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2017/04/24

南方熊楠 履歴書(その16) 帰国

 

 帰国して見れば、双親すでに下世して空しく卒塔婆(そとば)を留め、妹一人も死しおり、兄は破産して流浪する、別れしとき十歳なりし末弟は二十五歳になりおる。万事かわりはており、次弟常楠、不承不承に神戸へ迎えに来たり、小生の無銭に驚き(実は船中で只今海軍少将たる金田和三郎氏より五円ほど借りたるあるのみ)、また将来の書籍標品のおびただしきにあきれたり。しかして兄破産以後、常楠方(かた)はなはだ不如意なればとて、亡父が世話した和泉(いずみ)の谷川(たがわ)という海辺の、理智院という孤寺へ小生を寓せしめたり。しかるに、その寺の食客兼留守番に、もと和歌山の下士(かし)和佐某あり(この人今は大阪で自働車会社を営み、大成金で処女を破膜することをのみ楽しみとすと聞く)。これは和佐大八とて、貞享四年四月十六日京の三十三間堂で、一万三千の矢を射てそのうち八千三十三を通せし若者の後裔なるが、家禄奉還後零落(れいらく)してこの寺にいささかの縁あっておりたるなり。小生この人と話すに、和歌山の弟常楠方は追い追い繁盛なりという。兄の破産が崇って潰(つぶ)れたように聞くがというに、なかなか左様のことなし。店も倉も亡父の存日より大きく建て増せしという。不思議なことに思い、こんな寺はどうなってもよいから、貴公も和歌山に残せし八十歳以上の老母に逢いたかろう、予を案内して和歌山へ行かぬかというに、それは結構ということで、小生有りきり四円ばかりの紙幣をこの人に渡し、夜道一里ばかりあるきて停車場につき、切符を買わせ汽車に乗って三十分ばかりのうちに故郷に着きぬ。それより歩んで常楠の宅にゆくに、見しむかしよりは盛大の様子。これにて兄の破産につれて、弟の家道も大いに衰えたとは虚言で、全く小生の金銭のことに疎きにつけこみ、兄の破産を幸い、小生へ送金せず、小生の分を利用したことと察し申し候。当時、小生は堅固なる独身にて、弟はすでに妻もあれば二子もありし。人間妻を娶る時が兄弟も他人となるの始めと分かり申し候。

[やぶちゃん注:「帰国」前段で記した通り、南方熊楠の帰国は明治三三(一九〇〇)年十月十五日(神戸上陸)であった。

「下世」「げせい」と読んでおく。

「妹一人も死しおり」熊楠より五歳下の妹であった南方藤枝(南方熊楠表記「ふじえ」/戸籍表記「ふじゑ」 明治五(一八七二)年~明治二〇(一八八七)年)のことと思われる。サイト「南方熊楠資料研究会」の「南方熊楠を知る事典」内のこちらのページの中瀬喜陽氏の南方藤枝の項によれば、『病弱であったことは母すみの日記等でうかがわれるが、熊楠の渡米の翌年九月五日、十六歳で死去した。妹の死を知ってほどなく』、『熊楠は植物採集中のアンナーバーの深林で大吹雪に遭遇した。その時、生後四十日ほどの子猫が現われ』、『足許で鳴いた。熊楠はこの小猫があるいは死んだ妹の生れ変わりかと思うと』不憫になり、『吹雪の中を抱えて走った。ようやく羊の放たれてある柵に来て、子猫を放ったが、その猫は、柵に沿うて熊楠の後を追っていつまでも鳴いていたという。「これを今もあはれなことと思ひ居る」と熊楠は回想している』とある。霊感鋭き熊楠らしい、忘れ難い話である。

「南方常楠」(明治三(一八七〇)年~昭和二九(一九五四)年)は既注であるが、再掲しておく。熊楠より三つ下の弟。東京専門学校(現在の早稲田大学)卒業後、父弥右衛門とともに酒造業を始め、南方酒造(現在も続く清酒「世界一統」で、こちらの公式サイトの「沿革」を参照されたい)の基礎を作り、和歌山市議会議員なども務めた。先行するに出る実父弥右衛門の臨終の遺言も参照されたい。

「金田和三郎」不詳乍ら、ネット情報を見ると、戦艦設計学を学んだ海軍技術者でもあった。事実、南方熊楠の「十二支考」の「馬に関する民俗と伝説」(大正七(一九一八)年『太陽』連載)の中で、『ロンドンで浜口担氏と料理屋に食した時、給仕人持ち来た献立書を見て、分らぬなりに予が甘麪麭(スイートブレット)とある物を注文し、いよいよ持ち来た皿を見ると、麪麭(パン)らしく見えず、蒲鉾(かまぼこ)様に円く豆腐ごとく白浄な柔らかなもの故、これは麪麭でないと叱ると、いかにも麪麭でないが貴命通り甘麪麭(スイートブレット)だと言い張り、二、三度言い争う。亭主予(かね)て予の気短きを知れば、給仕人が聞き違うた体に言い做なし、皿を引き将(も)て去らんとするを気の毒がり、浜口氏が自分引き取りて食べ試みると奇妙に旨(うま)いとて、予に半分くれた。予食べて見るに味わい絶佳だから、間違いはその方の不調法ながら旨い物を食わせた段感賞すと減らず口利(き)いて逃げて来た。翌日近処で心安かったから亭主に会って、あれは全体何で拵(こしら)えたものかと問うと、牝牛の陰部だと答えた。しかるに字書どもには甘麪麭は牝牛の膵(すい)等の諸腺と出づれど、陰部と見えず。ところが帰朝のみぎり同乗した金田和三郎氏(海軍技師)も陰部と聞いたと話されたから、あるいは俗語郷語に陰部をもかく呼ぶのかと思えど、この田舎ではとても分らず、牛驢の陰具を明の宮中で賞翫(しょうがん)した話ついでに録して、西洋通諸君の高教を俟(ま)つ』と出る(下線やぶちゃん)。

「和泉(いずみ)の谷川(たがわ)という海辺の、理智院」現在の大阪府泉南(せんなん)郡岬町(みさきちょう)(当時は深日(ふけ)村)多奈川(たながわ)谷川(たにがわ)に現存する真言宗宝珠山光明寺理智院。天平五(七三三)年に行基により創建。(グーグル・マップ・データ)。公式サイトは

「和佐某」不詳。「大阪で自働車会社を営」んでいた「大成金」ならば判ろうという気もするが、どうも「処女を破膜することをのみ楽しみとす」というのでは、軽々に候補を示すわけにも行かぬので調べるのをやめた。

「和佐大八」江戸前期の紀州藩士で紀州竹林派の弓術家で、「通し矢の天下一」と讃えられた和佐範遠(のりとお 寛文三(一六六三)年~正徳三(一七一三)年)。ウィキの「和佐範遠によれば、『紀伊国和佐村禰宜(現在の和歌山県和歌山市和佐)に生まれた。父実延は、紀州竹林派の佐武源大夫吉全の弓術の弟子だった。範遠も紀州竹林派吉見台右衛門経武(法名:順正)』に師事、『弓術を学んだが、技量が優れていたので藩より稽古料を給された』という。貞享二(一六八五)年一一月、『父は借金で問題を起こし禄を召し上げられたが、範遠は許された』。貞享三(一六八六)年四月二十七日(南方熊楠は「貞享四年四月十六日」とするが、こちらの記載の方が詳細で正しい感じがする)、『京都三十三間堂で大矢数を試み、総矢数』一万三千五十三本の内、通し矢八千百三十三本で「天下一」となった。『この記録は以後破られることはなかった。だが、フェア・プレイの精神に欠けるところがあり、射る度に少しずつ前に進んだという』。範遠はこの記録達成の功績により、知行三百石に加増され、その後、貞享五(一六八八)年には紀州藩第三代藩主徳川綱教(つなのり)附きの射手役となり、二百石を加増されている。元禄八(一六九五)年には頭役並となっており、この間、元禄二(一六八九)年三月には師吉見順正から印可を得ている。しかし、理由は不明であるが(リンク元には書かれていない)、宝永六(一七〇九)年三月十三日に安藤陳武お預けとなり、田辺城に幽閉されてしまい、そのまま四年後、『失意のうちに、病に罹り』田辺城内で死去した(享年五十一)。但し、『遺跡は長男貞恒が継い』でおり、『和佐家は以降も代々藩の弓術師範役とな』って存続した、とある。その貞享三年四月二十七日に行われた『京都三十三間堂での大矢数』は、実に前日の『暮れ六つ』(午後六時頃)より開始されたが、翌日の朝辺りになって『調子が悪くなり』、『通し矢』の矢数『が少なくなった。そこに当時の天下一の記録保持者星野勘左衛門茂則が現れ、範遠の左手を小刀で切って』鬱血を治したところ、『調子を取り戻したという』とある。その末裔とはいえ、しかし、何とまあ、南方熊楠という男、どこにどんなになって居ようとも、傍には必ずトンデモない奴が一緒にいるもんだ!

「不思議なことに思い、こんな寺はどうなってもよいから、貴公も和歌山に残せし八十歳以上の老母に逢いたかろう、予を案内して和歌山へ行かぬかというに、それは結構ということで、小生有りきり四円ばかりの紙幣をこの人に渡し、夜道一里ばかりあるきて停車場につき、切符を買わせ汽車に乗って三十分ばかりのうちに故郷に着きぬ。それより歩んで常楠の宅にゆくに、見しむかしよりは盛大の様子」不審なのは、理智院と和歌山市街は直線で十キロも離れていないことで、何故、熊楠は独りではなく、和佐を誘ったものか? 日本一の大立者と呼ばれんとせんとする大志を抱いて飛び出したものの、勝手気儘に外地に行き、結局、見かけ上は故郷に錦を飾るわけでもなく、実金銭はスッカラカンの無一文で帰ってきた彼は、流石に堂々と実家や弟に対峙する気概は実はなかったのかも知れぬ。そうしてみると、続く「これにて兄の破産につれて、弟の家道も大いに衰えたとは虚言で、全く小生の金銭のことに疎きにつけこみ、兄の破産を幸い、小生へ送金せず、小生の分を利用したことと察し申し候。当時、小生は堅固なる独身にて、弟はすでに妻もあれば二子もありし。人間妻を娶る時が兄弟も他人となるの始めと分かり申し候」という恨み節も、熊楠のそれにしては、いつものガツンとした悲憤慷慨調が妙になく、寧ろどこか、哀調をさえ帯びていることが判る。物蔭から遠慮がちに故郷の生家を覗き見るというポーズに、私はどこか、放蕩息子の帰還とまでは言わぬが、彼の〈puer eternus(プエル・エテルヌス/永遠の少年)〉性を感ずるシークエンスである。]

 

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