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2017/04/29

南方熊楠 履歴書(その20) 哀れな奴とはどういう輩を言うか

 

 友人(只今九大の農芸部講師)田中長三郎氏は、先年小生を米国政府より傭いにきたとき、拙妻は神主の娘で肉食を好まず、肉食を強いると脳が悩み出すゆえ行き能わざりし時、田中氏が傭われ行きし。この人の言に、日本今日の生物学は徳川時代の本草字、物産学よりも質が劣る、と。これは強語(きょうご)のごときが実に真実語(しんじつご)に候。むかし、かかる学問をせし人はみな本心よりこれを好めり。しかるに、今のはこれをもって卒業また糊口(ここう)の方便とせんとのみ心がけ各ゆえ、おちついて実地を観察することに力(つと)めず、ただただ洋書を翻読して聞きかじり学問に誇るのみなり。それでは、何たる創見も実用も挙がらぬはずなり。御承知通り本邦の暖地に松葉蘭(まつばらん)と申すものあり。このものの胞子が発生して松葉蘭となるまでの順序分からず、その隣近の諸類、羊歯(しだ)、木賊(とくさ)、石松(ひかげ)等の発生順序はみな分かりおるに、この松葉蘭のみ分からぬなり。前年平瀬作五郎氏(七十四歳で今年一月四日死亡。この人は銀杏(いちょう)の授精作用を発見して世界を驚かしたるが学位なしで死なれし)に恩賜賞金を下されし時、小生と協同してその賞金をもって松葉蘭の発生順序の研究に尽瘁することとし、小生この宅に多く松葉蘭を栽(う)えて実地検証し、平瀬氏は京都におりて毎年当地へ下り来たり、小生の報告と生本を受けてもち帰り、もっぱら解剖鏡検することと定め、十四年の久しきに渉(わた)って研究せし結果、小生鰹(かつお)の煮汁(にじる)を地に捨てて生ぜる微細の菌を万年青(おもと)の根に繁殖せしめ、それに松葉蘭の胞子をまけば発生するということをつきとめたり。しかるに、吾輩が研究せんとする状態は毎度地中にあって行なわれ、新芽が地上に現わるるときは吾輩が知り明らめんとする状態はすでに失われおる。しかしながら、この植物が必ず発生するようその胞子をまく方法を知った上は、件(くだん)の状態を明らめうるは遠きことにあらざるべしと二人ますます協力奮発するうち、濠州の二学者が相期せずして、この松葉蘭の発生順序を発見し、エジンバラの学会に報告したりとのことを聞き出して、小生より平瀬に報じたるに、平瀬東大へ聞き合わせてその実事たるを知り、力を落として多年の研究を止めしは去る大正九年ごろのことなりし。小生はたとい濠州の二学者がそんな発見ありたりとも、小生が気づきし松葉蘭の胞子を発芽せしむる方法とは別箇の問題なれば(同一のこととするも発見の方法は別途なれば)今に屈せず研究を続けおれり。さて平瀬にこのことを報じたる某博士は、小生がこの田舎にありて今に屈せず研究を続けおるを愍然(びんぜん)なことと笑いおると聞けり。

[やぶちゃん注:「田中長三郎」既出既注。米国招聘の件についてもリンク先を参照されたい。因みに、ここでは南方熊楠は彼を「友人」と称しているが、南方植物研究所設立の挫折後、台北大学教授となって赴任したが(熊楠によれば左遷)、そこでの書簡による田中の要請や不誠実な態度に強い不満を持ち(熊楠によれば、田中は自身の起死回生のために、熊楠をダシにして日本本土にアメリカ式の自身のための植物研究所を設立しようとしていたのだとする)、後に菌類図譜出版の援助を申し出た田中に対しても、信頼感を失っており、申出に躊躇している様子が窺える(一九九三年講談社現代新書刊「南方熊楠を知る事典」の月川和雄氏の田中長三郎の解説に拠る。ここで言っておくと、サイト「南方熊楠資料研究会」内の「南方熊楠を知る事典」は同書の全電子化は成されていないので注意されたい。私は原本を所持している)。

「拙妻は神主の娘」南方松枝(戸籍上は「まつゑ」 明治一二(一八七九)年~昭和三〇(一九五五)年)。サイト「南方熊楠資料研究会」の「南方熊楠を知る事典」内のこちらのページの中瀬喜陽氏の彼女の解説によれば、『西牟婁郡田辺町(現田辺市)大字下屋敷町十一番地、田村宗造(当時、闘鶏神社宮司)と妻・里の四女に生まれた』。『熊楠の友人で田辺の医師喜多幅武三郎』(後掲されるので後注する)『が月下氷人となり、明治三十九年七月二十七日に熊楠と結婚の式を挙げた。式場は旧城郭・錦水城跡に開業した錦城館で、新郎側の親族は姉くま、弟常楠が出席、新婦の方も父は病気で出られず』、『姉妹が揃ってのつつましやかなものだった。この年、熊楠四十歳、松枝は二十八歳。在英時代から親交のあったディキンズからはダイヤに真珠をちりばめられた指輪が新婦に贈られた』。『翌四十年熊弥出生、同四十年文枝出生、と一男一女をもうけてから松枝の気苦労はひとかたではなかった。「小生多年粘菌学をする為に、その時は只今の家とかはり、至って狭き家(注=藤木別邸)にすみし故、六七歳の兄と二三歳の妹を偕なひ毎日炎天に海浜えムシロ一枚もちて妻がつれゆき、終日遊ばせ、夜は帰宅して炭部屋の内に臥したる也。やかましくては小生の鏡検に妨げある故也。」(上松蓊宛書簡、昭和三年三月十八日付)という有様で、子どもの泣き声はもちろん、夜なべ仕事に近所で米を研く、その音がやかましいから止めさせよと、その使いまでさせられるのだった。が、それよりもっと松枝が心を痛めたのは神社合祀に反対して一切の研究を放擲(ほうてき)、県吏、郡長、村長、神官など合祀を進める面々になりふりかまわず怒りをぶちまける熊楠であった。「小生大山神社のことを懸念し、第一着に、当地の郡長を大攻撃し其余波をもって、日高と東牟婁、有田の諸郡長を討たんとかかりしも、妻は、そのことを大事件で宛かも謀反如きことと心得、自分(妻の)兄弟妹等官公職にあるものに、大影響を及ぼすべしとて、子を捨てて里へ逃げ帰るべしと、なきさけび、それがため小生は六十日近く期会を失し、大に怒りて酒飲み、妻も斬るとて大騒ぎせしこともあるなり」(古田幸吉宛書簡 明治四十三年四月十二日付)の状態であった』。『この苦難の日々のことを松枝は忘れかね、後年(大正七年五月)神社合祀がようやく終息を迎えようとするときの熊楠の日記に、「朝早起、松枝を臥傍によび合祀一件本日十五日水野内相自ら合祀の非をいへり。然るに此事に付、予は殆ど九年を空費せる由をいひ、今後予の所行につき彼是(かれこれ)口入る可らざる由を語るに、大に叫びなき出す。下女と共にしばらくなだめ予は臥す」と出る。熊楠にとって、わたしは正義を貫いたのだ、どうだ、これを見ろ、といったところであろうが、松枝にとって、これによって蒙(こうむ)った精神的苦痛は熊楠の想像をはるかに超えるものがあったのである』。かの知られた昭和天皇への『「ご進講」という熊楠の一世一代の晴れ舞台とさわがれる出来事も、松枝にとっては、新たな苦の種が生まれたにすぎない。そこで「拙妻は永々子女の病気のためにヒステリ-を起こしおり、今回のご説明の、御召しの、といふ事をあまり喜ばず。これは従来かかる慶事ある毎に、後日小生が色々と紛議を生ずる男なるを知悉(ちしつ)し居り、御召しの事すみて後ち、又々誰が不都合なりとか、何が気に入らぬとかつぶやき罵る場合を見越して、その際妻が尤も迷惑するを予知すればなり。故にかかる御内沙汰を服部博士より承りしを絶項の面目として、御召しを辞退すべしと勧め居り候。」(毛利清雅宛書簡、昭和四年五月十四日付)と熊楠に迫ってもいるのである』。『母は小柄で温厚な性質であり、近所の子供達にも慕われ、世話好きであったが、どこかにぴりっとした芥子の味もあり“人の一生は、上を望めば限りもなく、下を見れば限りなし、いつもわが身の程を知れ”と諭され、我が儘は決して許されなかった。学者の女房には絹物は無用、かえって肩が凝る、とて、いつも糊のきいた質素な身なりで立ち働いていた。結婚当時は、父の研究室のまわりの乱雑さに、整理をしては、人の物に一切触れるな、と叱られ、庭掃除をしては、折角木の葉についた観察中の粘菌が消失したとて大に叱られ、毎日失敗の連続で途方に暮れたが、時を経るにつれ気むつかしい父の性質、癖を会得して、時には人形使いの役を、そして縁の下の力持ちを巧みに果たして、ひたすら学問一筋に生きる父の身辺に気を配り、いつも周囲の人たちや世間との交流に頭を悩ます様子がよく窺われた」(『父・南方熊楠を語る』南方文枝)』。『松枝のピリッとしたところは漢学者でもあった父のしつけであろう。熊楠はよく松江から聞いた話を自家薬籠中の物として「田辺聞書」などを成しているが』、『次の話もその一つ。「妻が申すには亡父(闘鶏社の最初の神官、漢学先生)に聞きしは、曹操亡命する途上、久闊なりし叔父呂奢(ろしや)方に泊まる。呂は何卒夜の中にうまきものをしたたかに食はせ朝ならぬうちに落としやらんと安眠を妨げぬ為地下室で豚を屠る用意をする。刀よ綱よとひしめく声に驚き、曹操地下室を伺ふと右様の用意故、これは自分と平生の疎縁なる叔父が吾を殺して官より懸賞を得んたくらみと合点し、飛び降りて呂の一家を惨殺し、扨点検すれば豚を縛りあり。扨は自分に親切なるあまり此禍にかかりしかと一生悔いしといふ」。父宗造は、娘にこういう故事を引いて諭(さと)しつつ』、『娘を育てていたのである。熊楠をよく知る喜多幅が見込んだ理由もわかる気がする』。『熊楠没後十年目、松枝の回想が『紀伊民報』に出ている』。『(熊楠は)酒を飲むことも研究で、舞が好きでよく人に誘われて見にいきました。日本音楽(三味、琴、舞)が好きで――。映画や芝居が嫌いで、誘われていったところ、お尻を芝居の方に向けていたというありさまで、芝居を見に行くんなら此の本を読んだらよいと、多屋長書店から四、五〇冊を四斗桶に運ばして私に読ましたりしました。金の方は全然むとんぢゃくで、トユ屋が来ても「私は知らぬ、家内にきけ」で、経済には苦労しました。汚いフスマを全部取り替えても気がつかぬという有様でした』。『夜通し研究を続けるので、朝起きるのは遅く、朝食抜き、トマト、バナナ、おつゆなどが好物でした。(昭和二十五年九月一日付)』『荒坂を越し了せた旅人の安らぎが感じられる談話である』とある。南方熊楠の妻については、あまり語られることが少ない。南方熊楠の後半生を支え続けた彼女についてはもっと知られるべきであると考え、特異的にほぼ全文を引用させて貰った。

「松葉蘭」シダ植物門 Pteridophyta マツバラン綱 Psilotopsidaマツバラン目 Psilotales マツバラン科 Psilotaceae マツバラン属 Psilotum マツバラン Psilotum nudum。「生きた化石」の頭種とされる。ウィキの「マツバランによれば、『マツバラン科では日本唯一の種である。日本中部以南に分布する』。『茎だけで葉も根ももたない。胞子体の地上部には茎しかなく、よく育ったものは』三〇センチメートル『ほどになる。茎は半ばから上の部分で何度か』二又に『分枝しする。分枝した細い枝は稜があり、あちこちに小さな突起が出ている。枝はややくねりながら上を向き、株によっては先端が同じ方向になびいたようになっているものもある。その姿から、別名をホウキランとも言う。先端部の分岐した枝の側面のあちこちに粒のような』胞子嚢をつける。胞子嚢(実際には胞子嚢群)は三つに『分かれており、熟すと黄色くなる』。『胞子体の地下部も地下茎だけで根はなく、あちこち枝分かれして、褐色の仮根(かこん)が毛のように一面にはえる。この地下茎には菌類が共生しており、一種の菌根のようなものである』。『地下や腐植の中で胞子が発芽して生じた配偶体には葉緑素がなく、胞子体の地下茎によく似た姿をしている。光合成の代わりに多くの陸上植物とアーバスキュラー菌根』(菌根の中で大多数の陸上植物の根にみられるもの。根の外部形態には大きな変化は起こらず、根の細胞内に侵入した菌糸が「樹枝状体」(arbuscule)、種によっては「嚢状体」(vesicle)とを形成する。根の外部には根外菌糸が纏わりついて周囲に胞子を形成することも多い。この菌根はかつては構造的特徴からVA菌根(Vesicular-Arbuscular Mycorrhiza)と呼ばれていたが、嚢状体は見られないこともあるので、現在ではアーバスキュラー菌根と呼ばれる)『共生を営むグロムス門』(Glomeromycota:菌界の門の一つで現在は約二百三十種が記載されている。陸上植物の胞子体の根(シダ植物や種子植物といった維管束植物)や配偶体(コケ植物やシダ植物)の大半と共生してアーバスキュラー菌根を形成し、リン酸の吸収を助けていることで知られる。一般的には陸上植物に栄養を依存する(偏性生体栄養性)と考えられているが、いくつかの種は植物と共生せずに生存出来る可能性も指摘されている。全世界の地中に生息し、陸上植物の八割以上と共生することが出来る)『の菌類と共生して栄養素をもらって成長し、一種の腐生植物として生活する。つまり他の植物の菌根共生系に寄生して地下で成長する。配偶体には造卵器と造精器が生じ、ここで形成された卵と精子が受精して光合成をする地上部を持つ胞子体が誕生する』。『日本では本州中部から以南に、海外では世界の熱帯に分布する』。『樹上や岩の上にはえる着生植物で、樹上にたまった腐植に根を広げて枝を立てていたり、岩の割れ目から枝を枝垂れさせたりといった姿で生育する。まれに、地上に生えることもある』。『日本ではその姿を珍しがって、栽培されてきた。特に変わりものについては、江戸時代から栽培の歴史があり、松葉蘭の名で、古典園芸植物の一つの分野として扱われる。柄物としては、枝に黄色や白の斑(ふ)が出るもの、形変わりとしては、枝先が一方にしだれて枝垂れ柳のようになるもの、枝が太くて短いものなどがある。特に形変わりでなくても採取の対象にされる場合がある。岩の隙間にはえるものを採取するために、岩を割ってしまう者さえいる。そのため、各地で大株が見られなくなっており、絶滅した地域や、絶滅が危惧されている地域もある』とある。個人ブログ「シンガポール熱帯植物だより+あるふぁ」の記事も画像が多数あり、必見。

「順序」「発生順序」発生の動機とそのステージの変化の連続した様態。発生機序。

「木賊」シダ植物門トクサ綱 Equisetopsidaトクサ目 Equisetalesトクサ科 Equisetaceaeトクサ属 Equisetumトクサ Equisetum hyemale。同種は、あの茎の先端に土筆(つくし)の頭部のような胞子葉群をつけ、ここで胞子を形成する。

「石松(ひかげ)」植物界ヒカゲノカズラ植物門 Lycopodiophytaヒカゲノカズラ綱 Lycopodiopsidaヒカゲノカズラ目 Lycopodialesヒカゲノカズラ科 Lycopodiaceaeヒカゲノカズラ属 Lycopodiumヒカゲノカズラ Lycopodium clavatum。広義のシダ植物であるが、見た目は巨大な苔の様相を呈する。ウィキの「ヒカゲノカズラによれば、『山野に自生する多年草で、カズラという名をもつが、つる状ながらも他の植物の上に這い上ることはなく、地表をはい回って生活している。針状の細い葉が茎に一面に生えているので、やたらに細長いブラシのような姿である』。『茎には主茎と側枝の区別がある。主茎は細長くて硬く、匍匐茎となって二又分枝しながら地表を這う。所々から根を出し、茎を地上に固定する。表面には一面に線形の葉が着いているが、葉はほぼ開出しているので、スギゴケ』(マゴケ植物門 Bryophytaスギゴケ綱 Polytrichopsidaスギゴケ目 Polytrichalesスギゴケ科 Polytrichaceaeスギゴケ属 Polytrichumスギゴケ Polytrichum juniperinum)『などのような感じになっている。側枝は短くて、数回枝分かれをし、その全体にやや密に葉をつける』。『夏頃に、胞子をつける。まず茎の所々から垂直に立ち上がる枝を出す。この茎は緑色で、表面には鱗片状になった葉が密着する。茎は高さ』五~一五センチメートル、『先端近くで数回分枝し、その先端に』胞子嚢穂をつけ、それは長さが二~一〇センチメートルで円柱形を呈する。胞子嚢を『抱えた鱗片状の胞子葉が密生したもので、直立し、やや薄い緑色』である、とある。

「平瀬作五郎」(安政三(一八五六)年~大正一四(一九二五)年一月四日)は植物学者。福井出身。ウィキの「平瀬作五郎によれば、福井藩中学校(現在の福井県立藤島高等学校)に入学、『油絵を学ぶ。卒業後、同校の中進業生図画教授助手を拝命』するが、明治六(一八七三)年に『油絵を学ぶために上京』、二年後には『東京での油絵留学から帰郷、岐阜県中学校図画教授方を拝命する』。明治二一(一八八八)年、『帝国大学理科大学』『植物学教室に画工として勤務』するようになり、二年後には『技手となる。主として図画を描いていたが、植物学に興味をいだき、明治二六(一八九三)年、『イチョウの研究を始める』。翌年一月に『最初の論文「ぎんなんノ受胎期ニ就テ」を』『植物學雜誌』に発表し、明治二十九年には『イチョウの精子を世界ではじめてプレパラートで確認した』。『平瀬作五郎によるイチョウの精子の』最初の『発見は、池野成一郎によるソテツの精子の発見に先立つ』明治二十七年一月であったとされており、『平瀬は、寄生虫かと思って当時助教授だった池野成一郎に見せたが、池野は一目見るなり「精子だ」と直感したという』。その後、明治二十九年九月九日に「花粉管端より躍然精蟲の遊動して活發に轉々突進する狀況を目擊」し、十月には「いてふノ精蟲に就テ」『という論文を発表している。これが世界で初めての裸子植物における精子の発見となり、池野成一郎によるソテツの精子の発見と合わせて、日本人による植物学への最も輝かしい貢献となった』。その後、一年して彼は『彦根中学へ転出し、一時は研究も断念、不幸な時期を体験している。しかし』明治四五・大正元(一九一二)年、『恩師ともいえる池野成一郎とともに、それぞれイチョウとソテツの精子の発見を高く評価されて、帝国学士院恩賜賞を授与された。ほとんど学歴のない平瀬に恩賜賞が授与される、というのは異例のことであった。もっともはじめは平瀬作五郎の授与は予定されていなかったらしく、「平瀬が貰わないのなら、私も断わる」と池野成一郎がいうので』、二人しての受賞となったという(下線やぶちゃん。ご覧の通り、彼の正規の最終学歴は福井藩中学校卒である)。『後半生は』京都の『花園中学校で教鞭をとった』。『平瀬作五郎が精子を発見したイチョウの木は、今でも東京都文京区白山にある東京大学理学部付属植物園の中に保存されている』とある。南方熊楠より十一年上

「生本」生体資料標本。

「万年青(おもと)」単子葉植物綱Liliopsidaユリ目 Lilialesユリ科 Liliaceaeオモト属Rohdea オモトRohdea japonica

「エジンバラの学会」エディンバラ植物学会。エディンバラ大学(University of Edinburgh)に置かれたものと思われる国際的な植物学会であろう。

「愍然(びんぜん)」可哀想なさま。憐れむべきさま。

 以下の二つの段落は底本では全体が二字下げ。]

 

 小生はそんな博士を愍然と冷笑するなり。身幸いに大学に奉職して、この田舎にあり万事不如意なる小生よりは早く外国にこの研究を遂げたる者あるの報に接したりとて、その人が何のえらきにあらず。言わば東京にある人が田辺にあるものよりは早く外国の政変を聞き得たというまでのことなり。小生外国にありしうちは、男のみかは婦女にして、宣教または研学のためにアフリカや濠州やニューギニアの内地、鉄を溶かすような熱き地に入つて、七年も入牢も世界の大勢はおろか生れ故郷よりの消息にだに通ぜず、さて不幸にして研究を遂げずに病んで帰国し、はなはだしきは獣に食われ疫(やまい)に犯されて死せしものを多く知れり。これらは、事、志と違い半途にして中止せしは愍然というべきが、決して笑うべきにあらず。同情の涙を捧ぐべきなり。

 

 御殿女中のごとく朋党結托して甲を乙が排し、丙がまた乙を陥るる、蕞爾(さいじ)たる東大などに百五十円や二百円の月給で巣を失わじと守るばかりがその能(のう)で、仕事といえば外国雑誌の抜き読み受け売りの外になき博士、教授などこそ真に万人の愍笑(びんしょう)の的なれ。件(くだん)の博士は学問が好きで子を何人持つか覚えぬ人の由、桀紂(けつちゅう)がその身を忘ると孟子は言ったが、自分の生んだ多くもあらぬ子の数を記臆せずなどいうも、また当世はやりの一種の宣伝か。

[やぶちゃん注:ここに出る似非科学者の好色博士の実名を南方熊楠が記さなかったのは、返す返すも惜しい!

「蕞爾(さいじ)」非常に小さいさま。]

 

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