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« 驚きのロケーションの宿 | トップページ | 南方熊楠 履歴書(その11) ロンドンにて(7) 大英博物館内に於ける殴打事件 »

2017/04/18

南方熊楠 履歴書(その10) ロンドンにて(6) 和船名に「丸」を附すこと

 

 明治三十一年ごろより小生は『ノーツ・エンド・キーリス』に投書を始め、今日まで絶えず特別寄書家たり。これは七十六年前に創刊されたもので、週刊の文学兼考古学雑誌なり。今度御下問の「日本に綿の神ありや」もしくは「いずれの国かに綿の神ありや」というような難題が出るときは、この雑誌へ問いを出すなり(無質)。しかるときは、読者の中より博識天狗(てんぐ)の輩が争うて答弁を出す。往年英米諸国で、日本の商船に丸という名をつけることにつき種々(日本の海軍と海運との関係について)疑念を抱き、この雑誌に問いを出せしものありしとき、小生答文を出したるを(一九〇七【明治四十】年八月および十一月)海軍大将イングルフィールド(『ロイド登録』の書記職)が見てきわめて要用のものとなし、ヒル氏をして提要を拵(こしら)えしめて、大正五年六月十三日の『ロイド登録』に載せしめたり。これは何でもなきことのようなれども、日本政府が船名を、あるいは丸、あるいは艦とつけるを別して、商船に限り必ず丸を称せしめたるにつきて、いろいろと飛んでもつかぬ考えを懐(いだ)きし外人少なからざりしが、この登録の文が出でてよりかかる懐疑が一掃されたるなり。(普通には船に丸の名をつけるは一五九一年征韓役に九鬼(くき)嘉隆が作りし日本丸を嚆矢(こうし)とすと思う人多し。しかし、それより先に一五七八年信長が九鬼の日本丸を覧(み)しことあり、また一五八四年家康の清須丸と九鬼の日本丸と戦いしことが『武功雑記』に見ゆ。しかるに一四六八年に成った『戊子入明記』を見ると、当時足利政府より支那へ送りし船には十艘までみな丸という号をつけたり。これらのことはその後何の書にも見えおれど、小生これを明言せるまでは知らぬ人多かりし。)貴下も御承知の通り『ロイド登録』は世界を通じて船舶に関係あるもの必読のものたり。しかるにわが邦には大正五年にすでに外人がかかる提要文を出だしあるに気づかず、今も舟を丸というについて中米、南米また北米諸国でいろいろと日本船について妙な評判を聞くに驚き、さて本邦の学者に問うも何たる取調べもなしおらねば、何が何だか分からずにおるようなこと、この外にも多し。実にみずから侮って、後に人に侮らるるものというべし。

[やぶちゃん注:【 】は底本ではポイント落ち二行割注の部分をかく表記した。

「明治三十一年」一八九八年。

『ノーツ・エンド・キーリス』一八四九年に創刊され、現在も続く雑誌Notes and Queries(『ノーツ・アンド・クエリーズ』:訳すなら「報告(群)と質問(群)」)。南方熊楠は「文学兼考古学雑誌」と言っているが、この後者の「考古学」は現行のそれではなく、寧ろ、江戸随筆などに見られる広義の古典や古物及び既に日常的となっている習俗習慣に対する考証学の謂いであって、まさに現在の広い意味での民俗学と同義的である。英文ウィキの同雑誌によれば、同誌は当時、サブ・タイトルを“a medium of inter-communication for literary men, artists, antiquaries, genealogists, etc”(「文学者、芸術家、古物愛好家、系譜学者等の相互交流の媒体として」。現在は“For readers and writers, collectors and librarians”(「読み手」と「書き手」、収集家と図書館員のために」)に変わっている)としていた。サイト「南方熊楠資料研究会」の「南方熊楠を知る事典」内のこちらのページの松居竜五氏の「ノーツ・アンド・クエリーズ Notes and Queries」を読むと、『ネイチャー』からこちらへの投稿へと有意に推移していった意味がよく解き明かされてある。

『今度御下問の「日本に綿の神ありや」もしくは「いずれの国かに綿の神ありや」というような難題』既出既注

「無質」仏教用語なら「むせつ」であるが、ここは「むしち」であろう。「無料」の意。「質問やそれへの応答の投稿はその行為について対価を要求しない」という謂いである。

「一九〇七【明治四十】年八月および十一月」言わずもがなであるが、日本帰国後(帰国は明治三三(一九〇〇)年)。これはまさに前年末(十二月)の神社合祀令の勅令(明治三十九年発布)に対して南方熊楠が強烈な反対運動を起こした年でもある。

「海軍大将イングルフィールド」不詳。綴りは“Englefield”であろう。

「ロイド登録」“Lloyd's Register”。現在、知られるロンドにある保険市場や保険組合である「ロイズ」の前身。ウィキの「ロイズ」の「歴史」の項によれば、一六八八年頃、『エドワード・ロイドがロンドンのタワー・ストリートにコーヒー・ハウス(ロイズ・コーヒー・ハウス)を開店。貿易商や船員などがたむろするようになった。ロイドは顧客のために最新の海事ニュースを発行するサービスを行い、店が非常に繁盛した』。一六九一年、『手狭になり、ロンバード・ストリートの中央郵便局の隣に移転する。次第に保険引き受け業者(アンダーライター)が集まるようになる』。一七二〇年に「南海泡沫事件」(South Sea Bubble:イギリスで起こった投機ブームによる株価の急騰と暴落及びそれに続く混乱。現在の「バブル経済」の語源になった)が『起き、ロンドンの証券市場は崩壊した。議会は泡沫法を制定し、保険引受業務を行える会社を勅許を受けた』二社に『限定した。しかし、個人の保険引受業者は規制しなかったため、ロイズに集まっていた個人の保険引き受け業者は競争相手となる保険会社が』二『社だけに激減したおかげで、かえって有利になった。まもなく勅許会社』二『社は不祥事を起こして海上保険から撤退』、『火災保険に主力を移したため、海上保険はロイズの独占となった。しかし、ロイズに有象無象の保険引受業者が集中した結果、ロイズには支払能力もない怪しげな業者が出入りするようになり、賭博保険が横行してロイズの評判を下げることになった。まともなアンダーライターとブローカーは事態を憂慮して、ウエイターのトーマス・フィールディングを雇って』、『新ロイズ・コーヒー・ハウスを開かせ、純粋な海上保険を行う業者は新ロイズに移った』。『アンダーライターたちはロイズ委員会を組織し』、一七七三『年にはコーヒー店を王立取引所の中に置くことを決定した。これにより、ロイズは保険取引が行われるコーヒー店の名前から、保険引受市場そのものへと転換となった。しかしロイズ委員会には不正を働いたアンダーライターを除名する権限や、支払能力のないメンバーの出入りを制限する権限がなかった』。一八七一『年にロイズ委員会は議会に働きかけてロイズ法を制定させ、ロイズ委員会を法人化してロイズ組合となった。法人といっても実態はシンジケート団の集まりであり、保険金の支払に関して構成員は最終的に無限責任であった』とある。ここは、その「ロイド・レジスター」が、船舶関係業者や海上保険業者向けに発行していた情報交換目的のニュース紙のことと思われる。こんな話を何故、南方熊楠が蜿蜒と記すかって? だって手紙の相手は当時の日本郵船株式会社大阪支店副長であった矢吹義夫だもの!

「ヒル氏」不詳。ロイズ・レジスターのイングルフィールドの部下であろう。

「提要」対象の要点・要領を取り出して示した文書。

「一五九一年征韓役」「一五九一年」は「一五九二年」の南方熊楠の誤り。文禄・慶長の役(文禄元(一五九二)年に始まって翌文禄二年に休戦した「文禄の役」及び慶長二(一五九七)年の講和交渉決裂によって再開されて慶長三(一五九八)年)の豊臣秀吉の死によって日本軍撤退で終結した「慶長の役」)のこと。「征韓」や「朝鮮征伐」は「懲罰」の意味を持つことから現行では「征韓」という歴史用語としての表現は避けられるのが普通である。

「九鬼(くき)嘉隆」(天文一一(一五四二)年~慶長五(一六〇〇)年)は死後、「海賊大名」の異名をとった、九鬼氏第八代当主にして九鬼水軍の首魁。ウィキの「九鬼嘉隆」によれば、『志摩の国衆の一員として身を起こし、織田信長や豊臣秀吉のお抱え水軍として活躍し、志摩国を支配して』三万五千石の禄を得たが、『関ヶ原の戦いで西軍に与し、敗れて自害した』。

「日本丸」文禄の役に参加した安宅船(あたけぶね:室町後期から江戸初期にかけて日本で広く用いられた軍船の一つ。ウィキの「安宅船」によれば、『巨体で重厚な武装を施しているため速度は出ないが、戦闘時には数十人の漕ぎ手によって推進されることから小回りがきき、またその巨体には数十人から百数十人の戦闘員が乗り組むことができた。室町時代後期以降の日本の水軍の艦船には、安宅船のほか、小型で快速の関船と関船をさらに軽快にした小早があり、安宅船がその中核を成した』とある)の名。ウィキの「日本丸(安宅船)」によれば、天正二〇・文禄元(一五九三)年)に、『豊臣秀吉の命で九鬼嘉隆が建造し、当初は「鬼宿(きしゅく)丸」と命名されたが、名護屋城へ回航した際に最も優れた船として秀吉の指示で「日本丸」へ改名された』。『日本丸は文禄の役で九鬼水軍の旗艦として同年』七月十日の安骨浦海戦(現在の韓国慶尚南道昌原郡にある海港での交戦)に『参加しており、『九鬼御伝記』には艦隊の楯として突出し、長時間に及ぶ朝鮮水軍による集中攻撃で矢倉は打ち落とされ』、『端々しか残らず、帆柱も射切られる大損害を受けつつも』、『健在だった旨が記されている』。『この海戦の報告を受けた秀吉は味方に』一『艘の損失も無かったことを賞し、朝鮮水軍への対策として大船の派遣・建造を行う旨の書状を、海戦に参加した嘉隆・加藤嘉明へ』七月十六日『に送っている』。『このことから秀吉が日本丸を有力な軍船と評価したことが伺え、以後は後述の様に日本丸以上の大船建造が行われることになる』。『文禄の役で日本水軍は多数の船舶を失ったが、日本丸は生き残り』、『日本に帰還している』。なお、『慶長の役では九鬼家は渡海し』ていない。因みに、この日本丸については毛利水軍が文禄二年夏に建造したとする説もあるが、サイズが荒唐無稽で信憑性は低い。詳しくはリンク元を参照されたい。

「一五七八年信長が九鬼の日本丸を覧(み)しことあり」「一五七八年」は天正六年。これはウィキの「日本丸(安宅船)」の、「異説」の後半に、『日本丸の名を持つ船としては、嘉隆が織田信長の命により建造した鉄甲船の』一隻があるとするのが、それであろう。しかし、上記の「日本丸」と同一とは思われない。

「一五八四年」天正十二年。

「清須丸」不詳。但し、家康はこの時(蟹江城合戦:天正十二年六月に起こった尾張国南西部における羽柴秀吉(豊臣秀吉)陣営と織田信雄・徳川家康との間で行われた戦闘)、九鬼らの軍勢を蹴散らし、海上封鎖を完成させているから、家康方のその名の軍船があったことは間違いない。

「九鬼の日本丸」これもウィキの「日本丸(安宅船)」の、「異説」の後半に出る、天正一二(一五八四)年の蟹江城合戦に於いて、『敗走時に嘉隆が放棄した大船が』やはり「日本丸」であったとある。或いはこちらは文禄の役に参加した「日本丸」を改造したものであったのかも知れない。

「武功雑記」肥前平戸藩第四代藩主松浦鎮信(まつらしげのぶ)天祥が記した戦話。元禄九(一六九六)年成立。天正〜元和期(一五七三年~一六二四年)の諸士諸将の武勲を雑記したもので、特に関ヶ原の戦や大坂の陣などについて詳しく書かれてある。

「一四六八年」応仁二年(古河公方方は享徳十七年)。

「戊子入明記」(ぼしにゅうみんき)は室町中期の遣明船の記録。一巻。信濃国開善寺の僧天与清啓が将軍足利義政の命によって応仁二(一四六八)年に遣明使正使となって渡航した際の記録。進上品・交易品・乗組員の構成・勘合・遣明船の警備など、日明関係の具体的内容を記す。但し、京都市妙智院に原本があるものの、これは清啓自身の筆ではなく、後の天文期(一五三二年~一五五五)に二度渡明した策彦周良(さくげんしゅうりょう)が参考のために抄録したものと考えられている。

「大正五年」一九一六年。本「履歴書」(大正一四(一九二五)年一月三十一日書簡)が書かれる九年前。]

 

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