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2017/05/16

南方熊楠 履歴書(その34) 南方「性」談

 

 右の次第にて小生は、南隣の主人の無法のために五年来の試験を打ち切らざるを得ざることとなりしにつき、県知事始め友人ら、これ全く小生多年あまりに世間とかけ離れて仙人棲居(すまい)をせし結果なれば、何とかして多少世間に目立ち、世人より敬せられ保護さるるようの方法を講ずべしとのことにて、協議の末生まれたのが植物研究所で、その首唱者は、拙弟常楠と田中長三郎氏(趣意書の起草者、大阪商船会社、中橋徳五郎氏の前に社長たりし人[やぶちゃん注:ここに底本では編者による括弧書き補正注『の令息』が入っている。])なりし。しかるに、この常楠というもの、幼時は同父同母の兄弟として至って温厚篤実の者なりしが、その妻が非常の悍婦にて、もと小生ごとき成り金ものの悴とかわり、代々名高かりし田舎長者の娘なり。にわか大名がひたすら公卿の娘を妻として誇りたきごとく、小生の父亡後、母が以前士族に奉公したことがあるので、悴に旧家より嫁をとりやりたしとて、この女を弟の妻としたるなり。その女の兄は明治十九年に妻を娶り、少しの間に狂を発し、今に癲狂院に入りおり、時々平癒して帰休するとまた発狂して入院するなり。その弟は発狂して人を殺せしものなり(その後若死せり)。しかして兄の妻また悍婦にて、嫁入り来たり一男一女を挙ぐるうちに、夫が発狂せしゆえ、寡居して家を守り、姑(すなわち拙弟の妻の母)と至って仲悪く、数十年別居しおる。この姑すなわち拙弟の妻の母もまた若くして寡となりしものにて、いろいろと醜行の評もあり、それを気に病んで、その長男が発狂し、母の髪を鋏(はさ)み切りたるなり。こんな家に生まれたる女ゆえ、拙弟の妻また狂人ごときふるまい多く、何とも始末におえず、自分の里に帰りしことなしといえば、しごく貞女のようなれど、実は発狂せる兄の妻が悍婦で、姑を遂い出すほどの者ゆえ、夫の妹(すなわち拙弟の妻)を容れず、それがため、拙弟の妻は拙弟方にかじりつきて、この家で討死と覚悟を極めおるから勢い凄まじく、拙弟が頭が上がらず。亡父の時の旧番頭にて分家せしもの、また小生と常楠の末弟、また小生の兄や姉など、あまりのことに驚き怪しみ、拙弟を戒め、今少しく鉗制せよというと、この女、則天武后、平の政子という体で、威猛高にこれに反抗す。それがため、兄と末弟はほとんど窮死また自殺同前に死んでしまい、兄の娘は娼妓同前に横浜の色情狂ごときものの妻にほとんど売られおわりぬ。姉も去年死亡す。かくて、小生は久しく海外にありし者ゆえ、その間のことは一切分からず。家の伝説履歴を知った者はみな死んでしまう。小生の父母の一族は一切舎弟方へ寄りつかず、ただただ舎弟の妻の一族のみ強梁(きょうりょう)しおるなり。

[やぶちゃん注:「植物研究所」何度か注してきたが、サイト「南方熊楠資料研究会」の「南方熊楠を知る事典」内のこちらのページの中瀬喜陽氏の「南方植物研究所」に表向きの話は詳しい(逆にここで熊楠が明かしているような隣家とのトラブルが動機であることは一切記されていない)。それによれば、『大正十(一九二一)年六月、原敬ほか三十三名の知名人によって発起された南方熊楠の学術研究後援組織。第一次目標を基金十万円と定め、これによって財団法人を設立、所長南方熊楠に全般の経営を委託して、設立後三ヶ年間に植物及び植物生産にかかわる熊楠の研究成果を内外に公表するなどの趣旨を掲げて』おり、『研究所設置をいち早く提唱したのは兵庫県出身の田中長三郎で、田中は米国留学中に米国政府の植物工業局長だったスウィングル博士の助手をしていた関係から、同博士と親交のあった南方熊楠を知り、帰国後再三田辺を訪れ、熊楠の研究姿勢に共鳴、その収集標品、蔵書等を基礎にわが国第一号の植物研究所設立を企画したものである』とし、『この動機について田中は『牟婁新報』で、わが国の学事が世界の二、三流にあるのは、日本人が学者を尊敬しないからで、世界の大勢は戦後(注=第一次大戦後)争って偉才を押立てて新しい組織を作り、互いに研究開発に熱中しているのが世界の趨勢だと述べ、わが国でただちにそうした機関を作って世界に伍そうとするならば、それは南方熊楠を置いてない(大正十年三月)と力説している。そのため田中は帰国直後の大正八年、大阪に植物興産所を建設したいと阪神在住の富豪に出資を求める一方、熊楠に候補地の検分をさせるなどしたが、強力な後援者が現われぬまま計画は頓挫した』。『植物研究所は、その延長とも見られるもので、田中はその研究所を熊楠の宅に置き、募金によって財団法人を設立しようとした。そこで、当事者の熊楠とその弟南方常楠(酒店経営)、毛利清雅(牟婁新報社主、県議)の四人で協議を重ね骨格を作った』とある。既に繰り返し記した通り、この研究所もまた、資金面と常楠との決定的な関係悪化によって頓挫し、設立を見なかった。

「田中長三郎」複数回既出にして既注。

「中橋徳五郎氏の前に社長たりし人」中橋徳五郎(なかはしとくごろう 文久元(一八六一)年~昭和九(一九三四)年は実業家で政治家。大阪商船取締役社長(大正三(一九一四)年辞任)を勤め、明治四五(一九〇二)年に大阪から衆議院議員に立候補して当選七回、内務大臣・商工大臣・文部大臣を歴任した。この前社長というのは田中市兵衛(天保九(一八三八)年~明治四三(一九一〇)年)という実業家・政治家で、ウィキの「田中市兵衛」によれば、肥料・銀行・紡績・貿易・海運・新聞・桟橋・鉄道などの『経営を手がけ、今日の多くの名門企業の前身を築いた』『関西経済界の重鎮』だったとある。『大阪商工会議所会頭、大阪肥料取引所理事長、大阪市会議員、大阪府会議員、衆議院議員を務め』たともある。調べてみると、中橋の前の大阪商船取締役社長で、明治二八(一八九五)年七月から明治三一(一八九八)年七月までその地位にあったことが判った(長澤文雄氏の綿密なサイト「なつかしい日本の汽船」の「大阪商船株式会社」の頁に拠った)。但し、活字本「南方熊楠を知る事典」にもネット上の記載にも、田中長三郎がこの田中市兵衛の子息であることは記されていない。ちょっと不思議である。

「悍婦」(かんぷ)は、気の荒い女・気の強い女・じゃじゃ馬のこと。

「明治十九年」一八八六年。

「鉗制」「カンセイ」或いは「ケンセイ」と読み、押さえつけて自由にさせないことを意味する。

「強梁」芯が強い・頑固で気力が強い・強い力を指す語であるが、ここは「強梁跋扈(ばっこ)」で「勢い強く、のさばっていること」の意。]

 

 物徂徠の語に「僧侶の行い浄きものは多く猥語を吐く」とありしと記臆す。ローマのストア派の大賢セネカも、わが行を見よ、正し、わが言を聞け、猥なり、と言えり。小生は、ずいぶん陰陽和合の話などで聞こえた方だが、行いは至って正しく、四十歳まで女と語りしことも少しく、その歳に始めて妻を娶り、時々統計学の参考のためにやらかすが、それすらかかさず日記帳にギリシア字で茶白とか居(い)茶白とか倒澆(さかさま)蠟燭とか本膳とかやりようまでも明記せり。司馬君実(くんじつ)は閨門中の語までも人に聞かされないものはないと言ったそうだが、小生はそのまだ上で、回向院の大相撲同前、取り組みまでも人に聞かされないものはないと心得おる。また他人とかわり、借金ということをしたことなし。至って尋常なことのようだが、これは至ってしにくきことに御座候。しかるに舎弟は、表面孔子からつりをとるような顔をした男ながら、若い時折花攀柳とやらで淋病を疾(や)み、それをその妻に伝えたるなり。漢の呂后、隋の独孤后、唐の則天などは知らず、黴毒ということ盛んに行なわるる世となりては、これを伝えられたる妻が性質一変して嗔(いか)りと嫉(ねた)みより牝獅が子を乳するときのごとく狂い出すはあり内のことで、今の世に妻に頭の上がらない夫は十の八、九はこの一つの過失ありしため、めめしくも閉口しおると見え申し候。

[やぶちゃん注:「物徂徠」「ぶつ(ぶっ)そらい」知られた江戸中期の学者荻生徂徠(寛文六(一六六六)年~享保一三(一七二八)年)は本名を茂卿といい、本姓が物部氏であったことから「物茂卿」「物徂徠」とも称した。

「猥なり」「みだらなり」。

「四十歳まで女と語りしことも少しく、その歳に始めて妻を娶り」既に自ら記しているように、南方熊楠は数え四十歳の明治三九(一九〇六)年七月、親友喜多福武三郎の紹介により田辺の闘鶏神社の社司であった田村宗造の四女松枝と結婚した。

「時々統計学の参考のためにやらかすが」ちょっと判らない。「人口統計学」、則ち、人口増加の参考に寄与せんが「ために」子を作らんと、「時々」は性行為を「やらかすが」か?(しかし、常に子を作るためではないわけだから、これは言いとして変である) それとも、妻を娶った男は、生存中、何度、妻と性行為に及ぶかという「統計学の参考のために」「時々」それを「やらかすが」という意味か? この後の体位の「統計学の参考のためにやらかす」わけではあるまい。当初、その意味(性交に於ける体位の種別とそれぞれの頻度を「統計学の参考」にする)で読んだが、それでは文章が転倒してしまうし、「それすらかかさず日記帳に」「明記」するとい謂い方と上手く整合しない。しかし、後の方の注記風追記の最後の段落で「やりようの如何(いかん)により産まるる子の性質に種々のかわりあることなるべし、深く研究を要す」というイギリスの冒険家リチャード・フランシス・バートンの言葉を記しているところなどは、この最後の謂いのようにも思われなくはない。

「茶白」「ちゃうす」。古くからの性交の体位の一法を指す語。男が仰向けになって、女がその男の上に騎馬するようにして性交する体位を指す。「逆(ぎゃく)」「笠伏せ」とも称する。

「居(い)茶白」互いに正面を向き合って座った状態で、両足を前に出して抱擁する形で性交にする体位。これは互いが座位であることから、所謂、騎乗位のグループには含まれない。

「倒澆(さかさま)蠟燭」不詳。対面座位の一種で男性が体を起こして、女性の片足を肩に担ぐような形にする「帆かけ茶臼」(高くあげた女性の足を船の帆に見立てる)それを考えたが、どうもピンとこない。深沢俊太郎氏のサイトの「ネット中国性文化博物館」のページに、明末清初の小説である李笠翁の「肉蒲団」にこの四字熟語が出ており、「蠟燭を倒澆(とぼ)す」(二字で訓じているか)と訓読して『騎乗位の「つり橋」』とあるのを発見したので、添書きしておく。

「本膳」不詳。正常位のことか?

「司馬君実」北宋の学者で政治家の司馬光(一〇一九年~一〇八六年)の字(あざな)。地方官を歴任した後、中央政府に入ったものの、革新派の王安石と合わず、退いて二百九十四巻に及ぶ壮大な歴史書「資治通鑑(しじつがん)」の編集に専念した。その後、哲宗が即位すると、その宰相となり、王安石の新法を廃して旧法に復し,保守派の信望を集めたが,間もなく死亡した。その思想は儒学に老荘を交えたものとされる(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

「閨門」(けいもん)は原義は「寝室の入り口・寝室」であるが、そこから転じて、夫婦間の事柄・家庭内の極私的な内容の意。

「語」読みは「ご」でも「こと」でも「ことば」でもよい。私は「今昔物語集」風に「こと」と訓じたい。

「折花攀柳」「せっかはんりゅう」と読む。遊女の働く花柳街で妓女らと遊ぶこと。「折花」は「花を手折る」で女と戯れること(直に性行為を示す)、「攀柳」は「柳の枝を引く」の意。後者は、古く花柳街には多く柳が植えられていたことに由来するが、嫋やかな女体を引き寄せることも隠喩されていよう。

「淋病」真正細菌プロテオバクテリア門 Proteobacteria βプロテオバクテリア綱 Beta Proteobacteria ナイセリア目 Neisseriales ナイセリア科 Neisseriaceae ナイセリア属  Neisseriaナイセリア・ゴノローエ (淋菌)Neisseria gonorrhoeae に感染することにより起こる性感染症。ウィキの「淋病」によれば、名称の「淋」は『「淋しい」という意味ではなく、雨の林の中で木々の葉からポタポタと雨がしたたり落ちるイメージを表現したものである。淋菌性尿道炎は尿道の強い炎症のために、尿道内腔が狭くなり痛みと同時に尿の勢いが低下する。その時の排尿がポタポタとしか出ないので、この表現が病名として使用されたものと思われる』。『古代の人は淋菌性尿道炎の尿道から流れ出る膿を見て、陰茎の勃起なくして精液が漏れ出す病気(精液漏)として淋病を』捉え、“gono”(「精液」)、“rhei”(「流れる」)の意の合成語“gonorrhoeae”と『命名した』(ギリシャ語由来のラテン語であろう)。『男性の場合は多くは排尿時や勃起時などに激しい痛みを伴う。しかし、場合によっては無症状に経過することも報告されている』。『女性の場合は数週間から数カ月も自覚症状がないことが多い。症状があっても特徴的な症状ではなく、単なる膀胱炎や膣炎と診断されることがある』が、『放置すると菌が骨盤内の膜、卵巣、卵管に進み、内臓の炎症、不妊症、子宮外妊娠に発展する場合もある』。『新生児は出産時に母体から感染する』ことが殆んどで、『両眼が侵されることが多く、早く治療しないと失明するおそれがあ』り、以前はこれを「風眼(ふうがん)」と呼んだ。感染者の多かった江戸時代や近代では、温度の低い湯屋(ゆうや:銭湯)で感染して、失明した子を知っている、と四十四年も前、高校時代の老体育教師が保健の授業で語っていたのを思い出す。「浴槽のこういう角のところに菌が集まるんだ。」と絵まで描いて呉れた。

「呂后」呂雉(りょち ?~紀元前一八〇年)は漢の高祖劉邦の皇后。恵帝の母。劉邦の死後、皇太后・太皇太后となって専横を極めたことから、「中国三大悪女」として後に出る唐代の則天武后と清代の西太后とともに挙げられる一人。

「独孤后」唐の初代皇帝李淵の母であった元貞太后独孤氏。気性が荒かったことで知られる。

「則天」中国史上唯一の女帝武則天(則天武后)(六二四年~七〇五年)。唐の高宗の皇后となり、後に唐に代わって「武周」朝を建てしまった女傑。ウィキの「武則天」によれば、六八三年に高宗が崩御すると、太子の李顕(中宗)が即位したが、『中宗の皇后韋氏が血縁者を要職に登用したことを口実に、太平公主を使って中宗を廃位し、その弟の李旦(睿宗)を新皇帝に擁立』、『睿宗は武后の権勢の下、傀儡に甘んじることを余儀なくされた』。『武則天の専横に対して、皇族は男性・女性を問わず次々と挙兵に動いたが、いずれも打ち破られた上に族滅の惨状を呈した。民衆は武后に恐怖を感じ、朝政も生活を困窮に至らしめ多くの浮戸や逃戸を招いたが、農民蜂起が起こるほどの情勢ではなかったため、反乱軍に同調する者は少なく、大勢力には発展しなかった。この時に反乱軍の檄文を詩人の駱賓王が書いたが、その名文に感嘆した武則天が「このような文才のある者が(官職につけられずに)流落しているのは宰相の責任だ」と言ったという逸話があるが、そのとき宰相は黙って返答しなかった』。『唐宗室の挙兵を打ち破った後、武后は女帝出現を暗示する預言書(仏典中の『大雲経』に仮託して創作された疑経)を全土に流布させ、また周代に存在したとされる「明堂」(聖天子がここで政治を行った)を宮城内に建造させ、権威の強化を謀り、帝位簒奪の準備を行った』。六九〇年。『武后は自ら帝位に就いた。国号を「周」とし、自らを聖神皇帝と称し、天授と改元した。睿宗は皇太子に格下げされ、李姓に代えて武姓を与えられた。この王朝を「武周」と呼ぶ(国号は周であるが、古代の周や北周などと区別するためこう呼ぶ)』。彼女は『帝室を老子の末裔と称し』、『「道先仏後」だった唐王朝と異なり、武則天は仏教を重んじ、朝廷での席次を「仏先道後」に改めた。諸寺の造営、寄進を盛んに行った他、自らを弥勒菩薩の生まれ変わりと称し、このことを記したとする『大雲経』を創り、これを納める「大雲経寺」を全国の各州に造らせた』。一方で、稀代の名臣狄仁傑を重用し、実力のある官人を要職に抜擢、『宗室の混乱とは裏腹に政権の基盤は盤石なものとなっていった』。『晩年の武則天が病床に臥せがちとなると、宮廷内では唐復活の機運が高まった(武則天は武姓にこだわって甥に帝位を譲ろうとしていたが、「子をさしおいて甥に譲るのは礼に反する」との狄仁傑の反対で断念していた』。子とは、即ち、『高宗との子であり、唐王朝の復活となる)。当時、武則天の寵愛を受け』、『横暴を極めた張易之・昌宗兄弟を除くため』、七〇五年二月、『宰相・張柬之は中宗を東宮に迎え、兵を発して張兄弟を斬り、武則天に則天大聖皇帝の尊称を奉ることを約束して位を退かせた。これにより中宗は復位し、国号も唐に戻ることとなった。しかし、武氏の眷属は李氏宗室を筆頭とする唐朝貴族と密接な姻戚関係を構築しており、武則天自身も太后としての立場を有していたため、唐朝再興に伴う粛清は太平公主や武三思などには及ばず』、『命脈を保った。その後まもなく武則天は死去し』、翌年、『乾陵に高宗と合葬された』。

「黴毒」(ばいどく)は「梅毒」のこと。言わずと知れた“Syphilis”、真正細菌スピロヘータ門 Spirochetes スピロヘータ綱 Spirochaetes スピロヘータ目 Spirochaetales スピロヘータ科 Spirochataceae トレポネーマ属トレポネーマ・パリドム(梅毒トレポネーマ)Treponema pallidum よって発症する性感染症である。各期病態については幾らも容易に読める資料(ウィキの「梅毒」など)があるから省略する。

 以下、三段落は底本では二字下げ。]

 

 今の医学者など、徴毒はコロンブスの時米国より水夫が伝染して世界に弘まれりと心得る輩(やから)多し。それが慶長、元和ごろ唐瘡(とうかさ)とて本邦に渡り、結城秀康、黒田如水、浅野幸長、本多正信など、みなこのために歿せしと申す。なるほど劇しき黴毒は左様かも知れず、しかしながら『壒囊抄』は文安時代(足利義政公まだ将軍に任ぜざりしとき)できたものなり。それに、ある鈔物にいわくと引いて、和泉式部が瘡開(かさつび)という題で「筆もつびゆがみて物のかかるるはこれや難波のあし手なるらん」と詠みしとあり。(紀州などには今も黴毒をカサという。つびゆがみて物のかかるるとは黴毒を受けた当座陰に瘡できて痒(かゆ)きをいえるなり。)和泉式部と同じく平安時代にできた『今昔物語』巻二四に、貴女の装いし美なる車に乗りて典薬頭(てんやくのかみ)某という老医師方に来たり、貴公に身を任(まか)すからと言いてなく。何事ぞと問うに、女袴の股立ちを引き開けて見すれば、股の雪のごとく白きに少し面腫れたり云々。袴の腰を全く解いて前の方をみれば毛の中にて見えず、典薬頭手をもってそれを披(あ)ぐれば、辺(へり)にいと近くはれたる物あり。左右の手をもって毛を搔き別けて見れば、もはらに慎むべき物なり、云々。典薬頭われに身を任せたと聞いて大悦びで、種々手を尽して治療し、なお数日留め置いてこの女を賞翫せんと楽しむうち、この女忍んでにげ去り、老医泣き怒りしという咄(はなし)を載す。これも梅毒と見え申し候。もちろん今の梅毒と多少ちがうかもしれぬが、同様の病いたることは論なしと存じ候。一八八二年にドイツのロセンバウムが『淫毒病史』を出す。これは、黴毒はコロンブス以前よりありし証をへブリウ、ギリシア、ローマ以下の書どもよりおびただしく挙げた大著述なり。

[やぶちゃん注:「徴毒はコロンブスの時米国より水夫が伝染して世界に弘まれりと心得る輩(やから)多し」ウィキの「梅毒」によれば、クリストファー・コロンブスス(イタリア語:Cristoforo Colombo:ラテン語:Christophorus Columbus 一四五一年頃~一五〇六年)が『率いた探検隊員がアメリカ上陸時』(一四九二年)『に原住民女性と交わって感染してヨーロッパに持ち帰り(コロンブス交換)、以後世界に蔓延したとする説』がよく知られ、『コロンブスの帰国から梅毒の初発までの期間が短いという難点があるが、アメリカでも古い原住民の骨に梅毒の症状がある例が発見されており、また例えば日本でも、コロンブス以前の人骨には梅毒による病変が全く見つかっていないなど証拠は多く、最も有力な説とされている』とある。

「慶長、元和」一五九六年から一六二四年。しかし、ウィキの「梅毒」及びサイト「探検コム」の「梅毒の歴史」などによれば、日本で梅毒が初めて記録されたのは室町時代の永正九(一五一二)年のことで、歌人三条西実隆の歌日記「再昌草」に、四月二十四日『道堅法師、唐瘡(からがさ)をわづらふよし申たりしに、 戲(たはふれ)に、もにすむや我からかさをかくてだに口のわろさよ世をばうらみじ』とあるとあり、この年に京都で梅毒が大流行している。後者には、『竹田秀慶の『月海録』にも同じような記録があるよう』だとし、更に、『これ以前から「横根」という言葉が使われており、これは一般に性病によるリンパ節腫脹を指してい』るとあるから、ここに新たな表現をし、区別していると考える方が自然で、これからも、明らかに新手の性病として梅毒が来ったことを物語っていると考えてよかろう。なお、この「横根」(「横痃(おうげん)」「便毒」などとも呼称した)というのは、鼠蹊部のリンパ節が炎症を起こして腫れる症状を広義に指すものであって、梅毒の初期症状にも含まれはするものの、他の性病である淋病・軟性下疳(げかん)・鼠蹊リンパ肉芽腫でも起こり、現在でも外傷や種々の感染症などに於いて鼠蹊部のリンパ節を含む各部のリンパ節腫脹は普通に起きるから、この「横根」をイコール梅毒のこととするわけにはいかない。ともかくも南方熊楠が本書簡を書いたこの頃の医師の認識よりも実際の梅毒伝播は八十数年以上も前だったということになる。

「唐瘡(とうかさ)」唐人が持ち込んだことから。南方からの流入で「琉球瘡」などとも呼称したらしい。

「結城秀康」(天正二(一五七四)年~慶長一二(一六〇七)年)は徳川家康次男(母は側室於万(おまん)の方)で大名。越前北ノ庄藩初代藩主で越前松平家宗家初代。終生、家康に疎まれ(理由は種々挙げられているが、真相は不明)、他の兄弟たちとも不仲で、晩年は鼻が欠けていたとも伝えられ(梅毒では進行した第三期(感染後三~十年)には皮膚・筋肉・骨等に感触がゴムのような腫瘍(ゴム腫)が発生し、それが鼻骨に感染すると鼻が陥没・脱落することがある。私(昭和三二(一九五七)年生)は幼少の頃、そういう人を見かけた)、死因も梅毒による衰弱死であったとする説がある。

「黒田如水」明軍師にして筑前国福岡藩祖となったキリシタン大名黒田官兵衛孝高(天文一五(一五四六)年~慶長九(一六〇四)年)。これは彼が岡城幽閉後に足が不自由になったことに起因する説のようで、彼の梅毒罹患説や梅毒を死因とする説は必ずしも信憑性があるとは言えないように私には思われる。

「浅野幸長」(よしなが 天正四(一五七六)年~慶長一八(一六一三)年)は豊臣政権下の五奉行筆頭であった浅野長政の長男。紀伊国和歌山藩初代藩主。ウィキの「浅野幸長」によれば、寛永年間(一六二四年~一六四四年)頃に成立したとされる史書「当代記」には『幸長の死因を好色故の虚ノ病(腎虚(花柳病)か)から、唐瘡(梅毒)へ至ったとしている』とある。

「本多正信」(ほんだまさのぶ 天文七(一五三八)年~元和二(一六一六)年)は徳川家康の片腕。江戸幕府老中・相模国玉繩藩主(私が今いる、ここ)。Q&Aサイトの回答によれば、「徳川実記」(歴代将軍の各記録類を纏めた江戸幕府公式記録の総称通称。家康から第十代将軍徳川家治(天明六(一七八六)年)までの事象を日ごとに記述してあり、文化六(一八〇九)年に起稿され、嘉永二(一八四九)年に第十二代徳川家慶に献じられた)は確かに「徳川家正史」の記録ではあるが、人物によって依怙贔屓している部分があり、不可解な記述もあるとし、特に本多正信についての記述は全体にひどく、その死因を「梅毒」と記しているのは、実はこの「徳川実記」だけであるという。「徳川実記」に限らず、幕府の記録は徳川家にとって好ましからざる人物についてはその死因を「性病」にする傾向があり、本多が幕府関係者からは嫌われていた証左となもなるものの、逆から見れば、彼は幕府の暴走を防ぐブレーキ役であったと捉えることも出来るとあった。されば、彼の梅毒死というのも、ちょっと留保しておいた方がよいように思われる。

「壒囊抄」「南方熊楠コレクション」の注によれば、原文は「埃囊抄」となっているとある。行誉らによって撰せられた室町時代に成立した百科辞書・古辞書の「塵添壒囊抄(じんてんあいのうしょう)」のこと。南方熊楠は著述で好んで引くものである。

「文安時代(足利義政公まだ将軍に任ぜざりしとき)」一四四四年から一四四九年。足利義政(ここの時制中では初名の義成)永享八(一四三六)年に第六代将軍足利義教三男庶子として生まれたが、嘉吉元(一四四一)年に父義教が嘉吉の乱で赤松満祐に暗殺された後、兄の義勝が第七代将軍として継いだが、嘉吉三(一四四三)年に義勝も夭折(満九歳)したため、義政は管領の畠山持国などの後見を得、八歳で将軍職に選出されたものの、元服を迎えた文安六(一四四九)年四月二十九日になってやっと将軍宣下を受け、同日のうちに吉書始(きっしょはじめ)を行って宮中に参内、正式に第八代将軍として就任している。その室町幕府将軍職空位のことを南方熊楠は附記しているのである(以上はウィキの「足利義政」に拠った)。

「鈔物」古今の典籍を抄出した文書或いは類書。

『瘡開(かさつび)という題で「筆もつびゆがみて物のかかるるはこれや難波のあし手なるらん」と詠みしとあり』全く不詳。和泉式部の和歌としても見当たらぬし、そもそもがこの鈔録物の書名などが記されていないのが痛い。但し、「古事類苑全文データベース」のこちらで「古事類苑」の「方技部 疾病二」に「壒囊抄」の当該分を発見出来た。それを見ると、男女の陰部に出来た瘡の治療法が記された後に、

   *

〈壒囊抄三〉アシデカキタル下繪ト書ルハ、何ナル繪ゾ、或人ノ云、アシデトハ文字ニテ繪ヲカクヲ云、

又或鈔物云、和泉式部無雙ノ好色也ケルニ、亥子ノ夜御歌アリケルニ、態心ヲ合セラレケレバ[やぶちゃん注:「態」は「わざと」と訓じておく。]、 瘡開[やぶちゃん注:上記二字には傍点「○」が附されてある。ここでは太字とした。]ト云名ヲ式部取當テ、

筆モツヒユガミテ物ノカヽルヽハ是ヤ難波ノ惡筆(アシデ)ナルラン

トヨメリ、惡筆トハ字ニテ繪ヲナスト注セル物アリ、又葦手トモ書也、或ハ木節、或ハ雲ノハヅレナドヲユガメルマヽニ、字ノ似合タルヲ以テ書ヲ、蘆ナドノ枯臥タルニソヘテ云也、

   *

本当に和泉式部の逸話かどうか不審だが(デッチアゲの可能性が高いようににも思われる)、これは明らかに外陰部に出来た皮膚病であると読める。前の処方から男女共通で性感染症が強く疑われるが、この、

 

 ふでもつひゆがみてもののかかるるはこれやなにはのあしでなるらん

 

というヘンな歌を眺めていると、

「ふで」は「筆」と、「男根」を、

「ゆがむ」は「筆が思わぬ方向へ曲がる」と、「男根が性交の際に正しくない悪しき振舞いをする」を、

「つひ」は副詞の「思わず・うっかり」の意の「つい」と、熊楠が濁音化しているように「つび」で「螺(つび)」由来の「玉門(つび)」即ち女性の生殖器を、

「かかるる」(「るる」は自発の助動詞「る」)は「自然に書かれてしまう」と、痒くて痒くて「自然に手がそこへ行って掻かれてしまう」を、

「なには」は「難波」の浦と、「難(なん)」「なる」「は」で、これはまた、「難儀な不出来」と「難儀な症状」を、

「あしで」は「蘆で」と、「悪手」で、これはまた、「悪い筆法・悪しき書体」と「いけない手」を、

掛けた掛詞であることが判り、ここは

「筆を執って書いていて、つい、手が辷って筆が歪んだ状態で字が書かれる、そのようにして書かれた字というものは、これ、歌枕でよく詠み込まれる『難波の蘆』ではありませんけれど、難のある悪しき書手(しょて)と言うのでありましょう。」

と、

「男根が知らぬうちに悪しきものをもたらして、妾(わらわ)のつび(会陰部)が無性に痒くて痒くなってしまい、そのために顔も歪み、いけないこととは分かっておりましても、知らず知らず、そこに手を差し入れて掻き毟ってしまうのですわ。」

といった如何にもなバレ歌であることが判る。ところが下ネタであるところを我慢してこの裏の意味を虚心に読むならば、この場合、女性の外陰部に梅毒第一期の腫れ物が出来たその症状とは読めないことが判る梅毒では感染から三週間から三ヶ月で梅毒トレポネーマが侵入した部位に塊が生じ、膿を出すようになる(これを「硬性下疳」と称する)が、これは多く無痛性の硬結であって、痒くはならない(但し、参照したウィキの「梅毒」によれば、その『塊はすぐ消えるが、稀に潰瘍となる』とあるから、慢性的潰瘍となった場合は或いは掻痒感は生ずるかもしれぬが、そのような稀なケースを読み手の理解を求める和歌に詠み込むはずがない)。さすれば、何か? もう大方の方は判っておられるであろう、判らぬ方は、あの「病草紙」(平安末期から鎌倉初期頃に成立)に描かれている陰部を掻いている男とそれを笑う女(妻とされる。とすれば、この笑いは恐らく女を買ってそれをうつされた夫への嘲笑に外ならぬ)の絵を思い出されるがよい。そう、南方熊楠にたてつくようで悪いが、この伝和泉式部の和歌の症状は性行為による感染ケースが多い、陰虱(つびじらみ)による猛烈な痒さを詠んだものに他ならないと私は断言するのである。

「紀州などには今も黴毒をカサという」「瘡(かさ)」は第一義は天然痘・できもの・腫れ物等の皮膚疾患の総称であり、そこには外傷治癒過程の後終期に生ずる瘡蓋(かさぶた)さえも含まれる。「日本国語大辞典」では確かに二番目に梅毒の意を挙げるが、そこに引かれる使用例は江戸前期の浅井了意の仮名草子「東海道名所記」や雑排で、熊楠がお決まりの鬼首捕ったり的に言い募る「瘡」=「梅毒」という等式は江戸よりも前には殆んど通用しないと考えるべきである。但し、梅毒では進行した第三期の皮膚に出現したゴム腫は症例写真を見ると立派な「瘡」には見える。

「つびゆがみて物のかかるるとは黴毒を受けた当座陰に瘡できて痒(かゆ)きをいえるなり」前の前の私の反論注を参照されたい。

「『今昔物語』巻二四に、貴女の装いし美なる車に乗りて典薬頭(てんやくのかみ)某という老医師方に来たり……」「今昔物語集」の「卷第二十四」の「女行醫師家治瘡逃語第八」(女(をむな)、醫師(くすし)の家へ行きて瘡(かさ)を治(ぢ)して逃ぐる語(こと)第八)」である。以下に昭和五四(一九七九)年(第五版)小学館刊の「日本古典文学全集」の「今昔物語集(3)」(馬淵・国東・今野校注)を参考底本にしつつ、漢字を正字化し、一部に手を加えて読み易くして示す。□は欠字。途中に入れた注も同参考底本の頭注を一部、参考にした。

   *

 今は昔、典藥頭(てんやくのかみ)にて□□□と云ふ止む事無き醫師、有りけり。世に並び無き者也ければ、人皆、此の人を用たりけり。

 而る間、此の典藥頭に、極(いみ)じく裝束仕りたる女車(をむなぐるま)の乘り泛(こぼ)れたる[やぶちゃん注:医師は、牛車の外にはみ出させた華やかな出衣(いだしぎぬ)を見て、複数の高貴な女性が車から零れんばかりにぎゅうぎゅうに乗っていると錯覚したのである(後の車から女が降りたシーンで他に乗客はいないことが明らかにされる)。色好みの医師を暗示させる上手いシーンと言える。]、入(い)る。頭(かみ)、此れを見て、

「何(いづ)くの車ぞ。」

と問ひぬれども、答へも不爲(せず)して、只、遣(や)りに遣り入れて、車を搔き下して[やぶちゃん注:車を牛から外して。]、車の頸木(くびき)[やぶちゃん注:牛車の前に突き出た左右二本の轅(ながえ)の先に渡した横木。]を蔀(しとみ)の木[やぶちゃん注:「蔀」は縦横に組んだ格子の裏に板を張り衝立のように作った、昔の雨戸のようなもので、ここはその上下二枚に分かれているケースで、その蔀の下部の板壁にの意。]に打ち懸けて、雜色(ざふしき)共は門(かど)の許(もと)に寄りて居ぬ。

 其の時に、頭、車の許に寄りて、

「此れは誰(た)が御(おは)しましたるにか。何事を仰せられに御座(おはしま)したるぞ。」

と問へば、車の内に其の人[やぶちゃん注:具体的な名を指す。]とは不答(こたへず)して、

「可然(しかるべか)らむ所に局(つぼね)して[やぶちゃん注:自分のための部屋を設えて。]下(おろ)し給へ。」

と、愛敬付(あいぎやうづ)き可咲(をか)しき氣はひにて云へば、此の典藥頭は本より遣(きづ)きしく、物目出し(ものめで)ける翁にて[やぶちゃん注:元来が、女に目がなく、多情多淫のじいさんであったによって。]、内に角(すみ)の間(ま)の人離れたる所を、俄かに掃ひ淨(きよ)めて、屛風立て、疊敷(し)きなどして、車の許に寄りて、□□□[やぶちゃん注:「しつらひ」か。「部屋を用意する」の意。]たる由を云へば、女(をむな)、

「然(さ)らば去(の)き給へ。」

と云へば、頭、去りて立てるに、女、扇を差し隱して居り下りぬ。車に、

「共の人乘りたらむ。」

と思ふに、亦、人、不乘(の)らず。女、下(お)るままに、十五、六歳許りなる□□[やぶちゃん注:「ひすまし」であろう。「樋箱(ひばこ)を清める者」の意で、平安以降、宮中などで便所の清掃を職とした身分の低い女性。御厠人(みかわやうど)。]の女(め)の童(わらは)ぞ車の許に寄り來て、車の内なる蒔繪(まきゑ)の櫛の筥(はこ)[やぶちゃん注:化粧道具入れ。]取りて持て來ぬれば、車が雜色共寄りて、牛懸けて、飛ぶが如くに□□[やぶちゃん注:不詳。]の去りぬ。

 女房、のる□[やぶちゃん注:不詳。]所に居(ゐ)ぬ。女の童は筥の櫛を裹みて隱して、屛風の後に屈まり居ぬ。其の時、頭、寄りて、

「此(こ)は何(いか)なる人の□[やぶちゃん注:不詳。助詞か。]何事仰されむずるぞ。疾く仰せられよ。」

と云へば、女房、

「此(こち)入り給へ。恥、不聞(きこゆ)まじ。」

と云へば、頭、簾(すだれ)の内に入りぬ。女房、差向かひたるを見れば、年三十許りなる女の、頭付(かしらづき)[やぶちゃん注:髪型。]より始めて、目・鼻・口、此(ここ)は弊(つたな)しと見ゆる所無く端正(たんじやう)なるが、髮、極じく長し。香(か)、馥(かうば)しくて、艷(えもいは)ぬ衣(きぬ)共を着たり。恥づかしく思ひたる氣色(けしき)も無くて、年來(としごろ)の妹(いも)[やぶちゃん注:永年連れ添った妻。]などの樣に安らかに向ひたり。

 頭、此れを見るに、

「希有に怪(あや)し。」

と思ふ。

「何樣(いかやう)にても、此れは我が進退(しんだい)に懸らむずる者なんめり。」[やぶちゃん注:「何としても、これは我が意のままにしてみたい女ではないか。」。]

と思ふに、齒も無く、極めて萎(しぼ)める顏を極じく咲(ゑ)みて、近く寄りて問ふ。況んや頭、年來の嫗(おうな)共(ども)[やぶちゃん注:好色爺いなので複数なのであろう。]失せて三、四年に成りにければ、妻も無くて有ける程にて、

「喜(うれ)し。」

と思ふに、女の云く、

「人の心の疎(う)かりける事は、命の惜しさには、萬(よろづ)の身の恥も思はざりければ、『只、何(いか)ならむ態(わざ)をしても命をだに生きなば』と思(おぼ)へて參り來つる也。今は生けむも、殺さむも、其(そこ)の御心地(みこころ)也。身を任せて聞(きこ)へつれば。」

とて、泣く事、限り無し。

 頭、極じく此れを哀れと思ひて、

「何なる事の候ぞ。」

と問へば、女、袴(はかま)の股立(ももだち)[やぶちゃん注:袴の上部の腰の部分の左右にある解放された部分を縫い止めた箇所。]を引き開けて見れば、股の雪の樣に白きに、少し面(おも)[やぶちゃん注:大腿部上部の皮膚の表面。]、腫れたり。其の腫れ、頗る心不得見(こころえずみ)ゆれば、袴の腰[やぶちゃん注:腰紐。]を解かしめて、前の方を見れば、毛の中にて不見(み)へず。然(しか)れば、頭、手を以ちて其(そこ)を搜(さぐ)れば、邊(ほと)りに糸(いと)近く※(ちちぼ)みたる物有り[やぶちゃん字注:「※」=「疒」の中に(「隱」-「阝」)を入れた字体。「ちちぼみたる物」で赤く腫れあがった箇所。]。左右の手を以つて搔き別けて見れば、專(もは)らに愼むべき物也[やぶちゃん注:非常に重篤な状態の症状である。]。□□[やぶちゃん注:病名が入るが、意識的に欠字としたものであるように思われる。「癰(よう)」か。癰は皮膚や皮下に発症する急性の腫れ物で「癤(せつ)」が集合したもの。隣接する複数の毛包に黄色ブドウ球菌が感染し、化膿したもので、高熱や激痛を伴う。]にこそ有りければ、極じく糸惜(いとほ)しく思ひて、

「年來の醫師(くすし)、只、此の功(くう)に、無き手を取り出だすべき也(なり)。」[やぶちゃん注:「永年の医師として、ただもう、その経験の名誉にかけて、あらゆる施術秘術を以ってこの腫れ物を取り出さねばなるまい。」。]

と思ひて、其の日より始めて、只人(ただひと)も寄せず[やぶちゃん注:余人を誰も寄せさせず。]、自ら襷上(たすきあ)げをして、夜(よ)る晝、疏(つくろ)ふ[やぶちゃん注:治療する。]。

 七日(なぬか)許り疏ふて見るに、吉く𡀍(い)えぬ。頭、喜しく思ひて、

「今暫くは此(かく)て置きたらむ。其の人と聞きてこそ返へさめ。」

など思ひて、今は氷(ひや)す事をば止めて、茶垸(ちやわん)の器(うつはもの)に、何藥(なにくすり)にてか有(あ)らむ、摺(す)り入れたる物を、鳥の羽(はね)を以つて日に五、六度付く許り也。

「今は事にも非ず。」

と、頭の氣(け)はひも、喜し氣(げ)に思ひたり。

 女房の云く、

「今、奇異(あさま)しき有樣をも見せ奉りつ。偏へに祖(おや)と可奉憑(たのみたてまつ)るべき也。然(さ)れば、返らむにも、御車(みくるま)にて送り給へ。其の時に、其(それ)とは聞へむ[やぶちゃん注:私がどこの誰であるかお教え申しましょう。]。亦、此にも常に詣で來む。」

など云へば、頭、

「今、四、五日許りは此(かく)て居(を)らむ。」

と思ひて、緩(たゆ)みて有る程に、夕暮方(ゆふぐれがた)に、女房、宿直物(とのゐもの)の薄綿(すわた)の衣(きぬ)一つ許りを着て、此の女(め)の童(わらは)を具して逃げにけるを、頭、此(かく)とも知らで、

「夕べの食物(じきもつ)參りらせむ。」

と云ひて、盤(ばん)[やぶちゃん注:盆。]に調へ居(すゑ)て、頭自ら、持ちて入りぬるに、人も無し。

「只今、可然(しかるべ)き事、構へつる時にこそは有らめ。」[やぶちゃん注:「ちょうど今は、(屏風の蔭で)用を足しておるところなのであろう。」。「用」は着替え或いは排泄。当時、用便も室内で清器(しのはこ:所謂「おまる」)を用いて足した。]

と思ひて、食物を持ち返りぬ。

 而る程に暮れぬれば、

「先づ、火、燈(とも)さむ。」

と思ひて、火を燈臺に居(すゑ)て持(も)て行きて見るに、衣共(きぬども)を脱ぎ散らしたり、櫛の筥(はこ)も有り。

「久しく隱れて屛風の後に何態(なにわざ)爲(す)るにか有(あ)らむ。」

と思ひて、

「此(かく)久しくは何態せさせ給ふ。」

と云ひて、屛風の後(うしろ)を見るに、何しにかは有らむ[やぶちゃん注:「どうしてそこで用足しなんぞしておろうはずがあろうものか。」。反語。「今昔物語集」の記者の嘲笑的感想が挿入されたもの。]、女の童も見へず、衣共(きぬども)、着重(きかさね)たりしも、袴も然乍(さなが)ら有り。只、宿直物にて着たりし薄綿の衣一つ許りなむ無き。

「無きにや有らむ。此の人は其れを着て逃げにけるなんめり。」

と思ふに、頭、胸塞(むねふさが)りて、爲(せ)む方も無く思(おぼ)ゆ。

 門(かど)を差して、人々、數(あまた)、手每(てごと)に火を燈して家の内を□[やぶちゃん注:「あさる」か。捜す。]に、何(な)にしにかは有らむ[やぶちゃん注:「どうしてどこかにいようはずがあろうか。」反語。先と同じく「今昔物語集」の記者による嘲笑感想。]、無ければ、頭、女の有つる顏・有樣、面影に思へて[やぶちゃん注:目の前にまざまざと浮かんできて。]、戀しく悲しき事限り無し。

「不忌(いまず)して、本意(ほんい)をこそ可遂(とぐべ)かりけれ、何にしに疏(つくろ)ひて忌みつらむ。」

と、悔しく妬(ねた)くて、然(しか)れば、

「無くて[やぶちゃん注:目的語は自身の妻。]、可憚(はばかるべ)き人も無きに、人の妻(め)などにて有らば、妻(め)に不爲(せず)と云ふとも、時々も物云はむに、極じき者、儲(まう)けつ、と思つる者を。」

と、つくづくと思ひ居(ゐ)たるに、此(か)く謀(はか)られて逃がしつれば、手を打ちて妬(ねた)がり、足摺りをして、極(いみ)じ氣(げ)なる顏[やぶちゃん注:年老いて歯抜けとなった皺だらけの醜い顏。]に貝(かひ)を作りて[やぶちゃん注:べそをかいて。参考底本の頭注に『口つきが「へ」の字』型『になって』ちょうど二枚『貝の形に似ることからの形容』とある。]泣きければ、弟子の醫師共は、蜜(ひそ)かに極じくなむ咲ひける。世の人々も、此れを聞きて咲(わら)ひて[やぶちゃん注:その典薬頭自身に。]問ひければ、極じく嗔(いか)り諍(あらそ)ひける。

 思ふに、極じく賢かりける女(をむな)かな。遂に誰(たれ)とも知られで止みにけり、となむ語り傳へたるとや。

   *

「これも梅毒と見え申し候」五種ほど所持する私の「今昔物語集」の注釈書で、この話の女性の病名を梅毒と断定したものはない私はこれは所謂、麦粒腫(アテローム)の化膿したものか、蕁麻疹等を掻きむしった結果、傷から黄色ブドウ球菌などが入って重い二次感染を起こして腫れ上がったものであって、梅毒どころか、性感染症でないという気さえするのである。即ち私は「もちろん今の梅毒と多少ちがうかもしれぬが、同様の痛いたることは論なし」とする熊楠には激しく異を唱えたいのである。

「一八八二年にドイツのロセンバウムが『淫毒病史』を出す」幾つかの欧文単語の組み合わせで検索を試みたが、「ロセンバウム」も「一八八二年」(明治十五年相当)刊の「淫毒病史」なる書物も全く分からない。識者の御教授を乞う。

「へブリウ」“hebrew”。ヘブライ。以下の並列から「古代イスラエル」のこと。]

 

小生かかることを長々しく言うは、支那の名臣房玄齢(ぼうげんれい)、戚継光(せきけいこう)、わが邦の勇将福島正則すらも妬婦悍婦にはかなわなんだよう見ゆ。これらはその内実夫(おっと)において疚(やま)しきことがあったので、実は黴毒を伝えたのがおったと存じ申し候。英国に下院へ一案が出たるに、これを出したる政党の首領の失策でこの案通らず、しかるに大蔵大臣がその首領の姻戚たりし縁でその辺造作もなく通過したり。バジョーこれを見て、近世政党史を偏するに特に著名なる政治家の縁戚を調べて、縁戚関係が政略の成不成に及ぼせる子細を研究したら面白かろうと言いしとか。氏自身も誰もこれが研究をしたものありや、小生は知らず。過日の貴社の騒動なども内幕をしらべたら、世間に思いがけなきこの類のことがもっとも力ありしこともあるべしと存じ候。

[やぶちゃん注:「房玄齢」(五七八年~六四八年)は唐代の政治家で歴史家。太宗の名臣。隋末の乱に挙兵した李淵(高祖)・世民(太宗)父子の勢力に加わって謀臣として活躍、玄武門の変にでは太宗の権力奪取を助けた。後の「貞観の治」の立役者の一人とされる。「晋書」などの歴史書の編集監督も成した。個人サイト「定遠亭」の「中国史雑文演義」の「第十三回 女のカガミか、男のカタキか」によれば、彼の妻は彼が妾を持つことを許さず、それを聴いた皇帝(太宗であろう)が、直々に妻を呼び出して妾を持つことを許すように説得したが、いっかな肯んぜず、皇帝は毒酒と称して差し出し、これを飲むか、夫に妾を持たせるか、二つに一つの命令だと威すと、躊躇うことなく、彼女はその酒を飲みほした、とある。これは房の恐妻家というよりも、その妻の烈女性の方が遙かに際立つエピソードである。但し、房玄齢が梅毒であったという記載はネット上では見出せなかった

「戚継光」(一五二八年~一五八八年)は明の名将。倭寇及びモンゴルと戦ってともに戦果を挙げたことからその名を知られる。「竜行剣」という剣法の開祖ともされる。参照したウィキの「戚継光」によれば、『歴戦の勇将ながら大変な恐妻家であったとされ、軍律に背いた息子を処刑したことに怒った夫人から生涯妾を持たない事を誓わされた。その後誓いを破り』、二人の『妾と密通し、それぞれ隠し子を』それぞれ一人ずつもうけたが、『夫人に露見してしまう。激怒した夫人から妾と子供を殺すよう迫られた戚継光は』、一日だけ猶予を貰って、『部下であった夫人の弟を呼び』出し、『「妾たちを許し、子供を養子として引き取るよう明日までに姉を説得しろ。さもなくば、お前もお前の姉も、お前の一族も全員殺した』上、自分は官職を辞し、『世捨て人になる」と脅した。弟は泣きながら』、『夫人を説得したため、夫人は仕方なく隠し子を引き取り、母親である妾』二『人には杖罰五十を加え追放するに止めた。これを聞いた世間の人々は、戚継光の深謀を称えると共に、彼の恐妻家ぶりを笑った。数年後、夫人が病死すると妾たちを家に呼び寄せ、子供達と一緒に生活させた』とある。但し、房玄齢同様、戚継光が梅毒であったという記載はネット上では見出せなかった

「福島正則」秀吉配下の「賤ヶ岳の七本槍」の一人で、豊臣秀頼から徳川家康・秀忠と巧妙に主君を変えた福島正則(永禄四(一五六一)年~寛永元(一六二四)年)が、正室照雲院(津田長義の娘)には頭が上がらなかったというのはかなり知られた話で、浮気した彼を問答無用で薙刀で脅したとされる。例えば、「関ヶ原ブログ」のこちらに書かれてあるのを参照されたい。調べてみると、出所不詳ながら、朝鮮出兵の際に女性を強姦して梅毒を染され、それが死因だとする書き込みがあった。真偽は知らぬ

「英国に下院へ一案が出たるに、これを出したる政党の首領の失策でこの案通らず、しかるに大蔵大臣がその首領の姻戚たりし縁でその辺造作もなく通過したり」不詳。識者の御教授を乞う。

バジョー」イギリスのジャーナリストで経済学者のウォルター・バジョット(Walter Bagehot 一八二六年~一八七七年)か。ウィキの「ウォルター・バジョット」によれば、『保守主義の政治思想に傾倒し』、『評論家としては、政治・経済・社会・文芸・歴史・人物と幅広い分野を対象とした』。彼が一八六七年に刊行したThe English Constitution(「イギリス憲政論」)は『君主制擁護論として』、『政治学の古典となっている』とある。

「過日の貴社の騒動」不詳。本書簡は大正一四(一九二五)年二月に日本郵船株式会社大阪支店副長であった矢吹義夫に宛てて書かれたものであるから、その時期の同社に関わる内紛か事件らしいが、よく判らぬ。ウィキの「日本郵船の「沿革」のその辺りを見ると、大正四(一九一五)年の条に、『ポートサイド付近で日本郵船の八坂丸が金塊』十『万ポンドを積載したまま』、『ドイツ潜水艇に撃沈される。この金塊は』大正一四(一九二五)年八月七日に『片岡弓八の日本深海工業が引き上げに成功し』、回収分の八割が『日本深海の所有となった。UPI通信社が同日付で報じた』とある事件、大正六(一九一七)年の『南米東岸線開設』の際、前年十一月から『ブラジル移民組合との契約により、移民輸送を目的としていた』。四月に『神戸を若狭丸が出航。イギリス西岸-東洋間の海運を独占していた青筒社が、船腹不足を理由に縄張りへの寄航を打診してくる』。五月、『これを機に香取丸を神戸から直行させる』。大正九(一九二〇)年に『独占権を回復したいと青筒社が申し入れてくるが、日本郵船は命がけのピンチヒッターであったことを主張し、配船継続を承諾させる』とある一件、大正一一(一九二二)年の『大阪商船と協定』などの内にあるか? 或いは、単純に矢吹の管理していた大阪支店内での事件・紛争なのかも知れぬ。識者の御教授を乞う。]

 

またついでに申す。インドの神や偉人の伝に、その父母が何形を現わして交会して生めりということ多し。鸚鵡(おうむ)形、象形、牛形等なり。これはちょっと読むと、神や偉人の父母はむろん常人にあらざればかよういろいろの動物に化(ば)けて交会せしごときも、実は然(しか)らず。上に述べたる茶白とか居茶臼とか後ろどりとかいろいろのやりようあるなり。それにかくのごとき動物の名をつけたるなり。本邦にもやりように、古く鶴の求食(あさり)、木伝(こづた)う猴(ましら)などいろいろの名ありしこと『類衆名物考』に見えたり。英国のサー・リチャード・バートンいわく、インド人がかかることに注意してかきとめしは大いに有意義で、やりようの如何(いかん)により産まるる子の性質に種々のかわりあることなるべし、深く研究を要す、と。

[やぶちゃん注:「交会」性交。

「鸚鵡(おうむ)形」の神は不詳。マヤ神話に伝わる巨人ヴクヴ・カキシュはエメラルドの歯と金と銀で出来た輝く体を持つが、その名は「七の鸚鵡」を意味するというとウィキの「ヴクブ・カキシュにはあった。

「象形」ヒンドゥー教の神で現世利益をもたらすとして人気のあるガネーシャは太鼓腹の人間の身体に片方の牙の折れた象の頭をもった神で四本の腕を持つ神として描かれ、この神は仏教に取り入れられ、天部の一人である歓喜天として、象頭人身の単身像、及び、立像で抱擁している象頭人身の双身像の奇体な姿の像として造形されることが多く、一般には夫妻和合の神として信仰される。

「牛形」ギリシア神話に登場する牛頭人身の怪物ミノタウロス(ラテン語:Minotaurus)が有名。クレータ島のミノス王の妻パシパエーが雄牛と交合して生まれたとされる。古代エジプトの都市メンフィスで信仰された聖なる牛アピスは創造神プタハの化身或いは代理とされた。シンボルとしてならば、古代エジプト神話の愛と美と豊穣と幸運の女神ハトホルは牝牛で示され、ヒンドゥーでもシヴァ神の乗るものとして神聖性が説かれるの言わずもがなである。

「後ろどり」後背位。

「それにかくのごとき動物の名をつけたるなり」南方熊楠は異類婚姻譚の動物は性交の際の体位が起源だと言い切る。これもまた、凄い。

「鶴の求食(あさり)」体位型であるが、不学にして不詳。識者の御教授を乞う。

「木伝(こづた)う猴(ましら)」同前。

「類聚名物考」江戸時代の類書(百科事典)。日本文物の類書中でも形式・内容ともに充実した最初のものとされる大著。成立年は不詳。編者は江戸中期の幕臣で儒学者で、賀茂真淵門下の国学者でもあった山岡浚明(まつあけ 享保一一(一七二六)年~安永九(一七八〇)年)。「日本大百科全書」の彌吉光長氏(懐かしい名だ。図書館概論で講義を受けた。受けていた女子が体調不良で卒倒し、皆で保健室から担架を持って来て、運んで戻ってみると、平然と講義を続けていて、流石にムッとして「先生!」と叫ぶと、「何かありましたか?」と平然と答え、そのままさらに授業を続けた。私はそれ以降、当該の講義をボイコットし、試験だけ受けたが、「優」を呉れたので文句はない)の解説によれば、『彼は博学で有名であったが、若いときから国書を広く読み、その抄をつくって整理していた。しかし、先輩の老人に、抄出しても急場に役だたぬから暗記せよと諭され、その教えに従って破り捨てたものの、記憶には限界と誤りがあると覚』『って、この編集にかかったという。そのため、基本的図書は破棄されたままに脱している。現存の』三百四十二『巻を精査すると、天文、時令、神祇(じんぎ)、地理など』三十二『類と抜き書きの部に分かたれている。各項目は総説と考証、文献からなり、その考証の行き届いて合理的なことは類をみない』とある。

「サー・リチャード・バートン」十九世紀の大英帝国を代表する冒険家で、人類学者・言語学者・作家・翻訳家であり、軍人・外交官でもあったリチャード・フランシス・バートン(Sir Richard Francis Burton  一八二一年~一八九〇年)。本邦では特に「アラビアン・ナイト」の英訳The Book of the Thousand Nights and a Night(「千夜一夜物語」 一八八五年~一八八八年出版。本編十巻・補遺六巻)の翻訳者として知られる。タンガニーカ湖を発見したり、王室人類学協会を共同で設立に加わり、ESP(超感覚的感知)の存在を肯定してこの言葉を提唱した人物でもあった(以下にも南方熊楠好みの変人で、実際、バートンは奇人変人と好んで交際した)。特に東洋の性技の研究なども行い、古代インドの性愛論書「カーマ・シャーストラ」(英語:Kama Sutraカーマ・スートラ:四世紀から五世紀に成立したと推定される)の英訳でも知られるから(大場正史氏の和訳で私も高校時分に読んだ)、以下の驚きの意見も腑には落ちる。詳しい事蹟は参照したウィキのリチャード・フランシス・バートンなどを参照されたい。

「やりようの如何(いかん)により産まるる子の性質に種々のかわりあることなるべし」性交の際の体位によって、それで受精して誕生する子どもは、その体位如何によって性格が決定され、変化が生ずるのに違いない。う~む、ちょっと、ねえ?]

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