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2017/04/03

柴田宵曲 續妖異博物館 「家屋倒壞」

 

 家屋倒壞

 

 劉安といふ人は若い頃に病ひにかゝり、死んでから三日たつて蘇つた。それ以來一種の靈感を得、未來の事を豫知するやうになつた。たまたま超廣なる者の家で、馬の顏が忽ち變じて人の顏となるといふ珍事が起り、全家驚いて劉安のところへ聞きに行つた。人間の馬面は珍しいこともないが、馬が人面になつたらどういふ形相を呈するか、ちよつと想像に苦しむくらゐであるが、劉安は卽座に答へて、これは大惡である、急いで家に歸り、宅を離れること三里の地點で、散らし髮になつて大いに叫べば免れることが出來よう、と妙な事を云つた。廣その言の如くにしたところ、廣の家中の者が皆一時に走り出で、誰も家にゐなくなつた。その時突如として家屋倒壞し、一人の怪我人もなかつた。支那は六町一里で、日本ほど距離はないにせよ、十八町を隔てては、いくら披髮して叫んでも聞えさうもないと思ふが、「搜神記」にはさう書いてあるのだから、その通り傳へるより仕方がない。廣は多くの金帛を贈つて感謝の意を表し、かういふ災難がまだあるかどうかを問うた。安の答へに、この家の西壁の下、深々三二尺のところに三箇の石柱がある。これ實に神龍であるが、今災難は通過したばかりである、愼みて發(あば)き見る勿れ、これを見れば大貧に陷るが、見なければ大富貴になるだらう、といふことであつた。再生の恩人の注意だから、一も二もなく從ひさうなものであるのに、廣は好奇心に驅られて掘つて見た。果して赤色の一物あり、大きさ屋柱の如くであつたが、忽ちいづれへか飛び去つた。その後廣の大いに貧しきこと、一に安の豫言の如くであつた。

[やぶちゃん注:「支那は六町一里」「六町」は日本の単位換算であるから、六百五十四・五四メートルになるが、柴田の換算は大き過ぎ、「搜神記」の書かれた東晉時代の「一里」はもっと短くて四百四十メートルほどしかない。「三里」ならば一キロ三百二十メートルになる。

 以上は「搜神記」の「句道興本」に載る「地理志」から引用したとする以下。

   *

昔有劉安者、河間人也、年少時得病死、經七日而乃複蘇。帝命然得歸、遂能善卜、與人占之、上猶知未來之事、萬不失一。河間有一家、姓趙名廣、櫪上有一白馬、忽然變作人面、其家大驚怕、往問先生劉安。安曰、「此怪大惡、君須急速還家、去舍三里、披發大哭。」。其家人大小聞哭聲、並悉驚怖、一時走出往看。合家出後、四合瓦舍忽然大崩落。其不出者、合家總死。廣於後更問劉安曰、「是何災異也。」。安曰、「無他、公堂舍西頭壁下深入三尺、有三個石龍、今日災禍已過、慎莫發看、發看必令人貧矣。若不發看、後克富貴、此是神龍也」。而廣不用劉安之言、遂發看之、有一赤物大如屋椽、衝突出去上天。其後廣家大貧困、終日常行乞食而活生命。

   *]

「今昔物語」に出て來る登照といふ僧は、一たび死んで蘇つたかどうかわからぬが、やはり運命を豫知する靈感を具へ、その坊には常に判斷を乞ふ者が集まつたとあるから、相當有名だつたに違ひない。或時用事があつて朱雀門の前を通りかゝると、門の下に休んでゐる老若男女が、悉く今死ぬべき相を現してゐる。彼等はどうして今直ぐ死ななければならぬか、もし惡人がやつて來て殺すにしても、それは少々の人間にとゞまり、全部に及ぶ筈がない、或はこの門が急に倒れるのではあるまいか、さうすれば皆忽ちに壓死するであらう。――かう考へた登照は、何も知らないで門の下に居竝ぶ人々に向つて、その門は今倒れるぞ、早くそこを出よ、と大きな聲で注意した。登照は披髮したくても坊主頭だから、大きな聲を張り上げただけであつたが、何の事かわからぬまゝに、皆ばらばらと走り出る。登照もやゝ遠く離れて見てゐたところ、風も吹かず、地震があつたわけでもないのに、朱雀門は急に倒壞してしまつた。それまで少しの歪みも見えなかつた門がどうして急に倒れたか、原因は誰にもわからない。事によつたらどこかの地下三尺ぐらゐのところに、何か埋まつてゐたかも知れぬが、登照はそこまで洞見し得なかつたと見えて、「今昔物語」には何も記されて居らぬのである。

[やぶちゃん注:以上は「今昔物語集」の「卷第二十四」の「僧登照相倒朱雀門語第廿一」(僧登照(とうぜう)、朱雀門(しゆじやくもん)の倒(たふ)るるを相(さう)ずる語(こと)第二十一)の前半である。以下に全章を示す。

   *

 今は昔、登照と云ふ僧、有りけり。諸(もろもろ)の人の形(かたち)を見、音を聞き翔(ふるま)ひを知りて、命の長短を相(さう)し、身の貧富を教へ、官位の高下を令知(しらし)む。此(か)くの如く相するに、敢へて違ふ事無かりければ、京中(きやうぢう)の道俗男女(なんによ)、此の登照が房(ばう)に集まる事限り無し。

 而るに登照、物へ行きけるに[やぶちゃん注:用のあって外出し。]、朱雀門の前を渡りけり。其の門の下に男女の老少の人、多く居て休みけるを、登照、見るに、此の門の下に有者共、皆、只今、死すべき相有り。

「此は何なる事ぞ。」

と思ひて、立ち留まりて吉(よ)く見るに、尚、其の相、現(あらは)也。登照、此れを思ひ𢌞(めぐ)らすに、

「只今、此の者共の死なむ事は、何に依りてぞ。若し、惡人の來りて殺さむにても、少々をこそ殺さめ。皆、忽ちに可死(しぬべ)き樣(やう)無し。怪しき態(わざ)かな。」

と思ひ𢌞らすに、

「若し、此の門の、只今、倒れなむずるか。然(さ)らばぞ、被打壓(うちおそ)はれて、忽ち皆、可死(しぬべ)き。」

と思ひ得て、門の下に居並(ゐなみ)たる者共に向ひて、

「其れ見よ。其の門、倒(たふ)れぬるに、被打壓(うちおそは)れて、皆、死なむとす。疾く出よ。」

と音(こゑ)を高く擧げて云ひければ、居たる者共、此れを聞きて迷ひて、はらはらと出でたり。

 登照も遠く去(の)きて立てりけるに、風も不吹(ふかず)、地震(なゐ)も不振(ふるはず)、塵(ちり)許り、門、喎(ゆが)みたる事も無きに、俄かに、門、只、傾(かたぶ)きに傾き、倒れぬ。然(しか)れば、急ぎ走り出でたる者共は、命(いのち)を存(そん)しぬ。其の中に、強顏(つれな)くて遲く出でける者共は、少々被打壓(うちおそはれ)て死にけり。其の後(のち)、登照、人に會ひて此の事を語りければ、此れを聞く人、

「尚、登照が相、奇異也。」

とぞ、讃め感じける。

 亦、登照が房は一條の邊に有りければ、春の比(ころほひ)、雨、靜かに降りける夜、其の房の前の大路を笛を吹きて渡る者、有りけり。登照、此れを聞きて、弟子の僧を呼びて云く、

「笛吹きて通る者は誰(たれ)とは不知(しらね)ども、命、極めて殘り無き音(ね)こそ聞ゆれ。彼れに告げばや。」

と云ひけれども、雨は痛く降るに、笛吹く者、只、過ぎに過ぎたれば、云はずして止みぬ。

 明る日は、雨、止みぬ。其の夕暮れに、夜前(やぜん)の笛吹き、亦、笛を吹きて返りけるを、登照、聞きて、

「此の笛を吹きて通る者は、夜前の者にこそ有りぬれ。其れが奇異なる事の有る也。」

と云ひければ、弟子、

「然(さ)にこそ侍りぬれ。何事の侍るぞ。」

と問ふ。登照、

「彼(か)の笛吹く者、呼て來(こ)。」

と云ければ、弟子、走り行きて呼びて將(ゐ)て來たり。

 見れば、若き男也。侍(さぶらひ)なんめりと見ゆ。

 登照、前に呼び居へて云く、

「其(そこ)を呼び聞へつる事は、夜前、笛を吹きて過ぎ給ひしに、命、今明(けふあす)に終りなむずる相、其の笛の音(ね)に聞へしかば、『其の事を告げ申さむ』と思ひしに、雨の痛く降りしに、只、過ぎに過ぎ給ひにしかば、否告申(えつげまうさ)で、極めて糸惜(いとほ)しと思ひ聞へしに、今夜(こよひ)、笛の音を聞けば、遙かに、命、延び給ひにけり。今夜、何(いか)なる勤めか有りつる。」

と。

 侍の云く、

「己(おの)れ、今夜、指(さ)せる勤め不候(さふらはず)。只、此の東の川崎と申す所に、人の普賢講(ふげんかう:「普賢経」を読誦して延命息災の功徳を得る法会)、行ひ候ひつる伽陀(かだ:和讃)に付きて、笛をぞ、終夜(よもすがら)、吹き候つる。」

と。

 登照、此れを聞くに、

「定めて、普賢講の笛を吹きて、其の結緣(けちえん)の功德(くどく)に依りて、忽ちに罪を滅ぼして、命、延びにけり。」

と思ふに、哀れに悲しくて、泣々(なくなく)なむ男を禮(をが)みける。侍も喜び貴(たふと)みて返りにけり。

 此れ、近き事也。此かる新たに微妙(めでた)き相人(さうにん)なむ有ける、となむ語り傳へたるとや。

   *]

 かういふ建築物の倒壞は時々あつたものであらう。嘉永六年五月二十日は明方から雨で、午過から晴れ模樣になつて來たが、丁度その頃に麹町四番町の織田家の屋敷で、土藏、住居、座敷ともに顚倒した。晝ながら怪我人が多かつたと「巷街贅説」に書いてあるから、この際は劉安や登照のやうな豫言者が居合せなかつたらしい。この邊は天明の末から野原になつてゐて、古井戸の跡が三つも四つもあつた。文化の末には御藥園になり、植木屋などが住んで居つたが、天保に至つてぽつぽつ屋敷が出來るやうになつた。さう古い普請ではないので、風震に傾く筈がない。原因がわからず、奇怪の事だといふ評判であつた。

[やぶちゃん注:「嘉永六年」一八五三年。

「午過」「ひるすぎ」。

「麹町四番町」この附近(グーグル・マップ・データ)。

「巷街贅説」塵哉翁著の随筆。文政一二(一八二九)年序。所持しないが、以上は同書「卷六」の「無謂倒家」で、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで視認出来る。

「天明」一七八一年から一七八九年。

「文化」一八〇四年から一八一八年。

「天保」一八三〇年から一八四四年。]

 寶應年間、洛陽に住んだ李氏の家では、殺生が嫌ひで、未だ嘗て猫を飼つたことがない。猫を飼へば自分が手を下さぬにしろ、鼠を殺す結果になるからである。或日李氏が友人を招いて、食卓を共にしてゐると、門の外に何百疋といふ鼠が現れて、いづれも後足で人のやうに立ち、前足で腹鼓でも打つやうな恰好をしてゐる。これを見付けた下男が驚いて李氏に告げたので、李氏をはじめ友人達も皆立ち上つて見物に出た。人が悉く出拂つた途端に食堂は崩れたが、幸ひに一人も怪我をしなかつた。鼠は家の倒壞を豫知し得ても、人にこれを傳へる方法がない。異樣なふるまひをして人々を屋外に導き、平生の恩に酬いたのであらう(宜室志)。

[やぶちゃん注:「寶應」唐代の代宗の治世の元号。七六二年から七六三年。

「宜室志」唐の張読撰になる伝奇小説集。以上は「卷三」の「李甲」。以下に示す。

   *

寶應中、有李氏子、亡其名、家於洛陽。其世以不好殺、故家未嘗畜貓、所以宥鼠之死也。迨其孫、亦能世祖父意。常一日、李氏大集其親友、會食於堂。既坐、而門外有數百鼠、俱人立、以前足相鼓、如甚喜狀。家僮驚異、告於李氏。李氏親友乃空其堂而縱觀。人去且盡、堂忽摧圯、其家無一傷者。堂既摧、群鼠亦去。悲乎、鼠固微物也、尚能識恩而知報、況人乎。如是則施恩者宜廣其恩、而報恩者亦宜力其報。有不顧者、當視此以愧。

   *]

 異變の起るに先立つて、その家に住む動物類が他に遁れ去る話はよくある。鼠は鼠なりに小さな靈を有するから、來るべきものを豫感して避けるのは當然かも知れぬが、「靈怪錄」の記載の如く、無生物もこれをよくするに至つては驚異の目を瞠(みは)らざるを得ない。唐陽武侯鄭絪が大臣を罷めて昭國里に居つた頃、竈の上に載せてあつた釜が一尺餘りも宙に浮んだのを筆頭に、十以上ある鍋が皆動き出した。三つの鍋が一つの釜を負ひ、あとは一列になつて廚の外へ出て行く。足が折れたので使へなくなつた鍋までが、負けない氣になつて列の後に隨ふ。廚の東の渠(みぞ)のところへ來ると、鍋はそのまゝ竝んで渡つたが、足の折れた先生だけはこゝで停頓した。家の人達はびつくりして前代未聞の行列を眺めてゐる。中に一人の子供が居つて、どうせ不思議を見せるなら、足の折れたやつも先へ行つたらどうだ、と云つた。さうすると鍋連中は最初に負つた釜を庭の中におろし、鍋二つが足折れ鍋を負つて渠を渡つた。行列は主人の弟の家の前まで來て順序よく竝んだが、その時空中に轟然たる響きを發して家が崩れ、鍋釜の類は全部埃りとなつて飛び散り、それが鎭まるのに丸一日かゝつた。百鬼夜行でなしに石器晝行である。どうしてこんな怪事が起つたか、家の人にもわからなかつたが、數日にして弟の少卿が先づ亡くなり、主人の前相國も次いで薨じた。この場合の鍋釜は、列を作つて廚の外へ出たが、家の崩れると同時に悉く碎け去つたのだから、難を豫知して避けたといふ例には當らない。異樣な行列で家人の目を驚かしたのは、凶兆を告げたものであるとしても、李氏の鼠の如く平素の恩に酬いたのではなささうである。結局この鍋釜行列の由來は、當時の鄭氏の人々にわからなかつた以上、千載の下なほ不可解とするより外はあるまい。

[やぶちゃん注:「靈怪錄」唐滅亡後の五代時代の詩人牛嶠(ぎゅうきょ)の撰になる志怪小説集。以上は「太平廣記」の「卷三百六十五」に「鄭絪」(ていいん:唐代の実在した政治家で詩人)として引かれる。以下に示す。

   *

唐陽武侯鄭絪罷相、自嶺南節度入爲吏部尚書、居昭國裡。弟縕爲太常少卿、皆在家。廚饌將備、其釜忽如物於灶中築之、離灶尺餘、連築不已。其旁有鐺十餘所、並烹庖將熱、皆兩耳慢搖。良久悉能行、乃止灶上。每三鐺負一釜而行、其餘列行引從、自廚中出。在地有足折者、有廢不用者、亦跳躑而隨之。出廚、東過水渠。諸鐺並行、無所礙、而折足者不能過。其家大小驚異、聚而視之、不知所爲。有小兒咒之曰、「既能爲怪、折足者何不能前。」。諸鐺乃棄釜於庭中、卻過、每兩鐺負一折足者以過。往入少卿院堂前、大小排列定。乃聞空中轟然、如屋崩、其鐺釜悉爲黃埃黑煤、盡日方定。其家莫測其故。數日、少卿卒、相國相次而薨。

   *]

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