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2017/05/22

北條九代記 卷第十一 惠蕚入唐 付 本朝禪法の興起

 

      ○惠蕚入唐 付 本朝禪法の興起

 

蒙古大元の世祖忽必烈(こつびれつ)は、今度大軍を鏖(みなごろし)にせられ、憤(いきどほり)、尤も深く、如何にもして日本を討隨(うちしたがへ)へ、この怒(いかり)を休(きう)せんと、寢食を忘れて祕計を𢌞(めぐら)すといへども、智謀雄武の日本國を容易(たやす)く討(うつ)て、急迫(きふはく)には滅難(ほろぼしがた)からん。只その弊(つひえ)を伺ひ、時節を計るに加(しく)なしとて、日本の樣(やう)を聞居(きゝゐ)たり。この比(ころ)、龜山の新院、鎌倉の北條、京、鎌倉の間、佛心宗を崇敬(そうきやう)し、禪法を歸仰(きかう)し給ふ事、都(すべ)て諸宗に超過せり。抑、本朝に禪法の弘通(ぐつう)する事、遠くは聖德太子、直(ぢき)に達磨(だるま)の心印(しんにん)を傳へ給ふといへども、その名のみ論書に見えて世に知る人もなし。淳和(じゆんな)天皇の御后(おんきさき)は、仁明天皇の御母なり。贈太政大臣正一位橘淸友(たちばなのきよとも)公の御娘とぞ聞えし。橘(たちばなの)皇太后と申し奉り、深く佛法に歸依し、道德の僧を講じて法門を聞召(きこしめ)す。眞言密法を空海和尚に聞き給ふ。その便(たより)に問ひ給はく、「佛法更に又、是に過ぎたるものありや」と。空海、答へて宣く、「大唐國に佛心宗とて候ふなる、是、則ち、南天(なんてん)菩提達磨の傳來せし所、盛(さかり)に彼(かの)地に行はれ候。然れども、空海、是を究(きはむ)るに暇(いとま)なくて、歸朝致し候」と申し給へば、橘皇太后、「さては又、如來の大法、未だ唐國に留りて傳らず。是、大に悕(こひねが)ふ所なりしとて惠蕚(ゑがく)法師に勅して、文德天皇の御宇、齊衡(さいかう)年中に入唐(につたう)せしめらる。唐の宣宗皇帝大中の年なり。惠蕚、卽ち、登萊(とくねき)の界(さかひ)より鴈門(がんもん)、五臺(だい)を經て、杭州の靈池寺(れいちじ)にいたり、齊安(せいあん)禪師に謁して、宗門の直旨(ぢきし)を極め、禪師の弟子義空(ぎくう)を伴ひて歸朝せらる。京師の東寺に居住せし間に、皇太后、既に檀林寺を創(はじ)めて居らしめ、時々(よりより)道を問ひ給ふといへども、根機(こんき)、未だ熟せざりけるにや、世に知る人も希なりけり。寶治の比(ころ)、蜀の僧、隆蘭溪、本朝に遊化(いうげ)せらる。最明寺時賴、厚く禮敬(れいきやう)を致し、巨福山建長寺を立てて、開山とす。相摸守時賴は、祖元を開山として瑞鹿山圓覺寺を創めて、宗門を弘通せしむ。京都には建仁寺の榮西禪師より起りて、主上、上皇、この法に御歸依あり。攝家、淸華(せいくわ)の輩(ともがら)、皆、宗門の弟子となり、四海、是に依て、禪法の繁昌(はんじやう)する事、頗る鎌倉に超過せり。殊更、この比は、日本の諸國、佛心宗を尊びて、公家武家共に頭を傾(かたぶ)くる由、元朝に傳聞(つたへきゝ)て、王積翁(わうせきをう)と云ふ者を使者として、如智(によち)と云へる禪僧を此日本にぞ渡しける。王積翁は海路の間、同船の者に刺殺(さしころ)されしかば、日本の風俗を伺ひ見るべきやうもなく、如智も、その名を知る人なし。海中にや入りぬらん、元國にや皈りけん。その終(をはり)は聞及ばず。愈(いよいよ)、本朝、この宗、普(あまね)く弘(ひろま)りて盛なれども、異國襲來の備(そなへ)をば堅く守り、強く誡めて、西海の湊々(みなとみなと)は、更に用心怠る時なし。

[やぶちゃん注:「佛心宗」禅宗の異称。文字などに依らず、直ちに仏心を悟ることを教える宗門の意。

「達磨」中国禅宗の開祖とされているインド人仏教僧菩提達磨大師(サンスクリット語音写:ボーディダルマ 生没年未詳。五世紀末から六世紀末の人とされる)。南インドで王子として生まれたが、般若多羅から教えを受け、中国に渡って禅宗を伝えた。

「心印」禅宗用語としては、以心伝心によって伝えられる悟り、決定(けつじょう)していて不変である悟りの本体のことを指す。

「淳和(じゆんな)天皇の御后(おんきさき)は、仁明天皇の御母なり。贈太政大臣正一位橘淸友(たちばなのきよとも)公の御娘とぞ聞えし」「淳和天皇」(第五十三代)は「嵯峨天皇」(第五十二代)の誤り。嵯峨天皇の皇后橘嘉智子(たちばなのかちこ 延暦五(七八六)年~嘉祥三(八五〇)年)は橘奈良麻呂の孫で贈太政大臣橘清友の娘。諡号は檀林皇后。ウィキの「橘嘉智子によれば、『世に類なき麗人であったといわれる。桓武天皇皇女の高津内親王が妃を廃された後、姻戚である藤原冬嗣(嘉智子の姉安子は冬嗣夫人美都子の弟三守の妻だった)らの後押しで立后したと考えられ』ている。『仏教への信仰が篤く、嵯峨野に日本最初の禅院檀林寺』(承和年間(八三四年~八四八年)に洛西嵯峨野に創建された。後に出る通り、開山は唐僧の義空で、京都で最初に禅を講じた寺として知られる。盛時は壮大な寺院として塔頭十二坊を数えたと伝えられるが、皇后の没後、急速に衰え、平安中期には廃絶した。その跡地に建てられたのが夢窓疎石を開山とした天龍寺である)『を創建したことから檀林皇后と呼ばれるようになる。嵯峨天皇譲位後は』ともに『冷然院・嵯峨院に住んだ』が、『嵯峨上皇の崩後も太皇太后として朝廷で隠然たる勢力を有し、橘氏の子弟のために大学別曹学館院を設立するなど勢威を誇り、仁明天皇の地位を安定させるため』、承和の変(承和九(八四二)年に伴健岑(とものこわみね)・橘逸勢(たちばなのはやなり)らが謀反を企てたとして流罪となり、仁明天皇の皇太子恒貞親王が廃された事件。藤原良房の陰謀とされ、事件後、良房の甥道康親王が皇太子となった)にも『深く関わったといわれる。そのため、廃太子・恒貞親王の実母である娘の正子内親王は嘉智子を深く恨んだと言われている』。『仏教に深く帰依しており、自分の体を餌として与えて鳥や獣の飢を救うため、または、この世のあらゆるものは移り変わり永遠なるものは一つも無いという「諸行無常」の真理を自らの身をもって示して、人々の心に菩提心(覚りを求める心)を呼び起こすために、死に臨んで、自らの遺体を埋葬せず』、『路傍に放置せよと遺言し、帷子辻』(かたびらがつじ:現在の京都市北西部にあったとされる場所)『において遺体が腐乱して白骨化していく様子を人々に示したといわれ』。或いは、『その遺体の変化の過程を絵師に描かせたという伝説がある』とある。

「佛法更に又、是に過ぎたるものありや」の「是」は空海の教えた真言宗を指す。

「南天(なんてん)」南インド。

「惠蕚(ゑがく)法師」(生没年未詳)平安前期の本邦の僧で、日本と唐の間を何度も往復した。ウィキの「惠蕚によれば、彼の事蹟は本邦及び中国のさまざまな書籍に断片的な記載はあるものの、多くは不明である。ここで示されたように嘉智子の禅の教えを日本に齎すべしとの命を受けて、『弟子とともに入唐し、唐の会昌元年』(八四一年)『に五台山に到って橘嘉智子からことづかった』『贈り物を渡し、日本に渡る僧を求め』、『その後も毎年』、『五台山に巡礼していたが、会昌の廃仏』(開成五(八四〇)年に即位した唐の第十八第皇帝武宗が道教に入れ込んで道教保護のために教団が肥大化していた仏教や景教などの外来宗教に対して行った弾圧)『に遭って還俗させられた』。この『恵萼の求めに応じて、唐から義空が来日している。のち、恵萼は蘇州の開元寺で「日本国首伝禅宗記」という碑を刻ませて日本に送り、羅城門の傍に建てたが、のちに門が倒壊したときにその下敷きになって壊れたという』。『白居易は自ら『白氏文集』を校訂し、各地の寺に奉納していたが、恵萼は』その内の『蘇州の南禅寺のものを』会昌四(八四四)年『に筆写させ、日本へ持ち帰った。これをもとにして鎌倉時代に筆写された金沢文庫旧蔵本の一部が日本各地に残っており、その跋や奥書に恵萼がもたらした本であることを記している。金沢文庫本は『白氏文集』の本来の姿を知るための貴重な抄本である』。恵萼はまた、『浙江省の普陀山の観音菩薩信仰に関する伝説でも有名である』。諸伝書によれば、『恵萼は』大中一二(八五八)年に『五台山から得た観音像(『仏祖歴代通載』では菩薩の画像とする)を日本に持って帰ろうとしたが、普陀山で船が進まなくなった。観音像をおろしたところ船が動くようになったため、普陀山に寺を建ててその観音像を安置したという。この観音は、唐から外に行こうとしなかったことから、不肯去観音(ふこうきょかんのん)と呼ばれた』とある。この最後の話は先行する「北條九代記 卷第七 下河邊行秀補陀落山に渡る 付 惠蕚法師」に出、そこでも私は注しているので、参照されたい。

「文德天皇の御宇、齊衡(さいかう)年中に入唐(につたう)せしめらる」「齊衡」は八五四年から八五七年。これではしかし嘉智子の没後(嘉祥三(八五〇)年没)となり、如何にもおかしい。前注の通り、彼が弟子とともに入唐して五台山に至ったのは唐の会昌元(八四一)年)とするのがピンとくるから、この叙述は変である直後に「宣宗皇帝大中の年なり」とあるが、大中は八四七年から八五九年で、二つを合わせると、入唐はユリウス暦八四七年から八五七年の間ということになり、これだと、嘉智子の晩年と三年だけかぶるからまだしもではある

「登萊(とくねき)」読みはママ。山島半島の北側にある登(とう)州と萊(らい)州のこと。

「鴈門」山西省北部にある句注山(雁山)のこと。中国史に於ける北辺守備の要地。

「五臺」山西省北東部の台状の五峰からなる山で、峨眉山・天台山とともに中国仏教の三大霊場の一つ。文殊菩薩の住む清涼山に擬せられた。元代以降はチベット仏教の聖地となった。

「靈池寺」杭州塩官県の霊池院。現存しない模様。

「齊安禪師」塩官齊安 (?~八四二年)。「碧巖錄」の「第九十一則 鹽官 (えんかん)の犀牛 (さいぎう) の扇子」などで知られる禅僧。

「禪師の弟子義空(ぎくう)を伴ひて歸朝せらる」恵萼の帰朝は、先の注に記した、唐宣宗の大中一二年、本邦の天安二年、ユリウス暦八五八年のことであった。因みに、この年の八月、文徳天皇は薨去し、清和天皇が践祚している。

「京師の東寺に居住せし間に、皇太后、既に檀林寺を創(はじ)めて居らしめ、時々(よりより)道を問ひ給ふ」時代が齟齬している。おかしい

「根機」時機。禪語で言うなら、禅宗が広まるための禪機である。

「寶治」一二四七年~一二四八年。

「隆蘭溪」蘭溪道隆(一二一三年~弘安元(一二七八)年:建長寺にて示寂)。この辺りは先行する「北條九代記 卷之八 陸奥守重時相摸守時賴出家 付 時賴省悟」の本文と私の注及び私の「新編鎌倉志卷之三」の「建長寺」の項を参照されたい。

「遊化」教化のために来日したこと。

「祖元」蘭溪道隆の後継として来日した無学祖元(一二二六年~弘安九(一二八六)年:建長寺にて示寂)。この辺りも私の「新編鎌倉志卷之三」の「圓覺寺」の項を参照されたい。

「榮西禪師」備中国賀陽郡(現在の岡山県加賀郡吉備中央町)の神官の子であった臨済僧明菴栄西(永治元(一一四一)年~建保三(一二一五)年)。正治二(一二〇〇)年に北条政子が建立した寿福寺の住職に招聘され、建仁二(一二一二)年には鎌倉幕府第二代将軍源頼家の外護により、京都に建仁寺を建立(同寺は禅・天台・真言の三宗兼学)、以後、幕府や朝廷の庇護を受け、禅宗の振興に努め、建仁寺で示寂した。

「攝家」摂関家。

「淸華」現行では「せいが」と濁る。清華家。公家の家格のの一つで最上位の摂家に次ぎ、大臣家の上の序列に位置する。大臣・大将を兼ねて太政大臣になることの出来る七家(久我・三条・西園寺・徳大寺・花山院・大炊御門・今出川)を指す。

「王積翁」(一二二九年~一二八四年)が殺されたのは、先例に徴して日本に行けば問答無用で斬首されると恐れた水夫らの反乱によるものと考えられているようである。

「如智」不詳。補陀禅寺の長老という記載をネット上では見かけた。

「皈り」「かへり」(歸り)。]

 

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