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2017/04/21

柴田宵曲 續妖異博物館 「首と脚」

 

 首と脚

 

 唐の至德の初め頃、魯旻の部將に王穆といふ者が居つた。南洋の戰に敗れて軍馬の潰走する中に穆もまじつてゐたが、この男が形貌雄壯である上に、乘つた馬も珍しく大きなものであつたため、頗る目立つたらしく、賊の一騎がうしろから迫ひ付いたと思ふと、忽ちその首を斫(き)つてしまつた。穆は一溜りもなく地に落ち、筋骨ともに斷たれたに拘らず、咽喉の筋だけが僅かに繫がつてゐた。はじめは冥然として何もわからなかつたが、ふと氣が付いた時、自分の首は臍の上に在る。手で持つて首をもとのところに附けようとしても、また直ぐ落ちてしまふ。暫くして自覺を取り戾したので、首を正しい位置に据ゑ、髮を二つに分けて縛つた後、はじめて坐つて見たが、精神は全く茫然たるものであつた。穆の馬は終始傍を離れなかつたので、夜になつていさゝか氣分がはつきりしたところで、馬が寢てくれれば乘れるのだが、とふと考へた。馬はその意を察知したらしく、脚を折つて穆の前に橫になつた。そこで辛うじて上に乘ると、馬はおもむろに起き上つて、東南に向つて步き出した。穆は首が落ちぬやうに兩手で押へてゐる。四十里ばかり行くと、穆の部下の兵卒が十餘人かたまつて步いてゐるのに出逢つた。彼等の方でも穆を認め、一先づ村の家に運び込んだが、こゝらは賊の據點からあまり離れて居らぬので、危險をおもんぱかつて本營のゐるところまで連れて行つた。穆はその城中に病ひを養ふこと二百餘日、遂に癒えたものの、頭は少し偏(かたよ)つてゐたさうである。

[やぶちゃん注:「唐の至德」玄宗の三男粛宗の即位と同時に改元されて用いられた元号。七五六から七五八年。同二載(年)には安禄山が息子安慶緒に殺され、唐軍は長安を奪還、し粛宗は長安に帰還、史思明も一旦、唐に降伏している

「魯旻」「ろびん」と読んでおくが、調べてみると、当時の南陽(後注参照)の節度使(ここでは各地方の募兵集団の司令官)として魯炅(ろけい)と記すものが多い。彼は南陽郡太守であったが、安禄山の乱の勃発によって、その討伐軍の将の一人となった。後の七五九年、再蜂起した史思明を攻めたが、流れ矢に当たって死んでいる。

「王穆」「わうぼく(おうぼく)」と読んでおく。

「南洋」以下の原典を見ると「南陽」の誤りである。魯旻が節度使であった南陽郡である。現在の河南省南陽市と湖北省の随州市棗陽市に跨る地域であるが、この「至德」の末年に「鄧州」と改名されて消滅している。

「四十里」唐代の一里は五百五十九・八メートルであるから、二十二キロ三百九十二メートル。

 柴田は出典を後で「再生記」と記すが、これは「太平廣記」の「卷第三百七十六」の「再生二」を指している(「再生記」という書物はないので注意)。その「王穆」がそれで、原典は「廣異記」と記す。

   *

太原王穆、唐至德初、爲魯旻部將、於南陽戰敗、軍馬奔走。穆形貌雄壯、馬又奇大、賊騎追之甚眾。及、以劍自後穆頸、殪而隕地。筋骨俱斷、唯喉尚連。初冥然不自覺死、至食頃乃悟、而頭在臍上、方始心惋。旋覺食漏、遂以手力扶頭、還附頸、須臾復落、悶絶如初、久之方蘇。正頸之後、以發分係兩畔、乃能起坐、心亦茫然、不知自免。而所乘馬、初不離穆。穆之起、亦來止其前。穆扶得立、左膊發解、頭墜懷中、夜後方蘇。係發正首之後、穆心念、馬臥方可得上、馬忽橫伏穆前、因得上馬。馬亦隨之起、載穆東南行。穆兩手附兩頰、馬行四十里、穆麾下散卒十餘人群行、亦便路求穆。見之、扶寄村舍。其地去賊界四十餘里、眾心惱懼。遂載還昊軍。軍城尋爲賊所圍。穆於城中養病、二百餘日方愈、繞頸有肉如指、頭竟小偏。旻以穆名家子、兼身殉王事。差攝南陽令。尋奏葉令。餘、遷臨汝令。秩滿、攝棗陽令。卒於官。

   *

原文を見る限り、彼はその後も存えて官職を歴任している。]

 この話は戰場插話の一つで、斬られた首が全く身を離れず、不思議に命を取り止めたといふのであるが、奇談の種には困らぬ支那の事だから、失つた脚を取り戾す話もある。これは戰爭で脚を切られたわけではない。急病で亡くなつたのである。ところが愈々亡くなつて見ると、本人の命數がまだ盡きて居らぬ。もう一度娑婆へ還さなければならぬ段になつて、本人は脚が痛くて步けないと云ひ出した。冥官の間にもいろいろ評議が行はれたが、命數の盡きぬ者を呼び寄せたのは冥官の手落である。何とか臨機の處置を講ずることになつて、かういふ意見が提出された。たまたま新たに亡くなつた胡人があり、この者の脚は甚だ達者だから、これと取り換へたらよからうといふのである。誤つて亡くなつた男はこれを聞いて逡巡せざるを得なかつた。醜い胡人の身體の中で、最も醜いのが脚だから、それを身に著けて蘇るのは甚だ困る。倂し脚を取り換へなければ、お前はいつまでもこゝにゐなければならぬぞと云はれると、飽くまで強情を張り通すこともならず、たうとう足の取り換へを承認して、豁然復活した。人一倍綺麗好きなこの男は、生き返つた自分の脚を見る每に、殆ど死にさうな氣持になる。更に困つたのは、一方の胡人の子がこの男の脚を慕ふことで、道で出逢つたりする每に、必ず泣いて脚に抱き付いて來る。この難を免れるために、門には番人を置いて胡子の來るのを防ぎ、三伏の盛暑と雖も、衣を重ねて脚を現さぬやうにしなければならなかつた。

[やぶちゃん注:「胡人」中国人が北方や西域の諸民族を広く指して言った呼称で蔑称でもあった。唐代でも主として西域人を指したが、北方民族の意も存続した。前者の場合は東トルキスタンの住民の他、ペルシアやインド方面の民族、逆にソグド人だけを称することもあった。乾燥地帯で食に乏しく、日差しも強い地方であるから、彼らの足は日焼けして焼け、しかも骨張っていたものかとも想像され、それをここでは足が最も醜いと言っているのであろう。

「三伏」「さんぷく」と読み、陰陽五行説に基づく選日(せんじつ:暦注の一つ)で初伏(しょふく)・中伏(ちゅうふく)・末伏(まっぷく)の総称。通常は現行の七月中旬から八月上旬の酷暑の頃に合致することから、現在でも「三伏の候」「三伏の猛暑」など、酷暑を表わす言葉として用いられる。

 これは前の「太平廣記 卷第三百七十六 再生二」の「王穆」の六条後に出る「士人甲(易形再生)」で、原典は「幽冥錄」と注する。

   *

晉元帝世、有甲者、衣冠族姓、暴病亡、見人將上天、詣司命、司命更推校、算歷未盡、不應枉召。主者發遣令還。甲尤痛、不能行、無緣得歸。主者數人共愁、相謂曰、「甲若卒以痛不能歸、我等坐枉人之罪。」。遂相率具白司命。司命思之良久、曰、「適新召胡人康乙者、在西門外。此人當遂死、其甚健、易之、彼此無損。主者承教出、將易之。胡形體甚醜、殊可惡、甲終不肯。」。主者曰、「君若不易、便長決留此耳。」。不獲已、遂聽之。主者令二並閉目、倏忽、二人已各易矣。仍卽遣之、豁然復生、具爲家人説。發視、果是胡、叢毛連結、且胡臭。甲本士、愛玩手足。而忽得此、了不欲見。雖獲更活、每惆悵、殆欲如死。旁人見識此胡者、死猶未殯、家近在茄子浦。甲親往視胡屍。果見其著胡體。正當殯斂。對之泣。胡兒並有至性。每節朔。兒並悲思。馳往、抱甲。忽行路相逢、便攀援啼哭。爲此每出入時、恒令人守門、以防鬍子。終身憎穢、未曾視。雖三伏盛署、必復重衣、無暫露也。

   *

父の足を慕う胡人の少年が哀しい

 首と脚とを具へた二つの話は、「再生記」の終りに出てゐる。記憶のいゝ人ならば、以上の筋書を讃んだだけで、芥川龍之介の小説を想起するであらう。「首が落ちた話」の何小二は、日淸戰役に出て高梁の畑で遭遇した日本騎兵のために首を斬られる。彼は疵を負つたまゝ馬に搖られて行くうちに、川楊の生えた水際の泥の上に投げ出された。こゝで何小二に竈の黃いろい炎だの、母親の裙子(くんし)だの、磨い胡麻畑だの、大きな龍燈だの、纏足(てんそく)した女の足だの、種々の幻影を見させるのは、小説の主人公らしく仕立てるための作者の用意と思はれる。何小二の首は王穆のやうに落ちたわけではなかつたが、戰後理髮店の主人となつてから、人と喧嘩した際に古疵が破れ、咽喉の皮一枚を殘して床の上にころがり落ちた。「首が落ちた話」の主題はこれである。いくら支那が舞臺であるにしろ、明治の事柄になつてゐる以上、唐時代の話をそつくり嵌め込むわけには往かない。

[やぶちゃん注:「何小二」「かせうじ(かしょうじ)」。

「川楊」(かはやなぎ)は双子葉植物綱ヤナギ目ヤナギ科ヤナギ属のネコヤナギ Salix gracilistyla のこと。

「裙子(くんし)」中国で女性が腰から下に着ける衣。裳(も)・裳裾(もすそ)のこと。

「龍燈」燈夜(元宵(上元)節(陰暦正月一五日の夜)に行われる祭りでは、各家の門前に灯籠を飾って祝うが、その時、街中を練り歩く竹製の一際、大きな灯籠として「首が落ちた話」に描出されてある。以下のリンク先の原文を参照されたい。

 芥川龍之介の「首が落ちた話」は大正七(一九一八)年一月発行の『新潮』に掲載されたもの。エンディングの首が再度落ちるのは、明治二八(一八九五)年四月十七日に下関で行われた日清戦争後の日清講和条約の締結され、その『一年ばかりたつた、ある早春』のこと、とする。私の古い電子テクストでお読み戴きたい。但し、芥川龍之介がインスパイアした原話は、現行では清の蒲松齢の「聊齋志異」の「第三卷第二十二」の「諸城某甲」であるとされる。以下に示しておく。

   *

學師孫景夏先生言、其邑中某甲者、値流寇亂、被殺、首墮胸前。寇退、家人得尸、將舁瘞之、聞其氣縷縷然。審視之、咽不斷者盈指。遂扶其頭、荷之以歸。經一晝夜、始呻、以匕箸稍稍哺飲食、半年竟愈。又十餘年、與二三人聚談、或作一解頤語、衆爲鬨堂、甲亦鼓掌。一俯仰間、刀痕暴裂、頭流、共視之、氣已絶矣。父訟笑者、衆斂金賂之、又葬甲、乃解。

異史氏曰、一笑頭落、此千古第一大笑也。頸連一綫而不死、直待十年後、成一笑獄、豈非二三鄰人、負債前生者耶。

   *

「流寇」は匪賊のこと。蒲原有明の「『聊斎志異』より」明治三八(一九〇五)年『新古文林』初出)に訓読が出るので、「青空文庫」の新字新仮名版のを参考されたい。但し、伝本が異なるらしく、上記の文章そのままの訓読とはなっていない。

 なお、「首が落ちた話」は、柴田がのたまうような、切断された首が元に戻ったものの、その癒着部がまた奇体にも破裂して落ちて死んだ、という怪異を語るところなんぞに「主題」があるのではなお。何小二という市井の中国の民の一箇の生死の無惨さをシンボリックに描いた、芥川龍之介の反戦小説の走りとして評価すべきものである、と私は思う。私は何小二の走馬燈のようなシークエンスがすこぶる好きで哀しいのである。

 もう一つの小説は「馬の脚」である。主人公は忍野半三郎といふ三菱會社員で、腦溢血のために頓死したところ、これは人違ひであつた。もう一度送り返さなければならぬが、半三郎の脚は已に腐つてゐる。取り換へるべき人間の脚がないため、馬の脚が代用を勤めることになり、半三郎は頻りに拒んだけれど、本人の意志は毫も認められぬ。蘇生後の彼が「再生記」以上の悲劇に陷つたのは云ふまでもない。彼は一たび失踪し、その後細君の許にちよつと姿を見せたきりで、永久にわからなくなつた。作者は半三郎の日記を出したり、新聞記事を使つたり、いろいろ苦心をしてゐるが、第一革命以後の支那にこんな趣向を持ち出すのが最初から無理である。唐時代の話なら、命數未だ盡きずで納まるところを、入違ひの死者を迭り返すのは更に無理である。人の脚に繼ぐに馬の脚を以てするのは、胡人の脚を用ゐるのと同日の談ではない。

[やぶちゃん注:「忍野半三郎」「おしのはんざぶらう」。]

 作者が「首が落ちた話」を發表したのは大正六年十二月であつた。「馬の脚」は大正十四年一月である。前者を草した當時「再生記」は見てゐる筈なのに、約十年も後者を持ち出さなかつたのを見れば、この題材を現代の舞臺に使ふ無理を夙に感じてゐたものであらう。

[やぶちゃん注:『作者が「首が落ちた話」を發表したのは大正六年十二月』既に記した通り、クレジット上は翌年一月一日(発行)である。

『「馬の脚」は大正十四年一月』同作は大正一五(一九二六)年一月及び二月号の『新潮』への二回分割連載であるから、明らかに柴田の誤認である。新字新仮名であるが、「青空文庫」ので読める。

「約十年」誤認に加えて「数え」の年数としてもおかしい(それでも「九年」である)。事実上の発表スパンは八年ほどである。

「この題材を現代の舞臺に使ふ無理を夙に感じてゐたものであらう」本作は確かに全体は「士人甲」に依拠し乍らも、実際にはゴーゴリの「鼻」を意識的にインスパイアした寓話小説としてとるべきであって、これもまた怪奇は額縁であって柴田の読みは浅いと言わざるを得ない。

 

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