何も望まず、あなたの指に嵌めていらつしやる指環をいただきたいと仰しやい、といふ。これだけ教へた蛇はまた女の子の姿になり、マルチンを案内して洞窟の中の御殿に導(みちび)いた。蛇の王は孫思邈の場合と同じく、マルチンを上座に坐らせ、寶物を澤山持つて來させて、何でも好きな物をお持ち下さい、といふことであつたが、マルチンは女の子に教はつた通り指環を望む。王は何をか君に惜しまんやと承知し、この指環の魔力の事は誰にも話してはならぬ、とくれぐれも注意した上で渡してくれた。一つ擦れば直ちに十二人の若武者が出て、どんな事でも仕遂げるといふ不思議な指環を手に入れたマルチンは、これによつて俄かに幸福を得、これを失ふに及んでまた不幸に陷ることになつてゐる。

[やぶちゃん注:私は生憎、この話を知らなかったが、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のこちらで全話を読むことが出来た。巖谷小波編「世界お伽噺第五十七編 露西亞(ロシヤ)の部」(明治三七(一九〇四)年博文館刊)とあり、『ヰルヘルム、ゴルドシユミツト』が収集したお伽噺集の中の『魔法の指環(ツアウベル リング)』が原文であるとする。]

「指環の魔力」の前年と不思議によく似た話が「今昔物語」にある。京に住む若い男といふだけで、名は傳はつて居らぬが、侍だらうといふことになつてゐる。觀音の信者で、每月十八日には必ず寺參りをして佛を禮拜することを怠らなかつた。或年の九月十八日に例の如く寺參りをして、南山科(やましな)の邊まで行つたところ、山深く人里離れたあたりで五十ばかりの男に出逢つた。杖の先に一尺ぐらゐの斑らな小蛇を懸けてゐるのが、まだ死にもせずに動くのを見て憐愍の情を起した。それから二人の間に問答があつて、若い男はその蛇を助けてやつてくれと云ふけれども、五十ばかりの男は承知しない。人間にはそれぞれ世渡りの道がある、自分は年來如意を作つてゐるので、牛の角を延すためには小蛇の油が必要なのだといふ。然らば自分の著物と替へて貰ひたいといふ話になり、結局綿衣と蛇とを交換する約束が成立した。男はその蛇のゐたといふ他の近くに行つて放し、水の中へ入るのを見屆けた上、安心して次の寺のある道を步いて行つた。二町ばかり來たところで、年の頃十二三ぐらゐの美しい少女に出逢ふ。この少女が、自分の命を助けていただいた御禮を申上げたいので、お迎ひに參りましたと云ふのを聞いて、はじめて先刻の小蛇であると知り、恐ろしくなつた。少女はお出で下さればお爲にならぬことはありませんと云ひ、大きな池のところまで來ると、ちよつとこゝでお待ち下さいと云つたまゝ、どこかへ見えなくなつた。再び姿を現した少女に伴はれて、型の如く目を閉ぢてゐる間に立派な宮殿の門前に立つて居つた。男は宮殿に入つて龍王に對面し、種々の饗應があつた後、あなたには如意の珠でも差上げたいが、日本は人の心がよくないから、とても持ちきれまいと云つて、厚さ三寸ばかりの金の餠を半分にしてくれた。少女はまた男に瞑目させて池の邊まで送り、繰り返し禮を述べて消え失せた。家に歸つたら、長い間どこへ行つてゐたかと云はれたところを見れば、浦嶋ほどの事はないにせよ、相當の時間を經過してゐたものらしい。如意の珠といふのはマルチンの貰つた指環に近い力のある寶物ではないかと想像せられるが、龍王が將來を見通して與へなかつたから、この男にはマルチンのやうな後難はない。金の餠は割つても割つても無くならぬので、男は生涯富裕であつた。

[やぶちゃん注:「如意」は「によい(にょい)」で、読経・説法・法会などの際に僧侶が手に持つ仏具。元はインドに於ける「孫の手」とされるもので、棒状で先端が指を曲げたように丸くなっている。獣骨や角或いは竹・木・金属など各種の材料で作った。

「二町」約二百十八メートル。

 以上は「今昔物語集」の「卷第十六」の「仕觀音人行龍宮得富語第十五」(觀音に仕(つかまつ)る人、龍宮に行きて富(とみ)を得る語(こと)第十五)である。

   *

 今は昔、京に有りける年若き男(をのこ)有りけり。誰人(たれひと)と語り傳へず。侍(さむらひ)なるべし。身貧しくして世を過ぐすに便(たより)無し。而るに、此の男、月每(ごと)の十八日に持齋(ぢさい)して、殊に觀音に仕りけり。亦、其の日、百の寺に詣でて、佛(ほとけ)を禮(らい)し奉りけり。

 年來(としごろ)、如此(かくのごと)く爲(す)る間、九月(ながつき)の十八日に、例の如くして、寺々に詣づるに、昔は寺少なくして、南山階(みなみやましな)の邊(ほとり)に行きけるに、道に山深くして人離れたる所に、五十許りなる男(をのこ)、値(あ)ひたり。杖の崎(さき)[やぶちゃん注:先。]に物を懸けて持ちたり。

「何を持ちたるぞ。」

と見れば、一尺許りなる小さき蛇(へみ)の斑(まだら)なる也。行き過ぐる程に見れば、此の小さき蛇、動く。此の男、蛇持ちたる男に云く、

「何(いど)こへ行く人ぞ。」

と。蛇持(へみもち)の云く、

「京へ昇る也。亦、主(ぬし)は何(いど)こへ御(おは)する人ぞ。」

と。若き男の云く、

「己(おの)れは佛(ほとけ)を禮(をが)まむが爲(ため)に寺に詣づる也。然(さ)て、其の持ちたる蛇(へみ)は何(なに)の料(れう)ぞ。」

と。蛇持の云く、

「此れは、物の要(えう)に宛(あ)てむが爲に、態(わざ)と取りて罷る也。」

と。若き男の云く、

「其の蛇(へみ)、己(おの)れに免(ゆる)し給ひてむや。生きたる者の命(いのち)を斷つは、罪得る事也。今日(けふ)の觀音に免し奉つれ。」

と。蛇持の云く、

「觀音と申せども、人をも利益し給ふ要の有れば、取りて行く也。必ず者の命を殺さむと不思(おもは)ねども、世に經(ふ)る人は樣々(さまざま)の道にて世を渡る事也。」

と。若き人の云く、

「然(さて)も、何の要に宛てむずるぞ。」

と。蛇持の云く、

「己(おの)れは、年來(としごろ)、如意(によい)と申す物をなむ造る。其の如意に牛の角(つの)を延(の)ぶるには、此(かか)る小さき蛇(へみ)の油を取りて、其れを以て爲(す)る也。然れば、其の爲に取りたる也。」

と。若き男の云く、

「然(さ)て、其の如意をば、何に宛て給ふ。」

と。蛇持の云く、

「怪しくも宣(のたま)ふかな。其れを役(やく)にして、要(えう)し給ふ人に與へて、其の直(あたひ)を以つて衣食に成す也。」

と。若き男の云く、

「現(げ)に去り難き身の爲の事にこそ有んなれ。然(さ)れども、只にて乞ふべきに非ず。此の着たる衣に替へ給へ。」

と。蛇持の云く、

「何に替へ給はむと爲るぞ。」

と。若き男の云く、

「狩衣にまれ、袴にまれ、替へむ。」

と。蛇持の云く、

「其れには替ふべからず。」

と。若き男の云く、

「然(さ)らば、此の着たる綿衣(わたぎぬ)に替へよ。」

と。蛇持、

「其れに替へてむ。」

と云へば、男、衣(きぬ)を脱ぎて與ふるに、衣を取りて蛇(へみ)を男に與へて去るに、男の云く、

「此の蛇は何(いど)こに有りつるぞ。」

と問へば、

「彼(か)しこなる小池に有りつる。」

と云ひて、遠く去りぬ。

 其の後(のち)、其の池に持ち行きて、可然(しかるべ)き所を見て、砂を崛(ほ)り遣りて、冷(すず)しく成(な)して放ちたれば、水の中にり入ぬ。心安く見置きて、男、寺の有る所を差して行けば、二町許り行き過ぐる程に、年、十二、三許りの女(をむな)の形(かた)ち美麗なる、微妙(みめう)の衣袴(きぬはかま)を着たる、來たり會へり。男、此れを見て、山深く此く値(あ)へれば、

「奇異也。」

と思ふに、女の云く、

「我れは、君の心の哀れに喜(うれ)しければ、其の喜び申さむが爲(ため)に來たれる也。」

と。男の云く、

「何事に依りて、喜びは宣ふぞ。」

と。女の云く、

「己(おの)れが命を生(い)け給へるに依りて、我れ、父母に此の事を語りつれば、『速(すみや)かに迎へ申せ。其の喜び申さむ』と有りつれば、迎へに來たれる也。」

と。男、

「此れは有りつる蛇(へみ)か。」

と思ふに、哀れなる物から、怖しくて、

「君の父母(ぶも)は何(いどこ)にぞ。」

と問へば、

「彼(かしこ)也。我れ、將(ゐ)て奉らむ。」と云ひて、有りつる池の方に將て行くに、怖ろしければ、遁れむと云へども、女、

「世も御爲に惡しき事は不有(あら)じ。」

と強(あなが)ちに云へば、憗(なまじひ)に池の邊(ほとり)に具して行きぬ。女の云く、

「此に暫く御(おは)せ。我は前(さき)に行きて、來たり給ふ由(よし)、告げて返り來たらむ。」

と云ひて、忽ちに失せぬ。

 男、池の邊に有りて、氣六借(けむつか)しく思ふ程に、亦、此の女、出で來たりて、

「將て來たらむ。暫く、目を閉ぢて眠(ねぶ)り給へ。」

と云へば、教へに隨ひて眠り入ると思ふ程に、

「然(さ)て、目を見開(みあ)け給へ。」

と云へば、目を見開けて見れば、微妙(めでた)く莊(かざ)り造れる門(もん)に至れり。我が朝(てう)の城(じやう)を見るにも、此(ここ)には可當(あたるべ)く非ず。女の云く、

「此に暫く居給ふべし。父母(ぶも)に此の由、申さむ。」

とて、門に入りぬ。

 暫く有りて、亦出來たりて、

「我が後(しりへ)に立ちて御(おは)せ。」

と云へば、恐々(おづお)づ女に隨ひて行くに、重々(ぢうぢう)に微妙(みめう)の宮殿共(ども)有りて、皆、七寶(しちほう)を以つて造れり。光り耀く事、限り無し。既に行き畢(は)てて、中殿(ちうでん)と思しき所を見れば、色々の玉を以つて莊(がざ)りて、微妙の帳床(ちやうどこ)を立てて、耀き合へり。

「此(こ)は極樂にや。」

と思ふ程に、暫く有てり、氣高く怖し氣(げ)にして、鬢(びん)長く、年六十許りなる人、微妙に身を莊(かざ)りて、出來たりて云く、

「何(いづ)ら、此方(こなた)に上り給へ。」

と。男、

「誰(たれ)を云ふにか。」

と思ふに、

「我を呼ぶ也けり。」

と。

「何(いか)でか參らむ。此(か)く乍ら仰せを承らむ。」

と畏(かしこま)りて云へば、

「何でか迎へ奉りて對面する樣有(やうあ)らむとこそ思さめ。速(すみや)かに上り給へ。」

と云へば、恐々(おづお)づ上(のぼ)りて居(ゐ)たれば、此の人の云く、

「極めて哀れに喜(うれ)しき御心(みこころ)に、喜び申さむが爲に迎へ申つる也。」

と。男の云く、

「何事にか候らむ。」

と。此の人の云く、

「世に有る人、子(こ)の思ひは更に知らぬ事、無し。己(おの)れは、子、數(あまた)有る中に、弟子(おとご)[やぶちゃん注:末っ子。]なる女童(めのわらは)の、此の晝、適(たまた)ま此の渡り近き池に遊び侍りけるを、極めて制し侍れども不聞(きか)ねば、心に任かせて遊ばせ侍るに、『今日、既に人に取られて死ぬべかりけるを、其(そこ)の來り合ひて、命を生け給へる』と、此の女子(をむなご)の語り侍れば、限り無く喜(うれ)しくて、其の喜(よろこ)び申さむが爲に迎へつる也。」

と。男、

「此れは蛇の祖(おや)也けり。」

と心得つ。

 此の人、人を呼ぶに、氣高く怖し氣なる者共(ども)來たれり。

「此の客人(まらうど)に主(ある)じ仕つれ。」

と云へば、微妙(みめう)の食物(じきもつ)を持ち來たりて居(す)へたり。自らも食ひ、男にも、

「食へ。」

と勸むれば、心解けても不思(おもは)ねども、食ひつ。其の味はひ、甘(むま)き事、限り無し。下(おろ)しなど取り上ぐる程に[やぶちゃん注:食べ残した料理を下げ始める頃合いに。]、主人の云く、

「己(おの)れは、此れ、龍王(りうわう)也。此に住みて久しく成りぬ。此の喜びに、如意(によい)の珠(たま)[やぶちゃん注:願うものを総て叶える魔法の宝珠(ほうじゅ)。]をも奉るべけれども、日本(につぽん)は人の心惡しくして、持(たも)ち給はむ事、難(かた)し。然(さ)れば、其こに有る箱、取りて來たれ。」

と云へば、塗たる箱を持ち來たれり。開(ひら)くを見れば、金(こがね)の餠(もち)一つ有り。厚さ三寸許り也。此れを取り出だして、中(なから)より破(わ)りつ。片破(かたわれ)をば箱に入れつ。今、片破を男に與へて云く、

「此れを一度に仕ひ失ふ事無くして、要(えう)に隨ひて、片端(かたはし)より破(わ)つつ仕ひ給はば、命(いのち)を限りにて、乏(とも)しき事、有らじ。」

と。

 然(しか)れば、男、此れを取りて、懷(ふところ)に差し入れて、

「今は返りなむ。」

と云へば、前(さき)の女子(をむなご)出で來たりて、有りつる門に將て出でて、

「前(さき)の如く眠(ねぶ)り給へ。」

と云へば、眠りたる程に、有りし池の邊(ほとり)に來たりにけり。女子の云く、

「我れ、此こまで送りつ。此れより返り給ひね。此の喜(うれ)しさは、世々(せぜ)にも忘れ難し。[やぶちゃん注:生涯、忘れることは御座いませぬ。]」

と云ひて、掻き消つ樣(やう)に失せぬ。

 男は家に返り來たれば、家の人の云く、

「何ぞ久く不返來(かへりき)たらざりつる。」

と。暫く、と思ひつれども、早う□日(か)を經(へ)にける也けり。[やぶちゃん注:「□」は意識的欠字であろう。「ちょっとの時間と思っていたものが、なんとまあ!……日をも経ってしまっていたのであった!」と、何日もが経過していたことに、この時、初めて気づいたその驚きを示したのである。]

 其の後(のち)、人に不語(かたら)ずして、竊(ひそ)かに此の餠の片破(かたわれ)を破(わ)りつつ、要(えう)の物に替へければ、貧しき事、無し。萬(よろづ)の物、豐かにて、富人(ふにん)とり成にけり。此の餠、破(わ)れども破れども、同じ樣に成り合ひつつ有りければ、男、一生の間、極めたる富人として、彌(いよい)よ觀音に仕(つかまつ)りけり。一生の後(のち)は、其の餠、失せて、子に傳ふる事、無かりけり。

 懃(ねむご)ろに觀音に仕れるに依りて、龍王の宮(みや)をも見、金(こがね)の餠をも得て、富人と成りる也けり。

 此れ、何(いづ)れの程の事と不知(しら)ず、人の語るを聞き傳へて、語り傳へたるとや。

   *]

 孫思邈より觀音信仰の男に至る話には共通性が多い。何かの話が支那、ロシア、日本に分れて別々の苗を遺したものかも知れぬが、その原典も徑路も一切不明である。孫思邈も「今昔物語」も皆水中の宮殿であつたのに、マルチンの話だけが洞窟なのは、國民性の相違によるか、龍王と蛇王の相違によるか、その邊も俄かに斷定出來ない。

 話は時代を遡るほど單純なのが原則ならば、こゝに「搜神記」の一話を擧げて置くのも無意義ではなからう。隋侯が周王の使者として齊に入つた時、深水の沙邊で三尺ばかりの小蛇が、熱沙の中にのたうち𢌞り、頭から血を出してゐるのを見た。隋侯これをあはれみ、わざわざ馬から下りて、鞭を以て水中に撥(は)ね、汝もし神龍の子ならば我を擁護すべしと云ひ、また馬に乘つて過ぎ去つた。使の用事を果して二箇月後に同じ道を通ると、一人の子供が珠を持つて來て隋侯に捧げた。お前はどこの子だ、と問へば、先日一命をお救ひ下さいました御恩は忘れませぬ、これはお禮のしるしに差上げたいのです、と云ふ。お前のやうな子供から、そんなものを貰はんでもいゝ、と云ひ捨てて去つたところ、その夜の夢に小兒はまた珠を捧げて現れた。私は蛇の子です、本日この珠を差上げましたのに、お受け下さいませんので、ここまで持つて參りました、どうか柾げてお納め下さい、といふのである。夜が明けて見たら、その珠は隋侯の枕許に在つた。傷蛇なほ恩を知り、重く報ずることを解す、人にして豈に恩を知らざらんや、と歸つて珠を周王に獻上したとある。

[やぶちゃん注:「隋侯」平凡社東洋文庫版の竹田晃訳「捜神記」(昭和三九(一九六四)年刊)の注によれば、『隋は漢の東にあった国で、周の諸侯であったと伝えられている』とある。現在の湖北省内。

「枉げて」「まげて」。]

 この話は熱沙中の小蛇を水中に撥ねやるだけで、財を投じて命を救ふこともなし、後日に宮殿に迎へられる話もない。たゞ小蛇が救命の恩を忘れず、珠を獻じて隋侯に酬ゆるに過ぎぬ。珠も明晃々たるものではあつたらうが、神異の點は記されてゐない。かういふ單純な話が後世になるに從ひ、種々の條件が加はり、雪まろげのやうに次第に大きくなるのではなからうか。

[やぶちゃん注:「明晃々たる」「めいくわうくわう(めいこうこう)たる」は「明煌煌たる」とも書き、きらきらと明るく光り輝くさまを言う。

 以上は「搜神記」の「第二十卷」の以下と思われるが、それは、胴の中央が大きく裂け傷ついた大蛇であって、しかも隋侯はそれを薬を以ってちゃんと治療してやっており、元気になった大蛇は自ら走り去る。そうして一年ばかりして、そのお礼として明光珠を持って来るのは童子なんぞではなく(そもそもが「大蛇」なんだから「童子」はおかしい)、その大蛇がそのままに銜えてくることになっている。どうも柴田のそれは話が頗る小説的(作為的)に膨らんでいる気がする。柴田が見たものは、この原話を後代の誰かが翻案してしまったものなのではなかったろうか? それとも別な伝本があるのか? 識者の御教授を乞う

   *

隋縣溠水側、有斷蛇邱。隋侯出行、見大蛇被傷、中斷、疑其靈異、使人以藥封之、蛇乃能走、因號其處斷蛇邱。、蛇銜明珠以報之。珠盈逕寸、純白、而夜有光、明如月之照、可以燭室。故謂之「隋侯珠」、亦曰「靈蛇珠」、又曰「明月珠」。邱南有隋季良大夫池。

   *

「隋侯珠」「靈蛇珠」「明月珠」先の東洋文庫の竹田氏の注によれば、『周代の和(か)氏(卞和(べんか)が楚の山中で見つけたいわゆる「和氏の璧』(へき)『」と並んで、中国では至宝とされていた』名立たる宝珠であったらしい。その名宝の璧と、そのために二度に渡って左足、次に右足を斬られる刑に処せられた卞和の話はウィキの「卞和に詳しい。因みに、この和氏の「璧」は遙か後に戦国時代の趙へと渡り、かの「完璧」の故事の由来となった。それもリンク先をどうぞ。]

柴田宵曲 續妖異博物館 「龍宮類話」(その1)

 

  

 

 龍宮類話

 

 浦嶋太郎の話は、一番早い「浦嶋子傳」を見ても、その次の「續浦嶋子傳記」を見ても、浦嶋は海上に靈龜を釣り、船中に眠る間に靈龜變じて美女となり、蓬萊宮に伴はれることになつてゐる。御伽草子の時代になると、先づ釣り上げた龜を海に放し、翌日小舟にたゞ一人乘つた女房に逢ふ。これが龜の化したものであることは、龍宮城に伴はれて三年を過し、暫しの別れを告げる段になつてわかるのである。小學唱歌で習つたり、お伽噺で讀んだやうに、子供から龜を買ひ取る一條はどれにもない。

[やぶちゃん注:「浦嶋子傳」「うらしまこでん」と一応、読んでおく。柴田は「一番早い」と言っているから、これは浦島伝説の現存する最古の記載である「日本書紀」(舎人親王らの撰により養老四(七二〇)年完成)の「雄略紀」中の雄略天皇二二(四七八)年秋七月の下りである。ウィキの「浦島太郎」によれば、『丹波国餘社郡(現・京都府与謝郡)の住人である浦嶋子は舟に乗って釣りに出たが、捕らえたのは大亀だった。するとこの大亀はたちまち女人に化け、浦嶋子は女人亀に感じるところあってこれを妻としてしまう。そして二人は海中に入って蓬莱山へ赴き、各地を遍歴して仙人たちに会ってまわった。この話は別の巻でも触れられている通りである、と最後に締めくくるが、この別巻がどの書を指しているのかは不明』である。孰れにせよ、「日本書紀」が完成した『頃までには、既にこの浦島の話が諸々の書に収録されていたことが窺い知れる』とあり、「日本書紀」の当該条は以下の下線部。後の下線部の訓読は自己流。

   *

廿二年春正月己酉朔、以白髮皇子爲皇太子。秋七月、丹波國餘社郡管川人・瑞江浦嶋子、乘舟而釣、遂得大龜、便化爲女。於是、浦嶋子感以爲婦、相逐入海、到蓬萊山、歷覩仙衆。語在別卷。

(秋七月、丹波國(たにはのくに)餘社郡(よざのこほり)の管川(つつかは)の人、端江浦嶋(みづのえのうらしま)の子、舟に乘りて釣りす。遂に大龜(おほがめ)を得たり。便(たちま)ちに女(をとめ)と化-爲(な)る。是に、浦嶋の子、感(たけ)りて婦(め)にと爲(な)す。相ひ遂(した)ひて海に入る。蓬萊山(とこよのくに)に到りて、仙-衆(ひじり)を歴(めぐ)り觀る。語(こと)は別の卷に在り。

   *

「餘社郡」は現在の京都府与謝郡は若狭湾奥西端と丹後半島の先端東部にあるが、「管川(つつかは)」は現在の河川名の「筒川(つつかわ)」と思われ、その川沿いのここ(グーグル・マップ・データ)に「浦嶋神社」(京都府与謝郡伊根町本庄浜)も現認出来る。同神社は創祀年代を天長二(八二五)年七月二十二日とし、「浦嶋子」を「筒川大明神」として祀るのが始めであると伝えられている。主祭神は「浦嶋子(浦島太郎)」である。

「續浦嶋子傳記」「ぞくうらしまこのでんき」と読む。作者不詳。延喜二〇(九二〇)年成立で、浦島伝説を神仙譚風に漢文で記し、後に主人公「浦島子」に代わって詠じた七言二十二韻、浦島子の和歌、絶句各十首に、「亀姫」の和歌・絶句各四首を付す。「丹後国風土記」(これが古浦島伝承では記載が最も詳しい。先のウィキの「浦島太郎」に引用されていあるので参照されたい(但し、中間部が省略されてある)。柴田が記す通りの展開で、海中の「博大の嶋」(龍宮城というより蓬莱山っぽい)へと向かう)「日本書紀」「万葉集」(八世紀半ば以降の成立。「卷九」の「高橋虫麻呂」作の長歌(第一七四〇番歌)に「詠水江浦嶋子一首」として浦島伝説が韻文化されている。やはり先のウィキの「浦島太郎」に引用されていあるので参照されたい)などの浦島伝説を基に、中国の「柳毅伝」・「漁父辞」・「高唐賦」・「洛神賦」「桃花源記」「続斉諧記」中の「劉阮天台」・「遊仙窟」などによる潤色を施したものである(以上は平凡社「マイペディア」に拠る)。

「御伽草子の時代」室町時代に成立した短編物語集「御伽草子」の「浦島太郎」が代表例で、現行の伝説の「亀の報恩」モチーフ(但し、ここでも自身が亀を釣るも放生の仏心を起こして海へ返すのであって子らが亀をいじめているのではない)や竜宮城・乙姫・玉手箱などのアイテムがここで完備された。しかし、竜宮城は依然、島嶼か陸地の如く描写されており、道教的な仙界としての蓬莱山の呪縛から自由になっていない。

「小學唱歌」文部省唱歌「浦島太郎」は、明治三三(一九〇〇)年の「幼年唱歌」の「中 第五 浦島太郎」(石原和三郎・作詞/田村虎蔵・作曲)が最初。その一番の歌詞は以下で、

   *

一 むかしむかし、うらしまは、

  こどものなぶる、かめをみて、

  あはれとおもひ、かひとりて、

  ふかきふちへぞ、はなちける。

   *

ここで初めて、積極的生物虐待者としての「チビッ子ギャング」像が形成されたのである。

「お伽噺」先のウィキの「浦島太郎」によれば、『明治期には長谷川武次郎が『日本昔噺』(ちりめん本)の一篇としてまとめ、ジェームス・カーティス・ヘボンやバジル・ホール・チェンバレン、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が英訳を行った』。明治三〇(一八九七)年『にはハーンの著書『Out of the East』によっても紹介されている』。『さらに巌谷小波が前代の物語を恩返しに主眼を置いた子供向けの読み物に改作し、ダイジェスト版が明治』四十三年から三十五年間の長きに亙って、『国定教科書の教材になり定着していった』とあるから、まさに先の石原和三郎の作詞になる「浦島太郎」が小学校の音楽の授業で歌われるようになった明治三十年代こそが、「チビッ子ギャング」出現のエポック(現在(二〇一七年)から丁度、百二十年前)であったことが判るのである。]

 龜を助けて放す話は支那にもある。「稽神錄」の宋氏も、「河東記」の韋丹も、漁夫に捕へられた龜を憫れみ、その價を拂つて水中に放してやるので、韋丹の如きは寒空に脱ぐべき著物もなし、自分の乘つてゐた驢馬を以て龜に易(か)へるのであつた。後日いづれも龜の化した人物にめぐりあび、宋の子は水死しなければならぬ運命を免れ、韋丹は四十歳近くまで碌々としてゐたのが、俄かに運が開けて御史大夫に至る。胡蘆先生なる者の説によると、韋丹に助けられた龜は實は神龍だといふことであつた。他人の運命を左右するほど靈威ある者が、どうして漁夫に捕へられて苦しんだか。それは一時の困厄で、聖人たると凡人たるとを問はず、皆免れ得ぬのだといふことになつてゐる。

[やぶちゃん注:『「稽神錄」の宋氏』は「太平廣記」の「水族八」に「宋氏」として、「稽神錄」からとして載る。

   *

江西軍吏宋氏嘗市木至星子、見水濱人物喧集、乃漁人得一大黿。黿見宋屢顧、宋卽以錢一千贖之、放于江中。後數年、泊船龍沙、忽有一僕夫至、云、「元長史奉召。」。宋恍然。「不知何長史也。既往、欻至一府、官出迎。」。與坐曰、「君尚相識耶。宋思之、實未嘗識。」。又曰、「君亦記星子江中放黿耶。」。曰、「然、身卽黿也。頃嘗有罪、帝命謫爲水族、見囚於漁人、微君之惠、已骨朽矣。今已得爲九江長、相召者、有以奉報。君兒某者命當溺死、名籍在是。後數日、鳴山神將朝廬山使者、行必以疾風雨、君兒當以此時死。今有一人名姓正同、亦當溺死、但先期歳月間耳。吾取以代之、君兒宜速登岸避匿、不然不免。」。宋陳謝而出、不覺已在舟次矣。數日、果有風濤之害。死甚衆。宋氏之子竟免。

   *

「河東記」のそれは「韋丹」。

   *

唐江西觀察使韋丹、年近四十、舉五經未得。嘗乘蹇驢、至洛陽中橋。見漁者得一黿、長數尺、置於橋上、呼呻餘喘、須臾將死。群萃觀者、皆欲買而烹之。丹獨憫然、問其直幾何。漁曰、「得二千則鬻之。」。是時天正寒、韋衫襖褲、無可當者、乃以所乘劣衛易之。既獲、遂放於水中、徒行而去。時有胡蘆先生、不知何所從來、行止迂怪、占事如神。後數日、韋因問命、胡蘆先生倒屣迎門、欣然謂韋曰、「翹望數日、何來晚也。」。韋曰、「此來求謁。」。先生曰、「我友人元長史、談君美不容口、誠托求識君子、便可偕行。」。韋良久思量、知聞間無此官族。因曰、「先生誤、但爲某決窮途。」。胡蘆曰、「我焉知。君之福壽、非我所知。元公即吾師也、往當自詳之。」。相與策杖至通利坊、靜曲幽巷。見一小門、胡蘆先生卽扣之。食頃、而有應門者開門延入。數十步、復入一板門。又十餘步、乃見大門、制度宏麗、擬於公侯之家。復有丫鬟數人、皆及姝美、先出迎客。陳設鮮華、異香滿室。俄而有一老人、須眉皓然、身長七尺、褐裘韋帶、従二青衣而出。自稱曰、「元浚之。」。向韋盡禮先拜。韋驚、急趨拜曰、「某貧賤小生、不意丈人過垂採錄、韋未喩。」。老人曰、「老夫將死之命、爲君所生、恩德如此、豈容酬報。仁者固不以此爲心、然受恩者思欲殺身報效耳。」。韋乃矍然、知其黿也、然終不顯言之。遂具珍羞、流連竟日。既暮、韋將辭歸、老人卽於懷中出一通文字、授韋曰、「知君要問命、故輒於天曹、錄得一生官祿行止所在、聊以爲報。凡有無、皆君之命也。所貴先知耳。」。又謂胡蘆先生曰、「幸借吾五十千文、以充韋君改一乘、早決西行、是所願也。」。韋再拜而去。明日、胡蘆先生載五十緡至逆旅中、賴以救濟。其文書具言、明年五月及第、又某年平判入登科、受咸陽尉、又明年登朝、作某官。如是歷官一十七政、皆有年月日。最後年遷江西觀察使、至御史大夫。到後三年、廳前皂莢樹花開、當有遷改北歸矣。其後遂無所言、韋常寶持之。自五經及第後、至江西觀察使。每授一官、日月無所差異。洪州使廳前、有皂莢樹一株、月頗久。其俗相傳、此樹有花、地主大憂。元和八年、韋在位、一旦樹忽生花、韋遂去官、至中路而卒。初韋遇元長史也、頗怪異之。後每過東路、卽於舊居尋訪不獲、問於胡蘆先生。先生曰、「彼神龍也、處化無常、安可尋也。」。韋曰、「若然者、安有中橋之患。」。胡蘆曰、「迍難困厄、凡人之與聖人、神龍之與耑蠕、皆一時不免也、又何得異焉。」。

   *

「碌々と」(ろくろくと)は平凡なさま・役に立たないさま・何事もなし得ないさま。]

 宋や韋に助けられた龜は、それぞれ恩に報いてゐる。たゞその世界は浦嶋太郎とはかけ離れたもので、全然詩趣がない。後世の作者がこれにヒントを得て、浦嶋太郎の話に龜を助ける一條を加へたと解するのは躊躇せざるを得ぬ。現實的な宋や韋は最後の一段に於て、玉手箱から立ちのぼる一道の白氣のために、忽ち白髮の老翁と化するやうなこともなかつたが、浦嶋太郎の話が永く傳承され、多くの文藝に取入れられた最大眼目はこの玉手箱の白氣に在る。それは勿論蓬萊宮中の歡樂と照應すべきものだから、最初からさういふ場面を缺いてゐる「稽神錄」や「河東記」では玉手箱の出しやうがないのかも知れぬ。

「列仙全傳」の中で多少浦嶋の面影があるかと思ふのは孫思邈(そんしばく)である。或日一人の童子が小蛇を苦しめてゐるのを見、それを貰ひ受けて衣に包み、藥を塗つて放してやつた。十日ばかりたつて郊外の道を行くと、馬に乘つた白衣の少年が現れ、自分はあなたに命を助けられた蛇の兄であると名乘り、強ひてその家に連れて行つた。金碧燦爛たる立派な城郭で、庭には花木が生ひ繁つて居つたが、やがて多くの從者を隨へた紅い衣服の人が、彼を上座に招じ、厚く恩誼を謝した後、靑い衣服の少年を紹介して、これがあなたに助けられた者であるといふ。それから山海の珍味が出たけれど、恩遇は五穀を避けてゐる道士なので、酒だけしか飮まぬ。傍の人にこゝは何といふところかと問うたら、徑陽の水府であると答へた。彼ははじめて水底に不思議な世界のあることを知つたのである。三日ばかりして辭し去らうとした時、主人は多くの金銀絹綃の類を出して贈らうとしたが、堅く辭して受けぬので、今度は龍宮の妙藥凡そ三十種ばかりを持ち出し、何かの御用に立つこともあらうと云つて贈つた。果してこの藥は效驗の著しいものばかりであつた。

[やぶちゃん注:「孫思邈(そんしばく)」(五八一年或いは六〇一年~六八二年)は隋末から初唐の医家。京兆華原(けいちょうかげん:現在の陝西省耀県)の人。孫真人(そんしんじん)とも称される。七歳で学問を始め、二十歳の頃には老荘思想や百家の説を論じ、併せて仏典も好んだ。陰陽・推歩(天文や暦算)・医薬に精通していたが、太白山に隠居し、隋の文帝・唐の太宗や高宗が高位を約して招くも、これを受けなかったという。著書である「備急千金要方」の自序に『幼時に風冷に遭い、度々、医者に掛かり、家産を使い果たした。故に学生の時から老年に至るまで。医書を尊び親しんでいる。診察・薬方などを有識者に学び、身辺の人や自身の疾病を治すようになった。薬方や本草を学ぶのはよいが、薬方書は非常に多く、緊急時には間に合わぬ。そこで、多くの経方書(けいほうしょ)から集めて簡易につくったものが「備急千金要方」三十巻である。人命は貴く、千金の価値がある』と記しているという。他にも「福禄論」「摂生真録」「枕中素書」などの著書がある(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「金銀絹綃」「きんぎんけんせう」と読んでおく。「綃」は畳語で「絹」と同じく「生糸(きいと)」の意。

 原文は以下(現代中国語(繁体字)に書き直したものか)と同源の話であろう。中文サイトからの引用だが、出典は明記されていないが、既に述べた通り、「列仙全傳」は所持せず、中文サイトでも探し方が悪いのか、見当たらぬので、孫思邈のポリシーではないが、応急処方として示しておくこととする。

   *

一次孫思邈外出、碰見一個牧童砍傷了一條小蛇、很是同情、就用衣服包好帶囘家來、用外傷藥敷好、包紮好傷口、放囘了草叢中。十幾天後、孫思邈出遊在外、遠遠來了一位穿白衣的少年。少年來到跟前、翻身下馬、跪倒便拜、「感謝你救了我的弟弟。」。孫思邈還未明白過來、少年又邀他到家中一坐、著就把自己的馬讓給孫思邈、自己跟在後邊走得很快。不多會兒就走進了一個城廓、但見花木盛開、殿宇輝煌。

有一個人穿戴打扮像是一位王者、帶著很多侍從、起身迎接他、説、「深蒙先生大恩、特意讓我的孩子請你。」。説著指著一個穿靑衣的小孩説、「前些天這孩子一個人外出、被一個牧童砍傷了、多虧先生您脱衣相救、這孩子才有今天。」。又讓穿靑衣的小孩跪倒磕頭。

孫思邈才想起脱衣救靑蛇的事、悄悄地問一個隨從的人這是什麼地方、那人説這是涇陽水府。王者便設下酒席歌舞宴請孫思邈。孫思邈正在練習道術的辟穀服氣、只喝了一點點酒。

在這個地方過了三天、孫思邈要走、王者搬出金銀綢緞相賜、孫思邈堅辭不要、王者又叫龍宮奇方三十首他兒子拿了、送給孫思邈説、「這些方子可以幫您濟世救人。」。就用車馬送孫思邈囘去了。孫思邈用這些方子試著給人治病、非常效驗、就把它編進了他撰寫的「千金方」一書中。

孫思邈一生治病救人、到了唐永徽三年、孫思邈已經一百多了。一天、他洗完澡穿好衣服、端端正正地坐在那裏對兒孫們説、「我將要到無何有之去了。」。説完就咽了氣。過了一個多月、臉色還像生前一樣、沒有改變、到盛殮時、忽然屍體不見了、只剩下了一堆衣裳。

   *]

 この話は宋氏や章丹に比べて大分浦嶋に似たところが多い。伴はれた場所が水底の城郭であり、歸りがけに土産をくれたりするあたり、日本の龍宮譚とほゞ同じである。殊に發端が童子の苦しめる蛇である一點は、最も看過すべからざるものと思はれる。

南方熊楠 履歴書(その14) ロンドンにて(10) 母の死・放蕩の兄南方弥兵衛のこと

 

 こんなことをいいおると果てしがないから、以下なるべく締めて申す。けだし、若いときの苦労は苦中にも楽しみ多く、年老(と)るに及んでは、いかな楽しきことにあうても、あとさきを考えるから楽しからぬものなり。小生ロンドンで面白おかしくやっておるうちにも、苦の種がすでに十分伏在しおったので、ロンドンに着いて三年めに和歌山にあった母また死せり。「その時にきてまし物を藤ごろも、やがて別れとなりにけるかな」。仏国のリットレーは若きときその妹に死に別れたが、老年に及んでもその妹の顔が現に眼前にあるようだと嘆きし由。東西人情は古今を通じて兄弟なり。小生最初渡米のおり、亡父は五十六歳で、母は四十七歳ばかりと記臆す。父が淚出るをこらえる体(てい)、母が覚えず声を放ちしさま、今はみな死に失せし。兄姉妹と弟が瘖然(いんぜん)黙りうつむいた様子が、今この状を書く机の周囲に手で触(さわ)り得るように視(み)え申し候。それについて、またいまだ一面識なき貴下も、この処を御覧にならば必ず覚えず悽然たるものあるを直覚致し、天下不死的の父母なし、人間得がたきものは兄弟、この千万劫(ごう)にして初めて会う値遇(ちぐう)の縁厚き兄弟の間も、女性が一人でも立ち雑(まじ)ると、ようやく修羅(しゅら)と化して闘争するに及ぶ次第は近々述べん。

[やぶちゃん注:「ロンドンに着いて三年めに和歌山にあった母また死せり。」南方熊楠がロンドンについたのは明治二五(一八九二)年九月二十六日で、母すみは明治二九(一八九六)年二月二十七日に五十八歳で亡くなっている当時、熊楠満二十八であった。

「その時にきてまし物を藤ごろも、やがて別れとなりにけるかな」サイト「南方熊楠資料研究会」の「南方熊楠を知る事典」内のこちらのページの中瀬喜陽氏の「南方すみ」によれば、これは藤原伊周の一首とし(但し、私の所持する歌集類では見出せなかった。収録歌集等、識者の御教授を乞うものである)、熊楠は母逝去の報を知って、この和歌を以って『その死を悼(いた)み、弟から送られてきた、母の枕辺に兄弟が並んだ写真を見て自らを慰めた、という』とある。

「リットレー」フランスの医学史家・哲学者・文献学者・辞書編纂者にしてアカデミー会員であったエミール・マクシミリアン・ポール・リトレー(Émile Maximilien Paul Littré 一八〇一年~一八八一年)のことであろう。数ヶ国語を操り、ヒポクラテスのギリシア語校訂版と仏訳を完成(一八三九年~一八六一年)、コントの実証主義思想に共感して、コントが神秘主義的になった後も、理性を最重視する合理主義を説いた。彼を特に有名にしたのは、俗に「リトレ辞典」と呼ばれる四巻からなるDictionnaire de la langue franaise(「フランス語大辞典」一八六三年~一八七三年刊/補遺一八七七年刊)の編纂で、この辞書は語義と例文の他に、語源・語史・文法事項をも記述した画期的な辞典で、十九世紀から二十世紀の文人に大きな影響を与えたことで知られる(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「瘖然(いんぜん)」激しい失意によって言葉を発することも出来ないさま。

「悽然」(せいぜん)は深い悲しみに沈むさま。この「黙りうつむいた様子が、今この状を書く机の周囲に手で触(さわ)り得るように視(み)え申し候。それについて、またいまだ一面識なき貴下も、この処を御覧にならば必ず覚えず悽然たるものあるを直覚致」すはずである、という箇所は、単に熊楠の父母を失った深い悲しみが今も続いていることの過剰なデフォルマシオンなのではないことに注意されたい。これはかなり知られたことであるが、南方熊楠は博覧強記だっただけでなく、ある種の「博乱狂気」的側面もあり、高野山山中の採集中にも幽霊を実際に見たと主張し、幽冥界を視認するような霊的な能力を持っていたと自認していた節がある。ここもそうした霊界を、今ここに現出させおるし、それを貴君(書簡の相手である日本郵船株式会社大阪支店副長矢吹義夫)がここに居られたならば実感させることさえも可能であるととんでもないことを言っているのである(と私は採る)。

「値遇(ちぐう)」「ちぐ」とも読み、縁あってめぐりあうこと、特に、仏縁あるものにめぐりあうことを指す。]

 

 この母が死せしころ、兄弥兵衛がすでに無茶苦茶に相場などに手を出し、家ががらあきになりおった。この人は酒は飲まねど無類の女好きで、亡父の余光で金銭乏しからざりしゆえ、人に義理を立てるの何のということなく、幇間(ほうかん)ごとき雑輩を親愛するのみゆえ、世人に面白く思われず。そのころ和歌山第一の美女というものあり。紀州侯の家老久野丹波守(伊勢田丸の城主)の孫にて、この久野家は今まであらば男爵相当だが絶してしまえり。この女が若後家たりしを兄が妾とし、亡父が撰んでくれた本妻を好まず(これは和泉の尾崎という所の第一の豪家の女なり)、久野の孫女の外になお四人の女を囲いおりたり。そんなことにて万事抜り目多くて、亡父の鑑定通り、父の死後五年に(明治三十年)全く破産して身の置き処もなく、舎弟常楠の家に寄食し、その世話で諸方銀行また会社などへ傭われ行きしも、ややもすれば金銭をちょろまかし、小さき相場に手を出し、たまたま勝たば女に入れてしまう。破産閉塞の際、親類どもより本妻を保続するか妾(久野家の孫女)を保続するかと問いしに、三子まで生みたる本妻を離別して、妾と共棲すべしという。そのうち、この妾は借屋住居の物憂さに堪えず、䕃(かげ)り隠れて去りぬ(後に大阪の売薬長者浮田桂造の妻となりしが、先年死におわる)。

[やぶちゃん注:「紀州侯の家老久野丹波守(伊勢田丸の城主)」現在の三重県度会郡玉城町(たまきちょう)田丸(たまる)字城郭にあった田丸城は、中世より伊勢神宮を抑える戦略的要衝として古くから争奪戦が繰り返された古城砦で、江戸時代には元和五(一六一九)年に徳川御三家の一つ紀州徳川家の治める紀州藩所領となり、遠江久野(くの)城城主であった付家老久野(くの)宗成が駿府藩徳川頼宣に付属させられ、頼宣の紀州転封(紀州徳川家の成立)の際にもそのまま随員となって、紀州へ移った。頼宣はこの宗成に一万石を与えて田丸城城主として田丸領六万石を領させた。久野氏は紀州藩家老として和歌山城城下に居を構えたため、田丸城には一族を城代として置いて政務を執らせた。久野氏はその後八代続いて明治維新に至っているから(ここまではウィキの「田丸城に拠る)、その最後の紀州藩田丸城代家老久野家八代当主久野丹波守純固(すみかた 文化一二(一八一五)年~明治六(一八七三)年の孫と思われる。純固は家臣を佐久間象山らに入門させて西洋式砲術を学ばせたり、領内に砲術練習場を設立したりしており、また、俳句・和歌・漢詩に巧みな文人でもあったという(ここはウィキの「久野純固に拠る)。ウィキではそれ以降の久野家の記載は追跡出来ないから(ウィキの「久野でも)、熊楠の言うように断絶してしまったものらしい。

「亡父が撰んでくれた本妻」「和泉の尾崎という所の第一の豪家の女」「女」は「むすめ」と訓じていよう。この本妻は「愛」という名で、「尾崎」は現在の大阪府阪南市尾崎町であろう。(グーグル・マップ・データ)。彼女と兄弥兵衛との間に生まれた長女南方くすゑ(明治二一(一八八八)年生まれ)は、後年、熊楠が可愛がった親族の一人であった。

「抜り目」「ぬかりめ」。抜けたところ。判断がいい加減、処理が不適切且つ不全なこと。

「父の死後」既出であるが、再掲しておくと、明治二五(一八九二)年。

「明治三十年」一八九七年。

「浮田桂造」(弘化三(一八四六)年~昭和二(一九二七)年)は実業家・衆議院議員。大坂生まれで、旧姓は梅咲。大阪府議・南区長を経て、明治二三(一八九〇)年の第一回総選挙で衆院議員に当選し、二期を務めた。また大阪舎密工業社長・東洋水材防腐取締役・関西水力電気取締役、及び共同火災海上運送保険・北浜銀行・浪速銀行等の役員を務め、大阪鉄道・天満(てんま)紡績の創立にも関わっている。

 因みに、放蕩息子兄弥兵衛は、晩年、和歌山を去って現在の呉市吉浦西城町(よしうらにしじょうちょう)で大正一三(一九二四)年に六十五歳で亡くなっている。]

 

南方熊楠 履歴書(その13) ロンドンにて(9) ロンドン交友録・「ブーゴニア伝説」の考証

 

 小生は前述亡父の鑑識通り、金銭に縁の薄き男なり。金銭あれば書籍を購(か)う。かつて福本日南が小生の下宿を問いし時の記文(日南文集にあり)にもこのことを載せ、何とも知れぬ陋室(ろうしつ)に寝牀(ねどこ)と尿壺(にょうつぼ)のみありて塵埃払えども去らず、しかれども書籍と標本、一糸乱れず整備しおるには覚えず感心せり、とありしと記臆す。いつもその通りなり。ロンドンにて久しくおりし下宿は、実は馬部屋の二階のようなものなりし。かつて前田正名氏に頼まれ、キュー皇立植物園長シスルトン・ダイヤー男を訪れし翌日、男より小生へ電信を発せられしも、町が分からずして(あまりの陋ゆえ)電信届かざりしことあり。しかして、この二階へ来たり泊(とま)り、昼夜快談せし人に木村駿吉博士等の名士多く、また斎藤七五郎中将(旅順海戦の状を明治天皇御前に注進申せし人。この人は仙台の醤油作るため豆を踏んで生活せし貧婦の子なり。小生と同じく私塾にゆきて他人の学ぶを見覚え、帰りて記臆のまま写し出して勉学せしという)、吉岡範策(故佐々友房氏の甥、柔道の達人、只今海軍中将に候)、加藤寛治、鎌田栄吉、孫逸仙、オステン・サツケン男等その他多し。

[やぶちゃん注:「福本日南」(にちなん 安政四(一八五七)年~大正一〇(一九二一)年)はジャーナリスト・政治家。ウィキの「福本日南」によれば、『福岡藩士福本泰風の長男として福岡に生まれる。本名は福本誠。幼名は巴。藩校修猷館に学び、後に長崎において谷口藍田(中秋)に師事し、更に上京して岡千仭に師事して専ら漢籍を修めた』。明治九(一八七六)年、『司法省法学校(東京大学法学部の前身)に入学するも、「賄征伐」事件(寮の料理賄いへ不満を抱き、校長を排斥しようとした事件)で、原敬・陸羯南』『らと共に退校処分となる』。『その後、北海道やフィリピンの開拓に情熱を注ぎ』、明治二一(一八八八)年には彼と同じく南進論者であった『菅沼貞風と知友となり、当時スペイン領であったフィリピンのマニラに菅沼と共に渡ったが、菅沼が現地で急死したため、計画は途絶した』。『帰国後、政教社同人を経て』、明治二二(一八八九)年に陸羯南らと、『新聞『日本』を創刊し、数多くの政治論評を執筆する。日本新聞社の後輩には正岡子規がおり、子規は生涯』、『日南を尊敬していたという』。明治二十四年七月には小沢豁郎・白井新太郎とともに発起人となって、アジア諸国及び南洋群島との通商・移民のための研究団体「東邦協会」を設立、『その後、孫文の中国革命運動の支援にも情熱を注いでいる』。明治三八(一九〇五)年には、招かれて、『玄洋社系の「九州日報」(福陵新報の後身、西日本新聞の前身)の主筆兼社長に就任』している。明治四十年の第十回『衆議院議員総選挙に憲政本党から立候補し当選。同年』、「元禄快挙録」の『連載を『九州日報』紙上で開始』した。これは『赤穂浪士称讃の立場に』立つ日南が、『忠臣蔵の巷説・俗説を排して史実をきわめようと著わしたものであり、日露戦争後の近代日本における忠臣蔵観の代表的見解を示し』、『現在の忠臣蔵のスタイル・評価を確立』したものとされる。彼は明治三一(一八九八)年から翌年にかけて、パリ・ロンドンに滞在しており、この時、南方熊楠と邂逅、そ『の時の交遊を描いた随筆「出てきた歟(か)」を』、後の明治四三(一九一〇)年の『大阪毎日新聞』に連載、これは熊楠の存在を全国に初めて紹介した記事ともされる、とある(下線やぶちゃん)。

「前田正名」(まさな 嘉永三(一八五〇)年~大正一〇(一九二一)年)は経済官僚で地方産業振興運動の指導者。鹿児島で薩摩藩藩医の子として生まれ、慶応年間(一八六五年~一八六八年)に長崎に留学したが、明治二(一八六九)年、フランスに渡ってフランス農商務省で行財政を学び、明治一〇(一八七七)年に帰国、内務省御用掛となた。後、「大隈財政」下の大蔵省にあって、直輸出論を提唱、大隈ブレーンの一人となった。明治十四年には農商務・大蔵大書記官となり、欧州経済事情調査に出張、明治十六年の帰国後は品川弥二郎らと組み、経済政策を構想、「松方財政」を批判して殖産興業資金の追加供給による強力な産業保護主義を主張、松方正義大蔵卿と対立した。明治二十一年に山梨県知事、翌年には農商務省工務局長・農務局長に復帰、その後は農商務次官・元老院議官・貴族院勅選議員となったものの、政府中枢の政策に同調出来ず、官界を去り、明治二五(一八九二)年以降は地方産業振興運動を指導し、地方実業団体・全国農事会等を系統的に組織化しては政府・議会にそれら団体の要求を建議する活動を行ったりしたが、晩年は不遇に終わった。以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った。「頼まれ」たとあるのは、既に官界を去って地方産業振興運動に力を入れていた日本にいる前田から依頼されたのである。

「キュー皇立植物園」イギリスの首都ロンドン南西部のキュー地区にある王立植物園キュー・ガーデン(Kew Gardens:キュー植物園)。一七五九年に宮殿併設の庭園として始まり、現在では世界で最も有名な植物園として膨大な資料を所蔵・保存している。

「シスルトン・ダイヤー男」イギリスの植物学者で、キュー・ガーデンが王立植物園となった後の第三代園長ウィリアム・ターナー・シセルトン=ダイアー男爵(Sir William Turner Thiselton-Dyer 一八四三年~一九二八年)。

「木村駿吉」既出既注

「斎藤七五郎」(明治二(一八七〇)年~大正一五(一九二六)年)は海軍軍人。南方熊楠が記すように、仙台の麹屋斎藤七兵衛の子として生まれ、苦学して進学したが、学費が続かず、小学校の教員となった。海軍軍人を志して上京、明治二六(一八九三)年、二十四歳で海軍兵学校を卒業、日清戦争(一八九四年~一八九五年)・北清事変(一九〇〇年)に従軍した後、日露戦争(一九〇四年~一九〇五年)では「旅順口閉塞作戦」に「仁川(じんせん)丸」・「弥彦丸」の指揮官を勤め、その沈勇を謳われた。戦後は練習艦隊や軍令部の参謀を務め、アメリカ・イギリス駐在を経た後、第一次大戦(一九一四年~一九一八年)では巡洋艦「八雲」艦長としてインド洋方面の警備を担当した。大正七(一九一八)年の少将・呉鎮守府参謀長から、後、中将となって第五戦隊司令官・練習艦隊司令官を歴任、大正一三(一九二四)年に軍令部次長に就任、ワシントン会議後の海軍の指導者として嘱望されたが、在任中に病没した。但し、ロンドンでの南方熊楠は、この事蹟(「朝日日本歴史人物事典」に拠る)では見出し得ないが、サイト「南方熊楠のキャラメル箱」のこちらの記載によれば、海軍少尉であった頃に、彼の乗船していた「富士」が滞在中、南方熊楠が艦員を大英博物館へ案内したとあり、調べてみると、この「富士」はイギリス・ロンドンのテームズ社製で、明治三〇(一八九七)年八月十七日に竣工し、直ちに日本に回航されていることから(同年十月三十一日横須賀到着)この回航委員の一人として彼がイギリスに向かい、その折りに斎藤と熊楠は邂逅したと考えるのが自然のようである。また大正九(一九二〇)年には田辺を少将となった彼が訪れてもいるとある。

「吉岡範策」(はんさく 明治二(一八六九)年~昭和五(一九三〇)年)は海軍軍人。海軍中将。肥後国(現在の熊本県宇城市小川地区)に肥後藩士の長男として生まれた。済々黌卒業。明治二四(一八九一)年に海軍兵学校を卒業して海軍少尉となり、日清戦争では軍艦「浪速」の分隊士として東郷平八郎艦長の下に従軍、「富士」回航委員などを経て、明治三四(一九〇一)年に海軍大学校(二期生)を卒業し、明治三十七年には海軍少佐となった。日露戦争では第二艦隊旗艦「出雲」の砲術長として日本海海戦に参戦している。その後、海軍演習審判官や「橋立」艦長を経て、大正三(一九一四)年八月二十三日に「浅間」艦長に補された。この日は日本がドイツへ宣戦布告した日でもあり、吉岡は第一次世界大戦に出征している。翌年、「筑波」艦長となる(同艦は翌年実施された観艦式に於ける大正天皇御召艦であった)。「金剛」艦長を経て、大正六(一九一七)年に海軍少将に昇進、その後、第一艦隊参謀長や連合艦隊参謀長を経て、大正十年には海軍中将・海軍砲術学校長となった(大正十三年予備役)。彼は「砲術の神様」とも呼ばれた(以上はウィキの「吉岡範策」に拠った)。

「佐々友房」(さっさともふさ 嘉永七(一八五四)年~明治三九(一九〇六)年)は政治家。肥後(熊本県)出身で、西南戦争では西郷軍に参加している。明治一四(一八八一)年に「紫溟(しめい)会」を結成して「国権主義」を唱えた。明治二十三年、熊本国権党副総理、同年衆議院議員(後、当選九回)。国民協会・帝国党・大同倶楽部などで指導的役割を果した。

「加藤寛治」(ひろはる 明治三(一八七〇)年~昭和一四(一九三九)年)は軍人。海軍大将。越前(福井県)出身で海軍兵学校卒。戦艦「三笠」の砲術長として日露戦争に出征、大正一〇(一九二一)年、ワシントン軍縮会議の随員となり、対米七割の強硬論を主張した。大正15年、連合艦隊司令長官、昭和四(一九二九)年には軍令部長となるが、翌年、ロンドン海軍軍縮会議で強硬論を主張して政府と対立、統帥権干犯問題(海軍軍令部の承認なしに兵力量を決定することは天皇の統帥権を犯すものとして右翼や政友会が当時の浜田内閣を攻撃した騒擾)を引き起こして辞職した。ロンドンでの南方熊楠との接点は確認出来なかった。

「鎌田栄吉」既出既注

「孫逸仙」既出の孫文。

「オステン・サツケン男」カール・ロバート・オステン・サッケン(Carl Robert von Osten-Sacken/ロシア名:Роберт Романович Остен-Сакен 一八二八年~一九〇六年)男爵はロシアの外交官で昆虫学者。サイト「南方熊楠資料研究会」の「南方熊楠を知る事典」内のこちらのページの松居竜五氏の「オステン=サッケン Osten-Sacken, Baron 1828-1906」によれば、『ペテルスブルク生まれのロシアの男爵。一八五六年から七七年まで、外交官としてアメリカに二十年以上滞在した』(本文の次の段落冒頭で熊楠は「オステン・サッケン男は、シカゴの露国総領事たり」と記している)。『幼少時より昆虫学を愛好、北アメリカ産の膜翅類(まくしるい)(虻(あぶ)や蜂の類)に関する目録を作っている。ヨーロッパへ戻ってからは、ハイデルベルクに居住し、虻と蜂の分類法に取り組んだ』とし、『晩年のサッケンは、こうした自らの膜翅類に関する研究をさらにフォークロアの解釈にまで広げていくのだが、熊楠との付き合いもそこから始まることになる。すなわち、一八九四年、サッケンは前年発表した自らの「古代のビュゴニアについて」という聖書の中の蜂の伝説に関する論文を補完するための材料を提供してくれるよう、『ネイチャー』読者投稿欄に質問状を送った。これに対して応えたのが、熊楠の『ネイチャー』への第三作、「蜂に関する東洋人の諸信」だったのである』(次段で絵入りで簡単に語られている。この論文の題名と発表はSome Oriental Beliefs about Bees and Wasps(「ミツバチ類やジカバチ類についての幾つかの東洋の俗信」 NATURE, 1894.5.10))。この『熊楠の投稿論文に対して、すぐさまサッケンからの反応があったことは、次の一八九四年五月十六日付日記からわかる』。

   *

 夕(ゆう)ハイデルベルヒのバロン・オステン・サッケンより來書。予がネーチュールに出せるブンブン蟲の事を謝し、並に謝在杭の事實等を問はる。[やぶちゃん注:引用元の漢字を恣意的に正字化して示した(後の引用も同じ処理を施した)。「謝在杭(しゃざいこう)」は志怪小説や博物学的考証をも含む「五雜組」の著者謝肇淛(しゃちょうせい)の字(あざな)であって、誤記ではない。]

   *

『これに応えて、熊楠は翌日さっそくサッケンに返書を投函し、以後、文通が始まることになった。そして、この年の八月、サッケンがロンドンに滞在した折には、わざわざ熊楠の下宿を訪ねてさえいる』。以下がその一八九四年八月三十一日附の日記。

   *

 午後四時過、バロン・オステン・サッケン氏來訪され、茶少しのみ、二十分斗りはなして歸る。六十餘と見ゆる老人なり。魯國領事として新約克(ニューヨーク)にありしとのこと。

   *]

 

 オステン・サッケン男は、シカゴの露国総領事たり。公務の暇に両翅虫学 Dipterology を修め、斯学の大権威たりし。この人を助けて小生『聖書』の獅(しし)の尸骸(しがい)より蜂蜜を得たサムソンの話を研究し、ブンブン(雪隠虫の尾長きもの Hanaabuyoutyu )が羽化せる虻(あぶ)で、きわめて蜜蜂に似たもの)を蜜蜂と間違えて、かかる俗信が生ぜし由を述べ、ハイデルベルヒで二度まで出板し、大英博物館にも蜜蜂とブンブンを並べ公示して、二虫間に天然模擬の行なわるるを証するに及べり。このことは近日『大毎』紙へ載するから御笑覧を乞いおく。このサツケン男(当時六十三、四歳)小生の弊室を訪れし時茶を供えしが、あまりに室内のきたなさにその茶を飲まずに去りし。木村駿吉博士は無双の数学家だが、きわめてまた経済の下手な人なり。ロンドンへ来たりしとき、ほとんど文(もん)なしで予を訪れ、予も御同様ゆえ、詮方なくトマトを数個買い来たり、パンにバターをつけて食せしも旨(うま)からず、いっそ討死(うちじに)と覚悟して、あり丈(た)け出してビールを買い来たり、快談して呑むうち夜も更け渡り、小便に二階を下りると、下にねている労働者がぐずぐずいうから、室内にある尿壺、バケッツはもちろん、顔洗う水盆までも小便をたれこみ、なお、したくなると窓をそっと明けて屋根へ流し落とす。そのうち手が狂ってカーペットの上に小便をひっくりかえし、追い追い下の室に落ちたので、下の労働者が眠りながらなめたかどうかは知らず。正にこれ「小便をこぼれし酒と思ひしは、とっくり見ざる不調法なり」。翌朝起きて家の主婦に大眼玉を頂戴したことあり。一昨々年上京して鎌田栄吉氏より招かれ、交詢社で研究所のことを話すうち、速達郵便で木村氏が百円送られしこそ、本山彦一氏に次いで寄付金東京での嚆矢たりしなれ。まかぬ種ははえぬというが、カーペットの上にまいた黄金水が硬化して百円となったものと見え候。

[やぶちゃん注:文中に挿入された「ブンブン」(後注参照)の幼虫(蛆)の絵を底本より画像で挿入した。

「両翅虫学 Dipterology 」昆虫綱有翅昆虫亜綱双翅(ハエ)目 Diptera(カ・ガガンボ・ハエ・アブ・ブユなどを含むグループで、極地を除くほぼ全世界に分布する。種数は約九万種に及び、昆虫類の中では甲虫類(Coleoptera:三十五万種超)・鱗翅(チョウ)目(十四万種超。蝶類よりも蛾類の方が多い(三分の二近く)。私は常々、和名の目の学名を「チョウ目」と呼ぶのは甚だおかしいと考えている)・膜翅(ハチ)目(Hymenopter)に次いで種数が多い。

「『聖書』の獅(しし)の尸骸(しがい)より蜂蜜を得たサムソンの話」「旧約聖書」の「士師(しし)記」の「第十四章」。以下に、日本聖書協会の一九五五年訳から当該全章を引く(引用元はウィキソースのこちら)。節番号は除去したが、節改行は残した。

   *

サムソンはテムナに下って行き、ペリシテびとの娘で、テムナに住むひとりの女を見た。

彼は帰ってきて父母に言った、「わたしはペリシテびとの娘で、テムナに住むひとりの女を見ました。彼女をめとってわたしの妻にしてください」。

父母は言った、「あなたが行って、割礼をうけないペリシテびとのうちから妻を迎えようとするのは、身内の娘たちのうちに、あるいはわたしたちのすべての民のうちに女がないためなのですか」。しかしサムソンは父に言った、「彼女をわたしにめとってください。彼女はわたしの心にかないますから」。

父母はこの事が主から出たものであることを知らなかった。サムソンはペリシテびとを攻めようと、おりをうかがっていたからである。そのころペリシテびとはイスラエルを治めていた。

かくてサムソンは父母と共にテムナに下って行った。彼がテムナのぶどう畑に着くと、一頭の若いししがほえたけって彼に向かってきた。

時に主の霊が激しく彼に臨んだので、彼はあたかも子やぎを裂くようにそのししを裂いたが、手にはなんの武器も持っていなかった。しかしサムソンはそのしたことを父にも母にも告げなかった。

サムソンは下って行って女と話し合ったが、女はサムソンの心にかなった。

日がたって後、サムソンは彼女をめとろうとして帰ったが、道を転じて、かのししのしかばねを見ると、ししのからだに、はちの群れと、蜜があった。

彼はそれをかきあつめ、手にとって歩きながら食べ、父母のもとに帰って、彼らに与えたので、彼らもそれを食べた。しかし、ししのからだからその蜜をかきあつめたことは彼らに告げなかった。

そこで父が下って、女のもとに行ったので、サムソンはそこにふるまいを設けた。そうすることは花婿のならわしであったからである。

人々はサムソンを見ると、三十人の客を連れてきて、同席させた。

サムソンは彼らに言った、「わたしはあなたがたに一つのなぞを出しましょう。あなたがたがもし七日のふるまいのうちにそれを解いて、わたしに告げることができたなら、わたしはあなたがたに亜麻の着物三十と、晴れ着三十をさしあげましょう。

しかしあなたがたが、それをわたしに告げることができなければ、亜麻の着物三十と晴れ着三十をわたしにくれなければなりません」。彼らはサムソンに言った、「なぞを出しなさい。わたしたちはそれを聞きましょう」。

サムソンは彼らに言った、「食らう者から食い物が出、強い者から甘い物が出た」。彼らは三日のあいだなぞを解くことができなかった。

四日目になって、彼らはサムソンの妻に言った、「あなたの夫を説きすすめて、なぞをわたしたちに明かすようにしてください。そうしなければ、わたしたちは火をつけてあなたとあなたの父の家を焼いてしまいます。あなたはわたしたちの物を取るために、わたしたちを招いたのですか」。

そこでサムソンの妻はサムソンの前に泣いて言った、「あなたはただわたしを憎むだけで、愛してくれません。あなたはわたしの国の人々になぞを出して、それをわたしに解き明かしませんでした」。サムソンは彼女に言った、「わたしは自分の父にも母にも解き明かさなかった。どうしてあなたに解き明かせよう」。

彼女は七日のふるまいの間、彼の前に泣いていたが、七日目になって、サムソンはついに彼女に解き明かした。ひどく彼に迫ったからである。そこで彼女はなぞを自分の国の人々にあかした。

七日目になって、日の没する前に町の人々はサムソンに言った、「蜜より甘いものに何があろう。ししより強いものに何があろう」。サムソンは彼らに言った、「わたしの若い雌牛で耕さなかったなら、わたしのなぞは解けなかった」。

この時、主の霊が激しくサムソンに臨んだので、サムソンはアシケロンに下って行って、その町の者三十人を殺し、彼らからはぎ取って、かのなぞを解いた人々に、その晴れ着を与え、激しく怒って父の家に帰った。

サムソンの妻は花婿付添人であった客の妻となった。

   *

「ブンブン」所持する「南方熊楠英文論考[ネイチャー]誌篇」(二〇〇五年集英社刊。訳本で訳者は松居竜五・田村義也・中西須美氏)の当該論文の松居竜五氏の解説によれば、これは双翅(ハエ)目短角(ハエ)亜目ハエ下目ハナアブ上科ハナアブ科 Syrphidae 『ハナアブ』(これは狭義の種としては、

ナミハナアブ亜科ナミハナアブ族 Eristalini 属ハナアブ Eristalis tenax

を指す。但し、総称との混同が甚だしいために現行では種としての和名「ハナアブ」は「ナミハナアブ」と呼ばれることが多くなってきている)に同定している。英文のEristalis tenaxのウィキを見ると、素人目には「きわめて蜜蜂に似たもの」に見え、また、何よりも、そこに“Rat-tailed maggot”(「鼠の尾のような蛆」)というキャプションで幼虫の写真が出るが、まさにこれは南方熊楠が描いたそれと非常によく似ていることが判り、以下に示すサッケンの論文にもこの種の学名がはっきりと記されてある

「雪隠虫」ハエ類の蛆のこと。

「ハイデルベルヒで二度まで出板し」これはオステン・サッケンがハイデルベルグで一八九四年に刊行した論文On the Oxen-born bees of the Ancients (Bugonia) and Their Relation to Eristalis tenax, a Two-winged Insect(「牛から生まれた蜂類の古典(ブーゴニア)と、双翅目昆虫の一種であるナミハナアブとの関係」)、及びそれを増補・改訂した同じくハイデルベルグで一八九五年に刊行したAdditional Notes in Explanation of the Bugonia-Lore of the Ancients, Eristalis tenax in Chinese and Japanese Literature(「古代人のブーゴニア伝説の解説への追補、第六 中国と日本の文献に現われるナミハナアブ」)を指していよう。なお、「ブーゴニア伝説」とはローマの代表的詩人ウェルギリウス(紀元前七〇年~紀元前一九年)の書いた「ゲオルギカ」(「農耕詩」 全四巻。紀元前二九年頃成立か)の第四巻に書かれてある蜜蜂の飼育に関わる叙述の中の「アリスタエウス物語」という蜜蜂の喪失と回復の伝承及びそれを濫觴とすると思われる牛や獅子を殺して腐らせるとそこから蜜蜂が生ずるという化生(けしょう)伝説を指す。こちらの「研究発表要旨」の冒頭にある上野由貴氏の「蜜蜂とアリスタエウスウェルギリウス『ゲオルギカ』における農業の担い手たち」を参照されたい。これらの南方熊楠の投稿論文とサッケンとのやりとりと、その両者への影響については、サイト「南方熊楠資料研究会」の「南方熊楠を知る事典」内のこちらのページの松居竜五氏の「蜂のフォークロアに関する連作論文」に詳しいので参照されたい。

「天然模擬」自然界に於ける疑似的形態や生態。ミツバチ類、

膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目ミツバチ上科ミツバチ科ミツバチ亜科ミツバチ族ミツバチ属 Apis

と、ハナアブ類、

双翅(ハエ)目短角(ハエ)亜目ハエ下目ハナアブ上科ハナアブ科ナミハナアブ亜科ナミハナアブ族 Eristalini 属ハナアブ Eristalis tenax

の(目レベルで異なる全くの別種一種の平行進化の結果としての外見上の酷似性を指している。これはベイツ型擬態(Batesian mimicry:毒や毒針を持つ生物とは違う種が同じ警戒色等を用いて捕食されないようにする擬態。擬態研究で進化論の発展に寄与したイギリスの博物学者・昆虫学者ヘンリー・ウォルター・ベイツ(Henry Walter Bates 一八二五年~一八九二年)に由来する)の好例とされている。また、ウィキの「ハナアブによれば、ハナアブ類は、『その名の通り、成虫は花に飛来して蜜や花粉を食べるものが多いが、そうでないものもあ』り、『幼虫は有機物の多い水中でデトリタスを食べるもの、朽木内で育つもの、捕食性、植食性、きのこ食性など多様な生態に適応放散しており、それに合わせてその形態も著しく多様である』とある。

「このことは近日『大毎』紙へ載する」このようなものが『大阪毎日新聞』に載ったかどうかは私は承知していない(全集を持たないので確認出来ない)。識者の御教授を乞う。

「サツケン男(当時六十三、四歳)」当時のサッケンは満六十六歳であるから、寧ろ、やや若く見えたか。

「茶を供えしが、あまりに室内のきたなさにその茶を飲まずに去りし」柳田国男宛明治四四(一九一一)年十一月二十八日午前二時附書簡の中にも、サッケンのことを記した部分で、『小生近処より茶器かり來たり茶を出せしに、小生の生活あまりにきたないから茶を呑めば頭痛すとて呑まずに去られし珍談あり』と綴っている(引用は底本選集の別巻(柳田國男と南方熊楠の往復書簡集)を用いた)。

「一昨々年上京」本「履歴書」(書簡)は大正一四(一九二五)年一月三十一日筆であるが、南方熊楠はこの三年前の大正一一(一九二二)年に「南方植物研究所」設立資金募集のために上京している。

「交詢社」明治一三(一八八〇)年に創立された社交俱楽部。前年の九月に福沢諭吉や矢野文雄(龍溪)ら三十一名が会合して創設を決定、当時の中心メンバーは福沢(常議員会長)とし、以下は慶応義塾関係者で占められ、「知識を交換し、世務を諮詢(しじゅん:参考として他の機関などに意見を問い求めること。「諮問」に同じい)」ことを目的に掲げた。単なる社交組織に留まらず、実際には立志社・愛国社系の自由民権運動に対抗するという政治的狙いを持っていたと見られている。全国的な組織活動の結果、発足時千八百名の社員を擁し、構成員は地主・豪農層や商工業者・銀行家・官吏・学者・言論人・教員等、中央や地方の有力者で構成されていたから、まさに熊楠のような資金集めを目的としていた者には欠かせぬ場所であった(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。]

2017/04/21

改版「風は草木にささやいた」異同検証 「Ⅰ」パート

 

   Ⅰ

 

[やぶちゃん注:「Ⅰ」の上部にデッサン風の挿絵があるが、この絵(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの当該ページの画像)、誰の描いたものか判らぬので、画像表示は控える。以後のパートでも挿絵が入るが、その指示は略す。]

 

 

[やぶちゃん注:「Ⅰ」の冒頭の詩「穀物の種子」(本文から「種子」は「たね」と読むべきである)に異同はない。]

 

 

[やぶちゃん注:「彼等は善い友達である」は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:「父上のおん手の詩」は最終行「此處ではるかにその手に熱い接吻(くちつけ)をしてゐる」が「くちづけ」と濁音表記となっている以外は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:ここにあるはずの初版の二行の短詩篇或る朝の詩

 

  或る朝の詩

 

冬も十二月となれば

都會の街角は鋭くなる……

 

は改版では、何故か除去されている。]

 

[やぶちゃん注:曲つた木は、改版では四行目「ねぢれくるはせたのは風のしわざだ」の「しわざ」に傍点「ヽ」が附されており、「小鳥をさえずらせる」が「小鳥をさえづらせる」と中途半端に訂されてある正しくは「さへづらせる」でなくてはならない。因みに彌生書房版全詩集版ではそう訂されてある。]

 

[やぶちゃん注:ランプは異同なし。]

 

 

 

  夜の詩

 

あかんぼを寢かしつける子守唄

やはらかく細くかなしく

それを歌つてゐる自分も

ほんとに何時(いつ)かあかんぼとなり

ランプも

火鉢も

急須も茶碗も

ぼんぼん時計も睡くなる

 

[やぶちゃん注:初版の「詩」とは八行構成は同じであるものの、改行位置が二ヶ所で異なる。以下に初版を示す。

 

  夜の詩

 

あかんぼを寢かしつける

子守唄

やはらかく細くかなしく

それを歌つてゐる自分も

ほんとに何時(いつ)かあかんぼとなり

ランプも火鉢も

急須も茶碗も

ぼんぼん時計も睡くなる

 

これは朗読時の印象が著しく異なる特異点の改変と言える。彌生書房版全詩集版は初版を採用している。朗読の印象からは私も初版を支持する。]

 

 

 

[やぶちゃん注:遙にこの大都會を感ずるは、初版の十四行目の「その街街の大建築の屋根から屋根をわたつて行く」の頭の指示語「その」が除去されており、また、最後から三行目「此の大都會をしみじみと」及び次行の「此の大沙漠中につつ立つ林のやうな大煙筒を」のそれぞれの冒頭の「此の」が孰れも「その」に変更されてある。有意な変更であるが、詩想自身には微塵の変化もないので特異点ではない。]

 

[やぶちゃん注:何處へ行くのかは異同なし。]

  

[やぶちゃん注:梢には小鳥の巣があるは異同なし。]

 

[やぶちゃん注:「春」は異同なし。]

 

柴田宵曲 續妖異博物館 「首と脚」

 

 首と脚

 

 唐の至德の初め頃、魯旻の部將に王穆といふ者が居つた。南洋の戰に敗れて軍馬の潰走する中に穆もまじつてゐたが、この男が形貌雄壯である上に、乘つた馬も珍しく大きなものであつたため、頗る目立つたらしく、賊の一騎がうしろから迫ひ付いたと思ふと、忽ちその首を斫(き)つてしまつた。穆は一溜りもなく地に落ち、筋骨ともに斷たれたに拘らず、咽喉の筋だけが僅かに繫がつてゐた。はじめは冥然として何もわからなかつたが、ふと氣が付いた時、自分の首は臍の上に在る。手で持つて首をもとのところに附けようとしても、また直ぐ落ちてしまふ。暫くして自覺を取り戾したので、首を正しい位置に据ゑ、髮を二つに分けて縛つた後、はじめて坐つて見たが、精神は全く茫然たるものであつた。穆の馬は終始傍を離れなかつたので、夜になつていさゝか氣分がはつきりしたところで、馬が寢てくれれば乘れるのだが、とふと考へた。馬はその意を察知したらしく、脚を折つて穆の前に橫になつた。そこで辛うじて上に乘ると、馬はおもむろに起き上つて、東南に向つて步き出した。穆は首が落ちぬやうに兩手で押へてゐる。四十里ばかり行くと、穆の部下の兵卒が十餘人かたまつて步いてゐるのに出逢つた。彼等の方でも穆を認め、一先づ村の家に運び込んだが、こゝらは賊の據點からあまり離れて居らぬので、危險をおもんぱかつて本營のゐるところまで連れて行つた。穆はその城中に病ひを養ふこと二百餘日、遂に癒えたものの、頭は少し偏(かたよ)つてゐたさうである。

[やぶちゃん注:「唐の至德」玄宗の三男粛宗の即位と同時に改元されて用いられた元号。七五六から七五八年。同二載(年)には安禄山が息子安慶緒に殺され、唐軍は長安を奪還、し粛宗は長安に帰還、史思明も一旦、唐に降伏している

「魯旻」「ろびん」と読んでおくが、調べてみると、当時の南陽(後注参照)の節度使(ここでは各地方の募兵集団の司令官)として魯炅(ろけい)と記すものが多い。彼は南陽郡太守であったが、安禄山の乱の勃発によって、その討伐軍の将の一人となった。後の七五九年、再蜂起した史思明を攻めたが、流れ矢に当たって死んでいる。

「王穆」「わうぼく(おうぼく)」と読んでおく。

「南洋」以下の原典を見ると「南陽」の誤りである。魯旻が節度使であった南陽郡である。現在の河南省南陽市と湖北省の随州市棗陽市に跨る地域であるが、この「至德」の末年に「鄧州」と改名されて消滅している。

「四十里」唐代の一里は五百五十九・八メートルであるから、二十二キロ三百九十二メートル。

 柴田は出典を後で「再生記」と記すが、これは「太平廣記」の「卷第三百七十六」の「再生二」を指している(「再生記」という書物はないので注意)。その「王穆」がそれで、原典は「廣異記」と記す。

   *

太原王穆、唐至德初、爲魯旻部將、於南陽戰敗、軍馬奔走。穆形貌雄壯、馬又奇大、賊騎追之甚眾。及、以劍自後穆頸、殪而隕地。筋骨俱斷、唯喉尚連。初冥然不自覺死、至食頃乃悟、而頭在臍上、方始心惋。旋覺食漏、遂以手力扶頭、還附頸、須臾復落、悶絶如初、久之方蘇。正頸之後、以發分係兩畔、乃能起坐、心亦茫然、不知自免。而所乘馬、初不離穆。穆之起、亦來止其前。穆扶得立、左膊發解、頭墜懷中、夜後方蘇。係發正首之後、穆心念、馬臥方可得上、馬忽橫伏穆前、因得上馬。馬亦隨之起、載穆東南行。穆兩手附兩頰、馬行四十里、穆麾下散卒十餘人群行、亦便路求穆。見之、扶寄村舍。其地去賊界四十餘里、眾心惱懼。遂載還昊軍。軍城尋爲賊所圍。穆於城中養病、二百餘日方愈、繞頸有肉如指、頭竟小偏。旻以穆名家子、兼身殉王事。差攝南陽令。尋奏葉令。餘、遷臨汝令。秩滿、攝棗陽令。卒於官。

   *

原文を見る限り、彼はその後も存えて官職を歴任している。]

 この話は戰場插話の一つで、斬られた首が全く身を離れず、不思議に命を取り止めたといふのであるが、奇談の種には困らぬ支那の事だから、失つた脚を取り戾す話もある。これは戰爭で脚を切られたわけではない。急病で亡くなつたのである。ところが愈々亡くなつて見ると、本人の命數がまだ盡きて居らぬ。もう一度娑婆へ還さなければならぬ段になつて、本人は脚が痛くて步けないと云ひ出した。冥官の間にもいろいろ評議が行はれたが、命數の盡きぬ者を呼び寄せたのは冥官の手落である。何とか臨機の處置を講ずることになつて、かういふ意見が提出された。たまたま新たに亡くなつた胡人があり、この者の脚は甚だ達者だから、これと取り換へたらよからうといふのである。誤つて亡くなつた男はこれを聞いて逡巡せざるを得なかつた。醜い胡人の身體の中で、最も醜いのが脚だから、それを身に著けて蘇るのは甚だ困る。倂し脚を取り換へなければ、お前はいつまでもこゝにゐなければならぬぞと云はれると、飽くまで強情を張り通すこともならず、たうとう足の取り換へを承認して、豁然復活した。人一倍綺麗好きなこの男は、生き返つた自分の脚を見る每に、殆ど死にさうな氣持になる。更に困つたのは、一方の胡人の子がこの男の脚を慕ふことで、道で出逢つたりする每に、必ず泣いて脚に抱き付いて來る。この難を免れるために、門には番人を置いて胡子の來るのを防ぎ、三伏の盛暑と雖も、衣を重ねて脚を現さぬやうにしなければならなかつた。

[やぶちゃん注:「胡人」中国人が北方や西域の諸民族を広く指して言った呼称で蔑称でもあった。唐代でも主として西域人を指したが、北方民族の意も存続した。前者の場合は東トルキスタンの住民の他、ペルシアやインド方面の民族、逆にソグド人だけを称することもあった。乾燥地帯で食に乏しく、日差しも強い地方であるから、彼らの足は日焼けして焼け、しかも骨張っていたものかとも想像され、それをここでは足が最も醜いと言っているのであろう。

「三伏」「さんぷく」と読み、陰陽五行説に基づく選日(せんじつ:暦注の一つ)で初伏(しょふく)・中伏(ちゅうふく)・末伏(まっぷく)の総称。通常は現行の七月中旬から八月上旬の酷暑の頃に合致することから、現在でも「三伏の候」「三伏の猛暑」など、酷暑を表わす言葉として用いられる。

 これは前の「太平廣記 卷第三百七十六 再生二」の「王穆」の六条後に出る「士人甲(易形再生)」で、原典は「幽冥錄」と注する。

   *

晉元帝世、有甲者、衣冠族姓、暴病亡、見人將上天、詣司命、司命更推校、算歷未盡、不應枉召。主者發遣令還。甲尤痛、不能行、無緣得歸。主者數人共愁、相謂曰、「甲若卒以痛不能歸、我等坐枉人之罪。」。遂相率具白司命。司命思之良久、曰、「適新召胡人康乙者、在西門外。此人當遂死、其甚健、易之、彼此無損。主者承教出、將易之。胡形體甚醜、殊可惡、甲終不肯。」。主者曰、「君若不易、便長決留此耳。」。不獲已、遂聽之。主者令二並閉目、倏忽、二人已各易矣。仍卽遣之、豁然復生、具爲家人説。發視、果是胡、叢毛連結、且胡臭。甲本士、愛玩手足。而忽得此、了不欲見。雖獲更活、每惆悵、殆欲如死。旁人見識此胡者、死猶未殯、家近在茄子浦。甲親往視胡屍。果見其著胡體。正當殯斂。對之泣。胡兒並有至性。每節朔。兒並悲思。馳往、抱甲。忽行路相逢、便攀援啼哭。爲此每出入時、恒令人守門、以防鬍子。終身憎穢、未曾視。雖三伏盛署、必復重衣、無暫露也。

   *

父の足を慕う胡人の少年が哀しい

 首と脚とを具へた二つの話は、「再生記」の終りに出てゐる。記憶のいゝ人ならば、以上の筋書を讃んだだけで、芥川龍之介の小説を想起するであらう。「首が落ちた話」の何小二は、日淸戰役に出て高梁の畑で遭遇した日本騎兵のために首を斬られる。彼は疵を負つたまゝ馬に搖られて行くうちに、川楊の生えた水際の泥の上に投げ出された。こゝで何小二に竈の黃いろい炎だの、母親の裙子(くんし)だの、磨い胡麻畑だの、大きな龍燈だの、纏足(てんそく)した女の足だの、種々の幻影を見させるのは、小説の主人公らしく仕立てるための作者の用意と思はれる。何小二の首は王穆のやうに落ちたわけではなかつたが、戰後理髮店の主人となつてから、人と喧嘩した際に古疵が破れ、咽喉の皮一枚を殘して床の上にころがり落ちた。「首が落ちた話」の主題はこれである。いくら支那が舞臺であるにしろ、明治の事柄になつてゐる以上、唐時代の話をそつくり嵌め込むわけには往かない。

[やぶちゃん注:「何小二」「かせうじ(かしょうじ)」。

「川楊」(かはやなぎ)は双子葉植物綱ヤナギ目ヤナギ科ヤナギ属のネコヤナギ Salix gracilistyla のこと。

「裙子(くんし)」中国で女性が腰から下に着ける衣。裳(も)・裳裾(もすそ)のこと。

「龍燈」燈夜(元宵(上元)節(陰暦正月一五日の夜)に行われる祭りでは、各家の門前に灯籠を飾って祝うが、その時、街中を練り歩く竹製の一際、大きな灯籠として「首が落ちた話」に描出されてある。以下のリンク先の原文を参照されたい。

 芥川龍之介の「首が落ちた話」は大正七(一九一八)年一月発行の『新潮』に掲載されたもの。エンディングの首が再度落ちるのは、明治二八(一八九五)年四月十七日に下関で行われた日清戦争後の日清講和条約の締結され、その『一年ばかりたつた、ある早春』のこと、とする。私の古い電子テクストでお読み戴きたい。但し、芥川龍之介がインスパイアした原話は、現行では清の蒲松齢の「聊齋志異」の「第三卷第二十二」の「諸城某甲」であるとされる。以下に示しておく。

   *

學師孫景夏先生言、其邑中某甲者、値流寇亂、被殺、首墮胸前。寇退、家人得尸、將舁瘞之、聞其氣縷縷然。審視之、咽不斷者盈指。遂扶其頭、荷之以歸。經一晝夜、始呻、以匕箸稍稍哺飲食、半年竟愈。又十餘年、與二三人聚談、或作一解頤語、衆爲鬨堂、甲亦鼓掌。一俯仰間、刀痕暴裂、頭流、共視之、氣已絶矣。父訟笑者、衆斂金賂之、又葬甲、乃解。

異史氏曰、一笑頭落、此千古第一大笑也。頸連一綫而不死、直待十年後、成一笑獄、豈非二三鄰人、負債前生者耶。

   *

「流寇」は匪賊のこと。蒲原有明の「『聊斎志異』より」明治三八(一九〇五)年『新古文林』初出)に訓読が出るので、「青空文庫」の新字新仮名版のを参考されたい。但し、伝本が異なるらしく、上記の文章そのままの訓読とはなっていない。

 なお、「首が落ちた話」は、柴田がのたまうような、切断された首が元に戻ったものの、その癒着部がまた奇体にも破裂して落ちて死んだ、という怪異を語るところなんぞに「主題」があるのではなお。何小二という市井の中国の民の一箇の生死の無惨さをシンボリックに描いた、芥川龍之介の反戦小説の走りとして評価すべきものである、と私は思う。私は何小二の走馬燈のようなシークエンスがすこぶる好きで哀しいのである。

 もう一つの小説は「馬の脚」である。主人公は忍野半三郎といふ三菱會社員で、腦溢血のために頓死したところ、これは人違ひであつた。もう一度送り返さなければならぬが、半三郎の脚は已に腐つてゐる。取り換へるべき人間の脚がないため、馬の脚が代用を勤めることになり、半三郎は頻りに拒んだけれど、本人の意志は毫も認められぬ。蘇生後の彼が「再生記」以上の悲劇に陷つたのは云ふまでもない。彼は一たび失踪し、その後細君の許にちよつと姿を見せたきりで、永久にわからなくなつた。作者は半三郎の日記を出したり、新聞記事を使つたり、いろいろ苦心をしてゐるが、第一革命以後の支那にこんな趣向を持ち出すのが最初から無理である。唐時代の話なら、命數未だ盡きずで納まるところを、入違ひの死者を迭り返すのは更に無理である。人の脚に繼ぐに馬の脚を以てするのは、胡人の脚を用ゐるのと同日の談ではない。

[やぶちゃん注:「忍野半三郎」「おしのはんざぶらう」。]

 作者が「首が落ちた話」を發表したのは大正六年十二月であつた。「馬の脚」は大正十四年一月である。前者を草した當時「再生記」は見てゐる筈なのに、約十年も後者を持ち出さなかつたのを見れば、この題材を現代の舞臺に使ふ無理を夙に感じてゐたものであらう。

[やぶちゃん注:『作者が「首が落ちた話」を發表したのは大正六年十二月』既に記した通り、クレジット上は翌年一月一日(発行)である。

『「馬の脚」は大正十四年一月』同作は大正一五(一九二六)年一月及び二月号の『新潮』への二回分割連載であるから、明らかに柴田の誤認である。新字新仮名であるが、「青空文庫」ので読める。

「約十年」誤認に加えて「数え」の年数としてもおかしい(それでも「九年」である)。事実上の発表スパンは八年ほどである。

「この題材を現代の舞臺に使ふ無理を夙に感じてゐたものであらう」本作は確かに全体は「士人甲」に依拠し乍らも、実際にはゴーゴリの「鼻」を意識的にインスパイアした寓話小説としてとるべきであって、これもまた怪奇は額縁であって柴田の読みは浅いと言わざるを得ない。

 

柴田宵曲 續妖異博物館 「ノツペラポウ」 附 小泉八雲「貉」原文+戸田明三(正字正仮名訳)

 

 ノツペラポウ

 

「東京の、赤坂への道に紀國坂といふ坂道がある――これは紀伊の國の坂といふ意である。何故それが紀伊の國の坂と呼ばれて居るのか、それは私の知らない事である。この坂の一方の側には昔からの深い極めて廣い濠があつて、それに沿つて高い綠の堤が高く立ち、その上が庭地になつて居る、――道の他の側には皇居の長い宏大な塀が長くつづいて居る。街燈、人力車の時代以前にあつては、その邊は夜暗くなると非常に寂しかつた」――小泉八雲の「貉」はかういふ風に書き出されてゐる。

[やぶちゃん注:「ノツペラポウ」(のっぺらぼう)は「野箆坊」などと漢字表記し、通常は顔に目・鼻・口のない妖怪を指す。ウィキの「のっぺらぼう」によれば、明和四(一七六七)年の怪談集「新説百物語」には、『京都の二条河原(京都市中京区二条大橋付近)に、顔に目鼻や口のない化け物「ぬっぺりほう」が現れ、これに襲われた者の服には太い毛が何本も付着していたという、何らかの獣が化けていたことを髣髴させる描写がある』。しかし諸怪談の同形(目鼻口総て或いは孰れかの複数欠損)の妖怪(多出する)の場合は正体が不明の場合も多く、寛文三(一六六三)年の初期江戸怪談集の白眉とも言える「曾呂利物語」では、『京の御池町(現・京都市中京区)に身長』七尺(二メートル強)の『のっぺらぼうが現れたとあるが、正体については何も記述がない』。『民間伝承においては大阪府』、『香川県の仲多度郡琴南町(現・まんのう町)などに現れたと伝えられている』とある。

「紀國坂」(きのくにざか)は現在の東京都港区元赤坂一丁目から、旧赤坂離宮の外囲りの堀端を喰違見附(くいちがいみつけ:ここ(グーグル・マップ・データ))まで登る紀伊国坂(きのくにざか)。ここ(グーグル・マップ・データ)。坂の西側の現在の赤坂御用地及び迎賓館の位置に、江戸時代を通じて、紀州徳川家の広大な屋敷があったことが名の由来。また、「茜坂(あかねざか)」「赤坂(あかさか)」は、この紀伊国屋坂の別名であって、それは根を染料とする茜(キク亜綱アカネ目アカネ科アカネ属アカネ Rubia argyi)が生えていた赤根山(現在の迎賓館付近の高台)に登る坂であることに由来し、付近一帯の広域地名である「赤坂」の由来にもなっている。

「貉」(むじな)は、実在生物である穴熊(食肉(ネコ)目イヌ型亜目クマ下目イタチ小目イタチ上科イタチ科アナグマ属ニホンアナグマ Meles anakuma)や貍(食肉目イヌ科タヌキ属ニホンタヌキNyctereutes procyonoides viverrinus)などの古称としてもあるが、民俗伝承中では専ら、狐や狸と併称される人を騙す通力を持った妖怪・妖獣としての怪奇生物の通称で、伝わるところの一般形状は狸に近い。但し、八雲がここで言った「むじな」はまさにそうした人を化かすところの妖狐・妖狸を中心とした妖怪獣類の総称として捉えるのがよい。因みに、後で示す原話の一つと目されるものでは「貉」ではなく「獺(かわうそ)」となっている。獺(食肉目イタチ科カワウソ亜科カワウソ属日本本土亜種ニホンカワウソ Lutra lutra nippon。他に北海道亜種 Lutra lutra whiteleyi もいた。ともに生物学的には絶滅したと考えざるを得ず、環境省も二〇一二年八月の「レッド・リスト」改訂でやっと正式に絶滅を宣言した。但し、愛媛県は二〇一四年十月更新の「愛媛県レッドデータブック2014」では依然として「絶滅危惧種」として指定している)も、本邦の民俗社会では年古ると通力を持つ妖獣と考えられていたのである。]

 八雲に從へば、この邊によく徘徊する貉(むじな)を見た最後の人は、京橋方面に住む商家の老人であつた。或晩おそく紀國坂を登つて行くと、濠の緣にんで泣いてゐる女がある。老人は咄嵯に身を投げるのではないかと判斷し、近寄つて聲をかけた。倂し女は依然として泣きやまぬ。ここは夜若い御婦人などの居るべき場所ではない、泣かずに事情を話して貰ひたい、と繰り返した時、女は泣きながら徐(おもむ)ろに立ち上つた。さうして今まで顏を掩つてゐた袖を下に落し、手で自分の顏を撫でたのを見ると、目も鼻も口もない。女を救ふ筈であつた老人は、きやツと叫ぶなり、一目散に逃げ出して紀國坂を駈け登つた……。

[やぶちゃん注:「蹲んで」「しやがんで」と読みたくなるが、後に出る戸川の訳では「かがんで」である

 小泉八雲の「狢」は原題が“Mujina”でかの名作品集“Kwaidan”(「怪談」一九〇四年刊)中の知られた一篇。まず、原文を示す。加工データはネット上にある原文ベタ・テクストを複数用い、それを、底本として“Internet Archive”原本画像を使用して校合した。なお、原注(“O-jochū”soba)は除去した。

   *

 

MUJINA

 

   ON the Akasaka Road, in Tōkyō, there is a slope called Kii-no-kuni-zaka, ―which means the Slope of the Province of Kii. I do not know why it is called the Slope of the province of Kii. On one side of this slope you see an ancient moat, deep and very wide, with high green banks rising up to some place of gardens; ―and on the other side of the road extend the long and lofty walls of an imperial palace. Before the era of street-lamps and jinrikishas, this neighborhood was very lonesome after dark; and belated pedestrians would go miles out of their way rather than mount the Kii-no-kuni-zaka, alone, after sunset.

   All because of a Mujina that used to walk there.

 

   The last man who saw the Mujina was an old merchant of the Kyōbashi quarter, who died about thirty years ago. This is the story, as he told it :―

   One night, at a late hour, he was hurrying up the Kii-no-kuni-zaka, when he perceived a woman crouching by the moat, all alone, and weeping bitterly. Fearing that she intended to drown herself, he stopped to offer her any assistance or consolation in his power. She appeared to be a slight and graceful person, handsomely dressed; and her hair was arranged like that of a young girl of good family. “O-jochū,”he exclaimed, approaching her,―“O-jochū, do not cry like that! . . .  Tell me what the trouble is; and if there be any way to help you, I shall be glad to help you.” (He really meant what he said; for he was a very kind man.) But she continued to weep,―hiding her face from him with one of her long sleeves. “O-jochū,” he said again, as gently as he could,―“please, please listen to me! . . .  This is no place for a young lady at night!  Do not cry, I implore you!―only tell me how I may be of some help to you!” Slowly she rose up, but turned her back to him, and continued to moan and sob behind her sleeve. He laid his hand lightly upon her shoulder, and pleaded:―“O-jochū!―O-jochū!―O-jochū! . . .  Listen to me, just for one little moment! . . . O-jochū!―O-jochū!”. . .  Then that O-jochū turned round, and dropped her sleeve, and stroked her face with her hand;―and the man saw that she had no eyes or nose or mouth,―and he screamed and ran away.

   Up Kii-no-kuni-zaka he ran and ran; and all was black and empty before him. On and on he ran, never daring to look back; and at last he saw a lantern, so far away that it looked like the gleam of a firefly; and he made for it. It proved to be only the lantern of an itinerant soba-seller, who had set down his stand by the road-side; but any light and any human companionship was good after that experience; and he flung himself down at the feet of the old soba-seller, crying out, "Aa!―aa!!― aa!!!

   “Koré! Koré”roughly exclaimed the soba-man. "Here! what is the matter with you?  Anybody hurt you?"

   “No―nobody hurt me,”panted the other,――“only. . . Aa!―aa!”. . .

   “―Only scared you?”queried the peddler, unsympathetically.  “Robbers?”

   “Not robbers,―not robbers,”gasped the terrified man. . . . “I saw . . .  I saw a woman―by the moat;―and she showed me . . . Aa! I cannot tell you what she showed me!”. . .

   “Hé! Was it anything like THIS that she showed you?”cried the soba-man, stroking his own face―which therewith became like unto an Egg. . . .  And, simultaneously, the light went out.

 

   *

 次にこちらにある、同作の戸川明三(戸川秋骨の本名。パブリック・ドメイン)氏訳になる「狢」(PDF)を視認して電子化しておく。画像底本は新潮文庫昭和二五(一九五〇)年発行初版の古谷綱武編「小泉八雲集 上巻」である。一部、記号に不審がある箇所は恣意的に訂した

   *

 

    貉

 

 東京の、赤坂への道に紀國坂といふ坂道がある――これは紀伊の國の坂といふ意である。何故それが紀伊の國の坂と呼ばれて居るのか、それは私の知らない事である。この坂の一方の側には昔からの深い極はめて廣い濠(ほり)があつて、それに添つて高い綠の堤が高く立ち、その上が庭地になつて居る、――道の他の側には皇居の長い宏大な塀が長くつづいて居る。街燈、人力車の時代以前にあつては、その邊は夜暗くなると非常に寂しかつた。ためにおそく通る徒步者は、日沒後に、ひとりでこの紀國坂を登るよりは、むしろ幾哩も廻り道をしたものである。[やぶちゃん注:「廻」は底本の用字。]

 これは皆、その邊をよく步いた貉のためである。

 

 貉を見た最後の人は、約三十年前に死んだ京橋方面の年とつた商人であつた。當人の語つた話といふのはかうである、――

 この商人がある晩おそく紀國坂を急いで登つて行くと、ただひとり濠(ほり)の緣(ふち)に踞(かが)んで、ひどく泣いている女を見た。身を投げるのではないかと心配して、商人は足をとどめ、自分の力に及ぶだけの助力、若しくは慰藉を與へようとした。女は華奢な上品な人らしく、服裝(みなり)も綺麗であつたし、それから髮は良家の若い娘のそれのやうに結ばれて居た。――『お女中』と商人は女に近寄つて聲をかけた――『お女中、そんなにお泣きなさるな!……何がお困りなのか、私に仰しやい。その上でお助けをする道があれば、喜んでお助け申しましせう』(實際、男は自分の云つた通りの事をする積りであつた。何となれば、此の人は非常に深切な男であつたから。)しかし女は泣き續けて居た――その長い一方の袖を以て商人に顏を隱して。『お女中』と出來る限りやさしく商人は再び云つた――『どうぞ、どうぞ、私の言葉を聽いて下さい!……此處は夜若い御婦人などの居るべき場處ではありません! 御賴み申すから、お泣きなさるな!――どうしたら少しでも、お助けをする事が出來るのか、それを云つて下さい!』徐ろに女は起ち上つたが、商人には背中を向けて居た。そして其袖のうしろで呻き咽びつづけて居た。商人はその手を輕く女の肩の上に置いて説き立てた――『お女中!――お女中!――お女中! 私の言葉をお聽きなさい。只一寸でいいから!……お女中!――お女中!』……するとそのお女中なるものは向きかへつた。そして其袖を下に落し、手で自分の顏を撫でた――見ると目も鼻も口もない――きやツと聲をあげて商人は逃げ出した。

 一目散に紀國坂をかけ登つた。自分の前はすべて眞暗で何もない空虛であつた。振り返つてみる勇氣もなくて、ただひた走りに走りつづけた擧句、やうやう遙か遠くに、螢火の光つて居るやうに見える提燈を見つけて、其方に向つて行つた。それは道側(みちばた)に屋臺を下して居た賣り步く蕎麥屋の提燈に過ぎない事が解つた。しかしどんな明かりでも、どんな人間の仲間でも、以上のやうな事に遇つた後には、結構であつた。商人は蕎麥賣りの足下に身を投げ倒して聲をあげた『あゝ!――あゝ!!――ああ!!!』……

『これ! これ!』と蕎麥屋はあらあらしく叫んだ『これ、どうしたんだ? 誰れかにやられたのか?』

『否(いや)、――誰れにもやられたのではない』と相手は息を切らしながら云つた――『ただ……あゝ!――あゝ!』……

『――只おどかされたのか?』と蕎麥賣りはすげなく問うた『盜賊(どろばう)にか?』

『盜賊(どろばう)ではない――盜賊(どろばう)ではない』とおぢけた男は喘ぎながら云つた『私は見たのだ……女を見たのだ――濠の緣(ふち)で――その女が私に見せたのだ……あゝ! 何を見せたつて、そりや云へない』……

『へえ! その見せたものはこんなものだつたか?』と蕎麥屋は自分の顏を撫でながら云つた――それと共に、蕎麥賣りの顏は卵のやうになつた……そして同時に燈火は消えてしまつた。

               (戸川明三譯)

          
 Mujina.Kwaidan.

 

   *

ここで、柴田宵曲は原話の後半部の二度目のオドシ(一般に「再度の怪」と称される怪談の駄目押し構成の常套法の一つ)の梗概を示していないが、後段でそれをごく手短に示している。これは別に忘れた訳ではなく、読んでいくと判るが、話柄の展開上、男の「のっぺらぼう」を出したくなかったのである

 さて、本作の種本については柴田は問題としていないのであるが、平川祐弘編の小泉八雲「怪談・奇談」(一九九〇年講談社学術文庫刊)の「解説」では、小泉八雲は明治二七(一八九四)年七月刊の町田宗七編「百物語」の「第三十三席 御山苔松」の怪奇咄を原拠に比定している。但し、落語ネタとしてはもっと古くからあったものと想像され得るもので、江戸随筆等を丹念に探れば、より古式の原話或いは類話を見出し得るように思われる。取り敢えず、同書の「原拠」に出るそれを、恣意的に漢字を正字化して示しておく。底本は総ルビであるが、読みはごく一部に留めた。本文の拗音表記はその儘にしておいた。踊り字「〱」は正字化した。一部の原典の誤記と思われる漢字を恣意的に変更した

   *

 拙者の宅に年久しく仕へまする佐太郎といふ實直な老僕が御坐りますが、この男が若い時に遭遇した話しださうで御坐いますが、或日のこと赤坂から四谷へ參る急用が出來ましたが、生憎雨は降(ふり)ますし殊に夜中の事で御坐いますからドットいたしません次第で御坐いますが、急用ゆゑ致方なくスタスタとやッて參り紀の國坂の中程へ差掛ッた頃には雨は車軸を流すが如くに降(ふつ)てまゐり風さへ俄(にはか)に加はりまして物凄きこと言はむ方も御坐りませんからなんでも早く指(さ)す方(かた)へまゐらうと飛ぶが如くに駈出(かけだ)しますと、ポント何やら蹴付(けつけ)たものがありますから、ハット思ッて提灯(てうちん)を差し付(つけ)て見ると、コハ如何(いかに)高島田にフサフサと金紗(きんしや)をかけた形姿(みなり)も賤しからざる一人の女が俯向(うつむけ)に屈(かゞ)んで居(を)りますから、驚きながらも貴女(あなた)どうなさいましたト聞(きく)と俯向(うつむい)たまゝ持病の癪(しやく)が起りましてといふからヲヽ夫(それ)ハ嘸(さぞ)かしお困り、ムヽ幸ひ持合せの薄荷(はつか)がありますから差上(さしあげ)ませう、サヽお手をお出しなさいと言ふと、ハイ誠に御親切樣にありがたう御坐いますと禮を述(のべ)ながら、ぬッと上(あげ)た顏を見ると顏の長さが二尺もあらうといふ化物、アッと言(いつ)て逃出したのなんのと夢中になッて三四町もまゐると、向ふの方(はう)から蕎麥うわウイーチンリン蕎麥うわウイーチンリンと一人の夜鷹(たか)蕎麥屋がまゐりましたから、ヤレ嬉しやと駈寄(かけよつ)て、そゝ蕎麥屋さん助けてくれト申しますと蕎麥屋も驚きまして、貴郎(あなた)トど如何(どう)なさいました。イヤもうどうのかうのと言(いつ)て話しにはならない化物に此(この)先(さき)で遭ひました。イヤ夫(それ)は夫はシテどんな化物で御坐いました。イヤモどんなと言(いつ)て眞似も出來ませんドヾどうかミヽ水を一杯下さいト言ふとお易い御用と茶碗へ水を汲(くん)でくれながら、モシその化物の顏ハこんなでハ御坐いませんかト、言ッた蕎麥屋の顏が、また弐尺、今度はあッと言(いつ)た儘(まゝ)氣を失ッてしまひまして、時過(ときすぎ)て通りかゝツた人に助けてもらひましたが、後(のち)に聞(きゝ)ますると、それハ御堀(おほり)に栖(す)む獺(かはうそ)の所行(しはざ)だらうといふ評判で御坐いましたが、この説話は決して獺(うそ)の皮ではないさうで御坐います。

   *]

 かういふ顏の持ち主を普通にノツベラボウと宿してゐる。支那にも同類はあると見えて、某家の下男が夜茶を取りに行くと、若い女が木の蔭に向うむきに立つてゐる。暗くてよくわからぬが、どうやら同じ家の女中らしく思はれたので、笑談半分にその臂を捉へた。途端に女が振向いた顏を見ると、白粉を塗つたやうに眞白で、然も目も鼻も口もない。下男は絶叫して地に朴れたと「閲微草堂筆記」にある。

[やぶちゃん注:「茶を取りに行く」訳が不全。原文を見て戴くと判るが、別棟に「茶道具」をとりに行ったのである。

以上は「閲微草堂筆記」の「第八卷如是我聞二」の以下の太字で示した部分。

   *

崔莊舊宅廳事西有南北屋各三楹、花竹翳如、頗爲幽僻。先祖在時、奴子張雲會夜往取茶具、見垂鬟女子潛匿樹下、背立向墻隅。意爲宅中小婢於此幽期、遽捉其臂、欲有所挾。女子突轉其面、白如傅粉、而無耳目口鼻。絶叫仆地。眾持燭至、則無睹矣。或曰、「舊有此怪。」。或曰、「張雲會一時目眩。」。或曰、「實一黠婢、猝爲人阻、弗能遁。以素巾幕面、僞爲鬼狀以自脱也。」。均未知其審。然自此群疑不釋、宿是院者恒凜凜、夜中亦往往有聲。蓋人避弗居、斯鬼狐入之耳。又宅東一樓、明隆慶初所建、右側一小屋、亦云有魅。雖不爲害、然婢媼或見之。姚安公一日檢視廢書、於簏下捉得二。眾曰、「是魅矣。」。姚安公曰、「弭首爲童子縛、必不能爲魅。」。然室無人迹、至使野獸爲巢穴、則有魅也亦宜。斯皆空穴來風之義也。後西廳析屬從兄垣居、今歸從姪汝侗。樓析屬先兄睛湖、今歸姪汝份。子姪日繁、家無隙地、魅皆不驅自去矣。

   *

原典の後の部分は一九七一年平凡社刊の中国古典文学大系第四十二巻の訳によれば(拠った底本が異なるものか、訳が必ずしも明確には一致しない)、続く部分は、張雲のその怪異目撃事件への解三つ(実際に化物が出来した・張雲の錯覚・あの婢は性質(たち)の悪い奴で密会を見つけられて逃げられなかったことから白い巾(きれ)を被って化物の真似をした)を示す。最後のパートは、この邸宅は実はここだけでなく、他にも怪異の出来する棟があり、ある日、姚安(ようあん)公が書籍整理中、『竹籠(つづら)の下にいたムジナのような動物を二匹つかまえた』(下線やぶちゃん)。人々はこれこそ化物の正体であると騒いだが、姚安は「だったら、こんなに子どもの手を捻るのようにやすやすと捕えられてしまうはずもないと否定した。しかし、野獣の巣窟に成したというこの状況に至らせてしまった以上は、魑魅魍魎がここに巣食っているというべきである。それは「空穴來風の義」(「穴が開けばそこには当然、風が吹き込むものだ」式の道理。「荘子」に基づく諷喩)であるとそれに反論附記している(筆者袁枚のそれと採っておく。中文サイトではこれを姚安の続く言として採っている)。最後の部分は、その後、この邸宅の人の住んでいなかった建物には、ことごとく親族らが住むようになり、『空地がなくなったので、化物どもはすべて、追い払われなくても自分から出て行ってしまったろう』とある。柴田は何故、このムジナ(原文「」。現代中国語では「アナグマ」を指すから、まさに「貉」である)を出さなかったのか? まあ、事例があまりにも無抵抗でショボいからやめたものでもあろう。]

「夜譚隨錄」に出てゐる話は十何人も集まつて酒を飮んだ擧句であつた。大分いゝ機嫌になつて或地點まで歸つて來ると、これは月夜だつたので、紅い衣を著た婦人が牆(かきね)の邊にうづくまつてゐるのが見えた。醉ひに乘じてうしろから袖を引いたのは「閲徽草堂筆記」と同じであり、振向いた顏に眉目口鼻のないことも同じである。たゞ見る白面模糊として、豆腐の如く然りと記されてゐる。この男はよほどびつくりしたらしく、地上に仆れて氣絶してしまつた。仲間が駈け付けて介抱したので、暫くして漸く蘇つた。

[やぶちゃん注:以上は「夜譚隨錄」の「卷二紅衣婦人」。

   *

西十庫在西安門内、例有披甲人宿其中。某甲與同十餘人、沽酒夜飲、皆半酣。二更後、甲起解手、至庫旁永巷中、於月光下、隱隱見一紅衣婦人、蹲身牆邊、如小遺狀。甲醉後心動、潛就摟之、婦人囘其首、別無眉目口鼻、但見白面模糊、如豆腐然。甲驚僕地上。同人遲其來、往覘之、氣已絶矣、舁至鋪中救之、逾時始蘇、自述所遭如此。

   *]

 この三つの話は全く同工異曲である。夜の事だから、少し隔たつてゐれば顏などはよくわからない。うしろから臂を捉へたり、袖を引いたりするほどの近距離で、おもむろに振り向く顏に目鼻がないといふところに、この話の人を驚倒せしむる一大要素がある。

 併しノツペラポウを見るのは、悉く以上のやうな狀態に限られたわけではない。「近代異妖篇」(岡本綺堂)にある話は、文久三年の七月といふ時代がはつきり書いてある。夜の十時頃に高輪の海端を歩いて來ると、田町の方から盆燈籠の灯が近付いて來た。摺れ違ひざまに見ると、草履を穿いて稚い兒を背負つた女である。盆燈籠はその兒の手に持つてゐるのであつたが、その女の顏がノツペラボウであつた。擦れ違つたのは武士であるから、思はず刀の柄に手をかけたが、世の中には病氣か大火傷(やけど)などでこんな顏になる者がないとも限らぬと、思ひ返して躊躇するうちに、女は見返りもせずに行き過ぎてしまつた。このノツペラボウの女は、同じ晩に札の辻のところで蕎番屋の出前持が出逢つて居り、その男は恐怖の餘り自分の店の暖簾をくゞるや否や氣を失つて倒れた。翌朝品川の海岸に浮き上つた女の死髓は、二つばかりの女の兒を背負ひ、女の兒は紙が洗ひ去られて殆ど骨ばかりになつた盆燈籠を手にしてゐた。こゝで話は當然ノツペラボウの女に結び付かなければならぬが、水死者は目も鼻も口も尋常だつたさうである。

[やぶちゃん注:「文久三年」一八六三年。

 『「近代異妖篇」(岡本綺堂)にある話』は大正六(一九一七)年一月号『新小説』初出の「父の怪談」の一節。短いので「青空文庫」版からコピー・ペーストしておく。

   *

 その翌々年の文久三年の七月、夜の四つ頃(午後十時)にわたしの父が高輪の海ばたを通った。父は品川から芝の方面へむかって来たのである。月のない暗い夜であった。田町の方から一つの小さい盆燈籠が宙に迷うように近づいて来た。最初は別になんとも思わなかったのであるが、いよいよ近づいて双方が摺れ違ったときに、父は思わずぎょっとした。

 ひとりの女が草履をはいて、おさない児を背負っている。盆燈籠はその児の手に持っているのである。それは別に仔細はない。ただ不思議なのは、その女の顔であった。彼女は眼も鼻もない、俗にいうのっぺらぼうであったので、父は刀の柄に手をかけた。しかし、又考えた。広い世間には何かの病気か又は大火傷(おおやけど)のようなことで、眼も鼻もわからないような不思議な顔になったものが無いとは限らない。迂闊なことをしては飛んだ間違いになると、少しく躊躇しているうちに、女は見返りもしないで行き過ぎた。暗いなかに草履の音ばかりがぴたぴたと遠くきこえて、盆燈籠の火が小さく揺れて行った。

 父はそのままにして帰った。

 あとで聞くと、父とほとんど同じ時刻に、札の辻のそばで怪しい女に出逢ったという者があった。それは蕎麦屋の出前持で、かれは近所の得意先へ註文のそばを持って行った帰り路で一人の女に逢った。女は草履をはいて子供を背負っていた。子供は小さい盆燈籠を持っていた。すれ違いながらふと見ると、女は眼も鼻もないのっぺらぼうであった。かれはびっくりして逃げるように帰ったが、自分の店の暖簾(のれん)をくぐると俄かに気をうしなって倒れた。介抱されて息をふき返したが、かれは自分の臆病ばかりでない、その女は確かにのっぺらぼうであったと主張していた。すべてが父の見たものと同一であったのから考えると、それは父の僻眼(ひがめ)でなく、不思議な人相をもった女が田町から高輪辺を往来していたのは事実であるらしかった。

「唯それだけならば、まだ不思議とはいえないかも知れないが、そのあとにこういう話がある。」と、父は言った。

 その翌朝、品川の海岸に女の死体が浮きあがった。女は二つばかりの女の児を背負っていた。女の児は手に盆燈籠を持っていた。燈籠の紙は波に洗い去られて、ほとんど骨ばかりになっていた。それだけを聞くと、すぐにかののっぺらぼうの女を連想するのであるが、その死体の女は人並に眼も鼻も口も揃っていた。なんでも芝口辺の鍛冶屋の女房であるとかいうことであった。

 そば屋の出前持や、わたしの父や、それらの人々の眼に映ったのっぺらぼうの女と、その水死の女とは、同一人か別人か、背負っていた子供が同じように盆燈籠をさげていたというのはよく似ている。勿論、七月のことであるから、盆燈籠を持っている子供は珍らしくないかも知れない。しかしその場所といい、背中の子供といい、盆燈籠といい、なんだか同一人ではないかと疑われる点が多い。いわゆる「死相」というようなものがあって、今や死ににゆく女の顔に何かの不思議があらわれていたのかとも思われるが、それも確かには判らない。

   *]

「近代異妖篇」の著者は、ノツペラボウの女がいはゆる死相を現じてゐたものではないかといふ説を持ち出してゐる。死相の事は何ともわからぬが、病氣や大火傷で不思議な顏になる方は想像出來ぬでもない。「雲萍雜志」に見えた有馬温泉の話などはその一例である。日暮れ方の湯桁(ゆげた)の中に、耳も目も鼻もない瘦法師のひとり入つてゐるのを見て、物蔭から窺つてゐるうちに、匆々に出て行つたが、その姿は繪にかいた骸骨同樣であつた。狐狸の仕業かと疑ひ、宿の主人に尋ねたら、その答へは實に意外なもので、その人は伏見屋といふ大坂の唐物一商人の娘、美人の聞えがあつたのを、姑の病中に鄰りより火事が起り、誰も助け出す者のなかつた時、火の中に飛び込んで抱へ出した。その火傷のために、目は豆粒ほどに明いて僅かに物を見、口は五分ほどあつて何か食べるには事缺かず、今年七十ばかりになるといふのである。かういふ人物に薄暗い浴槽などで出くはしたら、何人も妖異として恐れざるを得ぬであらう。

[やぶちゃん注:『「雲萍雜志」に見えた有馬温泉の話』は「卷之一」にある以下。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。

   *

有馬に湯あみせし時、日くれて湯桁の中に耳、目、鼻のなき瘦法師の、ひとりほとほとと入りたるを見て、予は大いに驚き、物かげより窺ふうち、さうさう湯あみして、出行く姿、骸骨の繪にたがふところなし。狐狸どもの我をたぶらかすにやと、その夜は湯にも入らで臥しぬ。夜あけて、この事を家あるじに語りければ、それこそ、折ふしは來り給ふ人なり。彼女尼は大坂の唐物あき人、伏見屋てふ家の娘にて、しかも美人の聞えありけれども、姑の病みておはせし時、隣より失火ありて、火の早く病牀にせまりしかど、たすけ出さん人もなければ、かの尼、とびいりて抱へ出しまゐらせし人なり。その時、燒けたゞれたる疵にて、目は豆粒ばかりに明て、物見え、口は五分ほどあれど食ふに事たり。今年はや七十歳ばかりと聞けりといへるに、いとあり難き人とおもひて、後も折ふしは、人にもかたりいでぬ。

   *

この話は岡本綺堂も「温泉雜記」(『朝日新聞』昭和六(一九三一)年七月(連載)初出)の「四」で疑似怪談の珍奇な例として挙げている(「青空文庫」のこちらで読める)。それにしても、これは……なにか……ひどく哀しい真相ではないか…………]

 話の上に現れたノツベラポウはすべて女性である。紀國坂の先生だけは、もう一度夜蕎麥賣りとなつて、卵のやうな顏を見せるけれども、これは最初の女からして貉の化けたものなのだから、別問題として考へなければなるまい。

「子不語」の「陳州考院」にあるのは、偶然通りがかりに出くはすやうな單純なものでないが、身長二丈、面の長さ二尺、目なく口なく鼻なしといふから、やほりノツぺラボウの一味であらう。二尺ぐらゐの髮が逆さに直立してゐるなど、なかなか物凄い。これもまた女鬼であつた。

[やぶちゃん注:

 以上は「子不語」の「卷四」の「陳州考院」。以下に示す。

   *

河南陳州學院衙堂後有樓三間封鎖、相傳有鬼物、康熙中、湯西崖先生以給諫視學其地、亦以老吏言、扃其樓如故。時盛暑、幕中人多屋少、杭州王秀才煚、中州景秀才考祥、居常以膽氣自壯、欲移居高樓。湯告以所聞、不信。斷鎖登樓、則明窗四敞、梁無點塵、愈疑前言爲妄。景榻於樓之外間、王榻於樓之間、讓中一間爲起坐所。

漏下二鼓、景先睡、王從中間持燭歸寢、語景曰、「人言樓有祟、今數夕無事、可知前人無膽、為書吏所愚。」。景未答、便聞樓梯下有履聲徐徐登者。景呼王曰、「樓下何響。」。王笑曰、「想樓下人故意來嚇我耳。」。少頃、其人連步上、景大窘、號呼、王亦起、持燭出。至中間、燈光收縮如螢火。二人驚、急添燒數燭。燭光稍大、而色終靑綠。樓門洞開、門外立一青衣人、身長二尺、面長二尺、無目無口無鼻而有髮、髮直豎、亦長二尺許。二人大聲喚樓下人來、此物遂倒身而下。窗外四面啾啾然作百種鬼聲、房中什物皆動躍。二人幾駭死、至雞鳴始息。

次日、有老吏言、先是溧陽潘公督學時、試畢、明日當發案、潘已就寢。將二更、忽聞堂上擊鼓聲。潘遣僮問之、堂吏曰頃有披髮婦人從西考棚中出、上階求見大人。吏以深夜、不敢傳答。曰、「吾有冤、欲見大人陳訴。吾非人、乃鬼也。」。吏驚仆、鬼因自擊鼓。署中皆惶遽、不知所爲。僕人張姓者、稍有膽、乃出問之。鬼曰、「大人見我何礙。今既不出、卽煩致語、我、某縣某生家僕婦也。主人涎我色奸我、不從、則鞭撻之。我語夫、夫醉後有不遜語、渠夜率家人殺我夫喂馬。次早入房、命數人抱我行奸。我肆口詈之、遂大怒、立捶死、埋後園西石槽下。沉冤數載、今特來求申。」。言畢大哭。張曰、「爾所告某生、今來就試否。」。鬼曰、「來、已取第二等第十三名矣。」。張入告潘公。公拆十三名視之、果某生姓名也、因令張出慰之曰、「當爲爾檄府縣査審。」。鬼仰天長嘯去。潘次日卽以訪聞檄縣、果於石槽下得女屍、遂置生於法。此是衙門一異聞、而樓上之怪、究不知何物也。王後舉孝廉、景後官侍御。

   *

原典は「身長二尺」であるが、他の身体サイズと齟齬が生ずるので柴田が「二丈」(六メートル強)としたのは判る気はする。中国文学者小山裕之氏のサイト内の「子不語」の現代語訳注ページのこちらの「陳州の考院」で、柴田の語っていない、後半部の、この女性の「鬼」(死者)の恨みの悲惨極まりない(!)真相がよく判る。必読!!

 

2017/04/20

柴田宵曲 續妖異博物館 「首なし」(その2) / 「首なし」~了

 

「宣室志」の黃魚は事前に頻りに訴へたに拘らず、その意志が柳宗元に通じないで首を切られてしまつた。幽靈になつて現れる場合、首はあつてもよささうなものであるが、黃魚としてはその形を柳宗元に見せて、遺恨を示したかつたのかも知れぬ。倂し首を失ふのは魚になつた者には限らない。北齊の朱世隆が尚書令であつた時、晝寢をしてゐると、その妻の奚氏が誰か世隆の首を持ち去るのを目擊した。びつくりして世隆のところへ行つて見たら、彼は依然としてぐうぐう寢てゐたが、目がさめて後、先刻首を切られた夢を見た、そのせゐかどうも氣分がよくない、と云つた。久しからずして誅せられたと「集異志」に見えてゐる。

[やぶちゃん注:「北齊」(ほくせい 五五〇年~五七七年)は中国の南北朝時代に高氏によって建てられた国。国号は単に「斉」であるが、春秋戦国時代の「斉」や南朝の「斉」などと区別するために「北斉」或いは「高斉」と現在は呼称する。しかし、以下の主人公と時代が合わない

「朱世隆」爾朱世隆(じしゅ せいりゅう 五〇〇年~五三二年)は北魏の軍人で、権力の限りを尽くしたが、謀略を起こして処刑されている。詳しくはウィキの「爾朱世隆」を参照されたい。

 以上は「太平廣記」の「徵應八人臣咎徵」の「爾朱世隆」に、「廣古今五行記」からの引用として出る以下のものと同話である。

   *

後魏僕射爾朱世隆、晝寢。妻奚氏、忽見有一人、攜世隆頭出。奚氏遽往視之、隆寢如故。及隆覺、謂妻曰、「向夢見有人、斷我頭將去。」。數日被誅。

   *]

 けれども夢に見るうちはまだよろしい。「夜譚隨錄」にある護軍の永某は、阜成門内に凶宅があり、借りて住む者は往々驚きの餘り死を致すと聞き、挺身してその家に住んで見ようと云ひ出した。護軍仲間の承諾を得て、日暮れ方から獨り酒肉を携へ、夜具なども用意して出かけて行つた。夜の十時頃になると、相當に醉ひが𢌞つて來たので、劍を拔いて柱を擊ち、化物がゐるなら何故姿を現さんのだ、隱れてゐるのは卑怯だぞ、と大きな聲でどなり立てた。倂し家の中は相變らず靜まり返つてゐる。これは豪傑を以て任ずる人のよくやる手だが、眞に肝玉(きもつたま)の据わつた人のやることではない。江戸の小咄はかういふ先生を捉へて、化物屋敷で醉ひ潰れ、夜が明けてから大威張りで門を出ると、化物が、べらぼうめ、出る時は寢てゐやがつて、といふ滑稽を描いてゐる。永某もこの同類であつたかどうかわからぬが、とにかく大いに笑つて橫になつた。然るにうとうとしたかせぬのに、何かの足音が耳に入つて飛び起きた。向うの室内にはいつの間にか明るい灯がついてゐる。彼は用意の劍を提げ、ひそかに門の隙から覗いて見たところ、灯の下に一人の首なし婦人の坐つてゐるのが見えた。彼女は一方の手を膝の上に置き、一方の手で髮を梳いてゐる。しかもその兩眼は炯々として永の覗く門の隙を見詰めてゐるのだから、永は少からず驚いて、もう足を動かすことが出來ない。婦人は已に髮を梳き了つたのであらう。兩手で耳を捉へて身體の上に置き、きよろきよろしながら立ち上つて、外へ出て來ようとしする。永は覺えず恐怖の叫びを揚げて逃げ出したので、これを聞きつけた鄰家からは、松明(たいまつ)を持つたり武器を携へたりして人が出て來る。永は已に階下を匍ひ𢌞つて、肘も膝も疵だらけになつてゐた。永から委細を聞いた人々は皆驚いたが、永もこの凶宅から引揚げて後、幾日も病氣になり、爾來彼は仲間から嘲笑されても、一言の辯解も出來なかつた。自分の首を膝に置いて、しづかに髮を梳く婦人の正體は何だかわからない。首と胴と離れながら、炯々たる光りを放つ兩眼の凄さはまた格別である。

[やぶちゃん注:「夜譚隨錄」清の和邦額の撰になる志怪小説集。以上は「卷二」の「永護軍」。柴田の梗概はちょっと不親切(確信犯かも知れぬが)で、首なしの婦人は首を膝の上に置いてその自身の首の髪を梳いているのであり、その膝の上の生きた首の両眼がおどろおどろしくも炯々と耀いているのである。

「護軍」皇帝の親衛隊職か。

   *

阜城門内某胡同、有空宅一區、甚凶、而居者、往往驚狂致死。護軍永某、素以膽勇自詡、同人欲以凶宅試之、謂有人敢宿其中者、當醵金具酒食相款。永曰、「舍我其誰。」。挺身請往、眾許之。既暮、獨攜酒肉襆被以往。二更後、飲至半酣、拔劍擊柱、大言曰、「果有鬼物、何不現形一鬧。卻何處去耶。」。久之、寂然、永大笑、尋亦就枕。甫交睫、似有步履聲、張目視之、見室燈光瑩瑩、急起捉刃、潛於門隙窺之、則燈下坐一無婦人、一手按頭膝上、一手持櫛、梳其發、二目炯炯、直視門隙。永駭甚、不能移步。既而梳已、以兩手捉耳置腔上、矍然而興、將戸、欲出。永失聲卻走、鄰家聞之、明炬操兵來探、永已訇匍階下、肘膝皆傷。述其所見、聞者胥驚。永歸、病數日方起、同人見則嘲笑之、永不複置辯焉。

   *]

 王鑑なる者は剛強な性格で、常に鬼神を侮つて居つたが、或時醉ひに乘じて部外の別莊まで出かけた。五六年以上來たことのない道なので、十里ばかり來るうちに日が暮れてしまつたが、林の下から一人の婦人が現れて一つの包みを渡したかと思ふと、直ぐ見えなくなつた。中から出たのは紙錢とか枯骨とか、墓に緣のあるものばかりで、普通の人なら氣にしさうなところを、鑑は笑つて行き過ぎた。今度は路傍に火を焚いて、十何人もの人が煖を取つてゐる。寒くもあり、道が暗くもなつたので、馬を下りてその側に寄り、氣輕に話しかけて見たけれど、一人も答へる者がない。焚火明りでその人達の顏を見れば、半ばは首がなく、首のある者は皆面衣を掛けてゐる。これにはさすがの鑑も驚懼して、馬に飛び乘るが早いか一散に駈け出した。別莊に到著した時は夜も大分更けて居り、莊の門は固く鎖されて、いくら敲いても出て來る者がない。腹立ちまぎれに大聲で罵つてゐると、一人の下男がしづかに門を明けた。こゝの召使どもは今どこに居るか、と云ひながら、下男の持つた灯を見れば、その色が甚だ靑い。鑑は思はず鞭を振り上げて下僕を打たうとした途端、その男は陰に籠つた聲で、實は旦那様、この十日間にこゝに居つた者は七人とも、皆急病で亡くなりました、と云つた。それでお前はどうしたのか、と尋ねると、私も亡くなつたのです、先刻から旦那樣があまりお呼びになりますので、その屍がちよつと立ち上つて來たのです、と云ふなりそこに倒れてしまつた。鑑は日頃の勇氣を全く喪失し、どこをどう通つたかわからずに家に歸つたが、一年ばかりして彼も亡くなつた。

[やぶちゃん注:「面衣」死者の顔に掛ける白い布である「幎冒(べきぼう)」のことであろう。]

「靈異集」に出てゐるこの話に至つては、氣味が惡いとか物凄いとかいふ域を遙かに越えてゐる。林下の婦人も焚火の人も無言なのが殊に凄涼の感を強めるやうな氣がする。首の有無の如きは深く問題とするに足らぬが、首なしの話の最後にこれを列べて置く。

[やぶちゃん注:唐代伝奇の一つである張薦の撰になる「靈怪集」のことであろう。同話は「太平廣記」の「鬼十五」に「王鑑」として「靈怪集」から引いたと出るからである。以下。

   *

兗州王鑑、性剛鷙、無所憚畏、常陵侮鬼神。開元中、乘醉往莊、去郭三十里。鑑不渉此路、已五六年矣。行十里已來、會日暮。長林下見一婦人、問鑑所往。請寄一襆。而忽不見。乃開襆視之。皆紙錢枯骨之類。鑑笑曰。愚鬼弄爾公。策馬前去。忽遇十餘人聚向火。時天寒、日已昏、鑑下馬詣之。話適所見、皆無應者。鑑視之、向火之人半無頭、有頭者皆有面衣。鑑驚懼、上馬馳去。夜艾、方至莊、莊門已閉。頻打無人出、遂大叫罵。俄有一奴開門、鑑問曰。奴婢輩今並在何處。令取燈而火色靑暗。鑑怒、欲撻奴、奴云。十日來、一莊七人疾病、相次死盡。鑑問汝且如何。答曰。亦已死矣。向者聞郎君呼叫、起尸來耳。因忽顛仆。即無氣矣。鑑大懼、走投別村而宿。周、發疾而卒。

   *]

 

柴田宵曲 續妖異博物館 「首なし」(その1) 附 上田秋成「夢應の鯉魚」+小泉八雲「僧興義の話」(英文原文+田部隆次譯)

 

 首なし

 

 柳宗元が永州の司馬に左遷され、荊門の驛舍に宿つた夜、夢に黃衣の婦人が現れて、自分の命が旦夕に迫つてゐることを訴へ、再拜して泣いた。これはあなたでなければお救ひ下さることは出來ぬ、もし救つて下されば、あなたの御運を展開して大臣の椅子に就けるやうにする、といふのである。柳宗元は夢の中で承諾の意を示したものの、夢がさめて見ると、全然心當りがない。婦人は三たびまで歎願に現れた。最後の時はよほど運命が切迫してゐるらしく、憂懼に堪へぬ顏色であつた。役人の中に不幸な立場の者があるのかと考へたり、たまたま荊州の帥(そつ)から朝飯の招待を受けてゐるので、或は自分のために魚が殺されるのであるかと考へたり、思案の決せぬうちに時間が來て、その饗應の席に出た。柳宗元から不思議な夢の話を聞いた帥が、下役人を呼んで尋ねたところ、一日前に大きな黃魚が漁師の網にかゝつたので、それを今朝の膳に上せたといふことであつた。宗元もこゝに至つてはじめて黃衣の婦人のこの魚であつたことに氣が付いたが、もう間に合はぬ。その魚を川に投げ捨てさせて出發するより外に仕方がなかつた。その夜婦人は四たび夢に現れたが、彼女は首がなかつたと「宣室志」にある。

[やぶちゃん注:「柳宗元が永州の司馬に左遷され」中唐名詩人柳宗元(七七三年~八一九年)は徳宗の治世に若手改革派として台頭、宦官勢力を中心とする保守派に対決し礼部侍郎まで昇ったが、政争に敗れ、『改革派一党は政治犯の汚名を着せられ、柳宗元は死罪こそ免れたものの、都長安(西安市)を遠く離れた邵州(湖南省)へ、刺史(州の長官職)として左遷された。ところが保守派が掌握した宮廷では処分の見直しが行われて改革派一党に更なる厳罰が科されることになり、柳宗元の邵州到着前に刺史を免ぜられて更に格下の永州(湖南省)へ、司馬(州の属僚。唐代では貶謫の官で政務には従事しない)として再度左遷された(八司馬事件)。時に柳宗元』三十三歳であった。『以後、永州に居を構えること』十年、八一五年に、一旦は『長安に召還されるものの、再び柳州(広西壮族自治区)刺史の辞令を受け、ついに中央復帰の夢はかなわぬまま』、四十七歳で歿した。『政治家としてはたしかに不遇であったが、そのほとんどが左遷以後にものされることとなった彼の作品を見ると、政治上の挫折がかえって文学者としての大成を促したのではないかとは、韓愈の「柳子厚墓誌銘」などにあるように、しばしば指摘されるところである』(引用は参照したウィキの「柳宗元」に拠る)。

「黃魚」「クワウギヨ(コウギョ)」。これは現行の中国語では、スズキ目ニベ科キグチ属フウセイ Larimichthys crocea という海水魚である。体色は美しい黄金色で、背鰭・臀鰭は高さにして三分の一以上が鱗に覆われており、東シナ海や黄海に多く棲息し、中国料理ではポピュラーであるが、本邦では長崎県で少し漁獲され、大型個体では五十センチメートルに達すると、サイト「WEB魚図鑑」のなどある。海水魚であるが、スズキ類にはかなり河川を遡上する種もいるので、少なくともこの近縁種ではあろう。

 これは「宣室志」の「柳宗元」。「太平廣記」引用を示す。

   *

唐柳州刺史河東柳宗元、常自省郎出為永州司馬、途至荊門、舍驛亭中。是夕、夢一婦人衣黃衣、再拜而泣曰、「某家楚水者也、今不幸、死在朝夕、非君不能活之。儻獲其生、不獨戴恩而已、兼能假君祿益、君爲將爲相、且無難矣。幸明君子一圖焉。」。公謝而許之。既寤、嘿自異之、及再寐、又夢婦人、且祈且謝、久而方去。明晨、有吏來、稱荊帥命、將宴宗元。宗元既命駕、以天色尚早、因假寐焉、既而又夢婦人、嚬然其容、憂惶不暇、顧謂宗元曰、「某之命、今若縷之懸甚風、危危將斷且飄矣。而君不能念其事之急耶。幸疾爲計。不爾、亦與敗縷皆斷矣、願君子許之。」。言已、又祈拜、既告去。心亦未悟焉。即俛而念曰。吾一夕三夢婦人告我、辭甚懇、豈吾之吏有不平於人者耶。抑將宴者以魚為我膳耶。得而活之、亦吾事也。」。即命駕詣郡宴、既而以夢話荊帥、且召吏訊之。吏曰、「前一日、漁人網獲一巨黃鱗魚、將爲膳、今已斷其首。」。宗元驚曰、「果其夕之夢。」。遂命挈而投江中、然而其魚已死矣。是夕、又夢婦人來、亡其首、宗元益異之。

   *]

 この婦人はもともとたゞの魚で、鱗の黃色であるところから、黃衣の人と現れて命乞ひをしたまでかも知れぬが、それにしては柳宗元の運命を請け合ひ、私をお救ひ下されば大臣になれるなどは少しえら過ぎる。何か柳宗元とこの魚との間に、前世の因緣が繫がつてゐなければならぬところであらう。

 上田秋成が「雨月物語」に書いた「夢應の鯉魚」は、小泉八雲が「僧興義」として「奇談」の中に紹介したことがある。三井寺の僧の話になつてゐるが、これは云ふまでもなく支那種で、「魚服記」の飜案らしい。興義は一たび息絶えて後、三日たつて蘇(よみがへ)り、自分がその間に鯉になつた話をした。彼は病ひの熱に苦しんで水に飛び込み、あちこち泳ぎ𢌞るうちに、いつか自分が鯉になつてゐる。空腹のまゝに釣の餌を呑み、文四といふ男に釣り上げられ、平の助の館に運ばれた。興義の鯉はかねて顏見知りの人々に向ひ、自分を忘れられたか、寺に歸して下さい、と頻りに叫んだけれど、誰の耳にも入らず、料理人が兩眼を押へ、研ぎすました庖刀で切りにかゝつた刹那、夢のさめるやうに蘇つた。彼は絶息してゐた間のことを記憶して居り、つぶさに館の樣子などを話したので、一同肝を潰し、殘りの膾は皆湖に捨てさせた。もう一步のところで柳宗元に訴へた黃魚と同じ運命に陷るわけであつた。彼は幸ひに首を失はなかつたのみならず、その後天年を全うした。愈々亡くなる前に自ら畫くところの鯉の畫數枚を湖に投じたら、魚は紙や絹の上を離れて泳ぎ𢌞つた、この故に興義の畫は世に傳はらぬといふおまけまで付いてゐる。

[やぶちゃん注:「雨月物語」の「夢應(むをう)の鯉魚(りぎよ)」は以下。

   *

 

 夢應の鯉魚

 

 むかし延長の頃、三井寺に興義(こうぎ)といふ僧ありけり。繪に巧みなるをもて名を世にゆるされけり。嘗(つね)に畫く所、佛像山水花鳥を事とせず。寺務の間(いとま)ある日は湖(うみ)に小船をうかべて、網引(あび)き釣りする泉郎(あま)に錢を與へ、獲(え)たる魚をもとの江に放ちて、其魚の遊躍(あそ)ぶを見ては畫(ゑが)きけるほどに、年を經て、細妙(くはし)きにいたりけり。或ときは、繪に心を凝(こら)して眠をさそへば、ゆめの裏(うち)に江に入りて、大小の魚とともに遊ぶ。覺(さむ)れば、卽(やがて)、見つるまゝを畫きて壁に貼(お)し、みづから呼びて「夢應の鯉魚」と名付けり。其の繪の妙(たへ)なるを感(めで)て乞ひ要(もと)むるもの前後(ついで)をあらそへば、只、花鳥山水は乞ふにまかせてあたへ、鯉魚の繪はあながちに惜みて、人每(ごと)に戲(たはふ)れていふ。

「生(しやう)を殺し鮮(あさらけ)を喰ふ凡俗の人に、法師の養ふ魚、必しも、與へず。」となん。其の繪と俳諧(わざごと)とゝもに天下(あめがした)に聞えけり。

 一とせ病ひに係りて、七日を經て、忽(たちまち)に眼を閉ぢ息絶えて、むなしくなりぬ。徒弟友どち、あつまりて歎き惜みけるが、只、心頭(むね)のあたりの微(すこ)し暖かなるにぞ、

「若(もし)や。」

と、居(ゐ)めぐりて守りつも、三日を經にけるに、手足、すこし、動き出づるやうなりしが。忽ち、長噓(ためいき)を吐きて、眼をひらき、醒めたるがごとくに起きあがりて、人々にむかひ、

「我(われ)、人事をわすれて既に久し。幾日をか過ぐしけん。」

衆弟等(しううていら)、いふ。

「師、三日前(さき)に息たえ給ひぬ。寺中の人々をはじめ、日比(ひごろ)睦まじくかたり給ふ殿原(とのばら)も詣で給ひて葬(はふむ)りの事をもはかり給ひぬれど、只、師が心頭(むね)の暖かなるを見て、柩にも藏めで、かく守り侍りしに、今や蘇生(よみがへ)り給ふにつきて、『かしこくも物せざりしよ』と怡(よろこ)びあへり。」

 興義、點頭(うなづ)きて、いふ。

「誰(たれ)にもあれ、一人檀家(だんか)の平(たひら)の助(すけ)の殿の館(たち)に詣でて告(まう)さんは。『法師こそ不思識に生き侍れ。君、今、酒を酌み、鮮(あらけ)き鱠(なます)をつくらしめ給ふ。しばらく、宴(えん)を罷(や)めて寺に詣でさせ給へ。稀有(けう)の物がたり、聞えまいらせん』とて、彼(か)の人々のある形(さま)を見よ。我が詞に露(つゆ)たがはじ。」

といふ。

 使ひ、異(あや)しみながら、彼の館に往きて其の由をいひ入れてうかがひ見るに、主(あるじ)の助をはじめ、令弟(おとうと)の十郎、家の子掃守(かもり)[やぶちゃん注:座が高いから重き家臣の通称固有名と採っておく。]など、居めぐりて酒を酌みゐたる。師が詞のたがはぬを奇(あや)しとす。助の館の人々、此の事を聞きて大きに異しみ、先づ、箸を止めて、十郎・掃守をも召し具して寺に到(いた)る。

 興義、枕をあげて、路次(ろじ)の勞(わづら)ひをかたじけなうすれば[やぶちゃん注:こちらから呼びつけてわざわざ来て貰ったことを心より労ったところ。]、助も蘇生りの賀(ことぶき)を述ぶ。

 興義、先づ問ひて、いふ。

「君、試みに、我がいふ事を聞かせ給へ。かの漁父(ぎよふ)文四(ぶんし)に魚をあつらへ給ふ事、ありや。」

助、驚きて、

「まことに、さる事あり。いかにしてしらせ給ふや。」

興義、

「かの漁父、三尺あまりの魚を籠(かご)に入れて君が門に入る。君は賢弟と南面(みなみおもて)の所に碁を圍(かこ)みて、おはす。掃守(かもり)、傍らに侍りて、桃の實の大なるを啗(く)ひつつ、奕(えき)の手段を見る。漁父が大魚(まな)を携へ來たるを喜びて、高杯(たかつき)に盛りたる桃をあたへ、又、盃(さかづき)を給ふて三獻(こん)、飮(の)ましめ給ふ。鱠手(かしはびと)、したり顏に魚をとり出でて、鱠(なます)にせしまで、法師がいふ所、たがはでぞあるらめ。」

といふに、助の人々、此の事を聞きて、或は異しみ。或はここち惑ひて、かく詳らかなる言(こと)のよしを頻(しきり)に尋づぬるに、興義、かたりて、いふ。

「我、此の頃、病にくるしみて堪へがたきあまり、其の死したるをもしらず。熱きここちすこしさまさんものをと、杖(つゑ)に扶(たす)けられて門を出づれば。病ひもやや忘れたるやうにて籠(こ)の鳥の雲井にかへるここちす。山となく里となく行々(ゆきゆき)て、又、江の畔(ほとり)に出づ。湖水の碧(みどり)なるを見るより、現(うつつ)なき心に浴びて遊びなんとて、そこに衣を脱ぎ去てて、身を跳(をど)らして深きに飛び入りつも。彼此(をちこち)に游(およ)ぎめぐるに、幼(わか)きより水に狎(な)れたるにもあらぬが、慾(おも)ふにまかせて戲(たはふ)れけり。今、思へば愚かなる夢ごころなりし。

 されども、人の水に浮ぶは、魚のこころよきには、しかず。ここにて又、魚の遊びをうらやむこころおこりぬ。傍らにひとつの大魚(まな)ありて、いふ。

『師のねがふ事、いとやすし。待たせ給へ。』

とて、杳(はるか)の底に去(ゆ)くと見しに、しばしして、冠裝束(かむりさうぞく)したる人の、前(さき)の大魚(まな)に胯(また)がりて、許多(あまた)の鼇魚(うろくず)を牽(ひ)きゐて、浮び來たり、我にむかひて、いふ。

『海若(わたづみ)の詔(みことのり)あり。老僧、かねて、放生(はうじやう)の功德(くどく)多し。今、江に入りて魚の遊躍(あそび)をねがふ。權(かり)に金鯉(きんり)が服を授けて水府(すいふ)のたのしみを、せさせ玉ふ。只、餌(ゑ)の香(かん)ばしきに眛(くら)まされて。釣りの糸にかゝり、身を亡(うしな)ふ事、なかれ。』

と、いひて去りて見えずなりぬ。

 不思義のあまりに、おのが身をかへり見れば、いつのまに、鱗(うろこ)、金光(きんかう)を備へて、ひとつの鯉魚(りぎよ)と化(け)しぬ。あやしとも思はで、尾(を)を振り、鰭(ひれ)を動かして、心のまゝに逍遙(せうえう)す。

 まづ長等(ながら)の山おろし、立ちゐる浪に身をのせて、志賀の大灣(おほわだ)の汀(みぎは)に遊べば、かち人の裳(も)のすそぬらすゆきかひに驚(おど)されて、比良(ひら)の高山影、うつる。深き水底(みなそこ)に潛(かづ)くとすれど、かくれ堅田(かただ)の漁火(いさりび)によるぞうつゝなき。ぬば玉の夜中(よなか)の潟(かた)にやどる月は、鏡の山の峯に淸(す)みて、八十(やそ)の湊(みなと)の八十隈(やそくま)もなくて、おもしろ。沖津嶋山、竹生嶋(ちくぶしま)、波にうつろふ朱(あけ)の垣こそおどろかるれ。さしも伊吹の山風に、旦妻船(あさづまぶね)も漕ぎ出づれば、蘆間(あしま)の夢をさまされ、矢橋の渡りする人の水(み)なれ棹(さを)をのがれては、瀨田(せた)の橋守(はしもり)にいくそたびが追はれぬ。日、あたゝかなれば浮び、風、あらきときは千尋(ちひろ)の底(そこ)に遊ぶ。

 急(には)かにも、飢えて食(もの)ほしげなるに。彼此(をちこち)に𩛰(あさ)り得ずして狂ひゆくほどに、忽ち、文四が釣りを垂るに、あふ。其の餌(ゑ)、はなはだ香(かんば)し。心、又、河伯(かはがみ)の戒(いましめ)を守りて思ふ。

『我れは佛(ほとけ)の御弟子なり。しばし食(もの)を求め得ずとも、なぞも、あさましく魚の餌を飮(の)むべき。』

とて、そこを去る。しばしありて、飢え、ますます甚しければ、かさねて思ふに、

『今は堪へがたし。たとへ此の餌を飮むとも嗚呼(をこ)に捕はれんやは。もとより他(かれ)は相ひ識(し)るものなれば、何のはばかりかあらん。』

とて遂に餌をのむ。文四、はやく糸を收めて、我を捕ふ。

『こはいかにするぞ。』

と叫びぬれども、他(かれ)かつて聞かず顏にもてなして、繩をもて我が腮(あぎと)を貫ぬき、蘆間に船を繫ぎ、我を籠に押し入れて君が門に進み入る。君は賢弟と南面の間に奕(えき)して遊ばせ給ふ。掃守(かもり)傍らに侍りて菓(このみ)を啗(くら)ふ。文四がもて來(こ)し大魚を見て、人々、大いに感(め)でさせ給ふ。我れ、其とき、人々にむかひ、聲をはり上げて、

『旁等(かたがたら)は興義をわすれ給ふか。宥(ゆる)させ給へ。寺にかへさせ給へ。』と連(しき)りに叫びぬれど、人々しらぬ形(さま)にもてなして、只、手を拍つて喜び給ふ。鱠手(かしは人)なるもの、まづ、我が兩眼を左手(ひだり)の指にて、つよくとらへ、右手に礪(とぎ)すませし刀(かたな)をとりて、俎盤(まないた)にのぼし、既に切るべかりしとき、我れ、くるしさのあまりに大聲をあげて、

『佛弟子を害(がゐ)する例(ためし)やある。我を助けよ、助けよ。』

と哭叫(なきさけ)びぬれど、聞き入れず、終に、切るる、と、おぼえて、夢、醒めたり。」

と、かたる。

 人々大に感異(めであや)しみ、

「師が物がたりにつきて思ふに、其の度(たび)ごとに魚の口の動くを見れど、更に聲を出だす事なし。かかる事、まのあたりに見しこそ、いと不思議なれ。」

とて、從者(ずさ)を家に走らしめて、殘れる鱠(なます)を湖(うみ)に捨てさせけり。

 興義、これより病ひ癒えて、杳(はるか)の後、天年(よはひ)をもて死にける。其の終焉(をはり)に臨みて畫(ゑが)く所の鯉魚、數枚(すまい)をとりて、湖(うみ)に散らせば、畫(ゑが)ける魚紙繭(しけん/かみきぬ[やぶちゃん注:後者は左ルビ。])をはなれて、水に遊戲(ゆうげ)す。ここをもて、興義が繪、世に傳はらず。其の弟子成光(なりみつ)なるもの、興義が神妙をつたへて時に名あり。閑院(かんゐん)の殿(との)[やぶちゃん注:平安初期の公卿で歌人の藤原冬嗣。]の障子に鷄(にはとり)を畫(ゑが)きしに。生ける鷄、この繪を見て蹴(け)たるよしを、古き物がたりに戴せたり。

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因みに、三島由紀夫は、この金鱗の鯉となった興義の琵琶湖の歌尽くしを『窮極の詩』と評して高く評価している。私は三島の思想と狂った田舎芝居の自死行動を全く評価しないが、彼の文学的才能は別して買っている。そうして、その彼の賞讃する箇所についても同じように激しく共感する。

 小泉八雲の「僧興義」は“The Story of Kogi the Priest”(「僧興義の話」)で、作品集“A Japanese miscellany”(「日本雑録」 明治三四(一九〇一)年刊)に所収されている。まず、原文を示す。加工データはネット上にある原文ベタ・テクストを複数用い、それを、底本として“Internet Archive”の原本画像を使用して校合した。なお、原注は一部を除いて除去した。

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The Story of Kōgi the Priest

 

NEARLY one thousand years ago there lived ill the famous temple called Miidera, at Ōtsu in the province of Ōmi, a learned priest named Kōgi. He was a great artist. He painted, with almost equal skill, pictures of the Buddhas, pictures of beautiful scenery, and pictures of animals or birds; but he liked best to paint fishes. Whenever the weather was fair, and religious duty permitted, he would go to Lake Biwa, and hire fishermen to catch fish for him, without injuring them in any way, so that he could paint them afterwards as they swam about in a large vessel of water. After having made pictures of them, and fed them like pets, he would set them free again, — taking them back to the lake himself. His pictures of fish at last became so famous that people travelled from great distances to see them. But the most wonderful of all his drawings of fish was not drawn from life, but was made from the memory of a dream. For one day, as he sat by the lake-side to watch the fishes swimming, Kōgi had fallen into a doze, and had dreamed that he was playing with the fishes under the water. After he awoke, the memory of the dream remained so clear that he was able to paint it ; and this painting, which he hung up in the alcove of his own room in the temple, he called " Dream-Carp.”

   Kōgi could never be persuaded to sell any of his pictures of fish. He was willing to part with his drawings of landscapes, of birds, or of flowers ; but he said that he would not sell a picture of living fish to any one who was cruel enough to kill or to eat fish. And as the persons who wanted to buy his paintings were all fish- eaters, their offers of money could not tempt him.

 

   One summer Kōgi fell sick ; and after a week's illness he lost all power of speech and movement, so that he seemed to be dead. But after his funeral service had been performed, his disciples discovered some warmth in the body, and decided to postpone the burial for awhile, and to keep watch by the seeming corpse. In the afternoon of the same day he suddenly revived, and questioned the watchers, asking : —

“ How long have I remained without knowledge of the world ?”

“ More than three days,” an acolyte made answer. “ We thought that you were dead ; and this morning your friends and parishioners assembled in the temple for your funeral service. We performed the service ; but afterwards, finding that your body was not altogether cold, we put off the burial; and now we are very glad that we did so.”

   Kōgi nodded approvingly : then he said : —

   “ I want some one of you to go immediately to the house of Taira no Suke, where the young men are having a feast at the present moment — (they are eating fish and drinking wine), — and say to them : — ' Our master has revived ; and he begs that you will be so good as to leave your feast, and to call upon him without delay, beause he has a wonderful story to tell you.' . . . At the same time ”— continued Kōgi —“observe what Suké and his brothers are doing; — see whether they are not feasting as I say.”

   Then an acolyte' went at once to the house of Taira no Suké, and was surprised to find that Suké and his brother Jūrō, with their attendant, Kamori, were having a feast, just as Kōgi had said. But, on receiving the message, all three immediately left their fish and wine, and hastened to the temple. Kōgi, lying upon the couch to which he had been removed, received them with a smile of welcome ; and, after some pleasant words had been exchanged, he said to Suké : —

   “ Now, my friend, please reply to some questions that I am going to ask you. First of all, kindly tell me whether you did not buy a fish to-day from the fisherman Bunshi.”

   “ Why, yes,” replied Suké — but how did you know ?”

   “ Please wait a moment,” said the priest. . . . “ That fisherman Bunshi to-day entered your gate, with a fish three feet long in his basket : it was early in the afternoon, just after you and Jūrō had begun a game of go; — and Kamori was watching the game, and eating a peach — was he not ? ”

   “That is true,” exclaimed Suké and Kamori together, with increasing surprise.

   “ And when Kamori saw that big fish,” proceeded Kōgi, “ he agreed to buy it at once ; and, besides paying the price of the fish, he also gave Bunshi some peaches, in a dish, and three cups of wine. Then the cook was called ; and he came and looked at the fish, and admired it ; and then, by your order, he sliced it and prepared it for your feast. . . . Did not all this happen just as I have said ?.”

   “ Yes,” responded Suké ;“ but we are very much astonished that you should know what happened in our house to-day. Please tell us how you learned these matters.”

   “ Well, now for my story,” said the priest. “ You are aware that almost everybody believed me to be dead; — you yourselves attended my funeral service. But I did not think, three days ago, that I was at all dangerously ill : I remember only that I felt weak and very hot, and that I wanted to go out into the air to cool myself. And I thought that I got up from my bed, with a great efifort, and went out, — supporting myself with a stick. . . .Perhaps this may have been imagination ; but you will presently be able to judge the truth for yourselves : I am going to relate everything exactly as it appeared to happen. . . . As soon as I got outside of the house, into the bright air, I began to feel quite light, — light as a bird flying away from the net or the basket in which it has been confined. I wandered on and on till I reached the lake ; and the water looked so beautiful and blue that I felt a great desire to have a swim. I took off my clothes, and jumped in, and began to swim about ; and I was astonished to find that I could swim very fast and very skilfully, — although before my sickness I had always been a very poor swimmer. . . . You think that I am only telling you a foolish dream — but listen ! . . . While I was wondering at this new skill of mine, I perceived many beautiful fishes swimming below me and around me ; and I felt suddenly envious of their happiness, — reflecting that, no matter how good a swimmer a man may become, he never can enjoy himself under the water as a fish can. Just then, a very big fish lifted its head above the surface in front of me, and spoke to me with the voice of a man, saying : —‘That wish of yours can very easily be satisfied: please wait there a moment !’  The fish then went down, out of sight ; and I waited. After a few minutes there came up, from the bottom of the lake, — riding on the back of tlie same big ilsh that had spoken to me, — a man wearing the headdress and the ceremonial robes of a prince ; and the man said to me : — ‘I come to you with a message from the Dragon-King, who knows of your desire to enjoy for a httle time the condition of a fish. As you have saved the lives of many fish, and have always shown compassion to living creatures, the God now bestows upon you the attire of the Golden Carp, so that you will be able to enjoy the pleasures of the Water-World. But you must be very careful not to eat any fish, or any food prepared from fish, — no matter how nice may be the smell of It ; ― and you must also take great care not to get caught by the fishermen, or to hurt your body in any way.' With these words, the messenger and his fish went below and vanished in the deep water. I looked at myself, and saw that my whole body had become covered with scales that shone like gold ; — I saw that I had fins ; — I found that I had actually been changed into a Golden Carp. Then I knew that I could swim wherever I pleased.

   “ Thereafter it seemed to me that I swam away, and visited many beautiful places. [Here in the original narrative, are introdmed some verses describing the Eight Famous Attractions of the Lake of Ōmi, — “ Ōmi-Hakkei.”] Sometimes I was satisfied only to look at the sunlight dancing over the blue water, or to admire the beautiful reflection of hills and trees upon still surfaces sheltered from the wind. . . . I remember especially the coast of an island — either Okitsushima or Chikubushima — reflected in the water like a red wall. . . . Sometimes I would approach the shore so closely that I could see the faces and hear the voices of people passing by ; sometimes I would sleep on the water until startled by the sound of approaching oars. At night there were beautiful moonlight-views ; but I was frightened more than once by the approaching torchfires of the fishing-boats of Katase. When the weather was bad, I would go below, — far down, — even a thousand feet, — and play at the bottom of the lake. But after two or three days of this wandering pleasure, I began to feel very hungry; and I returned to this neighborhood in the hope of finding something to eat. Just at that time the fisherman Bunshi happened to be fishing ; and I approached the hook which he had let down into the water. There was some fish-food upon it that was good to smell. I remembered in the same moment the warning of the Dragon-King, and swam away, saying to myself: —‘ In any event I must not eat food containing fish; — I am a disciple of the Buddha.’  Yet after a httle while my hunger became so intense that I could not resist the temptation ; and I swam back again to the hook, thinking, — ‘Even if Bunshi should catch me, he would not hurt me; — he is my old friend.’  I was not able to loosen the bait from the hook ; and the pleasant smell of the food was too much for my patience ; and I swallowed the whole thing at a gulp. Immediately after I did so, Bunshi pulled in his line, and caught me. I cried out to him, ‘ What are you doing? — you hurt me! ’— but he did not seem to hear me, and he quickly put a string through my jaws. Then he threw me into his basket, and took me to your house. When the basket was opened there, I saw you and Jūrō playing go in the south room, and Kamori watching you — eating a peach the while. All of you presently came out upon the veranda to look at me; and you were delighted to see such a big fish. I called out to you as loud as I could : —‘I am not a fish ! — I am Kōgi — Kōgi the priest !  please let me go back to my temple ! ’  But you clapped your hands for gladness, and paid no attention to my words. Then your cook carried me into the kitchen, and threw me down violently upon a cutting-board, where a terribly sharp knife was lying. With his left hand he pressed me down, and with his right hand he took up that knife, — and I screamed to him : — ‘ How can you kill me so cruelly !  I am a disciple of the Buddha ! — help !  help !’  But in the same instant I felt his knife dividing me — a frightful pain ! — and then I suddenly awoke, and found myself here in the temple.”

   When the priest had thus finished his story, the brothers wondered at it; and Suké said to him : — “I now remember noticing that the jaws of the fish were moving all the time that we were looking at it ; but we did not hear any voice. . . . Now I must send a servant to the house with orders to throw the remainder of that fish into the lake.”

 

   Kōgi soon recovered from his illness, and lived to paint many more pictures. It is related that, long after his death, some of his fish-pictures once happened to fall into the lake, and that the figures of the fish immediately detached themselves from the silk or the paper upon which they had been painted, and swam away!

 

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次にこちらにある、同作の田部隆次(パブリック・ドメイン)氏訳になる「僧興義」を電子化しておく。画像は新潮文庫昭和二五(一九五〇)年発行初版の古谷綱武編「小泉八雲集 上巻」である。一部の不審な空隙には読点を打った。

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   僧興義

 

 殆んど一千年前、近江の國大津の名聲い三井寺に、興義と云ふ博學の僧がゐた。繪の大家であつた。佛像、山水、花鳥を殆んど同じ程度に巧みに描いたが、魚を描く事が最も得意であつた。天氣の好い日で、佛事の暇のある時には、彼はいつも漁師を雇うて琵琶湖に行き、魚を痛めないやうに捕へさせて大きな盥に放ち、その游ぎ廻るのを見て寫生した。繪を描いてから、勞りながら食物を與へて再び、――自分で湖水までもつて行つて、――放つてやるのがつねであつた。彼の魚の繪はたうとう名高くなつたので、人はそれを見に遠くから旅をして來た。しかし彼の凡ての魚の繪のうちで、最も不思議なのは、寫生ではなくて、夢の記憶から描いた物であつた。そのわけは、或日の事、彼が魚の游ぐのを見るために、湖岸に坐つて居るうちに思はずまどろんで、水中の魚と遊んだ夢を見た。眼をさましてから、その夢の記憶が餘りに鮮明であつたので、彼はそれを描く事がてきた、そしてお寺の自分の部屋の床の間にかけて置いたこの繪を、彼は『夢應の鯉魚』と呼んだ。

 興義は、彼の魚の繪を一枚も賣る事を喜ばなかつた。山水の繪、鳥の繪、花の繪は喜んで、手放したが、彼はいつも、魚を殺したり喰べたりするやうな殘酷な者には、生きた魚の繪は賣りたくないと云つてゐた。そして彼の繪を買ひたがる人々は皆魚食の人々であつたから、彼等が如何程金を積んでも、彼はそれには迷はされなかつた。

 

 或夏の事、興義は病氣になつた、それから一週間病んだあとで、物言ふ事も、動く事もできなくなつたので、彼は死んだと思はれた。しかし讀經など行はれたあとで、弟子達は體に幾分の溫みのある事を發見して、暫らく埋葬を見合す事にして、その死骸らしく思はれる物のわきで、見張をする事に決した。同じ日の午後に、彼は突然蘇生した、そして見張の人々にかう云つて尋ねた、――

『私が人事不省になつてから、幾日になりますか』

『三日以上になります』一人の弟子が答へた。『いのちがお絶えになつたと思ひました、それで今朝日頃のお友達、檀家の人々がお寺に集まつておとむらひをいたしました。私達が式を行ひましたが、お體が全く冷たくないから、埋葬は見合せました、それで今さうした事を甚だ喜んてゐます』

 興義は成程とうなづいてから、云つた、

『誰でもよいから、すぐに平(たひら)の助(すけ)のうちに行つて貰ひたい、そこでは今、若い人達が宴會を開いて居る――(魚を喰べて、酒を飮んて居る)――それで、云つて貰ひたい、――「あるじは蘇生しました、どうか宴會を止めて、卽刻來て下さいませんか、あなた方に珍らしい話をいたしますから」――同時に』――興義は續けて云つた――『助と兄弟逹が、何をして居るか、見て來て貰ひたい、――私が云つた通り、宴會をしてゐないかどうか』

 それから一人の弟子が直ちに平の助の家に行つて、助と弟の十郎が、家の子掃守(かもり)と一緒に、丁度興義が云つた通り、宴を開いて居る事を見て驚いた。しかし、その使命を聞いて三人は、直ちに酒肴をそのままにして、寺へ急いだ。興義は床から座蒲團に移つてゐたが、三人を見て歡迎の微笑を浮べた、それから、暫らくお祝と御禮の言葉を交換したあとで、興義は助に云つた、――

『これから二三お尋ねする事があるが、どうか聞かせて下さい。第一に、今日あなたは漁師の文四から魚を買ひませんでしたか』

『はい、買ひました』助は答へた――『しかしどうして御存じですか』

『少し待つて下さい』僧は云つた。……『その漁師の文四が今日、籠の中に三尺程の長さの魚を入れて、お宅の門へ入つた。午後の未だ早い時分でしたが、丁度あなたと十郎樣が碁を始めたところでした、――それから掃守が桃を喰べてゐながらその碁を見てゐました――さうでしたらう』

『その通りです』助と掃守は益〻驚いて、一緒に叫んだ。

『それから掃守がその大きな魚を見て』興義は續いて云つた、『すぐにそれを買ふ事にした、それから代を拂ふ時に、文四に皿に入れた桃をいくつか與へて、酒を三杯飮ませてやりました。それから料理人を呼んだら、その人は魚を見て感心しました、それからあなたの命令でそれを膾(なます)にして、御馳走の用意をしました。……私の云つた通りぢやありませんか』

『さうです』助は答へた、『しかしあなたが、今日私のうちであつた事をどうして御存じですか、實に驚きます。どうかこんな事がどうして分りましたか聞かして下さい』

『さあ、これからが私の話です』僧は云つた。『御承知の通り殆んど皆の人逹は私を死んだと思ひました、――あなたも私のとむらひに來てくれましたね。しかし、三日前に、私はそんなにひどく惡いとは思はなかつた、ただ弱つて、非常に熱いと思つたので、外へ出て少し涼まうと思つた。それから骨を折つて床から起き上つて、――杖にすがつて、――出かけたやうです。……事によればこれは想像かも知れない、しかしやがてその事は皆さん御自分で判斷ができませう、私はただあつた事を何でもその通りに述べるつもりです。私がうちからあかるい外へ出ると、全く輕くなつたやうな、――籠や網から逃げ出した鳥のやうに輕くなつたやうな氣がした。私は段々行くうちに湖水に逹した、水は靑くて綺麗だつたから、しきりに游いで見たくなつた。着物を脱いで跳び込んで、そこら邊泳ぎ出した、それから、私は非常に早く、非常に巧みに游げるので驚いた、――ところが實は、病氣の前は游ぐ事はいつも非常に下手であつた。……皆さんは馬鹿な夢物語だと思はれるだらうが――聽いて下さい。……私がこんなに新しい力が出て來たので不思議に思つて居るうちに、氣がついて見ると、私の下にも廻りにも綺麗な魚が澤山游いでゐた、私は不意に幸福な魚が羨しくなつて來た、――どんなに人がよく游げると云つたところで、魚のやうに、水の下で面白くは遊ばれないと思つた。丁度その時、甚だ大きな魚が私の目の前の水面に頭を上げて、人間の聲で私にかう云つて話しかけた、――「あなたの願は何でもなく叶ひます、暫らくそこでお待ち下さい」それから、その魚は下の方へ行つて見えなくなつた、そこで私は待つてゐた。暫らくして湖水の底から、――私に物を云つたあの大きな魚の背中に乘つて、――王公のやうな冠と禮服を着けた人が浮かび上つて來て、私に云つた、――「暫らく魚の境遇になつて見たいとの御身の願を知しめされた龍宮王から使をもつて來た。御身は多くの魚の生命を救つて、生物への同情をいつも示して居るから、神は今御身に水界の樂みを得させるために黃金の鯉の服を授け下さる。しかし御身は魚を喰べたり、又魚でつくつた食物を喰べたりしないやうに注意せねばならない、――どんなによい香がしても、――それから漁師へ捕へられないやうに、又どうかして體(からだ)を害をする事のないやうにやはり注意せねばならない」かう云つて、その使者と魚は下の方へ行つて、深い水の中に消え失せた。私は自分を顧みると、私の全身が金のやうに輝く鱗で包まれてゐた、――私には鰭があつた、――私は實際黃金の鯉と化して居る事に氣がついた。それから、私の好きなところ、どこへでも游げる事が分つた。

『それから、私が游いで、澤山の各所を訪れたらしい。〔ここで、原文には、近江八景を説明した歌のやうな文句が入れてある〕時々私は靑い水の面で躍る日光を見たり、或は風から遮ぎられた靜かな水面に反映する山や本の美しい影を見たりしただけで滿足した。……私は殊に島の岸――沖津島か竹生島か、どちらかの――岸が赤い壁のやうに水の中に映つてゐたのを覺えて居る。――時々私は岸に餘り近づいたので、通つて行く人の顏を見たり、聲を聞いたりする事ができた、時時私は水の上に眠つてゐて、近づいて來る櫂の音に驚かされた事もある。夜になれば、美しい月の眺めがあつた、しかし私は片瀨の漁舟のかがり火の近づいて來るのには幾度も驚かされた[やぶちゃん注:「片瀨の漁舟」原文は“the fishing-boats of Katase”で“Katase”と大文字になっているから、小泉八雲は固有地名として記していることが判る。しかし、現在、琵琶湖畔には「片瀬」と称する地名を確認出来なかった。識者の御教授を乞う。或いは歌枕的な用法として使用したものか?]。天氣の惡い時には、下の方へ、――ずつと下の方へ、――一千尺も、――行つて湖の底で遊ぶ事にした。しかしこんな風に二三日面白く遊び廻つてゐたあとで、私は非常に空腹になつて來た、それで私は何か喰べる物をさがさうと思つて、この近所へ歸つて來た。丁度その時漁師の文四が釣をしてゐた、そして私は水の中に垂れでゐた鉤に近づいた。それには何か餌がついでゐて、よい香がした。私は同時に龍宮王の警告を想ひ出して、獨り言を云ひながら、游ぎ去つた、――「どうあつても魚の入れてある食物は喰べてはならない」それでも私の飢は非常に烈しくなつて來たので、私は誘惑に勝つ事ができなくなつた、それで又鉤のところへ游ぎかへつて、考へた、――「たとへ、文四が私を捕へても、私に害を加へる事はあるまい、――古い友達だから」私は鉤から餌を外す事はできなかつた、しかし餌の好い香は到底私が辛抱できない程であつた、それで私はがぶりと全部を一呑みにした。さうするとすぐに、文四は糸を引いて、私を捕へた。私は彼に向つて叫んだ、「何をするんだ、――痛いぢやないか」――しかし彼には聞えなかつたらしい、直ちに私の顎に糸を通した。それから籠の中へ私を投げ入れて、お宅へ持つて行つたのです。そこで籠を開いた時、あなたと十郎樣が南の部屋で碁を打つてゐて、それを掃守が――桃を喰べながら――見物して居るのが見えた。そのうちに皆さんが私を見に緣側へ出て來て、そんな大きな魚を見て喜びましたね。私はできるだけ大聲で皆さんに、――「私は魚ぢやない、――興義だ、――僧興義だ、どうか寺へかへしてくれ」と叫んだが、皆さんが喜んで手をたたいて私の言葉には頓着しなかつた。それから料理人は臺所へもつて行つて、荒々しく爼板(まないた)の上に私を投げ出したが、そこには恐ろしく鋭い庖丁が置いてあつた。左の手で、彼は私を押へて、右の手で庖丁を取り上げた、――そして私は彼に叫んだ、――「どうしてそんなに殘酷に私を殺すのだ。私は佛の弟子だ、――助けてくれ」しかし同時に私はその庖丁で二つに割られるのを――非常な痛さと共に――覺えた、――そしてその時突然眼がさめた、そしてここの寺に歸つてゐた』

 

 僧がこの通り話を終つた時、兄弟は不思議に思つた、そして助は云つた、――『今から想へば、なる程私達が見て居る間、魚の顎が始終動いてゐた、しかし聲は聞えなかつた。……それではあの魚の殘りは湖水に捨てるやうに、家へ使を出さねばならない』

 

興義はすぐに病氣が直つた、そしてそれから又澤山の繪を描いた。死後餘程たつてから、彼の魚の繪が或時湖水に偶然落ちた事があつた、すると魚の形がその地の絹や紙から直ちに離れて游ぎ去つたと傳へられて居る。

                (田部隆次譯)

 The Story of Kogi the Priest.(A Japanese miscellany.)

 

   *]

2017/04/19

南方熊楠 履歴書(その12) ロンドンにて(8) 「落斯馬(ロスマ)論争」

 

 オランダ第一の支那学者グスタヴ・シュレッゲルと『正字通』の落斯馬という獣の何たるを論じてより、見苦しき国民攻撃となり、ついに降参せしめて謝状をとり今も所持せり。(これは謝状を出さずば双方の論文を公開してシュレッゲルの拙劣を公示すべしといいやりしなり。)落斯馬(ロスマ)と申すは Ros Mar(ロス マール)(馬 海の)というノルウェー語の支那訳なり。十七世紀に支那にありし Verbiest(南懐仁という支那名をつけし天主僧なり)の『坤輿図説』という書に始めて出づ。これを、その文を倉皇読んで Nar Hhal(ナル ウワル)(死白の 鯨)(一角魚(ウニコール))とシュレッゲルは言いしなり。これより先ライデンより出す『人類学雑誌』(Archiv Für Ethnologie)にて、シュレッゲル毎々小生がロンドンにて出す論文に蛇足の評を加うるを小生面白からず思いおりしゆえ、右の落斯馬の解の誤りを正しやりしなり。しかるに、わざと不服を唱えていろいろの難題を持ち出だせしを小生ことごとく解しやりしなり。さていわく、汝シュレッゲルが毎度秘書らしく名を蔵(かく)して引用する(実は日本ではありふれたる書)『和漢三才図会』に、オランダ人は小便する時片足を挙げてすること犬のごとし、とある。むかしギリシアに、座敷が奇麗で唾をはく所なしとて主人の顔に唾吐きしものあり。主人これを咎むると、汝の驕傲(きょうごう)を懲らすといえり。その時主人、汝みずからそのわれよりも驕傲なるに気づかざるかといえり。汝は日本人に向かって議論をふきかけながら、負けかかりたりとて勝つ者に無礼よばわりをする。実は片足挙げて小便する犬同様の人間だけありて(欧米人は股引をはくゆえ片足を開かねば小便できず、このところ犬に似たり)、自分で自分の無礼に気づかざるものなり、と。いわゆる人を気死せしめるやり方で、ずいぶん残念ながらも謝状を出したことと思う。また前述ジキンスのすすめにより帰朝後『方丈記』を共訳せり。『皇立亜細亜協会(ロヤル・アジアチック・ソサイエチー)雑誌』(一九〇五年四月)に出す。従来日本人と英人との合作は必ず英人を先に名のるを常とせるを、小生の力、居多(きょた)なれば、小生の名を前に出さしめ A Japanese Thoreau of the 12th Century, byクマグス・ミナカタおよびF. Victor Dickins と掲げしめたり。しかるに英人の根性太き、後年グラスゴウのゴワン会社の万国名著文庫にこの『方丈記』を収め出板するに及び、誰がしたものか、ジキンスの名のみを存し小生の名を削れり。しかるに小生かねて万一に備うるため、本文中ちょっと目につかぬ所に小生がこの訳の主要なる作者たることを明記しおきたるを、果たしてちょっとちょっと気づかずそのまま出したゆえ、小生の原訳たることが少しも損ぜられずにおる。

[やぶちゃん注:「グスタヴ・シュレッゲル」オランダの東洋学者・博物学者グスタフ・シュレーゲル(Gustave SchlegelGustaaf Schlegel 一八四〇年~一九〇三年)。ウィキの「グスタフ・シュレーゲル」他によれば、ライデン大学中国語中国文学講座の初代教授で、オランダ語読み音写では「スフレーヘル」とも表記される。著書は「中国星辰考」「天地会」「地誌学的問題」等。一八九〇年に東洋学研究の学術雑誌『通報』(当初の正式な雑誌名は『通報 若しくは アジア・オリエンタル(中国・日本・朝鮮・インドシナ・中央アジア及びマレーシア)の歴史・言語・地理及び民族に関する研究のための記録』(T’oung Pao ou Archives pour servir a l’etude de l’histoire, des langues, la geographie et l’ethnographie de l’Asie Orientale (Chine, Japon, Coree, Indo-Chine, Asie Centrale et Malaisie) )をフランスの東洋学者アンリ・コルディエ(Henri Cordier 一八四九年~一九二五年)とともに創刊している。

「正字通」中国の字書。明末の張自烈の著。初刻本は一六七一年刊行、直後に本邦にも渡来して多く読まれた。現行通行本には清の廖(りょう)文英撰とするが、実際には原稿を買って自著として刊行したものである。十二支の符号を付した十二巻を、それぞれ上・中・下に分け、部首と画数によって文字を配列し、解説を加えたもの。形式は、ほぼ明の梅膺祚(ばいようそ)の「字彙」に基づくが、その誤りを正し、訓詁を増したものである。但し、本書自体にも誤りが少くない。「字彙」とともに後の「康煕字典」の基礎となった。その当該部分は以下。

   *

落斯馬長四丈許足短居一海底罕出水面皮堅剌之不可入額一角似鉤寐時角桂石蠱日不醒

   *

このシュレーゲルとの「落斯馬(ロスマ)論争」は、サイト「南方熊楠資料研究会」の「南方熊楠を知る事典」内のこちらのページの松居竜五氏の「シュレーゲル(スフレーヘル) Schlegel, Gustav 1840-1903」によれば、南方熊楠が一八九七年一月三十日附でロンドンの南方が、ライデンのシュレーゲルに宛てて書いた書簡で反論をしたのが最初であった。そこには『「シュレーゲル教授は一八九三年の『通報』誌上で、十七世紀中国の辞書『正字通』にあらわれた『落斯馬(ロスマ)』という動物をイッカク(前頭部に長い角を持つイルカに似た海の哺乳類)であるとしているが、これは誤りである。『落斯馬』とはおそらくノルウェー語のロス(馬)・マル(海)に由来する西洋起源の言葉であり、海馬つまりセイウチのことを指している」。』と記されてあるという(「南方熊楠コレクション」の注によれば、この書簡を皮切りに『三月上旬まで数回の書簡の応酬があった』とする。この「イッカク」本文の「一角魚(ウニコール)」は、

脊椎動物亜門哺乳綱鯨偶蹄(偶蹄)目Whippomorpha 亜目 Cetacea 下目ハクジラ小目イッカク科イッカク属イッカク Monodon monoceros

を、「セイウチ」、本文の「Ros Mar(ロス マール)(馬 海の)」は、

哺乳綱食肉目イヌ型亜目アシカ上科セイウチ科セイウチ属セイウチ Odobenus rosmarus

を指す。老婆心乍ら、この二種は海洋性獣類ではあっても、目レベルで異なる全くの別種である。なお、この前後の出来事は南方熊楠の「人魚の話」の中にも出てくる。リンク先は私の古い電子テクストである。未見の方は、どうぞ。

Ros Mar(ロス マール)(馬 海の)」「ロス マール」が「Ros Mar」のルビで、「(馬 海の)」は本文である。

「十七世紀に支那にありし Verbiest(南懐仁という支那名をつけし天主僧なり)」フランドル出身のイエズス会宣教師フェルディナント・フェルビースト(Ferdinand Verbiest 一六二三年~一六八八年)。ウィキの「フェルディナント・フェルビースト」によれば、『清代の中国を訪れ、康熙帝に仕えながら布教活動を行った。漢名は南懐仁』とした。『ヨーロッパの天文学、地理学など科学技術を中国に紹介、また中国の習慣を身につけて中国語で書物を著し、日本を含め近世初期の中国および周辺諸国の科学技術に大きな影響を与えた』。一六二三年に『南ネーデルラントのコルトレイク近郊のピテム(Pittem, 現在はベルギー、ウェスト=フランデレン州)に、役人で徴税人をしていたヨース・フェルビースト(Joos Verbiest)の第一子として生まれる。ブルッヘ、コルトレイクでイエスについて学び、ルーヴェンのルーヴェン・カトリック大学に進学して哲学と数学を学ぶ。メヘレンでも学んだ。その後、セビリャ、ローマで天文学、数学を学ぶ』。その頃、『ヨーロッパではプロテスタントが急増していた。カトリック教会はその覇権を維持拡張するために、航海技術の発達に』合わせ、『アジア、アメリカなど世界各地に宣教師を派遣した。このような背景により』、『東アジアにもその活動が広がっていた』。彼は一六四一年九月にイエズス会に入会し、一六五七年、『マルティーノ・マルティーニ(Martino Martini)とともに中国に向かい』、一六五八年、『マカオから清に入り、南懐仁(ナン・ファイレン)を名乗って山西省で布教活動を行った』。一六六〇年には『北京へ移り、欽天監副(天文台副長)として欽天監正(天文台長)』となっていたドイツのイエズス会士で科学者でもあったヨハン・アダム・シャール・フォン・ベル(Johann Adam Schall von Bell 一五九二年~一六六六年:中国名:湯若望)を補佐し、『天球儀なども製作した』が、一六六四年から一六六五年にかけて『カトリックを嫌う守旧派官吏の湯光先らにより、アダム・シャールとともに入獄させられ』た。しかし、『湯光先は暦法改定を行っていたが、これを完結できず失脚し、フェルビーストがこれを任され、中国の太陰暦とヨーロッパの太陽暦を比較し』、一六六八年に『中国の天文暦法を改定した』。一六七三年から一六八八年まで『欽天監正となり、シャールの後を継いだ』。一六七四年の三藩(さんぱん)の乱(清の第四代康熙帝の治世の一六七三年に起こった漢人武将による反乱)では『大砲を製作した。また、工部侍郎までなった。満洲語も習得しており康熙帝から信頼を置かれ、天文学・数学・地理学なども満洲語で講義した』。『フェルビーストは北京で亡くなり』、『マテオ・リッチらの眠るそばに埋葬された』とある。

「坤輿図説」フェルビーストが一六七二年に刊行した、当時のヨーロッパ技術による世界地図。これは清とロシアとの国境制定へも影響を与えた。

「倉皇」(そうこう)は「慌てて」の意(形容動詞語幹)。

Nar Hhal(ナル ウワル)(死白の 鯨)」「ナル ウワル」は「Nar Hhal」のルビ、「(死白の 鯨)」は本文。

「一角魚(ウニコール)」「ウニコール」は「一角魚」のルビ。

「『和漢三才図会』に、オランダ人は小便する時片足を挙げてすること犬のごとし、とある」私は原本影印も訳本も所持しているが、未だこれがどこに載っているのか、提示出来ない。発見し次第、追記する。

「むかしギリシアに、座敷が奇麗で唾をはく所なしとて主人の顔に唾吐きしものあり。主人これを咎むると、汝の驕傲(きょうごう)を懲らすといえり。その時主人、汝みずからそのわれよりも驕傲なるに気づかざるかといえり」出所不詳。識者の御教授を乞う。

「気死」(きし)は憤死すること。或いは、怒りのあまり、気絶すること。

「『方丈記』を共訳せり」サイト「南方熊楠のキャラメル箱」のこちらで、その英訳が読める。

『皇立亜細亜協会(ロヤル・アジアチック・ソサイエチー)雑誌』The Journal of the Royal Asiatic Society

A Japanese Thoreau of the 12th Century, byクマグス・ミナカタ」「Thoreau」はアメリカの作家で詩人・博物学者でもあった、かのヘンリー・デイヴィッド・ソロー(Henry David Thoreau 一八一七年~一八六二年)である。鴨長明を「十二世紀の日本のソロー」と訳したのもアジだねえ!(鴨長明は久寿二(一一五五)年生まれで建保四(一二一六)年に亡くなっており、「方丈記」は建暦二(一二一二)年成立で、十二世紀の、冠するのはごく自然である)。

 以下の二段落は底本では全体が二字下げ。]

前年遠州に『方丈記』専門の学者あり。その異本写本はもとより、いかなる断紙でも『方丈記』に関するものはみな集めたり。この人小生に書をおくりて件(くだん)の『亜細亜(アジア)協会雑誌』に出でたる『方丈記』は夏目漱石の訳と聞くが、果たして小生らの訳なりやと問わる。よって小生とジキンスの訳たる由を明答し、万国袖珍文庫本の寸法から出板年記、出板会社の名を答えおきぬ。またこの人の手より出でしにや、『日本及日本人』に漱石の伝を書いて、その訳するところの『方丈記』はロンドンの『亜細亜協会雑誌』に出づ、とありし。大正十一年小生上京中、政教社の三田村鳶魚(えんぎょ)氏来訪されしおり、現物を示して正誤せしめたり。大毎社へ聞き合わせしに、漱石の訳本は未刊にて、氏死するとき筐底に留めありし、と。小生は決して漱石氏が生前かかる法螺を吹きたりとは思わざるも、わが邦人が今少しく海外における邦人の動作に注意されたきことなり。

ついでに申す、むかし寛永中台湾のオランダ人が日本商船を抄掠(りょうりゃく)して、はなはだ不都合の行為をなせしことあり。長崎の浜田弥兵衛、かの商船の持主末次茂房に頼まれ行きて、オランダ人を生け捕って帰り大功名せしことあり。平田篤胤の『伊吹おろし』その他の日本書にはただただ浜田氏が猛勇でこの成功ありしよう称揚して措(お)かざれども、実は当時この風聞ペルシア辺まで聞こえ、仏人当時ペルシアでこの話を聞いて賞讃して長文を書き留めたるを見るに、浜田氏のそのときの挙動所置一々条理あり、実に何国の人も難の打ちどころなかりし美事なるやり方なりしと見え候。今日の米人なども無茶な人ばかりのようなれども、実は道理の前には心を空しうして帰服するの美風あり。これに対する者、例の日本男児など独讃的の自慢でなく、いずれの国にても通ずるような公然たる道理を述べ筋道を立てられたきことなり。

[やぶちゃん注:「遠州に『方丈記』専門の学者あり」「南方熊楠コレクション」の注によれば、『簗瀬一雄を指すか』とある。簗瀬一雄(明治四五(一九一二)年~平成二〇(二〇〇八)年)は国文学者。東京生まれ。早稲田大学卒業。昭和三五(一九六〇)年に「俊恵及び長明の研究」で法政大学文学博士となった。豊田工業高等専門学校教授から豊橋技術科学大学教授となって定年退官後、同大名誉教授。昭和三四(一九五九)年から謄写版で「碧冲洞叢書」として未刊古典の翻刻を百冊も続けた(ウィキの「簗瀬一雄」に拠る。リンク先を見ると、鴨長明関連の研究書の著作物が多い)。

「大毎社」「だいまいしゃ」。大阪毎日新聞社の略。

「寛永中台湾のオランダ人が日本商船を抄掠(りょうりゃく)して、はなはだ不都合の行為をなせしことあり」「台湾(タイオワン)事件」別名「ノイツ事件」。これは寛永五(一六二八)年に長崎代官末次平蔵とオランダ領台湾行政長官ピーテル・ノイツ(Pieter Nuyts)との間で起きた紛争。ウィキの「タイオワン事件によれば、『朱印船貿易が行われていた江戸時代初期、明(中国)は朱元璋以来冊封された国としか貿易を行なっていなかった上に朝鮮の役による影響により日本商船はほぼ中国本土に寄港することはできなかった。そのために中継ぎ貿易として主な寄港地はアユタヤ(タイ)やトンキン(ベトナム)などがあり、また台湾島南部には昔から明(中国)や日本の船などが寄航する港が存在した』。『当時、日本、ポルトガル王国(ポルトガル)、ネーデルラント連邦共和国(オランダ)、イギリス第一帝国(イギリス)の商人が日本貿易や東洋の貿易の主導権争いを過熱させる時代でもあり』、一六二二年には明の『マカオにあるポルトガル王国居留地をネーデルラント』が攻撃したが、敗退、そこでオランダは『対策として台湾の澎湖諸島を占領し』、『要塞を築いてポルトガルに備えた。このことに明(中国)は大陸から近い事を理由に澎湖諸島の要塞を放棄することを要請し無主の島である台湾から貿易をすることを求めたため』、二年後の一六二四年(寛永元年)』、『ネーデルラント(オランダ)は台湾島を占領、熱蘭遮(ゼーランディア)城を築いて台南の安平をタイオワンと呼び始める。オランダはタイオワンに寄港する外国船に』十%の『関税をかけることとした。中国商人はこれを受け入れたが』、浜田弥兵衛(生没年未詳:長崎代官で朱印船貿易商の一人でもあった博多の商人末次平蔵政直(すえつぐへいぞう 天文一五(一五四六)年)頃~寛永七(一六三〇)年)の配下の朱印船船長)ら『日本の商人達はこれを拒否した。これに対し、オランダはピーテル・ノイツを台湾行政長官に任命し』、一六二七年(寛永四年)、『将軍徳川家光との拝謁・幕府との交渉を求め』て『江戸に向かわせた』。『ノイツの動きを知った末次平蔵も行動に出』同年、『浜田弥兵衛が台湾島から日本に向けて』十六『人の台湾先住民を連れて帰国。彼らは台湾全土を将軍に捧げるためにやって来た「高山国からの使節団」だと言い、将軍徳川家光に拝謁する許可を求めた。しかし当時の台湾は流行り病が激しく皆一様に疱瘡を患っていたため』、『理加という者のみを代表として拝謁させ、残りは庭に通すのみの待遇となった。彼らはあまりにも汚れていたため、城の者から』二『度と連れて来ないようにと言われたという話もあり』、『具体的な話が進められたわけではなく、遠路から労いも含め皆、将軍家光から贈り物を授か』って、一旦、『帰国の途に着いた。しかしながら、結果としてノイツの家光への拝謁を阻止することに成功し、ノイツは何の成果もなく台湾に戻った』。一六二八年六月(寛永五年五月)『タイオワン(台南・安平)のノイツは平蔵の動きに危機感を強め、帰国した先住民達を全員捕らえて贈り物を取り上げ監禁、浜田弥兵衛の船も渡航を禁止して武器を取り上げる措置に出た。この措置に弥兵衛は激しく抗議したが』、『それを拒否し続けるノイツに対し』、『弥兵衛は、終に隙をついてノイツを組み伏せ』、『人質にとる実力行使に出た』。『驚いたオランダ東インド会社は弥兵衛らを包囲するも』、『人質がいるため手が出せず、しばらく弥兵衛たちとオランダ東インド会社の睨み合いが続いた。しかしその後の交渉で互いに』五『人ずつ人質を出しあい』、『互いの船に乗せて長崎に行き、長崎の港に着いたら互いの人質を交換することで同意、一路長崎に向けて船を出した。無事に長崎に着くと』、『オランダ側は日本の人質を解放、オランダ側の人質の返還を求めた。ところが、長崎で迎えた代官末次平蔵らは』、『そのままオランダ人達を拘束、大牢に監禁して平戸オランダ商館を閉鎖してしまう』。『この事態に対応したのはオランダ領東インド総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーン』で、『状況把握のためバタヴィア装備主任ウィルレム・ヤンセンを特使として日本に派遣したが、平戸藩主松浦隆信と末次平蔵はヤンセンが江戸幕府』第三『代将軍徳川家光に会うため』に『江戸へ行くことを許さず、将軍家光の名を騙った返書を作成してヤンセンに渡した。その内容というのは主に、「先住民を捕らえ、日本人の帰国を妨害したことは遺憾である。代償としてタイオワンの熱蘭遮(ゼーランディア)城を明け渡すこと。受け入れれば』、『将軍はポルトガルを憎んでいるので』、『オランダが貿易を独占できるように取り計らう」というもので』、『ヤンセンは将軍に会えないまま』、『バタヴィアにこの返書を持ち帰った』。『しかしヤンセンがバタヴィアに戻ると総督クーンは病死しており、彼を迎えたのは新なオランダ領東インド総督であり、かつて平戸オランダ商館で商館長(カピタン)を勤めていたヤックス・スペックスだった。長年』、『日本で暮らし日本と日本人を研究していたスペックスは、これが偽書であることをすぐさま見抜き』、『ヤンセンを再び日本に派遣した』。『以後の具体的な内容を記録するものは日本側に残されていない。長崎通詞貞方利右衛門がオランダ側に語ったのは「平蔵は近いうちに死ぬだろう。」というもので、末次平蔵はこの後、獄中で謎の死を遂げている。当時の日本は鎖国体制に入ろうと外国との揉め事を極力嫌っていたうえ、オランダ側の記録には将軍が閣老達に貿易に関わる事を禁じていたが』、『閣老は平蔵に投資をして裏で利益を得ていたため』、『切り捨てられたらしいことが噂されているなどの記述がある』。『オランダは「この事件は経験の浅いノイツの対応が原因であるため』、『オランダ人を解放してさえくれれば良い」とし、ノイツを解雇し』、『日本に人質として差し出した。日本側は、オランダ側から何らかの要求があることを危惧していたが、この対応に安堵し、これが後に鎖国体制を築いた時にオランダにのみ貿易を許す一因ともなった。なお、ノイツは』一六三二年から一六三六年まで日本に抑留された。寛永一三(一六三六)年、『ニコラス・クーケバッケルの代理として参府したフランソワ・カロンは』、将軍家光に拝謁し、『銅製の灯架を献上。家光はこれを非常に気に入って』、『返礼として銀』三百『枚を贈った。この時、以前より平戸藩主からノイツの釈放に力を貸すよう頼まれていた老中の酒井忠勝が』、『ノイツの釈放を願うと』、『すぐに許可された。カロンが献上した灯架(燈籠)は、その後日光東照宮に飾られ、今も同所に置かれている』。寛永九(一六三二)年、『閉鎖されていた平戸オランダ商館は再開』し、寛永一一(一六三四)年には『日本人が台湾に渡ることは正式に禁止され、その後は鄭氏政権が誕生するまでネーデルラント(オランダ)が台湾を統治し』た、とある。

「末次茂房」これは南方熊楠の誤り。茂房は第三長崎代官となった政直の子の名である。彼もまた「平蔵」を名乗っていたことによる誤認と思われる。

「平田篤胤の『伊吹おろし』」「伊吹於呂志(いぶきおろし)」(他の漢字表記もある。彼の号にも「気吹舎(いぶきのや)」がある)。神道家で国学者の平田篤胤(安永五(一七七六)年~天保一四(一八四三)年)の講説を門人が筆記したもの。刊行年不詳。]

譚海 卷之二 河豚の油燈に用る事

 

河豚の油燈に用る事

○營中寢殿の燈火は、河豚(ふぐ)の油を用(もちゐ)ると也。ふぐの油はよく凝結するゆゑ、地震(なゐ)にもゆりこぼす事なし、市中に來る河豚のはらわたなきは、その膏油(あぶら)を絞り取(とる)爲(ため)にて拔取(ぬきとり)てこすゆゑ也。房總の海邊り毎日油二升を供すといへり。

[やぶちゃん注:内臓がないのは、単に有毒な内臓を除去してただけだけだろう、などと思い込んでいたところが、ブログ「書店」に『江戸時代、上流階級や宮中で行灯の油に河豚の脂が使われました』。『河豚の油は臭いが少なかった為に利用されたようです』とあった!

「營中寢殿」江戸城内の将軍の寝室。

「膏油(あぶら)」私は二字で「あぶら」と訓じたい。]

譚海 卷之二 因州山中の民鷄を飼ひ鷄卵を鬻ぎ生計とする事

 

因州山中の民鷄を飼ひ鷄卵を鬻ぎ生計とする事

○因幡國(いなばのくに)は巖邑(いはむら)にして生穀(しやうこく)の地至(いたつ)て少(すくな)し、山中の民は、家ごとに鷄雌雄數萬を飼(かひ)てその卵をとり、大坂へ鬻(ひさぎ)て生計(たつき)とする也。鷄に飼ふに五穀を用ひず、わらこもの濕地に置(おき)、久しくして蟲生ずるをとりて、鷄を飼ふ也。

[やぶちゃん注:標題の「鬻ぎ」は「ひさぎ」。「生計」は「たつき」と訓じたい。

「因幡國」現在の鳥取県東部。

「巖邑」岩多く、肥えた土の地面の少ない村落。

「生穀の地」主食にする穀類を生産する土地。

「數萬」「萬」は原典の誤字か、或いは失礼乍ら、底本の誤植であろう。「家ごと」に数万羽は飼えぬ! 思うに「番(つがひ)」辺りではあるまいか?

「わらこもの」「藁子物」か。藁のようなもの。]

譚海 卷之二 飛州笹魚の事

 

飛州笹魚の事

○飛驒國に笹魚(ささうを)といふもの有(あり)、竹に實(み)の如きもの細長く出來(いできた)る形そのまゝの魚也。水邊の竹に生じたる實は、水に落(おち)て年をふれば生化(しやうげ)して魚となり、流(ながれ)に遡るといふ。明和五年友人今井氏持參したるを見るに、竹に付たる實よく魚のかたちに似たり。

[やぶちゃん注:これは尋常な竹や笹の実ではなく、竹・笹類に生じた虫癭(ちゅうえい・虫瘤(むしこぶ)・英語gall(ゴール))である。恐らくは、有翅昆虫亜綱新翅下綱内翅上目双翅(ハエ)目長角亜目ケバエ下目キノコバエ上科タマバエ科ササウオタマバエ(笹魚玉蠅)Hasegawaia sasacola の幼虫が形成するそれである。ササ類の側芽に長さ四~四十センチメートルにも及ぶ筍(たけのこ)に似た虫癭を作る。平凡社の「世界大百科事典」によれば、この虫癭は江戸時代から笹魚として知られており、この「笹魚」にはひとりでに谷川に落ちて岩魚(いわな)となるとする伝説があり、橘南谿の「東遊記」や木村蒹葭堂の「蒹葭堂雑録」などにもその記述が見られ、また、飛騨国第七代代官であった長谷川忠崇はこの伝説に疑問を持ち、その構造を調べ、骨も肉もなく焼いても魚の臭気のないことを確かめた上で『是れ竹の病ならん』と「飛州志」(延享二(一七四五)年頃成立)の中に記している、とある。yoas23氏のブログ「四季彩日記」の笹魚(ささうお)の写真が凄い(気持ち悪くはないが、インパクトは強いのでクリックは自己責任で)。これなら水に入って魚となるというのは、頗る腑に落ちるわい! 他に、サイト「北海道の虫えい(虫こぶ)図鑑」のササウオフシページは学術記載もしっかりしており、何より、驚かずに済む写真があるので、まずはこちらの閲覧をお薦めする。ホンマ! これは筍でんがな!

「明和五年」一七六八年。]

譚海 卷之二 遠州海木幷天狗火の事

 

遠州海木幷天狗火の事

○遠州邊に天狗火(てんぐび)と云ものあり。土人是に逢(あふ)時は甚(はなはだ)恐怖叩頭俯伏(ふふく)して、あへてみる事なし。遠方に現ずれども、人一度呼(よぶ)時はたちまち眼前へ飛來(とびきた)る。此(この)火にあふものおほく病惱(びやうなう)すと云(いふ)。又同所さがら等の海邊には、時々異材奇木を漂着し來(きた)る事有(あり)。相良(さがら)の名主某が座敷は、黑檀(こくたん)の樹を床(とこ)の柱にしたり、漂着の物成(ある)由をいへり。

[やぶちゃん注:標題「海木」は「かいぼく」と読んでおく。

「天狗火」ウィキの「天狗火」より引く。『神奈川県、山梨県、静岡県、愛知県に伝わる怪火』で、『主に水辺に現れる赤みを帯びた怪火。その名が示すように、天狗が超能力によってもたらす怪異現象のひとつとされ』、『神奈川県や山梨県では川天狗の仕業とされる』。『夜間に山から川へ降りて来て、川魚を捕まえて帰るとも、山の森の中を飛び回るともいう』。『人がこの火に遭遇すると、必ず病気になってしまうといわれている。そのため土地の者はこの火を恐れており、出遭ってしまったときは、即座に地面にひれ伏して天狗火を目にしないようにするか、もしくは頭の上に草履や草鞋を乗せることでこの怪異を避けられるという』。『遠州(静岡県西部)に現れる天狗火は、提灯ほどの大きさの火となって山から現れ、数百個にも分裂して宙を舞うと言われ、天狗の漁撈(てんぐのぎょろう)とも呼ばれている』(下線やぶちゃん)。『愛知県豊明市には上記のように人に害をなす伝承と異なり、天狗火が人を助けたという民話がある。昔、尾張国(現・同県)東部のある村で、日照り続きで田の水が枯れそうなとき、川から田へ水を引くための水口を夜中にこっそり開け、自分の田だけ水を得る者がよくいた。村人たちが見回りを始めたところ、ある晩から炎の中に天狗の顔の浮かんだ天狗火が現れ、水口を明るく照らして様子をよく見せてくれるようになった。水口を開けようとする者もこの火を見ると、良心が咎めるのか、明るく照らされては悪事はできないと思ってか、水口を開けるのを思い留まるようになり、水争いは次第になくなったという』。また、『同県春日井市の民話では、ある村人が山中で雷雨に遭い、身動きできずに木の下で震え上がっていたところ、どこからか天狗火が現れ、おかげで暖をとることができた上、道に迷うことなく帰ることができたという』 。『しかしこの村では天狗火が見える夜に外に出ると、その者を山へ連れ去ってしまうという伝承もあり、ある向こう見ずな男が「連れて行けるものならやってみろ」とばかりに天狗火に立ち向かったところ、黒くて大きな何かがその男を捕まえ、山の彼方へ飛び去っていったという』とある。

「さがら」「相良」現在の静岡県牧之原市相良町(さがらちょう)。(グーグル・マップ・データ)。

「黑檀」ツツジ目カキノキ科カキノキ属 Diospyros に属する熱帯性常緑高木の数種に与えられている総称。インド・スリランカなどの南アジアからアフリカに広く分布する。本黒檀(セイロン・エボニー/イースト・インディアン・エボニー)Diospyros ebenum が最も知られる最高級種で、インドやスリランカを原産とする。他にインドネシア原産の縞黒檀(マカッサル・エボニー/カリマンタン・エボニー)Diospyros celebica・ラオスなどの東南アジア原産の斑入(ふいり)黒檀(ブラック・アンド・ホワイト・エボニー/ペール・ムーン・エボニー)Diospyros malabarica・ラオスやベトナムなどの東南アジア原産の青黒檀(ムン・エボニー/ブラック・アンド・ホワイト・エボニー)Diospyros mun などがある。]

譚海 卷之二 相州大山瀑布の事

 

相州大山瀑布の事

○相模國酒匂(さかは)の川上を、半里斗りのぼりて大山を望(のぞむ)時は、遙に嶮岨より落(おつ)る瀑布あり。木(こ)の間に隱れてたしかに見わからね共(ども)、甚(はなはだ)大(おほき)なる瀧なり、那智の瀧に亞(つ)ぐほどのもの也。子安(こやす)より登る路に有(ある)大瀧とは別のもの也、蝮蝎(うはばみ)おほき所にして至りがたし、只(ただ)冬月春初の際行(ゆき)てみる也。さかはより二里餘有(あり)と云(いひ)、大山のうしろにつきたる瀧也。

[やぶちゃん注:「相州大山瀑布」現在の大山阿夫利(あふり)神社の背後にある二重滝のことであろう。落差は十六メートル。「那智の瀧」は落差百三十三メートルにも達するものであり、ここのそれに次ぐという謂いはトンデモない誇大広告である。津村、神社から金でも貰ったか?

「子安」旧子安村。現在の大山阿夫利神社の参拝道の手前に当たる伊勢原市子易。

「子安より登る路に有大瀧」参道を登る最初に現われる「愛宕滝(あたごたき)」のことか。現行のそれは五メートルほどしかなく、「大瀧」では毛頭、ない。]

譚海 卷之二 志摩國風俗の事

 

志摩國風俗の事

○志摩國の俗に、其人死すれば、第七々日(だいなななぬか)に至り、山伏を招じ法事の法事をなし、座敷に土を築(きづき)て山形を造り、松杉どの枝を折(をり)て山へ挿みおきて、呪誦勤行(じゆじゆごんぎやう)終れば、一家の男女(なんによ)集りて、その松杉の枝をぬきとり、六道所生(ろくだうしよせい)の驗(しるし)となし、生天畜生(しやうてんちくしやう)などの果(くわ)をうらなふ事なり。其後絶(たえ)て年忌佛事等を修(しゆ)する事なしとぞ。

[やぶちゃん注:「第七々日」四十九日。

「六道所生の驗」六道に生まれ変わることのシンボル。

「生天畜生などの果」六道の三善道たる「修羅・人間(じんかん)・天上」界に仏果によって生まれ変わったか、或いは三悪道たる「畜生・餓鬼・地獄」界に応報によって堕したかを占うという意味であろう。]

譚海 卷之二 和州春日神官葬禮の事

 

和州春日神官葬禮の事

○和州春日の社の神主等卒去の時は、先(まづ)仲間にて神道の祭儀をもちて葬送の禮をなして、其後其人所持の扇子を興福寺へおくれば、興福寺にて此扇子をうづめ、葬禮を修し戒名を書(かき)て來(く)る。因て春日の神主の墓碑には、神道の位記と佛家の戒名を合せ誌(し)するゆゑ、名字甚(はなはだ)長く書(かか)るゝ事也。

[やぶちゃん注:「和州春日の社」現在の奈良県奈良市春日野町(かすがのちょう)にある春日大社。ウィキの「春日大社によれば、社伝では神護景雲二(七六八)年に『藤原永手が鹿島の武甕槌命』(たけみかずちのみこと)及び、現在の千葉県香取市香取の香取神宮の経津主命(ふつぬしのみこと)と、現在の大阪府東大阪市出雲井町にある枚岡(ひらおか)神社に『祀られていた天児屋根命』(あめのこやねのみこと)と比売神(みめがみ)を併せて、御蓋山(みかさやま)の麓に『四殿の社殿を造営したのをもって創祀としている。ただし、近年の境内の発掘調査により、神護景雲以前よりこの地で祭祀が行われていた可能性も出てきている』とあり、また、『藤原氏の氏神・氏寺の関係から興福寺』(藤原鎌足夫人の鏡大王が夫の病気平癒を願って鎌足発願(ほつがん)の釈迦三尊像を本尊として天智天皇八(六六九)年に山背国山階(現在の京都府京都市山科区)に創建した山階寺(やましなでら)を起源とする、現在の奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある法相宗寺院)『との関係が深く』、弘仁四(八一三)年、『藤原冬嗣が興福寺南円堂を建立した際、その本尊の不空絹索観音が、当社の祭神・武甕槌命の本地仏とされた。神仏習合が進むにつれ、春日大社と興福寺は一体のものとなっていった』。十一世紀末からは『興福寺衆徒らによる強訴がたびたび行われるようになったが、その手段として、春日大社の神霊を移した榊の木(神木)を奉じて上洛する「神木動座」があった』とある(下線やぶちゃん)。]

譚海 卷之二 泉州信太社幷葛の葉の事

 

泉州信太社幷葛の葉の事

泉國信太(しのだ)の森の葛の葉は裏に白き斑文あり、土俗此をうらみくずのはと稱す。又信太の神社の神主を世々長者と稱し來(きた)る由、明和年中その別當と諍論(じやうろん)の公事(くじ)ありし時、その人ものかたり也。

[やぶちゃん注:「泉州信太社」現在の大阪府和泉市葛の葉町(ちょう)にある信太森葛葉(しのだのもりくずのは)稲荷神社。ウィキの「信太森葛葉稲荷神社」によれば、『信太森は、奈良時代の和銅元年』(七〇八年)『旧二月初午の日に元明天皇が楠の神木の化身である白龍に対して祭事を行ったことを縁起としており、信太森神社はその神木を御神体とした神社として建立された』。『平安時代の中頃、冤罪で罷免された安倍保名(あべのやすな)が家名復興を祈願した帰り、猟師に追われた白狐をかくまった。そのため負傷したことが縁で白狐の化身である葛の葉(くずのは)と結ばれ、童子丸(後の安倍晴明)を授かる。葛の葉は我が子に正体を悟られ、悲しい別れとなったが、晴明は天皇の病気を治して出世し、保名の無実の罪を晴らして見事家の再興を果たした。この御利益により、信太森神社は信太森葛葉稲荷神社として知られることになった』とある。「葛の葉」伝説については、ウィキの「葛の葉」などを参照されたい。

「裏に白き斑文あり」マメ目マメ科マメ亜科インゲンマメ連ダイズ亜連クズ属クズ Pueraria lobata の葉の裏はこの信太の森の葛に限らず、裏は白い毛が密生しており、白っぽい。その葛の葉が風に吹かれて白い「裏」を「見」せる情景から、「うらみ」で「恨み」のとなり、本伝承の異類婚姻譚と子別れの情愛の「恨み」へと結びつけられた。

「世々」「だいだい」と一般名詞で読んでおく。

「長者」この呼称は現在は行われていない模様である。

「明和年中」一七六四年から一七七一年。第十代将軍徳川家治の治世。]

甲子夜話卷之四 1 薩摩の榮翁俠氣、越侯これを懼るゝ事

 

甲子夜話四

 

 

4-1 薩摩の榮翁俠氣、越侯これを懼るゝ事

松平榮翁【薩摩老侯、名重豪】人となり豪氣あり。一日ある席にて越侯と相會し、何か興に乘じて榮翁云は、若今一戰に及ん時あらば、我軍卒を率ひ、一方を指揮せば、人に後は見せじ、と威猛だかになつて云はれければ、越侯甚恐怖して、潛に餘人に向ひ、彼人は重て相會する人に非ずと云ける。坐客指て越侯の怯儒を笑しとなり。今の武家は此類の人多かるべし。

■やぶちゃんの呟き

「薩摩の榮翁」「松平榮翁【薩摩老侯、名重豪】」薩摩藩第八代藩主で「蘭癖大名」の島津重豪(しげひで 延享二(一七四五)年~天保四(一八三三)年)。第十一代将軍徳川家斉正室広大院の実父。「榮翁」は号。詳しくはウィキの「島津重豪」などを参照されたい。

「越侯」不詳。加賀藩藩主を指しているのであれば、同時代の藩主は第十代藩主前田治脩(はるなが 延享二(一七四五)年~文化七(一八一〇)年)ではある。

「若」「もし」。

「彼人は重て」「かのひとはかさねて」。

「指て」「さして」。

「怯懦」「けふだ(きょうだ)」。臆病で気が弱いこと。意気地(いくじ)のないこと。

 

改版「風は草木にささやいた」異同検証始動(その1・装幀その他)

 

風は草木

にささや

いた

 

[やぶちゃん注:表紙カバー。以下、装幀は早稲田大学図書館蔵本画像で確認した。元版(このリンク先は私の元版の『詩集「風は草木にささやいた」始動 / 序詩「人間の勝利」・自序・穀物の種子』の一括電子化である)とはかなり異なる。濃い橙色で印字。改行はママ。元版詩集には特装と並装があるが、私が元版電子化で依拠した同じ早稲田大学図書館蔵本初版詩集画像(特装か並装かの区別は私には出来ない)では少なくともカバーはない。]

 

 

山村暮鳥詩集・風は草木にささやいた   イデア書院

 

[やぶちゃん注:表紙カバーの背。表紙と同色で縦に印字。最下部に「イデア書院」を同色で右から左に横書き。]

風は草木

にささや

いた

 

[やぶちゃん注:本体表紙。緑の濃い黄緑色の下地(背部分からの入り込みは白)の、左上部に凹版(彫り抜き)で下地は見た目、銀色を呈する。]

 

 

山村暮鳥詩集・風は草木にささやいた   イデア書院

 

[やぶちゃん注:本体の背。白地。最下部に「イデア書院」を右から左に横書き。元版は「POEMESYAMAMURAであった。]

 

 

 

山村暮鳥詩集  イデア書院

 

草木にささやいた

 

[やぶちゃん注:扉一(左)。草の実のついた穂が右に配され、その左に緑色の縦罫が入って上記が縦書き。総標題の平仮名分のポイント落ちの右寄せはママ。元版詩集にあった「此の書を祖國のひとびとにおくる」という大上段に振りかぶった献辞は存在しない。]

 

 

  なんぢはなんぢの面に汗して生くべし

 

 

[やぶちゃん注:扉二(左)。元版詩集にあった「Mon P ê re」という献辞と、父の写真は存在しない元版ポイントなんぢはなんぢの面に改行二行表示ていが、こちらでは中央に一行表示でポイントの詩の標題と同じ大きさである。]

 

 

[やぶちゃん注:ここに詩「人間の勝利が入るが、異同はない(「ほほゑんでたほれろ」の「たほれろ」はここでもママである)。]

 

 

[やぶちゃん注:ここにあった元版の「自序」がカットされて、代わりに先に電子化して示した――」が入る(その後に目次が続くが、省略する)。]

2017/04/18

譚海 卷之二 角力・儒者・講釋師・諸藝の師匠等の徒口論上訴に及ぶ時むづかしき事

 

角力・儒者・講釋師・諸藝の師匠等の徒口論上訴に及ぶ時むづかしき事

○角力(すまひ)・儒者・講釋師、諸藝の師匠等、都(すべ)て四民の外(ほか)無商賣にて遊食の徒(と)は、何ぞ口論上訴等に及(およぶ)事あるときは、上(うえ)の御さばき甚(はなはだ)むづかしきもの也と、ある人のかたりし。

[やぶちゃん注:この「むづかし」は「面倒である・厄介である」の謂いであろう。ここに出る者の内、芸能者(辻相撲師・講釈師・諸芸の師匠連・四民から外れた無商売の遊食の徒(輩(やから))は、ある意味、どちらかというと、風狂の世界に遊んだり、ホカイビトの血を引く被差別者に近いグループであったが故に、彼らがいざこざを起こしたり、公訴に及んだりすると、常法や判例法で簡単にケリをつけることが逆に難しいのであろう。前の「遊女屋郭内にて家屋敷買調へがたき掟の事」を受けての一条と読める。さすれば、やはり、前の条の奉行所の十把一絡げの證文処理は、そうした「むづかし」いことをなるべく事前に防ぐ目的、戦略だったのだと読めるように思われるのである。また、「儒者」「講釋師」「諸藝の師匠」は前の私の謂いとは別に、役人もたじたじになるほどに弁舌や屁理屈や揚げ足取りがまっこと上手そうで、如何にも体制側に安穏として息を吸っている官僚連中が嫌がりそうな手合いではないか。]

譚海 卷之二 遊女屋郭内にて家屋敷買調へがたき掟の事

 

遊女屋郭内にて家屋敷買調へがたき掟の事

○新吉原遊女屋大文字屋市兵衞、安永元年の春類燒にて、翌年夏まで兩國邊にて遊女かせぎ免許有(あり)し時、淺草見付外(そと)代地(だいち)邊(あたり)にて屋敷を買(かひ)別莊に致し居(を)る。同七年の冬、右市兵衞又々神田岩槻町にて、千二百兩に屋敷を買(かひ)候相談極(き)め、手付金二百兩相渡(あひわた)し、賣主より名主へ相屆候處、名主益田又右衞門承知不ㇾ致(いたさず)、是迄支配の内(うち)地主に遊女屋無ㇾ之(これなき)間(あひだ)、相成(あひなる)まじく申候ゆゑ、賣主市兵衞へ斷申(ことはりまうし)、金子相返(あひかへし)候半(さふらはん)と申せし時、市兵衞承引不ㇾ致、已に前年淺草に於て地面相調(あひととのへ)候拙者事に候處、何の障り有ㇾ之候て此度(このたび)不相成候哉(あひならずさふらふや)、右の次第届度(とどけたし)と六箇敷(むつかしく)申懸(まうしかけ)、公訴に及候處、御裁許には遊女屋と申候者は四民の下にて、穢多(ゑた)に准(じゆん)じ候者に有ㇾ之候處分限を不ㇾ存(ぞんぜず)御城外(ごじやうがい)ちかくまで家屋敷相調候などと申事、甚(はなはだ)不屆至極に候由、もし分限をはばかり、外(ほか)の名目にて相調候などと申事は、其分にも候へ共、遊女屋の名目を以(もつて)御郭(おしろ)近くにて地面買候事は決して相成難きよし、急度(きつと)叱被ㇾ遊(しかりあそばされ)候に付、市兵衞誤入(あやまりい)り下(さ)げ被ㇾ下(くだされ)候樣に奉ㇾ願候處、御承引無ㇾ之(これなく)、市兵衞並(ならび)に吉原名主どもより、以後御郭近くにて、吉原の者地面相調させ申間敷(まうすまじく)候旨(むね)御證文指上(さしあげ)、市兵衞儀は誤(あやまり)證文指上出入(でいり)相濟(あひすみ)候。右の節江戸惣名主共へも、吉原の者へ見付内にて地面商賣させ申まじく被仰渡候(おほせたされさふらふ)。

[やぶちゃん注:標題の読みは『「家屋敷」(いへやしき)「買」(かひ)「調へがたき掟」(おきて)』であろう。

「安永元年」一七七二年。旧暦の同年一月一日はグレゴリオ暦では二月四日。

「淺草見付外(がい)代地(だいち)」代地(だいち)とは、江戸幕府が江戸市中に於いて強制的に収用した土地の代替地として市中に与えた土地のこと。明暦の大火(明暦三(一六五七)年一月発生)以後は火除地(ひよけち)の設置などの防災上の理由などによって行われた。ここもそれであろう(以上はウィキの「代地に拠った)。

「神田岩槻町」不詳。ここが問題のある場所、即ち、そこが江戸城外でも江戸城にごく近くであったことが、この地下文書の核心であるので、是非、識者の御教授を乞うものである。

「もし分限をはばかり、外(ほか)の名目にて相調候などと申事は、其分にも候へ共」面白い。公儀がそんな抜け道を口にしてしまっていいものか?

「叱(しかり)」は庶民に科した最も軽い刑の呼称。奉行が白州に呼び出し、その罪を叱るだけに留めたものを指す。

「誤入(あやまりい)り」底本では「誤」の右に編者による『(謝)』という訂正注が附されてある。自分が不当に扱われて契約破棄されたと訴え出たのに、逆に処罰されるというので、青くなったのである。そこで直ちに訴えを「下(さ)げ被ㇾ下(くだされ)候樣に奉ㇾ願」ったと続くのである。

「御承引無ㇾ之(これなく)」主語は奉行所である。

「市兵衞並(ならび)に吉原名主どもより」「より」が不審。彼らに対して、の謂いであるが、格助詞「より」にはそうした用法はない。

「指上(さしあげ)」差し上げさせ。後も同じで、奉行所が證文で以って十把一絡げに遊廓関連の者たちから言質(げんち)をとったのである。これが実は奉行所の狙いだったのではないか? だから法の抜け穴めいたことも言う余裕があったのである。これによって、彼らは向後、城外近くの土地を如何なる目的でも購入することは出来なくなってしまったからである。最後の「江戸惣名主」への禁止上意下達もその計略が透けて見える。

「出入(でいり)」訴訟。]

 

甲子夜話卷之三 33 松平肥前守【治茂】、文才の事 / 甲子夜話卷之三~了

 

3-33 松平肥前守【治茂】、文才の事

述齋話る。肥前少將治茂も、近世の國持の内にては見所あり。白川侯當路のとき、世人風靡する中獨り屈せず。間柄なればとて、國元より尺牘を贈て、時事を議す。その氣燄想ふべし。宮中にて營中にて奏者番習禮のとき、一度したるまでにて、再びせずして本席に戾る。因て脇坂淡路守呼返せば、今敷居に手の付たることなるべし。其事は心得て居るなりとて、囘顧もせず引退たり。又昌平の聖廟拜詣のとき、長袴の裾をくゝること出來ず、空しく立て居しかば、見かねて、勤番の史打よりてくゝりたり。これ宮中にては坊主、兩山にては案内僧のくゝれは遂に自身くゝりたること無故なり。しどけ無き所に大家風の體ありき。又寬裕の所あり。家臣ども他行して遲く歸るときは、言を托して溜池邸に行き遲刻せりと云【溜池邸には養母の圓締院住る】〕。それは聞流して咎めず。時として笑ふて云。皆々は溜池と云よき行所あり。我等は行所無しと。又身持に手堅きことどもあり。その中、袴は夜ふけても脱ぐことなし。奧に居ても然り。臥床に入るとき始て袴を脱げり【述齋の妹は肥州の妻なり】〕。かゝる古風なる人も、今は稀なり。此侯、文詩に長じたるは格別のことなり。彼家士古賀彌助【淳風】召出されざる間は、人皆彌助が潤色ならんと評しける。然ども府に召れて後も、文詩少しも降らず。人始て服せり。此侯、始めは、佐嘉の支家鹿嶋二萬石にて勤められ、予が先人政功君と同席にてありしが、後本宗を嗣れたり。故に予も若き頃は懇會して、江城より長崎の地にても、屢行交せり。因て江都に在るときも、予が邸に來られ、祖母夫人と先君のこと申出られて、舊時を語られき。其質厚篤なることなりき。其容體は腰をそらせ、鳩胸にて、足は棹の如く立て步する人なり。因て殿中にても、人其容體はおかしがりたり。又一種の癖あり。手水をせらるゝ時、湯次の水を何遍ともなく替るほど、長く爲られたり。

■やぶちゃんの呟き

「松平肥前守【治茂】」「肥前少將治茂」当初、肥前国鹿島藩第五代藩主、後に肥前国佐賀藩第八代藩主(経緯は後注で示す)であった「佐賀藩中興の祖」と呼ばれる鍋島治茂(延享二(一七四五)年~文化二(一八〇五)年)である。彼は肥前守で左近衛権少将であった。但し、どうも後の人物関係(「養母の圓締院」「述齋の妹は肥州の妻なり」等)が上手く一致しないところがある。識者の御教授を乞うものである。

「述齋」林述斎。

「話る」「かたる」。

「白川侯」松平定信。

「當路」「要路に当たる」の意で、重要な地位についていること。言わずもがな、定信は老中首座で将軍輔佐であった。

「尺牘」「せきとく」。手紙のこと。古来、中国で一尺四方の牘(木の札)を書簡に用いたことに由来し、本邦では狭義には漢文体書簡のみを指した。

「氣燄」「きえん」。「気炎」に同じい。

「脇坂淡路守」播磨龍野藩第八代藩主で龍野藩脇坂家十代で、寺社奉行から老中となった脇坂安董(やすただ 明和四(一七六七)年~天保一二(一八四一)年)であろう。

「今敷居に手の付たることなるべし。其事は心得て居るなり」これは再応の礼として確かに敷居に手をついたのである。それは確かなことだ、と言う謂いであろう。

「囘顧もせず引退たり」底本には「『みかへり』もせず引」(ひき)「『しりぞき』たり」と「昌平」昌平黌。

の聖廟拜詣のとき、長袴の裾をくゝること出來ず、空しく立て居しかば、見かねて、勤番「兩山」徳川家菩提寺の増上寺と寛永寺。

「大家風の體」「たいかふうのてい」。

「他行」「たぎやう」。

「言を托して」ここは「言い訳として」の意で、しかもそれ真っ赤な嘘でわけである。

「養母の圓締院」不詳。

「古賀彌助【淳風】」鍋島治茂に仕えた儒学者古賀精里(こがせいり 寛延三(一七五〇)年~文化一四(一八一七)年)。「淳風」(「あつかぜ」か)は字(あざな)、「彌助」は通称。ウィキの「古賀精里によれば、『佐賀藩士の子として生まれ、京都に遊学して横井小車に朱子学を、西依成斎に山崎闇斎の学を学ぶ。大坂に塾を開き尾藤二洲や頼春水らと親しく交わる。帰藩して藩主・鍋島治茂に仕え』、安永一〇・天明元(一七八一)年に『藩校弘道館が設立されると教授となり、学規と学則を定めてその基礎を確立した』。『闇斎朱子学の教説にもとづいて学問思想の統制をはかり、徂徠学を斥けた』。寛政八(一七九六)年、四十七歳の『時に抜擢されて昌平黌の儒官となり、柴野栗山・尾藤二洲とともに寛政の三博士といわれた。三人はいずれも懐徳堂の中井竹山と親交があり、老中松平定信の寛政の改革に際して、相互に影響を与えたとされる(寛政異学の禁)』。『性格は「厳密寡黙」と頼山陽に評され、精里の詩は学者らしい観念的な詩である』とある。

「召出されざる間は、人皆彌助が潤色ならんと評しける。然ども府に召れて後も、文詩少しも降らず」古賀が昌平黌に召し出されるまでは、彼の文才を藩内の誰彼は実は評価しておらず、古賀の誇大誇張と思っていたが、幕府に招聘されて後も、彼の文才は降(さが)るどころか、いよいよ名声の高まったことを謂うのであろう。

「佐嘉の支家鹿嶋二萬石」佐賀は古くは「佐嘉」の表記が主に使われていた。佐賀鹿島藩は鹿島(現在の佐賀県鹿島市)周辺を領有した佐賀藩の支藩。鍋島治茂は佐賀藩第五代藩主鍋島宗茂の十男で、宝暦九(一七五九)年に第四代鹿島藩主鍋島直郷の養子となり、宝暦一三(一七六三)年に第五代鹿島藩主となったが、明和七(一七七〇)年に主藩の第七代佐賀藩主鍋島重茂が三十八歳で死去、嗣子が無かったため、その跡を継いで、第八代藩主となった経緯がある。

「予が先人政功君」静山の実父松浦政信(享保二〇(一七三五)年~明和八(一七七一)年)のことか。第八代藩主松浦誠信の三男であったが、家督を継ぐことなく、三十七歳で早世した。

「本宗」「ほんそう」。宗主家。自身の出自である佐賀藩主鍋島主家のこと。前注参照。

「嗣れたり」「つがれたり」。

「行交せり」「ゆきかはせり」。

「立て步する」「たててあゆまする」。

「湯次」「ゆつぎ」は「湯桶」(ゆとう)」に同じ。手水(ちょうず:便所)を使った後、手洗いをする際に用いた、ぬるま湯を入れた木製の容器。注ぎ口と柄があり、多くは漆塗りである。それを侍者に注がせて洗うのであるが、それを何杯も継ぎ足しさせるほど、しつこく洗浄したというのである。彼にはやや病的な潔癖症があったものかも知れない。

 

甲子夜話卷之三 32 伊達村侯【遠江守】、人品の事

 

3-32 伊達村侯【遠江守】、人品の事

宇和嶋少將伊達遠江守【村侯】も一種の人物なり。寬政の初、米澤老侯とともに、數年國事に心を用ひしとの特賞を蒙り、恩賜などありし人なり。若き時より、遂にいづ方に臥か知るものなし。其にあるかと思へば、いつか表に居、又表かと思へば、奧に居るやうのことなりしとなり。又は朝早く近侍起出て見れば、夜具も片付てあり。庭を見れば、樹林の蔭など緩步して居るなど云類のことなり。文學など深く窮めしにもあらねど、儒士を貴び、世に名あるものは、延致して懇遇せられき。一日、常に出入の儒士、いつも案内なく近習の詰所へ通ることなれば、その如くに來りしに、一人も見へず。あまり不思議なれば、あちこち見あるく中に、少將出られて案内し、居間へ通さる。自身爐火に茶を煖て出され、或は戸棚より酒肴などとり出し、もてなされける。更に不思議に堪ざりしかば、今日はいかなることよと云しに、芝の御山、火防の命被りて在るが、此節一般流行の風邪に、家臣ども皆感冒して、外向の人員、常數を備ること能はず。よりて近習の者までも、風に冒されざる分をして、皆その缺を補ひ、火防人員を缺くこと無しと云。其官事を重んぜらるゝこと如ㇾ此。一年、國元往來の海中、風濤の變ありしとき、主人に兩三人付添、早船にて逃れしに、本船は破壞して多の人溺死せしことあり。その後參觀交代に、その海を過る每に、舟を留めて、小石百千に一字づゝ法華經を親書して、海底に抛たり。その下を恤の意深きことも亦如ㇾ此。常に酒を好めり。酣なるに及では、興に乘じて紙を展べ、字を作る。書は拙なれども、少しも拘らずして、擘窠書を作らるるを、今も傳る所多し。髮は世に云糸鬢なりき。京紳參向し御大禮ありしとき、かの糸鬢へ糸にて釣りを掛け、冠を着、大橫刀を佩られ、裝束振も聊取繕ふこともなき擧動なりしを、鷹司家見られて、武家の裝束姿と見へて、殊勝なるは、宇和島少將なりと感賞せられしと云。

■やぶちゃんの呟き

「伊達村【遠江守】「宇和嶋少將伊達遠江守【村侯】」伊予国宇和島藩第五代藩主伊達村候(だてむらとき 享保一〇(一七二五)年(或いは享保八年とも)生~寛政六(一七九四)年)。ウィキの「伊達村候によれば、享保二〇(一七三五)年に父の死去により跡を継ぎ、外祖父で前話の主人公伊達宗村の父第五代仙台藩主伊達吉村から偏諱を賜って「村候」と名乗った。しかし、『新たに仙台藩主となっていた伯父の伊達宗村が、本家をないがしろにする行為が不快であるとして、村候を老中堀田正亮に訴える。村候は、宇和島藩伊達家が仙台藩伊達家の「末家」ではなく「別家」であるとして従属関係を否定し、自立性を強めようとしていた。具体的には、前述のように仙台藩主から偏諱を受けた「村候」の名を改めて「政徳」と名乗ったり、「殿様」ではなく仙台藩主と同様の「屋形様」を称したり、仙台藩主への正月の使者を省略したり、本家伊達家と絶交状態にあった岡山藩池田家と和解したりした。堀田正亮・堀川広益は両伊達家の調停にあたった。堀田は仙台藩伊達家を「家元」と宇和島藩伊達家を「家別レ」とするといった調停案を示した。これらの朝廷の努力もあり、表面的には同年中に両伊達家は和解に達した。しかし、その後も両伊達家のしこりは残った』(この険悪な仲であった二人を敢えて連続して記して、素知らぬ風をしている静山も面白い)。『藩政においては、享保の大飢饉において大被害を受けた藩政を立て直すため、窮民の救済や倹約令の制定、家臣団』二十五『か条の制定や軍制改革、風俗の撤廃や文武と忠孝の奨励を行なうなど、多彩な藩政改革に乗り出した。宝暦年(一七五四)年からは民政三か条を出して民政に尽力し、宝暦七(一七五七)年末には『紙の専売制を実施』、寛延元(一七四八)年には『藩校を創設するなどして、藩政改革に多大な成功を収めて財政も再建した』。『しかし、天明の大飢饉を契機として再び財政が悪化し、藩政改革も停滞する。その煽りを食らって、晩年には百姓一揆と村方騒動が相次いだ』。『教養人としても優れた人物で、「楽山文集」、「白痴篇」、「伊達村候公歌集」などの著書を残した。また、晩年には失敗したとはいえ、初期から中期まで藩政改革を成功させた手腕は「耳袋」と「甲子夜話」で賞賛されている』とある。「耳囊」のそれは之四 大名其識量ある事である。私の電子化訳注でお読みあれ。

「米澤老侯」第八代上杉重定(享保五(一七二〇)年~寛政一〇(一七九八)年)であろうか。しかしこの男、かなり劣悪な藩主である。ウィキの「上杉重定を参照されたい。

「いづ方に臥か知るものなし」「臥か」「ふするか」藩主でありながら、今何処で寝ておられるかを誰も知らない。

「云類」「いふたぐひ」。

「延致」「えんち」。「延」も「致」も「招く・引き来させる」であるから、招致・招聘に同じい。

「出入」「でいり」。

「煖て」「あたためて」。

「芝の御山」芝の増上寺のことか。

「火防」「ひぶせ」。幕命による防火警備。

「備る」「そなふる」。

「過る」「すぐる」。

「親書」自ら筆を執って書くこと。

「抛たり」「なげうちたり」。

「下」「しも」。家来。

「恤」「あはれむ」。

「酣」「たけなは」。

「拘らずして」「こだはずして」。意に介することなく。

「擘窠書」底本には「はくくわしよ」と編者によるルビがある。これは格子を切った紙に書を書くことを指す。碑文や墓誌を刻むことが盛んになり、その影響から紙に桝目を切ってそこに漢字を記すことが流行り、それがまた後に作品様式の一つとして定着したものらしい。

「糸鬢」「いとびん」。近世の男性の髪形の一つ。月代(さかやき)を広く左右に下まで剃り下げ、鬢を細く糸のように残して、髷(まげ)をこれまた頭のずっと後方に低く結ったもの。一般には中間(ちゅうげん)や侠客などに好まれた。

「京紳」「けいしん」と読んでおく。京の公家衆。「參向し御大禮あり」とあるから、これは所謂、「武家伝奏」の面子であろう。学問に優れて弁舌が巧みな大納言級の公卿が伝奏に任ぜられた(但し、江戸後期には幕府も形式上のことであったことから、公家側の人選もいい加減なものになってはいたらしい)。

「大橫刀」非常に長い(この場合は正式な儀式であるので)「太刀」であろう。

「佩られ」「おびられ」。

「裝束振」「しやうぞくぶり」。

「聊」「いささか」。

「鷹司家」「たかつかさけ」。五摂家の一つで、江戸後期から幕末にかけてはこの鷹司家当主が関白を務めることが多かったから、伝奏役も同家の者が選ばれたものであろう。

 

甲子夜話卷之三 31 仙臺宗村大言の事

 

3-31 仙臺宗村大言の事

仙臺中將宗村は氣象高き人なりしとぞ。登城謁見の時、いつも首のさげ方高かりければ、一日同席の人々其事を申けるに、我等が首は實檢に入時、三方に載せて出べきことゆへ、其高さにてよきほどなりと云て、何知らぬふりにてありければ、皆人口を閉たりと云。

■やぶちゃんの呟き

「仙臺宗村」「仙臺中將宗村」仙台藩第六代藩主伊達宗村(だてむねむら 享保三(一七一八)年~宝暦六(一七五六)年)。父で先代藩主であった伊達吉村(仙台藩「中興の英主」と称せられた名君)の四男(長兄・次兄は早世し、三兄の村風(むらかぜ)は既に分家を興していたことに拠る)。寛保三(一七四三)年に乳より家督を譲られた。ウィキの「伊達宗村によれば、『父と同じく文学面に優れ、多くの書を残している。また、馬術、槍術、剣術、軍術、砲術にも精通していた智勇兼備の人物であった』とあるが、満三十七で死去している。また彼のかなり知られたエピソードとして、延享四(一七四七)年八月十五日のこと、『江戸城内の厠で、熊本藩主・細川宗孝が旗本板倉勝該に斬られて死亡した』(これは何と、紋所を見間違えた誤認による刃傷であった)。『宗孝には御目見を済ませた世子がおらず、このままでは細川家は無嗣断絶になりかねないところ、その場にたまたま居合わせた宗村が機転を利かせ、「宗孝殿にはまだ息がある。早く屋敷に運んで手当てせよ」と細川家の家臣に命じた。そこで、家臣たちは宗孝の遺体をまだ生きているものとして藩邸に運び込み、弟の重賢を末期養子に指名して幕府に届け出た後で、宗孝が介抱の甲斐無く死去したことにして事無きを得たと言われている』という話がある。

 

甲子夜話卷之三 30 佐渡の潮幷象潟の勝景變ずる事

 

3-30 佐渡の潮幷象潟の勝景變ずる事

佐渡の海は潮汐の進退と云ことなし。止水の如く、海潮の深さいつにても極りてあることなりとぞ。故に海岸の岩石に、積年の鹹凝りて、一帶の白色を成せり。近年一湊地震にてゆり崩れ、海波淺くなりしに、海面より尺餘もかの白帶出たり。是にて地震に地の下りたるを驗すと云。羽州の象潟は、本朝三景の一と稱せしが、先年地震にてゆり崩し、入海の水皆干て、今は風景更に無しと云。西洋の説に、地は實したるものゆへ、橫へ震することは無く、唯上下へゆることに言しは宜なり。

■やぶちゃんの呟き

「佐渡の海は潮汐の進退と云ことなし」というのは無論、誤認である。恐らくは対馬海流の強い影響下にあること潮の満ち引きが視認し易い砂浜海岸があまり多くないことなどから、潮汐現象を明確に視認し難く、このような誤伝が伝わったものであろう。

「鹹」「しほ」。塩。海塩。

「凝りて」「こりて」。

「一帶」「ひとおび」と訓じておく。

「一湊地震」「一湊」は「いちみなと」と訓じてここで切っておく。これは佐渡島の小木(おぎ)の湊(みなと)付近で、享和二年十一月十五日(グレゴリオ暦一八〇二年十二月九日)で発生した佐渡小木地震(享和佐渡地震)のことを指していよう。ウィキの「佐渡小木地震によれば、この地震はマグニチュード六・五から七・〇と推定されるもので、「大日本地震史料」によると、「小木町は総戸数四百五十三戸が殆んど全潰し、出火して住家三百二十八戸、土蔵二十三棟、寺院二ヶ所を焼失、死者十八名に達し、『湊は、地形変じて干潟となった」と記録されている』(「一話一言」「佐渡年代記」)が、『隆起した時刻と地震の時系列を示す資料は不十分で『佐渡年代記』には巳刻』(午前十時頃)『に所々破損する程度の地震が起こり、未刻』(午後二時頃)『に大いに震い』、『御役所を始め』、『人家に至るまで破損に及んだという。なお、金鉱山の坑夫たちは数日前から異常を察知し』、『坑道に入らずにいたため』、『犠牲者は無かったと伝えられている』。『実際に小木半島の海岸では約』二メートルもの『隆起が生じたと考えられており、露出した中新世の枕状熔岩を見ることができる』とある。静山が「甲子夜話」の執筆に取り掛かったのは文政四(一八二一)年で十九年も前であるが、彼は文化三(一八〇六)年に家督を譲って隠居しており、例えば隠居前の聴き書きや隠居直後のそれに基づくとするなら、この「近年」は不自然な謂いとは私には思われない

「地震に地の下りたるを驗すと云」「地震」のため「に地」面の」位置が遙か下の、元の海中であったところまで「下」(さが)「りたるを驗」(けみ)「す」(現認した)。

「羽州の象潟は、本朝三景の一と稱せしが、先年地震にてゆり崩し、入海の水皆干て、今は風景更に無しと云」「入海の水皆干て」は「いりうみのみづ」、「みな」「かはきて」と訓じておく。これは文化元年六月四日夜四ツ時(グレゴリオ暦一八〇四年七月十日午後十時頃)に出羽国を中心として発生した津波を伴った大地震、象潟地震によって象潟が隆起して陸地化してしまったことを指す。この地震は鳥海山の噴火活動と連動したものと考えられ、マグニチュードは推定で、七・〇越えか、その前後とされる。ウィキの「象潟地震によれば、本荘藩及び庄内藩領内周辺では潰れた家屋は五千五百軒余、死者は三百六十六人に及び(夜間であったために、倒壊家屋の中で多くの被害者が出た)、象潟・遊佐(ゆざ)・酒田などでは『地割れ、液状化現象による噴砂が見られ、象潟、遊佐付近では家屋の倒壊率が』七〇%に達した、とある。

「地は實したるものゆへ」「實」は「さね」か? 所謂、根本がある・根がしかりと張っているものであるから、の謂いで採る。だから「橫には震」(ゆ)「することは無く、唯」「、上下へ」のみ「ゆる」というのであろう。これは単なる人体の地震の際の感じ方からの印象表現のようにも見えるが、ネットのQ&Aサイトの回答を見ると、プレート間の歪みが溜まり易い日本列島では、押し合って断裂が起こる逆断層が多く、押し合った結果であることから縦にズレることが多い.とし、その場合、物理的にも縦揺れ成分が多いと考えられるとする。因みに逆断層であっても横ズレの成分が多い場合は、横揺れの感じが強くえすることはあるかも知れないといった趣旨の内容が書かれてあった。

「宜なり」「うべなり」。

 

甲子夜話卷之三 29 日高川の舊蹟

 

3-29 日高川の舊蹟

申樂喜多十太夫の實父は紀州の人なり。十太夫一とせ故鄕に行き、歸て紀州のこと話しとき、吾業のことなれば、日高川道成寺を往見たりしに、道成寺は今もあれど日高川は名のみにてなくなりぬと言き。其後高木奚雄【御數寄屋坊主。畫を善す】の物語に、渠もまた紀へ行しと言まゝ道成寺のことを問へば、寺は少し高き處にありて、門前を日高川と申なり。然ども今は名のみ殘り皆田となる。昔川にてありしと云。田の中に蛇塚(ジヤヅカ)とて一里塚のごときものあり。又今日高川といふは、寺より程隔たりて、小松原村と云境に添ひ流るゝ川にて、幅は十間もあるベく、底は小石にて、水淺けれど舟もて渡る。徒涉もすべけれど、水勢はやくして自由ならずと話き。日高川道成寺は謠曲に名高く聞へたれば、古今の替りたるを知るべし。又謠曲に、此國の白拍子が、道成寺の鐘の供養に參るとて、月は程なく入しほの、煙淸くる小松原、急ぐ心かまだ暮ぬ、日高の寺にぞ着にける、と言たるを以見れば、今の日高川の處、この文句には協へり。然ば謠曲は、地勢變革の後に作れるものか。

■やぶちゃんの呟き

「舊蹟」の「蹟」は底本のママ。

「申樂喜多十太夫」、能シテ方である喜多流を調べると、七世喜多十太夫定能と八世十太夫親能がいる。後者か。識者の御教授を乞う。

「歸て」「かへりて」。

「話しとき」「はなせしとき」。

「吾業」「わがわざ」。

「往見たりしに」「ゆきみたりしに」。

「道成寺」現在の和歌山県日高郡日高川町鐘巻にある天台宗天音(てんのん)山道成寺。ウィキの「道成寺によれば、一説に大宝元(七〇一)年、『文武天皇の勅願により、義淵僧正を開山として、紀大臣道成なる者が建立したという。別の伝承では、文武天皇の夫人・聖武天皇の母にあたる藤原宮子の願いにより文武天皇が創建したともいう(この伝承では宮子は紀伊国の海女であったとする)。これらの伝承をそのまま信じるわけにはいかないが、本寺境内の発掘調査の結果、古代の伽藍跡が検出されており、出土した瓦の年代から』八『世紀初頭には寺院が存在したことは確実視されている』。一九八五『年に着手した、本堂解体修理の際に発見された千手観音像も奈良時代にさかのぼる作品である』とある。

「日高川は名のみにてなくなりぬ」日高川は現在の和歌山県中部を流れるが、急流で「蛇」行が多く、また夏季の雨量も多いことから、古くから流域に水害を齎してきた。ここで述べているのも、後の高木の言を見るに、「門前を日高川と申(まうす)なり。然(しかれ)ども今は名のみ殘り」、「皆」、「田となる。「昔」、「川にてありしと云」ふとあるので、そうした氾濫原の中の、最も道成寺寄りの旧流域(或いは分流)を「古えの日高川」と認識しての謂いであろう。

「高木奚雄」不詳。

「渠」「かれ」。彼。

「行し」「ゆきし」。

「言まゝ」「いふまま」。

「蛇塚(ジヤヅカ)」ページにある「清姫蛇塚」であろう。リンク先は解説や写真・地図が完備している。

「日高川といふは、寺より程隔たりて、小松原村と云境に添ひ流るゝ川にて」今現在は最も近い位置でも川岸(右岸)まで九百メートルを越える。

「十間」約十八メートル。現在は最も狭い部分でも六十メートルを越え、氾濫原を含めた広い箇所では二百メートルを越える。

「徒涉」「かちわたり」と訓じておく。

「話き」「はなしき」。

「日高川道成寺は謠曲に名高く聞へたれば」私はかの道成寺伝説のフリークでサイトにも Doujyou-ji Chroniclというのを設けているほどである。未見の方は是非どうぞ!

「謠曲に、此國の白拍子が、道成寺の鐘の供養に參るとて、月は程なく入しほの、煙淸くる小松原、急ぐ心かまだ暮ぬ、日高の寺にぞ着にけると言たる」謡曲「道成寺」も私の Doujyou-ji Chroniclで台本形式に書き改めたものを公開している。ここは前シテが登場した直後の以下の前シテ白拍子の謠部分。

   *

〽月は程なくいりしほの

 月は程なく入り汐の

 煙滿ち來る小松原

 いそぐ心かまだ暮れぬ

 ひたかのてらに着きにけり

 日高の寺に着きにけり

   *

「協へり」「かなへり」。「叶っている」の意。この道行は明らかに後シテの鬼女である以上、伝承の清姫の体験行動をトレースして日高川から道成寺に向かったと読まねばならぬ。それが、道成寺の真ん前の直近に日高川がセットされてとしたら、それでは短過ぎて、とても道行にはならぬ。それを静山は、当時の、流域が有意に寺から離れた位置にある日高川であると解釈、認識しているのである。非常に共感出来る見解と私は思う

 

甲子夜話卷之三 28 馬蹄石

 

3-28 馬蹄石

花戸某の旅より歸るとき、馬蹄石を獻ず。長さ半尺ばかり、小記を添ふ。その文に曰。古へする墨と云名馬あり。その馬の出生は駿河國安倍郡朽澤村なり。名馬の故か、その村より此石出る。これを以て墨を磨り、願書を書けば、何の願も叶はずと云ことなしと言傳しとなり。

■やぶちゃんの呟き

「馬蹄石」この場合は、表面に馬の蹄(ひづめ)のような紋のある蒼黒い色の石を指す。

「する墨」「摺墨」或いは「磨墨」。知られた寿永三(一一八四)年の「宇治川の戦い」で、やはり名馬の誉れ高く、同じく源頼朝から与えられた生食(いけづき)に乗った佐々木高綱と先陣を争った梶原景季の名馬の名。

「出生」「しゆつしやう(しゅっしょう)」。

「駿河國安倍郡朽澤村」「安倍郡」は現在の静岡市葵区の大部分に当たる旧郡であるが、この旧郡域内に「朽澤村」は確認出来なかった。識者の御教授を乞う。一つの候補として同地区の「栃沢」を挙げておく(「朽」と「栃」は如何にも誤り易いからである)。(グーグル・マップ・データ)。

 

南方熊楠 履歴書(その11) ロンドンにて(7) 大英博物館内に於ける殴打事件

 

 小生大英博物館に在るうち、独人膠州湾をとりしことあり。東洋人の気焰すこぶる昂(あが)らず。その時館内にて小生を軽侮せるものありしを、小生五百人ばかり読書する中において烈しくその鼻を打ちしことあり。それがため小生は館内出入を禁ぜられしが、学問もっとも惜しむべき者なりとて、小生は二カ月ばかりの後また参館せり。当時このこと『タイムス』その外に出で、日本人を悪(にく)むもの、畏(おそ)るるもの、打たれたものは自業自得というもの、その説さまざまなりし。小生はそのころ日本人がわずかに清国に勝ちしのみで、概して洋人より劣等視せらるるを遺憾に思い、議論文章に動作に、しばしば洋人と闘って打ち勝てり。

[やぶちゃん注:「独人膠州湾をとりし」ドイツ帝国が中国北部の山東半島南海岸に所有していた膠州湾(こうしゅうわん)租借地のこと。ウィキの「膠州湾租借地によれば、一八六〇年、『プロイセン王国の遠征艦隊がアジアを訪問』、この時、膠州湾周辺地域を調査、翌年、『プロイセンと清の貿易協定が調印されたが、その後のドイツ軍部は中国探検で『膠州湾を理想の艦隊基地として』狙っていた。日清戦争後の一八九六年には、当時、『ドイツ東洋艦隊の司令官だったアルフレート・フォン・ティルピッツ提督はこの地域を個人的に調査した。ドイツは三国干渉でともに清に対して恩を売ったロシア帝国やフランスに比べて中国での足場を築くのが遅れ、まだ他の列強の手のついていない地域を物色し、最終的に山東半島に目をつけ』ていた。一八九七年十一月一日のこと、『山東省西部の巨野県(きょやけん、現在の菏沢市)でドイツ人宣教師二人が殺される事件が起こ』った(下線やぶちゃん。以下、同じ)。この事件はドイツのヴィルヘルム二世皇帝に『「ドイツ人宣教師の保護」という侵略の口実を与えた。清国政府中央がこの事件の詳細を知るより前に、上海にいたドイツ東洋艦隊司令官フォン・ディーデリヒス』は十一月七日に『膠州湾占領作戦開始の命令を受け』、十一月十四日、『ドイツ海兵隊は長期航海途中の上陸と陸上訓練とを口実に膠州湾に上陸、戦闘なしで膠澳の総兵衙門にいた清国兵』ら千人以上に対して『退去を命じ、湾岸全域を占領した。清国側はこの部隊を撤退させようと無駄な努力を続け』、十一月二十日に清独交渉が始まったが、翌一八九八年一月十五日、『宣教師事件の和解という結果で終わった』。数ヵ月後の三月六日、ドイツ帝国は独清条約を結び、膠州湾を』九十九年間、『清国政府から租借することになった。この租借地に、この周辺最大の膠州の町は含まれていなかったが、湾の水面全部と湾を囲む東西の半島、湾内外の島々は租借地となった』。その周囲の幅五十キロメートルの『地域は中立地帯となり、ドイツ軍の通行の自由が全面的に認められ、ドイツ政府の承認なしで中国側が命令や処分を下すことは出来なくなった』。六週間後の四月六日、『この地域は公的にドイツ保護下に置かれ』、一八九九年七月一日に条約港として開港した、とある。南方熊楠がここに書かれた殴打事件を起こしたのは、一八九七年十一月八日のことで、まさに宣教師殺害事件の一週間後、膠州湾湾岸のドイツ帝国による占領の一週間前に当たる。

「その時館内にて小生を軽侮せるものありしを、小生五百人ばかり読書する中において烈しくその鼻を打ちしことあり」「南方熊楠コレクション」の注によれば、前注に示した日、大英博物館図書閲覧室内に於いて『読者ダニエルに暴行を働いたと』され、『その日の』南方熊楠の日記にも『「午後博物館書籍室に入りさま毛唐人一人ぶちのめす」と出る』とある。ネットのQ&Aサイトの回答によれば、それ以前からも、同博物館利用者の一部に、東洋人に対する人種差別感情があったらしく、熊楠に対して口汚く罵ったり、唾を吐きかけたりをする嫌がらせをする者がおり、そのイギリス人が、日本が日清戦争後に手に入れた遼東半島を三国干渉で手放したことをからかったことから、自分に対しての嫌がらせならともかく、祖国日本の侮辱は我慢ならぬ、とそのイギリス人を殴打したとある。

「それがため小生は館内出入を禁ぜられし」同じくQ&Aサイトの回答によると、前記事件では、博物館理事会にかけられたものの、幸いにして入館の一時停止処分だけで済んだとある。南方熊楠が大英博物館への完全出入り禁止処分を受け、帰国せざるを得なくなったのは、その翌年に引き起こした騒擾トラブルによって(後掲される)であった。]

南方熊楠 履歴書(その10) ロンドンにて(6) 和船名に「丸」を附すこと

 

 明治三十一年ごろより小生は『ノーツ・エンド・キーリス』に投書を始め、今日まで絶えず特別寄書家たり。これは七十六年前に創刊されたもので、週刊の文学兼考古学雑誌なり。今度御下問の「日本に綿の神ありや」もしくは「いずれの国かに綿の神ありや」というような難題が出るときは、この雑誌へ問いを出すなり(無質)。しかるときは、読者の中より博識天狗(てんぐ)の輩が争うて答弁を出す。往年英米諸国で、日本の商船に丸という名をつけることにつき種々(日本の海軍と海運との関係について)疑念を抱き、この雑誌に問いを出せしものありしとき、小生答文を出したるを(一九〇七【明治四十】年八月および十一月)海軍大将イングルフィールド(『ロイド登録』の書記職)が見てきわめて要用のものとなし、ヒル氏をして提要を拵(こしら)えしめて、大正五年六月十三日の『ロイド登録』に載せしめたり。これは何でもなきことのようなれども、日本政府が船名を、あるいは丸、あるいは艦とつけるを別して、商船に限り必ず丸を称せしめたるにつきて、いろいろと飛んでもつかぬ考えを懐(いだ)きし外人少なからざりしが、この登録の文が出でてよりかかる懐疑が一掃されたるなり。(普通には船に丸の名をつけるは一五九一年征韓役に九鬼(くき)嘉隆が作りし日本丸を嚆矢(こうし)とすと思う人多し。しかし、それより先に一五七八年信長が九鬼の日本丸を覧(み)しことあり、また一五八四年家康の清須丸と九鬼の日本丸と戦いしことが『武功雑記』に見ゆ。しかるに一四六八年に成った『戊子入明記』を見ると、当時足利政府より支那へ送りし船には十艘までみな丸という号をつけたり。これらのことはその後何の書にも見えおれど、小生これを明言せるまでは知らぬ人多かりし。)貴下も御承知の通り『ロイド登録』は世界を通じて船舶に関係あるもの必読のものたり。しかるにわが邦には大正五年にすでに外人がかかる提要文を出だしあるに気づかず、今も舟を丸というについて中米、南米また北米諸国でいろいろと日本船について妙な評判を聞くに驚き、さて本邦の学者に問うも何たる取調べもなしおらねば、何が何だか分からずにおるようなこと、この外にも多し。実にみずから侮って、後に人に侮らるるものというべし。

[やぶちゃん注:【 】は底本ではポイント落ち二行割注の部分をかく表記した。

「明治三十一年」一八九八年。

『ノーツ・エンド・キーリス』一八四九年に創刊され、現在も続く雑誌Notes and Queries(『ノーツ・アンド・クエリーズ』:訳すなら「報告(群)と質問(群)」)。南方熊楠は「文学兼考古学雑誌」と言っているが、この後者の「考古学」は現行のそれではなく、寧ろ、江戸随筆などに見られる広義の古典や古物及び既に日常的となっている習俗習慣に対する考証学の謂いであって、まさに現在の広い意味での民俗学と同義的である。英文ウィキの同雑誌によれば、同誌は当時、サブ・タイトルを“a medium of inter-communication for literary men, artists, antiquaries, genealogists, etc”(「文学者、芸術家、古物愛好家、系譜学者等の相互交流の媒体として」。現在は“For readers and writers, collectors and librarians”(「読み手」と「書き手」、収集家と図書館員のために」)に変わっている)としていた。サイト「南方熊楠資料研究会」の「南方熊楠を知る事典」内のこちらのページの松居竜五氏の「ノーツ・アンド・クエリーズ Notes and Queries」を読むと、『ネイチャー』からこちらへの投稿へと有意に推移していった意味がよく解き明かされてある。

『今度御下問の「日本に綿の神ありや」もしくは「いずれの国かに綿の神ありや」というような難題』既出既注

「無質」仏教用語なら「むせつ」であるが、ここは「むしち」であろう。「無料」の意。「質問やそれへの応答の投稿はその行為について対価を要求しない」という謂いである。

「一九〇七【明治四十】年八月および十一月」言わずもがなであるが、日本帰国後(帰国は明治三三(一九〇〇)年)。これはまさに前年末(十二月)の神社合祀令の勅令(明治三十九年発布)に対して南方熊楠が強烈な反対運動を起こした年でもある。

「海軍大将イングルフィールド」不詳。綴りは“Englefield”であろう。

「ロイド登録」“Lloyd's Register”。現在、知られるロンドにある保険市場や保険組合である「ロイズ」の前身。ウィキの「ロイズ」の「歴史」の項によれば、一六八八年頃、『エドワード・ロイドがロンドンのタワー・ストリートにコーヒー・ハウス(ロイズ・コーヒー・ハウス)を開店。貿易商や船員などがたむろするようになった。ロイドは顧客のために最新の海事ニュースを発行するサービスを行い、店が非常に繁盛した』。一六九一年、『手狭になり、ロンバード・ストリートの中央郵便局の隣に移転する。次第に保険引き受け業者(アンダーライター)が集まるようになる』。一七二〇年に「南海泡沫事件」(South Sea Bubble:イギリスで起こった投機ブームによる株価の急騰と暴落及びそれに続く混乱。現在の「バブル経済」の語源になった)が『起き、ロンドンの証券市場は崩壊した。議会は泡沫法を制定し、保険引受業務を行える会社を勅許を受けた』二社に『限定した。しかし、個人の保険引受業者は規制しなかったため、ロイズに集まっていた個人の保険引き受け業者は競争相手となる保険会社が』二『社だけに激減したおかげで、かえって有利になった。まもなく勅許会社』二『社は不祥事を起こして海上保険から撤退』、『火災保険に主力を移したため、海上保険はロイズの独占となった。しかし、ロイズに有象無象の保険引受業者が集中した結果、ロイズには支払能力もない怪しげな業者が出入りするようになり、賭博保険が横行してロイズの評判を下げることになった。まともなアンダーライターとブローカーは事態を憂慮して、ウエイターのトーマス・フィールディングを雇って』、『新ロイズ・コーヒー・ハウスを開かせ、純粋な海上保険を行う業者は新ロイズに移った』。『アンダーライターたちはロイズ委員会を組織し』、一七七三『年にはコーヒー店を王立取引所の中に置くことを決定した。これにより、ロイズは保険取引が行われるコーヒー店の名前から、保険引受市場そのものへと転換となった。しかしロイズ委員会には不正を働いたアンダーライターを除名する権限や、支払能力のないメンバーの出入りを制限する権限がなかった』。一八七一『年にロイズ委員会は議会に働きかけてロイズ法を制定させ、ロイズ委員会を法人化してロイズ組合となった。法人といっても実態はシンジケート団の集まりであり、保険金の支払に関して構成員は最終的に無限責任であった』とある。ここは、その「ロイド・レジスター」が、船舶関係業者や海上保険業者向けに発行していた情報交換目的のニュース紙のことと思われる。こんな話を何故、南方熊楠が蜿蜒と記すかって? だって手紙の相手は当時の日本郵船株式会社大阪支店副長であった矢吹義夫だもの!

「ヒル氏」不詳。ロイズ・レジスターのイングルフィールドの部下であろう。

「提要」対象の要点・要領を取り出して示した文書。

「一五九一年征韓役」「一五九一年」は「一五九二年」の南方熊楠の誤り。文禄・慶長の役(文禄元(一五九二)年に始まって翌文禄二年に休戦した「文禄の役」及び慶長二(一五九七)年の講和交渉決裂によって再開されて慶長三(一五九八)年)の豊臣秀吉の死によって日本軍撤退で終結した「慶長の役」)のこと。「征韓」や「朝鮮征伐」は「懲罰」の意味を持つことから現行では「征韓」という歴史用語としての表現は避けられるのが普通である。

「九鬼(くき)嘉隆」(天文一一(一五四二)年~慶長五(一六〇〇)年)は死後、「海賊大名」の異名をとった、九鬼氏第八代当主にして九鬼水軍の首魁。ウィキの「九鬼嘉隆」によれば、『志摩の国衆の一員として身を起こし、織田信長や豊臣秀吉のお抱え水軍として活躍し、志摩国を支配して』三万五千石の禄を得たが、『関ヶ原の戦いで西軍に与し、敗れて自害した』。

「日本丸」文禄の役に参加した安宅船(あたけぶね:室町後期から江戸初期にかけて日本で広く用いられた軍船の一つ。ウィキの「安宅船」によれば、『巨体で重厚な武装を施しているため速度は出ないが、戦闘時には数十人の漕ぎ手によって推進されることから小回りがきき、またその巨体には数十人から百数十人の戦闘員が乗り組むことができた。室町時代後期以降の日本の水軍の艦船には、安宅船のほか、小型で快速の関船と関船をさらに軽快にした小早があり、安宅船がその中核を成した』とある)の名。ウィキの「日本丸(安宅船)」によれば、天正二〇・文禄元(一五九三)年)に、『豊臣秀吉の命で九鬼嘉隆が建造し、当初は「鬼宿(きしゅく)丸」と命名されたが、名護屋城へ回航した際に最も優れた船として秀吉の指示で「日本丸」へ改名された』。『日本丸は文禄の役で九鬼水軍の旗艦として同年』七月十日の安骨浦海戦(現在の韓国慶尚南道昌原郡にある海港での交戦)に『参加しており、『九鬼御伝記』には艦隊の楯として突出し、長時間に及ぶ朝鮮水軍による集中攻撃で矢倉は打ち落とされ』、『端々しか残らず、帆柱も射切られる大損害を受けつつも』、『健在だった旨が記されている』。『この海戦の報告を受けた秀吉は味方に』一『艘の損失も無かったことを賞し、朝鮮水軍への対策として大船の派遣・建造を行う旨の書状を、海戦に参加した嘉隆・加藤嘉明へ』七月十六日『に送っている』。『このことから秀吉が日本丸を有力な軍船と評価したことが伺え、以後は後述の様に日本丸以上の大船建造が行われることになる』。『文禄の役で日本水軍は多数の船舶を失ったが、日本丸は生き残り』、『日本に帰還している』。なお、『慶長の役では九鬼家は渡海し』ていない。因みに、この日本丸については毛利水軍が文禄二年夏に建造したとする説もあるが、サイズが荒唐無稽で信憑性は低い。詳しくはリンク元を参照されたい。

「一五七八年信長が九鬼の日本丸を覧(み)しことあり」「一五七八年」は天正六年。これはウィキの「日本丸(安宅船)」の、「異説」の後半に、『日本丸の名を持つ船としては、嘉隆が織田信長の命により建造した鉄甲船の』一隻があるとするのが、それであろう。しかし、上記の「日本丸」と同一とは思われない。

「一五八四年」天正十二年。

「清須丸」不詳。但し、家康はこの時(蟹江城合戦:天正十二年六月に起こった尾張国南西部における羽柴秀吉(豊臣秀吉)陣営と織田信雄・徳川家康との間で行われた戦闘)、九鬼らの軍勢を蹴散らし、海上封鎖を完成させているから、家康方のその名の軍船があったことは間違いない。

「九鬼の日本丸」これもウィキの「日本丸(安宅船)」の、「異説」の後半に出る、天正一二(一五八四)年の蟹江城合戦に於いて、『敗走時に嘉隆が放棄した大船が』やはり「日本丸」であったとある。或いはこちらは文禄の役に参加した「日本丸」を改造したものであったのかも知れない。

「武功雑記」肥前平戸藩第四代藩主松浦鎮信(まつらしげのぶ)天祥が記した戦話。元禄九(一六九六)年成立。天正〜元和期(一五七三年~一六二四年)の諸士諸将の武勲を雑記したもので、特に関ヶ原の戦や大坂の陣などについて詳しく書かれてある。

「一四六八年」応仁二年(古河公方方は享徳十七年)。

「戊子入明記」(ぼしにゅうみんき)は室町中期の遣明船の記録。一巻。信濃国開善寺の僧天与清啓が将軍足利義政の命によって応仁二(一四六八)年に遣明使正使となって渡航した際の記録。進上品・交易品・乗組員の構成・勘合・遣明船の警備など、日明関係の具体的内容を記す。但し、京都市妙智院に原本があるものの、これは清啓自身の筆ではなく、後の天文期(一五三二年~一五五五)に二度渡明した策彦周良(さくげんしゅうりょう)が参考のために抄録したものと考えられている。

「大正五年」一九一六年。本「履歴書」(大正一四(一九二五)年一月三十一日書簡)が書かれる九年前。]

 

2017/04/17

驚きのロケーションの宿

 

昨日、27年目の結婚記念日(5月1日。僕らは結婚式をしていないので真正の「記念日」。メーデーに合わせた。当日は戸塚の写真館で二人で写真を撮り(両親族配布用)、鎌倉のドイツ料理店「シー・キャッスル」で二人でワインで乾杯して終り)の前倒しで西伊豆へ行った。

修善寺からバスで越えると、山はプチ吉野みたように咲(わら)っていて、桜吹雪の舞い散る中、僕の大好きなげんげ畑も堪能出来た。

泊まりは妻の選んだ「富岳群青」。
僕は小さな頃から、お風呂屋さんに行くと、そこの描かれていた書割の海と壮大な富士山なんて景色、あんなの、ない、と思っていたものだが、あった!!!

しょぼい携帯で撮った僕らの泊まった「波の風」の部屋からの写真は以下――

20170417102927

これが部屋の露天風呂目線――以下はそこから少し前に出たテラスの端から――

 

20170417103002

波立つ駿河湾を挟んで、富士の裾野が左へ美しく下ってゆく。これでは感動がないかも知れんので、「富岳群青」の公式サイトの写真を見られたい。

料理も絶品だった。

料金はハイ・クラスだが、今まで泊まった世間で「とれない宿」と称せられるどこよりも僕は景観と料理ともに満足出来た。
高額をとる「高級」宿に不満足に二度泊るより、ここに一泊されんことをお薦めしたい。

あまりに日本画のようなそれに、元は金持ちの別荘か何かがあったのだろうと勘ぐって尋ねたら、そこはかつて小学校だったという。
――この景観を見て育った小学生が僕はとても羨ましく思われたのだった――

2017/04/16

甲子夜話卷之三 27 節季候、鳥追の事

 

3-27 節季候、鳥追の事

亡友仁正寺市橋氏云ふ。至俗のことにても人情に叶ふことは永く傳るものと見へたり。歳暮に市中の門々にて、乞兒走りながら手に竹を打て、口早なる事を言を節季候と云。いそがはしき態度あり。春初に乞兒の女、衣服を飾り、編笠き、三線胡弓など携へ、彈じつゝ歌うたふを鳥追と云。悠々としたる容體なり。いかにもその時々の人情によく叶へり。年々かはらずある筈なり。

■やぶちゃんの呟き

「節季候」「せきぞろ」と読む。歳末に家々を廻っては、米や金銭を乞い歩いた門附け芸の一つ。羊歯(しだ)の一種である裏白(シダ植物門シダ綱ウラジロ科ウラジロ属ウラジロ Gleichenia japonica)の葉を挿した編み笠を被って、赤い布で覆面し、「せきぞろ、せきぞろ」(節季(せつき)に候(さふら)ふ)と唱えては、二、三人で家々を歌い踊って歩いた。「せっきぞろ」「せきざうらふ」とも呼び、冬の季語ともなった。

「鳥追」(とりおひ)は、ここでは旧暦の小正月(一月十四日~十五日)に女太夫が家々を𢌞っては、正月の祝祭として鳥追い唄を歌った門附け芸の一つ。ウィキの「によれば、『阿波踊りの女性の扮装はこの鳥追い女の風俗がもとになっている』。リンク先には鳥追いに扮した尾上菊五郎と中村清三郎石川豊信があるので参照されたい。

「近江国蒲生郡仁正寺(にしょうじ:現在の滋賀県蒲生郡日野町)にあった仁正寺藩の第七代藩主藩主市橋長昭(いちはしながあき 安永二(一七七三)年~文化一一(一八一四)年)と推定する。静山より十三若いが、「亡友」と称するに相応しい同時代の故人と言え、何より、静山と懇意の林述斎とも親しかったからである。

 

2017/04/15

甲子夜話卷之三 26 摩多羅神のこと幷松前氏神祖を奉崇の事

 

3-26 摩多羅神のこと松前氏神祖を奉崇の事

一兩年前か、下谷新寺町なる松前氏の邸の邊を、月夜にとほりたる人【其名今忘】の見たると聞しは、夜半過、八頃とも覺しきに、彼邸の屋上に、棟に跨り居る人あり。怪み見れば烏帽子を戴き淨衣を著て、風詠して居たり。月いと晴たれば能見へたるとなり。其後も度々この如き人の、彼屋上に居たるを見しと云しことは聞たり。然を去年冬、松前の舊領蝦夷迄を、官より返し給りける。因て人言へるは、此怪と見しは摩多羅神の現ぜしなるべし。其故は、この神は神祖殊に御信仰の神にして、其像の所傳有るもの、淨衣烏帽子の體なり。又奈何にして彼の邸に出現せしと云に、松前氏先領御取上の後、悉く神祖の御重跡を崇敬して、代參遙拜怠なかりし。其御祐にや、本領に復せり。因て彼の異形の者は、神祖常に奉崇せられし、摩多羅神の出現して、加護ありしならん抔云ふ。近頃又聞。船橋に鎭坐ある神祖の御宮に、二百石の知行を永代寄附せしと云ふ。又奇異符合の談もある也【文政壬午春記】。

■やぶちゃんの呟き

「摩多羅神」ウィキの「摩多羅神」によれば、「またらじん」あるいは「摩怛利神」と書いて、「またりしん」と読み、『天台宗、特に玄旨帰命壇における本尊で、阿弥陀経および念仏の守護神ともされる。常行三昧堂(常行堂)の』「後戸(うしろど)の神」『として知られる』。「渓嵐拾葉集」(天台僧光宗(建治二(一二七六)年~正平五/貞和六・観応元(一三五〇)年)の仏教書。百十六巻。文保二(一三一八)年序。天台の故事・口伝を集輯し、自己の思想や先輩の諸説を整理したもの)第三十九の『「常行堂摩多羅神の事」では、天台宗の円仁が中国(唐)で五台山の引声念仏を相伝し、帰国する際に船中で虚空から摩多羅神の声が聞こえて感得、比叡山に常行堂を建立して勧請し、常行三昧を始修して阿弥陀信仰を始めたと記されている』。『しかし摩多羅神の祭祀は、平安時代末から鎌倉時代における天台の恵檀二流』(日本天台宗における恵心(えしん) 流と檀那 (だんな) 流の二流。良源門下の恵心僧都源信と檀那僧都覚運をそれぞれ祖とする天台教学の流派)『によるもので、特に檀那流の玄旨帰命壇』(げんしきみょうだん:嘗て天台宗に存在した一派で、後に淫祠邪教扱いされて江戸時代には絶滅したとされる)『の成立時と同時期と考えられる』。『この神は、丁禮多(ていれいた)・爾子多(にした)の二童子と共に三尊からなり、これは貪・瞋・癡の三毒と煩悩の象徴とされ、衆生の煩悩身がそのまま本覚・法身の妙体であることを示しているという』。『江戸時代までは、天台宗における灌頂の際に祀られていた。民間信仰においては、大黒天(マハーカーラ)などと習合し、福徳神とされることもある。更に荼枳尼天を制御するものとして病気治療・延命の祈祷としての「能延六月法」に関連付けられることもあった』。また、『一説には、広隆寺の牛祭の祭神は、源信僧都が念仏の守護神としてこの神を勧請して祀ったとされ、東寺の夜叉神もこの摩多羅神であるともいわれる』。『一般的にこの神の形象は、主神は頭に唐制の頭巾を被り、服は和風の狩衣姿、左手に鼓、右手でこれを打つ姿として描かれる。また左右の丁禮多・爾子多のニ童子は、頭に風折烏帽子、右手に笹、左手に茗荷を持って舞う姿をしている。また中尊の両脇にも竹と茗荷があり、頂上には雲があり、その中に北斗七星が描かれる。これを摩多羅神の曼陀羅という』。『なお、大黒天と習合し大黒天を本尊とすることもある』。『この神の祭礼としては、京都太秦、広隆寺の牛祭が知られる』とある。

「松前氏」ウィキの「松前藩」によれば、松前藩は渡島国津軽郡(現在の北海道松前郡松前町)に居所を置いた藩で、藩主は江戸時代を通じて松前氏であった。初代藩主松前慶広(よしひろ)は慶長四(一五九九)年に徳川家康に服し、『蝦夷地に対する支配権を認められた。江戸初期には蝦夷島主として客臣扱いであったが』、第五代将軍『徳川綱吉の頃に交代寄合に列して旗本待遇にな』り、享保四(一七一九)年からは一万石格の『柳間詰めの大名となった』。しかし、『当時の北海道では稲作が不可能だったため、松前藩は無高の大名であり』、「一万石」とは『後に定められた格に過ぎなかった』。慶長九(一六〇四)年に『家康から松前慶広に発給された黒印状は、松前藩に蝦夷(アイヌ)に対する交易独占権を認めてい』る。『松前藩の直接支配の地である和人地の中心産業は漁業であったが、ニシンが不漁になったため』、『蝦夷地への出稼ぎが広まった。城下町の松前は』天保四(一八三三)年までには人口一万人を超える都市となって繁栄したとある。『藩の直接統治が及ばない蝦夷地では』、寛文九(一六六九)年に『シャクシャインの戦いに勝って西蝦夷地のアイヌの政治統合の動きを挫折させ』ている。それ以降は林業政策に力を入れ、十八世紀前半から、『松前藩の家臣は交易権を商人に与えて運上金を得るようにな』り、『請け負った商人は、出稼ぎの日本人と現地のアイヌを働かせて漁業に従事させた。これにより松前藩の財政と蝦夷地支配の根幹は、大商人に握られた。商人の経営によって、鰊、鮭、昆布など北方の海産物の生産が大きく拡大し、それ以前からある熊皮、鷹羽などの希少特産物を圧するようになった』。また、漁業では『漁場の拡大に伴い、日本人は東蝦夷地にも入り込んだが、その地のアイヌは自立的で、藩の支配は強くなかった。この頃には蝦夷地全体で商人によるアイヌ使役がしだいに過酷になっていた。東蝦夷では』寛政元(一七八九)年、『請負商人がアイヌ首長を毒殺したとの噂からアイヌが蜂起し、クナシリ・メナシの戦いへと至っ』ている。十八『世紀半ばには、ロシア人が千島を南下してアイヌと接触し、日本との通交を求めた。松前藩はロシア人の存在を秘密にしたものの、ロシアの南下を知った幕府は』、天明五(一七八五)年から『調査の人員をしばしば派遣し』、寛政一一(一七九九)年には遂に『藩主松前章広から蝦夷地の大半を取り上げ』、同年一月十六日に『東蝦夷地の浦川(現在の浦河町)から知床半島までを』七年間に亙って『上知することを決め』、同年八月十二日には『箱館から浦川までを取り上げ』られてしまう。『これらの上知の代わりとして武蔵国埼玉郡に』五千石を『与え、各年に若干の金を給付することとした』が、享和二(一八〇二)年五月二十四日を以って七年間に及ぶ上知の期限を迎えたにも拘らず、『蝦夷地の返還は行われ』ず、そればかりか、文化四(一八〇七)年二月には『西蝦夷地も取り上げられ、陸奥国伊達郡梁川』(現在の福島県伊達市梁川町鶴ヶ岡)に九千石で転封されてしまう。『なお、この際に藩主であった松前道広が放蕩を咎められて永蟄居を命じられた(一説には密貿易との関係が原因に挙げられているが、当時の記録には道広が遊女を囲ったとする風聞に関する記事が出ており、放蕩説が有力である)』。その後、文政四(一八二一)年十二月七日、幕府の政策転換によって、『蝦夷地一円の支配を戻され、松前に復帰した。これと同時に松前藩は北方警備の役割を担わされることにもなった』とある(下線太字はやぶちゃん)。「甲子夜話」の起筆は文政四(一八二一)年であるから、本文のこの奇怪事件の目撃が「一兩年前」(二年前に同じい表現)というのは、時系列では実にしっくりくることが判るのである。

「神祖」徳川家康。

「八頃」「やつごろ」。定時法ならば「丑三つ」の午前二時頃で、怪異出来には御誂え向きの時刻である。

「怠」「おこたり」。幕府の掌返しを恨むことなく、家康を崇敬したということである。

「御祐」「おたすけ」。

「船橋に鎭坐ある神祖の御宮」現在の千葉県船橋市本町にある船橋東照宮か。ウィキの「船橋東照宮」によれば、『現在は小さな祠が残るのみであり、「日本一小さい東照宮」の異名を持つ』。『この東照宮は』慶長一七(一六一二)年に『家康の命を受け、伊奈忠政が建てたとされる』船橋御殿の跡地に船橋大神宮の富氏が貞享年間』(一六八四年~一六八七年)『に建立したものであると言われている』とある。但し、こちらの記載を読むと、かつては生前の家康の鷹狩のための御殿まであったものが、本文記載の当時は荒廃して開墾されてしまい、畑地となっていたとあるから、違うか? 識者の御教授を乞う。現在の船橋駅の北東直近である。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「文政壬午」(みずのえうま)は松前氏の松前復帰の翌文政五(一八二二)年。

コートにスミレを 平和に花を

 
私は昔から写真でピース・サイン(V)をする輩を見ると嘔吐を催すことを常としている。
 
そんなわけのわからぬことをするのだったら好きな花の一輪でも持ち給え――


 John Coltrane - Violets for yours furs

そうして……

合歓…………

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次は

コスモス…………

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げんげばたけ

 
 

ああ……げんげ畑が見たいなぁ…………何年も見てなぃわぁ…………

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南方熊楠 履歴書(その9) ロンドンにて(5)

 

 小生はそのころ、たびたび『ネーチュール』に投書致し、東洋にも(西人一汎の思うところに反して、近古までは欧州に恥じざる科学が、今日より見れば幼稚未熟ながらも)ありたることを西人に知らしむることに勖(つと)めたり。これを読んで欧州人にして文通の知己となれる知名の人多かりし。時にロンドン大学総長たりしフレデリック・ヴィクトル・ジキンス氏あり。この人幼にして横浜に来たり、東禅寺で茶坊主たりしことあり。梟雄(きょうゆう)の資あってきわめて剛強の人なり。後に横浜で弁護士と医師を兼ね、日本の事物とあれば浄瑠璃、古文国学から動植物までも世界に紹介し、日本協会がロンドンに立つに及びその理事となり、加藤高明氏(そのころの公使)の乾盃辞に答えたことなどあり。この人小生が毎々『ネーチュール』に投書して東洋のために気を吐くを奇なりとし、一日小生をその官房に招き、ますます小生に心酔して、氏が毎々出板する東洋関係の諸事諸文はみな小生が多少校閲潤色したるものなり。なかんずくオクスフォード大学出板の『日本古文』は、『万葉集』を主とし、『枕草紙』、『竹取物語』から発句に至るまでを翻訳したもので、序文に、アストン、サトウ、チャンバレーン、フロレンツと小生に翼助の謝辞を述べあり。このジキンス氏の世話にて、小生は英国第一流の人に知己多少あるに及べり。『ネーチュール』に出せる「拇印考」などは、今に列国で拇印指紋に関する書が出るごとに、オーソリチーとして引かるるものなり。

[やぶちゃん注:「フレデリック・ヴィクトル・ジキンス」日本文学研究者フレデリック・ヴィクター・ディキンズ(Frederic Victor Dickins 一八三九年~一九一五年)。イギリスの日本文学研究者で翻訳家。ウィキの「フレデリック・ヴィクター・ディキンズによれば、当初、イギリス海軍軍医・領事館弁護士として来日し、帰国後はロンドン大学の事務局長(副学長)を務め』、初の本格的英訳とされる「百人一首」(Hyakunin Isshu 一八六六年)を始めとして「竹取物語」(The Bamboo-Hewer's Story or The Tale of Taketori 一八七五年)・「忠臣蔵」(Chushingura, or The Royal League. a Japanese romance 一八七五年)・「方丈記」(Hojoki:Notes from a Ten Feet Square Hut 一九二一年)などを『英訳し、日本文学の海外への紹介に先駆的な役割を果たした人物として知られる』。幕末から明治初期にかけて十八年間も駐日英国公使を務めたハリー・スミス・パークス(Sir Harry Smith Parkes 一八二八年~一八八五年)や、イギリスに於ける日本学の基礎を築いたアーネスト・サトウ(サー・アーネスト・メイソン・サトウ(英語: Sir Ernest Mason Satow 一八四三年~一九二九年:イギリスの外交官でイギリス公使館通訳・駐日公使、駐清公使等を歴任、日本滞在は通算で二十五年にも及んだ)とも『交流があり、南方熊楠も、熊楠が翻訳の手助けをする代わりに』、『イギリス留学中の経済的支援を受けるなど、深い交流があった』。『ロンドン大学で医学を専攻し』、一八五九年に『イングランド王立外科医師会所属の医師となったが、一八六二年には『イギリス海軍の船医となり』、一八六四年十月から一八六六年二月まで横浜に駐在、一旦、帰国し、一八六七年に『ミドル・テンプルに入学』、一八七〇年には法廷弁護士となった。明治四(一八七一)年に『再来日し、英国領事裁判所で働』いたが、一八七八年に体調を崩したことから、翌年に『妻と子供らとともに帰国』、一八八二年にロンドン大学の事務局長補佐となり、一八九六年には事務局長に昇格した(一九〇一年退官)。『ブリストル大学の日本語講師』も勤めている。南方熊楠より二十八歳も年上であった。サイト「南方熊楠のキャラメル箱」のこちらの記載によれば、『熊楠が帰国した後にも文通を通じて交遊を保ち、熊楠が結婚した』時には、『お祝いとしてダイヤの指輪を贈』ったとある。

「東禅寺」これは熊楠の「東漸寺」の誤りかと思われる。横浜市磯子区杉田に現存する臨済宗霊桐山東漸実際禅寺で、正安三(一三〇一)年に北条一族の北条宗長が桃渓徳悟を開山に迎えて建立された。至徳三(一三八六)年には五山十刹の制により、十刹の第七位に列せられている。他にも「東禅寺」という寺はあるが、明治初期の横浜居留地にいた外国人は容易には出かけられず、かなり厳しい許可申請が必要であったから、私は最も近い、由緒あるこの寺であろうと推定したものである。もし誤りであれば、御教授願いたい

「梟雄」「きょうゆう」と読み、本来は、「残忍で強い人」の意である。ここは「残忍」はやめて、「冷徹にして沈着」ぐらいにしておきたい。

「加藤高明」(たかあき 安政七(一八六〇)年~大正一五(一九二六)年)は外交官・外務大臣(第十六・十九・二十六・二十八代)・貴族院議員及び第二十四代内閣総理大臣。ウィキの「加藤高明によれば、尾張藩下級藩士の次男として生まれ、明治一四(一八八一)年七月に『東京帝国大学法学部を首席で卒業し』、『三菱に入社』、『イギリスに渡る。帰国後は、三菱本社副支配人の地位につき』、明治一九(一八八六)年には『岩崎弥太郎・喜勢夫妻の長女・春路と結婚』したが、『このことから後に政敵から「三菱の大番頭」と皮肉られる』こととなる。明治二〇(一八八七)年から『官界入りし』、『外相・大隈重信の秘書官兼政務課長や駐英公使を歴任』し、明治三三(一九〇〇)年には第四次伊藤内閣の外相に就任して『日英同盟の推進などに尽力した』とある(下線やぶちゃん)。南方熊楠の滞英は一八九二年から一九〇〇年である。

「オクスフォード大学出板の『日本古文』」英語原題や出版年の書誌を調べ得なかった。識者の御教授を乞う。

「アストン」イギリスの外交官で、初期の著名な日本研究者であったウィリアム・ジョージ・アストン(William George Aston 一八四一年~一九一一年)。ウィキの「ウィリアム・ジョージ・アストンによれば、朝鮮語の研究者としても知られる。元治元(一八六四)年に、イギリス公使館勤務日本語通訳生として来日し、二年前に来日していた二歳年下のアーネスト・サトウとともに、『日本語の動詞の理論を研究した。この難解な研究は、西欧の学者による日本語研究の基礎となるものであった』(その後その成果を元に彼は日本語文法書も出版している)。明治一七(一八八四)年には『領事試験に合格した。江戸・東京および横浜の公使館に勤務していたサトウとは異なり、アストンは神戸および長崎の領事を務め』、『二年後の明治十九年には通訳としての最高位である日本語書記官に就任した』。その後、一八八四年、『アストンは朝鮮駐在の最初のヨーロッパ人外交官(領事)となったが、政治状況が不安定となったため』、翌年に朝鮮を離れて帰国の途に就いた。彼は「日本書紀」を英訳(Nihongi; Chronicles of Japan from the Earliest Times to A.D. 697 一八九六年)したり、一八九九 年にはA History of Japanese Literature(「日本文学史」)、一九〇五年にはShinto, the Way of the Gods.(「神道」)なども執筆している。

「チャンバレーン」イギリスの著名な日本研究家バジル・ホール・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain 一八五〇年~一九三五年)。東京帝国大学文学部名誉教師。所謂、「お雇い外国人」として明治六(一八七三)年に来日、東京の海軍兵学寮(後の海軍兵学校)で英語を教えた。明治一五(一八八二)年には「古事記」を完訳している(KO-JI-KI or“Records of Ancient Matters”)。明治一九(一八八六)年からは東京帝国大学の外国人教師となった。つ英語の日本語学習書を始めとして多くの著作を発表した。明治四四(一九一一)年に離日した。初期の小泉八雲とも親交があった(後年は疎遠となった)。

「フロレンツ」ドイツの日本学者カール・アドルフ・フローレンツ(Karl Adolf Florenz 一八六五年~一九三九年)であろう。明治二二(一八八九)年に来日し、東京帝国大学でドイツ語・ドイツ文学・比較言語学を講じながら、日本文化を研究、明治三十二年には神代紀の研究によって東京帝大より文学博士号を受けている。他にも「日本書紀」や日本の詩歌・戯曲などを翻訳した。

「拇印考」一八九四年十二月から二月に三回に分けて『ネイチャー』に発表された英文論文The Antiquity of the "Finger-print" Method(「『指紋』法の古式」)。サイト「南方熊楠資料研究会」の「南方熊楠を知る事典」(私も所持している本であるが、なんでこれが入手困難になるかななあ?! 余も末じゃて!)内のこちらのページの松居竜五拇印が詳しい。]

柴田宵曲 續妖異博物館 「眼玉」

 

 眼玉

 

「めでたき風景」(小出楢重)の中に、「一部分といふものは奇怪にして氣味のよくないもの」といふ説がある。その實例として「テーブルの上に眼玉が一個置き忘れてあつたとしたら、吾々は氣絶するかも知れない」と云ひ、「電車の中の人間の眼玉だけを考へて見る。すると電卓の中は一對の眼玉ばかりと見えて來る。運特手が眼玉であり、眼玉ばかりの乘客である。道行く人も眼玉ばかりだ。すると世界中眼玉ばかりが橫行してゐる事になる。幾億萬の眼玉。考へてもぞつとする」と云つてゐる。無氣味な事は他の一部分でも同じかも知れぬが、眼玉は特に表情を具へてゐるだけ、無氣味の度が強さうな氣がする。支那の書物などを讀んでゐると、成程と思ひ當ることが多い。

[やぶちゃん注:以上は洋画家小出楢重(明治二〇(一八八七)年~昭和六(一九三一)年)の随筆集「めでたき風景」の中の「グロテスク」である。初出は別にあるのであろうが、単行本では昭和五(一九三〇)年創元社刊のそれらしい(以下のリンク先「青空文庫」の「図書カード」の記載に拠った)。「青空文庫」のこちらで新字新仮名で読める。「グロテスク」短章なので以下にコピー・ペーストしておく。

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   グロテスク

 

 一部分というものは奇怪にして気味のよくないものである。人間の一部分である処の指が一本もし道路に落ちていたとしたら、われわれは青くなる。テーブルの上に眼玉が一個置き忘れてあったとしたら、われわれは気絶するかも知れない。レールの側に下駄が一足並んでいてさえ巡査の何人かが走り出すのである。毛髪の一本がお汁の中に浮んでいても食慾に関係する。その不気味な人間の部分品が寄り集ると美しい女となったり、羽左衛門となったり、アドルフマンジュウとなったりする。

 私はいつも電車やバスに乗りながら退屈な時こんな莫迦ばか々々しい事を考え出すのである。電車の中の人間の眼玉だけを考えて見る。すると電車の中は一対の眼玉ばかりと見えて来る。運転手が眼玉であり、眼玉ばかりの乗客である、道行く人も眼玉ばかりだ。すると世界中眼玉ばかりが横行している事になる。幾億万の眼玉。考えてもぞっとする。

 今度は臍へそばかりを考えて見る。日本中、世界中は臍と化してしまう。怖るべき臍の数だ。

 無数の乳房を考えて見る。そして無数の生殖器を考えて見る。全くやり切れない気がする。

 やはり人間は全体として見て置く方が完全であり、美しくもあるようだ。それだのに、私は何んだか部分品が気にかかる。

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文中の「アドルフマンジュウ」はアメリカの俳優アドルフ・マンジュー(Adolphe Jean Menjou 一八九〇年~一九六三年)のこと。サイレントからトーキーへの移行期から活躍を開始し、名優ルドルフ・ヴァレンティノ主演のロマンス・アクション「シーク」(The Sheik 一九二一年/サイレント)、チャールズ・チャップリン監督・脚本・製作の「巴里の女性」(A Woman of Paris 一九二三年/サイレント)。マレーネ・ディートリヒとゲイリー・クーパー二大饗宴になる「モロッコ」(Morocco 一九三〇年/トーキー)、今や一九七六年のリメイク版の方が知られるようになってしまった「スタア誕生」(A Star Is Born 一九三七年)といった名作に出演した(以上はウィキの「アドルフ・マンジュー」及びそのリンク先を参考にした)。私は残念なことに、指揮者レオポルド・ストコフスキーが本人役で出演した「オーケストラの少女(One Hundred Men and a Girl 一九三七年)のトロンボーン奏者ジョン役(主演のディアナ・ダービンに完全に食われている)ぐらいしか記憶にはない。

 なお、これは半ばは小出の冗談夢想であるのであろうが、普通人でも漢字の扁や旁りが意識の中で分解してしまうようなゲシュタルト崩壊的感覚があり(これは重い精神疾患を病んだ可能性が頗る高い夏目漱石も体験として述べているはずである)、強迫神経症や統合失調症の一症状にこうした自己の外界へとかぎりなく拡散してゆく病的妄想症状が実際に存在することも言い添えておく。]

「夜譚隨錄」にある「大眼睛」の如きは僅々五十餘字に過ぎぬ。倂し夜座讀書の際に、蝙蝠のやうなものが飛んで來て、危く燈にぶつかりさうになる。慌てて手で拂つたら、ぱたりと下に落ちて、大な眼睛になつた。幅が何寸もあつて、白と黑とが極めてはつきりしてゐる。頻りにぐるぐる𢌞つてゐたが、暫くして見えなくなつたといふのである。この時讀書しつゝあつたのは將軍らしいが、幅何寸もある眼玉が地に落ちてぐるぐる𢌞るのを見たら、仰天したに相違あるまい。假りにそんな大眼玉でなしに、吾々の持ち合せてゐる程度の眼玉にしても、此方が眼を𢌞すこと請合ひである。

[やぶちゃん注:「𢌞」は総て「まはる(まわる)」と読んでよかろう。

「夜譚隨錄」清の和邦額の撰になる志怪小説集。全十二巻。「大眼睛」は「卷二」にある。以下に示すが、柴田の言う通り、句読点を含まないで全五十三字しかない。

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宗室雙豐將軍、夜坐讀書。忽見一物、類蝙蝠、直撲燈來、急以手格之、拍然墜地。化一大眼睛、闊數寸、黑白極分明、繞地旋轉不息、久之方滅。

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「眼睛」「がんせい」は一般には部分としての黒目・瞳のことであるが、これは内容からして明らかに一個のまあるい眼球の意である。]

 唐の肅宗の時、尚書郎房集が頗る權勢を揮つてゐた。一日暇があつて私邸に獨坐してゐると、十四五歳の坊主頭の少年が突然家の中に入つて來た。手に布の囊を一つ持つて、默つて主人の前に立つてゐる。房ははじめ知り合ひの家から子供を使ひによこしたものと思つたので、氣輕に言葉をかけたけれど、何も返事をしない。その囊の中に入つてゐるのは何だと尋ねたら、少年は笑つて、眼玉ですと答へた。さうして囊を傾けたと思ふと、何升もある眼玉がそこら中に散らばつた。家中大騷ぎをする間に、少年の姿は見えなくなり、ばら撒かれた眼玉も消えてしまつたが、この事があつて後、房は事に坐して誅せられた(原化記)。

[やぶちゃん注:「肅宗」かの玄宗の三男(七一一年~七六二年:生母は「楊氏」であるが、かの楊貴妃とは別人)。安禄山の乱の最中、逃げ延びた霊武(現在の寧夏回族自治区霊武市)で側近の宦官李輔国の建言によって自ら皇帝に即位し、元号を「天寶」から「至德」に改めた。ウィキの「粛宗(唐)によれば、『これは玄宗の事前の了承を得た即位ではなかったが、玄宗は後にこの即位を認め、自らは上皇となった』とある。粛宗の在位は七五六年~七六二年である。

「尚書郎」詔勅の実務執行機関である「尚書省」の長官。

「房集」不詳。

「原化記」は晩唐の皇甫氏の撰になる小説集であるが、散逸しており、以上は「太平廣記」の「妖怪四」の「房集」を指すのであろう。以下。

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唐肅宗朝、尚書郎房集、頗持權勢。暇日、私弟獨坐廳中、忽有小兒、十四五。髠髮齊眉。而持一布囊、不知所從來、立於其前。房初謂是親故家遣小兒相省、問之不應。又問囊中何物、小兒笑曰。眼睛也。遂傾囊、中可數升眼睛、在地四散。或緣墻上屋。一家驚怪、便失小兒所在、眼睛又不復見。後集坐事誅。

   *]

 前の大眼晴は突然燈下に現れただけで何事もなかつたけれど、房集の場合は明かに凶兆であつた。何升もある眼玉は驚魂駭魄に値する。「通幽記」に錦の囊を持つた華麗な婦人に便船を賴まれる話があつて、その囊の中には髑髏が一杯入つてゐたといふが、眼玉入りの囊は氣味の惡い點に於て、それに優るとも劣らぬものである。殊に十四五歳の少年が笑つて「眼玉です」と答へるなどは、氣味の惡い行き止まりであらう。「夜讀隨錄」の話のやうに、地に落ちてからぐるぐる𢌞る餘興はないにせよ、その代り數に於て他を壓倒するものがある。こんな話ばかり讀んでゐると、小出氏の云ふ通りぞつとして來る。口直しにもう少し無邪氣な話を持ち出すことにしよう。

[やぶちゃん注:「通幽記」陳劭(ちんしょう)なる人物が志怪小説集。散逸して「太平廣記」に三十篇近くが収録されてある。以上は同書の「鬼二十三」に載る、「通幽記」から引いたとした「王垂」。

   *

太原王垂、與范陽盧收友善、唐大曆初、嘗乘舟於淮浙往來。至石門驛旁、見一婦人於樹下、容色殊麗、衣服甚華、負一錦囊。王盧相謂曰、「婦人獨息、婦囊可圖耳。」。乃彌棹伺之、婦人果問曰、「船何適。可容寄載否。妾夫病在嘉興、今欲省之、足痛不能去。」。二人曰、「虛舟且便可寄爾。」婦人攜囊而上、居船之首。又徐挑之、婦人正容曰、「暫附何得不正耶。」。二人色炸。垂善鼓琴、以琴悅之。婦人美豔粲然、二人振盪、乃曰、「娘子固善琴耶。」。婦人曰、「少所習。」。王生拱琴以授、乃撫「軫泛弄」泠然。王生曰、「未嘗聞之、有以見文君之誠心矣。」。婦人笑曰、「委相如之深也。」。遂稍親合、其詼諧慧辨不可言、相視感悅、是夕與垂偶會船前。收稍被隔礙而深歎慕。夜深、收竊探囊中物、視之、滿囊骷髏耳。收大駭、知是鬼矣、而無因達於垂。聽其私狎甚繾綣。既而天明、婦人有故暫下、收告垂、垂大懾曰、「計將安出。」。收曰、「宜伏簀下。」。如其言。須臾婦人來問、「王生安在。」。收紿之曰、「適上岸矣。」。婦人甚劇、委收而迫垂、望之稍遠、乃棄於岸。併棹倍行數十里外、不見來、夜藏船處鬧。半夜後、婦人至、直入船、拽垂頭。婦人四面有眼、腥穢甚、齒咬垂、垂困。二人大呼、眾船皆助、遂失婦人。明日、得紙梳於席上、垂數月而卒。

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柴田の梗概は簡略に過ぎる。メルマガもとっている話梅子(huameizi)氏の「寄暢園別館」のこちら(「樹下の美女」)に全文の現代語訳が載るので参照されたい。]

 東都の陶化里に空宅があつた。大和年間に張秀才なる者がこの家を借りたところ、忽ち妙な不安に襲はれる。苟くも慷慨の志を抱く男子が、このくらゐの事に怯れるとは何事だと自ら叱して依然その家を去らずにゐたが、或夜ひそかに枕をそばたてて見ると、道士十五人、僧徒十五人が六列に竝び、威儀を正して控へてゐる。それとは別に二個の物があつて、絶ろずごろごろ轉がつて居り、この物には各々二十一の眼があつて、そのうち四つの眼は火の色に光つて居つた。この物の轉がる間を三十人が東西南北に走り𢌞つて、何か勝負を爭ふらしい。彼等の動作も、二つの物の眼の光りも、別に張秀才を恐怖させることはなかつたけれど、彼等が勝負の間にいろいろなことを云ひ合ふので、てつきり妖怪と信じ、枕を取つて投げ付けた。三十人も二つの物も、一時にあわてふためいて見えなくなつてしまつた。翌日その室内を搜して見たら、壁の隅のところに古い破れた囊があるに過ぎなかつた。囊は囊でも内容は安全なもので、三十箇の行子(こま)と一雙の賽(さい)だけであつた。

 この話は中途まで讀んで來ると、人間の眼玉などに緣のないことがわかるので、その點は頗る安心である。賽の目といふ言葉は現在でも通用するが、古い萬葉集時代の人も「一二之目耳不有五六三四佐倍有雙六乃佐叡(ひとふたのめのみにはあらずいつゝむつみつよつさへありすぐろくのきえ)」と詠んでゐる。二十一の眼などといふところで、已に人間離れがして來るわけであらう。たゞ吾々はこの時代の遊戲に關する知識が乏しいため、三十箇の行子といふことが十分にわからぬのを遺憾とする。「太平虞記」はこの話の出典を缺いてゐるので、原話は何に出てゐるのかわからない。

[やぶちゃん注:「東都」ここは洛陽であろう。

 以上のそれは「太平廣記」の「卷第三百七十」の「精怪三」にある「張秀才」である。末尾には『原闕出處。按見「「宣室志補遺」』とある。

   *

 東都陶化裡、有空宅。大和中、張秀才借得肄業、常忽忽不安。自念爲男子、當抱慷慨之志、不宜恇怯以自軟。因移入中堂以處之。夜深欹枕、乃見道士與僧徒各十五人、從堂中出。形容長短皆相似、排作六行。威儀容止、一一可敬。秀才以爲靈仙所集、不敢惕息、因佯寢以窺之。良久、別有二物、輾轉於地。每一物各有二十一眼、四眼、剡剡如火色。相馳逐、而目光眩轉、砉有聲。逡巡間、僧道三十人、或馳或走、或東或西、或南或北。道士一人、獨立一處、則被一僧擊而去之。其二物周流於僧道之中。未嘗暫息。如此爭相擊搏、或分或聚。一人忽叫云、「卓絶矣!」。言竟、僧道皆默然而息。乃見二物相謂曰、「向者群僧與道流、妙法高、然皆賴我二物、成其教行耳。不然、安得稱卓絶哉。」。秀才乃知必妖怪也、因以枕而擲之。僧道三十人與二物、一時驚走、曰、「不速去、吾輩且爲措大所使也。」。遂皆不見。明日、搜尋之、於壁角中得一敗囊、中有長行子三十個、並骰子一雙耳。

   *

「一二之目耳不有五六三四佐倍有雙六乃佐叡」これは「萬葉集」の「卷第十六」に載る(三八二七番歌)、長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ:伝未詳。柿本人麻呂や高市黒人(たけちのくろひと)らとほぼ同時期に宮廷に仕えていた下級官吏と推定される。集中、短歌十四首が収録されている)八首の中の第四首。講談社文庫の中西進氏の読みを示す。読み易さを考えて字配を変化させた。

 

    雙六(すごろく)の頭(さえ)を詠める歌

 一二(いちに)の目 のみにはあらず

    五六三四(ごろくさむ)

   四(し)さへありけり

            雙六のさえ

 

「頭(さえ)」は賽(さい)・骰子(さいころ)のこと。「雙六」は黒白それぞれ十五の石を二つの骰子を振って出た数字だけ敵陣に進め、先に総てを送り込んだ方が勝ちとする遊戯。古くより、子どもの遊びとしてではなく、大人の賭博として流行し、持統天皇の治世(六九〇年~六九七年)には禁止令も出ている。

「行子三十個」調べて見たが、不詳。ただ、現在の中国将棋はそれぞれが十四の駒で計二十八駒あるから、かなり近いが、現行のそれは骰子は使用しない。]

柴田宵曲 續妖異博物館 「髑髏譚」(その2) / 「髑髏譚」~了

 

 倂し多くの髑髏の中には變つた話がないでもない。長間の佐太といふのは美濃の男で、文龜年間の戰爭の時に京に上つたが、その後道心を發して國にも歸らず、洛北栢野のほとりに草庵を結び、北山に買ひ請けた柴を都へ出て賈つて暮して居つた。或日北山へ行つた戾り道、夜遲く蓮臺野にさしかゝると、路傍の古塚が突然兩方に壞れて口を開いた。大膽不敵の佐太は少しも驚かず、立ち止つて見たところ、内より光りが出て輝く事、松明(たいまつ)の如くである。塚の中の白骨は髑髏ばかりでなく、手足はほぼ全きまゝ橫はつてゐたが、それが俄かに起き上るや否や、佐太にひしと抱き付いた。力に任せてこれを突けば、仰向けに倒れてばらばらになり、それきり動かず、前の光りも消えてしまつた。何人の塚ともわからぬので、翌日またそこへ行つて見たら、白骨碎け塚崩れ、あはれな有樣になつてゐたと「伽婢子」にある。

[やぶちゃん注:「柏野」現在の京都市北区紫野の柏野(かしわの)地区。ここ(グーグル・マップ・データ)。紫野や蓮台野の南続く洛北七野(しちの:他は内野・北野・平野・〆野(しめの:「点野」とも書くようである)・上野)の一つ。

 以上は「伽婢子」(おとぎぼうこ:但し、どうも柴田は先行叙述から見ると、「お」を冠さず「とぎぼうこ」と読んでいるようである)の「卷之六」にある「白骨(はつこつ)の妖怪」(「妖怪」の「怪」を「恠」ともする刊本もある)である。新日本古典文学大系版(松田修・渡辺守邦・花田富士夫氏校注)を参考に、恣意的に漢字を正字化して示す。なお、参考底本の注も私の注の参考にさせて貰った。読みは原典が歴史的仮名遣や読みを誤っている箇所があって奇異なので、オリジナルに限定して正規の読みを附した。また、本文も読み易さを考えて、一部の読みを送り仮名として外に出し、直接話法を改行、鍵括弧や句読点も追加してある。但し、本文中の歴史的仮名遣の誤りは原典のママである。踊り字「〲」「〱」は正字化した。参考底本の挿絵も掲げておく。

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Sata

 

 長間佐太(ながまのさた)は濃州の者也。文龜丙寅(ひのえとら)の年[やぶちゃん注:文亀は一五〇一年から一五〇三年であるが、「丙寅」の年はない。前後で近い「丙寅」は永正三(一五〇六)年である。]、公方(くばう)[やぶちゃん注:室町幕府第十一代将軍足利義澄。]の軍役(ぐんやく)に驅(から)れて京都に上り、役果てゝ後も國に歸らず、

  わすれてもまた手にとらじあづさ弓もとの家路をひきはなれては

と詠じて道心おこし、都の北、柏野(かしはの)のかたほとりに、

草の庵(いほり)を結び、さすがに乞食(こつじき)せんもあまりなれば、北山に行きて柴(しば)といふものを買ひ受けて、都に出でて賣(うり)しろなし、少しの利を求め、餠(もちひ)くひ、酒かふて、打ち飮みつゝ、庵にかへる時は尻うちたゝき歌うたひ、或時は房(てら)に行きて庭の塵を掃治(さうぢ)し、仏前の壒(ほこり)をはらひ、日暮て道遠ければ、堂の軒に夜をあかし、明くれば又柴をになひ賣りけり。澁染(しぶそめ)の帷子(かたびら)一重(ひとへ)だに肩すそ破れ侍れども、心にかゝるすべもなし。

 土岐成賴(ときなりより)[やぶちゃん注:美濃国の守護大名で嘉吉二(一四四二)年生で明応六(一四九七)年没(自害)。時代が微妙に齟齬している。]が家人(けにん)石津(いしづ)の某(なにがし)といふものは、同國のよしみを以て、小袖ひとつ錢三百文をあたへて、

「時々はこゝへおはして食事をも受け給へ。」

といふ。佐太、是をとりて庵に歸りしが、四、五日ありて錢も小袖も皆、返していふやう、

「物をたくはゆるといふは、妻子のある人にとりての事ぞや。我は思ひ離れて妻子もなし。身ひとつは行く先を泊りとさだめ、食事はあるにまかせ、物ごとに心をとゞめねば、たのしさ、いふばかりなし。しかるを、此の小袖・錢を庵にをきぬれば、外に出でては、早く歸らんとおもひ、出づる時には戸をたて、ぬす人にとられじと用心に隙(ひま)なく、此ほどのたのしみ、ことごとく、うせはてたり。たゞこれ程の物に心をつかはれむは、まことにあさましからずや。」

とて返し侍べり。

 ある日、北山に赴き歸るさ遲く、蓮臺野にさしかゝりては夜半ばかりと覺ゆ。道のかたはらにひとつの古塚(ふるつか)ありて、にはかに両方にくづれひらけたり。佐太は、心もとより不敵(ふてき)にして、力もつよかりければ、少しもおどろかず立ちとまりて見れば、内よりひかり出でて、あたりまでかゝやく事、松明(たいまつ)のごとし。一具(いちぐ)の白骨(はつこつ)ありて、頭(かうべ)より足までまつたくつゞきながら、肉(にく)もなく筋(すぢ)も見えず。たゞ白骨のみ、かうべ・手足つらなりて、臥(ふ)してあり。その外には何もなし。この白骨、にはかにむくとおきあがり、佐太に、ひしと、いだきつきたり。佐太は、したゝかものなれば、力にまかせてつきければ、のけさまにたをれて、頭(かしら)・手足、はらはらとくづれちり、重ねてうごかず。火のひかりもきえてくらやみになりたり。いかなる人の塚ともしれず。次の日、行きて見れば、白骨くだけ、塚、くづれてあり。後に佐太はその終る所を知らず。

   *

なお、参考底本の注には、本話の『全体の構想は』、「五朝小説」(「笑府」の作者として知られる明末の作家で陽明学者の馮夢龍(ふうむりゅう 一五七四年~一六四六年)が魏・晉・唐・宋・明の編したとされる小説叢書)の「睽車志(けいしゃし)」の中の「劉先生者河朔人……」『に基づく』とある。「續妖異博物館」に入ってからの柴田は大陸物の志怪小説に入れ込んでいるから、それに敬意を表して(江戸随筆からやや離れてしまった仕儀への私の恨みを込めた皮肉である)、その種元(これはまた、完全な剽窃である)も以下に中文サイトより加工したものを掲げておく。

   *

劉先生者、河朔人、年六十餘、居衡嶽紫蓋峰下。間出衡山縣市、從人丐得錢、則市鹽酪逕歸、盡則更出。日攜一竹籃、中貯大小筆棕帚麻拂數事、遍遊諸寺廟、拂拭神佛塑像、鼻耳竅有塵土、即以筆拈出之、率以爲常、環百里人皆熟識之。縣市一富人嘗贈一衲袍、劉欣謝而去。越數日見之、則故褐如初。問之、云、「吾幾爲子所累。吾常日出、庵有門不掩、既歸就寢、門亦不扃。自得袍之後、不衣而出、則心繫念、因市一鎖、出則鎖之。或衣以出、夜歸則牢關以備盜。數日營營、不能自決。今日偶衣至市、忽自悟以一袍故、使方寸如此、是大可笑。適遇一人過前、即袍與之、吾心方坦然、無復繫念。嘻、吾幾為子所累矣。」。嘗至上封、歸路遇雨、視道邊一塚有穴、遂入以避。會昏暮、因就寢。夜將半、睡覺、雨止、月明透穴、照壙中歷歷可見、甓甃甚光潔、比壁惟白骨一具、自頂至足俱全、餘無一物。劉方起坐、少近視之、白骨倏然而起、急前抱劉。劉極力奮擊、乃零落墮地、不復動矣。劉出每與人談此異。或曰、「此非怪也、劉眞氣壯盛、足以翕附枯骨耳。」今兒童拔雞羽置之懷、以手指上下引之、隨應、羽稍折斷即不應、亦此類也。

   *]

 あなめあなめの系統を引くやうではあるが、もう少し念入りな話が「黑甜瑣語(こくてんさご)」にあつた。南部の山嶺に續く森の館といふところを領した斯波信濃の家來に、森山大膳といふ步士(かち)があり、或夜更けに白嶺の山道を通ると、木立の彼方に人が居るらしく、「ほに出る枯尾花、訪ひ來しなうき寢の夢、さむればみねの松風」といふ謠を、濁(だみ)たる聲で繰り返しくうたふのが聞える。森山が立ち寄つて見るのに、恰も月夜であつたので、朽ち殘つた髑髏に尾花が生ひ茂り、上下の齒はまだ落ちずにゐる口から、謠の聲の出ることがわかつた。髑髏は森山に向つて、自分の頭に茂る尾花を拔いて下さらぬか、と云ふ。お易い事と除き去つたら、これで苦しみも解けました、ありがたう存じます、と挨拶し、それきり何も云はなくなつた。

[やぶちゃん注:「南部」陸奥国の南部である。

「斯波信濃」不詳であるが、以下のリンク先の原典を見ると、戦国から安土桃山にかけての大名であった斯波詮直(しばあきなお)の子詮森(のりもり)の一家であると記す。原典割注に、詮森は『九戸氏の糊口人にてありし斯波尾州直持の苗裔此時落魄して九戸に依る』とある。

 以上は「黑甜瑣語第二編」の「第五卷」の「髑髏(どくろ)の謠(うた)」である。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のこちらから視認出来る。]

 次の日主君の前に出た時、この話をしても皆相手にならぬ。左樣な僞りは申さぬものぢやとか、尊公が狐狸に化かされたのだらうとかいふ調子にあしらはれ、森山は大いに面目を失つた。なほ云ひ募つた結果、それならその髑髏を持つて來て見せられい、といふことになり、森山も自分の云ふことが僞りならば首を賭けると云ひ放つた。それから昨日のところに來て見ると、髑髏は依然としてそこに在り、森山が成行きを話し、昨夜苦しみを救つた禮に、何卒その者どもの前で物を云つて貰ひたい、と賴むのを直ちに引き受けた。油單(ゆたん)に包まれた髑髏は主君の前に運ばれ、さあ謠へ、さあ語れ、といふ段になつたが、髑髏は鍼默して何も言はぬ。二言はないといふ武士の世界の事だから、森山は遂に二つとない首を打たれてしまつた。その時髑髏が急にからからと笑ひ、「今こそ我願ひ叶ひ、多年の本懷をとげて、恨みもはる月の上ればみねの松風」と謠ひ出したのは、まことに不思議千萬であつたが、あとでいろいろ聞いて見ると、森山は先年いさゝかの事から家來を無實の罪に陷れ、手討ちにしたことがある。その恨みが長く髑髏にとゞまり、かういふ手數をかけて、森山が首を失ふやうになつたものだらうといふ話であつた。

 髑髏の聲を發する話は、古く「今昔物語」に廣淸といふ僧の話がある。廣淸は叡山の東塔の千手院に在つて、日夜法華經を誦してゐたが、京に下つて病に罹り、依然法華經を讀誦しつゝ歿した。その墓所から毎夜法華經を誦する聲が聞え、必ず一部を誦し通す。弟子がこの事を聞いて、その髑髏を叡山の淸きところに移したが、こゝでも法華經の聲がしたといふのである。これは已に佛果を得てゐるわけだから、「黑甜瑣語」のやうな無氣味な聲ではなかつたらうと思はれる。

[やぶちゃん注:そうだろうか? 清浄な場所に移しても「法華経」読誦の声がし続けるというのは、次に柴田が引く「雨月物語」の「靑頭巾」同様、その一念に執して居はするものの、「執着」故に、それは決して覚悟したり悟達しているのではないのである。しておれば、「法華経」を現世に於いて読誦し続けねばならぬ理由がないからである。浄土に行ったが、衆生済度のために敢えて再び現世に戻って回向をしているとする考え方も出来なくはないが(浄土教の「還相回向(かんそうえこう)」はそれである)、だったら、この「廣淸」(現代仮名遣で「こうじょう」と読む。伝未詳)は生き仏として祀られねばならぬはずだが、そんな感じはこの話柄にはなく、そんな事実があったという記録もない。どうも、こういう話は私は頗る胡散臭いものとしか思えぬのである。

 以上は「今昔物語集」の「卷第十三」にある「比叡山僧廣淸髑髏誦法花語第三十」(比叡(ひえ)の山の僧廣淸(くわうじやう)の髑髏(どくろ)、法花(ほつくゑ)を誦(じゆ)する語(こと)第三十)である。以下に示す。

   *

 今は昔、比叡の山の東塔(とうたふ)に、千手院と云ふ所、有り。廣清(くわうじやう)と云ふ僧、住(ぢう)す。幼(えう)にして山に登りて、師に隨ひて出家して、法花經を受け習ひて、其の義理を悟りて、常に讀誦(どくじゆ)す。亦、道心有りて、常に後世(ごせ)を恐るる心有り。事の緣に被引(きか)れて、世路に𢌞(めぐ)ると云へども、只‘ただ)隱居を好む心のみ有り。日夜に法花經を誦して、

「願くは、此の善根を以つて菩提に囘向(ゑかう)す。」

と。

 而る間、中堂に參りて、終夜(よもすがら)法花經を誦して、後世の事を祈請する間に寢入りぬ。夢に八(やたり)の菩薩を見る。皆、黃金の姿也。瓔珞莊嚴(やうらうしやうごん)を見るに、心の及ぶ所に非ず。廣淸、此れを見て、恐れ貴(たふと)むで禮拜(らいはい)せむと爲(す)るに、一(ひとり)の菩薩在(まし)まして、微妙(みけう)の音(こゑ)を以つて、廣清に告げて宣はく、

「汝、法花經を持(たも)ちて、此の善根を以つて、生死(しやうじ)を離れて菩提に至らむと願ふ。疑ひを成す事無くして、彌(いよい)よ不退(やま)ずして、法花經を可持(たもつべ)し。然らば、我等(われら)八人(やたり)來りて、汝を極樂世界に送るべし。」

と宣ひて後、忽ちに不見給(みえたまは)ず、夢、覺めぬ。

 其の後(のち)、泣々(なくな)く喜び貴むで禮拜す。彌よ心を至して法花經を讀誦する事、更に懈怠(けだい)無し。而る間、常に此の夢の告げを心に懸けて、忘るる事無く後世を憑(たの)む。

 其の後、事の緣に依りて、京に下りて、一條の北の邊(ほとり)に有る堂に宿(やどり)しぬ。日來(ひごろ)を經る間に、其の所にして身に病を受けて惱み煩ふ間、彌よ心を至して法花經を讀誦して、彼(か)の夢の告げを信ず。

 而るに、遂に病、愈(い)ゆる事無くして死ぬ。弟子、有りて、近き邊(ほとり)に棄置(すておか)れつ。[やぶちゃん注:遺棄したのではなく、埋葬したの謂いであるので注意。でなければ、以下の改葬・安置などするはずもない。]其の人の墓所(はかどころ)に、夜每(よごと)に法花經を誦する音(こゑ)有り。

「必ず一部を誦し通す。」

と。弟子、人の告げに依りて、其の髑髏を取りて、山の中に淸(きよ)き所を撰びて置きつ。其の山の中(なか)にても、尚、法花經を誦する音(こゑ)、有り。

 此れ希有(けう)の事也となむ語り傳へたるとや。

   *]

「雨月物語」の「靑頭巾(あをづきん)」は快庵禪師が下野(しもつけ)の富田といふ里で、鬼となつた院主に靑頭巾を被せ、「江月照松風吹。永夜淸宵何所爲」の二句を授け、しづかにこの句の意を求むべし、その意を解し得た時は本來の佛心に會し得た時ぞ、と諭して去る。翌年再びこの地を過ぎて荒廢した寺をたづね、去年鬼に靑頭巾を被せたところに行つて見ると、僧とも俗ともわからぬ影のやうな人物がそこに居り、折々蚊の鳴くやうな聲で「江月照松風吹。永夜清宵何所爲」の二句を唱へて居つた。禪師乃ち禪杖を取り直し、作麼生何所爲(そもさんなんのしよゐ)ぞと一喝してその頭を擊てば、朝日を受けた氷のやうに消え失せ、あとには靑頭巾と骨ばかりが殘つたといふ話である。

[やぶちゃん注:以上は私の大好きな作品で、高校教師時代にはオリジナルによく授業をした。原文オリジナルオリジナル授業をサイトで公開している。そちらでじっくりとお楽しみあれかし。

 この骸骨も惡いことはない。倂し「太平廣記」に或人が巴峽に行つて、夜泊の舟中に居ると、人の詩を朗詠する聲が聞える。「秋逕塡黃葉。寒摧露草根。猿聲一叫斷。客淚數重痕」といふ詩を繰り返し繰り返し詠ずるのである。その聲が甚だ厲(はげ)しく、激昂して悲しむものの如く、夜が明けるまでに何十遍續いたかわからぬ。天が白むのを待つて四邊を見ても、そんな舟は一つもない。ただ空山石泉の目に入るばかりであつたが、昨夜詩を詠ずる聲の聞えた方角へ行つて見たら、骸骨が橫はつて居つた。この詩は旅客の情を抒べたもので、激昂して悲しむほどの意は含まれて居らぬ。いづれ骸骨の主(ぬし)の上に悲痛な話があるに相違ないが、その邊は何もわからず、たゞ巴峽の朗詠が傳はつてゐるのみである。頭も尻尾もないこの話の方が、靑頭巾を被せたり、二句を授けたりする「雨月物語」より哀れ深く、神韻縹渺たるものを藏してゐる。

[やぶちゃん注:最後の柴田の評には深く共感する。私は大好きな「靑頭巾」であるが、そのエンディングには禪の公案というものが宿命的に持つところの、ある種の方便に強い違和感を覚えるからである

「巴峽」(はけふ(はきょう))は中国湖北省巴東県((グーグル・マップ・データ))の長江の名勝。

「抒べた」「のべた」。

 以上は「太平廣記」の「鬼十三」の「巴峽人」である。

   *

調露年中、有人行於巴峽。夜泊舟、忽聞有人朗詠詩曰。秋逕塡黃葉、寒摧露草根。猿聲一叫斷、客淚數重痕。其音甚厲激昂而悲。如是通宵。凡吟數十遍。初聞、以爲舟行者未之寢也、曉訪之。而更無舟船、但空山石泉、谿谷幽絶、詠詩處有人骨一具。

   *

詩のみ、自己流で訓読しておく。

 

秋の逕(こみち)は 黃葉(わくらば)に塡(うづ)み

摧(くだ)かるるがごとき寒さは 草根(さうこん)に露(つゆ)す

猿聲(えんせい) 一叫(いつきやう)して斷(た)ち

客淚(かくるい) 數重(すじゆう)を痕(しる)す

 

この巴峡は猿声の名所であればこそ、この「斷」は、まさしく、かの小猿を捕られた母猿の臟が断ち切れていた故事と連動するものであり、猿の一声の叫びはこれ「断腸の哀しみを催させる」という作者の悲愁を含ませた一字である。]

2017/04/14

柴田宵曲 續妖異博物館 「髑髏譚」(その1)

 

 髑髏譚

 

 小野小町の髑髏(どくろ)の話は、日本の髑髏譚の代表的なものである。何しろ髑髏の主が絶世の美人で、弔ふのが天下の美男在原業平と來てゐるのだから、これ以上の配役はあるまい。業平が奧州八十嶋に宿つた時、野中に聲あつて「秋風の吹くたびごとにあなめあなめ」と云ふ。翌日そこへ行つて見ると、一つの髑髏がころがつてゐて、その目の穴から薄(すすき)が生えて居つた。小野小町がこの國に下り、ここで亡くなつたといふ話を聞いて、業平もあはれに思ひ、「小野とはいはじ薄生ひけり」と下の句を付けた、といふのが「古事談」の記載である。

[やぶちゃん注:「奧州八十嶋」不詳。以下の「古事談」の参考底本の注にも、『陸奥の海辺の一地名という以上に何処かに比定することは無意味』とする。

「あなめあなめ」「あな! 眼!」「あな! 目痛し!」の略とする、判りやすい通俗的語源解釈説で採っておく。

「古事談」は鎌倉初期、村上源氏の刑部卿源顕兼(永暦元(一一六〇)年~建保三(一二一五)年)の編になる説話集。。建暦二(一二一二)年から没年の間で成立。以上は「卷第二」の「二七 業平、小野小町の髑髏と連歌する事」。以下に岩波新古典文学大系版(二〇〇五年刊)の書き下し文を参考底本として、漢字を恣意的に正字化して示した。〔 〕は原典の傍注、【 】は原典の割注。読みは参考底本の一部に限った。

   *

業平朝臣、〔二条后高子、長良子、淸和后、陽成母〕【宮仕以前】を盜みて、將(ゐ)て去る間、兄弟達【昭宣公等】、追ひ至りて奪ひ返す時、業平の本鳥(もとどり)を切る、と云々。仍りて髮を生(おほ)す程、歌枕を見ると稱(い)ひて、關東に發向す【伊勢物語に見えたり】。奥州八十嶋に宿する夜、野中に和歌の上の句を詠ずる聲有り。其の詞に曰はく、「秋風の吹く般每(たびごと)に穴目々々」と。音に就きて之れを求むるに人無し。只だ一つの髑髏有り。明旦猶ほ之れを見るに、件(くだん)の髑髏の目の穴より薄生(お)ひ出でたりけり。風の吹く毎に薄のなびくおと此くの如く聞えけり。奇恠(きくわい)の思ひを成す間、或る者云はく、「小野小町此の國に下向して、此の所において逝去す。件の髑髏なり」と云々。爰(こ)こに業平、哀憐を垂れて下の句を付けて云はく、「小野とはいはじ薄生ひけり」と云々。件の所を小野と云ひけり。此の事日本紀式に見えたり。

   *

最後の「日本紀式」などという書物は存在しない。]

 小町の話は小町として獨立して差支へないが、「述異記」に見えた「周氏婢」の話などは、短いながら頗る似通つたところがある。その婦が山へ薪を採りに行つて晝寢をしてゐると、夢に一人の女が現れて、私の目の中に刺(とげ)がある、どうかこれを拔いて下さい、と云つた。目が覺めてあたりを見たら、一棺の中に髑髏があつて、その目から草が生えてゐる。乃ちこれを拔いて歸つたが、後に路傍で金の指環を二つ拾つたとある。この女は小町のやうに有名な人物ではないので、美人であつたかどうかわからない。金の指環は蓋し棺と共に葬られたもので、目の草を除いてくれたお蔭にくれたのであらう。何しろ相手が山へ薪を探りに行く婢だから、業平の場合のやうな應酬が見られぬのは致し方がない。

[やぶちゃん注:「太平廣記」の「夢一」に「述異記」(南朝梁の任昉(じんぼう 四六〇年~五〇八年)が撰したとされる志怪小説集。二巻)からの引用として載る「周氏婢」。

   *

陳留周氏婢入山取樵、倦寢。忽夢一女子、坐中謁之曰。吾目中有刺、願乞拔之。及覺、忽見一棺中有髑髏、眼中草生、遂與拔之。後於路傍得雙金指環。

   *

中国語はやはり凄いな。原文は柴田の訳の半分以下の字数だもの。]

 髑髏の目の話はもう一つある。寶龜九年といふから、小町よりこの方が古いわけだが、備後國葦田郡大山里の人が正月の物を買ふために、同國の深津の市(いち)まで行く途中、日が暮れて葦田の竹原に一宿した。然るに終夜呻り聲を發し、目が痛いといふ者があるために睡り得ず、夜が明けて見れば一つの髑髏があつて、芒(すすき)でなしに笋(たかんな)が目の穴に生えて居つた。乃ちこれを除き、自分の携帶した食物を供へ、何卒我れに福を得しめ給へと精々慾張つた祈願を籠めた。それより市に到り買ふものが皆意の如くなつたので、偏(ひと)へに髑髏に祈念したお蔭であると喜んで、歸りにまた竹原に到ると、髑髏が後シテには人の形で現れた。さうして自分の生國や名前を名乘り、こゝに髑髏となつてころがつてゐるのは、伯父秋丸に殺された爲である、風が吹く每に目が痛くて堪らなかつたが、その苦しみはお情けによつて免れ得た、あなたの御恩に酬いたいから、今月の晦日の夕方、自分の父母の家に行つていたゞきたい、その晩でないと報恩の折がない、と云つた。大山里の男は怪しみながら誰にもこの事を告げず、約を踐(ふ)んで行つたところ、髑髏の靈現れ、手を執つて屋内に入る。そこに供へられた食物を共に食べ、殘りをつゝんでくれた上、靈は搔き消す如く失せてしまつた。父母は諸靈を拜せんがために入つて、知らぬ男のゐるのに驚き、こゝへ來たいはれを尋ねる。髑髏に聞いた子細を委しく述べたので、父母は愈々驚き、秋丸を呼んで嚴しく問ひ糺した。事こゝに至つてはどうにもならず、秋丸は自分の罪狀を逐一告白する。髑髏もはじめて浮び得たわけであらう。父母は改めて大山里の男に感謝し、厚くこれをもてなした。「日本靈異記」はこの話の末に、髑髏すらなほ是の如しと云つて、大いに忘恩の徒を戒めてゐるが、この話は小町や周氏の婢の場合のやうに單純ではない。一命を奪はれた伯父に對し、深い恨みを懷いてゐるわけであるから、何よりも枉屈(わうくつ)を伸べる點に重きを置かなければならぬ。時代が古いに拘らず、江戸時代の芝居じみた感じを受けるのは、犯罪事件の絡むためと思はれる。

[やぶちゃん注:「寶龜九年」七七八年。

「葦田郡」(あしだぐん)は、広島県の旧郡。現在の府中市の大部分と、福山市及び神石郡神石高原町の一部に相当する。

「大山里」不詳。

「深津の市(いち)」旧深安郡内にあったと考えられる市(いち)。現在の広島県福山市内に比定されている。

「葦田の竹原」現在の広島県府中市(福山市の南西。ここ(グーグル・マップ・データ))附近に比定されている(後注に出す角川版板橋氏の注に拠る)。

「呻り聲」「うなりごゑ」。

「今月の晦日」十二月であるから、大晦日である。古くは邪気を払う追儺(ついな)の儀式が行われた神聖な日であり、以下の原文にも出るように、この日は霊祭りも行われた。従って、霊がこの日に来訪を限ったことは深い民俗的な関係(霊的パワーの最大値の発揮点など)があると考えてよい。

「枉屈」(おうくつ)は、身を屈め、遜(へりくだ)ること。

 以上は「下卷」の「髑髏(ひとかしら)の目の穴の笋(たかむな)を掲(ぬ)き脱(はな)ちて、もちて祈(ねが)ひて靈表を示す緣第二十七」である。以下に示す。角川文庫の板橋倫行校注本(昭和五二(一九七七)年第十八版)を参考底本とした。

   *

白壁の天皇のみ世、寶龜九年戊午(つちのえうま)の冬十二月下旬に、備後の國葦田(あしだ)の郡大山の里の人、品知(ほむち)の牧人(まきと)、正月の物を買はむが爲に、同じ國の深津(ふかつ)の郡深津の市に向かひて往く。中路(みちなか)にして日晩(く)れ、葦田の郡の葦田の竹原に次(やど)る。宿れる處に、呻(によ)ぶ音(こゑ)有りて言はく、

「目痛し。」

といふ。牧人聞きて、竟夜(よもすがら)寢ねずして踞(うづくま)る。明くる日見れば、一つの髑髏(ひとかしら)有り。笋(たかむな)、目の穴に生ひて串(さ)さる。竹を掲(む)きて解(と)き免(ゆる)し、みづから食へる餉(かれいひ)を饗(あへ)して言はく、

「吾に福(さきはひ)を得しめよ。」

といふ。

 市に到り物を買ふに、買ふ每に意(こころ)の如し。疑はくは、彼の髑髏、祈(ねがひ)に因りて恩を報いるかとうたがふ。市より還り來りて、同じ竹原に次(やど)る。時に彼の髑髏、變じて、生ける形を現はして、語りて言はく、

「吾は葦田の郡、屋穴國(やなくに)の郷(さと)[やぶちゃん注:不詳。]の穴(あな)の君(きみ)の弟公(おとぎみ)なり。賊なる伯父(をじ)秋丸に殺さるるものなり。風吹きて動く每に、我が目、甚だ痛し。仁者(にんざ)の慈(いつくしみ)を蒙(かがふ)りて、痛苦、既に除かる。今、餉(かれいひ)を饗(あへ)を得たり。其の恩を忘れじ。幸(さきはひ)の心に勝(た)へず、仁者の恩(めぐみ)に酬いむと欲(おも)ふ。我が父母の家は、屋穴國の里に有り、今月の晦(つきごもり)の夕、吾が家にいたれ。かの宵にあらずは、恩に報いるに由無し。」

といふ。牧人、聞きて、ますます怪しみて他人に告げず。晦の暮を期(ちぎ)りて、彼の家に至る。靈、牧人の手を操(と)りて、屋の内に控(ひ)き入れ、具せる饌(け)を讓りて、もちて饗(あへ)して共に食ひ、殘りはみな、裹(つつ)み、幷せて財物を授く。やや久しくして、かの靈、たちまちに見えず。父母、諸靈(たまだま)を拜せむが爲に、その屋の裏(うち)に入り、牧人を見て驚き、入り來れる縁(えに)を問ふ。牧人、ここに、先の如くに具に述ぶ。因りて、秋丸を捉へ、殺せる所由(ゆゑ)を問ふ。

「汝が先の言の如くば、汝、『吾が子と倶に市に向かふ。時に汝、他(ひと)の物を負ひて、未だ其の債(もののかひ)を償(つぐの)はず。中路(みちなか)に遇ひて徴(はた)り乞はれ、弟公を捨てて來つ』[やぶちゃん注:たまたま途中で悪いことに、債権者にばったり行き合ってしまい、その場できつく返金を迫られたので、弟を残して逃げて来てしまった。]といひ、『若し來(きた)るや否や』といひき。我、汝に答へて言はく、『未だ來らず、視ず』といひき。今、聞く所は、何ぞ先の語に違(たが)ふ。」

といふ。

賊盜秋丸、惣(しかしながら)、意(こころ)悸然(おそり)り、事を隱すこと得ずして、乃ち、答へて言はく、

「去年十二月下旬、正月元日の物を買はむが爲に、我、弟公と市に率(ゐ)て往く。持てる物、馬・布・綿・鹽なり。路中にして日晩れて、竹原に宿り、竊(ひそか)に弟公を殺して、彼の物とり、深津の市に到りて、馬は讚岐の國の人に賣り、自餘の物等は、今、出して用ゐる。」[やぶちゃん注:最後の部分は、その他のこまごました物品はこっそり自分の物としてしまい、今に密かに自宅で使っている、といった意味か。]

といふ。父母聞きて、

「嗟呼(ああ)、我が愛子(まなご)、汝が爲に殺さる。他(ほか)の賊(あた)に非ず。」

といふ。父母を同じくする弟は、葦蘆(あしをぎ)の璅(くさ)る[やぶちゃん注:根が連続している。]が如きが故に、内は其の過失(あやまち)を匿(かく)し内(をさ)め、擯(お)ひ出して見(あらは)さず[やぶちゃん注:身内の犯罪であるが故に一族の恥じとなることから、内々に秋丸を里から追放した上で、世間にはこうした事実総てを伏せ隠したのである。]。外は便ち牧人を禮し、更に飮食を饗(あへ)す。牧人、還り來て、狀を轉(つた)へ語りき。それ、日に曝(さ)れた髑髏(ひとかしら)すら、なほすら、かくの如し。食を施せば福を報じ、恩を與ふれば恩を報ず。何にいはめや、現(げに)の人、豈(あに)恩を忘れむや。「涅槃經」に説くが如し。

「恩を受くれば恩を報ず。」

といふは、それ、これを謂ふなり。

   *]

 髑髏に關する話は古今東西を通じていろいろある。莊子が楚に於て髑髏を見、大いにこれを憐れんで枕にして寢たら、夢に髑髏が現れてこんな事を云つた。死は上に君なく、下に臣なく、また四時の事もない、天地を以て春秋としてゐる、王者の樂しみと雖も、これ以上の事はあるまい、といふのである。もう一度人間に還る氣はないかと聞いて見たが、眞平御免だと答へた。要するに髑髏はその人に相應した者が出て來るので、業平に對しては小町、周氏の婦に對しては無名の女子といふ風に、枕にした者が莊子だから、こんな達觀的髑髏が現れたのであらう。この趣向は落語の「野ざらし」あたりまで續くわけであるが、一切の死者が悉く成佛して居らぬやうに、あらゆる髑髏もまたすべて枯木冷灰となりはしない。福州の弘濟といふ僧が砂の中から髑髏を發見し、衣籃の中に入れて寺に持ち歸つたところ、數日たつた或晩、睡つてゐる弘濟の耳を嚙む者がある。夢中で拂ひのけたら、凄まじい音がして何か牀(とこ)の下に墜ちた。多分髑髏の所爲であらうと思ひ、夜が明けてから見ると、髑髏は碎けて六片となつてゐる。そのまゝ溝の中に棄ててしまつたが、今度は夜中に卵のやうな火が家に入つて來た。弘濟一喝を與へ、はじめて怪が絶えたと「酉陽雜俎」にある。この髑髏の主は如何なる者とも知れがたいが、とにかく妄執去りやらぬ徒輩らしい。夜半に弘濟の耳を嚙んで拂ひ落され、化して六片の骨となつてもまだあきらめきれず、妄念の火を然してゐるなどは沙汰の限りと云はなければならぬ。弘濟の一喝で成佛したか、相手が惡いと見て河岸を替へたか、その邊は固より疑問に屬する。

[やぶちゃん注:「莊子」の著名な、そして私の好きなそれは、「外篇」の「至樂」中の一節(但し、外篇は既に荘子の筆になるものではないと考えた方がよい)。

   *

莊子之楚、見空髑髏、髐然有形、撽以馬捶、因而問之、曰、「夫子貪生失理、而爲此乎。將子有亡國之事、斧鉞之誅、而爲此乎。將子有不善之行、愧遺父母妻子之醜、而爲此乎。將子有凍餒之患、而爲此乎。將子之春秋故及此乎。」於是語卒、援髑髏、枕而臥。

夜半、髑髏見夢曰、「子之談者似辯士、視子所言、皆生人之累也、死則無此矣。子欲聞死之説乎。」。莊子曰、「然。」。髑髏曰、「死、無君於上、無臣於下、亦無四時之事、從然以天地爲春秋、雖南面王樂、不能過也。」。莊子不信、曰、「吾使司命復生子形、爲子骨肉肌膚、反子父母妻子閭里知識、子欲之乎。」髑髏深矉蹙頞曰、「吾安能棄南面王樂而復爲人閒之勞乎。」。

   *

書き下しておく。

   *

莊子,楚に之(ゆ)き、空髑髏(くうどくろ)を見る。髐然(きようぜん)として、形、有り。撽(う)つに馬捶(ばすい)を持つてし、因りてこれに問うて曰く、

「夫(そ)れ、子(し)は、生を貪り、理を失ひて、此れと爲(な)れるか。將(ある)いは子に亡國の事、斧鉞(ふえつ)の誅(ちゆう)ありて此れと爲れるか。將いは子に不善の行ひあり、父母妻子の醜(はぢ)を遺(のこ)さんことを愧(は)ぢて、此れと爲れるか。將いは子に凍餒(とうたい)の患(うれ)ひありて、此と爲れるか。將いは子の春秋、故(もと)より此れに及べるか。」

と。是(ここ)に於いて、語り卒(おは)り、髑髏を援(ひ)き、枕して臥(ぐわ)す。

 夜半、髑髏、夢に現はれて曰く、

「子の談は辯士に似たり。子の言ふ所を視れば、皆、生人の累(わづら)ひなり。死すれば、則ち、此れ無し。子、死の説を聞かんと欲するか。」

と。莊子曰く、

「然り。」

と。髑髏曰く、

「死すれば、上(かみ)に君無く、下(しも)に臣無し。亦た、四時の事(しごと)無し。 從然(しようぜん)として天地を以つて春秋と爲す。南面の王の樂しみと雖も、過ぐる能はざるなり。」

と。

莊子、信ぜずして曰く、吾れ、司命(しめい)をして、復た子の形を生じ、子の骨肉肌膚(こつにくきふ)を爲(つく)り、子の父母妻子と閭里(りより)の知識に反(かへ)さしめば、子 、之れを欲するか。」

と。髑髏、深く顰蹙(ひんしゆく)して曰く、

「吾れ、安(いづ)くんぞ能く南面の王の樂しみを棄てて、復た、人閒(じんかん)の勞を爲さんや。」

と。

   *

「司命」は、人の寿命を司ると考えられた神。「閭里」郷里。「知識」知人。旧知の友。

『落語の「野ざらし」』同演目の元となったとされる上方落語の「骨釣(こつつ)り」(私は復元された、原型に近い、楊貴妃と張飛の霊の出る奴が、殊の外、お気に入りである)面白い。ウィキの「野ざらしで、どうぞ。

「弘濟」「ぐぜい」と読んでおく。

 後半の「酉陽雜俎」のそれは、「卷十三」の「尸穸(しせき)」の中の一章。

   *

醫僧行儒説、福州有弘濟上人、齋戒淸苦、常於沙岸得一顱骨、遂貯衣籃中歸寺。數日、忽眠中有物齧其耳、以手撥之落、聲如數升物、疑其顱骨所爲也。及明、果墜在床下、遂破爲六片、零置瓦溝中。夜半、有火如雞卵、次第入瓦下、燭之。弘濟責曰、「爾不能求生人天、憑朽骨何也。」。於是怪絶。

   *

因みに、柴田は一喝の内容を訳していないが、「爾(なんぢ)、人天(じんてん)に生まれんことを求め得ること能はずして、朽骨に憑(つ)きて何をかせんや。」で、

「お前! 人の世に再び生まれ出でんとして得られず、かくも無惨に朽ち果てた骨に憑いて、それをまた頼りとするとは! これ、何事カッツ!」

という「カツ」である。]

「想山著聞奇集 卷の貮」 「馬の幽魂殘りて嘶く事」

 

 馬の幽魂殘りて嘶(いなゝ)く事

 

[やぶちゃん注:「嘶く」のルビは目録にある。]

 

Umanorei

 

 美濃の國岐阜の西の方に芥見(あくたみ)村と云(いふ)有(あり)。此邊(あたり)にては馬に灸治(きうぢ)せし後三つ目七つ目廿一日目とて、此三日の内に、一日は血返し迚(とて)、馬を休ませねば凶事(まがごと)有(あり)と云傳(いひつたふ)る事にて、必らず休まする風俗也。然るに同村何某の馬、灸治して七日目に當りし日、よき荷物の出來たるまゝ、主人、此馬を遣ふべしと云けるに、常々任せ置(おき)たる馬士(まご)聞(きき)て、三つ目にも休ませず、けふは七日目の血返しゆゑ、此馬は休ませて下されと云て賴む。主人の云(いはく)、廿一日目には休ませ申すべし。眼前によき荷の來(きた)るを差置(さしおき)て、休ますると云ふ事やある、汝はすゝまずばよせ、我等自身に牽行(ひきゆく)べしとて、やがて荷を付(つけ)て、主人自ら馬を牽て出行(いでゆき)ぬ。夫(それ)より關の方へ行(ゆく)道に、日野坂といふ有(あり)、【岐阜より關へは北の方へ七里程も有(あり)、此(この)日野坂迄は岐阜より三里なりと。】此所へ行懸(ゆきかか)ると、ギバのかけて、俄(にはか)に馬は斃(たふれ)たり。【ギバのかけると云事は、三の卷に委敷(くはしく)書記(かきしる)し置(おき)ぬ、頽馬(だいば)とも云(いひ)、馬の急死也。】夫より此馬の靈魂、此地に止(とどま)りたるか、其後、此所へ馬を牽行(ひきゆく)と、必(かならず)、馬の嘶(いななく)聲(こゑ)聞きこ)ゆるまゝ、牽行(ひきゆく)馬も、必、鳴合(なきあふ)事なれども、何も目に見ゆるものはなし。其嘶く所、道より右の方、五間[やぶちゃん注:九メートル。]程むかふの畑の中に當りて、いつにても同じ所にて嘶き、又、その馬の音色(ねいろ)も、いつとても同じ音(ね)とぞ。今、此邊の馬を牽(ひく)ものは、皆、現に此事をしり居(を)る事也。元來、かの抱(かかへ)の馬士(まご)が此馬を愛する事、大方(おほかた)ならざりし故、馬の斃(たふれ)たる後は甚(はなはだ)力を落し、主人の血合[やぶちゃん注:不詳。不審。仏教用語で貪欲を意味する「痴愛(ちあい)」の誤記か? 識者の御教授を乞う。]をも構はず、牽行(ひきゆき)たる事をいたく悲しみ、遂に是が病根と成(なり)て、此馬士(まご)も間もなく死(しに)たりとぞ。されば、若(もしく)は馬の靈と馬士の靈と合(がつ)して、か樣に魂魄を止(とど)めたるか。何にもせよ、名僧智識の引導などなし給ふものならば、忽ち得脱(とくだつ)して鬼(き)は散滅(さんめつ)なすべきものをと、殘(のこ)り多き事におもふなり。昔、唐土(もろこし)に幽明の鬼をよく見る覡(げき)有(あり)て、違(たが)ふ事なし。或人、鵞(がてう)の死(しに)たるを塚に埋置(うめおき)て、かの覡に鑑覽(かんらん)なさしむるに、再應(さいわう)考(かんがへ)て不審をなし、此塚には靈魂なし、唯、鵞一羽のみ彳(たたず)み居(をり)たりといへり。鵞にも鬼は【鬼とは俗に云(いふ)幽靈の事也。】有(ある)ものかとの事、酉陽雜俎(いうようざつそ)に見えたり。是を以て見る時は、此馬もかの覡に見せしめば、馬の鬼の殘り居るは、鏡に懸(かか)たる如き事也。此馬の斃(たふれ)たるは文政四年【辛巳(かのとみ)】[やぶちゃん注:一八二一年]の事とぞ。是は予が方(かた)の下男、同州志津野(しつの)村吉松が、自身に其地へ馬を牽步行(ひきありきゆき)、此事を能(よく)知居(しりゐ)て、具(つぶさ)に語りし事なり。

[やぶちゃん注:「芥見村」現在の岐阜市東部の芥見(ここなら(グーグル・マップ・データ)。但し、この地区外にも「芥見」を附す地名が点在する)・大洞・加野・岩井などの地区に相当する。

「馬に灸治せし」想山も後で割注する、先行する「想山著聞奇集 卷の壹」「頽馬の事を参照のこと。

「三つ目七つ目」「三つ日目」「七つ日目」の約。

「血返し」灸療治によって変則した血流を元の状態にゆっくりと戻すことを指すか。

「日野坂」附近(グーグル・マップ・データ)。現在の岐阜市日野東。

「關」現在の岐阜県関(せき)市附近。岐阜市の東北直近。ここ(グーグル・マップ・データ)。「岐阜より北へ」とあるが、正しくは「北東」である。

「ギバ」先行する「想山著聞奇集 卷の壹」「頽馬の事を参照のこと。

「覡」古くは「巫(ふ)」。中国古代のシャーマン。舞を舞ったり、呪文を唱えたりして神霊を下ろし、祈誓して神を憑依させたりして、その神意を伺った。先秦時代からその存在は知られており、漢代になると女性で神がかりになる者を「巫」と呼び、男性のそれを「覡(げき)」と呼び分けるようになった。これら行事は中国道教史に於いてかなり重大な役割を持ち続けている。本邦ではこれや「巫」を「かんなぎ」(古くは「かむなき」。「神(かむ)和(な)ぎ」の意)と和訓する(後代では「みこ」と読むと、概ね「巫女」で、女性のそれを指すこととなった。日本の陰陽道や神道ではその役に未婚の女性が選ばれたことによるもので、本来は男でも「みこ」である)。

「鬼とは俗に云幽靈の事也」とは想山らしくもない不全な割注である。ここは中国の事例を引いた部分への割注である以上、本来の「鬼」の意、単なるフラットな「死者」の意をまずは挙げてから「幽魂」の意を述べるのが筋であろう。

「酉陽雜俎」(現代仮名遣では「ゆうようざっそ」)は唐の段成式(八〇三年~八六三年)が撰した怪異記事を多く集録した書物。二十巻・続集十巻。八六〇年頃の成立。以上はちょっと調べてみたが、「酉陽雜俎」にはどうも見出せず(あるのかも知れぬが、中文サイトの同書の単語検索でも掛かってこない。訳文は持っているので発見したら、追加する)、中文サイト内の「欽定四庫全書」の陳元龍撰「格致鏡原卷八十」の「鳥四」の中に(何故か「雞」のパートにある)以下のようにあるのを発見した。

   *

抱朴子呉景帝有疾召覡視之得一人欲試之乃殺鵞而埋於苑中深小屋施牀几以婦人屣服物著其上乃使覡視之告曰若能説此家中鬼婦人形狀者加賞而即信矣竟日無言帝推問之急乃曰實不見有鬼但見一頭白鵞立墓上所以不卽白然則鵞死亦有鬼也

   *

明らかにシチュエーションが酷似するから、同源の話柄である。

「志津野村吉松」「志津野村」(現在の岐阜県関市志津野(しつの)。ここ(グーグル・マップ・データ))も「吉松」も既出。「想山著聞奇集 卷の壹」「頽馬の事及び「想山著聞奇集 卷の壹」「狐の行列、幷讎をなしたる事 附 火を燈す事」を参照。]

 

「想山著聞奇集 卷の貮」 「鎌鼬の事」

 

 鎌鼬(かまいたち)の事

 

[やぶちゃん注:「かまいたち」のルビは目録にある。]

 

 世に鎌鼬と云(いふ)もの有(あり)。【關東の鎌鼬、北國の魑魅、西國の河伯(かつぱ)、俗に江戸にて河太郎と云(いふ)、是を日本の三奇と云とぞ。】人にふるゝ時は、必(かならず)、其人知ずして大成疵出來(でき)、初(はじめ)は血出(いで)ず、痛(いたみ)もなくして、追付(おつつけ)、夥敷(おびただしく)血出(いづ)。痛み骨髓に徹し、惣身(そうしん)にせまるといふ。【さして血も出ず、痛みの薄きも有ある)よし。】鎌鼬と云ふ事を知らずして、疵の甚敷(はなはだしき)と血の多く出るとに驚き、小兒などは虫持(むしもち)とも成(なり)、大人にても驚顚(きやうてん)臟腑に入(いり)て、病身と成(なる)者も多く、中には死に至るものもあり。能よく)心得置(こころえおく)べき事也。故に、纔(わづか)、見及び聞及(ききおよ)びしかぎりを記置(しるしおく)なり。

[やぶちゃん注:「虫持」の「虫」はママ。「癇の虫」などの小児性の精神変調ともとれるし、後の大人の症例で激しいショックが「臟腑に入」って「病身と」なる「者も多く、中には死に至る」ケースもあるというところからは、何らかの消火器性寄生虫疾患を指しているようにも読めないことはない。しかし、やはり痛みのないところにパックリと傷口が開いて、血が出てくるというのは心因性ショックの方が腑に落ちる気はする。]

 此ものゝ形ち、人眼に見ゆる事なくして、疵斗(ばかり)つく也。その疵口、必、曲尺(かねじやく)のなり[やぶちゃん注:L字形。]に付て、鎌の形なればとて鎌鼬と云ふとぞ。疵、大小品々有。小なるは二三寸より五六寸[やぶちゃん注:六~九センチメートルから十五~十八センチメートル。]にいたる、深さ五六分より一二寸[やぶちゃん注:一・五~一・八センチメートルから三~六センチメートル。]に至る。野州大桑村にて、究竟(くつきやう)[やぶちゃん注:「屈強」に同じい。]なる土民をかけたるは、内股五寸[やぶちゃん注:十五センチメートル。]程の疵口にして、深さは骨迄當りて、白々と骨出たりと云。恐ろ敷(しき)曲物(くせもの)なり。

[やぶちゃん注:「野州大桑村」栃木県日光市大桑町(まち)であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「かけたる」「掛ける」「懸ける」で鎌鼬がその傷害を及ぼすの謂いか、或いは「鎌」を引っ「掻(か)けたる」の謂いであろう。]

 初、疵口付(つく)時は、必、我知ずして付事也。尤(もつとも)、怪物の目に見ゆる事はなき也。故を以(もつて)、もと獸はなくて、月々風の當りて切(きれる)といふ説あれども、左にはあらぬか。大桑村にては、風なくて切らるゝ事也。目に見えねば、鳥か獸か鬼か氣(き)かは分らざれども、何にもせよ不思議なる物也。先(まづ)最初、疵の付たる時は、肉白く切裂(きりさけ)、疵口少し黃色ににじみてねまり居(を)る也。【此白きねまりたる物は、俗説に鎌鼬の唾(つば)也と云傳(いひつたふ)る所もあり。】血はいでず、痛もなし。暫(しばし)過(すぎ)て血夥敷(おびただしく)出(いで)、痛みも甚敷(はなはだしき)との事なり。疵は、能(よく)切れる剃刀にて切割(きりわり)たる如きもの也。

[やぶちゃん注:この疵口少し黃色ににじみてねまり居る也」という観察は興味深い。これは切創を生じさせたものが、何らかの個体か溶けかけた半固体物、或いは、ある種の生物(植物或いは動物)であった可能性を窺わせるものだからである。]

 此疵、必、人の股・膝・臑(すね)に出來るなり。多くは膝口抔(など)につく也。腰より上につく事は稀なり。此もの、察するに、地を離るゝこと僅(わづか)一尺餘りに過ず。猶考(かんがふ)るに、頭・顏などをかけられたるは、多くは轉びての事なり。又、立(たち)ながらかけたるは、皆、旋風の吹來る時也。左すれば、旋風に乘じて中を飛行するものか。前に云(いひ)たる大桑村にて股をかけられしと云ふは、深田の中へ入居ての事也。

[やぶちゃん注:私が中学生の時に目の前で実見し、「〈鎌鼬〉だ!」と教師が叫んだそれは、同級生の顔(眼球を含む)の部分だったがね。「耳囊 卷之七 旋風怪の事」の私の「鎌鼬」注の太字の箇所を参照されたい。私は今でもあれは〈鎌鼬なんかじゃあない〉と思っているのだ。

 以下、の一段落は営本では全体が二字下げ。]

予一年、野州大桑村に逗留の時、給仕に出(で)たる十五歳になる小童(しやうどう)の鼻より頰へかけてかぎ疵有(あり)、鎌鼬に似たる疵也(や)と問ふに、果して鎌鼬の疵也と云。童(わらは)の兩親、側(かたはら)に居て咄せしは、五歳の時、向(むかひ)の山へ子供どち遊びに行(ゆき)て轉びたるに、此の如き所、鎌かけ申候。小鎌(こかま)ながら子供の事故、其時は顏一面に疵と成り、鼻突拔(つきぬ)け、穴明(あなあき)て、頭中(かしらうち)悉く見え、甚(はなはだ)恐敷(おそろしき)ものに候ひしが、癒るに隨ひて、肉(にく)癒合(いえあひ)、穴埋(うづま)り、頭中も見えぬ樣に成(なり)しと云(いへ)り。是は轉びてかけられたる故也。大井川にて天窓(あたま)をかけられたるも轉びしゆゑなり。【此事、末に言。】

[やぶちゃん注:真相は違うんじゃないかい? 一緒に行った子供らが怪しい気が私はするね。]

 予が聞及びしは、多く素足の者なり。荷ひ物抔する者に多し。侍を懸しと云ふを聞かず。袴など身に纏(まとひ)たるは切(きり)がたきか。夫(それ)も構はず切割(きりわる)か。魔障の類(たぐひ)に至りては、人智の及ばぬ事をなすもの也。去(さり)ながら、多くは、か樣のものは、刀劍には恐るゝものなり。夫も利刀(りとう)有(あり)、鈍刀(どんとう)あり。甚敷(はなはだしき)に至りては竹刀(しない)・木刀有(あり)。侍なればとて侍の德を備(そなへ)ぬ人も有(ある)べし。猶考べき事なり。廣大和本草にも、貴人士君子ヲ傷ルコトアタハズ、皆、匹夫奴隷ヲ傷ルモノナリ、是又奇トスべシ、と有(あり)。

[やぶちゃん注:「廣大和本草」(こうやまとほんざう)は本草学家直海元周の著。宝暦五(一七五五)年刊。彼は儒家で知られた本草学者でもあった松岡恕庵(寛文八(一六六八)年~ 延享三(一七四六)年)で、本居宣長とも接触があったが、人物も書籍も非常に評判のよくない人物である(こちらの個人サイト内の宣長の年譜の宝暦五年九月十三日の条を参照されたい)。同書は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像で全巻を視認出来るが、人柄を知ってしまっては、調べる気も起こらなくなった。悪しからず。

 武士が鎌鼬に遭わないなどといのは、ますます以っておかしいじゃあないか! 私が中学時代に見た被害者の脇には、呆然とした同級生のとある秀才が立っていたのを思い出すんだよ。そうして盛んに「鎌鼬だ! 鎌鼬なんだ!」と教師が異様に怒るように叫んでいたんだよ。]

 土俗多くは、此もの、旋(つじ)風に乘じて飛行(ひぎやう)すと云傳(いひつたふ)るなり。名古屋にては旋風(つじかぜ)の中に旋(つじ)と云(いふ)怪物有(あり)て、人に觸れば切るゝと云て、鎌鼬の方言、尾州にては旋(つむじ)ともいへども、名古屋は平穩の土地故か、懸られしと云ふ人を聞かず。

 尾州石田村にてかけたるは、旋風(つむじかぜ)吹來(ふききた)りし時、馬士(まご)、急ぎ、馬の頭(かしら)に着ものを打(うち)かけしのぎたるに、馬士の顏と馬の尻と二ケ所までかけて行(ゆき)たり。是は珍敷(めづらしき)所をかけたり。風に乘(じやう)ぜし故にや。此馬士の旋風を恐れて馬の頭を塞ぎしは、ギバのかける事を恐れてせし事なり。ギバの事は壹の卷に記し置たり。ギバも旋風に乘じて、馬の鼻より入ると云傳(いひつたふ)る故也。

[やぶちゃん注:「尾州石田村」複数あるので特定不能。

「ギバの事は壹の卷に記し置たり」「想山著聞奇集 卷の壹 頽馬の事」を参照のこと。]

 此怪物、彼(かの)旋風(つむじかぜ)の渦卷(うづまく)所を好み、駈入(かけいり)て飛行(ひぎゃう)するか。大塚護持院の門前にてかけられしと云(いふ)前栽物賣(せんざいものうり)は、旋風吹來りて後、鎌疵、額に出來(でき)しとの事を聞(きき)ぬ。されども、此怪の多き所にては、尤、旋風の論なく[やぶちゃん注:つむじ風の発生の有る無しを問わず。]疵出來る事也。大桑村などの如し。

[やぶちゃん注:「大塚護持院」現在の東京都文京区大塚にある真言宗神齢山悉地院大聖護国寺(通称・護国寺)の東に隣接してあり、護国寺と一体のものとして存在した護持院(筑波山大御堂の別院)。新義真言宗で最も格式の高い寺院であったが、明治時代に護国寺に合併した。

「前栽物賣」庭の植え込みなどに用いる植え木(或いはその幼木)を売る露店商であろう。]

 此怪物、在所(ありどころ)知れ難しと雖も、第一、山川に多し。東海道にては箱根・薩埵(さつた)[やぶちゃん注:現在の静岡県静岡市清水区にある薩埵峠(さったとうげ)。東海道五十三次では由比宿と興津宿の間に位置し、山が直ちに駿河湾に迫っており、箱根に次ぐ東海道の難所とされた。ここ(グーグル・マップ・データ)。]などの山路に常々有事なり。薩埵は興津川續き故、別(べつし)て多し。天龍川・富士川・大井川・金谷・佐夜の中山など、甚多き所と心得、僅一度の旅行にも隨分用心すべき事也。江戸も元は平山(ひらやま)[やぶちゃん注:平野が主体で山があっても低い丘陵程度であることを謂うのであろう。]との事、住能(すみよき)所ゆゑか、時々有(ある)事なれども、人數(にんず)多く、殊に廣き所故、夫程に人にも申傳へず。名古屋にては絶(たえ)て聞及(ききおよ)ばず。宮(みや)[やぶちゃん注:熱田宿。私の妻の実家が近いので、以下の地名は自明につき、注は附さない。悪しからず。]と鳴海(なるみ)の間、笠寺邊(あたり)にて、かけられて死たりと云ふを聞たり。これは天白川(てんぱくがは)など云(いふ)山川(さんせん)の末(すゑ)もあり。此先(このさき)、鳴海の東、桶狹間などいふ邊は如何にも居(ゐ)そふ成(なる)所也。却(かへつ)て淺き山にも多く居る也。【木曾深山などは如何にや、是等の事に志深く成て後、久々旅行もせず、仍(よつて)、探索せざりし。惣躰(さうたい)か樣な事は中々人傳(ひとづて)にて聞(きき)ては違(たが)ふなり、自身に探索せねば分らざるなり、廣大和本草には、近時には木曾山中にもありと云々。】名古屋のことき平穩なる所にては先(まづ)はなき事なり。諸國の人に尋(たづね)ても、多くは心なく知らぬ人多し。予、文政六年[やぶちゃん注:一八二三年]、野州大桑村に【日光の三里傍(かたはら)】暫(しばし)逗留せし時、此地は鎌鼬多き土地ならんと尋(たづぬ)るに、澤山にもなく候へども、村中にては、年々一人か二人はかけらるゝと云て不審とせず。【此大桑村はわづか八十軒餘の小村なり。此地は日光山の山續きながら、いかにも小(ちさ)き岡山の麓なれど、其山のすそに、日光山の奥栗山と云より出(いづ)る大河有(あり)、絹川の上也、又こなたの方には日光山より流れ出る大谷川(おほたにがは)有ㇾ之(これあり)、山川に挾(はさま)りたる所なり、夫(それ)故、澤山にある土地なり。】夫(それ)より歸路に宇都宮に宿りぬ。【此地は山遠(とほく)して畑多く平原の野地(のぢ)なり。】旅宿の主(あるじ)等(ら)呼出(よびいだ)して、鎌鼬の事を懇(ねんごろ)に尋(たづぬ)るに、左樣の儀は一向存(ぞんじ)奉らずと云。予、日光邊(あたり)にては有(ある)事也。僅(わづか)十里の違ひなり。聞及(ききおよ)ばすやと問ふに、成程、日光邊にては左樣の事も有樣(あるやう)に承りたることも御座候へども、虛實、一向慥(たしか)ならざる事と存奉り候と云へり。

[やぶちゃん注:以下の一段落は底本では全体が二字下げ。]

是皆、夫地氣候の然らしむる所、人智も又此(かく)の如きか。我(わが)耳目に見聞(みきき)せぬ事は、知ぬ人多き物也。況(いはんや)、幽明三世一貫の理(ことはり)は會得せぬ人の多きも理也。大桑村の土民は、此怪は、世界中に常々有(ある)事と心得居(をり)、不思議を見て不思議とせず。宇都宮のものは、か樣の怪は世界になきことと思ひ居(をり)て、怪事を聞(きき)ても却(かへつ)て怪とせず。井中の蛙(かはづ)の俗諺(ぞくげん)、實(げ)にうべ成哉(なるかな)。

 

Kamaitatiwatasi

 

 元、尾州七里の者【七里の者と云は、東海道筋宿々(しゆくしゆく)に在住して、御屋形(おやかた)の御用飛脚。荷宰領などつかさどる者也。[やぶちゃん注:「七里」は「七里繼宿(しちりつぎやど)」で、尾張・紀伊の徳川家などの大名が、東海道筋七里ごとに役所を置いて、江戸と国元との急な連絡に備えた七里役所のことであろう。この「御屋形」もその尾張藩及び主家大名家を指すと考える。]】を勤(つとめ)し水野何某と云もの島田宿の在役中に、大井川に出(いで)て、御用荷を才領[やぶちゃん注:底本は「才」の右に訂正注で『(宰)』とする。]する折節、見付宿[やぶちゃん注:東海道五十三次の二十八番目の宿場である見附宿現在の静岡県磐田市中心部に当たる。天竜川の左岸であったが、ここの叙述とは違い、ウィキの「見附宿」によれば、『大井川と違って水深があったため』、『主に船が使われており、大井川ほどの難所ではなかった』とあり、以下の叙述からは、やや不審ではある。宿の位置からして、渡しはの附近(グーグル・マップ・データ)かと思われる。]の輕き者、身延山へ拔參(ぬけまゐ)りするとて、渡し場へ來り、報謝越(ほうしやごえ)[やぶちゃん注:信仰目的の旅行者が川越えなどをする場合、渡守や人夫が施しの意味で無料で渡したことを指す。]を賴むゆゑ、こなたより向(むかふ)へ荷物をのせ行(ゆき)し明(あき)手の川越(かはごえ)[やぶちゃん注:渡した後に手ぶらで対岸に戻るはずの渡し人夫のこと。]、返り懸(がけ)に、大勢にて、彼(かの)者一人を直(ぢき)に其連臺(れんだい)[やぶちゃん注:人夫による川越えの際に旅客を乗せる平たい台。附図の右端の岸にある物や、川中の駕籠を載せているもの。通常は人夫四人で担いだ。]にのせて渡しゝが、無賃なれば、大事に扱ふ事なく、みなみな立(たち)ながら、肩より連毒を捨(すつ)る如く、其儘、地に下し置(おき)て散去(ちりうせ)りぬ。此響きに、彼(かの)者仰向(あふむけ)に倒れて、良(やや)暫くして漸(やつ)と起上(おきあが)りたるとき、面躰(めんてい)を見るに、一面に血流れたり。頭(かしら)を怪我したる事と驚き、人々寄來り、笠を取(とり)て見るに、月代(さかやき)[やぶちゃん注:成人男子が額から頭の中ほどにかけて髪を剃った部分。武士階級だけでなく、庶民の間にも広く見られた。]より髮の中(なか)懸(かかけ)て、六七寸程の鎌疵出來(でき)たり。血の出る事、誠に夥敷(おびただしき)ゆゑ、怪我をさせしかと、川越(かはごえ)共(ども)も驚(おどろき)てかけ集りたれ共、皆々、鎌鼬鎌鼬とて立去(たちさ)り、一向驚かざりしとぞ。【海道にては鎌と通言(つうげん)して鎌鼬とはいはず。】。是(ここ)に甚(はなはだ)奇成(きなる)事の有(あり)しは、此者、菅笠を冠り居(ゐ)たるに、笠にも笠當(かさあて)[やぶちゃん注:被り笠の内側の頭に当たる所に附ける小さな布団状の装具。]にも例の疵付(つか)ず。頭中(ずちう)に斗(ばか)り大疵出來たり。右何某、眼前に是を見居たり迚(とて)、具(つぶさ)に語りたり。是を以て見る時は、風氣(ふうき)の魔物にして、形ちなき物のやうにも思はる。

[やぶちゃん注:「拔參り」底本の注に、『主人や父母の許可を』得ずに、『神仏参詣の旅に出ること』を指す。『本来は、伊勢参りを意味したが、のちには、他の神仏の場合にも称されるようになった。正規の関所手形などは持たないが、信仰による旅行として』、大抵は『大目に』見られた、とある。

 以下の一段落は底本では全体が二字下げ。]

又、行膝(はゞき)を懸(かけ)て居たる者、その行膝の下をかけられて疵付(きづつき)たるに、はゞきには聊のさはりもなかりし事も有(あり)と聞けり。此菅笠に疵の付(つか)ざると全(マツ卓)同日(どうじつ)[やぶちゃん注:同様。]の談なり。

[やぶちゃん注:「行膝(はゞき)」通常は「脛巾」「行纏」等と書いた。「脛穿(はぎはき)」の転とされ、幅布を脛(すね)に巻き付けて紐で結び、脚を保護しすると同時に、歩行時の動作をし易くするための固定保護パットとして用いたもので、後世の脚絆(きゃはん)や近代のゲートルに相当する。]

 此怪物、水中にも住ものと見えたり。四谷御門内にての事なりしが、凹成(なかくぼ)所[やぶちゃん注:平地でありながら妙に窪んだ箇所。]有(あり)て、雨上りに溜り水せし故、子供集り、水中を渡りて遊び居たるに、坊主なりし丹羽一德と云ふもの、いまだ幼少にて十歳斗りの節、右溜り水の中にて、此鎌にかけられたり。又、予が知る人、松井又市と云【御家人の隱居なり、麻布古川に居(をり)し時の事也。】の悴(せがれ)十八歳の時、魦(はや)をすくふとて近邊の川を渡り、水中にて、足の裏より甲をかけて懸られしが、対遂に此疵が基と成(なり)て身まかりしとなり。

[やぶちゃん注:「魦(はや)」ハヤ(「鮠」「鯈」などが漢字表記では一般的)は本邦産のコイ科(条鰭綱骨鰾上目コイ目コイ科 Cyprinida)の淡水魚の中でも、中型で細長い体型を持つ種群の総称。釣り用語や各地での方言呼称に見られ、「ハエ」「ハヨ」などとも呼ばれる。呼称は動きが速いことに由来するともされ、主な種としてはウグイ(コイ科ウグイ亜科ウグイ属ウグイ Tribolodon hakonensis)・アブラハヤ(ウグイ亜科アブラハヤ属アムールミノー亜種アブラハヤ Rhynchocypris logowskii steindachneri)・タカハヤ(アブラハヤ属チャイニーズミノー亜種タカハヤ Rhynchocypris oxycephalus jouyi)・オイカワ(コイ科 Oxygastrinae 亜科ハス属オイカワ Opsariichthys platypus)・ヌマムツ(コイ科 Oxygastrinae亜科カワムツ属ヌマムツ Nipponocypris sieboldii)・カワムツ(カワムツ属カワムツ Nipponocypris temminckii)などが挙げられる(以上はウィキの「ハヤ他に拠った)。

 以下、一段落は底本では全体が二字下げ。]

鎌鼬に懸られたる咄は、數十人聞(きき)たり。此疵にて死たりと云ふは、前に云(いふ)、笠寺にて懸たるのと、此又市の悴と兩人のみ也。疵は大くとも、まづは死(しな)ぬものなりとぞ。

[やぶちゃん注:死亡した二例は、その傷から侵入した細菌やウィルスによる、何らかの重篤な感染症が深く疑われる。]

 又、此怪物、緣上(えんうへ)へも上(のぼ)るものと見え、過(すぎ)し頃、江戸四谷鮫ケ橋の裏店(うらだな)の者の妻、家の内、塵の上に居(ゐ)て、鎌鼬出來、久々難儀せしといふ事、慥に聞たり。又、四谷の天王橫町にては、婦人、便所にて尻をまくりしやがむ【蟄(ちつ)する事なり[やぶちゃん注:こんな割注をするということは「しやがむ」という語が尾張では通じないことを指すか?]】所をかけたり。又、牛込榎町御先手組にては、はきものをはくとて、床上(ゆかうへ)より足を出(いだ)すを、緣の下の方よりかけたり。此餘(このよ)、猶、珍敷(めづらしく)かけられたるも種々是(これ)有(ある)べし。

 凡(およそ)、此類の怪を避(さく)るには、五嶽の靈符[やぶちゃん注:中国の古来の霊山信仰に因む、道教的な五山、泰山・恆山・崋山・嵩(すう)山・衡(こう)山の咒符(じゅふ)か。]など、功驗新なるべし。九字十字護身法なども然るべきか。猶、密家[やぶちゃん注:真言宗や天台宗の密教。]には祕法種々有べく、呉々も眼前に奇を顯す不思議成(なる)怪物也。又、伽婢子(ぼうこ)續篇に、關八州の間に鎌鼬とて怪敷(あやしき)事侍り。旋風吹興りて、通行人の身にもの荒く當れば、股のあたり、たてざまにさけて、髮そりにて切(きり)たる如く口ひらけ、しかも痛み甚敷(はなはだしく)もなし。又、血は少しも出でず。女草(じよすいさう)をもみてつけぬれば一夜の内になほると云[やぶちゃん注:「」=(くさかんむり)に(下部左)に「豕」、その右に「生」を配した字。後の注で引いた原文の字とは微妙に違う。「女草(じよすいさう)」そのものは不詳。]。

何ものゝ業(わざ)ともしりがたし。たゞ旋風の荒く吹(ふき)て當ると覺えて此(この)憂(うれひ)有(あり)。夫(それ)も名字(みやうじ)正敷(ただしき)侍(さむらひ)にはあらず。唯、俗姓(ぞくせい)賤(いやし)きものは、たとひ富貴(ふうき)なるも、是(これ)に當らると云(いへ)りと見えたり。大凡(おほよそ)、此書に有(ある)ごとくなれど、疵はたてざまに裂(さく)るに非ず。曲尺(かねじやく)なりになる也。昔は關東のみの事成(なり)し歟(か)。今は關東にも限らぬ事と覺ゆ。中國・西國筋は如何(いかん)。探り置度(おきたく)思ふのみ。

[やぶちゃん注:「九字十字護身法」「九字護身法」(くじごしんぼう)は、「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前」の九つの文字から成る真言によって邪気を払う所作。九字の意味は「臨める兵、闘う者、皆陣を張り、列を成して、前に在り。」とする。元は道教を起源とするが、本邦では真言密教の印と結びついたものがよく知られる。「十字護身法」は先の九字の頭に一字を加えたもので、効果を一つのことに絞り込んで強化することを目的とするとされ、何に集中させるかによって加えられる一字が異なるという。加える一字としては、「命・水・行・天・鬼・大」などが知られているとネット上の記載にはあった

「伽婢子」のそれは「五 鎌鼬(かまいたち) 付(つけたり) 提馬風(だいばかぜ)」である。岩波新古典文学大系本を元に、恣意的に正字化して示す。読みは一部に限った。

   *

 關八州のあひだに鎌いたちとて、あやしき事侍べり。旋風吹おこりて道行人(みちゆきびと)の身にものあらくあたれば、股(もゝ)のあたり竪(たて)さまにさけて剃刀(かみそり)にて切たるごとく口ひらけ、しかもいたみはなはだしくもなし。又血はすこしも出ず、女草(ぢよすいさう)をもみてつけぬれば、一夜のうちにいゆるといふ[やぶちゃん注:「」=(くさかんむり)に(下部左)に「豕」で(その最終画を右に伸ばし)、その上((くさかんむり)の右下上部)に「生」を配した字。但し、底本脚注そのものに「女草(ぢよすいさう)」そのものを不詳とする。]。なにものゝ所爲(わざ)ともしりがたし。たゞ旋風(つじかぜ)のあらく吹てあたるとおぼえて、此うれへあり。それも名字正しき侍にはあたらず。たゞ俗姓(ぞくしやう)いやしきものは、たとひ富貴(ふうき)なるもこれにあてらるといへり。

 尾濃駿遠三州(びでうすんえんさんしう)のあひだに、提馬(だいば)風とてこれあり。里人あるひは馬にのり、あるひは馬を引てゆくに、旋風おこりて、すなをまきこめまろくなりて、馬の前にたちめぐり、くるまのわの轉ずるがどとし。漸(ぜんぜん)にその旋風おほきになり、馬の上にめぐれば、馬のたてがみすくすくとたつて、そのたてがみの中にほそき糸のごとく、いろあかきひかりさしこみ、馬しきりにさほだち、いばひ鳴(いなゝき)てうちたをれ死す。風そのときちりうせてあとなし。いかなるものゝわざとも知人なし。もしつぢかぜ馬の上におほふときに刀をぬきて、馬の上をはらひ光明眞言(くはうみやうしんごん)を誦(じゆ)すれば其風ちりうせて馬もつゝがなし。提馬風と號すといへり。

   *]

 又、南谿が北窓瑣談に、佐渡の國に、かまいたちに懸らるゝといふ事ありて、其(その)氣の中(あた)る所、大いにきれて傷(やぶ)る。此時に、金瘡(きんそう)の如く縫(ぬひ)、亦は膏藥など付(つく)れば、皆悉く死するなり。只、石菖根(せきしやうこん)一味、煎じて洗ふべしとなり。又、其まゝに捨置(すておく)時は數日(すじつ)にして愈(いゆ)[やぶちゃん注:底本では右に『(癒)』と訂正注がある。]るとぞ。佐渡の外科(げくわ)[やぶちゃん注:外科医。江戸時代は比較的、「がいりやう」と読むことの方が多いように思われるが、原典(後掲)に従った。]、本多勇伯、余に語り侍りしと云々。【前に云(いふ)松井又市の悴は、若(も)し膏藥抔を付(つけ)て死にたるのにはなかりしか、聞置(ききおか)ずして殘念也。】

[やぶちゃん注:「石菖根」単子葉植物綱ショウブ目ショウブ科ショウブ属セキショウ Acorus gramineus の根茎。漢方で神経痛や痛風の治療に使用される。

 以上の「北窓瑣談」のそれは「卷之三」の以下。吉川弘文館随筆大成版を参考に、漢字を恣意的に正字化して示す。柱の「一」は除去した。踊り字「〲」は正字化した。「愈」はママ。これによって想山が如何に正確に引用しているかが判る

   *

佐渡の國に、かまいたちにかけらるゝといふ事ありて、其氣の中るところ、大にきれて傷(やぶ)る。此時に金瘡(きんそう)の如く縫(ぬひ)、亦は膏藥など付れば、皆ことごく死するなり。只石菖根(せきしやうこん)一味(いちみ)煎じて洗ふべしとなり。又其まゝに捨をく時は、數日にして愈るとぞ。佐渡の外科(げくわ)本多勇伯余(ほんだゆうはく)に語り侍りし。

   *

なお、「佐渡怪談藻鹽草 安田何某廣言して突倒されし事」には、厚手の着衣が裏表中綿まで完全にすっぱりと切れてありながら、身体は全く切れていない(ということが逆に怪異である)という特殊な鎌鼬様のケースが記されてある。是非、参照されたい。

 以下の一段落は底本では全体が二字下げ。]

右を以て見る時は、佐渡ならではなき樣に見ゆれども、左にあらず。前に記する如く、諸國に有(ある)事也。

 此怪物、漢土にも有(ある)歟(か)。又、漢名、如何成(いかなる)ものにやと、醫学家博識家等に尋れども、慥ならざりしに、此程、ふと本草綱目啓蒙の虫の部に、溪鬼虫(けいきちう)と云(いふ)を見當(みあた)りたり。是、鎌鼬の類と見えたり。漢名もいくらも附してあり。その譯の所は全く鎌鼬の事なり。

[やぶちゃん注:以上の段落中の「虫」はママ。但し、原典(「本草綱目啓蒙」)では「蟲部」である。

「本草綱目啓蒙」本草学者の大家小野蘭山の「本草綱目」についての口授「本草紀聞」を孫と門人が整理した江戸後期の本草学研究書。全四十八巻。享和三(一八〇三)年刊。引用に自説を加え、しかも方言名等までも記してある。以下の「溪鬼蟲」は「卷之三十八蟲部 蟲之四 濕生類二十三種附錄七種」に掲げられている。今回は、以下の想山のそれと、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらから始まる重訂版の画像を視認して校合しておいた。なお、同原典には読みは殆んど示されていない。( )の読みは今までのそれと同じく私の推定である。なお、重訂版では冒頭の目録には「溪鬼蟲」の下に割注で「水虎」とあるが、これは本文の附録で河童のことである。]

 本草綱目啓蒙虫部(むしのぶ)に云く、

溪鬼蟲(けいきちう)

[やぶちゃん注:以下の部分(「本草綱目啓蒙」の「溪鬼蟲」の本文部分)は底本では全体が二字下げである。]

詳(つまびらか)ナラズ

一名射工蟲【抱朴子】 沙蝨(さしつ)【事物異名】 沙虎 溪弩【共(ともに)同上】

溪毒【典籍便覽通雅】 蜮魚(よくぎよ)【南寧府志】 石鏡【剪燈新話】

越後高田海遽ニテ、行人、曲阿(あづまや)ノ處ヲ過(すぐ)ルニ、忽チ砂高ク吹上リテ、下ヨリ氣(き)出(いづ)ルガ如ク覺ユレバ、ソノ人、コレニ射ラレテ卒倒シ、省(かへらザルコト[やぶちゃん注:ここは正気の戻らないの意。])傷寒[やぶちゃん注:熱病や腸チフスの類を指す。]ノ如シ、然(しかれ)ドモ、ミナ服藥シテ治ス[やぶちゃん注:「重訂版」ではここに『死ニ至ル者アラズ或ハ過酒酩酊シテ治ス』とある。]【同國鴨田郡】病人ノ身ニ、必、偃月(えんげつ)[やぶちゃん注:半月。]形ノ傷アリ、故ニカマキリムシ【高田】ト云(いひ)、或ハ、アカムシ【鴨田郡】。ト云、或ハ、スナイタト云フ、然レドモソノ蟲ノ形狀ハ詳ナラズ、從來、言傳(いひつた)フル越後七奇中ノカマイタチモ皆同事(おなじこと)ナリ、此事、越州ニ限ラズ、他國ニモアリ、是皆、溪鬼蟲ノ屬ナリ、正字通ニ、葛洪所ㇾ謂溪毒似射工而無ㇾ物者卽蜮類也ト云ヘリ。

[やぶちゃん注:各種の書名解説は煩瑣になるばかりなので省略する。以下、同断。

「鴨田郡」不詳。不審。蒲原郡の誤りではなかろうか?

最後の漢文は訓読しておく。

   *

葛洪(かつこう)が謂ふ所の「溪毒」は「射工」に似て、物、無きは、卽ち、蜮(よく)類なり。

   *

 これは、

   *

葛洪(二八三年~三四三年:西晋・東晋時代の道教研究家で、かの知られた神仙伝「抱朴子」の作者)が「抱朴子」の中で語っている「溪毒」は、同じ書で語っている「射工虫」に似ていて、姿・形が見えないという属性に於いて、まさしく「蜮」の仲間である。

   *

という意味であろう。「蜮」は水中に住んでおり、人に危害を加えるとされた伝説上の怪物鬼蜮(きよく)であるが、寺島良安の「和漢三才圖會」(卷第五十四 濕生類)の「蜮(さごむし)」を読むと、この虫に射られた(と表現している)者は直ちに治療(蝸牛を口中に含むとある)しないと死に到るとあって、どうも鎌鼬らしくない。なお、「抱朴子」の原文を中文サイトで確認してみたが、「溪毒」は「射工蟲」は「抱朴子」の全く別々な箇所に記されてあり、関連性は一切述べられていない。「正字通」は明末の張自烈によって編纂された漢字字典である。]

 廣大和本草に、𤟎、和名カマイタチ、廣州方物記云、𤟎因ㇾ風騰躍甚捷、越ㇾ巖過ㇾ樹如鳥飛空中、人張銕綱得ㇾ之、見ㇾ人則如羞而叩ㇾ頭乞ㇾ憐之態、人撾擊之倐然死矣、以ㇾ口向風ㇾ須臾復活、惟碎其骨其腦、不ㇾ死、一云、刀斫不ㇾ入、火焚不ㇾ焦、打ㇾ之如皮囊、雖下銃擊其頭破上得ㇾ風起、惟石菖蒲塞其鼻卽死再不ㇾ活、嶺南人呼曰風狸、卽此獸也と見ゆ。此事は三才圖會にも有(あり)。然(しかれ)ども、予思ふに、風狸は狀(かた)ち有(ある)獸(けもの)と見えたれども、鎌鼬は前に云ひ置(おき)たる通り、誰も狀ちを見しものなければ、同類異種かとも思はる。同書に、本邦ニテハ能州ニ多シ、民家、夜庭シテ居ル所へ、イヅクトモナク此獸飛來(とびきた)リテ、人ヲ傷(きずつく)ル事多シ、其疵口、刀ニテソギタルガ如シ、石菖蒲(せきしやうぶ)ニテ急(すみやか)ニ洗ヒ、又ハ煎湯(いりゆ)中(うち)ニモ石菖蒲ヲ加へ用ユ。又、石菖蒲一味ノ煎湯(いりゆ)モ佳ナリ。又、舊曆(ふるこよみ)ヲ黑燒ニシテ付(つく)ルモ佳ナリ。早ク治(ち)セザレバ、癩疾(らいしつ)ノ如クニ爛(ただ)レルナリとも云(いへ)り。石菖蒲と舊曆(ふるこよみ)の黑燒が藥と見えたり。

[やぶちゃん注:「廣大和本草」の漢文を自然流で訓読しておく。句読点には従っていない。一部は意味が半可通なので、返り点位置を変更して読んだ(「以ㇾ口向風ㇾ須臾復活」のところ)。大方の御叱正を俟つ。

   *

𤟎(きつくつ)、和名「カマイタチ」、「廣州方物記」に云く、𤟎、風に因りて騰(のぼ)り躍(おど)り、甚だ捷(ずばや)く、巖(いはほ)を越え、樹(き)を過ぐし、鳥の空中を飛ぶがごとし。人、銕(てつ)の綱を張りて之れを得(う)。人を見れば、則ち、如二羞(は)ぢて、頭を叩(たた)きて憐みを乞ふ態のごとくするも、人、之れを撾擊(かげき)すれば[やぶちゃん注:打てば。]倐然(しゆくぜん)[やぶちゃん注:たちまちにして。]死すれども、口を以つて風に向かへば、須臾(しゆゆ)にして復活す。惟だに其の骨を碎き、其の腦を破れども、死なず。一(いつ)に云ふ、刀斫(たうせき)[やぶちゃん注:刀や斧。]も入らず、火にて焚(や)くも焦げず、之れを打つも皮囊のごとくして、其の頭を銃擊して破ると雖も、風を得て起く。惟だ、石菖蒲(いししやうぶ)にて、其の鼻を塞げば、卽ち、死して再びは活(い)きず。嶺南人、呼びて風狸(ふうり)と曰ふは、卽ち、此の獸なり。

   *]

 又、康熙字典に水經注、永昌郡北山水傍瘴氣殊惡、氣中有ㇾ物、不ㇾ見其形、其作有ㇾ聲、中ㇾ木則折、中ㇾ人則害、名曰鬼彈と見えたり。此鬼彈の形容、日本の鎌鼬に似たり。參考の爲に抄出せり。

[やぶちゃん注:漢文部分を同じく自然流で書き下す。

   *

「水經注」に、『永昌郡北山の水の傍ら、瘴氣、殊に惡(あ)し。氣中に、物、有るも、其の形は見えず、其れ、作るに、聲、有りて、木に中(あた)れば、木、則ち、折れ、人に中れば、人、則ち、害せらる。名づけて「鬼彈(きだん)」と曰ふ。』と。

   *

ここに出る「永昌郡」は後漢時代の雲南省西部にあった郡で、郡庁は現在の雲南省保山市にあった。古くより、ビルマへのルートの要地として知られる。(グーグル・マップ・データ)。また「鬼彈」は「搜神記」の「第十二卷」にほぼ同内容で出る。以下に中文サイトのものを加工して示す。

   *

漢、永昌郡不違縣、有禁水、水有毒氣、唯十一月、十二月差可渡渉、自正月至十月不可渡、渡輒病殺人、其氣中有惡物、不見其形、其似有聲。如有所投擊中木、則折、中人、則害。士俗號爲「鬼彈。」。故郡有罪人、徙之禁防、不過十日、皆、死。

   *

しかしこの「鬼彈」、目に見えない点では共通するものの、致命的な損傷を人に加えるから、どうも鎌鼬と同類とは思われない。ロケーションと木や人を簡単に折ってしまうという状況から見て、私は実は、人の捕食例もある、有鱗目ヘビ亜目ニシキヘビ科ニシキヘビ属インドニシキヘビ亜種ビルマニシキヘビ Python molurus bivittatus ではあるまいかと疑っている(本種は最大亜種で最大長は八メートル超の個体が確認されている)。]

 鎌鼬は越後七不思議の一にして、北越奇談・東遊記などにもしるしつれども、密ならず。右國にても、古曆を黑燒にして、さゆ[やぶちゃん注:白湯。]にて用(もちふ)る事にて、數日(すじつ)の間に愈(いゆ)ると也。越後には別(べつし)て多き事としられたり。

 又、飮膳摘要に、鎌鼬の疵には、大根の絞り汁をつけてよしと云ふ。

[やぶちゃん注:「越後七不思議」各種(総数四十余り)の名数があるが、「鎌鼬」が数えられているもので知られているのは、私の愛読する、越後国の文人画家橘崑崙(たちばなこんろん 宝暦一一(一七六一)年~?(文政二(一八一九)年には存命))の筆になる「北越奇談」の「俗説十有(ゆう)七奇(しちき)」(十七不思議)があり、彼はさらにこの十七種から「新撰七奇」として「燃土(もゆるつち)」(長い年月で形成された腐葉土のようである)「燃水(もゆるみづ)」(「臭水(くさみづ)」で石油)「胴鳴(ほらなり)」(秋の晴天に鳴る雷鳴でこれが鳴るのは風雨の予兆とする)。「無縫塔」(僧籍の者の墓である卵塔であるが、ここのそれは、とある淵から自然とその石が出現するという奇談である)「石鏃(せきぞく)」(橘の附図を見ると、所謂、出土した古代の鏃(やじり)や磨石斧・石棒である)「鎌鼬」「火井(くはせい)」(天然ガス)の七つを選んでいる。『柴田宵曲 續妖異博物館 「鎌鼬」』(未読の方はこれと併せて読まれることを強くお勧めする)の私の注で、その「鎌鼬」の部を引いているので参照されたい。

 以下、最後まで、底本では全体が二字下げである。]

武藏の國荏原(えばら)郡北澤村森嚴寺(しんがんじ)可雲上人、此書を閲(けみ)して曰く、下男熊藏は【生國越後の國長岡邊の者也。】今嘉永元申年六月七日[やぶちゃん注:グレゴリオ暦一八四八年七月七日。]、庭前の池の藻を苅らせけるに、極(きはめ)て深き所へ潛り入(いり)、根引にせん迚、池に入しに、忽ち右の足の向ふ臑を三寸斗、橫にきられたり。暫時、血も出ず痛みもなく、小兒の口あきたる如き疵故、兼て越後者にて、鎌鼬と知(しり)て驚きもせず。又、飛入(とびいり)て藻を苅盡(かりつく)し、再び水より上りし時は、血も出(いで)、痛みも甚敷(はなはだしく)成(なり)たる由なれ共、其儘、外の用辨致し居しが、七月十日に其疵口を見るに、最早、大半癒(いえ)たり。今(いま)予、眼前に此事を見て、此書の説どもの誤らざる事を證すと語らる。よつてかき添置(そへおき)ぬ。

[やぶちゃん注:「武藏の國荏原郡北澤村」現在の東京都世田谷区北東部に位置する、知られた下北沢や上北沢・代沢の周辺に相当する。

「森嚴寺」東京都世田谷区代沢に現存する浄土宗八幡山森厳寺。]

2017/04/13

南方熊楠 履歴書(その8) ロンドンにて(4) 「名号」の呪力

 

 小生かつて小松謙次郎氏(前日まで鉄相たりし)に荒川巳次氏(当時のロンドン領事)宅であい、談ぜしことあり。真言仏教(またユダヤの秘密教などにも)に、名号ということを重んず。この名号ということすこぶる珍な物で、実質なきものながら、実質を動かす力すこぶる大なり。今ここに宇宙の玄妙な力の行なわるる現象を呑み込んで、阿弥陀仏と名づけるとせよ。この名号を聞くものは漸次にこの名号に対して信念を生ず。ついには自分に分かりもせぬこの信念のために大事件を起こす。一向徒(いっこうと)が群集蜂起して国守武将を殺し尽せしごとし(越前・加賀の一向一揆等の例)。そのごとくトルコ、支那、ローマ等の諸邦は昨今強弩の末で、風呂敷一枚を貫く力もなきものなり。しかるに近年日清戦争起こると聞いて、ブータン(インドの北にある小邦。これは康熙(こうき)帝に征服されたことあり)の土民が四、五輩、義兵のつもりでわざわざ数月難苦して積雪中をふんで北京に赴き、支那の官憲大いにありがた迷惑を感じて、一日に五十銭とかを給してこれを礼遇しおったと聞く。これ支那という国は弱まっても、その名号がまだ盛んに世界に残りおる証拠なり(孫はさすがにこのブータンの例は引かず、別にカシュミル等の例を引きしと記臆す)。名号とは、一国民や一種族の続くあいだ、その脳底に存する記臆にて
national reminiscence ともいうべきものなり。わが国にも田舎には到る処、今日までも蒙古、高句麗とて蒙古(モクリ)と高麗(コクリ)を怖ろしきもののごとく一汎に思い、西洋にも何のこととも分からずに、Gog and Magog(ゴッグ・エンド・メーゴッグ)という野民の来犯をおそる(おかしきことには、ロシア人はトルコ人を、トルコ人はロシア人を Gog and Magog と心得おるなり)。近時大戦争中に連合国人はみなドイツを The Huns とよべり。実はハンスはドイツ人と何の関係なきものなるに、これらにて、事実とは全くちがいながら、この名号というものが、国民の気風や感情を支配し左右する力はきわめて大なるものと知らる。

[やぶちゃん注:「小松謙次郎」(文久三(一八六四)年~昭和七(一九三二)年)は信濃国埴科(はにしな)郡松代(現在の長野県長野市松代町(まち)松代)に松代藩士横田数馬次男として生まれ、同藩士小松政昭の養子となった。ウィキの「小松謙次郎」によれば、『藩校文武学校を経て、上京後、慶應義塾から帝国大学法科大学に転じ』、明治二一(一八八八)年に卒業後、司法省参事官・試験委員から逓信省に入って書記官となった(この時期にイギリスで南方熊楠と逢ったことになる)。『日露戦争で韓国へ派遣され』、『電信電話の普及に努める。逓信局長を経て次官で退官』、同年(大正元(一九一二)年)十二月二十八日に貴族院議員に勅撰され、大正一三(一九二四)年の『清浦内閣では鉄道大臣に就任した』(就任は同年一月七日で、同年六月十一日に辞任(内閣総辞職による)しており、たった半年の在任であった)。昭和七(一九三二)年、『朝鮮総督宇垣一成の要請で京城日報社長に就任』したが、同年十月十五日に逝去している。本「履歴書」は大正一四(一九二五)年一月三十一日に書かれている。

「荒川巳次」(みのじ 安政四(一八五七)年~昭和二四(一九四九)年)は後に駐メキシコ公使や駐スペイン公使を歴任した外交官。ウィキの「荒川巳次」によれば、鹿児島県出身で明治一三(一八八〇)年に工部大学校、(現在の東京大学工学部の前身の一つ)鉱山学科を卒業、六年後の明治十九年に『外務書記生となり、交際官試補、公使館書記官、天津副領事、同一等領事、仁川一等領事を務めた』。『日清戦争の際には大本営附となり、行政庁知事として金州城の行政にあた』り、『その後、天津一等領事、蘇州・杭州一等領事、ロンドン総領事を歴任』、明治三六(一九〇六)年に『駐メキシコ公使に就任し』、明治四十二年には駐スペイン公使に転じて、駐ポルトガル公使をも兼ねたとある。

「ユダヤの秘密教」ヘブライ語で記されたユダヤ教の聖典とされる「タルムード」(ヘブライ語で「研究」の意)。モーセが伝えた、もう一つの律法とされる「口伝律法」を収めた文書群。

「名号」これは狭義の仏教用語なら「みょうごう」で仏・菩薩の称号を指す。一般には「六字名号」の「南無阿弥陀仏」、「九字名号」の「南無不可思議光如来」、「十字名号」の「帰命尽十方無碍光如来(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい)」などがそれであるが、ここで南方熊楠が言っているのはサンスクリット語原音を音写した真言類を広く含んでいるものと思われる。

「一向徒」以下の括弧書きから、戦国時代に権力に対する果敢にして過激な抵抗運動「一向一揆」を起こした浄土真宗本願寺教団(外部呼称「一向宗」)の一部信徒らを限定した謂である。

「越前・加賀の一向一揆」「越前」の一向一揆は天正二(一五七四)年~天正三(一五七五)年、「加賀」の一向一揆は長享二(一四八八)年~天正八(一五八〇)年である。越前のそれは最終的に織田信長によって徹底的に殲滅された悲惨なものではあるが、どうも、「越前・加賀」の時系列の齟齬が気になる。或いは南方熊楠は「越前」ではなく「越中」の一向一揆(文明一二(一四八〇)年から天正四(一五七六)年)と言いたかったのではなかろうか?

「強弩の末」「漢書」の「韓安国伝」に基づく故事成語「強弩の末(すえ)魯縞(ろこう)に入(い)る能(あた)わず」の略。強い弩(いしゆみ)で射た殺傷力の強い矢も、遠い先では勢いが弱まって魯国の名産とする透けて見える薄絹をさえ貫くことも出来ない、の意で、英雄も力衰えれば何事もなし得ぬことの譬え。

「日清戦争」明治二七(一八九四)年七月から翌年三月。まさに南方熊楠のロンドン滞在中のことであった。

「康熙(こうき)帝」(一六五四年~一七二二年)は清の第四代皇帝。在位は一六六一年二月から 一七二二年十二月。但し、この南方熊楠の謂いはブータンではなく、チベットの誤りのように思われる。康熙帝は一七一八年にチベットに遠征軍を送り、一七二〇年にチベットを支配していた外蒙古のジュンガルの軍を討ち破ってチベットを保護下に置いているからである。

「名号」この場合は比喩で前と引き続いて「みょうごう」と読んでいるにしても、意味として「めいごう」の読みで、「名声」の意味である。

「カシュミル」現行のインド北部とパキスタン北東部の国境付近にひろがる山岳地域「カシミール」(カシュミール)。標高八千メートル級のカラコルム山脈があり、パキスタン国境には世界第二の高峰K2が聳える。ここでは「有難迷惑」と熊楠は言っているのであるが、ネパールの山岳民族から構成される戦闘集団グルカ兵(Gurkha)で判るように、この一帯の民は小柄な体格を生かした勇猛且つ敏捷さを備え持った者が多く、実際に優れた兵士も多かった。

national reminiscence」「(特定の国家・集団・群の中の)固有の古い記憶」。古層の集団的記憶といった意味であろう。

「蒙古(モクリ)と高麗(コクリ)を怖ろしきもののごとく一汎に思い」「むくりこくり」「もくりこくり」は民俗語彙の一つで、「怖ろしいもの」の譬えとして使用される特殊語彙である。ウィキの「むくりこくり」によれば、鎌倉後期、文永・弘安の役で二度も『蒙古・高麗連合軍が九州を襲ったことを「蒙古高句麗の鬼が来る」といって怖れたことに由来するという。転じて子供のわがままや泣くのをとめるのに「むくりこくり、鬼来るぞ」と脅す風習となったとされる。地方によっては「もっこ来るぞ」という呼び方もある。さらに転じて「むくりこくり鬼」という鬼がいるようにも考えられた。元寇の際の元軍・高麗軍の残虐行為を指すと解釈されるのが一般的だが、一部には、元・高麗軍の兵士の水死体を指すという解釈も存在する』という。「筑前国続風土記」の『三雲の項目には、蒙古・高句麗とありルビとして「むくりこくり」とふられて』おり、鎌倉末期の「沙汰未練書」には、『「蒙古トハ異国ムクリノ事也」とあ』り、正中二(一三二五)年三月付の「最勝光院荘園目録」には『「文永年中ムクリケイコ」(警固)に任じられたという用例がある』と記す。

Gog and Magog(ゴッグ・エンド・メーゴッグ)」ルビは私の判断で拗音化してある(底本は古い出版でルビは一切拗音化されていないタイプである)。現行では「ゴグマゴグ」(Gogmagog)と一語化の表記もされ、ある英語辞書では、現在のイギリスが未だ「アルビオン」と呼ばれていた頃の太古の現在のブリテン島に住んでいたとされる巨人を指すとする。ウィキの「ゴグマゴグによれば、『その名は「敵対者」を意味し、ゴーモト(Goemot)とも呼ばれ』、『ジェフリー・オブ・モンマス著の『ブリタニア列王史』では、コーンウォール山の洞窟に棲む巨人達のリーダーとして登場する』。『ブルートゥス軍がブリテン島に上陸した時、ゴグマゴグ達は全力で抵抗したが、最終的にゴグマゴグ一人だけになり、ブルートゥス軍の副将軍コリネウスとの一騎討ちに敗れる』とある(キリスト教以前のケルト系神話が元か)、また別にキリスト教では、新約聖書の「ヨハネの黙示録」に基づき、最後の審判の前の、「ハルマゲドン」(最後の世界戦争で神と地獄の軍団の総力戦)に於いて、神の軍団に敵対する者の名として記されてもある。

「野民」野蛮人の意味のようである。

「来犯」襲来して国土を侵すこと。

The Huns」これは「フン族」で四~五世紀にヨーロッパを侵略したアジアの遊牧民族のこと、或いは古代から中国の北方の異民族国家で中国にたびたび侵犯した匈奴(きょうど)を意味する。熊楠の言う通り、ドイツ人とは何の関係も、ない。因みに、ドイツ人の名前としてごくごく一般的な「ハンス」は“Hans”で綴りが違うので、勘違いして納得せぬように。

絶対の孤独

真に「絶対の孤独」と言い得るものは、私は中島敦の「山月記」の虎に変じてしまった李徴が漸近線的に人間の心を失ってゆく過程以外には当て嵌まるものはないと考えている(事実、私は三十三年間の国語教師時代、黒板に「絶対の孤独」と自信を持って板書したのは「山月記」の授業中だけであった)。李徴が言うように、虎に成り切ってしまえば、そこに「絶対の孤独」は無くなる。閉じられた単独の「系」の中では「孤独」は存在し得ない。その無効化を齎してくれるのは実は我々の「死」でもある。有象無象の詩人よろしく「絶対の孤独」《感》を殊更に表明する輩は、その実、誰かに救いを求めている惨めな似非孤独者に過ぎない。

柴田宵曲 續妖異博物館 「診療綺譚」

 

 診療綺譚

 

 醫者は職業上、賴まれればどんな家でも往診しなければならぬ。市中の町家にしたところで、どんな病人が待ち構へて居らぬとも限らぬが、全然不案内の土地とか、山中の孤屋とかいふことになると、職業の場慣れから深く意に介せぬにしても、若干の不安を免れぬであらう。

 若田道角といふ外科醫があつた。或晩一僕も連れずに庚申(かうしん)參りをして歸つて來ると、向うから空駕籠を擔いで來た者が、何でも若田道角とさへ尋ねれば間違ひあるまい、と話しながらすれ違つた。道角はそれがしである、いづ方よりの御使かと尋ねたところ、黑雲町浮田屋松右衞門方に急病人があるさうで、迎ひの駕籠だとわかつた。さういふ家はおぼえぬが、失念したかも知れず、醫者の事で聞き傳へで賴みに來る例がないでもないから、そのまゝ駕籠に乘つて患家に赴いた。怪我人が三人ほどあり、塗り藥も飮み藥も餘分に貰ひたいといふ話なので、また駕籠で送られて歸り、その者に藥を渡すと、間もなくしらしら明けになつた。つくづく考へて見るのに、大雨の晩で眞暗ではあつたが、駕籠に搖られた距離は十四五町かと思はれる外、方角その他はさつぱりわからぬ。その後三日たつても何も云つて來ないから、黑雲町澤田屋といふのを尋ねさせたけれど、黑雲町といふところもなければ、澤田屋といふ家もないことが明かになつた。

 たまたまその時、手負ひの治療仕りたる外科醫あらば申し出でよ、といふ御觸れがあつたので、道角は早速言上に及ぶ。指圖を受けずに手負ひの療治を致し、その病家も覺えぬ段々不屆であると叱られた上、何か心覺えになる事はないかと尋ねられた。釣鐘の音が近く聞えた事、琴三味線尺八の音がした事、瀧の音が間近に聞えた事などは證據にならなかつたが、石橋の獅子の笛の音といふことが詮議の種になつた。石橋(しやつきやう)の笛の許しを得た者を吟味し、笛吹き甚四郎なる者の北鄰りの裏座敷を、月切りに貸したところに手負ひの忍んでゐるのを捕へた。この者どもは高家方(かうけがた)へ盜賊に押し入り、見付かつて斬り立てられた者であつた(本朝藤陰比事)。

[やぶちゃん注:「十四五町」一キロ五百メートル強から一キロ六百メートル強。

「石橋(しやつきやう)の獅子の笛」「石橋」(しゃっきょう)は能作品の一つ。獅子口(獅子の顔をした能面)をつけた後ジテの豪壮な舞いが見物で、囃子方の緊迫感と迫力を兼ね備えた秘曲が聞き物とされるから、往古は特別な場合以外では演ずることが許されていなかったのであろう。始まりの「名乗リ笛」や「獅子」登場の冒頭の激しく笛が吹かれて始まる「乱序」(緩急独特な序の音楽)等、調べる限りでも、この曲での笛は特別なものらしい。私は不学にして見たことがないが。

「本朝藤陰比事」は作者も刊年も未詳の「近世文芸叢書」所収のもので井原西鶴の名著「本朝櫻陰比事」とは全くの別物。「櫻」ではなく「藤」! 所持しないので原話は提示出来ない。正直、「本朝陰比事」とばかり思い込んでしまい、半時ばかり、所持する西鶴のそれを縦覧して時間を無駄にしてしまった! クソったれガ!]

「關田耕筆」に出てゐる話は、これほど手數がかゝつてゐない。京都の名醫のところへ夜更けて來診を乞うた者があり、前から識つてゐる患家の名を云つたので、うつかりその駕籠に乘つたところ、忽ち周圍から何かでつゝんで、どことも知らず舁いて行つた。駕籠から出されて見ると、どうやら山深いところらしく思はれるのに、不似合ひな大きな家である。名醫はこゝで主人らしい者の金創(きりきず)に手當を加へ、藥を與へ、多額の謝禮を受け、前の通りの駕籠で送り返されたが、山中の大きな構へと云ひ、一癖ある主人の面魂と云ひ、治療した金創の模樣から考へても、いかさま賊の隱れ家としか思はれぬ。多額の禮を貰つたからと云つて、このまゝには濟まされぬから、板倉所司代の許へ訴へ出た。この話も容易に手懸りが得られなかつたが、佛法僧と鳴く鳥の聲が聞えたといふのが有力なポイントであつた。佛法僧が鳴いてゐたならば、それは必ず松尾(まつのを)であらう、「松尾の峯靜かなる曙にあふぎて聞けば佛法僧鳴く」といふ古歌があつた筈だと、直ちに松尾山中を探索させ、賊の首領の潛んでゐるのを發見した。――佛法僧の聲をしるべに、古歌を證として賊寨を突き止めるなどは、前の話より遙かに風流である。闇に乘じ駕籠をつゝんで人の目を晦まさうとしても、より大きな自然はどうすることも出來ない。診療綺譚の中で最も詩趣に富んでゐると同時に、佛法僧に關するエピソードの最も興味あるものと云へるであらう。

[やぶちゃん注:「松尾(まつのを)」「松尾山」話柄のロケーションからして、現在の京都府京都市西京区嵐山宮町にある松尾(まつのお/まつお)大社の御神体とされる背後の山であろう。

「佛法僧」ここは〈声の仏法僧〉であるから、真正、〈姿の仏法僧〉のブッポウソウ目ブッポウソウ科 Eurystomus 属ブッポウソウ Eurystomus orientalis ではなく、鳥綱フクロウ目フクロウ科コノハズク属コノハズク Otus scops である。

「板倉所司代」話柄からして、明裁きで知られた板倉勝重(天文一四(一五四五)年~寛永元(一六二四)年)であろう。

「松尾の峯靜かなる曙にあふぎて聞けば佛法僧鳴く」鎌倉中期の歌人藤原(葉室)光俊(建尋三(一二〇三)年~建治二(一二七六)年:正四位下・右衛門権佐・右大弁。第六代将軍宗尊親王の師として鎌倉歌壇に重きを成し、中央歌壇にも影響力を持ったが、親王の失脚に伴い、勢いを失った)の「新撰六帖題和歌」(寛元二(一二四四)年成立。藤原家良・為家・知家・信実・光俊による題詠と相互加点の歌集)第六に載る。

「賊寨」(ぞくさい)は盗賊が根城としている山寨(さんさい:山城(やまじろ))のこと。

 以上は「関田耕筆」の「卷之三 物之部」の以下の最後の箇所。全文を示すが、注は「慈悲心鳥」以外は附さぬ(但し、私は他が総て分かっているわけではない)。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。柱の「○」は除去した。【 】は原本の割注。

   *

慈悲心鳥といふものは、下野の黒髮山にあり。【日光山なり。此鳥の形状鶴のごとく、羽は鼠色にして尾長く、足と嘴(クチバシ)は黑し。聲勝れて高く、夏の氣候に入ば、晝夜ともに啼と、百井塘雨筆記にしるせり。此人は、足跡天下に周き人なり。】さるに其宮に仕まつる鵜川氏、はからず比えの山にても聞つけしと語られしかば、栢原瓦全なる人、彼ますほの薄をとひにまうでし登蓮法師が昔にならひて、やがてふりはへて、比えにのぼりしに、比は水無月計、唯老の鶯、駒鳥などの聲のみなりしかば、口をしながら講堂ども拜みめぐり、暑さに汗あへてこうじたれば、よしや今はとて下りしに、水呑みと云人舍のほどにて、ほのかに聞つけたり。あはやと心をしづめ、耳を燈すに、十聲計淸らに鳴つゞけたる、うれしさいはんかたなかりしといへり。はじめ修學院にて或僧をいざなひし時、「慈悲心となくてふ鳥を尋ねゆく道しるべせよ法の衣手。とよめりし、因に、人々にも歌勸めぬとかや。おのれもこはれて、慈悲心と鳴聲きけば鳥にだにしかぬわが身のはづかしき哉。とよみておくりぬ。比えに詣る人は、心にかくべきことぞ。又佛法僧といふ鳥も、同じく鳴聲につきて名付たる類なり。高野山に名高きは、大師の性靈集に見えしが本なり。後夜聞佛法僧鳥と題せられて、寒林獨座草堂曉。三寶之名聞二。一鳥有ㇾ聲人有ㇾ心。聲心雲水俱了々。玉串正視云、此詩を梅村載筆といふものに評して、性靈集中此詩尤好なり。またいはく、高野山にあり。下野國日光山にも有と、藤原敦光の書る緣起にみえたりと記せるとぞ。又高野山通念集に、佛法僧の鳥のことは、靈窟の閑林の内にて、曉がた一夏の間啼となり。雄(ヲ)、佛法となけば、雌(メ)、僧と聲をあはすなりと見ゆとかや。此二書は、いまだみねども、他の説による。又古歌にもよめり。「吾國はみのりのみちの廣ければ鳥も唱ふる佛法憎かな。また「うきことをきかぬ大山の鳥だにも鳴ねはたつなみつのみのりに。また此ごろ或人の筆記を見れば、靈元法皇の御製御集に有とかや。御詞書、佛法僧の巣をつくりたるを見て、「聲をきゝ姿をいつのよにかみん佛法僧のありし梢に、此巣はいとめづらし。いづこより採(トリ)きて、叡覽に入けるにや。京ちかくにては、松尾によめり。是につきて一話あり。近古に京師に名ある醫師を夜更て迎ふる者あり。かねて相識人の名をいひたれば、速に輿に乘しを、頓て物にて押つゝみ、數人圍ていづこともしらず勾引(カドハ)し行ぬ。さていと山深き所の大なる家の内に昇(カキ)いれ、家あるじとおぼしき者の金瘡を療ぜしめ、藥をこひて後、あつく謝物をあたへ、また先のごとくかこみてかへしたり。いかさまにも賊(ゾク)の隱れたる所とおぼしく、ものをも得たる からに、默してはあられず、官に訟(ウタヘ)たれば、時の京兆戸板倉侯、其所のさまを尋給へども、東西をもわきまふる所なかりし旨、上の件をのべけるが、唯一めづらしとおぼえしは、佛法僧と鳴鳥有しとまうす。侯さては松尾成べし。松尾に此鳥をよめる古歌ありとて、速に吏をつかほして、彼山深くもとめさせ給ひしかば、はたして賊の首領居りしとなり。これは新六帖に、光俊、「松尾の峰靜なる曙にあふぎて聞は佛法僧啼。といふ歌なるべし。今は彼山にて聞たるといふ人なし。絶たるにや。又下野那須の雲巖寺に、此鳥あり。及び慈悲心鳥もありと、播磨玉拙法師話せり。

   *

「慈悲心鳥」カッコウ目カッコウ科カッコウ属ジュウイチ Cuculus fugax の別名。

 併しこの種の類話は、なほいくつ擧げ得るにせよ、所詮推理小説の世界を脱するわけには往かぬ。「アラビアン・ナイト」のアリ・ババの話の中に、四つに切斷された屍體を縫ふ事がある。事は絶對祕密に行はれなければならぬが、とても素人の手に合はぬので、見知らぬ裁縫師に金貨を握らせ、目隱しをして連れて來る。さうして眞暗な部屋に連れ込んで、屍體と共に經帷子のやうなものを縫はせると、またもとの通り目隱しをして、どこだかわからぬやうに連れ歸つてしまふ。アリ・ババの家を突き止めようとする山賊の一人が、偶然この裁縫師の店に立ち寄つた結果、裁縫師はまた目隱しをして、勘に任せて先日の道を辿ることになり、遂にあやまたずその家を尋ね當てるといふのが一つの山になつてゐる。

[やぶちゃん注:ウィキの「アリババと40人の盗賊」によれば、「開け! ゴマ」の符牒を知って盗賊たちの秘匿していた洞穴の中の金貨を奪い取って『大金持ちになったアリババは、このことを妻以外の者には秘密にしていたが、不運にも元から金持ちの兄・カシムに知られてしまった。強欲でねたみ深い性格のカシムは、金貨を手に入れた経緯と洞穴の扉を開けるための呪文をアリババから無理やり聞き出し、自分も財宝を狙って洞穴に忍び込んだ。ところが、洞穴の中の財宝に夢中になり過ぎて、扉を再び開ける呪文を忘れてしまい、洞穴から出られなくなったところを、戻って来た盗賊たちに見付かり、カシムはバラバラに切り刻まれて惨殺されてしまった』。『カシムがいつまでも帰って来ないのを心配したアリババは、翌日になって洞穴へ向かい、盗賊たちの手でバラバラにされたカシムの死体を発見した。驚いたアリババは、カシムの死体を袋に入れ、ロバの背中に乗せて密かに持ち帰り、カシムの家に仕えていた若くて聡明な女奴隷のモルジアナ』『と相談の末、遠くの町から仕立屋の老人』『を呼んで、死体を元通りの形に縫い合わせてもらい、表向きはカシムが病死したことにして、内密に葬儀をすませた。その後はカシムの家と財産もアリババの物になり、アリババはカシムの一人息子を養子にして、この上もなく恵まれた身分の男になった』。『一方、洞穴の中から金貨の袋と死体が持ち去られたことに気付いた盗賊たちは、死んだ男の他にも仲間がいると考えて、すぐに捜査を始め、死体を縫い合わせた老人を見付けて、情報を聞き出すことに成功した。そして、老人の協力でアリババの家(元・カシムの家)を見付けた盗賊たちは、頭領が』二十『頭のロバを連れた旅の油商人に変装し、ロバの背中に』二『つずつ積んだ油容器の中に』三十九『人の手下たちが隠れ』、『アリババの家に一夜の宿を求めて泊めてもらう作戦で家の中に入り込み、家の人々が寝静まるのを待ってアリババを殺そうと企てたが、庭に運び込まれた油容器の中身が盗賊たちと気付いたモルジアナは』、一『つだけ本物の油が入っている容器を探し当てると、急いでその油を台所へ運び込み、大鍋に入れて沸騰させ、煮えたぎった油を全ての容器に注ぎ込んで、中に隠れている盗賊たちを一人残らず殺した。そうとも知らず夜中に寝床から起き上がり、仕事に取りかかるために手下たちを呼ぼうとした頭領は、容器の中をのぞき込んで手下たちの全滅を知ると、驚いて単身アリババの家から逃げ去った』とある(下線やぶちゃん。以下の展開はリンク先をどうぞ)。]

 これなどは「アラビアン・ナイト」以外には滅多にありさうもない話で、事は愈々出でて奇であるが、推理の世界を出られぬことに變りはない。人の家には多少の祕密があつて、あまり外界の人に觸れられたくない傾向を持つて居り、診察のために内房深く出入する醫者は、觸れるつもりはなくても觸れる機會を生ずる。古來の診療譚の中にアリ・ババの話に共通するものがあるのはそのためなので、診療を乞ふ醫者に自家の正體を知られまいとして、わざと夜更けに賴みに行つたり、患家の名を僞つたり、駕籠を外からつゝんで道をわからないやうにしたり、いろいろ苦肉の策をめぐらすのであらう。――この邊で推理世界を離れて、妖異の門を潛らなければなるまい。

 佐渡相川の山中、二つ岩といふところに團三郎といふ狸が居つた。往古より住んでゐたといふけれども、狸の年だから委しいことはわからない。享保元文の頃、寺崎彌三郎といふ役人が、相川で狸を見付けて拔き打ちに斬らうとし、逃げるところを足を薙いだが、仕止めることは出來なかつた。然るにその晩、何の元忠とかいふ外科醫のところへ、急病人があると云つて、駕籠で迎ひに來た者がある。元忠も何氣なくその駕籠に乘つて行くと、やがて門長屋などのある堂々たる構へのうちへ舁き込まれた。その子が怪我をしたといふので、主人が出て丁寧に挨拶し、治療を乞うた上、厚く謝禮を贈つて返した。けれどもその後藥を取りに來ることもなし、もう一度見舞はうと思つても、その晩は慌しく駕籠で送迎されたので、どこの誰だかも明かでない。よほどたつてから、あれは團三郎狸の子であつたかも知れぬ、どうも人間らしい樣子でなかつた、と元忠が語つたといふのである(耳囊)。

[やぶちゃん注:以上は「耳囊 卷之三 佐州團三郎狸の事」である。団三郎が佐渡の妖狸(佐渡には狐はいない。生物学的にもそうであるが、伝承では妖術較べをして狐が負けて島を退散したとする。実際には狸もいなかったのであるがが、慶長六(一六〇一)年に佐渡奉行となった大久保石見守が、金山で使用する鞴(ふいご)の革素材にするため、タヌキを島へ移入したのが始まりとされる)の首魁なら、「耳囊」の作者根岸鎭衞は現実上の島の人間世界の元締樽佐渡奉行で、その在地勤務時代に現地で聞書きした確かな話である。但し、これよりも遙かに詳しいこの話の〈実録〉がある。私が電子化注を既に終わっている偏愛する、作者不詳乍ら、明らかに佐渡地役人による現地採取の怪談集「佐渡怪談藻鹽草」(安永七(一七七八)年成立。第十代将軍徳川家治の治世)の「窪田松慶療治に行(ゆく)事」で、これは医師の名さえ姓名ともに記している、怪談としては超一級のリアルな優れものである。しかも、驚くべきことにこの書の中では別カメラ、所謂、マルチ・カメラが回っており、それが「寺田何某怪異に逢ふ事」なのである! これこそ、その団三郎の息子が下役人寺田彌三郎に斬られる場面を別エピソード(別な独立章)として撮っているのである! こんな史上最高のリアル組怪談は滅多にあるものではないと言えよう。是非、お読みあれかし。なお、この「佐渡怪談藻鹽草」には他に団三郎絡みの「佐渡怪談藻鹽草 鶴子の三郎兵衞狸の行列を見し事」もある。]

 この話だけでは寺崎彌三郎に斬られた狸と、元忠の治療したのとが、完全に同一狸だといふところまでは往つてゐない。二つ岩らしいところだつたと云つても、はつきり突き止めたわけではなし、たまたま一方に斬られた狸の話があつたから、あれは團三郎の子狸かも知れぬといふ話を、あとから思ひ付いたものとも見られる。狸までが治療を乞ひに來たといふ事を以て、自家醫術の宣傳に使つたのだとすれば、どつちが人をたぶらかしてゐるのかわからないが、馬琴が「燕石雜志」に書いたのを見ると、少し話が違つてゐる。一夜知らぬ家から駕籠で迎ひを受け、治療を施すまでは大差ないけれども、この方は數日を經てちやんと禮に來た。しかも方金數百顆を盆に盛つて差出したので、醫者は大いに驚いた。僅か四五帖の藥に對してこんなにお禮を貰ふわけはない、自分も年頃こゝに住んでゐるから、大概な豪家は名前を知つてゐる、一體あなたは何人か、と尋ねると、相手は不可思議な微笑を洩らして、お疑ひは御尤もです、實は私は人間ではありません、二つ岩團三郎です、どうかこの金はお納め下さい、と云つた。

 團三郎ならば愈々貰ふわけに往かない、金銀は人間の重寶で、禽獸には無益のものである、然るにお前がこんなものを持ち合せてゐるところを見れば、きつと不良の財に相違ない、と云はれて、團三郎は辯解これ努めたが、醫者は賄賂でもはね付けるやうに頑として聞かぬので、その日は空しく歸つて行つた。さうして次の日には貞宗の短刀を持つて來て、これは祕藏の品ですが、お禮のしるしまでに差上げます、お蔭で病氣をなほしていたゞいたのに、禮をお受け下さらなくては甚だ心苦しい、と云つたかと思ふと、搔き消すやうに見えなくなつてしまつた。この消え方は一應狸らしくもあるが、考へて見れば辻褄の合はぬ點がある。騙すのは得意の先生が、自ら進んで二つ岩團三郎だと名乘るのも妙な話だし、海上遙かに空中樓閣を現じて越後の人を煙に捲くほどの團三郎が、藥禮を取つてくれぬと云つて苦にするなんぞは、柄にもないと云はざるを得ない。この間の曲折は、馬琴の筆にかゝつたせゐか、すべて繁文滑稽の嫌ひがある。夜中駕籠を飛ばして治療を乞うた後、杳然として一切の消息を明かにせぬ方が、どれだけ狸らしいか知れぬと思ふ。

[やぶちゃん注:「方金數百顆」「方金」は「はうきん(ほうきん)」で実際に流通していた当時の方形金貨のこと。二分金・一分金・一朱金などを指すが、ここは医師がその高額に驚愕していることから、一枚で一両の二分の一に当たった「二分金」と考えてよかろう。それが数百粒である(但し、一般には「顆」(クワ(カ))は「丸くて小さなもの」の数詞である)。

「四五帖」(「帖」は「ちやう(ちょう)」)金創(かなそう)であるから、薬物を塗った貼り薬で傷口を塞いだ。交換用の予備も含めて複数枚となる。

 以上は瀧澤馬琴の考証随筆「燕石雜志」(文化八(一八一一)年刊)の「卷之五上」の「(二)田之怪(たぬけ)」(この読みは「目次」のもの)である。かなり考証部が後に続くが、図もあって非常に興味深いので附図も併せて総てを引く。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。なお、そこで馬琴は(柴田は指摘していないが)「團三郎」を「彈三郎」と表記している。読みは一部に限った。【 】は原典の割注。カタカナ、ひらがなのルビの違いは底本のママ。ひらがなも踊り字を用いていることなどから、原典のルビの違いと推定される。踊り字「〱」「〲」は正字化した。注はごく一部とし、文中に挿し挟んだ。歴史的仮名遣の誤りは底本のママ(殆んどない)。一部の漢文脈の訓点に不審があるが、ママとした。太字は底本では傍点「ヽ」。

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  (二)田之怪(たのけ)

狸の異名を野猫(やびやう)といひ、猫の異名を家狸(かり)といふ。いにしへは狸を羪(かふ)て田の鼠を捕(とら)したれば、多奴幾(たぬき)は田怪(たのけ)又田猫(たねこ)ならん。和名鈔云。兼名宛(ケンメイエン)。狸【音釐(リ)和名太奴木。】搏ㇾ鳥爲(ナ)ㇾ粮(カテ)者也といへり。狐狸と對(つい)すれど、その妖は狐(きつね)より拙(つた)なし。且つ狐は稻荷の神の使者なりとて、神とし祭らるゝもあれど、狸はさる因(ちなみ)なければ、婦幼(をんなわらべ)にだも蔑(アナド)りいやしめらる。物に幸不幸あることみなかくのごとし。但(たゞ)彼(かれ)が第一番の高名は太平廣記に見えて、千歳(せんさい)の老狸(ふるたぬき)、書生に化(ばけ)て董仲舒(たうちうぢよ)[やぶちゃん注:前漢の儒学者(特に「春秋」考証に秀でた)で儒家思想を国家教学とすることを献策した人物。生没年は紀元前一七六年(?)から紀元前一〇四年(?)と推定される。]を試(こゝろみ)たるよしをいへり。これすら搜神記には、老狸を老狐(ふるきつね)とし、董仲野を張茂先(ちやうもせん)[やぶちゃん注:「博物志」を書いた政治家で文人としても優れていた三国時代から西晋にかけて生きた張華(二三二年~三〇〇年)の字。]なりとあれば、いとほいなきや。一休話説(いつきうはなし)といふものに、新右衞門親元(ちかもと)臨終のとき、阿彌陀如來紫雲に駕(のり)て影向(えうかう)ありけり。親元これを射るに狸なりしといへり。こほ親元にはあらず。宇治拾遺物語(第八卷十三張)に載(のり)たりし、愛宕(あたご)の山に年來(としごろ)行ふ法師ありき。普賢菩薩象に乘りて、夜な夜な見え給ひけり。その山の西のかたなる獵夫(かりひと)、この事を聞て潛(ひそか)に疑ひ、九月廿日の夜間に、彼の普賢菩薩を射たりしかば、ふりたる狸の化たるなりといふ物語を取(とり)て、獵夫を親元に作りかえ、普賢を阿彌陀にしたり。○佐渡國二ツ岩(或作ニツ山)といふ山中に、年來ひさしく棲む彈三郎といふ狸は頗る靈(れい)ありといふ。この老狸(ふるたぬき)むかしは人に金を貸(かし)けり。彼に借(か)らんと思ふものは、金の員數(いんず)[やぶちゃん注:必要とする数。]と返璧(へんへき)[やぶちゃん注:相手に謝意を表して借用した物を返すこと。]の日限を書つけ、これに名印(ないん)を押(おし)て穴のほとりにさしおき、詰(あけ)の朝亦ゆきて見るに、貸(かさ)んと思へばその金穴の口にあり。後(のち)には金を借(かる)ものあまたあるまゝに、返さゞるものも亦夥(あまた)ありしかぱ、遂に貸さずなりしとぞ。醫師(くすし)伯仙は佐渡の人なり。三世方伎(ほうぎ)[やぶちゃん注:「方伎」は狭義には陰陽道(おんみょうどう)に於いて総ての吉凶禍福を察知し、これに対処する呪術作法を指すが、ここは医療処方術の謂い。]によし。その父嘗て佐渡にありしとき、一夕隣里なる某甲急病ありとて、轎子(のりもの)を齎(もた)らし叮嚀(ねんごろ)に迎(むかへ)らる。しる人にはあらねども、辭するによしなくて、その家に赴き、湯藥(とうやく)膏藥を與(あたへ)て、亦送られて歸りつ。かくて四五日を經て、患人(やむひと)おこたり果(はて)たり[やぶちゃん注:「おこたる」(怠る)には実は「病気の勢いが弱まる・良くなる」の意があるから、それに「完全に」の意の「果つ」を合わせたもので、すっかりもう快癒した、の謂いである。]とて、みづから詣來(もうでき)てよろこびを述(のべ)、謝物(しやもつ)として萬金數百顆を盆に盛りてさし出しにければ、醫師大きに怪みてこれを受(うけ)ず。僅に四五貼(ちやう)の藥劑(くすり)を進らしたるに、かゝる謝物をうくべき事かは。われ年來(としごろ)こゝに住めば、豪家はその名をしらざるものなし。抑々(そもそも)足下は何人ぞと問(とへ)ば、件(くだん)の男うちほうえみて疑ほるゝも理(ことはり)なり。われは人間にあらず。ニツ岩の彈三郎なり。まげてこの金をおさめ給ひねといふに、醫師頭(かうべ)をうち掉(ふり)て、彈三郎ならばいよいよ受(うけ)がたし。金錢は人間日用の寶(たから)にして、禽獸の(きんじう)爲めに益(えき)なし。しかるに汝(なんぢ)甚だ富(とみ)たり。必ず不良の財(たから)なるべしといへば、彈三郎又いへらく、おのれが金は不正(ふせう)ののにあらず。或は兵火に係り、或ひは洪水によつて溝壑(こうがく)[やぶちゃん注:溝(みぞ)や溝(どぶ)や谷間。]に埋(うづも)がるものを拾ひあつめて、貧人(まづしきひと)を濟(すく)ふのみ。疑はずして受(うけ)給へと請(こひ)すゝむれども、醫師(くすし)固辭(いなみ)て受ざりしかば、その日はむなしく立歸り。次の日に短刀(のだち)一口(ひとふり)をもて來つ。これを醫師におくりていへらく、この刀は貞宗(さだむね)[やぶちゃん注:鎌倉末期の相模国の刀工。刀鍛冶の名工正宗の子或いは養子と伝えられ、相州伝の代表的刀匠である。但し、現存する在銘刀はない。]が釧(うち)たるものなれば、おのれ年來(としごろ)祕藏せり。國手(こくしゆ)[やぶちゃん注:国をさえ医する名手の意で名医。それより転じて医師を敬って言う。]の蔭(かげ)を蒙りて、疾病(やまひ)忽ちにおこたりぬるに、物受(ものうけ)給はぬは心くるしくこそ候へ、これをば受(うけ)おさめて、わが志を果さし給へかしといひつゝ、刀を主人のほとりに置(おき)、形(かたち)は消(きえ)てなかりけり。されば彼(かの)短刀(無銘)を伯仙につたへて家寶とせりといひ傳へたりとなん。みな是(これ)土俗の口碑に遺す昔物語にして、今は彼の老狸(ふるたぬき)を見たるものなしといへば、あるべきことならねど、童子の爲に記すのみ。是否はしらず。按ずるに越後名寄(卷の三十一)云く、寺泊(てらどまり)出雲崎の海邊にて、春夏秋の間(あひだ)、天(そら)はれたるゆふべ、海上遙に佐渡を眺望れば、二ツ山のかたにあたりて、雲にもあらず霞にもあらず、靑きに黑色(こくしよく)を帶(おび)たる氣のたちて、或は樓閣、或ひは城(ぜうくわく)、渡殿(わたどの)、廊下(ほそどの)、築𤗼(ついひぢ)、垣に至るまで、全備して見ゆ。海市蜃樓(かいししんろう)にはあらず。これは佐渡なる二ツ山に彈三郎といふ狸あり。かれが所爲(わざ)なりとぞ。時々(をりをり)これありといへり。佐渡には狐なく、狸と貉(むじな)はありて吹革(ふいご)の用をなせり。亦是造化不測(ふしぎ)の功なり。