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2017/05/22

「想山著聞奇集 卷の參」 「イハナ坊主に化たる事 幷、鰻同斷の事」

 

 イハナ坊主に化たる事

  幷、鰻同斷の事

 

Ihanabouzu

 

 濃州地の内、信州堺、御嶽山(おんたけさん)[やぶちゃん注:岐阜県下呂市及び高山市と長野県木曽郡王滝村に跨る。標高三〇六七メートル。]の麓の方へ寄(より)たる所は、我國[やぶちゃん注:尾張国。]の御領にて川上付知(つけち)加子母(かしも)と[やぶちゃん注:旧岐阜県恵那郡加子母村。「東濃檜」の主産地として知られる。現在は中津川市加子母。御嶽山の南西麓。ここ(グーグル・マップ・データ)。]云(いふ)村有。是を三ケ村(さんかそん)[やぶちゃん注:現在の中津川市の北部に位置する旧加子母村・付知村・川上村は、裏木曽三ヶ村と呼ばれ、尾張藩(旧天領)御料林域として豊かな森林資源に恵まれていた。]と云。【恵那郡也。】是、濃州の東北、深山の村の極(きはみ)なり。【五穀不毛の地にて山稼(やまかせぎ)のみの所なり。】此邊にては、毒もみと云事をなして、魚を獵するなり。【辛皮(からかは)[やぶちゃん注:山椒(双子葉植物綱ムクロジ目ミカン科サンショウ属サンショウ Zanthoxylum piperitum)の実の皮のことであろう(現在は山椒の木の薄皮を佃煮にしたものを食品としており、それをかく呼称している)。山椒の種子の皮に含まれるサンショオール(α-Sanshool・脂肪酸類縁体)には麻痺成分が含まれ、「毒揉(どくも)み」にはよく使われた。現在、この漁法は水産資源保護法によって禁止されている。]に石灰とあく灰(ばい)とを入(いれ)、せんじめ團丸(だんぐわん)となして淵瀨へ沈(しづむ)るなり、追付(おつつけ)、淵瀨一面に魚虫毒死するなり、方数十丈[やぶちゃん注:十八メートル四方前後。]の淵にても、僅(わづか)團丸二つ三つにて魚類悉く死するとなり、又其中へ小便を一度すると、毒に當りたる魚類忽ち蘇生してにげ失るゆゑ、毒もみには小便を禁ずる事也、能(よく)毒の妙は種々の事あるものなり。】或時、若き者ども、山稼に入て、其所の淵は至(いたつ)て魚多き故、けふは、晝休(ひるやすみ)に毒揉をなして、魚を捕(とり)て、今宵の肴(さかな)とせばや迚(とて)、朝より其催(もよほし)を企て[やぶちゃん注:毒団子を製するのには相応の時間がかかることが判る。]、やがて晝にも成(なり)たる頃、皆々一所に寄集(よりあつま)りて、晝飯を給(たべ)居(ゐ)たる所へ、何國(いづくに)より來りけん、坊主一人來りていふ樣(やう)、そち達は魚をとるに毒揉をなすが、是は無躰成(むたいなる)事なり外の事にて魚を捕え兎も角もあれ、毒揉は決してなす間敷(まじき)と云。成程、毒流しはよからぬ事に候半(さふらはん)、以來、止申(やめまうす)べきと答へければ、毒揉は、魚と成(なり)ては遁(のが)れ方(かた)なく、誠に根だやしと成(なる)なり。以後は必(かならず)なし申(まうす)まじくと異見したり。皆々薄氣味もわるく成て、もふ愼み申べしと云ながら食事せしに、件(くだん)の坊主、直(ぢき)には立去(たちさ)らず、側に彳(たたず)み居(をり)たり。折節、人々團子(だんご)を喰居(くひをり)て餘りもあれば、是をたべられぬかと云(いひ)て坊主へ與(あたふ)るに、むまそふに[やぶちゃん注:「うまそふに」(美味そうに)。]給(たべ)たり。飯も餘りの澤山にあれば、是も給られぬかと、又與ふるに、悦んでたべたり。其内に、重ねては汁の殘りもあり、かけて進申(しんぜまう)すべしとて、汁懸(しるかけ)にして遣はせしに、此飯、甚だ給にくき樣子なれど、殘らずたべ終りて、去行(さりゆき)たり。跡にて、人々顏を見合(みあひ)て云樣(いふやう)、あれはいか成(なる)僧にや、此山奧は、出家の來(きた)るべき所に非ず、甚(はなはだ)不審なり。日頃、我等が惡所業をなせしを、山の神の來りて止(と)め給ふものか、又は弘法大師抔の來り給ふて、誡め給ふのにやあらん、以來は、もふ[やぶちゃん注:「もう」。]毒揉は止(やめ)にするがよきぞと云もあれど、又、強氣成(つよきなる)者は聞入(ききいれ)ずして云樣、此深山へ日々入込居(いりこみを)るものが、山の神や天狗がこはくば、山稼は止(やむ)るがよし、心臆(こころおく)したるものは兎(と)もあれ、いざや、我々計り毒揉なすべしとて、究竟(くつきやう)なる[やぶちゃん注:力を持て余した。]元氣者共、二三人して、遂に其日も毒揉をなしにけり。將(ま)して得物も多き中に、イハナ[やぶちゃん注:硬骨魚綱サケ目サケ科イワナ属イワナ Salvelinus leucomaenis 或いは日本固有亜種ニッコウイワナ Salvelinus leucomaenis pluvius 又は日本固有亜種ヤマトイワナ Salvelinus leucomaenis japonicus。]の、その丈け六尺程の大魚を得たり。皆々悦びて、さきの坊主の異見に隨はゞ、此魚は得られまじなど、口々に云罵(いひののし)りて、やがて村へ持歸り、若き者共、大勢寄集(よりあつま)りて、彼(かの)大魚を料理(つくり)、腹を割(わり)たるに、こは如何に、晝、坊主に與へたる團子を初め、飯なども其儘あり。此時に至りて、かの強氣(がうき)なる者迄も氣分臆(おく)れて、この魚は、得食(えしよく)せざりしと也。昔より、イハナは坊主に化(ばけ)るとの事、右三ケ村邊(あたり)にても、土俗云傳(いひつたふ)る事なりしに、現に坊主に化來(ばけきた)りたると也。是は、予が知己、中川何某、先年、彼むらへ久敷(ひさしく)勤役(ごんえき)なし居(ゐ)て、慥(たしか)に聞來(きききた)る咄なり。信州御嶽山の前後には、四尺五尺に及びたる大イハナも、折節は居ることなりと云。此邊、何れにても、土俗、おしなへて坊主に成(なる)と云來(いひきた)る事也。予、文政三年【庚辰(かのえたつ)】[やぶちゃん注:一八二〇年。]の夏、木曾路旅行の時、イハナの坊主に成たる事や有(ある)と、所々尋下(たづねくだ)りけるに、奈良井(ならゐ)[やぶちゃん注:中山道の宿場奈良井宿。現在の長野県塩尻市奈良井。ここ(グーグル・マップ・データ)。西側に接して次の藪原地区も確認されたい。]・藪原[やぶちゃん注:現在の長野県西部の木曾谷の北部にある木祖(きそ)村の中心集落で、古くは「やごはら」とも呼ばれた。鳥居峠の南麓にあって同北麓の奈良井とともに中山道の峠越えの宿場町であり、同時に北西方の境峠を越えて飛彈高山へ出る飛彈街道の分岐点でもあって交通の要所として栄えた。木曾谷の伝統産業である「お六櫛」の生産の中心で、現在も製材・木工業が発達している。]邊(あたり)に至りて、人足の内に、イハナの坊主に成たりと云咄しを知り居(をり)たる者、兩人有。是は、水上、御嶽山より出て、東のかたへ流れ出(いづ)る何とか云(いふ)川の瀨にて、毒流(どくながし)[やぶちゃん注:「毒揉み」に同じ。]にて、珍敷(めづらしき)イハナを二尾まで取(とり)て、一尾は五尺餘あり、一尾は少しちいさく五尺程有との事。腹中に團子あり。その團子はその日、山中にて、坊主に與へたる覺(おぼえ)のある團子なれば、皆々甚だ恐れ候との咄は、慥に承り候得ども、我々は少し所違ひ故、その魚は得見申さず候といふ。前の三ケ村の咄と全く同じ樣成(やうなる)事にて、いづれも、御嶽山の麓續きながら、西と東の違ひ故、その場所は三四十里程隔たれば、全く別の事也。狐は女と成(なり)、狸は入道と成、猫俣(ねこまた)は老婆と成(なる)の類(たぐひ)にて、イハナは坊主と化る者と見えたり。【濃州武儀(むぎ)郡の板取川(いたどりがは)[やぶちゃん注:現在の岐阜県と福井県の県境付近を水源として岐阜県関市・美濃市を流れ、長良川に合流する木曽川水系の河川。ここ(グーグル・マップ・データ)。]には大なるイハナ澤山にて、常々坊主に化て出(いづ)ると也、猶、其事は其地の者に篤(とく)ときゝ探りて、重ねて委(くはし)く記す積りなり。[やぶちゃん注:残念ながら、その後巻は現存しない。]】

[やぶちゃん注:以下の一段落は底本では全体が二字下げ。]

 

 イハナは甲州・信州などの山川に生(うま)る魚也。ヤマメ[やぶちゃん注:山女はサケ目サケ科サケ亜科タイヘイヨウサケ属サクラマス亜種ヤマメ(サクラマス)Oncorhynchus masou masou。]といふ魚の類(たぐひ)にて、鮎に似たる魚也[やぶちゃん注:イワナは現在の魚類の分類学ではヤマメの同類ではないし、またアユ(キュウリウオ目キュウリウオ亜目キュウリウオ上科キュウリウオ科アユ亜科アユ属アユ Plecoglossus altivelis とも全く似ていない。]。ヤマメは斑文有(あり)、イハナは斑文なしといふ[やぶちゃん注:この説明もおかしい。ヤマメは確かに体の側面に上下に長い木の葉或いは小判状を呈した斑紋模様(パー・マーク)があるが、イワナ種群にも概ね白い斑紋が顕著に存在するからである。]。本草綱目啓蒙の嘉魚(かぎよ)[やぶちゃん注:岩魚の別名。]の條に、イハナ【津輕】一名山寐魚【通雅】溪ノ深淵中ニ産シ、巖穴ニ居ル故ニ、イハナト名ク、形チ鱒魚ニ似テ小ク、白色ニシテ、ヤマベ[やぶちゃん注:ここは「ヤマメ」の東北地方での地方呼称。面倒なことに関東地方では「ヤマメ」は全くの別種「追河(おいかわ)」(コイ目コイ科 Oxygastrinae 亜科ハス属種オイカワ Opsariichthys platypus)を指すので注意が必要。]ノ如クナル班紋[やぶちゃん注:「班」はママ。以下同じ。注さない。]ナシト云々。又、ヤマべハ津輕ノ方言ニシテ、京師ニテハアマゴ[やぶちゃん注:この記載は現行ではアマゴ(漢字表記は「甘子」など)はサケ目サケ科タイヘイヨウサケ属サクラマス亜種サツキマス Oncorhynchus masou ishikawae の陸封型を指すので誤りである。]ト云(いひ)、一名ミヅグモアメゴ【伊州】イモコ【若州】ヒラッコ【和州白矢村[やぶちゃん注:現在の奈良県吉野郡川上村白屋(しらや)のことか? ここ(グーグル・マップ・データ)。]】ヤマガハ【丹後】マコ【同上】ヱノハ【大和本草、雲州ノエノハハ別ナリ。[やぶちゃん注:出雲の「エノハ」は海産のスズキ目スズキ亜目ヒイラギ科ヒイラギ属ヒイラギ Nuchequula nuchalis を指す。】形チ香魚(アユ)ノ如ク、長サ七八寸、身ニ黑班及細朱點アリ[やぶちゃん注:おかしい。朱(紅)色の点紋が有意に目立つのはイワナではなくヤマメである。小野蘭山は後で別種とか言っているが、以下の叙述を見ても少なくともこの部分ではイワナとヤマメをごっちゃにして記載しているとしか思われない。実際の魚体を観察せずに語っている可能性が極めて高く、信用が措けない。]、鱗細ナリ、奧州・和州、及他州ニ産スル者ハ、黑班ノミニシテ朱點ナシ。是、廣東新語[やぶちゃん注:清初の屈大均(一六三五年~一六九五年)撰になる広東地誌及び人物風俗記録。]ノ似嘉魚(ニカギヨ)ナリと云々、ヤマべとイハナとは、ボラ[やぶちゃん注:ボラ目ボラ科ボラ属ボラ Mugil cephalus。]とアカメ[やぶちゃん注:スズキ目スズキ亜目アカメ科アカメ属アカメ Lates japonicus。海産の大型種であるが汽水域にもよく入り込む肉食魚。和名は「赤目」で、眼が暗い場所で光を反射すると角度によっては赤く光ることに由来する。しかし、ボラとアカメは全く似てなんかいない。この謂いもおかしい。蘭山は「アカメ」を他の魚と誤認している可能性が高いように思われる。]のことく、同じ樣成(やうなる)ものにして、全く別種なり。ヤマメは瀧の上に居(をり)、イハナは瀧の下に住もの也。濃州の武儀部の板取川にては、三尺以上のヤマメの事を鼻(はな)マガリと云。岩川にて大きくなれば、鼻曲るゆゑとぞ。又、同じ地續き、同國郡上郡の郡上川にてはアマゴと云て、味甚だ宜しと。三尺以上の大なる分をアマヽス[やぶちゃん注:異様に大きいことから見て、これはサケ目サケ科イワナ属イワナ亜種アメマス Salvelinus leucomaenis leucomaenis と思われる。アマゴ(サツキマス)は大きくなっても五十センチメートル程度でこんなに大きくはならない。]といふ。風味、鱒の通りなれども、少し劣れりと。諸國とも、方言は種々なる故、分り兼るなり。

 

 又、老媼茶話に曰(いはく)。慶長十六年【辛亥】[やぶちゃん注:一六一一年。]七月、蒲生飛彈守秀行卿、只見川毒流しをし給へり。柿澁、蓼(たで)、山椒の皮、家々の民家にあてゝ[やぶちゃん注:分担させて。]舂(つき)はたく。此折節、フシと云(いふ)山里[やぶちゃん注:不詳。原典(後注のリンク先)を参照のこと。]へ、旅行の僧、夕暮に來り、宿をかり、主(あるじ)を呼(よび)て、此度の毒流しのことを語り出し、有情非情に及(およぶ)まで、命を惜まざるものなし。承るに、當大守、明日、此川へ毒流しをなし給ふと也。是、何の益ぞや。果して業報(ごふほう)を得玉(えたま)ふべし。何卒、貴殿、其筋へ申上、とゞめ玉へかし。莫大の善根なるべし。魚鼈(ぎよべつ)の死骨を見給ふとて、大守の御慰みにも成(なる)まじ。いらざる事をなし給ふ事ぞかしと、深く歎きける。主も旅僧の志をあはれみ、申樣(まうすやう)、御僧の善根、至極、理(ことわり)にて候得ども、最早、毒流も明日の事に候上、我々しきの[やぶちゃん注:我々のようなる。]賤(いやし)きもの、上樣へ申上候とて、御取上(おとりあげ)も是(これ)有(ある)まじ。此事、先達(せんだつ)て、御家老の人々、御諫め有(あり)しかども、御承引御座なく候と承り候ひしと云。扨(さて)、我身も隨分の貧者にて、參らする物もなし、佗しくとも聞(きこ)し召(めし)候へとて、柏の葉に粟(あは)の飯をもりて、旅僧をもてなしける。夜明(よあけ)て、僧深く愁(うれひ)たる風情(ふぜい)にて、いづくともなく出去(いでさ)れり。扨又、曉には、家々より件(くだん)の毒類持運(もちはこ)び、川上より流しける。異類の魚鼈、死(しに)もやらず。ぶらぶらとして、さしもすさまじき毒蛇ども浮出(うかみいで)ける。其内に、壹丈四五尺計(ばかり)[やぶちゃん注:四・二四~四・五四メートル。]の鰻、浮出けるに、その腹、大きにふとかりしかは[やぶちゃん注:「は」はママ。]、村人、腹をさき見るに、粟の飯、多く有。彼(かの)あるじ、是を見て、夕べ宿せし旅僧の事を語りけるにぞ、聞(きく)人、扨は其坊主は鰻の變化(へんげ)來りけるよと、皆々憐れに思ひける。同年八月廿一日、辰の刻、大地震山崩れ、會津川の下の流(ながれ)をふさぎ、洪水に會津四群[やぶちゃん注:「群」はママ。]を浸(ひた)さんとす。秀行の長臣、町野左近・岡野半兵衞、郡中の役夫を集め是を掘開(ほりひら)く。此時、山崎の湖水、出來(いでき)たり。柳津(やないづ)の舞臺[やぶちゃん注:福島県河沼郡柳津町にある臨済宗靈岩山圓藏寺(えんぞうじ)の本堂正面の只見川を望む舞台のこと。ここ(グーグル・マップ・データ)。]も、此地震に崩れ、川へ落ち、塔寺の觀音堂、新宮の拜殿も倒れたり。其明(あく)る年五月十四日、秀行卿逝(せい)し給へり。人骨、河伯龍神の祟りなりと恐れあへりと云々。【此茶話と云は、今會津藩の三坂氏の人の先祖なる由、三坂越前守隆景の後[やぶちゃん注:後裔。]、寛保年間にしるす書にて、元十六卷有(あり)て、會津の事を多く記したり、此本、今、零本(れいほん)[やぶちゃん注:完全に揃っている本を完本と称するのに対し、半分以上が欠けていて、残っている部分が少ない場合を「零本」という。零は「はした・少し」の意で「端本(はほん)」に同じい。]と成(なり)て、漸(やうやう)七八卷を存せり、尤(もつとも)、其家にも全本なしと聞傳(ききつた)ふ、如何にや、多く慥成(たしかなる)、怪談等を記す。】全く同日の談也。依(より)て、併せ記し置きぬ。鰻も數百歳を經ては、靈に通ずるもの歟。【七の卷に記し置(おき)たる大鰻と見合(みあは)べし。[やぶちゃん注:七巻は現存しない。]】扨又、毒流しの事は、古くより有(ある)事と見えたり。三代實錄に、元慶六年[やぶちゃん注:八八二年。]六月三日、僧正遍昭、七ケ條を起請せし中に、流ㇾ毒捕ㇾ魚事を禁ぜらるゝ條有。又、東鑑に、文治四年[やぶちゃん注:一一八八年。]六月十九日、二季彼岸放生會の間、於二東國一可ㇾ被ㇾ禁二斷殺生一、其上如二燒狩毒流之類一向後可二停止一之由、被ㇾ定訖云々。左(さ)すれば、上古は、毒流しは國禁なる事と知れたり。毒流しは、山椒の皮と薯蕷(やまのいも)と石灰とを和して沈(いづむ)る所も有。又は、辛皮(からかは)【山椒の皮也。】胡桃(くるみ)の皮、唐辛(たうがら)しを石灰にて煮詰(につめ)、或は多葉粉(たばこ)の莖、又は澁(しぶ)かきなど、國々にて色々の仕方有(ある)事と見えたり。大同小異なり。

[やぶちゃん注:「老媼茶話」「ろうおうさわ」(現代仮名遣)は会津藩士と思われる三坂春編(みさかはるよし 宝永元・元禄十七(一七〇四)年?~明和二(一七六五)年)が記録した会津地方を中心とする奇譚を蒐集したとされる寛保二(一七四二)年の序を持つ怪談集。最も知られるのは「入定の執念」で、これは原文と私の注及び現代語訳をリンク先で読める。未見の方は是非。私がハマりにハマった大変面白い怪談である。ここに出る「老媼茶話」の「卷之弐」に載る「只見川毒流」(ただみがはどくながし)は、本件に類似した話柄(但し、舞台は江戸)である私の電子化訳注「耳囊 之八 鱣魚[やぶちゃん注:鰻。の怪の事の注で既に電子化注してあるので、参照されたい(なお、比べて戴くと判るが、想山は一部をカットしている)

「蒲生飛彈守秀行卿」蒲生秀行(がもうひでゆき 天正一一(一五八三)年~慶長一七(一六一二)年五月十四日)は従四位下・飛騨守・侍従。蒲生氏郷の嫡男。天正一八(一五九〇)年に伊達政宗(会津は伊達政宗旧領)を抑えるため、秀吉の命で伊勢より陸奥国会津に移封されたが、後の慶長三(一五九八)年にやはり秀吉の命で会津から宇都宮へ移封されている。後の関ヶ原の戦いでの軍功によって没収された上杉領のうちから陸奥に六十万石を与えられて会津に復帰した。しかし、会津地震や家中騒動の再燃などが重なり、その心労などのために死去した。享年三十で若死である。

「同年八月廿一日、辰の刻、大地震山崩れ、會津川の下の流(ながれ)をふさぎ、洪水に會津四群を浸さんとす」会津地震。慶長十六年八月二十一日(グレゴリオ暦一六一一年九月二十七日)午前九時頃に会津盆地西縁断層帯付近を震源として発生した直下型地震で、地震の規模はマグニチュード六・九程度と推定されているが、震源が浅かったため、局地的には震度六強から七に相当する激しい揺れがあったとされる。記録によれば、家屋の被害は会津一円に及び、倒壊家屋は二万戸余り、死者は三千七百人に上った。鶴ヶ城の石垣が軒並み崩れ落ち、七層の天守閣が傾いたほか、本文で後に記されるように、多くの寺社仏閣も大きな被害を受けた。また、各地で地滑りや山崩れが発生、特に喜多方市慶徳町山科付近では、大規模な土砂災害が発生して阿賀川(当時の会津川)が堰き止められたため、東西約四~五キロメートル、南北約二~四キロメートル、面積十~十六平方キロメートルにもなる山崎新湖が誕生、二十三もの集落が浸水した。その後も山崎湖は水位が上がり続けたが、河筋のバイパスを設置する復旧工事によって三日目あたりから徐々に水が引き始めた。しかしその後の大水害もあり、山崎湖が完全に消滅するには実に三十四年(一説では五十五年)の歳月を要し、そのため、移転を余儀なくされた集落も数多かった。さらに旧越後街道の一部がこの山崎湖に水没し、勝負沢峠付近も土砂崩れにより不通となって、同街道は会津坂下町から鐘撞堂峠を経由するものに変更を余儀なくされたされた(以上はウィキの「会津地震」に拠った)。この秀行自らが指揮を執った大々的な毒流しは同年七月であるから、地震発生は僅か一ヶ月後のことで、事実とすれば、これを「祟り」とした人心はすこぶる理解出来る。]

「町野左近」氏郷以来の忠臣の家系。

「岡野半兵衞」不詳ながら、同前であろう。

「柳津の舞臺」福島県河沼郡柳津町にある臨済宗靈岩山圓藏寺(えんぞうじ)の本堂正面の只見川を望む舞台のこと。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「塔寺の觀音堂」現在の福島県河沼郡会津坂下町塔寺字松原にある真言宗豊山派金塔山恵隆寺。本尊は十一面千手観音菩薩で、寺自体を立木観音と通称する。この観音も会津地震で倒壊している。

「新宮の拜殿」現在の福島県喜多方市慶徳町新宮にある新宮熊野神社。ウィキの「新宮熊野神社」によれば、天喜三(一〇五五)年の『前九年の役の際に源頼義が戦勝祈願のために熊野堂村(福島県会津若松市)に熊野神社を勧請したのが始まりであるといわれ、その後』の寛治三(一〇八九)年の『後三年の役の時に頼義の子・義家が現在の地に熊野新宮社を遷座・造営したという』源氏所縁の神社であったが、後、盛衰を繰り返した『慶長年間に入り蒲生秀行が会津領主の時』、本社は五十石を支給されたが、『会津地震で本殿以外の建物は全て倒壊してしまった』とある。以上見るように、蒲生秀行が毒流を強行した只見川周辺及び彼が助力した会津を守護するはずの神社仏閣が悉く倒壊、秀行もほどなく死したという紛れもない事実を殊更に並べ示すことによって、まさに典型的な祟り系の怪談に仕上げられていることが判る

「三代實錄」正しくは「日本三代實錄」。平安時代に編纂された歴史書で「六国史」の第六に辺り、清和天皇・陽成天皇・光孝天皇の三代に相当する、天安二(八五八)年八月から仁和三(八八七)年八月までの三十年間を扱ったもの。延喜元(九〇一)年成立。編者は藤原時平・菅原道真・大蔵善行・三統理平(みむねのまさむら)。編年体で漢文。全五十巻。

「僧正遍昭、七ケ條を起請せし中に、流ㇾ毒捕ㇾ魚事を禁ぜらるゝ條有」で原文が読めるが、七箇条の最後に(一部の表記を恣意的に変更した)、

   *

其七。應禁流毒、捕魚事。如聞。諸國百姓、毎至夏節、剝取諸毒木皮、搗碎散於河上。在其下流者、魚蟲大小、擧種共死。尋其元謀、所要在魚、至于蟲介、無用於人。而徒非其要、共委泥沙。人之不仁、淫殺至此。夫先皇永遺放生之仁、後主盍除流毒之害。伏望。自今以後、特禁一時之殺、將救群蟲之徒死

   *

とあるのを指す。

「東鑑に、文治四年[やぶちゃん注:一一八八年。]六月十九日、二季彼岸放生會の間、於二東國一可ㇾ被ㇾ禁二斷殺生一、其上如二燒狩毒流之類一向後可二停止一之由、被ㇾ定訖云々」「吾妻鏡」の「卷第八」の文治四年六月の最後の条に(私が書き下した)、

   *

十九日、二季の彼岸放生會(はうじやうゑ)の間、東國に於いて殺生(せつしやう)を禁斷せらるべし。其の上、燒狩(やきがり)・毒流しの類ひのごときは、向後(きやうご)、停止(ちやうじ)すべきの由、定められ訖(をは)んぬ。諸國に宣下(せんげ)せらるべきの旨、奏聞を經らるべしと云々。

   *

とある。

「薯蕷(やまのいも)」一応、かく読みを振ったが、毒流しの材料としては私はこれはナス目ナス科ハシリドコロ属ハシリドコロ Scopolia japonica のことを指しているのではないかと実は疑っている。本種は「走野老」と書き、これはトコロ(野老)は全くの別種であるユリ目ヤマノイモ科ヤマノイモ属 Dioscorea の蔓性多年草の山芋(=薯蕷(音は「ショヨ」))の一群を総称するものとして用いられる語で、混同されやすいからである。しかもハシリドコロは強い毒性があり、「走野老」という和名は「食べると錯乱して走り回ること」及びその根茎が「トコロ(野老)」に似ていることに拠るからである。その毒成分はアルカロイド類のトロパンアルカロイドを主とし、全草が有毒で、特に根茎と根の毒性が強い。人間の中毒症状としては嘔吐・下痢・血便・瞳孔散大・眩暈・幻覚・異常興奮などで、最悪の場合には死にさえ至る。これは同じ西洋の毒殺にしばしば使われたことで知られるベラドンナ(ナス科オオカミナスビ属オオカミナスビ Atropa bella-donna)などと同様の症状を呈する(以上は主にウィキの「ハシリドコロに拠った)。「毒揉み」に用いるのなら、これでしょう!

「胡桃(くるみ)の皮」クルミ(マンサク亜綱クルミ目クルミ科クルミ属 Juglans)の樹皮や果実の外皮には多量のタンニンが含まれ、古くから毒流しの素材として用いられてきた。]

 

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