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2017/04/11

「想山著聞奇集 卷の貮」 「剜拔舟掘出したる事」

 

 剜拔舟(くりぬきぶね)掘出したる事

 

[やぶちゃん注:「くりぬきぶね」の読みは目録に従った。「剜」は「けずる・えぐる」の意。この掘り出された刳り舟は、なんと! 現存する! 「愛西市佐織歴史民俗資料室」(諏訪町郷西四五六番地一の「佐織公民館」内)に展示されてあるこちらのページの「諸桑(もろくわ)の古船」のところをご覧あれ! 写真もある! その記載によれば、この丸木舟は『複材くり船といわれるタイプのもので』『時代は古墳時代(三~四世紀)』にまで遡る古代の舟で、『三~四本の原木を縦に継いだ丸木舟で』、同様のものは『太平洋岸の各地で出土例があ』りとし、『材料には楠(くすのき)が用いられ』ていたと記す(用材は本文でもそう推定している)。また、『三ヶ所を継いで、カンヌキを用いて一つにしてい』たともある。また、「尾張名所図会」の記載から『三ヶ所を継いで、カンヌキを用いて一つにしてい』たともある(附図に描かれた枘穴(ほぞあな)でそれが確認出来る!想山先生! 二十一世紀になっても、残っていましたよ!!!

 

Kuribune1

Kuribune2

Kuribune3

Butuzouka

舟の形ち、木目(きめ)缺目(かけめ)、此圖の通りにて少しも相違なし。舟の上端(うはばた)、田づらより三尺程土中へ埋(むま)り居(ゐ)、舳先(へさき)のかたは數年來水中より出居(いでゐ)たれども、藪陰(やぶかげ)の所故(ゆゑ)、不審を立(たつ)る者もなく打過(うちすぎ)たりと。舟、惣(さう)長さ十一間貮尺[やぶちゃん注:二十メートル六十センチメートル。異様に長い!]程、幅の徑(わた)り廣き所にて五尺貮寸ほどあり、尤(もつとも)、舳先と艫(とも)の外は大躰(たいてい)同じ幅也、両舷(りやうふなばた)の木の厚さ三四寸[やぶちゃん注:九~十二センチメートルほど。]、深さはわづか七八寸[やぶちゃん注:二十一~二十四センチメートル。]より一尺ばかり中(なか)の方(かた)へ繰込(くりこみ)有(あり)て、舟底の方は厚(あつさ)は一尺餘も有て、至(いたつ)て手丈夫(てじやうぶ)にて不細工に見えたり。

 

[やぶちゃん注:以上は本文の途中に挿入された附図のキャプション(但し、活字化されたものにはルビはない)。一部に底本の判読の誤りがあったので訂した図は舟だけで全六枚に及ぶ長大なものであるが、図の初めの方の文章は本文の後半部である。

 後の二枚は一緒に周囲を掘っていて発見された(リンク先にそうある)木製の仏像(らしき物)であるが、これはこの舟とは無関係な後代のものと考えた方が無難である。古墳時代では仏像ではあり得ないし、この発掘箇所が寺の裏であったということは、或いは、もっと古い時代の別の寺や誰かの屋敷などが、ここにあった可能性もあるからである。キャプションは右が、

 

 向(けう)

 長(たけ)七寸

 

で「向」は正面向きの謂いであろう。「七寸」は約十八センチメートル。左の図は、

 

 背(はい)

 橫(よこ)四寸九分

 

で最長横幅は十五センチメートル弱とする。]

 

 天保九年【戊戌(つちのえいぬ)】閏四月三日[やぶちゃん注:グレゴリオ暦一八三八年五月二十六日。]、尾張の国中嶋郡諸桑村(もろくわむら)【名古屋より四里半申[やぶちゃん注:南西。]の方、津島より半里程巽(たつみ)[やぶちゃん注:南東。]の方。】[やぶちゃん注:現在の愛知県愛西(あいさい)市諸桑町(ちょう)附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。しかし、方角がおかしく、名古屋のほぼ西で、同じ方角の現在の愛知県津島市の北西に当たる。不審。]、地内に、滿成寺と云(いふ)寺有(あり)[やぶちゃん注:諸桑町に現存。ここ(グーグル・マップ・データ)。浄土真宗。]。此裏の方、溝浚(みぞさらひ)にて、同所字竹越と云ふ所の沼田の纔(わづか)なる水付(みづつき)の場所にて、古木を掘當(ほりあ)てたり。大なる木ゆゑ、往古の倒木にやとて、段々村内のもの共寄集(よりあつま)り、掘穿(ほりうが)ちたるに、殊の外長くて、中々取𢌞しも成兼(なりかね)、掘起し難きゆゑ、三つに引切(ひききり)、同五日迄に漸(やつ)と掘出(ほりいだ)し見るに、惣長(さうながさ)十一間餘、差口(さしわたり)五尺餘の丸木を二つ割(わり)にして、中を剜(くり)ぬきたる丸木舟にて、梁木(はりき)の穴もあつて、甚だ古代の物なり。木品(きひん)は何とも聢(しか)とは分り兼たれども、俗眼にも楠とみえ、材木屋、又は大工などにも見せて穿鑿せしに、いづれも楠の類とはいひけれども、朽木ゆゑ、慥(たしか)には見わき難き由。所々餘程朽(くち)たる所も有(あり)。其上、掘出せしをりにも缺損(かけそん)じ、彌(いよいよ)形ちも替りたるよしなれども、誰(たれ)見ても舟には相違なし。木の色は、數百年泥中に沈み有(あり)たる故か、濃き鼠よりはまだ黑きかたにて、圖のごとき木目顯れ居たり。さて此場所にて、錢二文と大網の岩と見ゆる素焼の物[やぶちゃん注:網の錘である。先のリンク先に現物の写真がある。なお、これら(以下にも多くの発掘品が続く)を即、この舟と関連づけることは出来ない。古墳時代と漁師と銭では、必ずしもこれらが自然で腑に落ちる群としての出土物と位置付けることは出来ないからである。そもそもが原文自体、「此場所」と言っていて、一緒に出土したとは必ずしも言っていない(埋まっていた深さが異なることが以下に述べられてある。刳り舟よりも「上」の地層からである)からでもある。先の注で述べた通り、後の仏像様の物体も同断である。]、数(かず)廿(にじゆう)程も掘出し、其餘、素燒の小さき黑燒壺のごとき物の缺けも少々掘出したり。錢は上土(うはつち)を刎揚(はねあぐ)る内に有て、惣次郎と云(いふ)六歳に成(なる)小兒に持(もた)せ置(おき)たる故、何れへか失ひしを、所々尋けれども、再び出(いで)ざりし由。殘(のこ)り[やぶちゃん注:残念な思い。]多し。扨、夫より又、何ぞ有(あら)んかとて掘穿ちたるに、同八日、佛像のごときもの一つ掘出したり。是もやはり舟と同木と見ゆれども、何の像にや分りかねたり。圖の通り成(なる)ものなり。予、此年閏四月十五日に名古屋へ登り、程なく此事を口々に咄も聞(きき)、同六月十四日に此村へ行(ゆき)て一覽せしに、案内の土民の云(いふ)には、此舟の中に漆(うるし)をもつて書(かき)たる文字あれども、悉く磨滅して見えずと云故、予も見しに、此舟、彼(かの)寺の門前の藪陰に有て、中々漆の色さへ少しも分らず。讀得る事ならずして閣(さしをき)たりしは殘り多し。偖(さて)、此舟の事を人々に問(とふ)に、博識家も辨(わきまふ)る事成(なり)かね、一二の今案(こんあん)を申(まうす)人も有れど、點頭成兼(てんとうなりかぬ)る[やぶちゃん注:納得することはとても出来そうもない。]事のみなり。何にもせよ、斯(かく)のごとく、幅五尺ばかり、長さ十二間も續きたる楠の大木、今の世にはなし。假令(たとひ)、有(あり)たりとも、一國に一株か二株にすぎじと思はる。古へは、か樣の大木少からずして、斯のごとき剜拔舟も數艘有るものにや。又は昔も、か樣の舟はわづか一二艘には過(すぎ)ざりつるか。かく古風なる舟は、いつの昔遣ひしものにて、如何成(なる)故にて、幾百年此所(このところ)に埋(うま)り居(ゐ)たるか、推察なすべき由もなく、殘(のこ)り多し。此舟は掘出しぬしへ下されたるとの事なり。今は如何なりしにや。元來、此舟の舳先の所、年來、水中より出居(いでゐ)たれども、寺の藪陰、邪魔にもならず、誰(たれ)有(あつ)て見咎(みとがむ)る者もなく打過(うちすぎ)たりと。呉々も考(かんがふ)る程不審なる舟也。只書記(かきしる)しおきて、後昆(こうこん)[やぶちゃん注:「後」も「昆」も「後(のち)」の意で、「後世・後世の人」の意。]の良説を待つのみ。

[やぶちゃん注:全く同じ本件の内容を記載している「尾張名所圖會」の「海東・海西郡」にある「諸桑村古舟堀出圖」を国立国会図書館デジタルコレクションの画像(保護期間満了)と、それを視認して私が活字に起こしたもので最後に掲げておく。誤用箇所(「掘」が「堀」・「いは」が「いわ」・「こぐわ」(ルビ)が「こが」・「いぎやう」(ルビ)が「ゐぎやう」・「「すぢ」(ルビ)が「すじ」等)もそのまま活字化した。漢字の一部の略字(「図」「辺」「当」様のもの等。但し、確信犯の「余」「旧」等はそのまま打った)及び踊り字「〱」は正字化した。読み易くするために句読点を適宜、打った。

   *

 

Owarimeisyozuekuribune

 

 諸桑村にて古舩(こせん)を堀出(ほりいだ)す圖

 

天保九年閏四月、當村にて川浚(ざら)へをせしに、滿成(まんじやう)寺といへる寺の裏邊(うらべ)にて、古木(こぼく)の如き物に堀當りしかば、みなみな、いぶかしく思ひ、猶ふかく堀わりしに、いと大きなる舩(ふね)を堀出せり。此舩、往古(むかし)の製(せい)にして樟(くす)の丸木(まるき)舩なるが、三ケ所、つぎて、かんぬきをもつて、是をさす。また、舩中(せんちう)より大網(おほあみ)のいわ・古瓦(こが)・古錢、其余異形(ゐぎやう)の珍器(ちんき)多く出たり。夫より又、其ほとりを、ほりかへし見れば、木佛像(もくぶつざう)の半軀(はんく)を掘出せり。さて、當村は式内(しきない)諸鍬(もろくは)の神社もありて、千年に及ぶ旧地(きゆうち)なれど、其巳前いまだ此邊の、海にてありし時より、しづみし舩ならんか、又は隣(りん)村古川村は、もと、川筋(すじ)なりしを埋(うづ)めて今の村とせしよしなれば、此邊までも彼(かの)川筋にて、そこにありし川舩の、いつしか埋(うも)れありしにもやあらん。

 

   *

 以上を総て終わった後、検索しているうちに、佐織町教育委員会「諸桑の古船」小考という論文(PDF)をネット上で発見して快哉を叫んだ。これは恐らく、現在、披見し得る本件についての主要な古情報を恐るべき緻密さで網羅されており、以上の「尾張名所圖會」はもとより、本「想山著聞奇集」も翻刻されている(但し、新字体)。嬉しいことに石井謙治氏作成になる分断された図の一艘全体の復元図も示されてある! 他の諸記載とともに必見也!]

 

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