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2017/04/05

「想山著聞奇集 卷の貮」 「品川千躰荒神尊靈驗の事」

 

 想山著聞奇集 卷の貮

 

 

 品川千躰荒神尊靈驗の事

 

Minamisinagawakannnonmahekasai

 

南品川觀音前火災の圖

此圖は文政四年同六年兩度の火事の圖なり、天保十一年の火事後は別に千躰荒神尊(せんたいくわうじんそん)の堂の前に又一つ門明(あけ)、其外、當時のおもむきは、此圖とは少々樣子變り居れり。

[やぶちゃん注:以上は底本の本文注に二字下げポイント落ちで挿入されてある、挿絵のキャプションの翻刻である(但し、読み(ルビ)は一切振られていない)。この叙述から考えると、この絵は二度の大火のの様子を合成した絵であるということになる。

「南品川」現在の東京都品川区南品川で、大井町駅の東北部分に相当する。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「觀音」現在の同南品川地区内にある真言宗海照山品川(ほんせん)寺(本文では「ひんせんじ」と読んでいるが、少なくとも現行では同寺公式サイトでも「ほんせんじ」と読んでいる)。ここ(グーグル・マップ・データ)。本尊は水月観音と聖観音で江戸三十三箇所観音霊場の第三十一番寺に当たる。公式サイトの「歴史」によれば、大同年間(八〇六年~八一〇年)に開創された品川で最も古い寺とあり、江戸時代を通して同寺は本尊水月観音と大梵鐘・江戸六地蔵第一番尊の三つを寺の「三宝(さんぼう)」として大切にし、江戸町民の深い信仰と東海道を行き交う多くの旅人にこよなく愛されたとあるが、この記事の十年後の一八五〇年代(嘉永三年から安政六年頃)の幕末から明治維新を迎える頃には、『寺域は全く荒廃し、大梵鐘も海外に搬出され、草堂一宇に本尊を安置し、江戸六地蔵と共にわずかに法灯を伝えるのみとな』ったともある。

「文政三年」一八二〇年。

「天保十一年」一八四〇年。但し、本文の記載から見てこれは天保十二年の誤りである。

「千躰荒神尊」これは現在のやはり同じ南品川地区にある曹洞宗龍吟山海雲寺(建長三(一二五一)年創建(当初は臨済宗))に鎮守として祀られてある「品川千躰三宝荒神」のこと。先の品川寺のグーグル・マップ・データで、同寺から真南七十三メートルの直近に建つ。同荒神の公式サイトの「荒神さまの由来」によれば、『古くからお台所に荒神様をお祀りする習わしがあり』、『荒神様は台所で一番大切な火と水をお守り下さる神様で』、『それでお台所に荒神様をお祀りすれば一切の災難を除き衣食住に不自由しないとされ』る。『品川の千躰荒神は江戸時代から竈の神様、台所の守護神として多くの人々から信仰され』『今を去る三百七十余年前、島原の乱』(寛永一四(一六三七)年)『に鍋島甲斐守直澄公がお年十八歳で出陣の折、天草の荒神が原にあ』っ『た荒神様にお詣でになり』、『必勝祈願なさったところ』、『甲斐守様の先頭には必ず千余の神兵が現れ』、『その行動は荒神王の荒れさせ給うはかくやと思われるすさまじさ』で、『流石の暴徒も敵し得ず』、鎮定さたという。以後、鍋島家では、この尊像を守護し、当時の東都高輪にあった屋敷に遷座して、篤く祀った。後に縁あって、明和七(一七七六)年にこの海雲寺に勧請し、奉られ、『それからはあらゆる多くの人々の参詣するところとなり、ついには当寺の春秋大祭は江戸年中行事の一つにもな』ったとする。『この尊像を信仰する人々の受けました霊験利益は数えきれないものがあ』るとあり、厨の火の神となれば、火難除けの呪力の強力なることが判る。]

 

 文化二年【乙丑(きのとうし)】十一月廿九日[やぶちゃん注:西暦では一八〇六年一月十八日。]、南品川妙國寺[やぶちゃん注:現在の南品川にある顕本法華宗鳳凰山天妙国(てんみょうこく)寺(戦後に改称)のこと。品川寺の北北西二百四十五メートルほどの位置にある。]門前より出火して、北風烈しく、觀音前の武藏屋・釜屋・三軒屋など云(いふ)大茶屋も忽(たちまち)に燒(やけ)て、品川寺(ひんせんじ)の直(ぢき)の南、村田屋と云(いふ)茶屋は半(なかば)燒て殘れり。其後、文政四年【辛巳(かのとみ)】正月十日[やぶちゃん注:一八二一年二月十一日。]、北品川の藤田屋と云(いふ)旅籠屋より出火して、此時も風烈しく、宿内(しゆくうち)十餘町[やぶちゃん注:一町は約百九メートル。]燒拔(やけぬく)、前の茶屋茶屋も燒たれども、村田屋の北隣、信濃屋と云(いふ)茶屋より南は燒殘り、又、其翌々未年正月十二日[やぶちゃん注:一八二三年二月二十二日。]、三田の古川町より出火のときも、北風烈敷(はげしく)、少し西も交りて惡風砂石(させき)を飛(とば)し、火も所々へ飛移(とびうつり)て、忽、品川の觀音前迄、燒拔たり。【此火は晝の八つ半時[やぶちゃん注:定時法なら、午後三時頃。]に出火して、古川町邊殘らず燒失せぬ。此古川町邊は場末故、差(さし)て燒る所もなかりしに、火は巽(たつみ[やぶちゃん注:南東。]の方へ飛(とび)て三田寺町片側二三町やけ、其火また東の方芝田町八丁目へ飛、同所南側殘りなくやけ、高輪は海岸にて家は片側のみの所なるに、火消(きえ)かね、町家の分十八丁殘らず燒ぬ。夫(それ)より風下(かざしも)巽の方は海にて東の方も海ゆゑ、火は多く海へ吹込(ふきこみ)、且は防ぎ力(ぢから)[やぶちゃん注:火消しの打ちこわしによる延焼防止策を指すものであろう。]も能(よ)かりしにや、此火先(ほさき)は薩州侯の中屋敷境(ざかい)にて燒止(やけどま)りたれども、風強かりし故か、其内に遙(はるか)風脇(かざわき)、南の方品川本宿の中(うち)へ飛火して兩側殘りなく南の方へやけ、遂に觀音前の建場茶屋釜屋三軒屋等もみな燒失ぬ。この三軒屋平右衞門と云(いふ)は、今の釜屋程大(おほき)なる茶屋にて、しかも舊家と聞えたれども、其時燒し後、漸(やうやう)近頃建(たて)たり。この火事、火元よりは凡(およそ)一里の上十餘丁程燒けたり、烈風故、殊の外の急火(きふか)なれども、此邊は夜に入て燒たりと。】此時もまた彼(かの)村田屋は殘れり。かく度々の火災を免れたるは、何ぞ故有(ゆゑある)事ならんと不審に思ひ、或時、大師河原へ參詣[やぶちゃん注:現在の神奈川県川崎市川崎区大師町(旧大師河原(だいしがわら)村)の所謂「川崎大師」真言宗金剛山金乗(きんじょう)院平間(へいけん)寺。]の歸りに、此村田屋へ立寄(たちより)、酒食して、此家の度々燒ざ(やけ)る事を評して、酌に出(いで)たる女に尋ね探れども、しれ兼(かぬ)る故、亭主に逢(あひ)て尋ぬべしと思ふに、主(あるじ)はなくて後家(ごけ)なりと云(いふ)故、頓(やが)てその後家を呼(よび)て、何ぞ神佛にても信仰するか、又は導き守(まもり)か御札にても有(ある)か、或は寶物(はうもつ)靈物(れいもつ)等にても有や、何ぞ此家の燒ざる心當り有べきやとくどふも尋ねたるに、金毘羅・秋葉・稻荷さまの類(たぐひ)を初(はじめ)、神も佛も隨分信仰なし、護摩御祈禱の御札も御座候へども、此御蔭と中程の別に心當りも候らはず。尤(もつとも)、差たる重物(じふもつ)靈寶等の所持もなきとて、分らざる儘、夫(それ)なりに酒呑(のみ)かはし居たるに、此後家、ふと咄し出せしには、私かたの燒たる節は、不思議なる夢を見申候。直裏(ぢきうら)の海雲寺の千躰荒神樣の御堂の棟の上に、炭取程の箱に火燃居申候。是は如何成(なる)事ぞ、火事の出來しにやと見るうちに忽、西の方より大風吹來り、此火の燃居たる箱は、海雲寺の門の方へ飛移りて燃出せし故、【海雲寺の門は村田屋の一軒置(おき)て隣也。尤(もつとも)この村田屋も此寺の門前地の町家のうちなり。】是はと驚き飛起(とびおき)て、其頃は未(いまだ)、夫(をつと)存生(ぞんしやう)の節なれば、火事なりとて、あはたゝ敷(しく)、夫(をつと)を起しながら、私は寢床を仕舞候と、夫も目を覺し、何事成(なる)やと申候故、何事所にてはなし、今、荒神樣の御屋根より隣の屋根へ火が飛來りて燃上りたりと申せば、夫は夢なるべし、いや夢にてはなしと爭ひながら、心を落つけ見れば、全く夢にて有(あり)しと見えて、何事もなし。大(おおき)に叱られて後、氣も慥(たしか)に成り、再び臥り申候へども、心にかゝり快からず。然るに、其翌日は未明より北風烈しく、土砂を飛(とば)し、散々の風成(なる)まゝ、此風にては江戸の遊人(あそびにん)も出らるまじ、か樣の風には、江戸の内に火事出來(いでき)なば、此所(ここ)迄も遮るゝ事なく燒來るべし。【此所は江戸日本橋より二里餘南なれども家續きなり。】殊に昨夜の夢見も甚だあしければ、けふは商ひの仕込を休み、道具をも片付(かたづく)るが宜(よろし)とて、料理人にも其日の仕入を止(やめ)させ、下男下女にも心得させて、朝飯過(すぎ)より、今火事の起る樣に、器物は勿論、手元の調度衣類に至まで、過半片付る程に、巳の刻[やぶちゃん注:午前十時前後。]頃にもやありけん、夫(それ)火事よと申出(まうしいだ)すと直(ぢき)に、そこの妙國寺の門前より出火にて大騷(おほさはぎ)と成(なり)、【妙國寺は僅一丁餘り北也。[やぶちゃん注:この叙述によって、この村田屋の位置が概ね判る。恐らくこの中央附近(グーグル・マップ・データ)あったのではあるまいか?]】風筋(かぜすぢ)の急火なれども、最早、大躰諸色(しよしき[やぶちゃん注:緊急時に必要な色々の品物。])も片付居(つけをき)候へば、直(ぢき)に疊建具迄も土藏へ運込(はこびこみ)て、逃(にげ)る間もなく此邊殘らず燒(やけ)て、私家(わたくしいへ)も其時には見世(みせ)の方(かた)は燒(やけ)候へ共(ども)、此座敷は不思議に殘り申候と云(いふ)。【見世と此座敷とは棟は別なれ共、其間、僅九尺にたらぬ廊下橋有て、双方の庇の所にては漸一尺餘りも隔ち居(ゐ)て、全く棟續きも同樣なり。】夫(それ)は高運[やぶちゃん注「幸運の謂いであろう。]なり。定(さだめ)て防ぎ人にても多く辛うして助りし事ならんと云(いへ)は、左樣にてはなく、此所へ燃來(もえきた)る時は大西風と成(なり)て、火は皆、向の海へ吹込(ふきこみ)、自然と殘り申候。惣躰(さうたい)、此土地の火事には、江戸より來る火消(ひけし)は一筋道(ひとすぢみち)の所故(ゆゑ)、此所へ來る事なり兼(かね)、又、此南の鮫頭(さめづ)[やぶちゃん注:鮫洲。東京都品川区東大井、南品川の南東角の外郭位置。]より鈴が森邊[やぶちゃん注:刑場で知られた現在の東京都品川区南大井地区内。鮫洲の一・五キロメートル南南西。]にも、少しは火消の人數も候へども、北風にて燒來る時は、其邊も風下(かざしも)なれば、火消は一人も來らず、難儀成(なる)所にて御座候。然れども、其後兩度の火事も、隣の品川寺(ひんせんじ)の門前迄燒來ると、運能(よく)、西風と替るのみならず、下地(したぢ)の強風に又一入(ひとしほ)強く落風(おちかぜ)なし來り、火は悉く海へ吹込て、據(よんどころ)なく品川寺の門前の僅(わづか)なる明地(あきち)限りに燒止(やけどま)りて、夫(それ)より南へは燒來(やけきた)り申さず。依て自然と私方より燒殘り、向側は貝屋【土藏作りの家なり。】の迄は火足(ひあし)も續き燒候へども、火は海の方へ吹込、いつも貝屋より南は燒候はずと、細やかに答ふ。予、此(この)事を聞(きき)て篤(とく)と考(かんがふ)るに、是は全く隣地なる荒神尊の御蔭也。此神は兼て靈像と聞きき)及び居たり。風の每つね)も替りたるは、全く利益(りやく)の應驗(わうげん)也と教へ諭しければ、成程、左樣にや、所詮、人力にて助(たすか)る事にてはなく、何か神佛の加護にやとは思ひ居候へども、今日迄、心附(こころづか)ずに居(をり)申候、尤、近邊の事なれば、朝夕の内に參詣もなし、隨分信仰は仕りしとて、彼(かの)後家も靈驗の炳然(いちじるき)を初て心附、甚だ感伏(かんぷく)成(なり)奉りたり。神佛の靈驗は目に見え兼る事なれば、斯(かく)のごとく其利益を蒙り居(をり)ながら、知らずして居る事多し。尤、此事は、その場所を見、其火事の有樣をしれば知らるゝ事なれとも、何程(いかほど)精(くはし)く書記(かきしる)しても、文面にては分り難ければ、せめてもの事と共(とも)場所を末に圖し置ぬ。抑(そもそも)、此荒神尊と申奉るは、今更申も愚成(おろかなる)事ながら、大日・文珠・不動の垂跡(すいじやく)にして、三面六臂(ぴ)を具足し、大忿怒(だいふんぬ)の形相(ぎやうさう)を現じ、惡魔降伏の神にして、佛法僧の三寶を護持し、諸厄諸災を攘(はら)ひ給ふ神と聞(きけ)ば、火災を滅除し給ふは勿論の事なれ共、斯のごとく現顯(げんけん)を示し玉ひ、眼前、其奇特を聞(きき)し上は、予も忽、渇仰(かつげう)の首を傾け、夫より追々此寺へ參詣なして、緣起等をも委敷(くはしく)尋(たづぬ)るに、元來、この尊躰は昆首羯摩天(びかしゆかつまてん[やぶちゃん注:ヴィシュヴァカルマンの漢訳。インド神話に於ける万物を設計し工作とされる神。仏教に吸収されて帝釈天の支配下で工芸・建築などを司る神とされた。])の正作。【御丈一尺八寸[やぶちゃん注:五十四・五四センチメートル。]】御前立は飢渇・障碍(げ)の二神にして、運慶・湛慶の作、【御丈壹尺餘】にて、格別の靈神なれば、わけて靈驗の柄然(いちじるき)は尤たるべき事也。扨(さて)、此尊像は往昔、肥後の國天草郡にましまして、其所を荒神が原と云傳(いひつた)へて、其以前より靈驗新なりしと。寛永年中[やぶちゃん注:一六二四年から一六四五年。]、肥前天草一揆起りし時、同國蓮池侯[やぶちゃん注:肥前国蓮池藩藩主鍋島氏。最初のキャプションへの私の注を参照。]の租先、未(いまだ)幼君におはしけれども、出馬の刻(とき)、深く此(この)尊躰に祈願し給ふやうは、荒神尊は惡魔降伏の神也。われ此度(このたび)の出陣に、必勝を諸軍に抽(ぬきん)で、誠忠を末代に輝かし玉はらば、永く尊像を守護し、供養し奉るべしと祈誓(きせい)なし給ひたるに、則(すなはち)靈應新にして、諸人に勝(すぐ)れたる譽れを得給ひて、遂に一家の租と成(なり)給へば、益(ますます)信仰淺からずして、東都高輪二本榎の別莊に遷座なさしめ給ひしを、天明年中、海雲寺十一世租印和尚在任の時、因緣有(あり)て當寺へ遷座なし奉りて後は、貴賤とも步みを運ぶ輩多く、隨(したがつ)て靈驗も日々に新にして、武門の族(うから)は、惡魔降伏・障碍退散のみにあらず、昇進發達の事を祈願するに、朝日の昇るが如く、奇瑞を得て、信仰の族多く、又、商人の類(たぐひ)は富饒繁昌を祈るに、響(ひびき)の物に應(わう)ずるがことく、利生(りしやう)を蒙る事炳然(いちじるき)とて、步みを運ぶ者も多く、古今無二の眞作なれば、左(さ)も有(ある)べき事にこそ。予、始め村田屋の靈驗を聞(きき)てより打置兼(うちおきかね)、させる心願もなけれども、其後わざわざ參詣をなし、初(はじめ)ての事なれば、結緣(けちえん)のため護摩をも供(きよう)じ度(たく)、且(かつ)、護摩の灰にて造た(つくり)る小き尊躰の厨子に入(いり)たるを與ふ)と聞傳(きkつた)ふれば、一軀(ぐ)申受(まうしうけ)て家内の守護神ともなさばやと案内を申(まうし)いるゝに、折節、住僧は隣寺へ行(ゆき)たりとて、弟子の僧は呼(よび)に行(ゆき)て、跡には木訥(ぼくとつ)たる下男壹人殘り居たるに、此尊躰の靈應はいかにと問へば、下男答(こたふ)るには、願(へがひ)さへなさるれば何にても(よく)能きゝ、不思議の奇瑞はいくらも有(あり)と申事(まうす)に御座候と云(いふ)。然れども、何ぞ眼前に其(その)驗(しるし)の有(あり)たるを見たりやと問(とふ)に、此間も漸(やつ)と夜の明渡(かけわた)る頃、庫裏(くり)に飯を焚居(たきをり)たるに、婦人壹人來りて申(まうす)には、神田の何とか云(いふ)者の妻の由。所も名も承り候へども、忘れ申候。護摩を願ひたくと申ゆゑ、この遠方を如何成(いかなる)祈願の候らひて、今頃來られたるにやと問(とへ)ば、此荒神尊の不思議の靈驗を以て昨夜、大の災難を免れし事の有(あり)がたきまゝ、未(いまだ)、夜も深かりけれども、夫(をつと)は其(その)事に付(つき)て用の有(あり)ければ、私(わたくし)まづ御禮に參りたりと云(いふ)。夫(それ)はいか樣(やう)なる靈驗を蒙られたるにやと問(とふ)に、昨夜、家内皆々寢靜りて後、夢寤(うつゝ)ともなく、臺所の方にて、何かすさまじき物音聞え候。其音にて、夫も私も目を覺し考ふれども、最早、再び音もせず。されども心濟(こころすま)ねば、若(もし)や盜賊にても忍び入たるにてはなきかと見𢌞りに行(ゆく)と、竈(かまど)の側の緣板(えんいた)もえ拔(ぬけ)て、既に出火に及ばんとせしゆゑ、驚天(ぎやうてん)なし、早々打消(うとけし)て事故(ことゆゑ)なく相濟(あひすみ)申候。是は臥す時に、火消壺へ火を入れて、蓋をする事を忘れ置(おき)、段々火誇(ほこ)りて、消壺素燒(すやき)なれば、壺越に緣板へ火移りて、右の次第と成(なり)たるにて候。扨、其時に音のせしを考(かんがふ)るに、棚の上に崇め置(おき)奉りたる千躰荒神尊の厨子(ずし)の、自(おのづ)と下へ落玉(おちたま)ひたる音にて、夫(それ)が寢耳に仰山(ぎやうさん)に聞え、驚(おどろき)て目を覺したるは、誠に有難き事に候とて感淚を流し、御禮に參り申候と答ふ。予、再び此奇特(きどく)を聞(きく)上(うへ)は、最早、其餘の靈驗を聞探(ききさぐ)るは却(かへつ)て恐れも少なからずと、深く感伏なし奉り、絶(たえ)ず祈願をもなし、利益を蒙りし事少なからず。扨、此尊像を千躰荒神尊と申奉るよしは、經説に、千躰雙眼に拜すれば、卽座に滿願圓成(ゑんじやうす)と云(いふ)事の有と(あり)聞けり。其故にや、又、前にいふ護摩の灰を以(もつて)、造立(ざうりふ)せし尊躰、數千萬に及びしゆゑにや。皆、分身の利益を施し給ふゆゑ、近年、何某講中など號して、信仰をなす輩(ともがら)少なからず。繁昌の靈像にておはします也。

[やぶちゃん注:以下の一段落は底本では全体が二字下げ。]

此寺は禪宗なれども、天台免許の護摩を修して、祈禱をもなす也。禪家にて護摩を修するは、遠州の秋葉山と、播州の人丸寺(ひとまるじ)と、當寺と、僅(わづか)海内(かいだい)、三箇(が)寺のみと聞及(ききおよ)ぶ。如何(いかが)にや。

[やぶちゃん注:「遠州の秋葉山」現在の静岡県浜松市天竜区春野町領家、赤石山脈の南端にある火防(ぶ)せの神として知られる秋葉山本宮秋葉神社に、かつてあった曹洞宗の別当寺秋葉寺。神社の方は修験道のメッカであったことから、古くは真言宗と関係が深かった

「播州の人丸寺」現在の兵庫県明石市にある曹洞宗人丸山月照(げっしょう)寺。元は真言宗。]

 

 追加

 天保十二年【辛丑(かのとうし)】閏正月八日[やぶちゃん注:一八四一年二月二十八日。]の早朝に又、問屋場の南の邊より出火。風も強く、忽ち四五丁南へ燒廣がり、品川寺門前の邊燒る時は、風、艮(うしとら[やぶちゃん注:東北。])より吹(ふき)たれば、武藏屋の燒(やく)る火炎、信濃屋の方へ吹付(ふきつけ)、此度は信濃屋も村田屋も燒失(やけうせ)たり。其時は海雲寺も風下と成(なり)、火の子吹付、既に危うかりしに、村田屋の座敷へ火移りたる頃、俄(にはか)に乾(いぬゐ[やぶちゃん注:西北。])の方より風はげ敷(しく)落來(おちきた)り、火は皆、巽(たつみ)の方へ吹拂ふほどに、又、海雲寺は別條なく燒殘りて、遙(はるか)南の方迄燒行(やけゆき)、此節には、向側は貝屋よりも一二丁南迄燒たり。尤、人も防ぎたるよしなれども、聊(わづか)の内の風の替り目にて、不思議に釜屋のみ只(ただ)一軒、燒殘りたり。是も守護神の有(あり)しにや。兎も角も、四度とも強風吹落(ふきおち)て、此寺の自然にして燒殘りしは、予は全く此尊像の靈驗也と知りあきらめたり。

[やぶちゃん注:以下の一段落は底本では全体が二字下げ。]

かゝる靈佛靈神と雖ども、靈驗に隱顯(いんけん)有(ある)もの故、必(かならず)と云(いふ)にはあらず。予が知りたる所に無類の作佛數十躰有(あり)て、其(それ)靈赫々(しやくしやく)たりしに、悉く燒失(しやうしつ)なせし事あり。後に思惟(しゐ)なし奉るに、故有(ゆゑあり)て、皆、靈、去居(さりをり)給ひしにやと思ふ事有(あり)。何とも云(いひ)難き事なり。

 

Minamisinagawahaitizu

 

[やぶちゃん注:右の文章は、キャプションではなく、先の本文の、

 

此寺は禪宗なれども、天台免許の護摩を修して、祈禱をもなす也。禪家にて護摩を修するは、遠州の秋葉山と、播州の人丸寺(ひとまるじ)と、當寺と、僅(わづか)海内(かいだい)、三箇(か)寺のみと聞及(ききおよ)ぶ。如何(いかが)にや。

 

の太字下線の部分である。図内のキャプションはいちいち活字化しない。かなり読み易く、困難な箇所は(私には)ない。]

 

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