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2017/05/03

「想山著聞奇集 卷の參」 「戲に大陰囊を賣て其病氣の移り替りたる事   附 大陰囊の事」

 

 戲に大陰囊(おほぎんたま)を賣て其病氣の移り替りたる事

  附 大陰囊の事

 

Ogintama1

 

 市谷田町(いちがやたまち)四丁目【字牛小屋といふ。】[やぶちゃん注:現在の東京都新宿区市谷田町。ここ(グーグル・マップ・データ)。元湿地を埋め立てた場所。]に、海野景山(うんのけいざん[やぶちゃん注:推定読み。])と云(いふ)周易觀相に秀(ひいで)たる賣卜者(ばいぼくしや)有(あり)。此者、生所(しやうしよ)は甲州にて、中年に至り、伊豆浦[やぶちゃん注:伊豆の海辺。]に久敷(ひさしく)住居たり。此時、景山の隣家に、疝氣(せんき)[やぶちゃん注:下腹部の痛む病気を指す。ここはその病毒の謂い。]陰囊(きんたま)に入(いり)て、段々大く成(なり)、其大さ米五斗(と)[やぶちゃん注:江戸時代の「一斗」は一定せず、幕府は一俵を三斗五升としたが、加賀藩の一俵は五斗であったとウィキの「俵」にはある。本文の描写(座った際に身体が隠れるとある)及び図の大きさから見ると、前者の大きさの一俵半弱程の量をイメージしてよかろう。]を囊に入(いれ)たる程にて、形ち丸くして、足を前の方へ組み座し居ると、頭より睾丸の方少し高く、前より見ると身躰は陰囊に隱れて見えざる程なりと。依(より)て外の手業(てわざ)は行屆(ゆきとど)かざるゆゑ、陰囊と胴との間より手を伸(のべ)て脇腹へやりて自由に草履(ざうり)・草鞋(わらぢ)を造りて商ひ、可也(かなり)に烟(けぶ)りを立て居(ゐ)たるとなり[やぶちゃん注:「思いの外、それなりの暮らしを立てておったとのことである」。]。或年十一月二日の夜の事なるが、此大陰囊の裏の方に相應の身柄(みがら)成(なる)者有て、髮置(かみおき)の祝ひ[やぶちゃん注:女児の通過儀礼の一つで「七五三」の「三」に当り、数え三歳のこの日に行った綿で出来た白髪の鬘を頭に被せてその頂きに白粉(おしろい)をつけ、櫛で左右に梳いて祝った。「髪が白くなるまで長生きするように」という願いが込められている。一般には十一月十五日に祝った。これはこの日が二十八宿の鬼宿日(きしゅくにち)に当たっており、婚礼以外ならば総ての祝い事に吉とされていたからである。]とて、名主初め大勢寄集(よりあつま)り、馳走と成(なり)、皆々、夜更(よふけ)迄、酒宴し、大酩酊と成て歸るとて、彼が門より音づれて、大玉は未(いまだ)寢ぬかと問(とふ)に、内よりへ皆樣よき御機嫌なり、ちと御立寄なされませと云(いふ)故、名主初(はじめ)五人、大生醉(おほなまゑひ)のみ込み入(いり)て騷が敷(しく)、かの景山も上戸(じやうご)なれば、此人數(にんず)に加はり、大玉の所へ立寄(たちより)たり。扨(さて)、醉のあまりに、名主戲れて申樣(まうすやう)、其玉は餘り見事也、ナント我等に、五百兩に賣(うり)ては呉(くれ)まじきやと云。彼(かの)者、聞(きき)て云樣、私の玉は、伊豆の國中にての名物なり、五百兩や千兩にてはうれませぬ、三千兩ならば賣て進ぜませうと答ふ。イヤ夫(それ)は高し、負(まけ)て置(おけ)よと云へば、イヤイヤ中々負けじといふ故、彼景山、又、戲(たはむれ)に詞を添(そへ)て申やう、成程、此玉は名物、五百兩には賣まじ、夫か迚(とて)、三千兩には誰(たれ)も買(かふ)まじ、中を取(とり)て千兩にて御賣なされませ。千兩ならば安きもの、又、賣人も千兩ならば思ひ切(きり)て放すも宜(よろ)しからんといふを玉主(たまぬし)の聞て、祕藏には候へども達(たつ)ての御所望、殊に名主樣の儀、かたがた負て上げ候べし。一ツ〆(しめ)ませうとて大勢一緒に手を打(うち)、賣買(ばいばい)の約をなして後、皆散々に歸宅なしたり。然るに其後、名主の睾丸少々痛み出し、其内に段々大(おほき)く成(なり)、後には大茶釜程に成て、難儀せしとぞ。又、玉主は、夫よりは日々夜々に玉小く成て、三年程すぎて、平人の通りに成しかば、飛脚を活計(たつき)として遠近(をちこち)へ上下せし由。されども、かの名主の玉も大きくは成たれども大玉の僅三ケ一(さんがいち)程の玉となりたるのみにて、殘り三ケ二程の分は、移る節に消滅せしものにや、いぶかしきとなり。世に忌(いみ)べきと云事あり、笑ふぺき事に非ず。兎角、惡敷(あしき)事、又嫌ふべき事などは戲れにもせぬがよく、又、善事と能(よき)眞似とは、勤(つとめ)てもするが宜しき歟(か)。名前も所もよく聞置(ききおき)たれど、今は忘れたり。景山も、俄(にはか)に母の病氣にて、國へ行(ゆき)て、再び江戸へは來らずして尋(たづぬ)るかたなく殘り多し。是を以見る時は、かの宇治拾遺に、右の顏に大ひなる瘤(こぶ)有(ある)翁、山に入(いり)て、木のうつぽにかくれて宿りけるに、多くの鬼どもの來りて舞遊(まひあそ)ぶ座に出(いで)て舞たるが、鬼どもの興となり、又必(かならず)來(きた)るべしと云て、質(しち)に預り置(おく)べしとて、鬼に瘤を拔(ぬき)とられて、常の顏となりたり。扨、隣の翁の左りの顏に大なる瘤ありけるが、この事を羨み、重(かさね)て[やぶちゃん注:再び。]先の翁に替りて、かの所に行て、鬼どもに逢(あひ)て舞つれど、下手にて興にもならず。よつて、とり置し質の瘤は返(かへ)せとて[やぶちゃん注:鬼の首魁から部下の鬼への命令形。]、やがて投付(なげつけ)ければ、又、瘤を一つ增(まし)たりとの事も[やぶちゃん注:「宇治拾遺物語」の第三話「鬼ニ瘤被取事」。『柴田宵曲 續妖異博物館 「難病治癒」(その2)』の私の注で原文を示してあるので参照されたい。]、噓とは云難し。又、戸塚の大睾丸と云事有て、昔、元祿年間[やぶちゃん注:一六八八年~一七〇四年。]の事にや、東海道戸塚宿に、大睾丸の乞食有しと云。然るに又、此宿に、明和・安永の頃[やぶちゃん注:一七六四年から一七八〇年頃。]よりにや、二代目の大玉有て、享和[やぶちゃん注:一八〇一年~一八〇四年。]頃迄も存命にて有たりと。予、子供心に、亡父の咄にて能(よく)聞置(ききおき)、又、べらべらつんだせ戸塚の金玉とて、流行唄(はやりうた)にもうたひ、名高き玉にて有たり。猶よくよく聞糺(ききただす)に、此玉も大きけれども、米の二三斗ほども入(いる)べき囊にて、前の伊豆の玉には中々及びもなき事と思はる。然れども、此玉にも一つの不思議あり。朝の四つ比(ごろ)[やぶちゃん注:不定時法で九時半頃から十時過ぎぐらい。]より八つ半比[やぶちゃん注:十時半頃から十一時頃。]

迄は、甚だ大きく、夫より夕刻前に成(なり)ては、段々と玉を操込(もみこみ)て半分程となし、囊にいれ首に懸て住所(すみどころ)へ歸り、又、朝出來りて段々揉出(もみいだ)し、四つ頃には十分に太(おほ)きくなせし由。或年、紅毛人(おらんだ)通行の時、此玉を見懸(みかけ)て申樣、彼(かれ)は實に不便(びん)の事也、水を取(とり)て治療を成遣度(なしやりたし)と、通辭を以ていはせければ、かの乞食、答(こたへ)て申樣、御志しは有がたけれども私は何の藝もなく、幸にして、今は陰囊のおかげにて、澤山に施(ほどこし)を受(うけ)、口腹(こうふく)[やぶちゃん注:飲食。]を安穩(あんのん)に養ひ候へば、治療の事は免(ゆる)し給はれと斷れりと聞傳(ききつた)へたり。海内(かいだい)第一の海道に居(を)る事ゆゑ、此玉の事は、日本國中の小童(こわらべ)迄も聞知(ききし)らぬことなかりしも妙成(なる)事也。此玉、色は黑紫にて、ぷつぶつとしたるはだにして、大痣(おほあざ)の如き色にて、陰囊の所は凹なる穴となりてあり。側に鉦を置、是を打ならして錢を乞ひ居(ゐ)たりと。又、予、文政二年[やぶちゃん注:一八一九年。]と覺えし。江戸九段坂の上にて、疝氣の足に入たる乞食を只一度見受(みうけ)たり。是の玉は、米貮斗入程の大さなれども、疝氣、陰囊より溢れて右の足に入、此足、股の所の大(ふと)さ、凡(およそ)並の人の腹の𢌞(めぐり)り程もあるべく、足首に至り、少しは細けれども、足のゆび迄も肥大となり、爪は埋め込(こみ)たる樣に成居(なりをり)たり。尤(もつとも)、色合肌合は、前に云戸塚の玉と同じ事也。此者は聢(しか)と見て、能(よく)覺え置たるまゝ、其躰(そのてい)をかたばかり、左に圖となし置ぬ。其外、大陰囊の乞食は、江戸にても、邂逅(たまさか)見當りし事も有れども、是は珍とするにたらず。又、予が友山崎美成[やぶちゃん注:(やまざきよししげ 寛政八(一七九六)年~安政三(一八五六)年):随筆家で雑学者。江戸下谷長者町の薬種商長崎屋の子で家業を継いだものの、学問に没頭して破産、国学者小山田与清(ともきよ)に師事、文政三(一八二〇)年からは随筆「海錄」(全二十巻・天保八(一八三七)年完成)に着手している。その間。文政・天保期には主として曲亭馬琴・柳亭種彦・屋代弘賢といった考証収集家と交流し、当時流行の江戸風俗考証に勤しんだ。自身が主宰した史料展観合評会とも言うべき「耽奇会」や同様の馬琴の「兎園会」に関わった。江戸市井では一目おかれた雑学者として著名であった(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。]、文化十二年【乙亥(きのとゐ)】[やぶちゃん注:一八一五年。]二月、戸塚宿通行せし時、往來に席を敷(しき)て、陰囊の上に鉦を置て、打ならして、錢を乞居たるを見受たり。是は三代目の大睾丸と見えたりといへり。

 

Oogintama2

 

[やぶちゃん注:左右はキャプションではなく、この前後の本文の一部。]

 

 又云、今嘉永年[やぶちゃん注:「嘉永」は一八四八年から一八五四年。]に至りて、大玉の乞食、江戸に出來(いでき)たり。玉の大(おほき)さ、米二斗入程も有て、是又、珍敷(めづらしき)玉也。是は疝氣の玉に入たるにてはなく、肉瘡(にくさう)にて、元、睾丸の脇に、纔(わづか)梅の實程成(なる)瘡(かさ)出來しを、人の云に任せ、灸をすへし故、其瘡、段々大きく成出(なりだ)し、遂にあのごときものと成(なり)、難儀せし由。全く睾丸は別にして、肉瘡の中に混(こん)じ有あり)と、或醫家の咄(はなし)ぬ。種々の異病も有ものなり。

[やぶちゃん注:以上に出た、「大陰囊」(おおぎんたま:大金玉)は、病態として「陰嚢水腫」と呼ぶが、どうもここに出るそれは三タイプを考慮する必要があるように見受けられる。

 まず、最初に出た伊豆の最も巨大な症例は、まずは(1)フィラリア症による陰嚢水腫と思われる(但し、激しい鼠径ヘルニアなどの可能性も考慮しておく必要はあるが、この大きさが事実なら、この男の生活状況から考えてもちょっとあり得ない気はする)。この場合のフィラリア症はヒトのみに寄生する線形動物門双腺綱旋尾線虫亜綱旋尾線虫(センビセンチュウ)目旋尾線虫亜糸状虫上科オンコセルカ科 Wuchereria 属バンクロフトシジョウチュウ(バンクロフト糸状虫)Wuchereria Bancroft に感染(イエカ属やハマダラカ属などの蚊の吸血の際に感染)することによって、顕在的な主症状としてはこの陰嚢水腫と主に下肢が異様に膨満変形する象皮症状で知られる。「はっとり皮膚科医院」の服部瑛氏の錦小路家本『異本病草紙』について-その5 フィラリア症(★クリック注意!★)の「図5 巨大な陰嚢水腫の臨床」の写真を参照されると、ある程度は納得がいかれるであろう(★但し、強烈なカラー画像であるのでくれぐれも自己責任でクリックされたい★)。なお、私はもっと大きな症例写真を見たことがあるのでこの想山の事例は誇張とは思われない。現在の日本では見られないが、ウィキの「フィラリア★ここにも象皮症の症例写真が載るのでクリック注意★)によれば、『アフリカ大陸、アラビア半島南部、インド亜大陸、東南アジアや東アジアの沿岸域、オセアニア、中南米と世界の熱帯、亜熱帯を中心に広く分布し、日本でもかつては』、『九州全域や南西諸島を中心に、北は青森県まで広く患者が見られた。西郷隆盛が罹患していたことが知られている』とある(下線やぶちゃん)。

 後に出る戸塚の事例は、もし、これらの症例者が血縁者であった場合は、やはり上記のフィラリアの世代感染が疑われるものの、たまたま大金玉を売り物にして乞食で知られた元祖がおり、それを聴いた者が流れて来て二代目・三代目を名乗っただけのケースであったとするならば、或いは(2)通常の陰嚢水腫(但し、これは成人でも見られるが、多くは小児、特に乳幼児に見られる)や、腸が体外方向へ大きくはみ出した嵌頓(かんとん)ヘルニアや鼠径ヘルニアであった可能性がある。しかも二十四時間で膨満と収縮を規則的に繰り返すというのはフィラリアのそれではない。或いは一代目以下の二代目や三代目もそうであったとするなら、これは寧ろ、詐病を疑うべきかもしれぬ。但し、嵌頓ヘルニアは普通は激しい痛みを伴うので、どうもこれらの孰れもそれには当たらぬように思われる。しかし、一代目のそれは、オランダ人が見て、あまりに不憫に思い、治療を慫慂したところを見ると(このオランダ人はまず医師の資格を有するのであろうから、インドやアジアで実際のフィラリア症の臨床例を見て来ており、作り物で騙される可能性は頗る低いと考え得る)、真正のフィラリアによる水腫であったとも考えられる

 最後に出るものは、それこそ初期の症状は鼠径ヘルニア・常習性の嵌頓ヘルニアにも見え、或いは有意に大きくなってしまったところからは(3)良性の腫瘤か癌性腫瘍の肥大化したものとも見られる。

 なお、「戸塚の大金玉」は、サイト「日本大道芸・大道芸の会」の大道芸通信 第172号に、『当時の大ベストセラー『東海道中膝栗毛』が刊行されたのは享和二年』(一八〇二)年で、まさにこの「大金玉」を『宿を断られた弥次さん喜多さんが戸塚で見』かけて『次の狂歌を詠んだのは二代目の大睾丸である』とあり、同書の狂歌が引かれてある(引用は後に示した国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認した)。

 

 泊(と)めざるは宿(やど)を疝氣(せんき)としられたり

   大金玉(おほぎんたま)の名(な)ある戸塚(とつか)に

 

お分かりとは思うが、ブログ記者の注を引くと、『大金玉で知られた戸塚宿なのに泊めてくれないのは、宿をせん気(=しない気)だからであろう。「せん気」と「疝気」』の掛詞の洒落である。十返舎一九の「東海道中膝栗毛」、持っているはずなのだが、見当たらぬ。国立国会図書館デジタルコレクションの画像当該箇所をリンクさせておく。]

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