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2017/04/22

南方熊楠 履歴書(その13) ロンドンにて(9) ロンドン交友録・「ブーゴニア伝説」の考証

 

 小生は前述亡父の鑑識通り、金銭に縁の薄き男なり。金銭あれば書籍を購(か)う。かつて福本日南が小生の下宿を問いし時の記文(日南文集にあり)にもこのことを載せ、何とも知れぬ陋室(ろうしつ)に寝牀(ねどこ)と尿壺(にょうつぼ)のみありて塵埃払えども去らず、しかれども書籍と標本、一糸乱れず整備しおるには覚えず感心せり、とありしと記臆す。いつもその通りなり。ロンドンにて久しくおりし下宿は、実は馬部屋の二階のようなものなりし。かつて前田正名氏に頼まれ、キュー皇立植物園長シスルトン・ダイヤー男を訪れし翌日、男より小生へ電信を発せられしも、町が分からずして(あまりの陋ゆえ)電信届かざりしことあり。しかして、この二階へ来たり泊(とま)り、昼夜快談せし人に木村駿吉博士等の名士多く、また斎藤七五郎中将(旅順海戦の状を明治天皇御前に注進申せし人。この人は仙台の醤油作るため豆を踏んで生活せし貧婦の子なり。小生と同じく私塾にゆきて他人の学ぶを見覚え、帰りて記臆のまま写し出して勉学せしという)、吉岡範策(故佐々友房氏の甥、柔道の達人、只今海軍中将に候)、加藤寛治、鎌田栄吉、孫逸仙、オステン・サツケン男等その他多し。

[やぶちゃん注:「福本日南」(にちなん 安政四(一八五七)年~大正一〇(一九二一)年)はジャーナリスト・政治家。ウィキの「福本日南」によれば、『福岡藩士福本泰風の長男として福岡に生まれる。本名は福本誠。幼名は巴。藩校修猷館に学び、後に長崎において谷口藍田(中秋)に師事し、更に上京して岡千仭に師事して専ら漢籍を修めた』。明治九(一八七六)年、『司法省法学校(東京大学法学部の前身)に入学するも、「賄征伐」事件(寮の料理賄いへ不満を抱き、校長を排斥しようとした事件)で、原敬・陸羯南』『らと共に退校処分となる』。『その後、北海道やフィリピンの開拓に情熱を注ぎ』、明治二一(一八八八)年には彼と同じく南進論者であった『菅沼貞風と知友となり、当時スペイン領であったフィリピンのマニラに菅沼と共に渡ったが、菅沼が現地で急死したため、計画は途絶した』。『帰国後、政教社同人を経て』、明治二二(一八八九)年に陸羯南らと、『新聞『日本』を創刊し、数多くの政治論評を執筆する。日本新聞社の後輩には正岡子規がおり、子規は生涯』、『日南を尊敬していたという』。明治二十四年七月には小沢豁郎・白井新太郎とともに発起人となって、アジア諸国及び南洋群島との通商・移民のための研究団体「東邦協会」を設立、『その後、孫文の中国革命運動の支援にも情熱を注いでいる』。明治三八(一九〇五)年には、招かれて、『玄洋社系の「九州日報」(福陵新報の後身、西日本新聞の前身)の主筆兼社長に就任』している。明治四十年の第十回『衆議院議員総選挙に憲政本党から立候補し当選。同年』、「元禄快挙録」の『連載を『九州日報』紙上で開始』した。これは『赤穂浪士称讃の立場に』立つ日南が、『忠臣蔵の巷説・俗説を排して史実をきわめようと著わしたものであり、日露戦争後の近代日本における忠臣蔵観の代表的見解を示し』、『現在の忠臣蔵のスタイル・評価を確立』したものとされる。彼は明治三一(一八九八)年から翌年にかけて、パリ・ロンドンに滞在しており、この時、南方熊楠と邂逅、そ『の時の交遊を描いた随筆「出てきた歟(か)」を』、後の明治四三(一九一〇)年の『大阪毎日新聞』に連載、これは熊楠の存在を全国に初めて紹介した記事ともされる、とある(下線やぶちゃん)。

「前田正名」(まさな 嘉永三(一八五〇)年~大正一〇(一九二一)年)は経済官僚で地方産業振興運動の指導者。鹿児島で薩摩藩藩医の子として生まれ、慶応年間(一八六五年~一八六八年)に長崎に留学したが、明治二(一八六九)年、フランスに渡ってフランス農商務省で行財政を学び、明治一〇(一八七七)年に帰国、内務省御用掛となた。後、「大隈財政」下の大蔵省にあって、直輸出論を提唱、大隈ブレーンの一人となった。明治十四年には農商務・大蔵大書記官となり、欧州経済事情調査に出張、明治十六年の帰国後は品川弥二郎らと組み、経済政策を構想、「松方財政」を批判して殖産興業資金の追加供給による強力な産業保護主義を主張、松方正義大蔵卿と対立した。明治二十一年に山梨県知事、翌年には農商務省工務局長・農務局長に復帰、その後は農商務次官・元老院議官・貴族院勅選議員となったものの、政府中枢の政策に同調出来ず、官界を去り、明治二五(一八九二)年以降は地方産業振興運動を指導し、地方実業団体・全国農事会等を系統的に組織化しては政府・議会にそれら団体の要求を建議する活動を行ったりしたが、晩年は不遇に終わった。以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った。「頼まれ」たとあるのは、既に官界を去って地方産業振興運動に力を入れていた日本にいる前田から依頼されたのである。

「キュー皇立植物園」イギリスの首都ロンドン南西部のキュー地区にある王立植物園キュー・ガーデン(Kew Gardens:キュー植物園)。一七五九年に宮殿併設の庭園として始まり、現在では世界で最も有名な植物園として膨大な資料を所蔵・保存している。

「シスルトン・ダイヤー男」イギリスの植物学者で、キュー・ガーデンが王立植物園となった後の第三代園長ウィリアム・ターナー・シセルトン=ダイアー男爵(Sir William Turner Thiselton-Dyer 一八四三年~一九二八年)。

「木村駿吉」既出既注

「斎藤七五郎」(明治二(一八七〇)年~大正一五(一九二六)年)は海軍軍人。南方熊楠が記すように、仙台の麹屋斎藤七兵衛の子として生まれ、苦学して進学したが、学費が続かず、小学校の教員となった。海軍軍人を志して上京、明治二六(一八九三)年、二十四歳で海軍兵学校を卒業、日清戦争(一八九四年~一八九五年)・北清事変(一九〇〇年)に従軍した後、日露戦争(一九〇四年~一九〇五年)では「旅順口閉塞作戦」に「仁川(じんせん)丸」・「弥彦丸」の指揮官を勤め、その沈勇を謳われた。戦後は練習艦隊や軍令部の参謀を務め、アメリカ・イギリス駐在を経た後、第一次大戦(一九一四年~一九一八年)では巡洋艦「八雲」艦長としてインド洋方面の警備を担当した。大正七(一九一八)年の少将・呉鎮守府参謀長から、後、中将となって第五戦隊司令官・練習艦隊司令官を歴任、大正一三(一九二四)年に軍令部次長に就任、ワシントン会議後の海軍の指導者として嘱望されたが、在任中に病没した。但し、ロンドンでの南方熊楠は、この事蹟(「朝日日本歴史人物事典」に拠る)では見出し得ないが、サイト「南方熊楠のキャラメル箱」のこちらの記載によれば、海軍少尉であった頃に、彼の乗船していた「富士」が滞在中、南方熊楠が艦員を大英博物館へ案内したとあり、調べてみると、この「富士」はイギリス・ロンドンのテームズ社製で、明治三〇(一八九七)年八月十七日に竣工し、直ちに日本に回航されていることから(同年十月三十一日横須賀到着)この回航委員の一人として彼がイギリスに向かい、その折りに斎藤と熊楠は邂逅したと考えるのが自然のようである。また大正九(一九二〇)年には田辺を少将となった彼が訪れてもいるとある。

「吉岡範策」(はんさく 明治二(一八六九)年~昭和五(一九三〇)年)は海軍軍人。海軍中将。肥後国(現在の熊本県宇城市小川地区)に肥後藩士の長男として生まれた。済々黌卒業。明治二四(一八九一)年に海軍兵学校を卒業して海軍少尉となり、日清戦争では軍艦「浪速」の分隊士として東郷平八郎艦長の下に従軍、「富士」回航委員などを経て、明治三四(一九〇一)年に海軍大学校(二期生)を卒業し、明治三十七年には海軍少佐となった。日露戦争では第二艦隊旗艦「出雲」の砲術長として日本海海戦に参戦している。その後、海軍演習審判官や「橋立」艦長を経て、大正三(一九一四)年八月二十三日に「浅間」艦長に補された。この日は日本がドイツへ宣戦布告した日でもあり、吉岡は第一次世界大戦に出征している。翌年、「筑波」艦長となる(同艦は翌年実施された観艦式に於ける大正天皇御召艦であった)。「金剛」艦長を経て、大正六(一九一七)年に海軍少将に昇進、その後、第一艦隊参謀長や連合艦隊参謀長を経て、大正十年には海軍中将・海軍砲術学校長となった(大正十三年予備役)。彼は「砲術の神様」とも呼ばれた(以上はウィキの「吉岡範策」に拠った)。

「佐々友房」(さっさともふさ 嘉永七(一八五四)年~明治三九(一九〇六)年)は政治家。肥後(熊本県)出身で、西南戦争では西郷軍に参加している。明治一四(一八八一)年に「紫溟(しめい)会」を結成して「国権主義」を唱えた。明治二十三年、熊本国権党副総理、同年衆議院議員(後、当選九回)。国民協会・帝国党・大同倶楽部などで指導的役割を果した。

「加藤寛治」(ひろはる 明治三(一八七〇)年~昭和一四(一九三九)年)は軍人。海軍大将。越前(福井県)出身で海軍兵学校卒。戦艦「三笠」の砲術長として日露戦争に出征、大正一〇(一九二一)年、ワシントン軍縮会議の随員となり、対米七割の強硬論を主張した。大正15年、連合艦隊司令長官、昭和四(一九二九)年には軍令部長となるが、翌年、ロンドン海軍軍縮会議で強硬論を主張して政府と対立、統帥権干犯問題(海軍軍令部の承認なしに兵力量を決定することは天皇の統帥権を犯すものとして右翼や政友会が当時の浜田内閣を攻撃した騒擾)を引き起こして辞職した。ロンドンでの南方熊楠との接点は確認出来なかった。

「鎌田栄吉」既出既注

「孫逸仙」既出の孫文。

「オステン・サツケン男」カール・ロバート・オステン・サッケン(Carl Robert von Osten-Sacken/ロシア名:Роберт Романович Остен-Сакен 一八二八年~一九〇六年)男爵はロシアの外交官で昆虫学者。サイト「南方熊楠資料研究会」の「南方熊楠を知る事典」内のこちらのページの松居竜五氏の「オステン=サッケン Osten-Sacken, Baron 1828-1906」によれば、『ペテルスブルク生まれのロシアの男爵。一八五六年から七七年まで、外交官としてアメリカに二十年以上滞在した』(本文の次の段落冒頭で熊楠は「オステン・サッケン男は、シカゴの露国総領事たり」と記している)。『幼少時より昆虫学を愛好、北アメリカ産の膜翅類(まくしるい)(虻(あぶ)や蜂の類)に関する目録を作っている。ヨーロッパへ戻ってからは、ハイデルベルクに居住し、虻と蜂の分類法に取り組んだ』とし、『晩年のサッケンは、こうした自らの膜翅類に関する研究をさらにフォークロアの解釈にまで広げていくのだが、熊楠との付き合いもそこから始まることになる。すなわち、一八九四年、サッケンは前年発表した自らの「古代のビュゴニアについて」という聖書の中の蜂の伝説に関する論文を補完するための材料を提供してくれるよう、『ネイチャー』読者投稿欄に質問状を送った。これに対して応えたのが、熊楠の『ネイチャー』への第三作、「蜂に関する東洋人の諸信」だったのである』(次段で絵入りで簡単に語られている。この論文の題名と発表はSome Oriental Beliefs about Bees and Wasps(「ミツバチ類やジカバチ類についての幾つかの東洋の俗信」 NATURE, 1894.5.10))。この『熊楠の投稿論文に対して、すぐさまサッケンからの反応があったことは、次の一八九四年五月十六日付日記からわかる』。

   *

 夕(ゆう)ハイデルベルヒのバロン・オステン・サッケンより來書。予がネーチュールに出せるブンブン蟲の事を謝し、並に謝在杭の事實等を問はる。[やぶちゃん注:引用元の漢字を恣意的に正字化して示した(後の引用も同じ処理を施した)。「謝在杭(しゃざいこう)」は志怪小説や博物学的考証をも含む「五雜組」の著者謝肇淛(しゃちょうせい)の字(あざな)であって、誤記ではない。]

   *

『これに応えて、熊楠は翌日さっそくサッケンに返書を投函し、以後、文通が始まることになった。そして、この年の八月、サッケンがロンドンに滞在した折には、わざわざ熊楠の下宿を訪ねてさえいる』。以下がその一八九四年八月三十一日附の日記。

   *

 午後四時過、バロン・オステン・サッケン氏來訪され、茶少しのみ、二十分斗りはなして歸る。六十餘と見ゆる老人なり。魯國領事として新約克(ニューヨーク)にありしとのこと。

   *]

 

 オステン・サッケン男は、シカゴの露国総領事たり。公務の暇に両翅虫学 Dipterology を修め、斯学の大権威たりし。この人を助けて小生『聖書』の獅(しし)の尸骸(しがい)より蜂蜜を得たサムソンの話を研究し、ブンブン(雪隠虫の尾長きもの Hanaabuyoutyu )が羽化せる虻(あぶ)で、きわめて蜜蜂に似たもの)を蜜蜂と間違えて、かかる俗信が生ぜし由を述べ、ハイデルベルヒで二度まで出板し、大英博物館にも蜜蜂とブンブンを並べ公示して、二虫間に天然模擬の行なわるるを証するに及べり。このことは近日『大毎』紙へ載するから御笑覧を乞いおく。このサツケン男(当時六十三、四歳)小生の弊室を訪れし時茶を供えしが、あまりに室内のきたなさにその茶を飲まずに去りし。木村駿吉博士は無双の数学家だが、きわめてまた経済の下手な人なり。ロンドンへ来たりしとき、ほとんど文(もん)なしで予を訪れ、予も御同様ゆえ、詮方なくトマトを数個買い来たり、パンにバターをつけて食せしも旨(うま)からず、いっそ討死(うちじに)と覚悟して、あり丈(た)け出してビールを買い来たり、快談して呑むうち夜も更け渡り、小便に二階を下りると、下にねている労働者がぐずぐずいうから、室内にある尿壺、バケッツはもちろん、顔洗う水盆までも小便をたれこみ、なお、したくなると窓をそっと明けて屋根へ流し落とす。そのうち手が狂ってカーペットの上に小便をひっくりかえし、追い追い下の室に落ちたので、下の労働者が眠りながらなめたかどうかは知らず。正にこれ「小便をこぼれし酒と思ひしは、とっくり見ざる不調法なり」。翌朝起きて家の主婦に大眼玉を頂戴したことあり。一昨々年上京して鎌田栄吉氏より招かれ、交詢社で研究所のことを話すうち、速達郵便で木村氏が百円送られしこそ、本山彦一氏に次いで寄付金東京での嚆矢たりしなれ。まかぬ種ははえぬというが、カーペットの上にまいた黄金水が硬化して百円となったものと見え候。

[やぶちゃん注:文中に挿入された「ブンブン」(後注参照)の幼虫(蛆)の絵を底本より画像で挿入した。

「両翅虫学 Dipterology 」昆虫綱有翅昆虫亜綱双翅(ハエ)目 Diptera(カ・ガガンボ・ハエ・アブ・ブユなどを含むグループで、極地を除くほぼ全世界に分布する。種数は約九万種に及び、昆虫類の中では甲虫類(Coleoptera:三十五万種超)・鱗翅(チョウ)目(十四万種超。蝶類よりも蛾類の方が多い(三分の二近く)。私は常々、和名の目の学名を「チョウ目」と呼ぶのは甚だおかしいと考えている)・膜翅(ハチ)目(Hymenopter)に次いで種数が多い。

「『聖書』の獅(しし)の尸骸(しがい)より蜂蜜を得たサムソンの話」「旧約聖書」の「士師(しし)記」の「第十四章」。以下に、日本聖書協会の一九五五年訳から当該全章を引く(引用元はウィキソースのこちら)。節番号は除去したが、節改行は残した。

   *

サムソンはテムナに下って行き、ペリシテびとの娘で、テムナに住むひとりの女を見た。

彼は帰ってきて父母に言った、「わたしはペリシテびとの娘で、テムナに住むひとりの女を見ました。彼女をめとってわたしの妻にしてください」。

父母は言った、「あなたが行って、割礼をうけないペリシテびとのうちから妻を迎えようとするのは、身内の娘たちのうちに、あるいはわたしたちのすべての民のうちに女がないためなのですか」。しかしサムソンは父に言った、「彼女をわたしにめとってください。彼女はわたしの心にかないますから」。

父母はこの事が主から出たものであることを知らなかった。サムソンはペリシテびとを攻めようと、おりをうかがっていたからである。そのころペリシテびとはイスラエルを治めていた。

かくてサムソンは父母と共にテムナに下って行った。彼がテムナのぶどう畑に着くと、一頭の若いししがほえたけって彼に向かってきた。

時に主の霊が激しく彼に臨んだので、彼はあたかも子やぎを裂くようにそのししを裂いたが、手にはなんの武器も持っていなかった。しかしサムソンはそのしたことを父にも母にも告げなかった。

サムソンは下って行って女と話し合ったが、女はサムソンの心にかなった。

日がたって後、サムソンは彼女をめとろうとして帰ったが、道を転じて、かのししのしかばねを見ると、ししのからだに、はちの群れと、蜜があった。

彼はそれをかきあつめ、手にとって歩きながら食べ、父母のもとに帰って、彼らに与えたので、彼らもそれを食べた。しかし、ししのからだからその蜜をかきあつめたことは彼らに告げなかった。

そこで父が下って、女のもとに行ったので、サムソンはそこにふるまいを設けた。そうすることは花婿のならわしであったからである。

人々はサムソンを見ると、三十人の客を連れてきて、同席させた。

サムソンは彼らに言った、「わたしはあなたがたに一つのなぞを出しましょう。あなたがたがもし七日のふるまいのうちにそれを解いて、わたしに告げることができたなら、わたしはあなたがたに亜麻の着物三十と、晴れ着三十をさしあげましょう。

しかしあなたがたが、それをわたしに告げることができなければ、亜麻の着物三十と晴れ着三十をわたしにくれなければなりません」。彼らはサムソンに言った、「なぞを出しなさい。わたしたちはそれを聞きましょう」。

サムソンは彼らに言った、「食らう者から食い物が出、強い者から甘い物が出た」。彼らは三日のあいだなぞを解くことができなかった。

四日目になって、彼らはサムソンの妻に言った、「あなたの夫を説きすすめて、なぞをわたしたちに明かすようにしてください。そうしなければ、わたしたちは火をつけてあなたとあなたの父の家を焼いてしまいます。あなたはわたしたちの物を取るために、わたしたちを招いたのですか」。

そこでサムソンの妻はサムソンの前に泣いて言った、「あなたはただわたしを憎むだけで、愛してくれません。あなたはわたしの国の人々になぞを出して、それをわたしに解き明かしませんでした」。サムソンは彼女に言った、「わたしは自分の父にも母にも解き明かさなかった。どうしてあなたに解き明かせよう」。

彼女は七日のふるまいの間、彼の前に泣いていたが、七日目になって、サムソンはついに彼女に解き明かした。ひどく彼に迫ったからである。そこで彼女はなぞを自分の国の人々にあかした。

七日目になって、日の没する前に町の人々はサムソンに言った、「蜜より甘いものに何があろう。ししより強いものに何があろう」。サムソンは彼らに言った、「わたしの若い雌牛で耕さなかったなら、わたしのなぞは解けなかった」。

この時、主の霊が激しくサムソンに臨んだので、サムソンはアシケロンに下って行って、その町の者三十人を殺し、彼らからはぎ取って、かのなぞを解いた人々に、その晴れ着を与え、激しく怒って父の家に帰った。

サムソンの妻は花婿付添人であった客の妻となった。

   *

「ブンブン」所持する「南方熊楠英文論考[ネイチャー]誌篇」(二〇〇五年集英社刊。訳本で訳者は松居竜五・田村義也・中西須美氏)の当該論文の松居竜五氏の解説によれば、これは双翅(ハエ)目短角(ハエ)亜目ハエ下目ハナアブ上科ハナアブ科 Syrphidae 『ハナアブ』(これは狭義の種としては、

ナミハナアブ亜科ナミハナアブ族 Eristalini 属ハナアブ Eristalis tenax

を指す。但し、総称との混同が甚だしいために現行では種としての和名「ハナアブ」は「ナミハナアブ」と呼ばれることが多くなってきている)に同定している。英文のEristalis tenaxのウィキを見ると、素人目には「きわめて蜜蜂に似たもの」に見え、また、何よりも、そこに“Rat-tailed maggot”(「鼠の尾のような蛆」)というキャプションで幼虫の写真が出るが、まさにこれは南方熊楠が描いたそれと非常によく似ていることが判り、以下に示すサッケンの論文にもこの種の学名がはっきりと記されてある

「雪隠虫」ハエ類の蛆のこと。

「ハイデルベルヒで二度まで出板し」これはオステン・サッケンがハイデルベルグで一八九四年に刊行した論文On the Oxen-born bees of the Ancients (Bugonia) and Their Relation to Eristalis tenax, a Two-winged Insect(「牛から生まれた蜂類の古典(ブーゴニア)と、双翅目昆虫の一種であるナミハナアブとの関係」)、及びそれを増補・改訂した同じくハイデルベルグで一八九五年に刊行したAdditional Notes in Explanation of the Bugonia-Lore of the Ancients, Eristalis tenax in Chinese and Japanese Literature(「古代人のブーゴニア伝説の解説への追補、第六 中国と日本の文献に現われるナミハナアブ」)を指していよう。なお、「ブーゴニア伝説」とはローマの代表的詩人ウェルギリウス(紀元前七〇年~紀元前一九年)の書いた「ゲオルギカ」(「農耕詩」 全四巻。紀元前二九年頃成立か)の第四巻に書かれてある蜜蜂の飼育に関わる叙述の中の「アリスタエウス物語」という蜜蜂の喪失と回復の伝承及びそれを濫觴とすると思われる牛や獅子を殺して腐らせるとそこから蜜蜂が生ずるという化生(けしょう)伝説を指す。こちらの「研究発表要旨」の冒頭にある上野由貴氏の「蜜蜂とアリスタエウスウェルギリウス『ゲオルギカ』における農業の担い手たち」を参照されたい。これらの南方熊楠の投稿論文とサッケンとのやりとりと、その両者への影響については、サイト「南方熊楠資料研究会」の「南方熊楠を知る事典」内のこちらのページの松居竜五氏の「蜂のフォークロアに関する連作論文」に詳しいので参照されたい。

「天然模擬」自然界に於ける疑似的形態や生態。ミツバチ類、

膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目ミツバチ上科ミツバチ科ミツバチ亜科ミツバチ族ミツバチ属 Apis

と、ハナアブ類、

双翅(ハエ)目短角(ハエ)亜目ハエ下目ハナアブ上科ハナアブ科ナミハナアブ亜科ナミハナアブ族 Eristalini 属ハナアブ Eristalis tenax

の(目レベルで異なる全くの別種一種の平行進化の結果としての外見上の酷似性を指している。これはベイツ型擬態(Batesian mimicry:毒や毒針を持つ生物とは違う種が同じ警戒色等を用いて捕食されないようにする擬態。擬態研究で進化論の発展に寄与したイギリスの博物学者・昆虫学者ヘンリー・ウォルター・ベイツ(Henry Walter Bates 一八二五年~一八九二年)に由来する)の好例とされている。また、ウィキの「ハナアブによれば、ハナアブ類は、『その名の通り、成虫は花に飛来して蜜や花粉を食べるものが多いが、そうでないものもあ』り、『幼虫は有機物の多い水中でデトリタスを食べるもの、朽木内で育つもの、捕食性、植食性、きのこ食性など多様な生態に適応放散しており、それに合わせてその形態も著しく多様である』とある。

「このことは近日『大毎』紙へ載する」このようなものが『大阪毎日新聞』に載ったかどうかは私は承知していない(全集を持たないので確認出来ない)。識者の御教授を乞う。

「サツケン男(当時六十三、四歳)」当時のサッケンは満六十六歳であるから、寧ろ、やや若く見えたか。

「茶を供えしが、あまりに室内のきたなさにその茶を飲まずに去りし」柳田国男宛明治四四(一九一一)年十一月二十八日午前二時附書簡の中にも、サッケンのことを記した部分で、『小生近処より茶器かり來たり茶を出せしに、小生の生活あまりにきたないから茶を呑めば頭痛すとて呑まずに去られし珍談あり』と綴っている(引用は底本選集の別巻(柳田國男と南方熊楠の往復書簡集)を用いた)。

「一昨々年上京」本「履歴書」(書簡)は大正一四(一九二五)年一月三十一日筆であるが、南方熊楠はこの三年前の大正一一(一九二二)年に「南方植物研究所」設立資金募集のために上京している。

「交詢社」明治一三(一八八〇)年に創立された社交俱楽部。前年の九月に福沢諭吉や矢野文雄(龍溪)ら三十一名が会合して創設を決定、当時の中心メンバーは福沢(常議員会長)とし、以下は慶応義塾関係者で占められ、「知識を交換し、世務を諮詢(しじゅん:参考として他の機関などに意見を問い求めること。「諮問」に同じい)」ことを目的に掲げた。単なる社交組織に留まらず、実際には立志社・愛国社系の自由民権運動に対抗するという政治的狙いを持っていたと見られている。全国的な組織活動の結果、発足時千八百名の社員を擁し、構成員は地主・豪農層や商工業者・銀行家・官吏・学者・言論人・教員等、中央や地方の有力者で構成されていたから、まさに熊楠のような資金集めを目的としていた者には欠かせぬ場所であった(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。]

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