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2017/04/25

南方熊楠 履歴書(その17) 自力更生

 

 故菊池大麓男は、小生毎度英国の『ネーチュール』、東京の『東洋学芸雑誌』へ寄書するを読んで、はなはだ小生をほめられたと下村宏氏に徳川頼倫侯が話されたと聞く。この大麓男の言に、英国人は職業と学問を別にする、医者が哲学を大成したり、弁護士で植物学の大家があったりする、人間生活の安定なくては遠大の学業は成らぬということを知り抜いたからと申されし。すべて習慣が第二の天性を成すもので、初め学問を大成せんがために職業を勉めし風が基(もと)となりて、英人は父が職業を勉めた結果、大富人となり、その子は父の余光で何の職業を勉めずに楽に暮らし得る身なるに、なお余事に目をふらずに学問をもっぱら励むもの多し。いわゆる amateur(アマチュール)素人(しろうと)学問ながら、わが国でいわゆる素人浄瑠璃、素人角力と事かわり、ただその学問を糊口の方法とせぬというまでにて、実は玄人(くろうと)専門の学者を圧するもの多し。スペンセル、クロール、ダーウイン、いずれもこの素人学問にて千万の玄人に超絶せるものなり。これを見まねてか literary men(文士)と称するものまた多し。上述の、小生が小便をひっくりかえしたる陋屋の近処ながら、小生のとかわり立派な町通りに住居せし故アンドリュー・ラングなどは、生活のためといいながらいろいろの小説や詩作を不断出し、さて人類学、考古学に専門家も及ばぬ大議論を立て、英人中もっとも精勤する人といわれたり。この人などは大学出の人で多くの名誉学位を帯びたが、博士など称せず、ただ平人同様ミストル・ラングで通せしなり。

[やぶちゃん注:「菊池大麓」(だいろく 安政二(一八五五)年~大正六(一九一七)年)は数学者・教育行政家。男爵。元東京大学理学部教授(純正及び応用数学担当)。江戸の津山藩邸に箕作阮甫(みつくりげんぽ)の養子秋坪の次男として生まれたが、後に父の本来の実家であった菊池家を継いだ。二度に亙ってイギリスに留学、ケンブリッジ大学で数学・物理を学んで東京大学創設一ヶ月後の明治一〇(一八七七)年五月に帰国、直ちに同理学部教授。本邦初の教授職第一陣の一人となった。後の明治二六年からは初代の数学第一講座(幾何学方面)を担任し、文部行政面では専門学務局長・文部次官・大臣と昇って、東京・京都両帝国大学総長をも務めた。初期議会からの勅選貴族院議員でもあり、晩年は枢密顧問官として学制改革を注視し、日本の中等教育に於ける幾何学の教科書の基準となった「初等幾何学教科書」の出版や教育勅語の英訳に取り組んだ。(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。動物学者箕作佳吉は弟で、大麓の長女多美子は天皇機関説で知られる憲法学者美濃部達吉と結婚、その子で元東京都知事美濃部亮吉は孫に当たる。

「東洋学芸雑誌」明治一四(一八八一)年に東洋学芸社から創刊された自然科学を含む月刊誌。日本で最初の学術総合雑誌で、杉浦重剛と千頭(ちかみ)清臣が、井上哲次郎や磯野徳三郎らの協力のもと、その範をまさにイギリスの科学雑誌Natureに採り、啓蒙を目的として編集された。初期には文芸作品も掲載するなどで多くの読者を獲得したが、加藤弘之や菊池大麓を始めとした官学系学者を多用、一八九〇年代半ばからは科学啓蒙誌としての性格を強めていった(平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

「下村宏」(明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)は官僚・政治家。歌人としても知られ、佐佐木信綱主宰の竹柏会に所属して『心の花』に多くの作品を発表、生前に五冊の歌集をものしている。号は海南。ウィキの「下村宏」によれば、『玉音放送の際の内閣情報局総裁であり、ポツダム宣言受諾の実現に尽力したことでも知られている』。南方熊楠と同じく『和歌山県出身』で、『和歌山中学、第一高等学校から東京帝国大学を卒業』後、明治三一(一八九八)年に『逓信省へ入省。郵便貯金の実務を学びにベルギーへ留学』、帰国後は為替貯金局長から台湾総督府の明石元二郎に招かれて民政長官となり、更に総務長官となった。大正一〇(一九二一)年に『台湾総督府を退官』して『朝日新聞社に入社、専務・副社長を歴任した』。昭和一二(一九三七)年には『貴族院議員に勅選され、同時に財団法人大日本体育協会会長に就任』。昭和一八(一九四三)年、『社団法人日本放送協会会長となり』、敗戦の年の四月に組閣された『鈴木貫太郎内閣で国務大臣(内閣情報局総裁)となる。終戦直後戦犯として一時拘留された後に公職追放を受け、東京商業学校』(後に私立東京学園高等学校)『の運営に関わ』ったりした。

「徳川頼倫」(よりみち 明治五(一八七二)年~大正一四(一九二五)年)紀州徳川家第十五代当主で侯爵・貴族院議員。田安徳川家第八代当主徳川慶頼六男として東京に生まれた。明治一三(一八八〇)年に紀州徳川家第十四代当主(旧和歌山藩主)であった徳川茂承(もちつぐ)の養子となった。学習院に入学したものの、成績不振のため、中等学科を中退、山井幹六の養成塾に入っている。明治二九(一八九六)年、イギリスのケンブリッジ大学に留学して政治学を専攻、この留学中に南方熊楠と知り合い、彼の案内で大英博物館を見学したり、熊楠を介して孫文とも逢っている。明治三十一年に帰国、明治三十五年四月に東京市麻布区飯倉町(現在の東京都港区麻布台)の邸内に私設図書館。南葵(なんき)文庫を設立している。明治三九(一九〇六)年、徳川茂承の家督を継いだ。大正二(一九一三年に日本図書館協会総裁、大正一一(一九二二)年には宮内省宗秩寮(そうちつりょう:旧宮内省に所属した一部局で、皇族・皇族会議・華族・爵位などに関する事務を職掌した)総裁となっている(以上は人名事典等の複数の記載を参考に纏めた)。

「スペンセル」イギリスの哲学者・社会学者ハーバート・スペンサー(Herbert Spencer 一八二〇年~一九〇三年)。一八五二年にThe Developmental Hypothesis(発達仮説)を、一八五五年にPrinciples of Psychology(心理学原理)を出版後、「社会学原理」「倫理学原理」を含むA Systemof Synthetic Philosophy(『総合哲学体系』一八六二年から一八九六年までの三十五年をかけて完成させるなど、多くの著作をものした。これらの著作はかれの“evolution”(「進化」)という着想に貫かれており、現在のダーウィニズムの「進化」という概念や、我々がダーウィン(Charles Robert Darwin 一八〇九年~一八八二年)は、の言葉と誤解している“survival of the fittest”(「適者生存」)という言葉は、実はダーウィンの進化論発表の直前に示された彼スペンサーによる概念及び造語である。一八八〇年から九〇年代の明治期の日本では、スペンサーの著作が数多く翻訳され、『スペンサーの時代』と呼ばれるほどで、一八六〇年に出版されたEducation(教育論)は、尺振八の訳で明治一三(一八八〇)年に「斯氏教育論」と題して刊行され、『スペンサーの教育論』として人口に膾炙した。また、その社会進化論に裏打ちされたスペンサーの自由放任主義や社会有機体説は、当時の日本における自由民権運動の思想的支柱としても迎えられ、数多くの訳書が読まれた(以上は主にウィキの「ハーバート・スペンサー」に拠った)。

「クロール」不詳。並列される人物と年順が齟齬するが、或いは、イギリスの牧師でアマチュア鉱物学者でもあったウィリアム・グレゴール(William Gregor:一七六一年~一八一七年:姓の音写は「グレガー」とも)か? ウィキの「ウィリアム・グレゴール」(及び同英文他)によれば、イングランド南西端のコーンウォール(Cornwall)での『牧師の時代に、鉱物の収集と分析を行い、アマチュアながら優れた分析技術をもつ鉱物学者となった。コンウォールの彼の教区内のメナカン谷』(Manaccan valley)『から採取した磁性の砂の中にこれまで知られていない元素の酸化物があることを発見』、一七九一年にmanaccanite(メナカナイト)と命名して『論文にした』が、その四年後の一七九五年、ドイツの化学者マルティン・ハインリヒ・クラプロート(Martin Heinrich Klaproth 一七四三年~一八一七年:彼は他にもウラン・ジルコニウム・セリウム・テルルの発見や、それらの幾つかの元素の命名者でもある)が『別の鉱石から発見し』、「チタン」チタン(ドイツ語:Titan/英語:titanium/ラテン語:titanium:原子番号二十二。元素記号Ti)と『命名した金属と同じ物であったことが』後に証明されたことから、「チタン」の発見者ともされる。『グレゴールは風景画、エッチング、音楽にも才能を示した』とあり、如何にも熊楠好みの人物ではある。

「アンドリュー・ラング」(Andrew Lang 一八四四 年~一九一二年)はスコットランド生まれの詩人・作家・民俗学者。七冊の詩集の他、イギリス・ヴィクトリア朝を代表する詩人テニソン(Alfred Tennyson 一八〇九年~一八九二年)の伝記や、処刑された悲劇のスコットランド女王メアリー・ステュアート(Mary Stuart 一五四二年~一五八七年)の研究書、その他、小説など六十巻を超す著作があるが、Custom and Myth(「習慣と神話」 一八八四年)・The Making of Religion(「宗教の起源」 一八九八年)等の文化人類学的業績、ホメロスの「オデュッセイア」(一八七九年)・「イーリアス」(一八八三年)などの翻訳が有名で一八七八年には「イギリス民俗学会」の設立にも尽力し、神話伝承の研究の先駆者としても知られているが、本邦では専ら、「アンドルー・ラング世界童話集」(Andrew Lang's Fairy BooksAndrew Lang's "Coloured" Fairy Books:童話を収集した十二冊の双書の総称。ラングが収集した広範囲な伝承民話集。ウィキの「アンドルー・ラング世界童話集」を参照されたい)の編著者としての方が馴染み深い。

「ミストル」“Mr.”。]

 

 しかるに、わが邦には学位ということを看板にするのあまり、学問の進行を妨ぐること多きは百も御承知のこと。小生は何とぞ福沢先生の外に今二、三十人は無学位の学者がありたきことと思うのあまり、二十四、五歳のとき手に得らるべき学位望まず、大学などに関係なしにもっぱら自修自学し和歌山中学校が最後の卒業で、いつまで立ってもどこ卒業ということなく、ただ自分の論文報告や寄書、随筆が時々世に出て専門家より批評を聞くを無上の楽しみまた栄誉と思いおりたり。しかるに国許(もと)の弟どもはこれを悦ばず、小生が大英博物館に勤学すると聞いて、なにか是の博覧会、すなわちむかしありし竜(たつ)の口の勧工場(かんこうば)ごとき処で読書しおることと思いおりたるらしく、帰朝の後も十五年も海外におりて何の学位をも得ざりしものが帰ってきたとて仏頂面をする。むかしも尾張の細井平洲は四方に遊学せしが、法螺だらけの未熟な教師に就いたところが、さしたる益なしと悟って、多く書籍を買い馬に負わせて帰り、それで自修してついに大儒となれりと申す。こんなことは到底、早稲田大学(むかしの専門学校)ぐらいを出た舎弟には分からず。いわんや、平凡なむかしの和歌山の女学校ぐらいを出たきりの、弟の妻には分からぬこと一層にて、この者ども小生を嫌うことはなはだしく、というと学問方法上の見解の差異のごとくで立派だが、実は小生は不図帰朝したので、小生が亡父より譲られた遺産墨弟が兄の破産の修繕に藉口して利用したるを、咎められはせぬかとの心配より出でし小言と後に知れ申し候。

[やぶちゃん注:「福沢先生」福澤諭吉(天保五(一八三五)年~明治三四(一九〇一)年)は摂津国大坂堂島浜(現在の大阪府大阪市福島区福島)にあった豊前国中津藩(現在の大分県中津市)の蔵屋敷で下級藩士福澤百助次男として生まれ、安政元(一八五四)年、十九の時に長崎へ遊学して蘭学を学んだ。以下、ウィキの「福澤諭吉」によれば、翌年、大坂を経て江戸へ出る計画を強行するも、兄から制止され、医師で蘭学者の緒方洪庵の「適塾(適々斎塾)」で学ぶこととなった。しかし腸チフスに罹患、回復後は一時、中津へ帰国している。安政三年、再び、大坂へ出て学んだ。同年には兄が死んで福澤家の家督を継いだものの、『遊学を諦めきれず、父の蔵書や家財道具を売り払って借金を完済した後、母以外の親類から反対されるもこれを押し切って再び大坂の適塾で学んだ。学費を払う余裕はなかったので、諭吉が奥平壱岐から借り受けて密かに筆写した築城学の教科書』『を翻訳するという名目で適塾の食客(住み込み学生)として学ぶこととな』った。安政四年には最年少二十二歳で『適塾の塾頭とな』っている。『適塾ではオランダ語の原書を読み、あるいは筆写し、時にその記述に従って化学実験、簡易な理科実験などをしていた』。但し、生来、『血を見るのが苦手であったため』、『瀉血や手術解剖のたぐいには手を出さなかった。適塾は診療所が附設してあり、医学塾ではあったが、諭吉は医学を学んだというよりはオランダ語を学んだということのようである。また工芸技術にも熱心になり、化学(ケミスト)の道具を使って色の黒い硫酸を製造したところ、鶴田仙庵が頭からかぶって危うく怪我をしそうになったこともある』。『幕末の時勢の中、無役の旗本で石高わずか』四十石の『勝安房守(号は海舟)らが登用されたことで』、安政五年に『諭吉にも中津藩から江戸出府を命じられ』、『江戸の中津藩邸に開かれていた蘭学塾』『の講師となるために』『江戸へ出』た。『築地鉄砲洲にあった奥平家の中屋敷に住み込み、そこで蘭学を教えた』。『この蘭学塾「一小家塾」が後の学校法人慶應義塾の基礎となったため、この年が慶應義塾創立の年とされている』。『元来、この蘭学塾は佐久間象山の象山書院から受けた影響が大き』かったという。安政六年、『日米修好通商条約により外国人居留地となった横浜の見物に出かける。そこでは専ら英語が用いられており、諭吉自身が学んできたオランダ語が全く通じず看板の文字すら読めないことに衝撃を受ける。それ以来英語の必要性を痛感した諭吉は、英蘭辞書などを頼りにほぼ独学で英語の勉強を始める。世界の覇権は大英帝国が握っており、すでにオランダに昔日の面影が無いことは当時の蘭学者の間では常識で、緒方洪庵もこれからは英語やドイツ語を学ばなければならないという認識を持っていた。しかし、オランダが鎖国の唯一の例外であり、現実にはオランダ語以外の本は入手困難だった』。『諭吉は、幕府通辞の森山栄之助を訪問して英学を学んだ後、蕃書調所へ入所した』ものの、『英蘭辞書が持ち出し禁止だったために』たった一日で退所している。安政六(一八五九)年の冬、『日米修好通商条約の批准交換のために使節団が米軍艦ポーハタン号で渡米することとなり、その護衛として咸臨丸をアメリカ合衆国に派遣すること』となり、万延元年一月十九日(一八六〇年二月十日)、『諭吉は咸臨丸の艦長となる軍艦奉行・木村摂津守の従者として、アメリカへ立』った。この辺りまでが、彼の本邦での福澤の修学時代で、以降の事蹟詳細はリンク先を参照されたが、この渡米からさらに渡欧して各国を視察して帰国、「西洋事情」(慶応二(一八六六)年から明治三(一八七〇年刊)を刊行して欧米文明の紹介に努め、芝新銭座に「慶應義塾」を創設、活発な啓蒙活動を展開、「学問のすゝめ」(初版は十七編で、明治五(一八七二)年から四年に亙って断続的に出版された)はベスト・セラーとなった。また『時事新報』を創刊、政治・時事・社会問題や婦人問題など、幅広く論説を発表した。

「二十四、五歳のとき手に得らるべき学位望まず、大学などに関係なしにもっぱら自修自学し和歌山中学校が最後の卒業」徹底した独立自尊を訴えるための見かけ上の自己韜晦であるが、既に冒頭で彼は「明治十六年に中学を卒業せしが学校卒業の最後にて、それより東京に出で、明治十七年に大学予備門(第一高中)に入りしも授業などを心にとめず、ひたすら上野図書館に通い、思うままに和漢洋の書を読みたり。したがって欠席多くて学校の成蹟よろしからず。十九年に病気になり、和歌山へ帰り、予備門を退校して、十九年の十二月にサンフランシスコヘ渡りし」と記しているので嘘というのではない。南方熊楠は和歌山中学を卒業後、上京して共立学校で高橋是清から英語を学び(またこの頃、既に菌類研究への本格的意思が芽生えた)、翌明治一七(一八八四)年九月に東京大学予備門の入試を受けて合格、入学している(同期に夏目漱石・正岡子規・山田美妙らがいた)。しかし、翌年十二月には試験に落第し、明治一九(一八八六)年二月に帰省し、退学となった。渡米はその年の十二月二十二日であった。

「竜(たつ)の口の勧工場(かんこうば)」近代日本の百貨商品陳列所明治一〇(一八七七)年に上野公園で「第一回内国勧業博覧会」が開催されたが、その閉会後、出品者に売れ残りの品を返却したものの、出品者の希望があって、その一部を残留陳列して販売することとなり、翌年、商工業の見本館が開設された。これが「勧工場(かんこうば)」の始まりとなった。最初の開設場所には麹町辰ノ口(たつのくち)にあった旧幕府伝奏屋敷の建物を当てた。

「細井平洲」(ほそいへいしゅう 享保一三(一七二八)年~享和元(一八〇一)年)は儒学者。尾張国知多郡平島村(現在の愛知県東海市)の農家に生まれた。本姓は紀氏。ウィキの「細井平洲」によれば、『幼くして学問に励み』、十六の時に『京都に遊学するが、当時』、有為な学者は殆んどが『江戸幕府や諸藩に引き抜かれていた』ため、失望、帰郷した。この時、『尾張藩家老竹腰氏家臣の子で折衷学派の中西淡淵が名古屋にも家塾の叢桂社を開くことを知り、そのまま師事する』。『後に中西の薦めにより』延享二(一七四五)年に『唐音研究のために長崎に遊学』。宝暦元(一七五一)年二十四歳の時、『江戸へ出て嚶鳴館(おうめいかん)という私塾を開き、武士だけでなく、町民や農民にもわかりやすく学問を広めた。また、西条藩・人吉藩・紀伊藩・大和郡山藩等の藩に迎えられ』、宝暦一三(一七六三)年、『上杉治憲(後の鷹山)の師とな』った(『治憲は後に米沢藩主となり、米沢藩が財政再建を成功させたことは有名』)。明和八(一七七一)年、米沢藩在国を一ヶ年とすること、神保綱忠らを付き添わせること等を条件として、月俸十人扶持を与えられ、『米沢藩の江戸におけるお抱え文学師範となって米沢に下向した』(この時と併せて三次に渡って米沢に下向、講義を行っており、藩校「興譲館」は平洲が命名している)。安永九(一七八〇)年五十三歳の時、御三家筆頭の『尾張藩に招かれ、藩校・明倫堂(現・愛知県立明和高等学校)の督学(学長)になった』。寛政八(一七九六)年六十九歳の時には第三次の米沢下向を実現しているが、『この時、鷹山は米沢郊外の山上村関根(米沢市関根)まで師を出迎え、普門院にて旅の疲れをねぎらった。これは当時の身分制度を超えた師弟の姿として江戸時代中から知れ渡り、明治時代以降は道徳の教科書にも採用された』。『平洲が遺した言葉として、米沢藩主になろうとしていた上杉鷹山に送った「勇なるかな勇なるかな、勇にあらずして何をもって行なわんや」がある。要は「何をやるにしてもまず勇気が必要である」と言う意味である』。山形県米沢市丸の内にある松岬(まつがさき)神社には藩主上杉鷹山とともに彼も祀られている、とある。

「早稲田大学(むかしの専門学校)ぐらいを出た舎弟」弟南方常楠のこと。常楠は卒業と同時に、父弥兵衛とともに酒造業を起こしたことは既に述べた。

「不図」「ふと」。予告もせずに急に。

「藉口」「しゃこう」と読む。何かにかこつけること。口実をもうけて言い訳をすること。]

 

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