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2017/04/07

「想山著聞奇集 卷の貮」 「海獺昇天するを打留る事」

 

 海獺(かいだつ)昇天するを打留る事

 

Kawausosyouten

 

[やぶちゃん注:「海獺(かいだつ)」のルビは目次にある。現行では「海獺」は食肉(ネコ)目イヌ亜目クマ下目イタチ上科イタチ科カワウソ亜科ラッコ属ラッコ Enhydra lutris に宛てられる漢字和名であるが、しかし本文のロケーション「豐後の國」(概ね大分県に相当)ではラッコではおかしい。底本の織茂三郎氏の注には、『かいだつ。「うみうそ」ともいう、海驢(あしか)あるいは「とど」のこと』とする。イヌ亜目鰭脚下目アシカ科トド属トド Eumetopias jubatus もラッコ同様、分布域は北海道沿岸が南限であるから無理で、ここはアシカ科アシカ亜科 Otariinae のアシカ類ということになろうか。絶滅してしまったとされる(生存を主張する説もある)本邦本土沿岸にいたアシカ科アシカ属ニホンアシカ Zalophus japonicus は、ウィキの「ニホンアシカ」によれば(下線やぶちゃん)、『北はカムチャツカ半島南部から、南は宮崎県大淀川河口にかけて』、『北海道・本州・四国・九州の沿岸域、伊豆諸島、久六島・西ノ島・竹島などの日本海の島嶼、千島列島、南樺太、大韓民国(鬱陵島)などに分布していた』とするから、このロケーションでもおかしくはない。但し、何らかの別種の生物を誤認している可能性も捨てきれるわけでないが、死獣のそれは「アシカ」のような海獣類をイメージに大きさは別として形状は合致するように思われる。しかしデカ過ぎる。巨大さでは絶滅した北方種の海牛(ジュゴン)目ダイカイギュウ科ステラーカイギュウ亜科ステラーカイギュウ属ステラーカイギュウ Hydrodamalis gigasが頭に浮かびはするが、毛が生えているというから違う。或いは、北方から流れ着いた同種の腐敗した遺体の可能性も考えたが、海流からも考えてもどうもあり得ぬ。却って巨大な鮫の腐乱の進んだ死体を候補とした方がいいかも知れぬという気はする。後半でその肉が「勞症」(労咳。肺結核)の妙薬であるという下りからは、俄然、海牛(カイギュウ)目ジュゴン科ジュゴン属ジュゴン Dugong dugon の可能性が高まるとは言える。]

 

 豐後の國佐伯侯[やぶちゃん注:佐伯(さいき)藩毛利家。本国は尾張で長州の毛利家とは別系統。]の藩士間(はざま)某、【七郎右衞門と云(いひ)て側用人にて勝手方勤(つとむ)る人のよし。】砲術を好て、江戸表、火術(くわじゆつ)の師家、淺羽某の門人也。天保五年【甲午(きのえうま)】九月[やぶちゃん注:グレゴリオ暦では一八三四年の十月相当。]、一天よく晴渡りて秋景も格別故、山獵をせんとて、同僚一兩輩とともに六匁玉[やぶちゃん注:当時の換算では二十二・五グラムは超えていた。]の纖砲を携へ、佐伯の城下[やぶちゃん注:現在の大分県佐伯市。城下はの附近(グーグル・マップ・データ)。]より壹里半程有ける海岸に臨みたる雲止山(くもとゞめやま)[やぶちゃん注:不詳。城下から六キロ圏内で海に臨むというのは、佐伯城の南東にある灘山ぐらいしかない。]と云(いふ)に入(いり)て遊びける。然るに海上俄に黑雲を生じ、須臾に海面に掩ひ襲(かさな)り、卽時に烈風吹登り、海水を卷上げ、土砂を飛(とば)し、暴雨車軸を流し、山海一度に鳴動し、物凄敷(すさまじき)[やぶちゃん注:「すさまじき」は「凄敷」の二字へのルビ。]事いはんかたなし。遊士も獵を止め、側なる十羅刹女(じふらせつによ)[やぶちゃん注:「十羅刹女」仏教の天部に於ける十人の女性の鬼神(鬼子母神とともに「法華経」で諸天善神とするもの)。詳しくはウィキの「十羅刹女」を参照されたい]の堂に入りて雨を避け、海上を眺るに、何とは知(しれ)ず、海中より雲にうつり昇天する有さまにて、雲間に火焰ひらめき、眞一文字にこなたを差(さし)て鳴り來る有さま、いかにも奇怪なり。此時、同僚の云(いふ)には、斯(かか)る事は此邊(あたり)の海上にはまゝ有(ある)事にて、年經たる海獺(かいだつ)のなす業(わざ)とは申侍れども、誰も慥成(たしかなる)事を知たる者なし。さて如何成(いかなる)天魔にもせよ、斯(かく)怪敷(あやしき)物の此方(こなた)を差來(さしきた)るを見物して居るは臆(おく)したるに似て、武士たる者の本意に非ず、打取(うちとる)べしと云ふ。間(はざま)答(こたへ)て云ふ。勿論の事也。我等に與へ給へ、打試(うちこころ)むべしとて、失比(やごろ)になるをまちけるに、卽時に眼前へ來れども、何分、雲眞黑に襲(かさな)り掩ひて、怪物の形(かた)ちは見えず。しかれども、彼(かの)煽々たる火焰を目當(めあて)として、其(その)間(まあ)ひ一丁程もあらん大空の方を打(うち)たるに、手ごたへもなく、矢張、火焰は空中にひらめき渡り、風も益(ますます)烈しければ、玉も屆かず、打損(うちそん)じたる事と心得、差(さし)て心にも留(とめ)ざるに、其内に雨も止み、又、海も靜まり、勿論、火焰はいつしか消果(きえは)て、暫時に雲も大かた吹拂(ふきはら)ひ、夕陽(ゆうひ)海面を照して、時も七つ下(さが)り[やぶちゃん注:午後四時を過ぎた頃。]と成(なり)たり。因(よつ)て今日の興も是迄成(なり)迚(とて)、皆々歸宅なしたりと。扨、夫より第三日目に、同國北浦と云(いふ)所の獵師、代官所へ訴へけるは、十里程も向(むかふ)なる沖中に、何とも見分(みわけ)難き大ひなる海獸、浮漂(うきただよ)ひ居(を)るよしいひ出ける故、城下へも注進し、とりどり風説なし居(ゐ)たるうちに、第五日目に、一里半程有(ある)遠淺なる海濱へ、汐につれ漂着せしとて、城下より目付役を初(はじめ)、役人等も相越(あひこし)、獵師は大勢懸りて、汐道に矢來(やらい)[やぶちゃん注:竹や丸太を粗く組んで作った囲い。]を結ひ、大網を張切(はりきり)、手丈夫に[やぶちゃん注:堅固に。]用意して、段々樣子を窺ひ見るに、多分死獸の樣に見ゆる故、能々見極(みきはむ)るに、殊の外弱り居て、目もまだ動き、少しは息有る樣子故、死(しぬ)るを待居(まちゐ)たるに、夫より又、濱邊近くへ流れよりて、遂に七日目に斃(をち)たり[やぶちゃん注:死んだ。]と。因(より)て役人等も加(くはは)りて見分(けんぶん)なしけるに、かのものゝ頭幷に惣身(さうみ)、全く獸(けもの)にて、短き毛ひしと生(はえ)て、色は先(まづ)、茶色にて、背通りは黑く濃く、腹は至(いたつ)て薄白茶にて、鰭(ひれ)大(おほき)く、惣(さうの)長さ七間三尺[やぶちゃん注:十三メートル六十三センチメートル半。]、横幅九尺計(ばかり)有(あり)て、賓に珍敷(めずらしき)海獸なれば、見物大勢集りて、色々評議せしかども、何と云(いふ)獸にて何の爲に死したりと云(いふ)事はしられず。然れども、誰(たれ)云(いふ)となく、是(これ)所謂海獺(かいだつ)成(なる)べしと鑑定なし、彌(いよいよ)國中に評判甚しければ、彼(かの)間(はざま)氏も行(ゆき)て見聞なしけるに、此所にても、何人の申ともなく、風雲を起し邂逅(たまさか)昇天するものは老海獺と云傳(いひつたふ)るも、斯(かく)の如き獸にやなど噂する故、旁(かたがた)思ひ合すれば、若(もしく)は先日我(われ)打(うち)しものならんかと、其由を役人へ斷りて、逐一吟味しけれども、惣身に聊(いささか)の疵もなし。猶よく改見(あらためみ)るに、左の目に打貫(うちぬき)たるが如き穴有(あり)。細き棒を差入見(さしいれみ)れば、僅(わづか)深さ五寸程入(いり)て、ごつごつと鐡玉(てつだま)の如き物に突當(つきあた)りて、全く此所に打當(うちて)しものとしられたり。因て此事、具(つぶさ)に主君の聽(ちやう)に達しければ、其者の手柄にて打取たるものなれば、其者へ下さるべしと也。よつて車三輌をもつて城下迄引取(ひきとり)、先(まづ)、皮を剝(はぎ)て見るに、其下に、白く強堅なる大き筋(すぢ)、網のごとくすきまもなく、ひしひしと纏ひ居て、中々剛強なること、刄物(はもの)にて切割(きりわる)事も成兼(なりかね)たり。其筋の間の肉は、尋常の大魚の如きものにて、刄物を以て安々と切割るゝまゝ、かの筋と肉との間へ刄物を入(いれ)て切離(きりはな)し、夫より段々筋を上へ引揚(ひきあげ)、つゐに肉と筋と切離して、先、右筋を剝取(はぎとり)て、夫より肉を切割たるに、脊骨の外には小骨もなくて、にくのみなり。【脊骨思ふよりは細く、惣身肉のみ多かりしとなり。】其肉色も尋常の魚の通りの白色にて、鳥獸の如き赤色にてはなかりしといへり。扨、此肉は勞症(らうしやう)[やぶちゃん注:労咳。肺結核。]の病の妙藥にて、一度食へば子孫に至る迄、其病の起る事なしとて、遠近群集して喰(くひ)に來り、或は貰ひて行(ゆく)も多く、悉く施し盡したりと也。其風味、鯨に似て、夫よりは味ひ美にして、膏(あぶら)は甚だ多けれども、至て輕く、何程(いかほど)にても食(くは)るゝものにて、一家中、皆、間氏へより集り、是がために酒數樽(すうたる)を呑(のみ)たりと也。扨、其剝取たる皮を泥障(あふり)[やぶちゃん注:あほり。馬具の付属具で鞍橋(くらぼね)の四緒手(しおで)に結び垂らして、馬の汗や蹴り上げる泥を防ぐ防具。下鞍(したぐら)の小さい鞍に用いるもので、概ね、毛皮や皺革(しぼかわ)を以って円形に作るのを例とする。]となして、第一を君侯へ獻じ、第二を國老(くにがらう)に贈り、第三を江府(がうふ)[やぶちゃん注:江戸。]に持來(もちきた)りて、師家淺羽(あさば)氏[やぶちゃん注:毛利家の主家筋らしいが、よく判らぬ。]に贈る。其餘、すべて泥障(あふり)十八懸(がけ)となりしを同僚共に分ち與へたりと。予、右淺羽氏へ贈りたる皮を見るに、厚き所と少し薄き所とはあれども、凡て其厚さ二分[やぶちゃん注:六ミリ。]程も有(あり)て、全て牛の皮のことく、毛の長さ至て短く、纔(わづか)五六分[やぶちゃん注:一・五~一・八センチメートル。]計(ばかり)にして、よく手入(ていれ)したる馬の毛に似たれども、夫よりは至(いたつ)て剛(つよ)く、色は曇色(どんしよく)を佩(はき)たる[やぶちゃん注:「刷く」で、さっと擦って塗ったような感じを言うのであろう。]白茶色の所多く、その中に薄白(うすしろ)の斑(まだら)、又鼠いろの斑なども有(あり)て、片泥障(かたあふり)は脊通り邊(あたり)と覺敷(おぼしき)ところ有(あり)て、其所は茶色を佩(はき)たる黑色にて、いづれも銀色を佩たる樣の光澤有て、老獸の毛色と見えたり。鰭は大(おほい)さ何程(いかほど)有(あり)しにや。全く鯨骨の如く、よくしなひて強ければ、馬上の腰差提燈(こしざしてうちん)の柄となして甚(はなはだ)宜(よろしき)もの也といへり。此(この)鰭、右の如く柔かにて自由にしなふといへども、先の尖(とが)りにて六七分[やぶちゃん注:一・八~二・一センチメートル。]の板などを突試(つきこころみ)るに、安々と突貫(つらぬ)く事、利劍よりも速(すみやか)にして、玄妙なるものなりと。都(すべ)て天地間(あめつちのあひだ)の造物(ざうもつ)には、夫々種々(いろいろ)の能不能有(ある)ものにて、元來、此海獸は、前のごとく、皮の下に剛筋(がうきん)あれば、利刀を以て切割(きりわく)事なりかね、たとひ存分に切付(きりつけ)たりとも、すぐれたる大獸なれば、淺手にてはなかなか死に至る事は難(かた)かるべし。又、錢砲にて打貫(うちぬ)かれ、或は矢一筋二筋負(おひ)たりとも、死すべきものとは思はれねども、何分、大事の頭腦へ鐡砲玉打込(うちこま)れたる痛手故、溜り兼(かね)、斯(かく)非業(ひがふ)の死をなしたる事としられたり。扨、此邊にては、此(かく)の如く折節昇天する事も有るや。咄のおもむきを以ては、全く餘國にて龍蛇の昇天すると同樣の有樣としられたり。石見の國の海上にて、魚數千聚(あつま)り、亂合(みだれあひ)て騷ぐ其中に、全く龍のごとく海水を卷(まき)て、正しく海魚の昇天すること有(あり)。是、魚、龍と成(なり)て天に登るのなりとのこと、故事因緣集にも見えたれば、ましてかく年を經たる大獺は、左(さ)も有べき事ながら、珍敷(めずらしき)事としられたり。【龍は神仙の使者。種類數千にして、尤(もつとも)、其中に魚龍も獺龍(だつりゆう)も有て、種々の變化(へんげ)をなす事は仙家(せんけ)の祕成(なる)事、前年(さいつかた)學び置(おき)たる事有(あり)、全く其類としられたり。】是は聞氏の淺羽氏へ來りて自(みづから)咄たる趣を、淺羽氏より聞取(ききとり)て書記(かきしるし)たり。かの間氏は大器なる人傑にて、惣躰(さうたい)小量なる事なく、か樣なる事は物の數とも思はぬ人故、自身より語る事なく、漸(やうや)く尋(たづぬ)るに隨(したがひ)て答(こたへ)たる趣、右の通(とほり)にて有しと也。【淺羽氏は御先手與力にて、牛込に住居(すまひ)の人なり。主馬政德(しゆめまさのり)と云(いひ)、諸國に門人も多く、高名なる人なり。】此(この)海獺を料理(つくり)たる膏(あぶら)、所々へ流れ溢(あふ)れ、城邊(あたり)の池水、一比(ころ)は平一面に膏と成(なり)、いつ迄も元のことくにならざりしと云(いへ)り。

[やぶちゃん注:「故事因緣集」「本朝故事因緣集」。著者不詳。諸国の故事逸話を集めもの。元禄二(一六九九)年板行。以上は同書の「卷五」の「百四十一 石見國龍木卷(いわみのくにたつきべき)」である。「国文学研究資料館」のの画像で視認出来る。これは思うに、海上に発生した竜巻が海中の魚類を巻き上げたのを見たものであろう。或いは、そこの巨大な魚様のものを確かに見たとするならば、哺乳綱鯨偶蹄目マイルカ科シャチ亜科シャチ属シャチ Orcinus orca などがエコロケーションを用いて摂餌する様子を見た可能性もあるか。

「主馬政德」「諸國に門人も多く、高名なる人なり」とあるが、不詳。

 以下、最後まで、底本では全体が二字下げ。]

因に云、奧州平泉は昔、奧羽二州の太守、鐸守府將軍秀衡父祖三代居住の地にて、秀衡・淸衡等、中尊寺建立の時分、基衡も佛法に歸依し、佛工運慶をして、丈六の藥師如來及び十二神將、其他佛像若干を造らしめんとして、運慶方に使者を遣して贈り物す。其品。

[やぶちゃん注:以下、字配は再現していない。]

 一金 百兩 一鷲羽 百尾

 一七間(けん)間中經(まなかわたり)の水豹(あざらし)皮 六十枚

 一安達絹(あだちぎぬ) 千疋 一希婦(けふ)細布 貮千端(たん)

 一糠(かす)部駿馬 五十匹 一白布 三千端

 一信夫文字摺(しのぶもぢずり) 千端

猶、此外に奧羽の産物珍奇を表して取揃へ、運慶に贈るとの事、南谿が東遊記に見えたり。此水豹(あざらし)は、基衡の何れより得られたるものにや。其頃は奧羽の海に、斯(かく)のごときの大水豹(おほあざらし)の居(を)りしにや。今にてはきかず。察するに、蝦夷地より渡來の品にや。蝦夷には水豹・海獺ともに澤山に居るとの事は、追々(おひおひ)聞及(ききおよ)びたり。然(さ)れども、此(かく)の如く、七間にも及びたる大水豹の今にても澤山に居る事にや、覺束(おぼつか)なし。然共(されども)、基衡の六十枚得られし事なれば、今も所に寄(より)ては澤山に居(を)る事なるか。尤(もつとも)、水豹と海獺とは別物ながら、大躰、種類は同じ事の樣に聞及び置(おき)たり。

[やぶちゃん注:「丈六」仏像の背丈の一基準を指す語。仏体の身長は一丈六尺(約 四メートル八十五センチメートル)あるとされることから、仏像もこの「丈六」を基準とし、その五倍或いは十倍或いは逆にその二分の一(約二メートル四十三センチメートル)などで造像された。

「七間」十二メートル七十三センチメートル弱。

「間中經(まなかわたり)」楕円状の皮でその長径が「七間」だという意味であろう。

「水豹(あざらし)」食肉(ネコ)目イヌ亜目鰭脚下目アザラシ科 Phocidae のアザラシ類。しかし、北アメリカ東岸に棲息するゾウアザラシ属キタゾウアザラシ Mirounga angustirostris でも大型個体で四メートル強で、この数値は合わない。寧ろ、先に挙げた海牛(ジュゴン)目ダイカイギュウ科ステラーカイギュウ亜科ステラーカイギュウ属ステラーカイギュウ Hydrodamalis gigas ならば、最大長が九メートル弱には及んだはずで、分布域からも死体漂流や蝦夷以北での捕獲とすれば、幾分かはしっくりとはくるように思う。

「安達絹」現在の福島県伊達郡川俣町(旧安達郡内)で生産された絹織物の呼称。平安時代の古えから名品とされた。

「希婦(けふ)細布」起原不詳であるが、陸奥の国の「希布」という所から織り出す布であるとし(一説に秋田県鹿角郡(かづのぐん)の旧古川村とも)、原料は多年生の草木の紫の根から採取するとされる(こちらの記載に拠った)。

「端」「反(たん)」に同じい。布帛(ふはく)の大きさの単位。長さ・幅は材質・時代によって異なり、養老令では長さ五丈二尺(約十五メートル七十五センチ)・幅二尺四寸(七十二・七二センチメートル)。現在は一着分の幅と丈のものを一反とする。絹の着尺地では鯨尺で幅九寸(三十四センチメートル)・長さ三丈(約十一メートル三十六センチ)から三丈二尺(十二メートル十二センチ弱)が一般的であるから、鎌倉時代初期として、以上の中間値を採ればよかろう。

「糠部駿馬」底本では「かすべ」と読ませるとしか思えないルビの振りようであるが(事実、「東遊記」はそう読んでいる。後掲原典参照)、これは正しくは糠部(ぬかのぶ)郡が正しい。嘗て陸奥国にあった郡名で、現在の青森県東部から岩手県北部にかけて広がっていた。参照したウィキの「糠部郡によれば、『糠部郡には、「九ヵ部四門の制(くかのぶしかどのせい)」の制がしかれていた。 糠部郡を一から九までの「戸」(あるいは部)にわけ、一戸ごとに七ヶ村を所属させ、その九の戸を東・西・南・北の四つの門に分属させたものであり、糠部郡内の主な地域を一戸~九戸に分画して余った四方の辺地を東門、西門、南門、北門と呼んだと思われる』。『一説には南部氏の領地になった順番とも言われるが、四門九戸の制がしかれた時期が鎌倉期以前ともされているので、必ずしも事実とは思われない。他に、南門が一戸・二戸、西門が三戸・四戸・五戸、北門が六戸・七戸、東門が八戸・九戸を差すとする説もある』。『「戸」とは「牧場」の意であるとも言われる。戸制が施行された地域は「糠部の駿馬」といわれた名馬の産地で、馬がどの「戸」の産かを示す「戸立(へだち)」という言葉も生まれるほど珍重され、源頼朝が後白河院に馬を献上した際、後白河院が「戸立」に非常に興味を示したと『吾妻鏡』にある』とある(下線やぶちゃん)。

「信夫文字摺」福島県福島市に古代から伝わる染色技法。ウィキの「文知摺(もちずり)に、『草木汁で乱れた菱形文様に染めた絹織物のことである。福島県福島市の地名にもとられ、この地名としての文知摺は、その染色が盛んな地域であったことから地名としても定着したと考えられている』とある。「古今和歌集」「卷第十四」の「戀歌四」(七百二十四番歌)の河原左大臣源融(とおる)の知られた一首、

 みちのくの忍ぶもちずり誰(たれ)ゆゑにみだれむと思ふ我ならなくに

但し、本歌は別本や「百人一首」の第十四番歌、

 みちのくの忍ぶもちずり誰(たれ)ゆゑにみだれそめにし我ならなくに

の形の方でよく知られる。

「南谿が東遊記」先に出た橘南谿が寛政七(一七九五)年八月に板行した北陸・東北の紀行(旅行自体は十年程前)。以上は、その「卷之五末」の冒頭の「平泉」の条からの一部引用である。東洋文庫版の私の意に沿わぬ気持の悪い正字正仮名のそれであるが、これしか所持せぬので仕方がない。それで全条を引用しておく。読みは一部に留めた。挿絵も添えておくが、この挿絵は四方の枠が如何にも無粋に思われたので、恣意的に払拭した。この方が遙かによい。

   *

 

Hiraizumi

 

 奥州平泉はむかし奥羽二州の大守、鎮守府将軍秀衡父祖三代居住の古城跡なり。仙台の城下より行程二十四里余北の方にして、前に北上川、衣川を受け、うしろほ高山(こうざん)幾重ともなく重なり、実(じつ)に要害の地也。秀衡、清衡抔建立せる中尊寺今に存在して、昔の俤まのあたりに見えてあわれ也。

 此山を関山(かんざん)という。麓の街道に昔関所ありて、衣が関と名付く。此故に、此山を関山といいて、中尊寺の山号とせり。此近辺の里を、今にても上衣(かみころも)、下衣(しもころも)といいて、民家あり。衣という里に流るる川ゆえに衣川と名付け、衣の里の開所ゆえ衣の関ともいうなるべし。安部貞任が籠りし衣川の城は此中尊寺よりは一二里ばかりも山に入りてあり。又義経の住み給いし高館(たかだち)は直(じき)に此関山の下にて、纔かに街道壱筋をへだて中尊寺より五丁に近し。高館の跡は甚だ狭く纔かの所にて、中々当今(とうぎん)の城郭抔のごとき跡とは見えず。只暫時義経の住みし屋鋪の跡というべし。今は草木(そうもく)生茂(おいしげ)りて芭蕉の発句のごとし。此あたりは亀井六郎が塚、鈴木の三郎が塚等(とう)あり。皆古松(しょう)一本ずつありて明白也。弁慶が古跡もあり。又中尊寺の鎮守白山宮(はくさんぐう)のうしろより少し西へ行けば物見の亭の古跡あり。此所より見おろしよろし。向うに見ゆる山を陣場張山(じんばはりやま)と云う、二つの地名となれり。是は頼義義家、貞任宗任追伐の時、陣を張れる所と云う。又それより手前に見ゆる野を長者が原と云う。金売吉次信高が屋鋪の跡とて、今に郭石(かくせき)少し残れり。又東北の方に高く見ゆるはたばしね山也。西行の「聞きもせずたばしね山の桜花吉野の外(ほか)にかかるべしとは」とよめる山なり。むかしは桜多かりしが、今にては歌のごとくはあらず。余が京を出ずる時、佐々木長春(ながはる)、「陸奥にはたばしね山とて、桜多き山有り」といえり。「花の比(ころ)ならば、必ず尋ねて見るべし」とて和歌などおくられぬれば、奥州の地に入りてより日々尋求(たずねもと)めて、ようよう此所にて尋得(たずねえ)ぬれど、花無くて本意(ほんい)なし。されど一しおに昔思われて、例(れい)の腰折(こしおれ)などつづる。それより中尊寺に詣でて講堂順拝す。

 此中尊寺は弘台寿院(こうたいじゅいん)とも云いて、東叡山の末寺、開基は慈覚大師にして、其後年歴(としへ)て鎮守府将軍藤原清衡中興なり。清衡は秀衡の祖父にして、此時既に奥羽二州の太守、勢(いきおい)殊に盛(さかん)なりしかば、此中尊寺を中興して、堂塔四十余宇、禅房三宮余宇を建立すと也。其(その)結構金銀珠玉をちりばめて、全盛を尽くせり。此事、堀河院、鳥羽院等の叡聴(えいちょう)に達し、遂に大治(だいじ)三年丙午(ひのえうま)、按察使(あぜち)中納言顕隆(あきたか)卿を勅使として此国に下し給い、御願文(ごがんもん)の草稿は右京大夫敦光朝臣(あそん)、清書は冷泉中納言朝隆卿にて、今に此寺の什物(じゅうもつ)とす。猶此外に右大将頼朝の御教書(みぎょうしょ)、又北条相模守貞時、北畠中納言顕家、浅野弾正少弼(だんじょうしょうひつ)長政、豊臣関白秀次公等の文書数数(かずかず)有りと也。みだりに見る事を許さず。扨(さて)右の堂塔伽藍、建武四年回禄(かいろく)して、纔かに経蔵(きょうぞう)一ケ所、金色堂(こんじきどう)一字を残せり。是も星霜久敷(ひさしく)移り、段々破壊(はえ)に及びしを、百八十余年の後に至り、正応元年鎌倉将軍惟康親王歎き思召(おぼしめ)し、北条貞時に命じ、此二つの堂に又別に新に覆(おお)い堂(どう)を造り、風雨を避け、修営(しゅえい)を加えしめ給う。其後(のち)今に至り、時の国主より代々覆い堂を修理(しゅり)して風雨を防ぐ。此ゆえに、今日に至り清衡建立の金色堂、幷びに経蔵厳然と残りて、むかしの俤(おもかげ)有り、就中(なかんずく)、金色堂は殊の外美麗にして、日光山の外世間此(これ)に比すべきもの稀也。ことごとく布(ぬの)ぎせにして厚く漆(うるし)ぬり、其上に金箔を押して、堂中一様の金色なり。長押(なげし)の地紋(じもん)には、螺鈿(らでん)、珠玉をちりばめ、中壇四隅の柱は七宝(しっぽう)を以て荘厳(しょうごん)せり。既に五六百年を経てあれば、螺鈿も貝落(かいお)ち、珠玉も欠損(かけそん)じ、金箔も斑(まだら)なれど、元来結構丁寧なれば、今に猶あたりをかかやかす斗(ばか)り也。中壇の上には阿弥陀、観音、勢至等の仏像を安置し、壇中(だんゆう)には三人の棺(かん)を納む。中は清衡、左は基衡、右は秀衡なり。秀衡の棺の側に、和泉三郎忠衡の首桶(くびおけ)を納めて、今に祭(まつり)に配す。清衡は大治元年丙午七月十七日逝去、其子基衡保元二年丁丑(ひのとうし)三月十九日逝去、其子秀衡文治三年丁未(ひのとひつじ)十二月廿八日逝去すと云う。此堂に納むる所の什宝(じゆうほう)数々多き中(なか)に、清衡の納めしとて紺紙(こんし)に金泥銀泥にて楷書、行書まぜ書(がき)の一切経あり。是は清衡存生(ぞんじょう)の時、自在坊蓮光といえる僧に命じ、一切経書写の事を司らしむ。三千日が間、能書(のうじょ)の僧数百人を招請して供養し、是に書写せしめしと也。余も此経を拝見せしに、其書体(しょてい)楷法(かいほう)正しく、行法(ぎょうほう)亦(また)精妙にして、漢土の諸名家を集めて書かせしむるとも、中々是に勝るべからずと思う。彼(かの)時分日本にもかばかりの能書(のうじょ)多きに、今の世に誰(たれ)一人聞ゆる無きは、誠に歎息するにも余り有り。其後四海(しかい)戦争の事に、穏(おだやか)なるいとまなく、文華(ぶんか)地に墜ちたる故なるべし。其人の不幸ともいうべし。数多(かずおお)き一切経の事なれば、なるべき事ならば、一二巻ずつも世間に出だしたき事にこそ。経の箱は黒漆に螺鈿にて、経の題号をしるしたり。其箱も亦古雅(こが)甚だし。此外にも基衡納めし紺帋(こんし)[やぶちゃん注:紺色の紙。]金泥の楷書の一切経あり。是は世間普通の経のごとし。又、秀衡の納めしは宋板の折本(おりほん)の一切経なり。此外に玉軸(ぎょくじく)の法華経壱部、小野道風(おののとうふう)の筆跡なり。是は余見ることを得ず、殊に残念なりき。又、天台大師の影像一幅、地は竹布(ちくふ)というものにて、画(が)は唐人(とうひと)にて、其名知れず、讃は顔魯公(がんろこう)の筆という。是も当寺第一の宝物として、見ることを許さず。慈覚大師唐土(もろこし)より将来の物なりと云う。其外金岡(かなおか)の画(が)の十三仏、牧渓(もくけい)の観音等、種々(しゅじゅ)宝物多し。基衡も亦、最(もっとも)仏法に帰依し、毛越寺(もおつじ)、円隆寺、嘉祥寺等を造立(ぞうりゅう)す。仏工運慶をして、丈六の薬師如来、及び十二神将、其他仏像若干を造らしめんとして、まず運慶方へ使者を遣わし贈り物す。其(その)品(しな)、

[やぶちゃん注:以下の目録は二段組になっているが、ブラウザの不具合を考え、一段で示した。]

  一 金百両

  一 鷲羽(わしのはね) 百尾

  一 七間(けん)間中径(まなかわた)りの水豹皮(あざらしのかわ) 六十枚

  一 安達絹(あだちぎぬ) 千匹

  一 希婦細布(けふのほそぬの) 弐千端

  一 糠部駿馬(かすべのじゅんめ) 五十疋

  一 白布 三千端

  一 信夫文字摺(しのぶもじずり) 千端

 猶、此外に奥羽の産物珍奇を尽くして取揃え、運慶に贈る。運慶是を得て大いに悦び、奥州の練絹(ねりぎぬ)を称美す。使者帰りて此(この)由をいいしかば、基衡又練絹を三艘の船に積みて、別に運慶に贈る。運慶悦び、みずから件(くだん)の仏像をつくり、玉眼を入れて、三年の間に功(こう)を終り、奥州に送ると云う。仏像に玉眼を入るる事此時より始まれりと也。是等の事にても、当時平泉の盛(さかん)なりし事おもいやるべし。秀衡抔の頼朝をだにあなどり居た(い)りしもむべ也。

 是に付きておもうに、今の世程太平の久敷(ひさしき)事もあらず。それに依っては、金銀(きんぎん)も世の中にたくさんに成りぬと見ゆ。平泉の盛なるにてさえ、右の贈物に金は僅か百両と見えたり。外の物の多きにはつり合わず。又俊乗坊南都大仏殿建立の時も、鎌倉よりの寄附纔かに金五十両と聞及(ききおよ)べり。今にては、常の町人の分限(ぶんげん)にても千金万金の寄附するものすくなからず。されば今の世程金銀も沢山にて、よろずゆたかにおごれる時は、昔より無きことというべし。

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