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2017/05/27

「想山著聞奇集 卷の四」 「日光山外山籠り堂不思議の事 幷、氷岩の事」

 

想山著聞奇集 卷の四

 

 

 日光山(につかうざん)外山(とやま)籠り堂不思議の事

  幷(ならびに)、氷岩(こほりいは)の事

 

Nikkouzantoyama

 

 野州日光山の内、御山(おんやま)に向ひて直(ぢき)に右の方(かた)は、稻荷川と云大河流れ出、其川の向(むかふ)に、外山と云有。全く山中の孤山にして、登り十八町有といへり。段々登る程、急なれども、十町め迄は、たゞ順に急成(なる)坂也。此所(このところ)に、僅二三間の足溜(あしだま)り有(あり)て、鳥居有。後ろを顧り見れば、【右山よりは正面なり。】大谷川(だいやがは)の末、絹川[やぶちゃん注:大谷川は外山の西方直線で十五キロメートルほどの地点で本流鬼怒川に注ぐ。]へ落入(おちいり)て、常州の方迄、川末(かはすへ)の直流廿餘里、一眺(ひとめ)に見渡して絶景也。扨、此所より上は、峨々たる絶崖にして、胸を射る心地して、甚(はなはだ)登り難し。巖石に、僅(わづか)づゝ足を踏立(ふみたつ)るほどの跡有りて、巖(いわほ)の角、蔦蔓(つたかづら)の根にとまりとまりて、漸(やうやく)、頂(いたゞき)に登り得たり。先達(せんだつ)のもの、旅亭(りよてい)より明樽(あきだる)をひとつ用意して行(ゆき)、彼(かの)稻荷川を渡る時に、水を汲取(くみとり)て持(もち)たり。是は何にするぞと尋問(たづねとふ)に、此山上には水なし。山を登り給ふ苦しさに、渇(かつ)し給へるを助くべき爲也と云。予、壯年の事にて、殊にか樣の所へ行と、人よりも勇氣增す性(しやう)ゆゑ、甚おかしく思ひ、僅成(わづかなる)此山に登ればとて、苦しさの餘り、渇するとは心得ぬ事を申もの哉。去(さり)ながら、久敷(ひさしく)、此土地に居て、別(べつし)て功者(こうしや)との事ゆゑ、先達もさせ、案内にも賴(たのみ)たる事なれば、定(さだめ)てやうこそ有䌫(あるらん)と思ひながら、登りたるに、七八分目に至りては、纔(わづか)、差居(さしおき)たる刀、目に懸(かゝ)り、跡の方(かた)へ曳(ひか)るゝ樣にて、殊の外、邪魔となりたり。去ながら、元氣に任せて勇み進んで登るに、八九分目に至り、勢(せい)を揉(もみ)たる苦しさにて、喉(のど)渇する事、甚敷(はなはだしく)、登り極(きはめ)て後は、中々渇して、聲も出ざる程也。此時に彼水を呉れたる故、一二椀のみて、漸(やうやう)喉を濕(うるほ)したる心地、誠に甘露の如く、たとふるに物なかりし。是にて其急成(なる)事を押(おし)てしるべし。且、我(わが)短智(たんち)を以て、人のする事を侮り輕(かろ)しむべからず。扨、絶頂は如何にも僅成やうなれども、少しは畾地(らいち)[やぶちゃん注:- 《「らいぢ」とも》余分の土地。空き地。]も有て、一間[やぶちゃん注:一・八メートル。]四面程の石疊の堂あり。内に一杯(はい)なる厨子有て、堅く戸ざしたり。【作物の多聞天安置にて、當山の鬼門に當れば守護の爲也と云。】此前に二間に九尺の籠り堂有。

[やぶちゃん注:「外山」現在の栃木県日光市萩垣面(はんがきめん)にある標高八百八十メートルの山。ここ(グーグル・マップ・データ)。その南西の流れが後に出る大谷川(だいやがわ)の支流稲荷川。ウィキの「外山(前日光)」によれば、『旧日光市街地に近い稲荷川(大谷川の支流)沿いに登山口があり、山頂まで登山道が通じている。この登山口から外山山頂までは徒歩で』三十『分から小一時間程度であり、小休止を入れても往復』二~三時間も『あれば登山が可能である』とある。挿絵及び埼玉大学教育学部の「今昔マップ on the web」の明治中期の地図と対比で、ここで述べている登攀ルートが概ね判る。

「十八町」凡そ二キロメートル弱。

「十町」一キロ九十メートル。

「二三間」三・六四~五・四五メートル。

「絹川」大谷川は外山の西方直線で十五キロメートルほどの地点で本流鬼怒川(きぬがわ)に注ぐ。

「一眺(ひとめ)」底本では「一眺眼」とあるが、原典とそのルビに従った。

「定(さだめ)てやうこそ有䌫(あるらん)」「やう」は訳・事情。「要」は「えう」であるから歴史的仮名遣から見るなら、あり得ない。

「七八分目」残り八町分のそれ(割合)を指す。後の「八九分目」も同じ。

「畾地(らいち)」余分の土地。空き地。

「一間」一・八メートル。

「一杯(はい)」ママ。厨子の助数詞としては不審。

「作物の多聞天安置にて、當山の鬼門に當れば守護の爲也と云」ウィキの「外山(前日光)」には、『日光山輪王寺、日光東照宮、日光二荒山神社の鬼門にあたる北東に位置することから、山頂部にはこれを守護するため毘沙門堂が建てられ毘沙門天が祀られている。毘沙門堂はかつて木製であったが、現在は石製のものに造り替えられている』とあるが、天部の仏神毘沙門天(持国天・増長天・広目天とともに四天王の一尊に数えられる武神)は四天王としては「多聞天」として表わされるからおかしくない。なお、原典では「多聞天」には「たもんでん」とルビが振られてある。]

 

Kohoriiha

 

扨、右の石にて作りたる堂の後の方は、少し凹(なかくぼ)にて次の小高き所に、石の不動尊三躰計(ばかり)有のみにて、外には何も立(たつ)る程の場所もなく、芝生の兀山(はげやま)也。【日光山志[やぶちゃん注:八王子千人同心組頭で、「武蔵名勝図会」「新編武蔵風土記稿」を完成させ、「新編相模国風土記稿」の編纂にも従事した植田孟縉(うえだもうしん)著・渡辺崋山・画になる日光地誌。天保八(一八三七)年刊。]には、堂の廻りに松樅數根、岩間に生ひ茂りと有ども、予が登りたる時は、山上(さんじやう)には木とては一本もなく、山の裏の方(かた)には、纔、人の背丈の雜木まばらに生居(はえゐ)たり。】麓とても、木材一本もなく、平(ひら)一面の芝生也。此(この)籠(こも)り堂の内を見れば、壹坪半(ひとつぼはん)の所は土間、其餘は疊三重敷(さんでふじき)也。此所に、十六七歳計なる百姓躰(てい)の男子(なんし)壹人、前に線香を三本程燈し置(おき)て、顏を擧(あげ)て一目見たるなりに、物をもいはず、何か物有りげに、まごまごとして蹲(うづくま)り居(ゐ)たり。彼(かの)連行(つれゆき)たる先達の男(をとこ)、此者に言葉を懸て、いつ來りしぞと問。此男、をとゝひ來りしと答ふ。夫(それ)では三日だな、苦しからふ、三日め四日目が難儀だ、慥に思ひてやりそこなふなよと云。アイアイ有難うこざりますといらふ。一昨日より一人かと問ふ。おとゝひは、外に二人居て、壹人歸り、又きのふ、一人歸りしといふ。あすは又、誰(たれ)ぞ來(きた)るらん。兎角しんぼうが大事だぞ、水をやらんとて一椀呑(のま)せて後(のち)、此殘りの水もやるべし、茶椀もやろう、有難く思ひて、少しつゝ戴けよと云。扨も此者こそ、この所へ斷食(だんじき)して籠りたるの也[やぶちゃん注:「なり」と読んでおく。]と心得て、夫より先達に委敷(くはしく)問(とふ)に、冬の内は雪多く、寒氣も甚敷まゝ、籠る人もなく候らへども、夏の内は二人も三人も重(かさな)る事は御座候得とも[やぶちゃん注:「と」はママ。]、一人も絶(たえ)る事は御座なく候。私なども若き時は、毎年(まいねん)の樣に、又しても又しても籠りましたと云。其樣(そのやう)に、何故に度々籠りたるや、心願有ての事か、又は慰みかととふ。中々、慰み所(どころ)の事にては御座なく、皆、心願有ての事也と答ふ。其心願は何事にや、格別、靈驗(れいげん)も有哉(あるや)と問ふに、きくともきくとも、きかぬと申事は御座なく候。其心願と云は、銘々色々の事にて、御咄(おはなし)の申樣(やう)もなけれども、先(まづ)、親の病氣を祈りたり。或は私(わたくし)子供の節(をり)、手習嫌(てならひぎら)ひ故、一向、目が見えませぬ。何卒、手紙など認(したゝめ)たり讀(よみ)たり仕る樣にと願ひ、又、職藝(しよくげい)をば人並にさせて下されとか、何とか、種々(しゆじゆ)の願ひにて御座候と云。予、思ふ樣、今、顯密兩宗(けんみつりやうしゆう)[やぶちゃん注:「顕教」と「密教」の両学派。「顕教」とは、衆生を教化するために姿を示現した釈迦如来が秘密にすることなく明らかに説き顕した教え及びその経典の修学を指し、「密教」とは、真理そのものの姿で容易に現れない大日如来が説いた、容易に明らかに出来ない奥義としての秘密の教え及びそれが記されているとする経典の修学を指す。真言宗開祖の空海が「密教」が勝れているとする優位性を主張する立場から分類した教相判釈の一つであって宗派ではない。]の僧侶等(とう)、行法によりて、一七日[やぶちゃん注:「ひとなぬか」と読んでおく。]も斷食して法を傳へ、或は物を祈るなどの刻(きざみ)[やぶちゃん注:その折り。]は、甚以て手重(ておも)なる[やぶちゃん注:困難で容易でないさま。]事なるに、此地にて、此所へ來りて斷食する事は、一向、容易なる有さまにて、しかもさしてもなき事に凝(こ)り堅(かたま)りて祈る故、ぜひ、其(の)應(おう)は有て、能(よく)きく筈(はづ)と、初(はじめ)て發明なしたり。江戸などにて斷食するには、腹力(ふくりよく)なく、二便(にべん)[やぶちゃん注:再度。]に行(ゆく)事さへ甚(はなはだ)難儀と聞(きゝ)たるに、此堂に籠りたる中(うち)、元氣者は毎朝、夜の明(あけ)ぬ内に稻荷川迄下(お)りて、夜の明る所にて、人しれず、川中にて水を浴(あび)て垢離(こり)を取(とり)、祈誓する事とぞ。その位成(くらいなる)氣性(きしやう)のをのこは、別(べつし)て能(よく)きゝ、既に右先達などは、いつにても水をあび、其替りに[やぶちゃん注:「そのお蔭で」の意でとっておく。]よくきゝたりと咄したり。實(まこと)に左も有べき道理とこそ思はる。然るに、爰(こゝ)に不思議なる事のありて、願(ぐわん)の成就成難(なりがた)き者は、必ず一七日の籠り出來兼(かね)、下山する事とぞ。先達の云、衆人、始は成し遂(とぐ)る氣分にても、僅(わづか)一日二日居て、斷食の悲敷成(かなしくなり)て止(やめ)る程の者は、論(ろん)に懸(かゝ)らぬ[やぶちゃん注:お話にもならない。]事なれば、申迄もなき事ながら、根性も慥(たしか)にて、しかも信心堅固にて籠りたる者にも、障碍(しやうげ)をなされて滿願成り兼、下山するものも澤山に御座候て、夫(それ)は夫は恐敷(おそろしき)事に御座候と云。成程、左も有べき事にこそ。是、佛家(ぶつか)に云(いふ)前世(ぜんぜ)の宿緣の惡敷(あしき)にて、所謂、後生(ごしやう)の惡しきのと知られたり。扨、其障碍と云は如何なる事ぞ、具(つぶさ)に語り聞せよと、又、懇(ねんごろ)に問返すに、夫は色々成(なる)事にて、衆人一樣ならざれども、先、大凡(おほよそ)は、夜(よ)に入(いり)て後(のち)寐ると、夢現(ゆめうつ)つともなく、大風(たいふう)吹來り、此籠り堂、今にも吹落さるゝ樣成心持するまゝ、溜り兼て、アヽと叫(さけび)て飛起見れば、何事もなく、傍(かたはら)には同宿の願人(ぐわんにん)有(あり)て、何事なく臥(ふせ)り居(を)れば、夢にて有しか、扨々恐敷事也と思ひて又寢ると、今度は大地震して、瓦落(ぐわら)瓦落[やぶちゃん注:オノマトペイア。面白い!]と山の崩るゝ有さま故、又、溜り兼、飛起て、傍の同宿をも起し、誠にか樣か樣なりと告(つぐ)るに、其時、同宿は何事もなく熟睡なし居(ゐ)て、夫(それ)は自分の心柄(こゝろがら)ならん、我は何事もなし、落付(おちつき)て臥り給へといふゆゑ、成程と心を取直して寐るに、又、初のごとく、此堂、空(くう)へ吹飛されし心持などして、終夜、得寢(えいね)ずして夜を明かして後、逃歸るもの多く、邂逅(たまさか)、一夜二夜は堪ゆれども、欝々と寐懸(ねかゝ)ると怪事出來(でき)るゆゑ、同宿の熟睡する傍に、每夜唯壹人、寢る事もならず起居て、身躰(しんたい)勞(つか)れ果(はて)て、遂に半(なかば)に及びて、止(やむ)事を得(え)ず、下山するもまゝ有(ある)事にて、甚敷に至りては、種々の怪神(くわいしん)來りて、籠り堂を蹴落さるゝ心持[やぶちゃん注:「する者」などの略か脱字。]などもあり。まだまだ人にも言れぬ恐敷目に逢(あひ)申者も御座候へども、同宿[やぶちゃん注:そうした恐怖に遭い、大騒ぎをする者と同宿した者でそうした異常体験を全くしない祈願者。]には聊も障り御座なく、是が神事(かみごと)にて候と語りたり。【か樣の者は必ず願望成就はせざるものとぞ。】此事、差(さし)たる怪と云にはあらねども、則(すなはち)、神明(しんめい)の赫々(かくかく)たるにて、權現(ごんげん)の所爲(しよゐ)とも申べき歟(か)。心して聞置べき事にこそと思ふ故、長々と書付置ぬ。日光山の近隣は申迄もなく、野州一國の者は、若き時には、ぜひ何事か心願有て、多くは籠る事ありとぞ。家内(かない)のもの家出すれば、先、籠り堂へ尋(たづね)ゆけとて來り見て、籠り居(を)れば、如何成事の有ても、一切捨置、連歸らぬこととぞ。左も有べき事也。扨又、此山の麓うらの方に當りてとやま平原に、僅(わづか)方(はう)一丈[やぶちゃん注:三メートル三センチ。]餘りの所、地中より上へ五六尺も巖面(がんめん)出居(いでゐ)、凸凹(なかどつなかくぼ)と成居(なりゐ)て、其凹成(なかくぼなる)皺間(しはあひ)に、夏日(かじつ)、氷生(しやうず)る事也と。冬は却(かへつ)て原一面に雪とは成ども、皺間の氷はなきとぞ。予が行たるは文政六年【癸未】四月央(なかば)[やぶちゃん注:一八二八年。例えば同年の旧暦四月十五日はグレゴリオ暦で五月二十八日である。]の事也しが、氷、澤山に有たり。土用[やぶちゃん注:この場合は立秋前後現在の八月七日頃の前十八日間。]中は、今一入(ひとしほ)增(まさ)るといふ。此氷岩は、日光七奇(ひちき)[やぶちゃん注:この名数も不詳。やはりネットでは全く掛かってこない。識者の御教授を乞う。]の一にて、衆人のしる事也。此原に、かたくり甚だ多し。珍敷(めづらしき)藥品も種々有との事なれども、予は本草にも疎(うと)ければ、辨(わきま)ふる事あたはず、實(じつ)に靈地の佳境なり。日光の事は、貝原益軒の日光名勝記、或は籬嶋秋里(りたうしうり)の木曾名所圖繪等にも見えて、人の能(よく)知(しる)所也。又、近來(きんらい)、日光山志出來て、一山(さん)の事、委(くは)しけれども、此(この)籠り堂の事は見えず。是は予、現に見聞(けんぶん)したる事故、別て慥に記し置ぬ。

[やぶちゃん注:「かたくり」単子葉植物綱ユリ目ユリ科カタクリ属カタクリ(片栗)Erythronium japonicum。食用澱粉として古来から有名であるが(但し、過食すると下痢を起こす場合がある)、漢方では外用として擦り傷・できもの・湿疹に、風邪・下痢・腹痛の予後の滋養として水と砂糖を適量加え、よく捏ねた上で熱湯を入れ、「葛湯」のようにして飲用する。

「貝原益軒の日光名勝記」儒学者・本草学者貝原益軒(寛永七(一六三〇)年~正徳四(一七一四)年)が正徳四(一七一四)年に刊行した紀行。日光への旅行案内としての機能を持ち、これを読んだ多くの人々が日光へと押し寄せたという。

「籬嶋秋里(りたうしうり)の木曾名所圖繪」江戸時代の読本作者で俳人でもあった秋里籬島(あきさとりとう 生没年不詳:後に爆発的に板行されることになる名所図会シリーズの先駆者として知られる。京の人で本姓は「池田」であるが「秋里」を称した籬島は号)が文化一一(一八一四)年に板行した「木曾名所圖會」。「ウィキの「秋里籬島によれば、安永(元年は一七七二年)から文政期(末年は一八三〇年)に『活躍、名所図会の編著者として知られており、随筆、紀行文などの他、読本の著作もあり、極稀に自ら挿絵も描いている』。数多く書いた各地の名所図会の中でも、安永九(一七八〇)年刊の「都名所圖會」(竹原春朝斎・画)が代表作として著名(私でさえ持っている)。なお、木曾なのにと不審に思われる(私も思った)と思うが、国立国会図書館デジタルコレクション同書目次を見ると、西の大津を振り出しに木曽路を辿ったそれは、最後の巻六を、まるまる「日光」に当てていることが判った。]

 

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