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2017/04/20

柴田宵曲 續妖異博物館 「首なし」(その1) 附 上田秋成「夢應の鯉魚」+小泉八雲「僧興義の話」(英文原文+田部隆次譯)

 

 首なし

 

 柳宗元が永州の司馬に左遷され、荊門の驛舍に宿つた夜、夢に黃衣の婦人が現れて、自分の命が旦夕に迫つてゐることを訴へ、再拜して泣いた。これはあなたでなければお救ひ下さることは出來ぬ、もし救つて下されば、あなたの御運を展開して大臣の椅子に就けるやうにする、といふのである。柳宗元は夢の中で承諾の意を示したものの、夢がさめて見ると、全然心當りがない。婦人は三たびまで歎願に現れた。最後の時はよほど運命が切迫してゐるらしく、憂懼に堪へぬ顏色であつた。役人の中に不幸な立場の者があるのかと考へたり、たまたま荊州の帥(そつ)から朝飯の招待を受けてゐるので、或は自分のために魚が殺されるのであるかと考へたり、思案の決せぬうちに時間が來て、その饗應の席に出た。柳宗元から不思議な夢の話を聞いた帥が、下役人を呼んで尋ねたところ、一日前に大きな黃魚が漁師の網にかゝつたので、それを今朝の膳に上せたといふことであつた。宗元もこゝに至つてはじめて黃衣の婦人のこの魚であつたことに氣が付いたが、もう間に合はぬ。その魚を川に投げ捨てさせて出發するより外に仕方がなかつた。その夜婦人は四たび夢に現れたが、彼女は首がなかつたと「宣室志」にある。

[やぶちゃん注:「柳宗元が永州の司馬に左遷され」中唐名詩人柳宗元(七七三年~八一九年)は徳宗の治世に若手改革派として台頭、宦官勢力を中心とする保守派に対決し礼部侍郎まで昇ったが、政争に敗れ、『改革派一党は政治犯の汚名を着せられ、柳宗元は死罪こそ免れたものの、都長安(西安市)を遠く離れた邵州(湖南省)へ、刺史(州の長官職)として左遷された。ところが保守派が掌握した宮廷では処分の見直しが行われて改革派一党に更なる厳罰が科されることになり、柳宗元の邵州到着前に刺史を免ぜられて更に格下の永州(湖南省)へ、司馬(州の属僚。唐代では貶謫の官で政務には従事しない)として再度左遷された(八司馬事件)。時に柳宗元』三十三歳であった。『以後、永州に居を構えること』十年、八一五年に、一旦は『長安に召還されるものの、再び柳州(広西壮族自治区)刺史の辞令を受け、ついに中央復帰の夢はかなわぬまま』、四十七歳で歿した。『政治家としてはたしかに不遇であったが、そのほとんどが左遷以後にものされることとなった彼の作品を見ると、政治上の挫折がかえって文学者としての大成を促したのではないかとは、韓愈の「柳子厚墓誌銘」などにあるように、しばしば指摘されるところである』(引用は参照したウィキの「柳宗元」に拠る)。

「黃魚」「クワウギヨ(コウギョ)」。これは現行の中国語では、スズキ目ニベ科キグチ属フウセイ Larimichthys crocea という海水魚である。体色は美しい黄金色で、背鰭・臀鰭は高さにして三分の一以上が鱗に覆われており、東シナ海や黄海に多く棲息し、中国料理ではポピュラーであるが、本邦では長崎県で少し漁獲され、大型個体では五十センチメートルに達すると、サイト「WEB魚図鑑」のなどある。海水魚であるが、スズキ類にはかなり河川を遡上する種もいるので、少なくともこの近縁種ではあろう。

 これは「宣室志」の「柳宗元」。「太平廣記」引用を示す。

   *

唐柳州刺史河東柳宗元、常自省郎出為永州司馬、途至荊門、舍驛亭中。是夕、夢一婦人衣黃衣、再拜而泣曰、「某家楚水者也、今不幸、死在朝夕、非君不能活之。儻獲其生、不獨戴恩而已、兼能假君祿益、君爲將爲相、且無難矣。幸明君子一圖焉。」。公謝而許之。既寤、嘿自異之、及再寐、又夢婦人、且祈且謝、久而方去。明晨、有吏來、稱荊帥命、將宴宗元。宗元既命駕、以天色尚早、因假寐焉、既而又夢婦人、嚬然其容、憂惶不暇、顧謂宗元曰、「某之命、今若縷之懸甚風、危危將斷且飄矣。而君不能念其事之急耶。幸疾爲計。不爾、亦與敗縷皆斷矣、願君子許之。」。言已、又祈拜、既告去。心亦未悟焉。即俛而念曰。吾一夕三夢婦人告我、辭甚懇、豈吾之吏有不平於人者耶。抑將宴者以魚為我膳耶。得而活之、亦吾事也。」。即命駕詣郡宴、既而以夢話荊帥、且召吏訊之。吏曰、「前一日、漁人網獲一巨黃鱗魚、將爲膳、今已斷其首。」。宗元驚曰、「果其夕之夢。」。遂命挈而投江中、然而其魚已死矣。是夕、又夢婦人來、亡其首、宗元益異之。

   *]

 この婦人はもともとたゞの魚で、鱗の黃色であるところから、黃衣の人と現れて命乞ひをしたまでかも知れぬが、それにしては柳宗元の運命を請け合ひ、私をお救ひ下されば大臣になれるなどは少しえら過ぎる。何か柳宗元とこの魚との間に、前世の因緣が繫がつてゐなければならぬところであらう。

 上田秋成が「雨月物語」に書いた「夢應の鯉魚」は、小泉八雲が「僧興義」として「奇談」の中に紹介したことがある。三井寺の僧の話になつてゐるが、これは云ふまでもなく支那種で、「魚服記」の飜案らしい。興義は一たび息絶えて後、三日たつて蘇(よみがへ)り、自分がその間に鯉になつた話をした。彼は病ひの熱に苦しんで水に飛び込み、あちこち泳ぎ𢌞るうちに、いつか自分が鯉になつてゐる。空腹のまゝに釣の餌を呑み、文四といふ男に釣り上げられ、平の助の館に運ばれた。興義の鯉はかねて顏見知りの人々に向ひ、自分を忘れられたか、寺に歸して下さい、と頻りに叫んだけれど、誰の耳にも入らず、料理人が兩眼を押へ、研ぎすました庖刀で切りにかゝつた刹那、夢のさめるやうに蘇つた。彼は絶息してゐた間のことを記憶して居り、つぶさに館の樣子などを話したので、一同肝を潰し、殘りの膾は皆湖に捨てさせた。もう一步のところで柳宗元に訴へた黃魚と同じ運命に陷るわけであつた。彼は幸ひに首を失はなかつたのみならず、その後天年を全うした。愈々亡くなる前に自ら畫くところの鯉の畫數枚を湖に投じたら、魚は紙や絹の上を離れて泳ぎ𢌞つた、この故に興義の畫は世に傳はらぬといふおまけまで付いてゐる。

[やぶちゃん注:「雨月物語」の「夢應(むをう)の鯉魚(りぎよ)」は以下。

   *

 

 夢應の鯉魚

 

 むかし延長の頃、三井寺に興義(こうぎ)といふ僧ありけり。繪に巧みなるをもて名を世にゆるされけり。嘗(つね)に畫く所、佛像山水花鳥を事とせず。寺務の間(いとま)ある日は湖(うみ)に小船をうかべて、網引(あび)き釣りする泉郎(あま)に錢を與へ、獲(え)たる魚をもとの江に放ちて、其魚の遊躍(あそ)ぶを見ては畫(ゑが)きけるほどに、年を經て、細妙(くはし)きにいたりけり。或ときは、繪に心を凝(こら)して眠をさそへば、ゆめの裏(うち)に江に入りて、大小の魚とともに遊ぶ。覺(さむ)れば、卽(やがて)、見つるまゝを畫きて壁に貼(お)し、みづから呼びて「夢應の鯉魚」と名付けり。其の繪の妙(たへ)なるを感(めで)て乞ひ要(もと)むるもの前後(ついで)をあらそへば、只、花鳥山水は乞ふにまかせてあたへ、鯉魚の繪はあながちに惜みて、人每(ごと)に戲(たはふ)れていふ。

「生(しやう)を殺し鮮(あさらけ)を喰ふ凡俗の人に、法師の養ふ魚、必しも、與へず。」となん。其の繪と俳諧(わざごと)とゝもに天下(あめがした)に聞えけり。

 一とせ病ひに係りて、七日を經て、忽(たちまち)に眼を閉ぢ息絶えて、むなしくなりぬ。徒弟友どち、あつまりて歎き惜みけるが、只、心頭(むね)のあたりの微(すこ)し暖かなるにぞ、

「若(もし)や。」

と、居(ゐ)めぐりて守りつも、三日を經にけるに、手足、すこし、動き出づるやうなりしが。忽ち、長噓(ためいき)を吐きて、眼をひらき、醒めたるがごとくに起きあがりて、人々にむかひ、

「我(われ)、人事をわすれて既に久し。幾日をか過ぐしけん。」

衆弟等(しううていら)、いふ。

「師、三日前(さき)に息たえ給ひぬ。寺中の人々をはじめ、日比(ひごろ)睦まじくかたり給ふ殿原(とのばら)も詣で給ひて葬(はふむ)りの事をもはかり給ひぬれど、只、師が心頭(むね)の暖かなるを見て、柩にも藏めで、かく守り侍りしに、今や蘇生(よみがへ)り給ふにつきて、『かしこくも物せざりしよ』と怡(よろこ)びあへり。」

 興義、點頭(うなづ)きて、いふ。

「誰(たれ)にもあれ、一人檀家(だんか)の平(たひら)の助(すけ)の殿の館(たち)に詣でて告(まう)さんは。『法師こそ不思識に生き侍れ。君、今、酒を酌み、鮮(あらけ)き鱠(なます)をつくらしめ給ふ。しばらく、宴(えん)を罷(や)めて寺に詣でさせ給へ。稀有(けう)の物がたり、聞えまいらせん』とて、彼(か)の人々のある形(さま)を見よ。我が詞に露(つゆ)たがはじ。」

といふ。

 使ひ、異(あや)しみながら、彼の館に往きて其の由をいひ入れてうかがひ見るに、主(あるじ)の助をはじめ、令弟(おとうと)の十郎、家の子掃守(かもり)[やぶちゃん注:座が高いから重き家臣の通称固有名と採っておく。]など、居めぐりて酒を酌みゐたる。師が詞のたがはぬを奇(あや)しとす。助の館の人々、此の事を聞きて大きに異しみ、先づ、箸を止めて、十郎・掃守をも召し具して寺に到(いた)る。

 興義、枕をあげて、路次(ろじ)の勞(わづら)ひをかたじけなうすれば[やぶちゃん注:こちらから呼びつけてわざわざ来て貰ったことを心より労ったところ。]、助も蘇生りの賀(ことぶき)を述ぶ。

 興義、先づ問ひて、いふ。

「君、試みに、我がいふ事を聞かせ給へ。かの漁父(ぎよふ)文四(ぶんし)に魚をあつらへ給ふ事、ありや。」

助、驚きて、

「まことに、さる事あり。いかにしてしらせ給ふや。」

興義、

「かの漁父、三尺あまりの魚を籠(かご)に入れて君が門に入る。君は賢弟と南面(みなみおもて)の所に碁を圍(かこ)みて、おはす。掃守(かもり)、傍らに侍りて、桃の實の大なるを啗(く)ひつつ、奕(えき)の手段を見る。漁父が大魚(まな)を携へ來たるを喜びて、高杯(たかつき)に盛りたる桃をあたへ、又、盃(さかづき)を給ふて三獻(こん)、飮(の)ましめ給ふ。鱠手(かしはびと)、したり顏に魚をとり出でて、鱠(なます)にせしまで、法師がいふ所、たがはでぞあるらめ。」

といふに、助の人々、此の事を聞きて、或は異しみ。或はここち惑ひて、かく詳らかなる言(こと)のよしを頻(しきり)に尋づぬるに、興義、かたりて、いふ。

「我、此の頃、病にくるしみて堪へがたきあまり、其の死したるをもしらず。熱きここちすこしさまさんものをと、杖(つゑ)に扶(たす)けられて門を出づれば。病ひもやや忘れたるやうにて籠(こ)の鳥の雲井にかへるここちす。山となく里となく行々(ゆきゆき)て、又、江の畔(ほとり)に出づ。湖水の碧(みどり)なるを見るより、現(うつつ)なき心に浴びて遊びなんとて、そこに衣を脱ぎ去てて、身を跳(をど)らして深きに飛び入りつも。彼此(をちこち)に游(およ)ぎめぐるに、幼(わか)きより水に狎(な)れたるにもあらぬが、慾(おも)ふにまかせて戲(たはふ)れけり。今、思へば愚かなる夢ごころなりし。

 されども、人の水に浮ぶは、魚のこころよきには、しかず。ここにて又、魚の遊びをうらやむこころおこりぬ。傍らにひとつの大魚(まな)ありて、いふ。

『師のねがふ事、いとやすし。待たせ給へ。』

とて、杳(はるか)の底に去(ゆ)くと見しに、しばしして、冠裝束(かむりさうぞく)したる人の、前(さき)の大魚(まな)に胯(また)がりて、許多(あまた)の鼇魚(うろくず)を牽(ひ)きゐて、浮び來たり、我にむかひて、いふ。

『海若(わたづみ)の詔(みことのり)あり。老僧、かねて、放生(はうじやう)の功德(くどく)多し。今、江に入りて魚の遊躍(あそび)をねがふ。權(かり)に金鯉(きんり)が服を授けて水府(すいふ)のたのしみを、せさせ玉ふ。只、餌(ゑ)の香(かん)ばしきに眛(くら)まされて。釣りの糸にかゝり、身を亡(うしな)ふ事、なかれ。』

と、いひて去りて見えずなりぬ。

 不思義のあまりに、おのが身をかへり見れば、いつのまに、鱗(うろこ)、金光(きんかう)を備へて、ひとつの鯉魚(りぎよ)と化(け)しぬ。あやしとも思はで、尾(を)を振り、鰭(ひれ)を動かして、心のまゝに逍遙(せうえう)す。

 まづ長等(ながら)の山おろし、立ちゐる浪に身をのせて、志賀の大灣(おほわだ)の汀(みぎは)に遊べば、かち人の裳(も)のすそぬらすゆきかひに驚(おど)されて、比良(ひら)の高山影、うつる。深き水底(みなそこ)に潛(かづ)くとすれど、かくれ堅田(かただ)の漁火(いさりび)によるぞうつゝなき。ぬば玉の夜中(よなか)の潟(かた)にやどる月は、鏡の山の峯に淸(す)みて、八十(やそ)の湊(みなと)の八十隈(やそくま)もなくて、おもしろ。沖津嶋山、竹生嶋(ちくぶしま)、波にうつろふ朱(あけ)の垣こそおどろかるれ。さしも伊吹の山風に、旦妻船(あさづまぶね)も漕ぎ出づれば、蘆間(あしま)の夢をさまされ、矢橋の渡りする人の水(み)なれ棹(さを)をのがれては、瀨田(せた)の橋守(はしもり)にいくそたびが追はれぬ。日、あたゝかなれば浮び、風、あらきときは千尋(ちひろ)の底(そこ)に遊ぶ。

 急(には)かにも、飢えて食(もの)ほしげなるに。彼此(をちこち)に𩛰(あさ)り得ずして狂ひゆくほどに、忽ち、文四が釣りを垂るに、あふ。其の餌(ゑ)、はなはだ香(かんば)し。心、又、河伯(かはがみ)の戒(いましめ)を守りて思ふ。

『我れは佛(ほとけ)の御弟子なり。しばし食(もの)を求め得ずとも、なぞも、あさましく魚の餌を飮(の)むべき。』

とて、そこを去る。しばしありて、飢え、ますます甚しければ、かさねて思ふに、

『今は堪へがたし。たとへ此の餌を飮むとも嗚呼(をこ)に捕はれんやは。もとより他(かれ)は相ひ識(し)るものなれば、何のはばかりかあらん。』

とて遂に餌をのむ。文四、はやく糸を收めて、我を捕ふ。

『こはいかにするぞ。』

と叫びぬれども、他(かれ)かつて聞かず顏にもてなして、繩をもて我が腮(あぎと)を貫ぬき、蘆間に船を繫ぎ、我を籠に押し入れて君が門に進み入る。君は賢弟と南面の間に奕(えき)して遊ばせ給ふ。掃守(かもり)傍らに侍りて菓(このみ)を啗(くら)ふ。文四がもて來(こ)し大魚を見て、人々、大いに感(め)でさせ給ふ。我れ、其とき、人々にむかひ、聲をはり上げて、

『旁等(かたがたら)は興義をわすれ給ふか。宥(ゆる)させ給へ。寺にかへさせ給へ。』と連(しき)りに叫びぬれど、人々しらぬ形(さま)にもてなして、只、手を拍つて喜び給ふ。鱠手(かしは人)なるもの、まづ、我が兩眼を左手(ひだり)の指にて、つよくとらへ、右手に礪(とぎ)すませし刀(かたな)をとりて、俎盤(まないた)にのぼし、既に切るべかりしとき、我れ、くるしさのあまりに大聲をあげて、

『佛弟子を害(がゐ)する例(ためし)やある。我を助けよ、助けよ。』

と哭叫(なきさけ)びぬれど、聞き入れず、終に、切るる、と、おぼえて、夢、醒めたり。」

と、かたる。

 人々大に感異(めであや)しみ、

「師が物がたりにつきて思ふに、其の度(たび)ごとに魚の口の動くを見れど、更に聲を出だす事なし。かかる事、まのあたりに見しこそ、いと不思議なれ。」

とて、從者(ずさ)を家に走らしめて、殘れる鱠(なます)を湖(うみ)に捨てさせけり。

 興義、これより病ひ癒えて、杳(はるか)の後、天年(よはひ)をもて死にける。其の終焉(をはり)に臨みて畫(ゑが)く所の鯉魚、數枚(すまい)をとりて、湖(うみ)に散らせば、畫(ゑが)ける魚紙繭(しけん/かみきぬ[やぶちゃん注:後者は左ルビ。])をはなれて、水に遊戲(ゆうげ)す。ここをもて、興義が繪、世に傳はらず。其の弟子成光(なりみつ)なるもの、興義が神妙をつたへて時に名あり。閑院(かんゐん)の殿(との)[やぶちゃん注:平安初期の公卿で歌人の藤原冬嗣。]の障子に鷄(にはとり)を畫(ゑが)きしに。生ける鷄、この繪を見て蹴(け)たるよしを、古き物がたりに戴せたり。

   *

因みに、三島由紀夫は、この金鱗の鯉となった興義の琵琶湖の歌尽くしを『窮極の詩』と評して高く評価している。私は三島の思想と狂った田舎芝居の自死行動を全く評価しないが、彼の文学的才能は別して買っている。そうして、その彼の賞讃する箇所についても同じように激しく共感する。

 小泉八雲の「僧興義」は“The Story of Kogi the Priest”(「僧興義の話」)で、作品集“A Japanese miscellany”(「日本雑録」 明治三四(一九〇一)年刊)に所収されている。まず、原文を示す。加工データはネット上にある原文ベタ・テクストを複数用い、それを、底本として“Internet Archive”の原本画像を使用して校合した。なお、原注は一部を除いて除去した。

   *

 

The Story of Kōgi the Priest

 

NEARLY one thousand years ago there lived ill the famous temple called Miidera, at Ōtsu in the province of Ōmi, a learned priest named Kōgi. He was a great artist. He painted, with almost equal skill, pictures of the Buddhas, pictures of beautiful scenery, and pictures of animals or birds; but he liked best to paint fishes. Whenever the weather was fair, and religious duty permitted, he would go to Lake Biwa, and hire fishermen to catch fish for him, without injuring them in any way, so that he could paint them afterwards as they swam about in a large vessel of water. After having made pictures of them, and fed them like pets, he would set them free again, — taking them back to the lake himself. His pictures of fish at last became so famous that people travelled from great distances to see them. But the most wonderful of all his drawings of fish was not drawn from life, but was made from the memory of a dream. For one day, as he sat by the lake-side to watch the fishes swimming, Kōgi had fallen into a doze, and had dreamed that he was playing with the fishes under the water. After he awoke, the memory of the dream remained so clear that he was able to paint it ; and this painting, which he hung up in the alcove of his own room in the temple, he called " Dream-Carp.”

   Kōgi could never be persuaded to sell any of his pictures of fish. He was willing to part with his drawings of landscapes, of birds, or of flowers ; but he said that he would not sell a picture of living fish to any one who was cruel enough to kill or to eat fish. And as the persons who wanted to buy his paintings were all fish- eaters, their offers of money could not tempt him.

 

   One summer Kōgi fell sick ; and after a week's illness he lost all power of speech and movement, so that he seemed to be dead. But after his funeral service had been performed, his disciples discovered some warmth in the body, and decided to postpone the burial for awhile, and to keep watch by the seeming corpse. In the afternoon of the same day he suddenly revived, and questioned the watchers, asking : —

“ How long have I remained without knowledge of the world ?”

“ More than three days,” an acolyte made answer. “ We thought that you were dead ; and this morning your friends and parishioners assembled in the temple for your funeral service. We performed the service ; but afterwards, finding that your body was not altogether cold, we put off the burial; and now we are very glad that we did so.”

   Kōgi nodded approvingly : then he said : —

   “ I want some one of you to go immediately to the house of Taira no Suke, where the young men are having a feast at the present moment — (they are eating fish and drinking wine), — and say to them : — ' Our master has revived ; and he begs that you will be so good as to leave your feast, and to call upon him without delay, beause he has a wonderful story to tell you.' . . . At the same time ”— continued Kōgi —“observe what Suké and his brothers are doing; — see whether they are not feasting as I say.”

   Then an acolyte' went at once to the house of Taira no Suké, and was surprised to find that Suké and his brother Jūrō, with their attendant, Kamori, were having a feast, just as Kōgi had said. But, on receiving the message, all three immediately left their fish and wine, and hastened to the temple. Kōgi, lying upon the couch to which he had been removed, received them with a smile of welcome ; and, after some pleasant words had been exchanged, he said to Suké : —

   “ Now, my friend, please reply to some questions that I am going to ask you. First of all, kindly tell me whether you did not buy a fish to-day from the fisherman Bunshi.”

   “ Why, yes,” replied Suké — but how did you know ?”

   “ Please wait a moment,” said the priest. . . . “ That fisherman Bunshi to-day entered your gate, with a fish three feet long in his basket : it was early in the afternoon, just after you and Jūrō had begun a game of go; — and Kamori was watching the game, and eating a peach — was he not ? ”

   “That is true,” exclaimed Suké and Kamori together, with increasing surprise.

   “ And when Kamori saw that big fish,” proceeded Kōgi, “ he agreed to buy it at once ; and, besides paying the price of the fish, he also gave Bunshi some peaches, in a dish, and three cups of wine. Then the cook was called ; and he came and looked at the fish, and admired it ; and then, by your order, he sliced it and prepared it for your feast. . . . Did not all this happen just as I have said ?.”

   “ Yes,” responded Suké ;“ but we are very much astonished that you should know what happened in our house to-day. Please tell us how you learned these matters.”

   “ Well, now for my story,” said the priest. “ You are aware that almost everybody believed me to be dead; — you yourselves attended my funeral service. But I did not think, three days ago, that I was at all dangerously ill : I remember only that I felt weak and very hot, and that I wanted to go out into the air to cool myself. And I thought that I got up from my bed, with a great efifort, and went out, — supporting myself with a stick. . . .Perhaps this may have been imagination ; but you will presently be able to judge the truth for yourselves : I am going to relate everything exactly as it appeared to happen. . . . As soon as I got outside of the house, into the bright air, I began to feel quite light, — light as a bird flying away from the net or the basket in which it has been confined. I wandered on and on till I reached the lake ; and the water looked so beautiful and blue that I felt a great desire to have a swim. I took off my clothes, and jumped in, and began to swim about ; and I was astonished to find that I could swim very fast and very skilfully, — although before my sickness I had always been a very poor swimmer. . . . You think that I am only telling you a foolish dream — but listen ! . . . While I was wondering at this new skill of mine, I perceived many beautiful fishes swimming below me and around me ; and I felt suddenly envious of their happiness, — reflecting that, no matter how good a swimmer a man may become, he never can enjoy himself under the water as a fish can. Just then, a very big fish lifted its head above the surface in front of me, and spoke to me with the voice of a man, saying : —‘That wish of yours can very easily be satisfied: please wait there a moment !’  The fish then went down, out of sight ; and I waited. After a few minutes there came up, from the bottom of the lake, — riding on the back of tlie same big ilsh that had spoken to me, — a man wearing the headdress and the ceremonial robes of a prince ; and the man said to me : — ‘I come to you with a message from the Dragon-King, who knows of your desire to enjoy for a httle time the condition of a fish. As you have saved the lives of many fish, and have always shown compassion to living creatures, the God now bestows upon you the attire of the Golden Carp, so that you will be able to enjoy the pleasures of the Water-World. But you must be very careful not to eat any fish, or any food prepared from fish, — no matter how nice may be the smell of It ; ― and you must also take great care not to get caught by the fishermen, or to hurt your body in any way.' With these words, the messenger and his fish went below and vanished in the deep water. I looked at myself, and saw that my whole body had become covered with scales that shone like gold ; — I saw that I had fins ; — I found that I had actually been changed into a Golden Carp. Then I knew that I could swim wherever I pleased.

   “ Thereafter it seemed to me that I swam away, and visited many beautiful places. [Here in the original narrative, are introdmed some verses describing the Eight Famous Attractions of the Lake of Ōmi, — “ Ōmi-Hakkei.”] Sometimes I was satisfied only to look at the sunlight dancing over the blue water, or to admire the beautiful reflection of hills and trees upon still surfaces sheltered from the wind. . . . I remember especially the coast of an island — either Okitsushima or Chikubushima — reflected in the water like a red wall. . . . Sometimes I would approach the shore so closely that I could see the faces and hear the voices of people passing by ; sometimes I would sleep on the water until startled by the sound of approaching oars. At night there were beautiful moonlight-views ; but I was frightened more than once by the approaching torchfires of the fishing-boats of Katase. When the weather was bad, I would go below, — far down, — even a thousand feet, — and play at the bottom of the lake. But after two or three days of this wandering pleasure, I began to feel very hungry; and I returned to this neighborhood in the hope of finding something to eat. Just at that time the fisherman Bunshi happened to be fishing ; and I approached the hook which he had let down into the water. There was some fish-food upon it that was good to smell. I remembered in the same moment the warning of the Dragon-King, and swam away, saying to myself: —‘ In any event I must not eat food containing fish; — I am a disciple of the Buddha.’  Yet after a httle while my hunger became so intense that I could not resist the temptation ; and I swam back again to the hook, thinking, — ‘Even if Bunshi should catch me, he would not hurt me; — he is my old friend.’  I was not able to loosen the bait from the hook ; and the pleasant smell of the food was too much for my patience ; and I swallowed the whole thing at a gulp. Immediately after I did so, Bunshi pulled in his line, and caught me. I cried out to him, ‘ What are you doing? — you hurt me! ’— but he did not seem to hear me, and he quickly put a string through my jaws. Then he threw me into his basket, and took me to your house. When the basket was opened there, I saw you and Jūrō playing go in the south room, and Kamori watching you — eating a peach the while. All of you presently came out upon the veranda to look at me; and you were delighted to see such a big fish. I called out to you as loud as I could : —‘I am not a fish ! — I am Kōgi — Kōgi the priest !  please let me go back to my temple ! ’  But you clapped your hands for gladness, and paid no attention to my words. Then your cook carried me into the kitchen, and threw me down violently upon a cutting-board, where a terribly sharp knife was lying. With his left hand he pressed me down, and with his right hand he took up that knife, — and I screamed to him : — ‘ How can you kill me so cruelly !  I am a disciple of the Buddha ! — help !  help !’  But in the same instant I felt his knife dividing me — a frightful pain ! — and then I suddenly awoke, and found myself here in the temple.”

   When the priest had thus finished his story, the brothers wondered at it; and Suké said to him : — “I now remember noticing that the jaws of the fish were moving all the time that we were looking at it ; but we did not hear any voice. . . . Now I must send a servant to the house with orders to throw the remainder of that fish into the lake.”

 

   Kōgi soon recovered from his illness, and lived to paint many more pictures. It is related that, long after his death, some of his fish-pictures once happened to fall into the lake, and that the figures of the fish immediately detached themselves from the silk or the paper upon which they had been painted, and swam away!

 

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次にこちらにある、同作の田部隆次(パブリック・ドメイン)氏訳になる「僧興義」を電子化しておく。画像は新潮文庫昭和二五(一九五〇)年発行初版の古谷綱武編「小泉八雲集 上巻」である。一部の不審な空隙には読点を打った。

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   僧興義

 

 殆んど一千年前、近江の國大津の名聲い三井寺に、興義と云ふ博學の僧がゐた。繪の大家であつた。佛像、山水、花鳥を殆んど同じ程度に巧みに描いたが、魚を描く事が最も得意であつた。天氣の好い日で、佛事の暇のある時には、彼はいつも漁師を雇うて琵琶湖に行き、魚を痛めないやうに捕へさせて大きな盥に放ち、その游ぎ廻るのを見て寫生した。繪を描いてから、勞りながら食物を與へて再び、――自分で湖水までもつて行つて、――放つてやるのがつねであつた。彼の魚の繪はたうとう名高くなつたので、人はそれを見に遠くから旅をして來た。しかし彼の凡ての魚の繪のうちで、最も不思議なのは、寫生ではなくて、夢の記憶から描いた物であつた。そのわけは、或日の事、彼が魚の游ぐのを見るために、湖岸に坐つて居るうちに思はずまどろんで、水中の魚と遊んだ夢を見た。眼をさましてから、その夢の記憶が餘りに鮮明であつたので、彼はそれを描く事がてきた、そしてお寺の自分の部屋の床の間にかけて置いたこの繪を、彼は『夢應の鯉魚』と呼んだ。

 興義は、彼の魚の繪を一枚も賣る事を喜ばなかつた。山水の繪、鳥の繪、花の繪は喜んで、手放したが、彼はいつも、魚を殺したり喰べたりするやうな殘酷な者には、生きた魚の繪は賣りたくないと云つてゐた。そして彼の繪を買ひたがる人々は皆魚食の人々であつたから、彼等が如何程金を積んでも、彼はそれには迷はされなかつた。

 

 或夏の事、興義は病氣になつた、それから一週間病んだあとで、物言ふ事も、動く事もできなくなつたので、彼は死んだと思はれた。しかし讀經など行はれたあとで、弟子達は體に幾分の溫みのある事を發見して、暫らく埋葬を見合す事にして、その死骸らしく思はれる物のわきで、見張をする事に決した。同じ日の午後に、彼は突然蘇生した、そして見張の人々にかう云つて尋ねた、――

『私が人事不省になつてから、幾日になりますか』

『三日以上になります』一人の弟子が答へた。『いのちがお絶えになつたと思ひました、それで今朝日頃のお友達、檀家の人々がお寺に集まつておとむらひをいたしました。私達が式を行ひましたが、お體が全く冷たくないから、埋葬は見合せました、それで今さうした事を甚だ喜んてゐます』

 興義は成程とうなづいてから、云つた、

『誰でもよいから、すぐに平(たひら)の助(すけ)のうちに行つて貰ひたい、そこでは今、若い人達が宴會を開いて居る――(魚を喰べて、酒を飮んて居る)――それで、云つて貰ひたい、――「あるじは蘇生しました、どうか宴會を止めて、卽刻來て下さいませんか、あなた方に珍らしい話をいたしますから」――同時に』――興義は續けて云つた――『助と兄弟逹が、何をして居るか、見て來て貰ひたい、――私が云つた通り、宴會をしてゐないかどうか』

 それから一人の弟子が直ちに平の助の家に行つて、助と弟の十郎が、家の子掃守(かもり)と一緒に、丁度興義が云つた通り、宴を開いて居る事を見て驚いた。しかし、その使命を聞いて三人は、直ちに酒肴をそのままにして、寺へ急いだ。興義は床から座蒲團に移つてゐたが、三人を見て歡迎の微笑を浮べた、それから、暫らくお祝と御禮の言葉を交換したあとで、興義は助に云つた、――

『これから二三お尋ねする事があるが、どうか聞かせて下さい。第一に、今日あなたは漁師の文四から魚を買ひませんでしたか』

『はい、買ひました』助は答へた――『しかしどうして御存じですか』

『少し待つて下さい』僧は云つた。……『その漁師の文四が今日、籠の中に三尺程の長さの魚を入れて、お宅の門へ入つた。午後の未だ早い時分でしたが、丁度あなたと十郎樣が碁を始めたところでした、――それから掃守が桃を喰べてゐながらその碁を見てゐました――さうでしたらう』

『その通りです』助と掃守は益〻驚いて、一緒に叫んだ。

『それから掃守がその大きな魚を見て』興義は續いて云つた、『すぐにそれを買ふ事にした、それから代を拂ふ時に、文四に皿に入れた桃をいくつか與へて、酒を三杯飮ませてやりました。それから料理人を呼んだら、その人は魚を見て感心しました、それからあなたの命令でそれを膾(なます)にして、御馳走の用意をしました。……私の云つた通りぢやありませんか』

『さうです』助は答へた、『しかしあなたが、今日私のうちであつた事をどうして御存じですか、實に驚きます。どうかこんな事がどうして分りましたか聞かして下さい』

『さあ、これからが私の話です』僧は云つた。『御承知の通り殆んど皆の人逹は私を死んだと思ひました、――あなたも私のとむらひに來てくれましたね。しかし、三日前に、私はそんなにひどく惡いとは思はなかつた、ただ弱つて、非常に熱いと思つたので、外へ出て少し涼まうと思つた。それから骨を折つて床から起き上つて、――杖にすがつて、――出かけたやうです。……事によればこれは想像かも知れない、しかしやがてその事は皆さん御自分で判斷ができませう、私はただあつた事を何でもその通りに述べるつもりです。私がうちからあかるい外へ出ると、全く輕くなつたやうな、――籠や網から逃げ出した鳥のやうに輕くなつたやうな氣がした。私は段々行くうちに湖水に逹した、水は靑くて綺麗だつたから、しきりに游いで見たくなつた。着物を脱いで跳び込んで、そこら邊泳ぎ出した、それから、私は非常に早く、非常に巧みに游げるので驚いた、――ところが實は、病氣の前は游ぐ事はいつも非常に下手であつた。……皆さんは馬鹿な夢物語だと思はれるだらうが――聽いて下さい。……私がこんなに新しい力が出て來たので不思議に思つて居るうちに、氣がついて見ると、私の下にも廻りにも綺麗な魚が澤山游いでゐた、私は不意に幸福な魚が羨しくなつて來た、――どんなに人がよく游げると云つたところで、魚のやうに、水の下で面白くは遊ばれないと思つた。丁度その時、甚だ大きな魚が私の目の前の水面に頭を上げて、人間の聲で私にかう云つて話しかけた、――「あなたの願は何でもなく叶ひます、暫らくそこでお待ち下さい」それから、その魚は下の方へ行つて見えなくなつた、そこで私は待つてゐた。暫らくして湖水の底から、――私に物を云つたあの大きな魚の背中に乘つて、――王公のやうな冠と禮服を着けた人が浮かび上つて來て、私に云つた、――「暫らく魚の境遇になつて見たいとの御身の願を知しめされた龍宮王から使をもつて來た。御身は多くの魚の生命を救つて、生物への同情をいつも示して居るから、神は今御身に水界の樂みを得させるために黃金の鯉の服を授け下さる。しかし御身は魚を喰べたり、又魚でつくつた食物を喰べたりしないやうに注意せねばならない、――どんなによい香がしても、――それから漁師へ捕へられないやうに、又どうかして體(からだ)を害をする事のないやうにやはり注意せねばならない」かう云つて、その使者と魚は下の方へ行つて、深い水の中に消え失せた。私は自分を顧みると、私の全身が金のやうに輝く鱗で包まれてゐた、――私には鰭があつた、――私は實際黃金の鯉と化して居る事に氣がついた。それから、私の好きなところ、どこへでも游げる事が分つた。

『それから、私が游いで、澤山の各所を訪れたらしい。〔ここで、原文には、近江八景を説明した歌のやうな文句が入れてある〕時々私は靑い水の面で躍る日光を見たり、或は風から遮ぎられた靜かな水面に反映する山や本の美しい影を見たりしただけで滿足した。……私は殊に島の岸――沖津島か竹生島か、どちらかの――岸が赤い壁のやうに水の中に映つてゐたのを覺えて居る。――時々私は岸に餘り近づいたので、通つて行く人の顏を見たり、聲を聞いたりする事ができた、時時私は水の上に眠つてゐて、近づいて來る櫂の音に驚かされた事もある。夜になれば、美しい月の眺めがあつた、しかし私は片瀨の漁舟のかがり火の近づいて來るのには幾度も驚かされた[やぶちゃん注:「片瀨の漁舟」原文は“the fishing-boats of Katase”で“Katase”と大文字になっているから、小泉八雲は固有地名として記していることが判る。しかし、現在、琵琶湖畔には「片瀬」と称する地名を確認出来なかった。識者の御教授を乞う。或いは歌枕的な用法として使用したものか?]。天氣の惡い時には、下の方へ、――ずつと下の方へ、――一千尺も、――行つて湖の底で遊ぶ事にした。しかしこんな風に二三日面白く遊び廻つてゐたあとで、私は非常に空腹になつて來た、それで私は何か喰べる物をさがさうと思つて、この近所へ歸つて來た。丁度その時漁師の文四が釣をしてゐた、そして私は水の中に垂れでゐた鉤に近づいた。それには何か餌がついでゐて、よい香がした。私は同時に龍宮王の警告を想ひ出して、獨り言を云ひながら、游ぎ去つた、――「どうあつても魚の入れてある食物は喰べてはならない」それでも私の飢は非常に烈しくなつて來たので、私は誘惑に勝つ事ができなくなつた、それで又鉤のところへ游ぎかへつて、考へた、――「たとへ、文四が私を捕へても、私に害を加へる事はあるまい、――古い友達だから」私は鉤から餌を外す事はできなかつた、しかし餌の好い香は到底私が辛抱できない程であつた、それで私はがぶりと全部を一呑みにした。さうするとすぐに、文四は糸を引いて、私を捕へた。私は彼に向つて叫んだ、「何をするんだ、――痛いぢやないか」――しかし彼には聞えなかつたらしい、直ちに私の顎に糸を通した。それから籠の中へ私を投げ入れて、お宅へ持つて行つたのです。そこで籠を開いた時、あなたと十郎樣が南の部屋で碁を打つてゐて、それを掃守が――桃を喰べながら――見物して居るのが見えた。そのうちに皆さんが私を見に緣側へ出て來て、そんな大きな魚を見て喜びましたね。私はできるだけ大聲で皆さんに、――「私は魚ぢやない、――興義だ、――僧興義だ、どうか寺へかへしてくれ」と叫んだが、皆さんが喜んで手をたたいて私の言葉には頓着しなかつた。それから料理人は臺所へもつて行つて、荒々しく爼板(まないた)の上に私を投げ出したが、そこには恐ろしく鋭い庖丁が置いてあつた。左の手で、彼は私を押へて、右の手で庖丁を取り上げた、――そして私は彼に叫んだ、――「どうしてそんなに殘酷に私を殺すのだ。私は佛の弟子だ、――助けてくれ」しかし同時に私はその庖丁で二つに割られるのを――非常な痛さと共に――覺えた、――そしてその時突然眼がさめた、そしてここの寺に歸つてゐた』

 

 僧がこの通り話を終つた時、兄弟は不思議に思つた、そして助は云つた、――『今から想へば、なる程私達が見て居る間、魚の顎が始終動いてゐた、しかし聲は聞えなかつた。……それではあの魚の殘りは湖水に捨てるやうに、家へ使を出さねばならない』

 

興義はすぐに病氣が直つた、そしてそれから又澤山の繪を描いた。死後餘程たつてから、彼の魚の繪が或時湖水に偶然落ちた事があつた、すると魚の形がその地の絹や紙から直ちに離れて游ぎ去つたと傳へられて居る。

                (田部隆次譯)

 The Story of Kogi the Priest.(A Japanese miscellany.)

 

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