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2017/04/13

柴田宵曲 續妖異博物館 「診療綺譚」

 

 診療綺譚

 

 醫者は職業上、賴まれればどんな家でも往診しなければならぬ。市中の町家にしたところで、どんな病人が待ち構へて居らぬとも限らぬが、全然不案内の土地とか、山中の孤屋とかいふことになると、職業の場慣れから深く意に介せぬにしても、若干の不安を免れぬであらう。

 若田道角といふ外科醫があつた。或晩一僕も連れずに庚申(かうしん)參りをして歸つて來ると、向うから空駕籠を擔いで來た者が、何でも若田道角とさへ尋ねれば間違ひあるまい、と話しながらすれ違つた。道角はそれがしである、いづ方よりの御使かと尋ねたところ、黑雲町浮田屋松右衞門方に急病人があるさうで、迎ひの駕籠だとわかつた。さういふ家はおぼえぬが、失念したかも知れず、醫者の事で聞き傳へで賴みに來る例がないでもないから、そのまゝ駕籠に乘つて患家に赴いた。怪我人が三人ほどあり、塗り藥も飮み藥も餘分に貰ひたいといふ話なので、また駕籠で送られて歸り、その者に藥を渡すと、間もなくしらしら明けになつた。つくづく考へて見るのに、大雨の晩で眞暗ではあつたが、駕籠に搖られた距離は十四五町かと思はれる外、方角その他はさつぱりわからぬ。その後三日たつても何も云つて來ないから、黑雲町澤田屋といふのを尋ねさせたけれど、黑雲町といふところもなければ、澤田屋といふ家もないことが明かになつた。

 たまたまその時、手負ひの治療仕りたる外科醫あらば申し出でよ、といふ御觸れがあつたので、道角は早速言上に及ぶ。指圖を受けずに手負ひの療治を致し、その病家も覺えぬ段々不屆であると叱られた上、何か心覺えになる事はないかと尋ねられた。釣鐘の音が近く聞えた事、琴三味線尺八の音がした事、瀧の音が間近に聞えた事などは證據にならなかつたが、石橋の獅子の笛の音といふことが詮議の種になつた。石橋(しやつきやう)の笛の許しを得た者を吟味し、笛吹き甚四郎なる者の北鄰りの裏座敷を、月切りに貸したところに手負ひの忍んでゐるのを捕へた。この者どもは高家方(かうけがた)へ盜賊に押し入り、見付かつて斬り立てられた者であつた(本朝藤陰比事)。

[やぶちゃん注:「十四五町」一キロ五百メートル強から一キロ六百メートル強。

「石橋(しやつきやう)の獅子の笛」「石橋」(しゃっきょう)は能作品の一つ。獅子口(獅子の顔をした能面)をつけた後ジテの豪壮な舞いが見物で、囃子方の緊迫感と迫力を兼ね備えた秘曲が聞き物とされるから、往古は特別な場合以外では演ずることが許されていなかったのであろう。始まりの「名乗リ笛」や「獅子」登場の冒頭の激しく笛が吹かれて始まる「乱序」(緩急独特な序の音楽)等、調べる限りでも、この曲での笛は特別なものらしい。私は不学にして見たことがないが。

「本朝藤陰比事」は作者も刊年も未詳の「近世文芸叢書」所収のもので井原西鶴の名著「本朝櫻陰比事」とは全くの別物。「櫻」ではなく「藤」! 所持しないので原話は提示出来ない。正直、「本朝陰比事」とばかり思い込んでしまい、半時ばかり、所持する西鶴のそれを縦覧して時間を無駄にしてしまった! クソったれガ!]

「關田耕筆」に出てゐる話は、これほど手數がかゝつてゐない。京都の名醫のところへ夜更けて來診を乞うた者があり、前から識つてゐる患家の名を云つたので、うつかりその駕籠に乘つたところ、忽ち周圍から何かでつゝんで、どことも知らず舁いて行つた。駕籠から出されて見ると、どうやら山深いところらしく思はれるのに、不似合ひな大きな家である。名醫はこゝで主人らしい者の金創(きりきず)に手當を加へ、藥を與へ、多額の謝禮を受け、前の通りの駕籠で送り返されたが、山中の大きな構へと云ひ、一癖ある主人の面魂と云ひ、治療した金創の模樣から考へても、いかさま賊の隱れ家としか思はれぬ。多額の禮を貰つたからと云つて、このまゝには濟まされぬから、板倉所司代の許へ訴へ出た。この話も容易に手懸りが得られなかつたが、佛法僧と鳴く鳥の聲が聞えたといふのが有力なポイントであつた。佛法僧が鳴いてゐたならば、それは必ず松尾(まつのを)であらう、「松尾の峯靜かなる曙にあふぎて聞けば佛法僧鳴く」といふ古歌があつた筈だと、直ちに松尾山中を探索させ、賊の首領の潛んでゐるのを發見した。――佛法僧の聲をしるべに、古歌を證として賊寨を突き止めるなどは、前の話より遙かに風流である。闇に乘じ駕籠をつゝんで人の目を晦まさうとしても、より大きな自然はどうすることも出來ない。診療綺譚の中で最も詩趣に富んでゐると同時に、佛法僧に關するエピソードの最も興味あるものと云へるであらう。

[やぶちゃん注:「松尾(まつのを)」「松尾山」話柄のロケーションからして、現在の京都府京都市西京区嵐山宮町にある松尾(まつのお/まつお)大社の御神体とされる背後の山であろう。

「佛法僧」ここは〈声の仏法僧〉であるから、真正、〈姿の仏法僧〉のブッポウソウ目ブッポウソウ科 Eurystomus 属ブッポウソウ Eurystomus orientalis ではなく、鳥綱フクロウ目フクロウ科コノハズク属コノハズク Otus scops である。

「板倉所司代」話柄からして、明裁きで知られた板倉勝重(天文一四(一五四五)年~寛永元(一六二四)年)であろう。

「松尾の峯靜かなる曙にあふぎて聞けば佛法僧鳴く」鎌倉中期の歌人藤原(葉室)光俊(建尋三(一二〇三)年~建治二(一二七六)年:正四位下・右衛門権佐・右大弁。第六代将軍宗尊親王の師として鎌倉歌壇に重きを成し、中央歌壇にも影響力を持ったが、親王の失脚に伴い、勢いを失った)の「新撰六帖題和歌」(寛元二(一二四四)年成立。藤原家良・為家・知家・信実・光俊による題詠と相互加点の歌集)第六に載る。

「賊寨」(ぞくさい)は盗賊が根城としている山寨(さんさい:山城(やまじろ))のこと。

 以上は「関田耕筆」の「卷之三 物之部」の以下の最後の箇所。全文を示すが、注は「慈悲心鳥」以外は附さぬ(但し、私は他が総て分かっているわけではない)。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。柱の「○」は除去した。【 】は原本の割注。

   *

慈悲心鳥といふものは、下野の黒髮山にあり。【日光山なり。此鳥の形状鶴のごとく、羽は鼠色にして尾長く、足と嘴(クチバシ)は黑し。聲勝れて高く、夏の氣候に入ば、晝夜ともに啼と、百井塘雨筆記にしるせり。此人は、足跡天下に周き人なり。】さるに其宮に仕まつる鵜川氏、はからず比えの山にても聞つけしと語られしかば、栢原瓦全なる人、彼ますほの薄をとひにまうでし登蓮法師が昔にならひて、やがてふりはへて、比えにのぼりしに、比は水無月計、唯老の鶯、駒鳥などの聲のみなりしかば、口をしながら講堂ども拜みめぐり、暑さに汗あへてこうじたれば、よしや今はとて下りしに、水呑みと云人舍のほどにて、ほのかに聞つけたり。あはやと心をしづめ、耳を燈すに、十聲計淸らに鳴つゞけたる、うれしさいはんかたなかりしといへり。はじめ修學院にて或僧をいざなひし時、「慈悲心となくてふ鳥を尋ねゆく道しるべせよ法の衣手。とよめりし、因に、人々にも歌勸めぬとかや。おのれもこはれて、慈悲心と鳴聲きけば鳥にだにしかぬわが身のはづかしき哉。とよみておくりぬ。比えに詣る人は、心にかくべきことぞ。又佛法僧といふ鳥も、同じく鳴聲につきて名付たる類なり。高野山に名高きは、大師の性靈集に見えしが本なり。後夜聞佛法僧鳥と題せられて、寒林獨座草堂曉。三寶之名聞二。一鳥有ㇾ聲人有ㇾ心。聲心雲水俱了々。玉串正視云、此詩を梅村載筆といふものに評して、性靈集中此詩尤好なり。またいはく、高野山にあり。下野國日光山にも有と、藤原敦光の書る緣起にみえたりと記せるとぞ。又高野山通念集に、佛法僧の鳥のことは、靈窟の閑林の内にて、曉がた一夏の間啼となり。雄(ヲ)、佛法となけば、雌(メ)、僧と聲をあはすなりと見ゆとかや。此二書は、いまだみねども、他の説による。又古歌にもよめり。「吾國はみのりのみちの廣ければ鳥も唱ふる佛法憎かな。また「うきことをきかぬ大山の鳥だにも鳴ねはたつなみつのみのりに。また此ごろ或人の筆記を見れば、靈元法皇の御製御集に有とかや。御詞書、佛法僧の巣をつくりたるを見て、「聲をきゝ姿をいつのよにかみん佛法僧のありし梢に、此巣はいとめづらし。いづこより採(トリ)きて、叡覽に入けるにや。京ちかくにては、松尾によめり。是につきて一話あり。近古に京師に名ある醫師を夜更て迎ふる者あり。かねて相識人の名をいひたれば、速に輿に乘しを、頓て物にて押つゝみ、數人圍ていづこともしらず勾引(カドハ)し行ぬ。さていと山深き所の大なる家の内に昇(カキ)いれ、家あるじとおぼしき者の金瘡を療ぜしめ、藥をこひて後、あつく謝物をあたへ、また先のごとくかこみてかへしたり。いかさまにも賊(ゾク)の隱れたる所とおぼしく、ものをも得たる からに、默してはあられず、官に訟(ウタヘ)たれば、時の京兆戸板倉侯、其所のさまを尋給へども、東西をもわきまふる所なかりし旨、上の件をのべけるが、唯一めづらしとおぼえしは、佛法僧と鳴鳥有しとまうす。侯さては松尾成べし。松尾に此鳥をよめる古歌ありとて、速に吏をつかほして、彼山深くもとめさせ給ひしかば、はたして賊の首領居りしとなり。これは新六帖に、光俊、「松尾の峰靜なる曙にあふぎて聞は佛法僧啼。といふ歌なるべし。今は彼山にて聞たるといふ人なし。絶たるにや。又下野那須の雲巖寺に、此鳥あり。及び慈悲心鳥もありと、播磨玉拙法師話せり。

   *

「慈悲心鳥」カッコウ目カッコウ科カッコウ属ジュウイチ Cuculus fugax の別名。

 併しこの種の類話は、なほいくつ擧げ得るにせよ、所詮推理小説の世界を脱するわけには往かぬ。「アラビアン・ナイト」のアリ・ババの話の中に、四つに切斷された屍體を縫ふ事がある。事は絶對祕密に行はれなければならぬが、とても素人の手に合はぬので、見知らぬ裁縫師に金貨を握らせ、目隱しをして連れて來る。さうして眞暗な部屋に連れ込んで、屍體と共に經帷子のやうなものを縫はせると、またもとの通り目隱しをして、どこだかわからぬやうに連れ歸つてしまふ。アリ・ババの家を突き止めようとする山賊の一人が、偶然この裁縫師の店に立ち寄つた結果、裁縫師はまた目隱しをして、勘に任せて先日の道を辿ることになり、遂にあやまたずその家を尋ね當てるといふのが一つの山になつてゐる。

[やぶちゃん注:ウィキの「アリババと40人の盗賊」によれば、「開け! ゴマ」の符牒を知って盗賊たちの秘匿していた洞穴の中の金貨を奪い取って『大金持ちになったアリババは、このことを妻以外の者には秘密にしていたが、不運にも元から金持ちの兄・カシムに知られてしまった。強欲でねたみ深い性格のカシムは、金貨を手に入れた経緯と洞穴の扉を開けるための呪文をアリババから無理やり聞き出し、自分も財宝を狙って洞穴に忍び込んだ。ところが、洞穴の中の財宝に夢中になり過ぎて、扉を再び開ける呪文を忘れてしまい、洞穴から出られなくなったところを、戻って来た盗賊たちに見付かり、カシムはバラバラに切り刻まれて惨殺されてしまった』。『カシムがいつまでも帰って来ないのを心配したアリババは、翌日になって洞穴へ向かい、盗賊たちの手でバラバラにされたカシムの死体を発見した。驚いたアリババは、カシムの死体を袋に入れ、ロバの背中に乗せて密かに持ち帰り、カシムの家に仕えていた若くて聡明な女奴隷のモルジアナ』『と相談の末、遠くの町から仕立屋の老人』『を呼んで、死体を元通りの形に縫い合わせてもらい、表向きはカシムが病死したことにして、内密に葬儀をすませた。その後はカシムの家と財産もアリババの物になり、アリババはカシムの一人息子を養子にして、この上もなく恵まれた身分の男になった』。『一方、洞穴の中から金貨の袋と死体が持ち去られたことに気付いた盗賊たちは、死んだ男の他にも仲間がいると考えて、すぐに捜査を始め、死体を縫い合わせた老人を見付けて、情報を聞き出すことに成功した。そして、老人の協力でアリババの家(元・カシムの家)を見付けた盗賊たちは、頭領が』二十『頭のロバを連れた旅の油商人に変装し、ロバの背中に』二『つずつ積んだ油容器の中に』三十九『人の手下たちが隠れ』、『アリババの家に一夜の宿を求めて泊めてもらう作戦で家の中に入り込み、家の人々が寝静まるのを待ってアリババを殺そうと企てたが、庭に運び込まれた油容器の中身が盗賊たちと気付いたモルジアナは』、一『つだけ本物の油が入っている容器を探し当てると、急いでその油を台所へ運び込み、大鍋に入れて沸騰させ、煮えたぎった油を全ての容器に注ぎ込んで、中に隠れている盗賊たちを一人残らず殺した。そうとも知らず夜中に寝床から起き上がり、仕事に取りかかるために手下たちを呼ぼうとした頭領は、容器の中をのぞき込んで手下たちの全滅を知ると、驚いて単身アリババの家から逃げ去った』とある(下線やぶちゃん。以下の展開はリンク先をどうぞ)。]

 これなどは「アラビアン・ナイト」以外には滅多にありさうもない話で、事は愈々出でて奇であるが、推理の世界を出られぬことに變りはない。人の家には多少の祕密があつて、あまり外界の人に觸れられたくない傾向を持つて居り、診察のために内房深く出入する醫者は、觸れるつもりはなくても觸れる機會を生ずる。古來の診療譚の中にアリ・ババの話に共通するものがあるのはそのためなので、診療を乞ふ醫者に自家の正體を知られまいとして、わざと夜更けに賴みに行つたり、患家の名を僞つたり、駕籠を外からつゝんで道をわからないやうにしたり、いろいろ苦肉の策をめぐらすのであらう。――この邊で推理世界を離れて、妖異の門を潛らなければなるまい。

 佐渡相川の山中、二つ岩といふところに團三郎といふ狸が居つた。往古より住んでゐたといふけれども、狸の年だから委しいことはわからない。享保元文の頃、寺崎彌三郎といふ役人が、相川で狸を見付けて拔き打ちに斬らうとし、逃げるところを足を薙いだが、仕止めることは出來なかつた。然るにその晩、何の元忠とかいふ外科醫のところへ、急病人があると云つて、駕籠で迎ひに來た者がある。元忠も何氣なくその駕籠に乘つて行くと、やがて門長屋などのある堂々たる構へのうちへ舁き込まれた。その子が怪我をしたといふので、主人が出て丁寧に挨拶し、治療を乞うた上、厚く謝禮を贈つて返した。けれどもその後藥を取りに來ることもなし、もう一度見舞はうと思つても、その晩は慌しく駕籠で送迎されたので、どこの誰だかも明かでない。よほどたつてから、あれは團三郎狸の子であつたかも知れぬ、どうも人間らしい樣子でなかつた、と元忠が語つたといふのである(耳囊)。

[やぶちゃん注:以上は「耳囊 卷之三 佐州團三郎狸の事」である。団三郎が佐渡の妖狸(佐渡には狐はいない。生物学的にもそうであるが、伝承では妖術較べをして狐が負けて島を退散したとする。実際には狸もいなかったのであるがが、慶長六(一六〇一)年に佐渡奉行となった大久保石見守が、金山で使用する鞴(ふいご)の革素材にするため、タヌキを島へ移入したのが始まりとされる)の首魁なら、「耳囊」の作者根岸鎭衞は現実上の島の人間世界の元締樽佐渡奉行で、その在地勤務時代に現地で聞書きした確かな話である。但し、これよりも遙かに詳しいこの話の〈実録〉がある。私が電子化注を既に終わっている偏愛する、作者不詳乍ら、明らかに佐渡地役人による現地採取の怪談集「佐渡怪談藻鹽草」(安永七(一七七八)年成立。第十代将軍徳川家治の治世)の「窪田松慶療治に行(ゆく)事」で、これは医師の名さえ姓名ともに記している、怪談としては超一級のリアルな優れものである。しかも、驚くべきことにこの書の中では別カメラ、所謂、マルチ・カメラが回っており、それが「寺田何某怪異に逢ふ事」なのである! これこそ、その団三郎の息子が下役人寺田彌三郎に斬られる場面を別エピソード(別な独立章)として撮っているのである! こんな史上最高のリアル組怪談は滅多にあるものではないと言えよう。是非、お読みあれかし。なお、この「佐渡怪談藻鹽草」には他に団三郎絡みの「佐渡怪談藻鹽草 鶴子の三郎兵衞狸の行列を見し事」もある。]

 この話だけでは寺崎彌三郎に斬られた狸と、元忠の治療したのとが、完全に同一狸だといふところまでは往つてゐない。二つ岩らしいところだつたと云つても、はつきり突き止めたわけではなし、たまたま一方に斬られた狸の話があつたから、あれは團三郎の子狸かも知れぬといふ話を、あとから思ひ付いたものとも見られる。狸までが治療を乞ひに來たといふ事を以て、自家醫術の宣傳に使つたのだとすれば、どつちが人をたぶらかしてゐるのかわからないが、馬琴が「燕石雜志」に書いたのを見ると、少し話が違つてゐる。一夜知らぬ家から駕籠で迎ひを受け、治療を施すまでは大差ないけれども、この方は數日を經てちやんと禮に來た。しかも方金數百顆を盆に盛つて差出したので、醫者は大いに驚いた。僅か四五帖の藥に對してこんなにお禮を貰ふわけはない、自分も年頃こゝに住んでゐるから、大概な豪家は名前を知つてゐる、一體あなたは何人か、と尋ねると、相手は不可思議な微笑を洩らして、お疑ひは御尤もです、實は私は人間ではありません、二つ岩團三郎です、どうかこの金はお納め下さい、と云つた。

 團三郎ならば愈々貰ふわけに往かない、金銀は人間の重寶で、禽獸には無益のものである、然るにお前がこんなものを持ち合せてゐるところを見れば、きつと不良の財に相違ない、と云はれて、團三郎は辯解これ努めたが、醫者は賄賂でもはね付けるやうに頑として聞かぬので、その日は空しく歸つて行つた。さうして次の日には貞宗の短刀を持つて來て、これは祕藏の品ですが、お禮のしるしまでに差上げます、お蔭で病氣をなほしていたゞいたのに、禮をお受け下さらなくては甚だ心苦しい、と云つたかと思ふと、搔き消すやうに見えなくなつてしまつた。この消え方は一應狸らしくもあるが、考へて見れば辻褄の合はぬ點がある。騙すのは得意の先生が、自ら進んで二つ岩團三郎だと名乘るのも妙な話だし、海上遙かに空中樓閣を現じて越後の人を煙に捲くほどの團三郎が、藥禮を取つてくれぬと云つて苦にするなんぞは、柄にもないと云はざるを得ない。この間の曲折は、馬琴の筆にかゝつたせゐか、すべて繁文滑稽の嫌ひがある。夜中駕籠を飛ばして治療を乞うた後、杳然として一切の消息を明かにせぬ方が、どれだけ狸らしいか知れぬと思ふ。

[やぶちゃん注:「方金數百顆」「方金」は「はうきん(ほうきん)」で実際に流通していた当時の方形金貨のこと。二分金・一分金・一朱金などを指すが、ここは医師がその高額に驚愕していることから、一枚で一両の二分の一に当たった「二分金」と考えてよかろう。それが数百粒である(但し、一般には「顆」(クワ(カ))は「丸くて小さなもの」の数詞である)。

「四五帖」(「帖」は「ちやう(ちょう)」)金創(かなそう)であるから、薬物を塗った貼り薬で傷口を塞いだ。交換用の予備も含めて複数枚となる。

 以上は瀧澤馬琴の考証随筆「燕石雜志」(文化八(一八一一)年刊)の「卷之五上」の「(二)田之怪(たぬけ)」(この読みは「目次」のもの)である。かなり考証部が後に続くが、図もあって非常に興味深いので附図も併せて総てを引く。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。なお、そこで馬琴は(柴田は指摘していないが)「團三郎」を「彈三郎」と表記している。読みは一部に限った。【 】は原典の割注。カタカナ、ひらがなのルビの違いは底本のママ。ひらがなも踊り字を用いていることなどから、原典のルビの違いと推定される。踊り字「〱」「〲」は正字化した。注はごく一部とし、文中に挿し挟んだ。歴史的仮名遣の誤りは底本のママ(殆んどない)。一部の漢文脈の訓点に不審があるが、ママとした。太字は底本では傍点「ヽ」。

   *

 

  (二)田之怪(たのけ)

狸の異名を野猫(やびやう)といひ、猫の異名を家狸(かり)といふ。いにしへは狸を羪(かふ)て田の鼠を捕(とら)したれば、多奴幾(たぬき)は田怪(たのけ)又田猫(たねこ)ならん。和名鈔云。兼名宛(ケンメイエン)。狸【音釐(リ)和名太奴木。】搏ㇾ鳥爲(ナ)ㇾ粮(カテ)者也といへり。狐狸と對(つい)すれど、その妖は狐(きつね)より拙(つた)なし。且つ狐は稻荷の神の使者なりとて、神とし祭らるゝもあれど、狸はさる因(ちなみ)なければ、婦幼(をんなわらべ)にだも蔑(アナド)りいやしめらる。物に幸不幸あることみなかくのごとし。但(たゞ)彼(かれ)が第一番の高名は太平廣記に見えて、千歳(せんさい)の老狸(ふるたぬき)、書生に化(ばけ)て董仲舒(たうちうぢよ)[やぶちゃん注:前漢の儒学者(特に「春秋」考証に秀でた)で儒家思想を国家教学とすることを献策した人物。生没年は紀元前一七六年(?)から紀元前一〇四年(?)と推定される。]を試(こゝろみ)たるよしをいへり。これすら搜神記には、老狸を老狐(ふるきつね)とし、董仲野を張茂先(ちやうもせん)[やぶちゃん注:「博物志」を書いた政治家で文人としても優れていた三国時代から西晋にかけて生きた張華(二三二年~三〇〇年)の字。]なりとあれば、いとほいなきや。一休話説(いつきうはなし)といふものに、新右衞門親元(ちかもと)臨終のとき、阿彌陀如來紫雲に駕(のり)て影向(えうかう)ありけり。親元これを射るに狸なりしといへり。こほ親元にはあらず。宇治拾遺物語(第八卷十三張)に載(のり)たりし、愛宕(あたご)の山に年來(としごろ)行ふ法師ありき。普賢菩薩象に乘りて、夜な夜な見え給ひけり。その山の西のかたなる獵夫(かりひと)、この事を聞て潛(ひそか)に疑ひ、九月廿日の夜間に、彼の普賢菩薩を射たりしかば、ふりたる狸の化たるなりといふ物語を取(とり)て、獵夫を親元に作りかえ、普賢を阿彌陀にしたり。○佐渡國二ツ岩(或作ニツ山)といふ山中に、年來ひさしく棲む彈三郎といふ狸は頗る靈(れい)ありといふ。この老狸(ふるたぬき)むかしは人に金を貸(かし)けり。彼に借(か)らんと思ふものは、金の員數(いんず)[やぶちゃん注:必要とする数。]と返璧(へんへき)[やぶちゃん注:相手に謝意を表して借用した物を返すこと。]の日限を書つけ、これに名印(ないん)を押(おし)て穴のほとりにさしおき、詰(あけ)の朝亦ゆきて見るに、貸(かさ)んと思へばその金穴の口にあり。後(のち)には金を借(かる)ものあまたあるまゝに、返さゞるものも亦夥(あまた)ありしかぱ、遂に貸さずなりしとぞ。醫師(くすし)伯仙は佐渡の人なり。三世方伎(ほうぎ)[やぶちゃん注:「方伎」は狭義には陰陽道(おんみょうどう)に於いて総ての吉凶禍福を察知し、これに対処する呪術作法を指すが、ここは医療処方術の謂い。]によし。その父嘗て佐渡にありしとき、一夕隣里なる某甲急病ありとて、轎子(のりもの)を齎(もた)らし叮嚀(ねんごろ)に迎(むかへ)らる。しる人にはあらねども、辭するによしなくて、その家に赴き、湯藥(とうやく)膏藥を與(あたへ)て、亦送られて歸りつ。かくて四五日を經て、患人(やむひと)おこたり果(はて)たり[やぶちゃん注:「おこたる」(怠る)には実は「病気の勢いが弱まる・良くなる」の意があるから、それに「完全に」の意の「果つ」を合わせたもので、すっかりもう快癒した、の謂いである。]とて、みづから詣來(もうでき)てよろこびを述(のべ)、謝物(しやもつ)として萬金數百顆を盆に盛りてさし出しにければ、醫師大きに怪みてこれを受(うけ)ず。僅に四五貼(ちやう)の藥劑(くすり)を進らしたるに、かゝる謝物をうくべき事かは。われ年來(としごろ)こゝに住めば、豪家はその名をしらざるものなし。抑々(そもそも)足下は何人ぞと問(とへ)ば、件(くだん)の男うちほうえみて疑ほるゝも理(ことはり)なり。われは人間にあらず。ニツ岩の彈三郎なり。まげてこの金をおさめ給ひねといふに、醫師頭(かうべ)をうち掉(ふり)て、彈三郎ならばいよいよ受(うけ)がたし。金錢は人間日用の寶(たから)にして、禽獸の(きんじう)爲めに益(えき)なし。しかるに汝(なんぢ)甚だ富(とみ)たり。必ず不良の財(たから)なるべしといへば、彈三郎又いへらく、おのれが金は不正(ふせう)ののにあらず。或は兵火に係り、或ひは洪水によつて溝壑(こうがく)[やぶちゃん注:溝(みぞ)や溝(どぶ)や谷間。]に埋(うづも)がるものを拾ひあつめて、貧人(まづしきひと)を濟(すく)ふのみ。疑はずして受(うけ)給へと請(こひ)すゝむれども、醫師(くすし)固辭(いなみ)て受ざりしかば、その日はむなしく立歸り。次の日に短刀(のだち)一口(ひとふり)をもて來つ。これを醫師におくりていへらく、この刀は貞宗(さだむね)[やぶちゃん注:鎌倉末期の相模国の刀工。刀鍛冶の名工正宗の子或いは養子と伝えられ、相州伝の代表的刀匠である。但し、現存する在銘刀はない。]が釧(うち)たるものなれば、おのれ年來(としごろ)祕藏せり。國手(こくしゆ)[やぶちゃん注:国をさえ医する名手の意で名医。それより転じて医師を敬って言う。]の蔭(かげ)を蒙りて、疾病(やまひ)忽ちにおこたりぬるに、物受(ものうけ)給はぬは心くるしくこそ候へ、これをば受(うけ)おさめて、わが志を果さし給へかしといひつゝ、刀を主人のほとりに置(おき)、形(かたち)は消(きえ)てなかりけり。されば彼(かの)短刀(無銘)を伯仙につたへて家寶とせりといひ傳へたりとなん。みな是(これ)土俗の口碑に遺す昔物語にして、今は彼の老狸(ふるたぬき)を見たるものなしといへば、あるべきことならねど、童子の爲に記すのみ。是否はしらず。按ずるに越後名寄(卷の三十一)云く、寺泊(てらどまり)出雲崎の海邊にて、春夏秋の間(あひだ)、天(そら)はれたるゆふべ、海上遙に佐渡を眺望れば、二ツ山のかたにあたりて、雲にもあらず霞にもあらず、靑きに黑色(こくしよく)を帶(おび)たる氣のたちて、或は樓閣、或ひは城(ぜうくわく)、渡殿(わたどの)、廊下(ほそどの)、築𤗼(ついひぢ)、垣に至るまで、全備して見ゆ。海市蜃樓(かいししんろう)にはあらず。これは佐渡なる二ツ山に彈三郎といふ狸あり。かれが所爲(わざ)なりとぞ。時々(をりをり)これありといへり。佐渡には狐なく、狸と貉(むじな)はありて吹革(ふいご)の用をなせり。亦是造化不測(ふしぎ)の功なり。

 

Ikakesisenbeisi

 

人倫訓蒙圖彙

 

全七卷元祿三年庚午何月發行作者不ㇾ詳ナラ 畫は

蒔繪師源三郎といふものゝ筆なり書肆平樂寺梓

 

[やぶちゃん注:図の右側には上の枠入りキャプションが活字で組まれている。新字であること、編集権を侵すおそれがあることから、画像では除去し、改めてかく電子化した。あとの二行は底本では前の「人倫訓蒙圖彙」の下方に二行書きで記されてある。

 以下の一段落は底本では全体が一字下げ。

或人問ふ、子(し)が説この書の前卷に、元祿の年間(ころ)鍋鑄(なべゐ)かけといふもの、吹革(ふいご)をもたざりしよしをいへり。このころまでは世に吹革なかりし歟(か)、答て云、いな吹革のなきにはあらず、人倫訓蒙圖彙(じんりんきんもうづい)に載(のし)たりし鍛冶鑄物冶(かぢいもぢ)の圖を見れば、吹革あり。但(たゞ)鍋鑄かけは吹革をもたず。これむかしはよろづ質素なればなり。同書に仙袂燒(せんべいやき)の圖を出せしが、今鹽煎餅と唱(とな)ふる物のみなりしとおぼしくて、炮爐(ほいろ)をかけた

る燒鍋にて燒てをり。かゝれば形にて仙枚を燒ことは、元祿以後にはじまれるなるべし。因にその圖を摹(も)して[やぶちゃん注:写して。]こゝに出しつ。

佐渡に狐なければ狸貉(たぬきむじな)の人に憑(つく)ことあり。八丈島に狐狸貉なければ山猫(やまねこ)の人に憑ことありといふ。彼(かれ)を缺(かけ)ばこれをもて補ふ。物の患(うれひ)は造物者(ぞうぶつしや)も全く除(のぞ)きがたかるべし。○近き世の事なりし、鎌倉なる何がしの院の使僧なりとて、伊豆駿河の間(あはひ)を券緣(けえん)[やぶちゃん注:不詳。行脚して衆生に結縁する意か?]する僧ありけり。この僧畫(ゑ)をよくすとて、村夫山妻(そんぶさんさい)これを求(もとむ)るものおほかり、遂に沼津に至りて狗(いぬ)に嚼(かま)れて死す。人おどろきてかの屍を見るに、狸の僧に化(ばけ)たるなり。件の狸が畫きたりし鷹の畫を、沼津なる某甲(なにがし)が家に藏(おさ)む。これを見るに鷹の柿の實を銜(ついば)む圖なり。鷹は死すとも穗を銜(つま)ず[やぶちゃん注:鷹の肉食を指すの無論ない。気位の高い鷹はいかに空腹であっても人の丹精して作った稲穂を啄ばんだりはしない、という意味から、「節義を守る人は如何なる時にも不正な金品を受け取ったりはせぬ」の意で用いられる。「鷹は死すとも穂は摘まず」「鷹は死ぬれど穂を摘まぬ」などとも言う。]といふ事をしらで、烏(からす)に等しく思ひなしたりき。笑ふべし。されば狸はその妖(よう)の拙(つたな)くて狐に及ばず。狼(おほかみ)と穴を共にして、水かきはありながら神とし崇め祀らるゝによしなきこそうベなりけれ[やぶちゃん注:「水かき」タヌキは指の間に蹼(みずかき)状の部分はある。仏菩薩は衆生を洩れなく済度するために指に蹼があることからかく言ったのであろう。また老婆心乍ら、最後の箇所は「よしなき/こそ/うベ/なりけれ」である]。○日本紀 垂仁紀云。昔(サキ)丹波國桑田(クハタ)村有ㇾ人。名甕襲(ミカソ)。則甕襲(ミカソ)ㇾ犬。名足往(アユキ)。是(コ)ノ犬咋山獸牟士那(ウシナ)而殺(コロ)シツ之。則八尺瓊勾玉(ヤサカニノマガタマ)。因獻(タテマツ)レリ之。是(コ)玉今石上(イソノカミノ)神宮。[やぶちゃん注:「牟士那(ウシナ)」は貉(むじな)であろう。]かゝれば鮓荅(そとう[やぶちゃん注:「鮓」には「さ」と左ルビする。「鮓荅」とは牛・馬・豚・羊などの胆石や腸内の結石のことで、漢方では解毒剤とされ、後に出るように雨乞いの呪(まじな)いにも用いられた。「石糞」「馬の玉」「ヘイサラバサラ」等の異称を持つ。]は牛馬に限らず、六畜(ちく)[やぶちゃん注:「りくちく・ろくちく」と読み、馬・牛・羊・犬・猪 ・鶏。]にみなあり。貉(むじな)の玉はいとふりたれど、これも狐に奪はれて世俗はしらず。○山城の宇治なるぶ上林峯順(かんばやしほうじゆん)が家にて、鯛魚(たひ)を調理すとて腹を裂(さき)たるに、その魚の腹の中に八九寸周圍(まはり)なる圓石(ゑんせき)二ツありけるよし、中山三柳子が隨筆に見えたれば、鮓荅(さとう)は魚にもある歟[やぶちゃん注:この鯛の石は耳石であろう。]。人には石瘕(せきか)、癖石(へきせき)[やぶちゃん注:多様な結石疾患。]といふ病ありといへば、小説にむかし楚王の妃(つま)の産(うめ)りしといふ鐵(くろがね)の丸(まろかせ)[やぶちゃん注:「丸かせ」「塊」と書き、丸まった物体の意。これは奇形嚢腫(皮様嚢腫・成熟嚢胞性奇形腫)の類と思われる。]も、石瘕の類(たぐひ)と見るべし。凡そ六畜の玉を産(うむ)事、みなその病ひのいたす所なり。是をもて雨を禱(いの)れば應(しるし)あるよし、輟耕錄[やぶちゃん注:元末の一三六六年に書かれた陶宗儀の随筆。]卷の四に見ゆ。狗(いぬ)の産む玉を狗寶(くほう)といへば貉にもあるべし。【本草綱目卷の五十牛馬の下を考ふべし。】再び按ずるに、たぬきは田猫(たねこ)なるべし。に通ひ、にかよへり。廣雅(クワウガ)。狸(タヌキ)一種アリ。面(ツラ)クシテ而尾タリㇾ牛。故ヅク玉面(ギヨクメン)。又名ヅク牛尾。人家捕(トラ)ヘテ畜(カ)ヘバㇾ之。鼠皆帖伏(チヤウフク)シテ。不二復(マ)ㇾ穴矣。(廣古川學海)[やぶちゃん注:「廣雅」は三国時代の魏(二二〇年~二六五年)の張揖(ちょうゆう)によって編纂された辞典、で「爾雅」の増補版に相当する。「廣古川學海」「こうひやくせんがつかい」と読むか。恐らくは「百川學海」(ひゃくせんがっかい:宋代の叢書で左圭の編になる百七十七巻に及ぶ。画・詩文などについての随筆類を主として百余種の書を収めたもの。一二七三年成立)の別称か抄録であろう。]かゝれば唐山(もろこし)にて狸(たぬき)を野猫(やみやう)と異名すれど、この方には草野猫(のらねこ)といふものあれば、猫(り)[やぶちゃん注:ママ。「猫」は「ミヨウ・ビヨウ・ボウ」で「リ」の音はない。これは原典の「狸」の誤字ではあるまいか?]を田猫(たねこ)と訓(よま)し、音(こえ)をかよはしてたぬきといふ、田は田舍(でんしや)の義にて野といふにおなじ。

[やぶちゃん注:以下、底本では最後まで全体が一字下げ。]

因(ちなみ)にいふ、わが家嘗て一の黑猫兒(くろねこ)を畜(かひ)けり。この猫寛政七年乙卯[やぶちゃん注:一七九五年。]の十月十八日に同郷の商(あきびと)藤佐より獲(え)たり。(時に三歳)よく鼠を捕る。その名を野驢(やろ)と呼(よび)つ。文化二年乙丑[やぶちゃん注:一八〇五年。]の六月六日に老死せり。わが家にあること十一年、時に十三歳なり。犬猫は五七歳にて斃(たふ)るゝものなれど、稀には長壽のものもありけり。亦いぬる戊辰の年[やぶちゃん注:文化五年。]の五月に、該兒(がいじ)が畜(かひ)たりしきりぎりす、九月廿日に至りて死せり。よくやしなはゞなほ生(いく)べかりしに、女兒(むすめ)どもがいたく武火(ぶくわ)[やぶちゃん注:激しく燃える火。馬琴の娘たちは以下に見るように寒かろうと思うての仕儀であった。同年の「九月廿日」グレゴリオ暦で十一月八日であるからである。]にあてゝ餌(え)の乾(かはき)し故に死にき、八月上旬より籠に紙の掩(おひ)をして遠く火をもてあたゝめ、又快晴の時は日に曝し、夜は綿に包み、餌(え)はたうなす、梨子、柿をもてこれに餌(かひ)けり、五月中旬より六月の閏を經て七月九月と、凡そ六箇月なりし。よりて思ふに、人の養生もこの蛬(きりぎりす)のごとくせば、上壽を保(たもつ)にいたらず共、寒暑にやぶらるゝことなかるベし。

 
 兩巖圖説幷春日宗二郎傳

この書稿じ果(はて)たる頃、佐渡國雜太(さはたの)郡相川の人石井文吉、(平夏海[やぶちゃん注:石井文吉の雅号らしい。個人ブログ「北杜市ふるさと歴史文学資料館 山口素堂資料室」の武田武将 春日弾正忠 附「甲陽軍鑑」は佐渡で書かれた。を参照されたい。リンク先の内容は本章の最後と繋がっている。必見。]江戸に來てわが草廬を訪(とは)れしかば、彼二ツ岩なる老貍(ろうり)彈三郎が事、醫師(くすし)の奇談など、その虛實を問(とへ)ば、みな是古老のいひ傳(つたへ)たる處にして虛談にあらず。かゝる著述あるべしとは思ひかけねど、こだみ[やぶちゃん注:不詳。此度(このたび)か?]夏海(なつみ)が東都へまゐるによりて、みやこ人にかたりつがばやとて、九月十八日の朝まだきより、彼の二ツ岩へいゆきて、みづから圖したる一張(いつちやう)をもて來れり。もしその卷(まき)のをはりへ追加し給はらば幸(さひはひ)甚だしからんといふ。こゝにはからずもその圖を見る事の歡(よろこば)しければ、模寫してこれを載(のす)。此日(このひ)多門筆記(さはとひつき)(全部五卷)二册を得たり[やぶちゃん注:「多門筆記」は旗本多門重共(おかどしげとも 万治元(一六五八)年~享保八(一七二三)年の筆記録。彼は、かの赤穂事件に於いて浅野長矩の取り調べと切腹の副検死役を勤めており、その折りの長矩の様子をこの「多門筆記」に詳しく記していることで知られる人物である。]。その書に順德院の山陵(さんりやう)苔(こけ)梅(うめ)及(また)二見(ふたみ)の老梅(らうばい)、眞野山の古松(こせう)、船形(ふながた)の化石等種々(しゆじゆ)の異聞(いもん)多かり。又高坂(かうさか)彈正の姪(おい)春日(かすが)惣次郎當國へ漂泊し、竹田村太運寺において、甲陽軍鑑を書嗣(かきつ)ぎ、四十歳の春三月歿す。墳墓は太運寺羅漢堂の側(かたへ)にあり。伯父の彈正も渡海して新穗村に居住し、軍鑑を著述せしが備(そな)へずして死れり。その後(のち)高坂喜平次(彈正猶子)も相川山の内に漂泊して山稼(やまかせぎ)しつ。是を高坂間步といふ云云といへり、因に此に抄錄す。

 

[やぶちゃん注:以上は底本では本文の前の方に挿入されており、最初の「兩巖圖説幷春日宗二郎傳」の見出しは、右から左に以下の本文の上に大きなポイントで記されてある。以下の附図の追加に関わる添書きである。最後に出る「甲陽軍鑑」は甲斐国の戦国大名武田氏の戦略戦術法を記した軍学書で、本編二十巻・末書二巻。武田信玄・勝頼期の合戦記事を中心として軍法・刑法などを詳述する。ウィキの「甲陽軍鑑によれば、その『成立時期は武田家重臣が数多く戦死した長篠の戦いの直前にあたり』、当書の記載によれば、『信玄・勝頼期の武田家臣である春日虎綱(高坂昌信)が武田家の行く末を危惧し、虎綱の甥である春日惣次郎・春日家臣大蔵彦十郎らが虎綱の口述を書き継いだという体裁になっており、勝頼や跡部勝資、長坂光堅ら勝頼側近に対しての「諫言の書」として献本されたものであるとしている』。春日虎綱は天正六(一五七八)年に『死去するが、春日惣次郎は武田氏滅亡後』、天正十三年に『亡命先の佐渡島において死去するまで執筆を引き継いでいる。翌』『年にはこの原本を虎綱の部下であった「小幡下野守」が入手し』、『後補と署名を添えているが、この「小幡下野守」は武田氏滅亡後に上杉家に仕えた小幡光盛あるいはその実子であると考えられており、小幡家に伝来した原本が近世に刊行されたものであると考えられている』とある。]

 

Danzaburou1

Danzaburou2

 

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 さても非常に嬉しい注となった。私は実は、つい先月末(二〇一七年三月二十五日)、永年の念願であった団三郎の「二ツ岩神社」を訪れたばかりだからである。そのブログ記事「佐渡にて遂に田圃の中につがいの朱鷺を見るで私はこう書いた。『団三郎狸を祀ったとされる二ツ岩神社を訪ねた。籠り堂は近年の火災で焼け落ち、本堂(古えの山岳部の巨石信仰対象が団三郎の棲家と変換されて伝承されたのがよく判る)の屋根も潰れかけて、そのために今年の本祭の中止を告げる張り紙が淋しかった――かの妖狐に打ち勝ち、佐渡を妖狸単独の天下とした団三郎も現代では通力を失い、滅び行く運命にあるのか……』。団三郎! 君の瞳に乾杯!

「南方熊楠全集」に收められた柳田國男氏宛書簡(明治四十四年十一月十二日)によると、南方翁に醫者を賊寨に連れて行つて賊主の大症を治療せしめ、裁判官が佛法僧によつて山寨の所在をあてる話の系統を論じたものがあるらしい。遺憾ながらその文章を見て居らぬが、翁の説に從へばペルシアにも似た話があるさうだから、診療綺譚も愈々世界的になるわけである。

[やぶちゃん注:以上の南方熊楠の書簡中の当該部は手紙本文末尾の以下。所持する平凡社の南方熊楠選集別巻(一九八五年刊)より引く。なお、底本は新字新仮名への補正が加えられている。正字正仮名「全集」を所持せぬので、遺憾ながら、そのまま示した。

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 小生も貴下と同じく、今年は多事多忙のため、外国で出したる文は、「猫成金の話」のほかに、京伝、西鶴等の小説に見え候、医者を眼かくしせしめて賊寨につれゆき賊主の大疵を治療し、さてその宅へ帰すに、裁判官その医者を糾問して山寨に仏法僧が鳴きしという一事より推し、古歌を誦出してその山寨の所在を推し中て賊を捕えしという話、欧州にもペルンアにも似たものあり、その話の系統を論ぜしもの一つのみ。その他は片々たる十乃至二十、三十行の小文で、ほかに何も出し得ざりしは遺憾に候。出したきことはすこぶる多きに、近野村の一条のために今に延引致しおり候。まずは右御返事まで、早々以上

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この「近野村の一条」とは彼の住んでいた近くの旧西牟婁郡近野村にあった大杉伐採への熊楠の強力な反対運動のことと思われる(伐採されずに今に残る)。また底本にはこの「その話の系統を論ぜしもの一つ」について、底本編者が、『『ノーツ・エンド・キーリス』一九一一年六月三日号に発表された‘The Blindfolded Man : Japanese Variant’をさす。(『南方熊楠全集』第十巻所収)』と注をされており、柴田の未見のそれとは、この英文論文を指す。無論、「全集」を所持しない私も未見である。しかし、ここで熊楠が言う「ペルシアにも」あるという「似た話」というのは、先の「アラビアン・ナイト」のアリババの話と考えてよいように思われはする。“The Blindfolded Man : Japanese Variant”は訳すなら、「目隠し男――日本版ヴァリアント(異形譚)」である。]

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