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2017/04/15

柴田宵曲 續妖異博物館 「髑髏譚」(その2) / 「髑髏譚」~了

 

 倂し多くの髑髏の中には變つた話がないでもない。長間の佐太といふのは美濃の男で、文龜年間の戰爭の時に京に上つたが、その後道心を發して國にも歸らず、洛北栢野のほとりに草庵を結び、北山に買ひ請けた柴を都へ出て賈つて暮して居つた。或日北山へ行つた戾り道、夜遲く蓮臺野にさしかゝると、路傍の古塚が突然兩方に壞れて口を開いた。大膽不敵の佐太は少しも驚かず、立ち止つて見たところ、内より光りが出て輝く事、松明(たいまつ)の如くである。塚の中の白骨は髑髏ばかりでなく、手足はほぼ全きまゝ橫はつてゐたが、それが俄かに起き上るや否や、佐太にひしと抱き付いた。力に任せてこれを突けば、仰向けに倒れてばらばらになり、それきり動かず、前の光りも消えてしまつた。何人の塚ともわからぬので、翌日またそこへ行つて見たら、白骨碎け塚崩れ、あはれな有樣になつてゐたと「伽婢子」にある。

[やぶちゃん注:「柏野」現在の京都市北区紫野の柏野(かしわの)地区。ここ(グーグル・マップ・データ)。紫野や蓮台野の南続く洛北七野(しちの:他は内野・北野・平野・〆野(しめの:「点野」とも書くようである)・上野)の一つ。

 以上は「伽婢子」(おとぎぼうこ:但し、どうも柴田は先行叙述から見ると、「お」を冠さず「とぎぼうこ」と読んでいるようである)の「卷之六」にある「白骨(はつこつ)の妖怪」(「妖怪」の「怪」を「恠」ともする刊本もある)である。新日本古典文学大系版(松田修・渡辺守邦・花田富士夫氏校注)を参考に、恣意的に漢字を正字化して示す。なお、参考底本の注も私の注の参考にさせて貰った。読みは原典が歴史的仮名遣や読みを誤っている箇所があって奇異なので、オリジナルに限定して正規の読みを附した。また、本文も読み易さを考えて、一部の読みを送り仮名として外に出し、直接話法を改行、鍵括弧や句読点も追加してある。但し、本文中の歴史的仮名遣の誤りは原典のママである。踊り字「〲」「〱」は正字化した。参考底本の挿絵も掲げておく。

   *

 

Sata

 

 長間佐太(ながまのさた)は濃州の者也。文龜丙寅(ひのえとら)の年[やぶちゃん注:文亀は一五〇一年から一五〇三年であるが、「丙寅」の年はない。前後で近い「丙寅」は永正三(一五〇六)年である。]、公方(くばう)[やぶちゃん注:室町幕府第十一代将軍足利義澄。]の軍役(ぐんやく)に驅(から)れて京都に上り、役果てゝ後も國に歸らず、

  わすれてもまた手にとらじあづさ弓もとの家路をひきはなれては

と詠じて道心おこし、都の北、柏野(かしはの)のかたほとりに、

草の庵(いほり)を結び、さすがに乞食(こつじき)せんもあまりなれば、北山に行きて柴(しば)といふものを買ひ受けて、都に出でて賣(うり)しろなし、少しの利を求め、餠(もちひ)くひ、酒かふて、打ち飮みつゝ、庵にかへる時は尻うちたゝき歌うたひ、或時は房(てら)に行きて庭の塵を掃治(さうぢ)し、仏前の壒(ほこり)をはらひ、日暮て道遠ければ、堂の軒に夜をあかし、明くれば又柴をになひ賣りけり。澁染(しぶそめ)の帷子(かたびら)一重(ひとへ)だに肩すそ破れ侍れども、心にかゝるすべもなし。

 土岐成賴(ときなりより)[やぶちゃん注:美濃国の守護大名で嘉吉二(一四四二)年生で明応六(一四九七)年没(自害)。時代が微妙に齟齬している。]が家人(けにん)石津(いしづ)の某(なにがし)といふものは、同國のよしみを以て、小袖ひとつ錢三百文をあたへて、

「時々はこゝへおはして食事をも受け給へ。」

といふ。佐太、是をとりて庵に歸りしが、四、五日ありて錢も小袖も皆、返していふやう、

「物をたくはゆるといふは、妻子のある人にとりての事ぞや。我は思ひ離れて妻子もなし。身ひとつは行く先を泊りとさだめ、食事はあるにまかせ、物ごとに心をとゞめねば、たのしさ、いふばかりなし。しかるを、此の小袖・錢を庵にをきぬれば、外に出でては、早く歸らんとおもひ、出づる時には戸をたて、ぬす人にとられじと用心に隙(ひま)なく、此ほどのたのしみ、ことごとく、うせはてたり。たゞこれ程の物に心をつかはれむは、まことにあさましからずや。」

とて返し侍べり。

 ある日、北山に赴き歸るさ遲く、蓮臺野にさしかゝりては夜半ばかりと覺ゆ。道のかたはらにひとつの古塚(ふるつか)ありて、にはかに両方にくづれひらけたり。佐太は、心もとより不敵(ふてき)にして、力もつよかりければ、少しもおどろかず立ちとまりて見れば、内よりひかり出でて、あたりまでかゝやく事、松明(たいまつ)のごとし。一具(いちぐ)の白骨(はつこつ)ありて、頭(かうべ)より足までまつたくつゞきながら、肉(にく)もなく筋(すぢ)も見えず。たゞ白骨のみ、かうべ・手足つらなりて、臥(ふ)してあり。その外には何もなし。この白骨、にはかにむくとおきあがり、佐太に、ひしと、いだきつきたり。佐太は、したゝかものなれば、力にまかせてつきければ、のけさまにたをれて、頭(かしら)・手足、はらはらとくづれちり、重ねてうごかず。火のひかりもきえてくらやみになりたり。いかなる人の塚ともしれず。次の日、行きて見れば、白骨くだけ、塚、くづれてあり。後に佐太はその終る所を知らず。

   *

なお、参考底本の注には、本話の『全体の構想は』、「五朝小説」(「笑府」の作者として知られる明末の作家で陽明学者の馮夢龍(ふうむりゅう 一五七四年~一六四六年)が魏・晉・唐・宋・明の編したとされる小説叢書)の「睽車志(けいしゃし)」の中の「劉先生者河朔人……」『に基づく』とある。「續妖異博物館」に入ってからの柴田は大陸物の志怪小説に入れ込んでいるから、それに敬意を表して(江戸随筆からやや離れてしまった仕儀への私の恨みを込めた皮肉である)、その種元(これはまた、完全な剽窃である)も以下に中文サイトより加工したものを掲げておく。

   *

劉先生者、河朔人、年六十餘、居衡嶽紫蓋峰下。間出衡山縣市、從人丐得錢、則市鹽酪逕歸、盡則更出。日攜一竹籃、中貯大小筆棕帚麻拂數事、遍遊諸寺廟、拂拭神佛塑像、鼻耳竅有塵土、即以筆拈出之、率以爲常、環百里人皆熟識之。縣市一富人嘗贈一衲袍、劉欣謝而去。越數日見之、則故褐如初。問之、云、「吾幾爲子所累。吾常日出、庵有門不掩、既歸就寢、門亦不扃。自得袍之後、不衣而出、則心繫念、因市一鎖、出則鎖之。或衣以出、夜歸則牢關以備盜。數日營營、不能自決。今日偶衣至市、忽自悟以一袍故、使方寸如此、是大可笑。適遇一人過前、即袍與之、吾心方坦然、無復繫念。嘻、吾幾為子所累矣。」。嘗至上封、歸路遇雨、視道邊一塚有穴、遂入以避。會昏暮、因就寢。夜將半、睡覺、雨止、月明透穴、照壙中歷歷可見、甓甃甚光潔、比壁惟白骨一具、自頂至足俱全、餘無一物。劉方起坐、少近視之、白骨倏然而起、急前抱劉。劉極力奮擊、乃零落墮地、不復動矣。劉出每與人談此異。或曰、「此非怪也、劉眞氣壯盛、足以翕附枯骨耳。」今兒童拔雞羽置之懷、以手指上下引之、隨應、羽稍折斷即不應、亦此類也。

   *]

 あなめあなめの系統を引くやうではあるが、もう少し念入りな話が「黑甜瑣語(こくてんさご)」にあつた。南部の山嶺に續く森の館といふところを領した斯波信濃の家來に、森山大膳といふ步士(かち)があり、或夜更けに白嶺の山道を通ると、木立の彼方に人が居るらしく、「ほに出る枯尾花、訪ひ來しなうき寢の夢、さむればみねの松風」といふ謠を、濁(だみ)たる聲で繰り返しくうたふのが聞える。森山が立ち寄つて見るのに、恰も月夜であつたので、朽ち殘つた髑髏に尾花が生ひ茂り、上下の齒はまだ落ちずにゐる口から、謠の聲の出ることがわかつた。髑髏は森山に向つて、自分の頭に茂る尾花を拔いて下さらぬか、と云ふ。お易い事と除き去つたら、これで苦しみも解けました、ありがたう存じます、と挨拶し、それきり何も云はなくなつた。

[やぶちゃん注:「南部」陸奥国の南部である。

「斯波信濃」不詳であるが、以下のリンク先の原典を見ると、戦国から安土桃山にかけての大名であった斯波詮直(しばあきなお)の子詮森(のりもり)の一家であると記す。原典割注に、詮森は『九戸氏の糊口人にてありし斯波尾州直持の苗裔此時落魄して九戸に依る』とある。

 以上は「黑甜瑣語第二編」の「第五卷」の「髑髏(どくろ)の謠(うた)」である。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のこちらから視認出来る。]

 次の日主君の前に出た時、この話をしても皆相手にならぬ。左樣な僞りは申さぬものぢやとか、尊公が狐狸に化かされたのだらうとかいふ調子にあしらはれ、森山は大いに面目を失つた。なほ云ひ募つた結果、それならその髑髏を持つて來て見せられい、といふことになり、森山も自分の云ふことが僞りならば首を賭けると云ひ放つた。それから昨日のところに來て見ると、髑髏は依然としてそこに在り、森山が成行きを話し、昨夜苦しみを救つた禮に、何卒その者どもの前で物を云つて貰ひたい、と賴むのを直ちに引き受けた。油單(ゆたん)に包まれた髑髏は主君の前に運ばれ、さあ謠へ、さあ語れ、といふ段になつたが、髑髏は鍼默して何も言はぬ。二言はないといふ武士の世界の事だから、森山は遂に二つとない首を打たれてしまつた。その時髑髏が急にからからと笑ひ、「今こそ我願ひ叶ひ、多年の本懷をとげて、恨みもはる月の上ればみねの松風」と謠ひ出したのは、まことに不思議千萬であつたが、あとでいろいろ聞いて見ると、森山は先年いさゝかの事から家來を無實の罪に陷れ、手討ちにしたことがある。その恨みが長く髑髏にとゞまり、かういふ手數をかけて、森山が首を失ふやうになつたものだらうといふ話であつた。

 髑髏の聲を發する話は、古く「今昔物語」に廣淸といふ僧の話がある。廣淸は叡山の東塔の千手院に在つて、日夜法華經を誦してゐたが、京に下つて病に罹り、依然法華經を讀誦しつゝ歿した。その墓所から毎夜法華經を誦する聲が聞え、必ず一部を誦し通す。弟子がこの事を聞いて、その髑髏を叡山の淸きところに移したが、こゝでも法華經の聲がしたといふのである。これは已に佛果を得てゐるわけだから、「黑甜瑣語」のやうな無氣味な聲ではなかつたらうと思はれる。

[やぶちゃん注:そうだろうか? 清浄な場所に移しても「法華経」読誦の声がし続けるというのは、次に柴田が引く「雨月物語」の「靑頭巾」同様、その一念に執して居はするものの、「執着」故に、それは決して覚悟したり悟達しているのではないのである。しておれば、「法華経」を現世に於いて読誦し続けねばならぬ理由がないからである。浄土に行ったが、衆生済度のために敢えて再び現世に戻って回向をしているとする考え方も出来なくはないが(浄土教の「還相回向(かんそうえこう)」はそれである)、だったら、この「廣淸」(現代仮名遣で「こうじょう」と読む。伝未詳)は生き仏として祀られねばならぬはずだが、そんな感じはこの話柄にはなく、そんな事実があったという記録もない。どうも、こういう話は私は頗る胡散臭いものとしか思えぬのである。

 以上は「今昔物語集」の「卷第十三」にある「比叡山僧廣淸髑髏誦法花語第三十」(比叡(ひえ)の山の僧廣淸(くわうじやう)の髑髏(どくろ)、法花(ほつくゑ)を誦(じゆ)する語(こと)第三十)である。以下に示す。

   *

 今は昔、比叡の山の東塔(とうたふ)に、千手院と云ふ所、有り。廣清(くわうじやう)と云ふ僧、住(ぢう)す。幼(えう)にして山に登りて、師に隨ひて出家して、法花經を受け習ひて、其の義理を悟りて、常に讀誦(どくじゆ)す。亦、道心有りて、常に後世(ごせ)を恐るる心有り。事の緣に被引(きか)れて、世路に𢌞(めぐ)ると云へども、只‘ただ)隱居を好む心のみ有り。日夜に法花經を誦して、

「願くは、此の善根を以つて菩提に囘向(ゑかう)す。」

と。

 而る間、中堂に參りて、終夜(よもすがら)法花經を誦して、後世の事を祈請する間に寢入りぬ。夢に八(やたり)の菩薩を見る。皆、黃金の姿也。瓔珞莊嚴(やうらうしやうごん)を見るに、心の及ぶ所に非ず。廣淸、此れを見て、恐れ貴(たふと)むで禮拜(らいはい)せむと爲(す)るに、一(ひとり)の菩薩在(まし)まして、微妙(みけう)の音(こゑ)を以つて、廣清に告げて宣はく、

「汝、法花經を持(たも)ちて、此の善根を以つて、生死(しやうじ)を離れて菩提に至らむと願ふ。疑ひを成す事無くして、彌(いよい)よ不退(やま)ずして、法花經を可持(たもつべ)し。然らば、我等(われら)八人(やたり)來りて、汝を極樂世界に送るべし。」

と宣ひて後、忽ちに不見給(みえたまは)ず、夢、覺めぬ。

 其の後(のち)、泣々(なくな)く喜び貴むで禮拜す。彌よ心を至して法花經を讀誦する事、更に懈怠(けだい)無し。而る間、常に此の夢の告げを心に懸けて、忘るる事無く後世を憑(たの)む。

 其の後、事の緣に依りて、京に下りて、一條の北の邊(ほとり)に有る堂に宿(やどり)しぬ。日來(ひごろ)を經る間に、其の所にして身に病を受けて惱み煩ふ間、彌よ心を至して法花經を讀誦して、彼(か)の夢の告げを信ず。

 而るに、遂に病、愈(い)ゆる事無くして死ぬ。弟子、有りて、近き邊(ほとり)に棄置(すておか)れつ。[やぶちゃん注:遺棄したのではなく、埋葬したの謂いであるので注意。でなければ、以下の改葬・安置などするはずもない。]其の人の墓所(はかどころ)に、夜每(よごと)に法花經を誦する音(こゑ)有り。

「必ず一部を誦し通す。」

と。弟子、人の告げに依りて、其の髑髏を取りて、山の中に淸(きよ)き所を撰びて置きつ。其の山の中(なか)にても、尚、法花經を誦する音(こゑ)、有り。

 此れ希有(けう)の事也となむ語り傳へたるとや。

   *]

「雨月物語」の「靑頭巾(あをづきん)」は快庵禪師が下野(しもつけ)の富田といふ里で、鬼となつた院主に靑頭巾を被せ、「江月照松風吹。永夜淸宵何所爲」の二句を授け、しづかにこの句の意を求むべし、その意を解し得た時は本來の佛心に會し得た時ぞ、と諭して去る。翌年再びこの地を過ぎて荒廢した寺をたづね、去年鬼に靑頭巾を被せたところに行つて見ると、僧とも俗ともわからぬ影のやうな人物がそこに居り、折々蚊の鳴くやうな聲で「江月照松風吹。永夜清宵何所爲」の二句を唱へて居つた。禪師乃ち禪杖を取り直し、作麼生何所爲(そもさんなんのしよゐ)ぞと一喝してその頭を擊てば、朝日を受けた氷のやうに消え失せ、あとには靑頭巾と骨ばかりが殘つたといふ話である。

[やぶちゃん注:以上は私の大好きな作品で、高校教師時代にはオリジナルによく授業をした。原文オリジナルオリジナル授業をサイトで公開している。そちらでじっくりとお楽しみあれかし。

 この骸骨も惡いことはない。倂し「太平廣記」に或人が巴峽に行つて、夜泊の舟中に居ると、人の詩を朗詠する聲が聞える。「秋逕塡黃葉。寒摧露草根。猿聲一叫斷。客淚數重痕」といふ詩を繰り返し繰り返し詠ずるのである。その聲が甚だ厲(はげ)しく、激昂して悲しむものの如く、夜が明けるまでに何十遍續いたかわからぬ。天が白むのを待つて四邊を見ても、そんな舟は一つもない。ただ空山石泉の目に入るばかりであつたが、昨夜詩を詠ずる聲の聞えた方角へ行つて見たら、骸骨が橫はつて居つた。この詩は旅客の情を抒べたもので、激昂して悲しむほどの意は含まれて居らぬ。いづれ骸骨の主(ぬし)の上に悲痛な話があるに相違ないが、その邊は何もわからず、たゞ巴峽の朗詠が傳はつてゐるのみである。頭も尻尾もないこの話の方が、靑頭巾を被せたり、二句を授けたりする「雨月物語」より哀れ深く、神韻縹渺たるものを藏してゐる。

[やぶちゃん注:最後の柴田の評には深く共感する。私は大好きな「靑頭巾」であるが、そのエンディングには禪の公案というものが宿命的に持つところの、ある種の方便に強い違和感を覚えるからである

「巴峽」(はけふ(はきょう))は中国湖北省巴東県((グーグル・マップ・データ))の長江の名勝。

「抒べた」「のべた」。

 以上は「太平廣記」の「鬼十三」の「巴峽人」である。

   *

調露年中、有人行於巴峽。夜泊舟、忽聞有人朗詠詩曰。秋逕塡黃葉、寒摧露草根。猿聲一叫斷、客淚數重痕。其音甚厲激昂而悲。如是通宵。凡吟數十遍。初聞、以爲舟行者未之寢也、曉訪之。而更無舟船、但空山石泉、谿谷幽絶、詠詩處有人骨一具。

   *

詩のみ、自己流で訓読しておく。

 

秋の逕(こみち)は 黃葉(わくらば)に塡(うづ)み

摧(くだ)かるるがごとき寒さは 草根(さうこん)に露(つゆ)す

猿聲(えんせい) 一叫(いつきやう)して斷(た)ち

客淚(かくるい) 數重(すじゆう)を痕(しる)す

 

この巴峡は猿声の名所であればこそ、この「斷」は、まさしく、かの小猿を捕られた母猿の臟が断ち切れていた故事と連動するものであり、猿の一声の叫びはこれ「断腸の哀しみを催させる」という作者の悲愁を含ませた一字である。]

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