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2017/05/10

「想山著聞奇集 卷の參」 「大蛇の事」

 

 大蛇の事

 

Daijya1

 

[やぶちゃん注:この挿絵は蟒蛇(うわばみ)の蜷局(とぐろ)の中央に描かれている人物が右手に持っている特殊な武器及び彼の両眼部分が眼鏡様(実際にゴーグルである)に描かれていることから、第一段落末の「美濃國加茂郡虎溪邊」りの白髪の翁の捨て身の蟒蛇退治譚を描いたものであるあることが判る。]

 

 大蛇と云(いふ)もの、爰(ここ)の沼、かしこの森に住めりなどゝ云傳(いひつたふ)る事は、よく有(ある)事なれども、慥(たしか)に見たると云人は少く、尤(もつとも)、掃溜(はきだめ)には蚯蚓(みみず)わき、濕地には濕蟲(うじ)わくも同じ事にて、深山幽谷には、大蛇のすむは珍しからざる事ながら、思(おもひ)の外、淺(あさ)まなる所にも、大成(おほいなる)蛇も住(すみ)、又よく隱顯するものにして、隱るゝ時は、更に見ゆる事なし、あるひは、小蛇にも龍種(りうしゆ)有て、足下より風雨を起し、昇天するあり。蛇は都(すべ)て龍の種屬にして、神變不可思議、書記(かきしる)すべきに非ず。よつて、唯、慥に聞(きく)事のみを記し置(おき)ぬ。美濃の國加茂郡麻生[やぶちゃん注:現在の岐阜県加茂郡七宗町(ひちそうちょう)上麻生(かみあそう)及びその下流の川辺町上川辺の下麻生地区。私の妻の父の実家はこの七宗上麻生で、私は三度訪れたことがあるここ(グーグル・マップ・データ)。]は飛騨川に添(そひ)て、後ろは峨々たる絶壁の巖石(ぐわんせき)にして、直に上麻生より金(かね)山[やぶちゃん注:現在の岐阜県下呂市金山町(かなやまちょう)。ここ(グーグル・マップ・データ)。]七宗山[やぶちゃん注:七宗町(ここ(グーグル・マップ・データ))の「宗」は「みたまや(神の宿る場所)」を意味し、町の北部にそびえる峰々を古えより「七宗山」「七宗権現」と呼び、崇めてきた歴史がある。]、飛驒境の深山幽谷へ地續きの所なり。然れども、此麻生の地は、深山と中(ちう)にはなく、中山道太田宿[やぶちゃん注:現在の岐阜県美濃加茂市太田町附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。]より艮(うしとら)[やぶちゃん注:東北。]の方へ三里、邑(むら)續きの所也。此麻生の地に、昔より大なるうはゞみ住めり。近きころ見たると云は、或時、狩人、此山に入込居(いりこみをり)て、大成(なる)巖(いはほ)の下に獲物を待(まつ)所に、山上より俄(にはか)に響(ひびき)發(おこ)りて、大鹿二頭、駈行(かけゆき)たり。是は、何か追來(おひきた)るものゝ有て逃行(にげゆく)のなりと心得て[やぶちゃん注:「のなり」はママ。「ものなり」の脱字か、「の」の衍字であろう。]、その追ひ來(く)き物を打取(うちとら)んと、錢砲を取直(とりなほ)し待受(まちうく)に、間もなく、聞(きき)なれざる冷(すさ)まじき音して來りたり。是は如何成(いかなる)物の來(きた)るやと、甚だ不審に思ひて、彼(かの)嚴に添て彳(たたず)み居(をり)たるに、其巖の上よりずつと斜(ななめ)に成(なり)て、大成(だいなる)蛇、今の鹿を追行(おひゆき)たり。その早(はや)く冷(すさ)まじき事、譬(たとふ)るにものなく、其蛇の𢌞(まは)りは二圍(ふたかかへ)[やぶちゃん注:両腕幅(尋:六尺一・八メートル)とすれば、十二尺で、三メートル六十四センチ弱に相当する。以降もそれで各自、計算されたい。]も有べく、頭は大成(な)る立臼(たてうす)の如くにして、口をあきたり。都(すべ)て、二三尺𢌞り程の蛇にても、行(ゆく)時は頭を擧(あげ)て、是非[やぶちゃん注:必ず。]、口を明(あけ)て行ものなるに、ましてや是は、鹿を逐(おひ)て口をあき行勢ひ、誠に恐ろしかりし事也とぞ。狩人は巖の下に居(ゐ)て、蛇は頭(かしら)の上を突切(つききり)て通りたるまゝ、こなたよりはよくしり居(をり)、蛇よりは狩人を知(しら)ずして追行たりと云。又、同村の者、同所の内にて山稼(やまかせぎ)に行たるに、深林の上より、かの蛇、件(くだん)の山稼の者を見付(みつけ)て、外の生物と心得、已に呑(のむ)べき勢ひにて、大成(なる)口をあき、たゞちに飛懸(とびかか)りたれども、人なれば、避(さけ)て呑(のむ)事を止(やめ)たり。彼(かの)者は、覺(おぼえ)なく、逃歸(にげかへ)りて後、氣絶し、漸(やうやう)甦(よみがへ)りたれども、遂に夫(それ)が基と成(なり)て、半年程、煩(わづら)ひて死(しに)たりと。此兩談は、予三十年のむかし、此地に出役(しゆつやく)して、現に聞知(ききしり)たる事也。その者共の名も聞置しに、今は忘れたり。此蛇は、人をば避て呑(のま)ずと云傳えたり。左も有べきか。此川向の吉田村[やぶちゃん注:現在、七宗や下麻生の飛騨川下流に加茂郡川辺町下吉田がある。ここ(グーグル・マップ・データ)。]の者にも、此咄しを聞たり。惣躰(さうたい)、此邊にては、一貮尺𢌞(まは)りの蛇を見る事は、折節有(ある)事とぞ。此麻生より三四里西の方、武儀郡志津野村[やぶちゃん注:現在の岐阜県関市志津野。ここ(グーグル・マップ・データ)。]の山内にも、大蛇有て、芝・薪(まき)[やぶちゃん注:薪(たきぎ)にするような小木の謂いであろう。]・小松など倒れて、通りたる跡は付(つく)事なれども、昔より慥に見たるものはなきよし。是は、右麻生の蛇よりはまた大(おほき)く、三圍か四圍も有べきと思ふほどの跡なりとぞ。彼(かの)蜀國(しよくこく)[やぶちゃん注:揚長江上流の四川省を中心とした地方。]に住(すむ)、巴蛇(はじや)[やぶちゃん注:次の「蛇」とともに段落後に注する。通常、大陸の本草書の「蛇」は「だ」と読むのが普通で、ここも私は当初、「はだ」と読んでいたが、後で判るが、想山は基本、「~蛇」の場合は「~じや(じゃ)」としか読んでいない。従って以降も「蛇」を末語とする蛇の名の読みは基本、「~じや」で通した。]の類(たぐひ)にや。又、漢土の書に、蛇(ぜんじや)の大なるは、よく鹿を呑(のむ)と云事もあれば、彼國にも有事にて、同談なり。世に蛇に呑(のま)れ、腹を裁割(さきわり)て出(いで)たると云事は、咄傳(はなしづた)えには多く、又、書記(かきしる)したる書もまゝ見當りたれども、虛實は如何にやと思ひ居(をり)しが、其内、或人上州草津の湯へ蛇に呑れて助命せし者、毒氣を治する迚(とて)、來り居(ゐ)たるを見たりといへども、其譯、懇(ねんごろ)に聞來(きききた)らざれば、精(くは)しく記し難し。世に云傳(いふつたふ)る通り、髮の毛もぬけ、呑れてまだ日も經ねば、惣身(さうみ)、赤むけの如く成居(なりゐ)たりといへり。又、玉の三治と云者の咄に、駿州の富士郡村山村[やぶちゃん注:現在の静岡県東部の富士宮市内村山。ここ(グーグル・マップ・データ)。富士山の西南の裾野近く。]の狩人、兄弟連(つれ)にて山深く入込(いりこみ)て、弟の喜八、谷へ下(くだ)り行(ゆき)て歸り來らず。良(やや)暫く待居(まちをり)たれども、來らざる故、聲をかくれども、答(こたへ)もなきまゝ、兄の藤五郎、尋(たづね)に行て見るに、蛇橫たはり居(ゐ)て、弟を呑たりと見えて、蛇の鼠を呑たる如く、腹張居(はりをり)たる故、取敢(とりあへ)ず、力に任せて鐡砲にて打(うつ)と、蛇もくるしかりしにや、直に喜八を吐出したり。依(よつ)て藤五郎は、猶、錢砲を以て、其蛇を遂に打殺(うちころし)たりと。然れ共、喜八は夢心ちにて、正氣と成兼(なりかね)、色々介抱をなして、漸(やうや)く翌日に至りて蘇生なし、夫より種々に治療をなして、不思議に助命なしたりと也。然ども、蛇毒にて、惣身解懸(とけかか)りて、悉く赤むけと成(なり)、勿論、毛髮は少しもなく、鼻も耳も消失(きえうせ)て、漸く左(ひだ)りの耳ばかり、少し殘り居(をり)たりと。元來、この喜八は、通例よりは餘程大振(おほぶり)なる男にて有しが、何の苦もなく、一呑(ひとのみ)となしたるにや。俄に眞黑に成て來ると思ふ迄は覺(おぼえ)有たれども、夫よりはいかゞなりしか、更に覺はなかりしとなり。三治は、右の兄弟の者に心安くて、兩人共より能(よく)聞しり居(をり)ての咄し也。喜八、四十三の時に呑れて、七十餘りの時、知る人に成たれば、久敷(ひさしき)ことなりとて、早々年曆を繰返して見るに、呑れたるは天明[やぶちゃん注:一七八一年~一七八九年。]の中頃の事と聞えたり。是を以(もつて)見る時は、深山には往々有事と見えたり。恐敷(おそろしき)事也。又、予が知己(ちき)、川澄(かわずみ)何某の物語に、同人稚(おさな)き時、親類の方へ來りし髮・鬚・眉とも悉く白髮なる老翁のありしを、父の示さるゝには、あの者は蛇に呑れし故、あの如く白髮と成たり。能く見覺置べしと云(いは)るゝ故、幼心ながら、能(よく)見覺置(みおぼえおき)て、今に慥に覺有(おぼえある)なりと。扨、此者は、美濃國加茂郡虎溪[やぶちゃん注:不詳。旧加茂郡は美濃加茂市の全域及び周辺域の一部を広範囲に含み、先に出た七宗町の一部も含まれていた。岐阜県多治見市に虎渓山町(こけいざんちょう)があり、ここは確かに名古屋の東北に当たるけれども、少なくとも近代の旧加茂郡域ではない。]邊(あたり)の者なるが、【尾州名古屋より十里程、艮の方なり。】。其呑れしと云譯は、其者の至(いたつ)て愛せし十歳程に成(なる)孫を、蛇に呑れたるゆゑ、われも倶に呑れて、其蛇の腹を切裂出(きしさきいで)て、孫の敵(かたき)を取(とる)べしと云ふと、夫は中々覺束(おぼつか)なき事也、毛を吹て(ふき)痕(きず)を需(もとむ)る諺のごとくならんと、人々留(とむ)れども聞入(ききれ)ず。外には輙(たやす)く殺すべき手段なし。我は老人の事、假令(たとひ)、夫切(それき)り沒したりとも、おしからぬ命也。あの蛇をあのまゝ差置(さいおか)ば、又、人の子供等をも取べきまゝ、捨置(すておき)がたしと云て、名古屋へ出(いで)て鞢師(ゆがけし)[やぶちゃん注:「ゆがけ」(「弓懸」「弽」などとも書く)は弓を引く際に右手に嵌めて弦から右手親指を保護するための鹿革製の手袋状のものを指す。]に申付(まうしつけ)て、惣身殘らず、鞢(ゆがけ)の如くに革にて包むものを拵(こしらへ)させ、目の所には目鏡(めがね)を入(いれ)させ、又、同所鍛冶屋丁(かぢやちやう)の信高(のぶたか)と云(いふ)刀鍛冶に、内外(うちそと)兩刄にして、左右へ兩頭なる鎌を丈夫に打立(うちいだ)させ、十分に支度(したく)をなして、かの蛇のいづる所へ、幾日も行て、待受居(まちうけを)る其内に、蛇出來(いできた)り、思ふ儘に呑れて後、難なく腹を切割出(きりさきいで)て逃歸り、悴(せがれ)初め大勢を催して其所へ連行(つれゆき)、無上に[やぶちゃん注:「むじやう」でこの上なくの意でとっておくが、私はこれは「無止(むやみ)に」の誤りのような気がする。]錢砲を打(うち)て殺せし由。初め呑るゝ時、腹へ篤(とく)と落付(おちつき)て後、切破(きりやぶ)り懸ればよろしかりしに、口に入ると其儘、矢庭(やには)に切懸りたる故、喉より腹に至る迄、所々疵だらけとなして切出(きりいで)たる由、追々(おひおひ)成長の上、聞置たるとの事なり。此者は、かく手段をなして呑れたるゆゑか、毛髮悉く白くなりし迄にて、惣身はさして替りたる事もなかりしと云(いへ)り。右の者を見請(みうけ)しは、天明五年[やぶちゃん注:一七八五年。]頃にて、其時、六十有餘の農夫にて有たりしと也。

[やぶちゃん注:「巴蛇」ウィキの「巴蛇」によれば(そこでは「ぜんだ」と読んでいる)、『黒蛇(こくだ)黒蟒(こくぼう)とも』称する『巨大なヘビ(大蛇)』というか、想像上の怪物とする。中国の幻想的地理書(戦国時代から秦朝・漢代(紀元前四世紀から三世紀頃)にかけて徐々に付加執筆されて成立したものとされる)で現存する最古の地誌である『『山海経』海内南経によると、大きなゾウを飲み込み』、三『年をかけてそれを消化したという。巴蛇が消化をしおえた後に出て来る骨は「心腹之疾」』(しんぷくのしつ。『治療が困難な難病のこと。具体的にどのような症状に薬効があると考えられていたのかは不詳』)『の薬になるとも記されている。また、『山海経』海内経の南方にある朱巻の国という場所の記述には「有黒蛇 青首 食象」とあり、同じよう大蛇が各地に存在すると信じられていた。『山海経』の注には「蛇(ぜんだ)吞鹿、鹿已爛、自絞於樹腹中、骨皆穿鱗甲、間出、此其類也」とあってゾウの話は蛇(大蛇)がシカなどを飲み込むような事を示したものであろうと書いている』。『『聞奇録』には、山で煙のような気がたちのぼったのを見た男があれは何かとたずねたら「あれはヘビがゾウを呑んでるのだ」と答えられたという話が載っている』。『ゾウ(象)を食べるというのはウサギ(兔)という漢字との誤りから生じたのではないかとの説もある』。『『本草綱目』では蚋子(蚊の小さいもの)は巴蛇の鱗の中に巣をつくる、と記している』とある。

蛇」前で引いたウィキの「巴蛇」の『中国におけるおろち・うわばみ』の項には、「南裔異物志」からとして、この「蛇」(これも記者は「ぜんだ」と読むつもりであろうが、後に出るように想山は「ぜんじや」と読んでいる)を挙げ、その牙は長さが六~七寸にも達し、『土地の者が魔除けとして珍重しており、ウシ数頭分の価値があった、と記されている』とある。但し、現代中国語では、この「」を、爬虫綱有鱗目ヘビ亜目ボア科ボアコンストリクター Boa constrictor の漢名に用いており、本種は最大全長が五メートル四〇センチに及ぶ巨大種で、よりもの方が大型になる。参照したウィキの「ボアコンストリクター」によれば、『熱帯雨林やサバンナ、農耕地や民家近くに生息する。幼体は樹上棲の傾向が強いが、成長に伴い地表棲になる』。『食性は動物食で、主に鳥類、哺乳類等の恒温動物を食べる。太い胴は待ち伏せからの素早い飛びつきに適している。胴で絞める力が強く、種小名の constrictor は「絞め殺す者」の意。獲物に噛みついた後、胴体で獲物に巻き付いて絞め殺す。 繁殖形態は卵胎生で、一度に』二〇~六〇匹ほどの幼体を産むとある。なお、本邦ではこの「蛇」でニシキヘビ(有鱗目ヘビ亜目ムカシヘビ上科ニシキヘビ科 Pythonidae の類)を意味するとネット記載にあり、次の段落でも想山が「本草綱目啓蒙」を引いて述べている。これは以下の「蛇の皮」の記事と図などからも、すこぶる納得がゆく比定であり、そもそもが、ニシキヘビ類はボア科Boidae の亜科とする説もあるぐらいから、生物学的にも何ら、誤りとは言えないのである。]

 

Daijya2

 

[やぶちゃん注:キャプション部分は底本で以下の通り、活字化されてある(但し、あくまで図に従い、本文の一部の活字を変えてある)。一行字数を合わせて、対照し易くした。その代り、判る読みは施さない。底本の句読点は残したが、一部を変更した。まず、中段部分。]

 

誠にかた斗(ばか)りなる

圖なれども、色はかく

のごときものにて、

五色の斑(まだら)の色合に

て、彪(ふ)は瑇瑁(たいまい)の如く

なれども、何(なに)となく

見るも氣味わろき

ものにて嫌(けがら)はし

く濁りたるものに

見えたり、長さ

三間にも餘り、巾

中(なか)の所二尺五寸も

あるべし、左右共

少し狹く、首尾

は切取たるものにて

全身にてはなし。

皮はだは蛇の如き

鱗にてはなく、いか

にも細かきしぼにて

尋常(よのつね)の蛇(じや)とは大(おほひ)に

違(たが)へり、鎗(やり)の鞘などの

たゝきぬりの如き

皮はだのもの也。

背腹一樣にて、

俗に云、蛇腹(じやばら)

にてはなかり

    し也。

 

[やぶちゃん注:「三間にも餘り」約五メートル四十五センチを超え。

「二尺五寸」六十二センチメートル。

 以下、下段。]

 

此全身の蛇(ぜんじや)は、本

文にも申如く、僅

長(ながさ)一丈ばかり、太さ

火入(ひいれ)の𢌞(まは)り程にて

いかにも幼稚のものなる

か、圖のごとく

尋常(よのつね)の蛇よりは

頭(かしら)小き故に首筋

細からぬ樣に見え、

面躰(めんてい)蛇(じや)とは達ひ、

いかにも柔和(ねうわ)なり、

尾はすつとこけて

上方筋(かみがたすぢ)の大根の

形(なり)に似たり。上に云

置(おく)通り、腹も背も

一樣にて蛇腹はなし。

此(この)蛇、全身なれ共、

肉を拔取て、餘(よ)の物

を詰たるもの故、形ち

彌(いよいよ)愚鈍に成たるもの

とは見ゆれども、元來

小蛇(せうじや)の如き賢きもの

とは見えず、斑(ふ)はうへ

の皮と全く同種ながら、

色淺く薄し、年經ざる

ゆゑと見えたり。

 

[やぶちゃん注:「一丈」三メートル三センチメートル。

「火入」煙草に火をつけるための火種を入れておく、煙草盆の中に埋め込んだ丸い小さな器。直径十センチ強ほどか。

 

【2017年5月25日追記:遅蒔きながら、サイト「富山大学学術情報リポジトリ」内のヘルン庫」から、かの小泉八雲旧蔵本である本「想山著聞奇集」の原本全部のPDF版ダウン・ロードが出来ることを知ったが、それを見て驚いたのは、この図版と次の二匹の龍の図版は色彩が施されているのであった。是非、ご覧あれ!】]

 

 又云、世にうはばみと云もの有。是は大ひ成(なる)蛇にて、人をも呑(のむ)と云(いふ)事は、三歳の童子も能(よく)しる事なれども、山邊の住居(すまゐ)をせず。又、深山といへども、澤山に居(を)るものならねば、其種、如何成(いかなる)ものと云(いふ)を辨(わきま)へざるに、予、江戸の醫學館[やぶちゃん注:江戸後期に設けられた医学校。幕府が神田佐久間町に設けた漢方医学校で、明和二(一七六五)年に幕府奥医師多紀元孝(安元)が開設した私学「躋寿館(せいじゅかん)」を起源とし、寛政三(一七九一)年に幕府直轄の医官養成校となり、「医学館」と改称した。後の文化三(一八〇六三(一八〇六)年に大火で焼け落ち、浅草向柳原(さくさむこうやなぎはら)に移転再建されているが、ここは神田にあったそれ。以上はウィキの「医学館」に拠った。]にて、(ぜんじや)の皮、又全身の小成(せうなる)ものをも見たり。仍(よつて)、此所に圖して、後人の爲に記し置(おく)。本草綱目啓蒙[やぶちゃん注:既注。]に、蛇ハ和名ニシキヘミ。和産詳ナラズ。嶺南ノ大蛇ニシテ北地ニ産セズ。故ニ南蛇ノ名有。【中略】ウハヾミト訓ズルハ非ナリ。ウハヾミハ一名ヤマカヾチ【和名鈔】ト有テ、本邦大蛇ノ名ニシテ漢名蟒蛇(マウジヤ)ナリ、と云(いへ)り。是を以、見る時は、ウハヾミは蟒蛇にて、蛇はウハヾミと讀(よむ)は違ふやうに見ゆ。然れども、いま蛇と書(かき)、蟒蛇と書(かき)て、いづれもウハヾミと讀來(よみきた)り、多識編(たしきへん)[やぶちゃん注:林羅山著の本草学書。慶安二(一六四九)年刊。]には、蛇をヲホヘミ又シカクイヘミと讀(よみ)、蛇をヲホヲロチと讀てあり。又、事物紺珠(じぶつこんじゆ)[やぶちゃん注:一〇六四年に明の黄一正が編した本草書。]に、大サ二三圍(まはり)、長十餘丈[やぶちゃん注:「十丈」でも三〇メートル三〇センチ弱。]、頷(あご)下有ㇾ鬚(ひげあり)、故(ゆゑに)名ㇾ、牙(きば)長六七寸、辟不祥[やぶちゃん注:最後は「不祥(ふしやう)を辟(さ)く」で、「災いを避ける(お守りとなる)」と謂う意であろう。]と云(いふ)。左(さ)れば眞の鬚の有(ある)は蛇なるか。蛇・蟒蛇(うはばみ)・巴蛇・南蛇(なんじや)・埋頭蛇(まいとうじや)[やぶちゃん注:私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」の「蛇」の項の本文及び私の注を参照されたいが、「南蛇」と「埋頭蛇」は同類種としてあり、私は爬虫綱有鱗目ヘビ亜目ムカシヘビ上科ニシキヘビ科ニシキヘビ属インドニシキヘビ Python molurus、及びニシキヘビ属の最大亜種ビルマニシキヘビ Python molurus bivittatus を取り敢えず同定候補とし(特に後者)、「南蛇」については、現在、ヘビ亜目ナミヘビ科ナンダ(ウィップスネーク“whip Snake” Ptyas mucosusの中国名にも当てられているとした(科が異なるが、こちらも最大全長三メートル二〇センチに及ぶ大型種である。]・蝮蛇(ふくじや)[やぶちゃん注:「蝮」は現在、かの本邦の有毒蛇の一種であるクサリヘビ科マムシ亜科マムシ属ニホンマムシGloydius blomhoffii を指すが、本来、この「蝮蛇」は別な本邦の強毒性種群であるマムシ亜科ハブ属 Protobothrops のハブ類を指すものであった。同じく寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」の「蝮蛇」の項の私の注を参照されたい。]、皆(みな)大蛇の名なれども、其種類は別種なるか。又、同種異名なるか。いまだ辨へ兼たり。尤、種類幾通りも有(ある)事ときこえたり。いかにも世に澤山になく、其上、龍蛇の類(たぐひ)は、能(よく)隱るゝ事に妙を得たるものにて、邂逅(たまさか)、樵者(きこり)・杣人(そまびと)の見受(みうけ)たるも、恐敷(おそろしき)ゆゑ、能(よく)見屆けたるも少く、又よく見たり共(とも)、深山の土俗故、何事も分明(ぶんめい)ならず。仍(よつ)て博物といへども、多くは聞傳(ききづた)えを以て論説をなす故、各自にて一致せざる樣におもはる。前にいふ予が見たる皮は、幅二尺五寸長さ三間餘も有て、首尾は連續せず、切取(きりとり)たるものにて、全く蛇のごとき皮なれども、鱗の如き肌細かく、脊通りは黑赤黃の斑文にて、靑白色をもおびたり。又、鼠色もおびて、腹は同じ薄斑(うすまだら)の曇色(くもりいろ)なり。又、同所に全身の小なるものあり。丈(たけ)二間[やぶちゃん注:三メートル六十四センチ弱。]及びもありて、太さ火入(ひいれ)程の𢌞(めぐ)りにて、胴張(どうはり)ながら[やぶちゃん注:キャプションに出る、内臓その他を摘出して詰め物をして張り子としたものながら、の意であろう。]、蛇よりは首小(ちさ)きゆゑ、首筋の所、細からざるやうに見え、頭ちいさくして女の拳(こぶし)程有て、蛇の形相(ぎやうさう)とは大に違ひて、甚(はなはだ)温順にて、見たる所はおそろしからざる顏色にて、齒は細かく尖りて、上下ともぎつしりとはえ、少し外の方へはえ出たり。猛惡の性(しやう)のものは、多くは齒先鈎(とが)り、内の方へ生(はゆ)るものなれば、この齒の中にもまた、内へ向て二重並にはえ居(を)るも量(はか)られず。干付(ほしつけ)たるもの故、口あかざれば、舌などの樣子もしれざれども、元來、猛惡のものゝ齒とも思はれず。惣躰、鈍優(どんゆう)[やぶちゃん注:見かけない熟語であるが、(生時の動きや姿を想像して見ても)「如何にも動作も鈍そうに見え、猛悪な蛇には聊かも見えず、却って穏和でどっしりとして見えること」を指すか。]に見え、中々小蛇の賢利(けんり)なるものとは、其趣き甚だ違ふ樣に見え、かく鈍優ならずしては、大きくはなられまじきと思はる。尾も、常の蛇のわり合よりは違ひ、先はずつとこけたる[やぶちゃん注:スマートになっている。]ものなり。蛇は和名妙にニシキヘミと訓し、蛇文如連錢錦

也[やぶちゃん注:「蛇文は連錢(れんせん)せる錦(にしき)のごとし」と訓読しておく。「連錢」は「れんぜん」とも読め、銭(ぜに)を並べた形の文様を言う。]と有。今、圖する[やぶちゃん注:二枚目の図。]蛇は、色をもつて考ふる時は、全く蛇也。前にも記す蛇は、多識編には、鹿喰蛇(ろくしよくじや)とも有て、漢土にて、蛇は鹿を呑(のむ)と云(いふ)事、諸事に見えたり。前の麻生にて、鹿を追行(おひゆき)たる大蛇も、この蛇にや、又は蟒蛇にや、計りがたし。山海經(せんがいきやう)に、巴蛇呑ㇾ象と云事有。又、正字通[やぶちゃん注:明末の張自烈によって編纂された漢字字典。]に、巴蛇長十尋[やぶちゃん注:前に出した人体スケールの両腕幅で採る。一尋=六尺一・八メートル)で十八メートル。]、備靑黃赤白黑色、今蛇其類[やぶちゃん注:「靑・黃・赤・白・黑色を備へ、今の蛇は其の類なり。」。]と有れは、巴蛇も蛇も其色のよく似たるものか。又、北夢項言(ほくぼうさげん)[やぶちゃん注:唐末から宋初の孫光憲が唐末から五代にかけての著名人の逸話を集めた説話集。]に曰、有一蛇斜谷嶺路、高七八尺、莫ㇾ知其首尾、四面小蛇翼ㇾ之無數、每一拖ㇾ身、卽林木摧折、殆旬半方過、盡阻行放云々。[やぶちゃん注:「一蛇、有り、斜谷・嶺路に橫たはる。高さ七、八尺、其の首尾、知る莫(な)し。四面、小蛇、之れを翼(かば)ひて無數たり。每一(ひとたび)、身を拖(ひきず)れば、卽ち、林木、摧(くだ)け折れり。殆んど、旬(じゆん)半ばにして方(まさ)に過ぐれば、盡(ことど)く、行き放(た)つものを阻(さへぎ)れりと云々。」。「旬半ばにして方に過ぐれば」と強引に読みはしたものの、意味不明(行き過ぎるのに半月もかかるの意かと勝手に思った)。識者の御教授を乞う。]是等は、小象をも呑べきものなり。前に云、志津野村の大蛇の通りたる跡は、林木裂け、麁朶(そだ)[やぶちゃん注:ここは木の枝。]悉く折倒ると云。是等もその類(たぐひ)にや。古よりウハヾミの事を記したる書は多く侍れど、其種類を委敷(くはしく)書記(かきしる)したるものなく、殘り多し。又飛驒・加賀・若狹、其外、西國・九州にも、野槌(のづち)と云もの有て、蛇のことき種にて、甚(はなはだ)短く、世の人、多くは是を見てウハヾミなりと申觸(まうしふ)るゝも有(ある)事と云(いふ)人の有(あれ)ども、是は餘種にして、其上、蛇よりは一入(ひとしほ)希(まれ)なるものと見えたり。又、巴蛇は野槌の事也と云人有ども、巴蛇と野槌とも、中々違ふ事と思はる。南谿が西遊記(せいゆうき)、又は新著聞集などにも、一種、太き短き蛇といふもの有。是、巴蛇の類(たぐひ)かと思はる。其國、其所により、種々の大蛇もある事としられて、迚も表す事能はざる事なり。

[やぶちゃん注:「西遊記」以前の注に出た、京の儒医橘南谿(宝暦三(一七五三)年~文化二(一八〇五)年が書いた紀行。寛政七(一七九五)年三月刊。ここに言うのは現在の熊本での、「卷一」の「猪(ゐ)の狩倉(かくら)の大蛇」にちょっとだけ触れられてある。「新著聞集」寛延二(一七四九)年に板行された説話集。日本各地の奇談・珍談・旧事・遺聞を集めた八冊十八篇で全三百七十七話から成る。俳諧師椋梨(むくなし)一雪による説話集「続著聞集」という作品を紀州藩士神谷養勇軒が藩主の命によって再編集したものとされる。「古今著聞集」を単に「著聞集」と呼んだことから、「新」を名乗ってたものであるが、それ自体、尊大な感じがする。所持し、複数の大蛇・妖蛇の記載が載るが、ざっと見た限りでは、「太き短き蛇」という記載は見当たらぬ。発見したら、速やかに追記する。

 最後に出る「野槌」は、その叙述を読んでおられるうちに、「ああ! あれか!」と多くの方が思い当たられるであろう。そう「ツチノコ」である。寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」に「野槌蛇」として独立項をさえ持つ、古典的怪蛇、未確認生物(ユーマ:UMA:Unidentified Mysterious Animal の頭文字であるがこれは和製英語で外国では「UMA」は通じないので、ご注意あれ)である。リンク先の「野槌蛇」注で私は以下のように記した(一部を書き変えた)。

   *

ツチノコに同定する。木槌の柄を外した槌部分に類似した極めて寸胴(誇張的名辞で良安の直径十五センチメートル・全長九十センチメートルは「長い木枕」といった感じだ)の蛇で、北海道と南西諸島を除く広範な地域で目撃例がある。その標準的特質を多岐に亙る情報ソースの最大公約数として以下に列挙して、想像の楽しみの便(よすが)と致そう。

・学名:未定

・標準和名:ツチノコ(ノヅチの方に優先権があろうが人口に膾炙しているこちらをとる)

・異名:ノヅチ・バチヘビ・ツチ・ドコ・コロ・コロガリ・ワラツチ・ヨコヅチ・キネノコ・キネヘビ・ツチコロ・ツチコロビ・タンコロ・トッテンコロガシ・ドテンコ・スキノトコ・トックリヘビ・ツツ・マムシ・コウガイヒラクチ・イノコヘビ・バチアネコ・トッタリ・ゴスンハッスン・サンズンヘビ・シャクハチヘビ・ゴジュッポヘビ等

・体長:約三十センチメートルから一メートル。

・胴長:約三十センチメートル弱から八十センチメートル。

・胴径:七センチメートルから三十センチメートル。各部の長さから有意にずんぐりむっくりのヘンな蛇であることが判る。

・毒:不明。無毒とも有毒とも強毒ともいわれる。

・出現(目撃)時期:春~秋(四月から十一月)。

・生活相:単独相(複数個体集合的目撃例は皆無)で昼行性。

・食性:肉食性(カエル・ネズミ等)。

・体色・紋:焦茶色又は黒色又は鼠色等、黒いマムシに類似した網目文様と背中に斑点を持つ。

・鱗:通常の蛇に比して有意に大きく、成人男性の小指の爪程の大きさ。

・頭部形状(全体):毒蛇に特有の典型的三角形を呈し、通常の蛇に比して有意に大きく(幅四センチメートル程度はある)、且つ、平板。

・頭部形状(眼):鋭く、瞼があり、瞬きをする(注意されたいが、この情報は異常中の異常である。蛇類にはコンタクト・レンズのような被膜はあっても瞼はないからである)。

・頸部:頭部と胴部の間が明確に短かくくびれ、頸部が明瞭。

・胴部:通常の蛇に比して有意に中央部が膨れ上がって横に張っており、前後に伸縮する。

・尾部:短かく極めて強靭、木への垂下、威嚇行動時に、胴部を緊張させ、尾部のみで身体を立てることが可能。

・運動形態:蛇行せず、胴部を前後に尺取虫のように伸縮させて直進(後退も可能)し、更に胴と尾を用いて跳躍(約一~二メートル)、また、自身の尻尾を咥えたウロボロス状態で円くなり転がって移動することも可能とする。

・その他:「チー!」という鼠に似た啼き声を発し、睡眠時には鼾をかく。

私はツチノコの親衛隊ではないので、学名命名権は遠慮することにした。ちなみに、ナマズ目ロリカリア科ロリカリア亜科ロリカリア族のPseudohemiodon laticepsなる魚ちゃんには、なんと「ツチノコロリカリア」(!)という和名を持っているのは、ご存知かな?

   *]

 

Daijya3

 

 追加

 武州橘樹郡川中島【字(あざ)大師河原と云ふ。】。なる平間寺(へいげんじ)[やぶちゃん注:前話で注したが、再掲しておくと、現在の神奈川県川崎市川崎区にある真言宗の「川崎大師」。正しくは 金剛山平間寺(へいけんじ)。当時は附近が多摩川下流の河原であったことから「大師河原」と別称した。ここ(グーグル・マップ・データ)。]、弘法大師の像を、天保十年【己亥(つちのとゐ)】[やぶちゃん注:一八三九年。]の夏、江戸本所回向院(えかういん)[やぶちゃん注:「回」及び「いん」はママ。]にて開帳有し時、龍の見世(みせ)もの有(あれ)ども、是はまさ敷(しく)、蛇なるべしと申す族(やから)も有(ある)ゆゑ、予、態々(わざわざ)行(ゆき)て見るに、大洋にて蠻舶(ばんはく)眞龍(しんりゆう)に出合(であひ)、辛ふじて捕へ來(きた)る樣に口上書も有て、看板にも、龍の雲水を起したるさまを畫きたれども、左(さ)にてはなく、全く蛇なり。二頭有て、二頭とも同じ形に干附(ほしつけ)あり。やゝ大小も有て、雌雄なりといへども、覺束なし[やぶちゃん注:雌雄ならば、大きい方が。]。幕を覆ふて緩々(ゆるゆる)とは見せざる故、篤(とく)と圖し來らず。殘念なれども、暗に其形ちは覺置たるまゝ、左に圖し得たれども、予は繪を學ばざれば、只その形ちを圖し置(おく)まで也。殘り多し。大の方は、頭、大鹿よりも少し大く、頭の骨組もするどにて、胴の大き所は、彼是三尺𢌞りも有べしと見ゆ。小のかたは、頭も少し劣り、太さも四五寸𢌞りも細く見え、色も淺く、頭の骨格もするどからずして、少し柔和也。前に圖したる稚蛇(ちぜんじや)とは大(おほい)に替(かは)り、面躰(めんてい)も、骨立(ほねだち)荒々敷(あらあらしく)て所翁[やぶちゃん注:南宋末の画家陳容(ちんよう 生没年不詳)長楽(福建省)の出身で、字は公儲。所翁は号。一二三五年に進士となり、太守を勤める一方、水墨画を得意とし、特に竜画の名手として高名であった。伝称作に「五龍図巻」(東京国立博物館蔵)や「九龍図巻」(ボストン美術館蔵)などがある。グーグル画像検索「陳容 所翁 龍」をリンクさせておく。]などの書(しよ)に書(かき)たる龍の顏に髣髴たり。去(さり)ながら、きつく恐ろ敷(しき)顏色にはなく、思ひの外、やさしく柔和なるものに見えたり。【十四の卷圖を載(のせ)たる蛇骨は猛惡のものなり、見あはすべし。】前にも追々申(まうし)たる如く、小蛇の尖(せん)なる顏色とは、大に違ひたり。角はなくて髭生出(おひいで)たり。繪に書(かき)たる龍の髭は、頰より生たれども、是は左にあらず。上唇より生出たり。人畜を初(はじめ)、魚類も、髭は皆、上唇より生(はゆ)るものにて、畫に書たる龍のみ、頰より生たるも、珍敷(めづら)事と覺ゆ。眞の龍は如何にや。扨(さて)、前にもいへる通り、小蛇の如く、頭大きく首筋の細きものに非ず。齒は二重にも三重にも生(はへ)て、中へも曲り込(こみ)たり。餘り、性(しやう)の善なるものとは思はれず。然ども、顏は猛惡にあらず。かの大功は拙きが如く、大慾は無慾に似たりなど申(まうし)諺の如きか。蝦夷にて人馬をとり食ふ罷(ひぐま)は、顏色犬の子の如く、いかにもかはゆく、恐敷(おそろし)からぬものなれども、類ひなき強惡の猛獸也と聞及ぶ。蛇も如何成(いかなる)性にや。邑(むら)に住(すむ)ものゝしる事にあらず。深山にても、適(たまたま)見受る者は、逃來りて、其性の善惡を聢(しか)と辨へたるものをきかす[やぶちゃん注:ママ。]。殊に雨日ならでは、先(まづ)は出(いで)ざるよし。琉球より渡りたる蛇皮線(じやびせん)と云もの有。此器物を張(はり)たる皮は、全く此適蛇の皮也。尤、年を重ね大なる程、斑(ふ)色濃くなるものとしられたり。こゝに圖する蛇も、大小少々濃淡有(あり)。元來、大蛇の色は眞黑の多く、又、赤色白色等も有て、種々なり。猶、蛇の事は十四の卷にも委敷(くはしく)記し置く。其外、所々に記し置(おき)たり。

[やぶちゃん注:この図の頭部の角状の部分や髭は人工的に細工したものである可能性がすこぶる高いものと思われる。だからこそ興行師は「幕を覆ふて」観客に「緩々(ゆるゆる)」(ゆっくりじっくり)とは「とは見せ」なかったのであろう。細かく観察すればすぐ人の手が加わっていることが判ってしまうほどチャチな細工だったのであろう。

「十四の卷」既に何度も述べた通り、本書は五巻で刊行が終り、残りの四十五巻は散逸して伝わっていない。ああ! 見たかった! 残りがあれば! 僕は余生を総てその電子化と注で楽しめたであろうに!!!]

 

 予、天保九年【戊戌】[やぶちゃん注:一八二八年]の七月廿九日、中山道本山(もとやま)宿[やぶちゃん注:現在の長野県塩尻市。この附近(グーグル・マップ・データ)。]に宿りたり。此夜の咄しに、此頃、雨天續(つづき)のところ、右宿より南のかた、山一つあなた【餘り高からざる山なれども、此邊は名にし負(おふ)木曾山の續にて餘國の山よりは深く、僅(わづか)の打越(うちこし)[やぶちゃん注:低く短い尾根越え。]にて二里ほどもありとなり。】にて、炭を燒(やく)とて、大木を伐出(きりだ)すに、【此邊は樹木澤山成所ゆゑ、炭に燒にも切口尺ばかりの大木をも伐出す事なりと。】二十丈も三十丈[やぶちゃん注:約六十一~九十一メートル。]も上より谷底へ落し置(おき)て、此前々日、右の木を取(とり)に行(ゆき)たるに、大蛇居(ゐ)て、大(おほき)に驚(おどろき)たり。後、又々行て篤(とく)と見るに、此大蛇、頭(かしら)碎けて、自(おの)れと死居(しにゐ)たりと。是は先に伐落(きりおと)す材木の木口(こぐち)、眞直(まつすぐ)に巖上へ落(おち)たるをり、頭を打碎(うちくだ)かれたるものと知られたりと也。其蛇の太さ、二尺五寸[やぶちゃん注:六十二センチメートル。]𢌞りほども有たりと云たる故、色は如何樣(かなるやう)なるぞと尋(たづぬ)るに、しらざれは、猶見て來りし者はなきかと、能(よく)吟味せしに、昨日、炭を附出(つきだ)したる者の咄し故、今日、當宿より態々(わざわざ)見に參りしに、左樣の蛇は、其所に執心殘りて崇りをなすものとて、又、山一つ向ふ二里計(ばか)りも有(ある)所へ捨(すて)たりとの事にて、得(え)見て參り申さずと答(こたへ)て、分り兼たり。扨、此邊にて山稼(やまかせぎ)するものも、一度も此蛇を見たる者はなけれども、蕗・初草(はつくさ)[やぶちゃん注:若草。]などは喰ひ有(ある)故、うはゞみか何か、怪物の居(ゐ)たる事は知り居(をり)し由にて、慥成(たしかなる)事なれども、此夜、此宿に見て來りしものなければ、尋方(たづねかた)もなくて、其儘に翌朝、發足(ほつそく)なしたり。其發足の日に、右宿より雇ひ來りたる人足共の中には、今日は當宿より大勢を催し、かの大蛇をとりに參ると申(まうし)事に御座候。彌(いよいよ)とり來れば見物也とて、とりどりに噂を致し居(をり)候と云(いひ)たり。量(はか)らざる非業(ひがふ)の死をなせしも珍敷(めづらしき)事也。是も、前に圖したる、回向院にて見せし程のならん歟(か)。惣躰(さうたい)、各別の大蛇の通りたる跡は、草木赤く枯(かる)るものときゝ、前に云(いふ)、志津野村の大蛇も、通りたる跡は、草木枯る故、通り道、能々(よくよく)分(わか)る事と聞(きき)たれども、土民の咄し故、受難(うけがた)く思ひ居(をり)たるに、此事を、予が知己、縣道玄[やぶちゃん注:不詳。初めて出る名である。「あがた だうげん」と読むか。]に咄して問ふに、彼、通りたる跡は、必らず草木枯(かれ)申候。私(わたくし)、現に藥草を尋(たづぬ)るとて、戸隱山(とがくしやま)[やぶちゃん注:現在の長野県長野市にある戸隠連峰の一峰。標高一九〇四メートル。ここ(グーグル・マップ・データ)。]の奧へ二三里も行(ゆき)たるに、此所はオヂイの通りたる跡なりとて、其跡を通行して、よく存居申候。此邊にては、うはゞみとは云ず、方言にオヂイオヂイと云(いふ)由[やぶちゃん注:不詳。私は学術的な妖怪及び未確認生物の辞典を複数所持するが、出現しないから、この記載が事実とすれば、戸隠地方での大蛇の古称記録として貴重な記載と思われる。]。其邊は神代(かみよ)よりも斧いらずの所にて、大木の栂(つが)[やぶちゃん注:裸子植物門マツ綱マツ目マツ科ツガ属ツガ Tsuga sieboldii。]多く、丈け九尺より一丈ばかりも有。熊笹、平(ひら)一面に生繁(おひしげ)りたる中を、かの大蛇の通りたる跡、新古幾條も有(ある)中に、是は去年(こぞ)通りたる跡也といふを、數十町[やぶちゃん注:一町は一〇九メートルであるから、六五〇メートル前後か。]通行なしたるに、方六七尺計りも滿圓(まんまる)に、通りたる跡、くり拔(ぬき)たるごとく成居(なりゐ)て、笹は皆、赤黃成(あかぎなる)色に成(なり)て、悉く枯居(かれをり)たり。彼が毒氣にてかれしか。熱氣にて枯しか。油にて枯しにや。枯口、油ぎりて居(をり)たる樣に見え[やぶちゃん注:ここから大蛇は体表から油を流すと信じられていたことが判る。滑らかな鱗の照り具合からの誤認であり、実際の蛇類では乾燥してさらさらしており、そのようなことはあり得ない。]、かの通りし跡は、熊笹左右へ打切(うちき)れ、雜木(ざふき)の類(たぐひ)も摺切(すりきれ)しごとくにて、人の通行するには甚だよく、其通りし跡を、笠を冠りて通るに、少しも支(さは)る事なし、是を以見るときは、彼蛇の大さは、徑(わた)り[やぶちゃん注:胴の直径。]六尺計(ばかり)も有(ある)か。又は笹の類は能(よく)なびくもの故、若(もしく)は徑り九尺も有か、量られず。牛馬は申(まうす)迄なく、隨分、小象(こざう)をも呑(のむ)べくおもはるゝとの事なり。山谷巖樹(さんこくぐわんじゆ)の間を、屈曲自在に歩行(ありき)たるものにて、實に至妙なるもの也と。その來(きた)る時は地響き木客(こだま)に應へ、自然と知るゝ故、杣樵(そまきこり)の類(たぐひ)は勿論、狩人にても、皆逃隱れて出會(であは)ぬ事とぞ。木曾山の内にて、湯舟澤[やぶちゃん注:現在の岐阜県中津川市落合附近の木曽川の支流落合川の部分呼称に「湯船沢川」があるから、を指すか(グーグル・マップ・データ)。]に居るのは大なりときゝ侍れども、いかばかりの大さにや、未だ慥に見たる者に出會(であは)ずして殘念也、呉々(くれぐれ)も深山といへども、格別大成(おほきなる)は、中々多くは居(を)らぬものと見えたり。

 

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