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2017/05/25

南方熊楠 履歴書(その38) 山本達雄の我を覚えざること

 

 咄(はなし)もここまでくれば末なり。よって珍妙なことを申し上げ候。大正十一年春東京にありしとき、四月十二日に代議士中村啓次郎、堂野前種松(小石川音羽墓地三万坪をもち一坪いくらと売りし人)二氏に伴われ、山本達雄氏(子か男か記臆せぬゆえ氏と書く)を訪(おとな)いし。明治三十年ごろ、この人正金銀行の今西豊氏と英国に来たり(当時山本氏は日本銀行総裁)、小生今西氏とサンフランシスコにて知人たりしゆえ、大英博物館に案内し、その礼に山本氏と並び坐して食事を供せられしことあり。その時山本氏問いに、西洋の婦女は日本のと味が同じかとは、よく好きな人と覚えたり。さて山本氏は小生を知らぬ由をいう。この人小生の研究所の発起人なるに知らずというを小生は面白く思わず、渡英されしときのことどもをいろいろ咄せしに、ようやく臆い出したらしかりしが、なお貴公がそんなに勉学しおるものなら農相たる予が多少聞き知るはずなるに、一向聞き知りしことなきは不思議なという。

[やぶちゃん注:「大正十一年春東京にありしとき」既に述べた通り、南方植物研究所資金募集のための大正三月から八月に上京、奔走した折りのことを指す。これも注したが、実際には七月十七日から八月七日までは日光に採集旅行に出かけている。

「中村啓次郎」既出既注

「堂野前種松」(明治二(一八六九)年〜昭和三〇(一九五五)年)骨董集主家として知られたこと、それらについての幾つかの著述があることぐらいしか判らなかった。識者の御教授を乞う。

「山本達雄氏(子か男か記臆せぬゆえ氏と書く)」山本達雄(安政三(一八五六)年~昭和二二(一九四七)年)は銀行家で政治家。男爵ウィキの「山本達雄によれば、『日本銀行総裁に就任後、政界に転じて貴族院議員、日本勧業銀行総裁、大蔵大臣・農商務大臣・内務大臣・立憲民政党の最高顧問を歴任した』。『豊後国臼杵藩士・山本確の次男として現在の大分県臼杵市に生まれ』、十七歳で『大阪に出』、三年間、『小学校教師をしながら学資を稼ぎ、東京に出て慶應義塾で福澤諭吉に学ぶが、月謝を払うことが出来なかったため』、『慶應義塾で学んだ期間は短かった』。そこで、『当時三菱財閥が経営していた明治義塾(三菱商業学校)に転校し、助教を務めながら学資を稼ぎ、かろうじて卒業した』。『卒業後、岡山の県立商法講習所の教頭になったが、政治の批判会などを開催し』て『問題を起こし、大阪商業講習所の教頭に転任せざるをえなくなり、そこで教頭として』一年勤めたものの、『ここでも問題を起こし、三菱商業学校を卒業した関係から』、明治一六(一八八三)年に『郵便汽船三菱会社(後の日本郵船)に入った』。そこで実業家川田小一郎に『才能を認められて幹部候補生となって各地の支店の副支配人を歴任』、明治二三(一八九〇)年に『当時総裁であった川田の要請によって』『日本銀行に入行』五年後の明治二十八年には、『川田の命により横浜正金銀行の取締役に送り込まれた』。更に翌明治二九(一八九六)年四月には『金本位制実施のための準備のためにロンドンに派遣され、更に翌年にはロンドン滞在中のまま、日本銀行理事に任命された』。ところが、明治三一(一八九八)年十月に『日本銀行総裁の岩崎弥之助が辞任すると、山本は突如』、『日本に呼び戻され』、第五代日本銀行『総裁に任じられ』る(下線やぶちゃん)。実に入行から僅か八年、山本は満四十三歳であった。南方熊楠のロンドン滞在は一八九二年から一九〇〇年である。『日本銀行総裁退任後の』明治三六(一九〇三)年に『貴族院で勅撰議員となり』、明治四二(一九〇九)年には日本勧業銀行総裁に就任している。その二年後の明治四十四年、その年に成立した第二次西園寺内閣に於いて、『西園寺公望総理に乞われて、財界からの初の大蔵大臣として入閣したことであった。健全財政主義を奉じて日露戦争後の財政立て直しを持論としていた山本は当時の軍部による軍拡に批判的であり、二個師団増設問題を巡って陸軍と衝突して内閣総辞職の原因を作った。だが、以後の山本は西園寺の立憲政友会との関係を強め、大正政変後の』第一次山本(海軍大将山本権兵衛)内閣では『政友会の推挙で農商務大臣に就任して、山本の』二『代後の日本銀行総裁であった高橋是清大蔵大臣とともに財政再建にあたるが』、シーメンス事件(ドイツの当時、軍需関連企業であった「シーメンス」社による日本海軍高官への贈賄事件。大正三(一九一四)年一月に発覚して同年三月に山本内閣は総辞職に追い込まれた)によって『志半ばで挫折する。この農商務大臣在任中に正式に政友会に入党した。政友会による本格的な政党内閣である原内閣においても再度』、農商務大臣を務めている。大正十一年当時は原の暗殺によって、後継となった高橋是清内閣(大正一〇(一九二一)年十一月十三日から大正一一(一九二二)年六月十二日)まで農商務大臣を続けていたから、まさに彼の「農相」最後の折りであったものと思われる。この熊楠との再会当時、山本は満六十六である(熊楠より十一年上)。熊楠は『このボケ・エロ爺いが!』と思ったことであろう。なお、その後、斎藤内閣で内務大臣を勤めている。

「明治三十年」一八九七年。上記の通り、二人の事蹟とも一致する。

「正金銀行の今西豊」不詳であるが、横浜正金銀行の取締役であった山本が、金本位制実施のための準備のため、日銀総裁からロンドンに派遣されていることから、彼と同道というのは腑に落ちる。

「当時山本氏は日本銀行総裁」「日本銀行理事」の誤り。前注参照。

 以下、二段落は底本では全体が二字下げ。]

 

 かかることは、欧米の挨拶にはよほど人を怒らすを好む人にあらざればいわぬことに候。小生の旧知にて小生キュバ島へ行きし不在中に、小生が預けおいた書籍を質に入れた小手川豊次郎というせむしありし。日本へ帰りてちょっと法螺(ほら)を吹きしが死におわれり。この者都築馨六男と電車に同乗中、君の郷里はどこかと問われて、おれの生れ場所を知らぬ者があるかといいしに、都築男聒(かつ)となりて汝ごとき奴の郷里を知るはずなしといいしを、板垣伯仲裁せしことあり、と新紙で見たことあり。小手川の言は無論として、都築男も品位に不相応な言を吐かれたものと思う。

[やぶちゃん注:「小生キュバ島へ行きし不在中」一八九一年(明治二十四)年九月から翌年の一月まで。

「小手川豊次郎」事蹟不詳ながら、多くの著作があり、内容から見て経済学者らしい。

「せむし」吉井庵千暦著「名士の笑譚」(明三三(一九〇〇)年刊)「小手川豐次郎後藤に殴打る」という話が載り(国立国会図書館デジタルコレクションの画像のこちらで読める)、これは同一人物を思われ、そこでは彼に「ドクトル」が冠せられており、「短軀」「丈纔かに三尺背骨高く聳え胸また出づ」とあるので、小手川は佝僂(くる)病或いは脊椎や腰椎の先天性奇形であったのかも知れぬ。

「都築馨六」筑馨六(つづきけいろく 万延二(一八六一)年~大正一二(一九二三)年)は外交官・政治家。男爵。ウィキの「筑馨六」によれば、貴族院議員・枢密顧問官・法学博士で男爵。「都築」と表記される場合もあるとある。『高崎藩名主・藤井安治の二男として生まれ、西条藩士・都筑侗忠の養子となる。築地大学校、東京開成学校を経て』、明治一四(一八八一)年七月に東京大学文学部(政治理財学専攻)を卒業、翌年『ドイツに留学し』、『ベルリン大学で政治学を学んだ』。明治一九(一八八六)年に帰国して『外務省に入り、公使館書記官兼外務省参事官に就任。外務大臣秘書官』となったが、明治二一(一八八八)年には今度は『フランスに留学』二年後に帰国すると、『内閣総理大臣秘書官とな』り、『以後、法制局参事官、兼内閣総理大臣秘書官、内務省土木局長、兼内閣総理大臣秘書官、図書頭、文部次官、外務省参事官、外務次官などを歴任』、その後、貴族院勅選議員・枢密院書記官長に就任、明治四〇(一九〇七)年四月には『特命全権大使に任じられ』てオランダの『ハーグで開催された』第二回『万国平和会議に委員として派遣され、ハーグ密使事件』(大韓帝国が会議に密使を送って自国の外交権回復を訴えようとしたが国際社会の列強から会議への参加を拒絶されて目的を達成することができなかった事件)『の対応に当っている』。

「板垣伯」板垣退助(天保八(一八三七)年~大正八(一九一九)年)。]

 

関ケ原の戦争に西軍あまり多勢なので東軍意気揚がらず、その時坂崎出羽守(西軍の大将浮田秀家の従弟兼家老たりしが、主を怨(うら)むことありて家康に付きし者、この軍ののち石見国浜田一万石に封ぜられしが、大阪の城落つるとき、秀頼の妻をとり出したらその者の妻にやると聞き、取り出せしに秀頼の後家本多忠刻にほれその妻となる。出羽守怒ってこれを奪わんとし、兵を構えんとするを家臣に弑(しい)せらる。故福地源一郎氏はこのこと虚談といいしが、小生コックスの『平戸日記』を見るに、コックス当時江戸にあり、このことを記したれば実事なり)進み出で、西軍などおそるるに足らず、某(それがし)一人あれば勝軍(かちいくさ)受合いなりと言いしを家康賞美する。出羽守出でてのち小姓ども大いにその大言を笑いしに、家康、かようの際に一人なりとも味方のために気を吐く者あらば味方の勇気が増すものなり、その者の言葉を笑うべきにあらず、と叱りしという。咄の始終も履歴も聞かぬうちに、われは汝にあいし覚えなしなどいわれたら、その者の心はたちまちその人を離るるものなり。スペインのアルフォンソ何世たりしか、華族にあえば知らぬ顔して過ぎ、知らぬ百姓に逢うても必ず色代(しきだい)せしより、百姓ども王に加担して強梁せる華族をことごとくおさえ、王位を安きに置きたり、と承りしことあり。

[やぶちゃん注:「坂崎出羽守」坂崎直盛=宇喜多詮家(うきたあきいえ 永禄六(一五六三)年?~元和二(一六一六)年)。ウィキの「坂崎直盛」によれば、『備前国の戦国大名・宇喜多氏の家臣・宇喜多忠家の長男』で、『従弟の宇喜多秀家に仕えた』『が、折り合いが悪かった。そのため』、慶長五(一六〇〇)年一月に『宇喜多氏において御家騒動が発生すると、主君・秀家と対立することとなる。徳川家康の裁定によってそのまま家康のもとに御預けとなり、直後に発生した関ヶ原の戦いでは東軍に与し、戦後その功績により石見浜田』二『万石を与えられ、後に同国津和野に』三万石『を与えられた。この時、宇喜多の名を嫌った家康より坂崎と改めるよう命があり、これ以降』、『坂崎直盛と名乗るようになった』。元和元(一六一五)年の『大坂夏の陣による大坂城落城の際に、家康の孫娘で豊臣秀頼の正室である千姫を大坂城から救出した。この後、千姫の扱いを巡って、直盛と幕府は対立することになり、最終的に千姫を奪おうとする事件を起こしており、これが千姫事件と呼ばれる』。『この千姫事件については、直盛が千姫を再嫁させることを条件に直接家康の依頼を受けていたが、これを反故にされたとする説』、『家康は千姫を助けた者に千姫を与えると述べただけで直盛に依頼したわけではないという説』など『がある。また直盛が千姫を救出したかという点についても、また実際に直盛が救出したわけではなく、千姫は豊臣方の武将である堀内氏久に護衛されて直盛の陣まで届けられた後、直盛が徳川秀忠の元へ送り届けた、とする説』なども『あり、この他、直盛が千姫を救出したにも関わらず火傷を負いながら千姫を救出したにもかかわらず、その火傷を見た千姫に拒絶されたという説もある』という(但し、以上の千姫事件の仮説については、リンク先では要出典要請がかけられてある)。『また、事件の原因としてはこうした千姫の救出ではなく、寡婦となった千姫の身の振り方を家康より依頼された直盛が、公家との間を周旋し、縁組の段階まで話が進んでいたところに』、突如、『姫路新田藩主・本多忠刻との縁組が決まったため、面目を潰された』 とする説もあるという。『いずれの理由にしても、直盛は大坂夏の陣の後、千姫を奪う計画を立てたとされるが。この計画は幕府に露見していた。幕府方は坂崎の屋敷を包囲して、直盛が切腹すれば家督相続を許すと持ちかけたが、主君を切腹させるわけにはいかないと家臣が拒否し討たれたという説、幕閣の甘言に乗った家臣が直盛が酔って寝ているところを斬首したという説』、『立花宗茂の計策により、柳生宗矩の諫言に感じ入って自害したという説がある。なお、柳生宗矩の諫言に感じ入ったという説に拠れば、柳生家の家紋の柳生笠』(二蓋笠(にがいがさ))『は坂崎家の家紋を宗矩が譲り受けたとも伝わっている』。『一方、当時江戸に滞在していたイギリス商館長リチャード・コックス』(Richard Cocks 一五六六年~一六二四年)は、ステュアート朝イングランド(イギリス)の貿易商人で江戸初期に平戸にあったイギリス商館長(カピタン)を務めた。在任中に記した詳細な公務日記Diary kept by the Head of the English Factory in Japan: Diary of Richard Cocks)「イギリス商館長日記」 一六一五年から一六二二年まで)はイギリスの東アジア貿易の実態や日本国内の様々な史実を伝える一級史料)『の日記によれば』、元和二年九月十一日(グレゴリオ暦一六一六年十月十日)の『夜遅く、江戸市中に騒動起これり、こは出羽殿と呼ばれし武士が、皇帝(将軍秀忠)の女(千姫)が、明日新夫に嫁せんとするを、途に奪うべしと広言せしに依りてなり。蓋し老皇帝(家康)は、生前に彼が大坂にて秀頼様の敵となりて尽くしし功績に対し、彼に彼女を与へんと約せしに、現皇帝は之を承認せずして、彼に切腹を命ぜり、されど彼は命を奉ぜず、すべて剃髪せる臣下一千人及び婦女五十名とともに、其邸に拠り、皆共に死に到るまで抵抗せんと決せぬ。是に於いて皇帝は兵士一万人余人を以て其邸を囲ましめ、家臣にして穏かに主君を引き渡さば凡十九歳なる長子に領土相続を許さんと告げしに、父は之を聞くや、自ら手を下して其子を殺せり。されど家臣などは後に主君を殺して首級を邸外の人に渡し、其条件として、彼等の生命を助け、領土を他の子に遺はさん事を求めしが、風評によれば、皇帝は之を諾せし由なり』。『とある。ともあれこの騒動の結果、大名の坂崎氏は断絶した(中村家などが子孫として続いている)』。『関ヶ原の戦いに敗れ、改易された出羽横手城主・小野寺義道は、津和野で直盛の庇護を受けていた。直盛の死後』、その十三回忌に、『義道はその恩義に報いるため、この地に直盛の墓を建てたと言われている。墓には坂崎出羽守ではなく「坂井出羽守」と書かれている。これは徳川家に「坂崎」の名をはばかったとされる(一説に一時、坂井(酒井)を名乗っていたとも言われる)』とある。

「従弟兼家老」「従弟(いとこ)、兼(けん)、家老」。

「福地源一郎」作家・劇作家で衆議院議員にもなった福地桜痴(天保一二(一八四一)年~明治三九(一九〇六)年)の本名。

「スペインのアルフォンソ何世たりしか」不詳。民衆に絶大な人気があったという点では何となく思い当たる人物もないではないが、世界史は私の守備範囲でないので、不詳としておく。識者の御教授を乞う。

「色代(しきだい)」会釈。

「強梁」勢力強くのさばること。

 ここまでが底本では二字下げ。]

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