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2017/04/09

南方熊楠 履歴書(その4) 父のこと



 明治二十五年に米国へ帰り、その年九月英国へ渡りし。その船中にあるうちに、父は和歌山にて死亡す。英国に着いてロンドンの正金銀行支店に着せしとき支店長故中井芳楠氏より書状を受けしが、それを開き見ると父の訃音なりし。この亡父は無学の人なりしが、一生に家を起こせしのみならず、寡言篤行の人にて、そのころは世に罕(まれ)なりし賞辞を一代に三度まで地方庁より受けたるなり。死に臨みしとき、高野山に人を派して、土砂加持(どしゃかじ)を行ないしに、生存の望み絶えたりと僧どもが申す。また緒方惟準氏を大阪より迎えて見せしに、これまた絶望との見立てなりし。その時天理教はやり出せしときにて、誰も天理教徒に踊らせて平癒せり、某は天理王を拝してまた健やかなりなどいう。出入りの天理教を奉ずる者、試みに天理教師を招き祈り踊らせては如何と言いし。亡父苦笑して生くる者必ず死するは天理なり、いかに命が惜しければとて、人の死せんとする枕頭に唄い踊るようのものを招きて命の延ぶる理あらんや、誰も免れぬは死の一事なりとて、一同に生別して終わられ候由。むかしアテネのペリクレスは文武兼備の偉人で、その一生涯を通じてアテネ文物の隆盛を致し、延(ひ)いて泰西(たいせい)開化の基礎を置いたと申す。しかるに、この人瀬死のさい埒(らち)もなき守り札ごときものを佩ぶるを見て、子細を問いしに、われはこんな物が病気に何のききめもなきを知悉(ちしつ)すれど、万に一つ人の唱うる通りのききめのあるものなれば、これを佩びて命を助からんと思いて佩ぶるなりと言いしとか。偉い人の割りにずいぶん悟りも悪かったと見え申し候。そんな人は命さえ助からば乞食のぼぼでも舐(ねぶ)るなるべし。それに比しては亡父は悟りのよかったことと思う。いわんや何の学問もせず、浄瑠璃本(じょうるりぼん)すら読みしことなき人にしては、いまだ学(まね)びずといえども、われはこれを学びたりと謂わんか。往年ロンドンにあって木村駿吉博士(この人は木村摂津守とて、わが国より初めて米国に使節たりしとき、福沢先生その従僕として随行せるその摂津守の三男で、無線電信をわが国に創設するとき大功ありしは誰も知るところなり)拙家を訪れしとき、このことを語りしに大いに感心され申し候。この亡父は無学ながらも達眼あり(故吉川泰次郎男なども毎々その人となりを称せられし)。死ぬに先だつ三、四年、身代を半分して半分を長男弥兵衛に自分の名とともに譲り、残る半分を五分しておのれその一分を持ちあり、四分を二男たる小生、三男常楠、四男楠次郎と小生の姉とに分かち、さて、兄弥兵衛は好色好色淫佚(いんいつ)放恣(ほうし)驕縦(きょうじゅう)なるものなれば、われ死して五年内に破産すべし、二男熊楠は学問好きなれば学問で世を過ごすべし、ただし金銭に無頓着なるものなれば一生富むこと能わじ、三男常楠は謹厚温柔な人物なればこれこそわが後を継ぐべきもの、またわが家を保続し得べきものなり、兄弥兵衛亡滅の後は兄熊楠も姉も末弟もこの常楠を本家として帰依すべきなりとて、亡父自分の持ち分と常楠の持ち分を合同して酒造を創(はじ)められ候。

[やぶちゃん注:「明治二十五年」一八九二年。

「年九月英国へ渡りし。その船中にあるうちに、父は和歌山にて死亡す」実際には父南方弥右衛門は前月の八月八日に死去しており、熊楠は九月二十八日にイギリスで父の訃報を受けているウィキの「南方熊楠」に拠る)。

「正金銀行」株式会社横浜正金銀行(よこはましょうきんぎんこう 英称:Yokohama Specie Bank, Ltd.)。かつて存在した日本の特殊銀行。通称「正金(しょうきん)」と呼んだ。ウィキの「横浜正金銀行」によれば、明治一三(一八八〇)年に『開設された国立銀行条例準拠の銀行で、外国為替システムが未確立だった当時、日本の不利益を軽減するよう現金(正金)で貿易決済を行なうことを主な業務としていた』。その名の通り、『神奈川県横浜市中区に本店を置いた。東京銀行(現在の三菱東京UFJ銀行)の前身とされる』とある。

「中井芳楠」(よしくす/ほうなん 嘉永六(一八五三)年~明治三六(一九〇三)年)は銀行家・教育者。ウィキの「中井芳楠」によれば、和歌山藩士として生まれ、明治八(一八七五)年に慶應義塾を卒業、『和歌山藩校にて教鞭を取』った後、『第四十三国立銀行支配人となる』。明治一三(一八八〇)年に『横浜正金銀行に入行』、『ロンドンに派遣され』、『支店長となる。日清戦争の功で勲等を受ける。南方熊楠らと親しくしており』、ロンドン在勤十二年、帰国した翌年に『東京本郷の自宅で死亡』した。『勤勉家で』、『紀州徳川家の援助を得て』、『私塾自修社(後の自修学校)を創設』したりしている。サイト「南方熊楠のキャラメル箱」のこちらの記載には日清戦争賠償金三億六千万円の受領及び『日本への送金は横浜正金銀行ロンドン支店が行なうなど、大きな業績を果たし、それらの業績により中井芳楠は勲五等の叙勲を受け』たとあって叙勲の理由がよく判る。また、熊楠がロンドン滞在中、『最も世話になった人物』で、後に、熊楠が親密に手紙のやり取りをすることとなる仏教学者で真言僧として高野山真言宗管長などを勤めた名僧土宜法龍(どきほうりゅう 嘉永七(一八五四)年~大正一二(一九二三)年日)と最初に逢ったのも中井邸で、彼の紹介によるものあった。南方熊楠より十歳年上。

「罕(まれ)」「稀」に同じい。

「土砂加持(どしゃかじ)」「どさかじ」とも呼び、密教に於ける加持祈禱(修法)の一つ。土砂を洗い清め、護摩を修し、本尊の前で光明真言を誦して行う加持法。その砂を病者に授けると苦悩が除かれ、硬く強張った遺体の上に撒くと柔軟になり、墓に撒くと罪過が消滅するとされる。大陸では唐代から行われ、本邦では鎌倉時代以後に盛んとなった。

「緒方惟準」(おがたこれよし 天保一四(一八四三)年~明治四二(一九〇九)年)は医師。蘭方医緒方洪庵の次男として大坂に生まれた。幼くして加賀大聖寺の洪庵の門人であった渡辺卯三郎について、漢学と蘭学を修め、安政五(一八五八)年、長崎に遊学して蘭医学を学んだ。文久三(一八六三)年の父の死により江戸に戻り、西洋医学所教授に任ぜられた。慶応元(一八六五)年には幕命によってオランダに留学、明治元(一八六八)年七月に帰国、同年九月、京の典薬寮の医師となった(これは朝廷の任命に拠る最初の洋方医であった)。同年十月、東京の医学校及び大病院の取締となったが、翌年二月には医学校を辞し、大坂に設立された浪華仮病院の院長に就任、オランダ軍医ボードインとともに病院の運営に当たった。明治四年に陸軍軍医、明治十八年には陸軍軍医学会長兼近衛軍医長に昇った。この頃、軍隊に蔓延していた脚気の予防策として、麦飯給食を実施して好成績を挙げたが、軍中央の認めるところとならなかった。明治二〇(一八八七)年四月、陸軍を辞して大阪に帰り(森鷗外の脚気論争はこの後のことであるので注意されたい)、緒方病院を開設して自ら院長となった(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。

「天理教はやり出せしときにて」天理教は天保九(一八三八)年に教組中山みきによって開創されたが、みき死去の翌年、明治二一(一八八八)年の四月に東京府より神道の一派として「神道天理教会」として公認されている。なお、本格的な別派独立が認められ、天理教教庁が設置されるのは明治四一(一九〇八)年十一月のことである。

「生くる者必ず死するは天理なり、いかに命が惜しければとて、人の死せんとする枕頭に唄い踊るようのものを招きて命の延ぶる理あらんや、誰も免れぬは死の一事なり」「天理」や「理」を逆手にとったこの毅然たる物言い、熊楠のとっつぁん、凄いわ!

「ペリクレス」(紀元前四九五年?~紀元前四二九年)は古代アテナイの政治家でアテナイの最盛期を築き上げた軍人で市民から「ゼウス」と称された。彼の死因はペストともされるが、現行ではアテナイに猖獗した天然痘であった可能性が高い。以下の死に纏わる逸話の出所は不詳。識者の御教授を乞う。

「泰西(たいせい)」西洋諸国。

「ぼぼ」女性の外生殖器の隠語。

「いまだ学(まね)びずといえども、われはこれを学びたりと謂わんか」やや捩じれた謂いであるが、私は父は結局、外見上は「無学の人」ではあったと称し得るかも知れぬが、では私は学ぶべきものをしっかりと身につけたところの「才智の人」と謂い得るであろうか、いや、とても言えぬ! 私こそ「無学の輩」であり、父は「無知の知」たる仁徳を備えた人間であった、という謂いで採る。

「木村駿吉博士(この人は木村摂津守とて、わが国より初めて米国に使節たりしとき、福沢先生その従僕として随行せるその摂津守の三男で、無線電信をわが国に創設するとき大功ありしは誰も知るところなり)」「木村駿吉」(慶応二(一八六六)年~昭和一三(一九三八)年)は日本海軍軍属(教授・技師)で教育者。ウィキの「木村駿吉」他によれば、『幕臣・木村芥舟』(かいしゅう 文政一三(一八三〇)年~明治三四(一九〇一)年:幕末の旗本・幕臣で摂津守。幕府海軍軍制取締・浜御殿添奉行・本丸目付・長崎海軍伝習所取締・軍艦奉行・勘定奉行等の幕府要職を歴任し、万延元(一八六〇)年九月のアメリカへの使節団派遣(万延元年遣米使節)の際には咸臨丸の総督を務め、福澤諭吉はその木村の従者として乗船したものである。維新後は完全に隠居し、福澤諭吉と交遊を重ねて、詩文三昧の生活を送った)『の三男として江戸で生まれた。東京大学予備門を経』、明治二〇(一八八八)年に『帝国大学理科大学物理学科を卒業し、さらに大学院で学ぶ。第一高等中学校教諭を務めた後』、一八九三年八月から一八九六年七月まで『アメリカに留学し、ハーバード大学院・イェール大学で学んだ』。『帰国後』は『第二高等学校教授を務めた後、明治三三(一九〇〇)年三月、『海軍に奉職し、海軍教授・無線電信調査委員となった。以後、イギリス出張、海軍技師・横須賀工廠造兵部員、ドイツ出張、無線電信改良委員、艦政本部員兼造船廠電気部員を歴任し』、大正三(一九一四)年三月を以って免官となった。『海軍時代の最大の功績は、艦船用無線電信機の開発に貢献したことである。グリエルモ・マルコーニが無線電信を発明してからしばらくして、逓信技師・松代松之助が無線電信について研究を始めた。それを見学した外波内蔵吉海軍中佐が山本権兵衛海軍大臣に進言し、海軍においても研究を開始することとし無線電信調査委員会が設置され、兄・木村浩吉の仲立ちでその委員に任命された。委員会は』、三年以内に八十海里(約百四十八キロメートル)の『距離間で使用できる無線電信を開発することを目標に掲げた』。明治三四(一九〇一)年末には『目標を達成し、さらに寝食を忘れて改良に努力した結果、駿吉たち関係者の努力が実り』、二年後の明治三十六年に『三六式無線電信機が制式採用された。この無線機により「信濃丸」のバルチック艦隊発見が通報され、また、日本海海戦中も艦船間の情報交換が可能となり、その勝利に貢献した』。『海軍退職後に、日本無線電信電話会社取締役となった』とある。サイト「南方熊楠のキャラメル箱」のこちらの記載によれば、『南方熊楠』『とはロンドンで親しくし』、『熊楠が南方植物研究所設立のための資金を求めていたときには、木村駿吉はその話を聞くとすぐさま速達で寄付をし』ているとある。上記の木村の事蹟を見る限りでは、木村のイギリス行きは明治三三(一九〇〇)年三月以降のイギリス出張であるが、この年は南方熊楠が帰国した年であり、その直前にこうした邂逅があったものか? 或いはアメリカ留学中にロンドンを訪ねたものか? 識者の御教授を乞う

「吉川泰次郎男」「男」は男爵の略。吉川泰次郎(嘉永四(一八五二)年~明治二八(一八九五)年)は官僚・教育者・実業家。日本郵船二代目社長。ウィキの「吉川泰次郎によれば、紀伊国(現在の和歌山県)に奈良の神官の子として生まれた。『江戸に出』、『軍艦奉行木下利義の門に学び、明治維新が起こると官軍の追跡を受けたが脱走し、大阪の知り合いの紹介で慶應義塾に学ぶ。松山棟庵に付き添って和歌山に移り』、明治三(一八七〇)年、『慶應義塾から弘前英学校(東奥義塾)に招かれ』た。明治六(一八七三)年には『文部省八等出仕となり』、『宮城師範学校校長に就任』。明治一一(一八七八)年には『郵便汽船三菱会社に入り、神戸支配人・東京支配人を歴任し』、明治二七(一八九四)年に同社二代目『社長となった。日清戦争中の激務もあり、肺結核で死去した』とある。

「長男弥兵衛」南方弥兵衛(安政六(一八五九)年~大正一三(一九二四)年)。熊楠の実兄。元の名は藤吉。「南方熊楠コレクション」の注によれば、明治二〇(一八八七)年七月十五日、父弥兵衛が『家督を長男藤吉に譲り』、『弥右衛門を名乗り、藤吉が弥兵衛を襲名した』とある。

「四男楠次郎」南方楠次郎(明治九(一八七六)年~大正一〇(一九二一)年)。熊楠の末弟。後に西村家に入籍した。]

 その前に亡父が心やすく往来する島村という富家翁あり。代々鬢(びん)付け油商を業とせしが、洋風おいおい行なわるるを見て、鬢付け油に見切りをつけ、何が一番うまい商売だろうかと亡父に問われし。その時亡父只今(明治十七、八年)の様子を見るに、酒造ほど儲かるものあるべからずと告げし。すべて至って賢明ならぬ人も、よく賢き人の言を速やかに聞き入れ実行すれば得分の多きものなり。『藩翰譜』に見えたる、山内一豊が関ケ原役に堀尾忠氏の一言を聞いて忠氏よりも速やかに実行し、それがため徳川氏の歓心を得てたちまち一躍して土佐の大封を受け、今日までも子孫が大名華族として永続するごとき、その著しき例なり。件(くだん)の島村翁は亡父の言を聞いて躊躇せずに酒造に手を出せしゆえ、今もその後が和歌山で強勢の商家たり。これに後るること四、五年にして拙父は酒造を創めしなれど、いわゆる立ち後れにて、ややもすれば島村家の勢いに及ばざること多かりし。

[やぶちゃん注:「明治十七」一九八四年。

「藩翰譜」江戸時代の家伝系譜書。新井白石著。全十二巻。元禄一五(一七〇二)年に初版が成立(後に白石自身が補訂)。慶長五(一六〇〇)年から延宝八(一六八〇)年までを守備範囲とする。

「山内一豊が関ケ原役に堀尾忠氏の一言を聞いて忠氏よりも速やかに実行し……」山内一豊(やまうちかつとよ 天文一四(一五四五)年或いは翌年~慶長一〇(一六〇五)年内:後の土佐藩初代藩主)が、慶長五(一六〇〇)年の関ヶ原の戦いの際、同じく家康方の東軍方に与した堀尾忠氏(天正六(一五七八)年~慶長九(一六〇四)年:後の松江藩初代藩主)が提案した家康への城提供策を、自分の発案として家康に山内が申し出て、彼の歓心を惹いたことを指す。私は戦国史が苦手で実は良く判らなかったが、個人ブログ「関ヶ原ブログ」の堀尾忠氏はどんな活躍をしたでしょう??でこの箇所、よぅく判った。因みにウィキの「土佐山内によれば、『代々官位として土佐守を得ているが、領地と官位(国守としての差配地=この時期には当然まったく実態がない)が完全一致している数少ない江戸大名である』とあり、幕末の第十五代藩主『豊信は公武合体派で、倒幕は望んでいなかった。しかし、重臣後藤象二郎の大政奉還案(土佐藩を脱藩した郷士坂本龍馬の船中八策が原案)を受け入れ、将軍徳川慶喜に建白、武力討伐派である薩摩藩の西郷隆盛・大久保利通らの動きを抑え、無用な血が流れることのないスムーズな政権移譲を実現させようとした』。『明治維新後、山内氏は華族となり、侯爵の位を与えられた』とある。

「これに後るること四、五年にして拙父は酒造を創めし」(「創めし」は「はじめし」と読む)「南方熊楠コレクション」の注によれば、南方熊楠の弟常楠が父と共同で『酒造業に着手したのは明治二十二年』(一八八九年)『のことである』とある。

 以下の一段落は底本では全体が二字下げ。]

秀吉大阪に城(きず)きしとき、家康に向かってこの城は誰が攻めても落ちまじと言いしに、家康洵(まこと)に左様という。そのとき秀吉その智に誇るのあまり、一度和睦を入れてその間に外堭(そとぼり)を埋めたらんには難なく落つべしと言いし。後年秀頼の世に及び、果たしてその通りの手で大阪城は落とされし。人にもの言うはよくよく心得のあるべきことと見え申し候。

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