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2017/05/13

柴田宵曲 續妖異博物館 「關屋の夢」

 

 關屋の夢

 

 惟孝親王の下家司(しもけいし)に常澄安永といふ者があつた。宮家の領地の事で何年か上野國に行つて居つたが、久しぶりに京へ歸ることになつて、美濃の不破の關までやつて來た。安永は最愛の妻が都に殘してある。その妻のことなどを思ひやりながら、關屋に一宿すると都とおぼしき方角から松明をともして來る者がある。漸く近付いたのを見れば、それは男女の二人連れで、一人は童、一人は我が最愛の妻に相違ない。二人は同じ關屋に宿を取つたが、壁を隔ててゐるので、向うでは氣が付かぬらしく、鍋を取り寄せて飯を炊き、童と並んで睦まじく食事をしてゐる。さては自分の居らぬ間にこの童と夫婦になつたかと思ふと、次第に我慢出來なくなつて、たうとう二人のゐるところへ躍り込んだ。途端に一切は消え失せ、寂然たる關屋に見た一場の夢とわかつたが、何分妻の上が心許なく、夜が明けると共に出立し、晝夜兼行の形で京に著いた。妻は何事もなくよろこび迎へ、別れてゐた間の事を何くれと話すうちに、妻の方から昨夜見た夢の話をした。全然見知らぬ童と二人、どことも知らぬところへ行き、がらんとした家の中に入り、食事をして寢たと思つたら、あなたが急に出て來たので、驚いて目がさめた、何でこんな夢を見たものか、不思議で堪らなかつたが、思びがけずあなたが今日お歸りになつたのです、といふ。安永も關屋の夢の話をして、お互ひに不思議がつたといふに了つてゐる。

[やぶちゃん注:「惟孝親王」御不審の向きがあると思うの言っておくと、後に示す原典のママで、これは「惟喬親王」(これたかしんわう)の原典の誤りである。文徳天皇の第一皇子惟喬親王(承和一一(八四四)年~寛平九(八九七)年)。母は紀名虎の娘静子で、当初は皇太子になる予定であったが、母が紀氏の出で後ろ盾が弱かったことと、嘉祥三(八五〇)年に右大臣藤原良房の娘明子に惟仁親王(後の清和天皇)が生れたため、この皇太子即位は夢と消えた。天安二(八五八)年に大宰帥、その後に弾正尹・常陸太守を経、貞観一四(八七二)年に上野太守となったのを最後に、病いを得て出家し、比叡山山麓の小野に幽居した。そこから「小野の宮」とも称し、法名を「素覚」と言った。詩歌に長じ、在原業平とも親交があり(業平は惟喬親王の母方の姪婿)、「伊勢物語」にも登場する。木地師の全国的な伝承によれば、隠棲中に木工技術を伝えたとして「木地師の祖」とされる。

「下家司」「しもけいし」。親王や公卿の家に置かれた職員を「家司」と称し、その中でも六位・七位の下級の者をかく呼んだ。

「美濃の不破の關」現在の岐阜県不破郡関ヶ原町(ちょう)にあった関所であるが、天武天皇二(六七三)年に置かれ、百十四年後の延暦六(七八七)年に廃止されており、ここでは既に関所跡である。

 以下の段落(行が孰れも詰っているが、私は改行があるものと判断して独立段落とした。今までの宵曲の書き癖からみてまず間違いないと思う)。で示される通り、これは、「今昔物語集」の「卷第三十一」の「常澄安永於不破關夢見語第九」(常澄(つねずみ)の安永(やすなが)不破の關にして夢を見る語(こと)第九)である。但し、宵曲は妻と童子のコイツスの場面を訳出していない

   *

 今は昔、常澄の安永と云ふ者有りけり。此れは、惟孝の親王(みこ)と申しける人の下家司(しもけいし)にてなむ有りける。其れに、安永、其の宮の封戸(ふこ)[やぶちゃん注:親王以下、諸臣の官位や勲功に応じて配分された農民世帯。租の半分(時には全部)と庸と調の総てが当該給与者への所得となった。]を徴(はた)らむ[やぶちゃん注:徴収せん。]が爲に、上野(かむづけ)の國に行きにけり。然(さ)て、年月を經て返り上(のぼ)けるに、美濃國不破の關に宿しぬ。

 而る間、安永、京に年若き妻(め)の有りけるを、月來(つきごろ)[やぶちゃん注:数ヶ月前に。]、國に下ける時より、極めて不審(いぶか)しく[やぶちゃん注:気懸りに。]思ひけるに合せて、俄かに極(いみ)じく戀しく思えける。

「何(いか)なる事の有るならむ。夜(よ)、明けば、疾(と)く急ぎ行かむ。」

と思ひて、關屋[やぶちゃん注:関谷の番小屋の跡。]に寄り臥したりける程に、寢入りにけり。

 夢に、安永見れば、京の方より火を燃(とも)したる者來たるを見れば、童(わらは)、火を燃して女(をむな)を具したり。

「何(か)なる者の來(く)るならむ。」

と思ふ程に、此の臥したる屋(や)の傍らに來たるを見れば、此の具したる女は、早(はや)う[やぶちゃん注:何とまあ!]、京に有る我が『不審(いぶか)し』と思ふ妻也けり。

「此(こ)は何(いか)に。」

と奇異(あさま)しく思ふ程に、此の臥したる所に、壁を隔てて居(ゐ)ぬ。

 安永、其の壁の穴より臨(のぞ)きて見れば、此の童、我が妻と並び居て、忽ちに鍋を取り寄せて[やぶちゃん注:すぐさま(妻は)鍋を取り出して。]、飯を炊(かし)きて、童と共に食ふ。安永、此れを見て思はく、

「早う、我が妻は、我が無かりつる間(あひだ)に、此の童と夫妻(めをうと)と成りにけり。」

と思ふに、肝騷(きもさは)ぎ[やぶちゃん注:胸が潰れて。]、心動きて安からず思へども、

「然(さ)はれ、爲(せ)む樣(やう)を見む。」

と思ひて見るに、物食ひ畢(は)てて後(のち)、我が妻、此の童と二人、搔き抱(いだ)からひて[やぶちゃん注:互いに抱き合って。]臥しぬ。然(さ)て、程も無く娶(とつ)ぐ[やぶちゃん注:性行為をする。]。安永、此れを見るに、惡心[やぶちゃん注:憎悪。]、忽に發(おこ)りて、其(そこ)に踊り入りて見れば、火も無し、人も見えず、と思ふ程に夢覺めぬ。

「早う、夢也けり。」

と思ふに、

「京に何(いか)なる事の有るにか。」

と彌(いよい)よ不審(いぶか)く思ひ臥したる程に、夜、明けぬれば、急ぎ立ちて、夜を晝に成して京に返りて、家に行きたるに、妻(め)、恙(つつ)が無くて有りければ、安永、

「喜(うれ)し。」

と思ひけるに、妻、安永を見るままに咲(わら)ひて云く、

「昨日(きのふ)の夜(よる)の夢に、此(ここ)に知らぬ童の來て、我れを倡(いざな)ひて相ひ具して、何(いづ)くとも不思(おぼえ)ぬ所に行きしに、夜(よ)る、火を燃(とも)して、空(うつほ)なる屋(や)の有りし内(うち)に入りて、飯を炊きて、童と二人、食ひて後(のち)、二人、臥したりし時に、其(そこ)に俄かに出來(いでき)たりしかば[やぶちゃん注:略されているが、主語は安永である。]、童も我も騷ぐと思ひし程に夢覺めにき。然(さ)て、『不審(いぶか)し』と思ひ居(ゐ)たりつる程に、此(か)く御(おは)したる。」

と云ひけるを聞きて、安永、

「我も然々(しかしか)見て、『不審し』と思ひて、夜を晝に成して急ぎ來たる也。」

と云ひければ、妻(め)も此く聞きて奇異くに思ひけり。

 此れを思ふに、妻(め)も夫(をうと)も此く同じ時に同じ樣(やう)なる事を見けむ、實(まこと)に希有(けう)の事也。此れは、互ひに同じ樣に「不審(いぶか)し」と思へば、此く見るにや有らむ。亦、精(たましひ)の見えけるにや有らむ、不心得(こころえ)ぬ事也。

 然(しか)れば、物などへ行くにも[やぶちゃん注:ちょっした旅なんどに出る場合でも。]、妻子にても[やぶちゃん注:たとえ愛する妻子のことであっても。]、強(あなが)ちに「不審し」とは思ふまじき也[やぶちゃん注:やたら滅多ら「心配なことである」なんどとはゆめゆめ思うてはならぬことが肝要である。]。此く見ゆれば[やぶちゃん注:このような不安な夢を見てしまうと。]、極(いみ)じく心の盡くる事にて有る也、となむ語り傳へたるとや。

   *]

 

 「今昔物語」にあるこの話の焦點は、別れてゐた夫妻が同時に同じ夢を見るといふことに在る。「實に希有の事」ではあるが、この原話らしいものが支那にいくつもあつて、どうもその飜案であらうと思はれる。「河東記」「夢遊錄」「三夢記」等の記載は大體似たやうなものなので、一番簡潔な「三夢記」の話を出して置くことにする。

[やぶちゃん注:宵曲も言っている通り、先の「今昔物語集」の話の核心は実は「別れてゐた夫妻が同時に同じ夢を見るといふことに在る」のだが、私が「不審(いぶか)し」く思うのは、「今昔物語集」の記者がそこを奇妙に捩じらせて、「物などへ行くにも、妻子にても、強(あなが)ちに「不審し」とは思ふまじき也。此く見ゆれば、極(いみ)じく心の盡くる事にて有る也」と教訓を引き出していることである。これは実は心を通じ合わせる者同士の夢は驚くべき感応を示すと言いたいのか? だったら、妻が抱きつき、妻に抱きつてまぐわった少年は一体、何だったのか? 夫の疑心暗鬼による嫉妬の生んだ幻覚であるならば、何故、妻も同じ少年を見たのかが語られない。或いは夫の夢に妻が感応して同じ夢を見させられたとでも言うのか? 私は精神分析学的にも、はたまた民俗学的にも、どうもこの話は別な深層或いは真相を隠しているという気がしてならぬのである。

「夢遊錄」任蕃(じんばん)撰になる唐代伝奇小説集。

「三夢記」中唐の白行簡(はくこうかん:彼は白居易の弟)の短編伝奇小説。他人の夢にこちらで出会う第一話、こちらが何かしているのを他人が夢見る第二話、双方が同じ夢を見る第三話の三つの不可思議な夢の話から成る。以下に示されるのはその第一話である。全体が短いので中文「維基文庫」のそれを加工して総て示す。太字部分が宵曲の訳した部分。

   *

 人之夢、異於常者有之、或彼夢有所往而此遇之者、或此有所爲而彼夢之者、或兩相通夢者。天後時、劉幽求爲朝邑丞。嘗奉使、夜歸。未及家十余裏、適有佛堂院、路出其側。聞寺中歌笑歡洽。寺垣短缺、盡得睹其中。劉俯身窺之、見十數人、兒女雜坐、羅列盤饌、環繞之而共食。見其妻在坐中語笑。劉初愕然、不測其故久之。且思其不當至此、復不能舍之。又熟視容止言笑、無異。將就察之、寺門閉不得入。劉擲瓦擊之、中其罍洗、破迸走散、因忽不見。劉逾垣直入、與從者同視、殿序皆無人、寺扃如故、劉訝益甚、遂馳歸。比至其家、妻方寢。聞劉至、乃敘寒暄訖、妻笑曰、「向夢中與數十人遊一寺、皆不相識、會食於殿庭。有人自外以瓦礫投之、杯盤狼籍、因而遂覺。」。劉亦具陳其見。蓋所謂彼夢有所往而此遇之也。

 元和四年、河南元微之爲監察禦史、奉使劍外。去逾旬、予與仲兄樂天、隴西李杓直同遊曲江。詣慈恩佛舍、遍歷僧院、淹留移時。日已晚、同詣杓直修行裏第、命酒對酬、甚歡暢。兄停杯久之、曰、「微之當達梁矣。」。命題一篇於屋壁。其詞曰、「春來無計破春愁、醉折花枝作酒籌。忽憶故人天際去、計程今日到梁州。」。實二十一日也。十許日、會梁州使適至、獲微之書一函、後寄「紀夢詩」一篇、其詞曰、『夢君兄弟曲江頭、也入慈恩院裏遊。屬吏喚人排馬去、覺來身在古梁州。』。日月與遊寺題詩日月率同、蓋所謂此有所爲而彼夢之者矣。

 貞元中扶風竇質與京兆韋旬同自毫入秦、宿潼關逆旅。竇夢至華嶽祠、見一女巫、黑而長。靑裙素襦、迎路拜揖、請爲之祝神。竇不獲已、遂聽之。問其姓、自稱趙氏。及覺、具告於韋。明日、至祠下、有巫迎客、容質妝服、皆所夢也。顧謂韋曰、「夢有征也。」。乃命從者視囊中、得錢二、與之。巫撫拿大笑、謂同輩曰、「如所夢矣。」。韋驚問之、對曰、「昨夢二人從東來、一髯而短者祝醑、獲錢二焉。及旦、乃遍述於同輩。今則驗矣。」。竇因問巫之姓氏。同輩曰、「趙氏。」。自始及末、若合符契。蓋所謂兩相通夢者矣。

 行簡曰、「春秋」及子史、言夢者多、然未有載此三夢者也。世人之夢亦眾矣、亦未有此三夢。豈偶然也、抑亦必前定也。予不能知。今備記其事、以存錄焉。

   *

最初の第一話を含む第一段落分全部が、ネットのQ&Aサイトに書き下し文があったので、それを参考にしつつ(但し、誤読と思われる箇所が散見された)、私なりに訓読してみる。

   *

 人の夢、常に異なる者、之れ、有り。或いは、彼(か)の夢に往く所有りて、此こに之れ、遇ふ者、有り。或いは、此に爲(な)す所有りて、彼に之れを夢みる者、有り。或いは、両(ふた)つながら相(たが)ひに夢に通ずる者、有り。天後(てんご)の時[やぶちゃん注:武則天(六二四年~七〇五年:在位六九〇年~七〇五年)の在位の間を指すらしい。因みに、彼女は治世の最初に「天授」という元号を用いている(六九〇年~六九二年)。]、劉幽求、朝邑丞(てういふじやう)[やぶちゃん注:朝邑県の県令の副官。]たり。嘗て使ひを奉じて、夜、歸る。未だ家に及ばざること、十余里[やぶちゃん注:唐代の一里は五六〇メートル弱であるから、五・七~六キロメートルからほどか。]にして、適(たまたま)、佛堂院有り、路に、其の側(そば)に出づる。寺の中に歌笑歡洽(かせうくわんがう)[やぶちゃん注:歓び和らぐこと。楽しくうち解け合うこと。]するを聞く。寺の垣(かき)、短く缺(か)けたれば、盡(ことごと)く其の中(うち)を睹(み)ることを得(う)。劉、身を俯して之れを窺(うかが)ふに、十數人の兒女の、雜(まじ)りて坐し、盤饌[やぶちゃん注:盤状の器に載せた食事。]を羅列し、之を環繞(くわんねう)して[やぶちゃん注:取り囲んで。]共(とも)に食するを見る。其の妻の、坐中に在りて語り笑へるを見る。劉、初め、愕然として、其の故を測れず、之れを思ふこと、久(ひさ)し。且つ、其れ、當(まさ)に此(ここ)に至るべからざるを思ひへば、復た、之れを舍(す)つること能(あた)はず。又、熟視するに、容止言笑(ようしげんしせう)に異なること、無し。將に之れを察して就かんとすれども、寺門、閉じて入るを得ず。劉、瓦(かはら)を擲(なげう)ちて之れを擊つに、其の罍洗(らいせん)[やぶちゃん注:「罍」は原義は銅器で、「洗」は恐らく「フィンガー・ボール」のようなものと読んだ。食餐に並べられた「器」の類いの謂いであろう。]に中(あた)り、破迸(はへい)し[やぶちゃん注:壊れ、飛び散り。]、走り散る[やぶちゃん注:主語は場の人々。]も、因つて忽ち見えず。劉、垣を逾(こ)直ちに入り、從者と同じうして視るに、殿序、皆、人無し。寺、扃(とざ)されて故(もと)のごとし。劉、訝むこと、益々甚しくして、遂に馳せ歸る。其の家に比至(いた)るに、妻、方(まさ)に寢ねたり。劉の至るを聞き、乃(すなは)ち、寒暄(かんけん)を敘(の)べ[やぶちゃん注:時候の挨拶。「暄」は「暖かさ」の意。]訖(お)へ、妻、笑ひて曰く、

「夢中に向かふに、數十人と一寺に遊ぶに、皆、相ひ識らずして、殿庭に會食す。人、有りて、外より、瓦礫を以つて之れを投げ、杯盤狼籍し、因りて遂に覺む。」

と。劉、亦、具(つぶ)さに其の見るところを(の)陳ぶ。

 蓋(けだ)し、所謂、彼(か)の夢に往く所有りて、此れ、之れに遇する者なり。

   *]

 

 劉幽求なる者が遠くに使して歸り、家から十餘里の距離のところまで來ると、路傍の寺の中から歌笑歡洽の聲が聞える。何の氣なしに覗いて見たら、十數人の兒女が車座になつて盃盤を圍み、盛に飮み食ひしてゐるので、その中に劉の妻も加はつて樂しさうに談笑してゐる。劉は愕然とした。よく考へて見るのに、妻がこんなところへ出て來る筈がないが、いくら見直しても、妻であることは間違ひないらしい。入つて慥かめようとしたが、寺門は固く鎖されてゐて入ることが出來ぬ。足許に落ちてゐた瓦を拾つて投げ付けると、何物かに當つて皆逃げ散る樣子であつたから、劉は直ちに垣を乘り越えた。從者もあとに續いて中に入つて見たが、そこには人影もなし、寺は寂然としてしつまり返つてゐる。劉は怪訝に堪へず、一散に馳せ歸つたところ、妻は已に寢に就いて居つた。劉の歸つたのを聞いて起きて出た妻が、夢の話をするのは「今昔物語」と同じである。今しがた大勢でお寺へ遊びに行つて、庭で食事をしてゐたら、外から何か投げ込んだ者があり、盃盤狼藉になつたところで目がさめました、傍にゐたのは誰も知らない人ばかりなのです、といふ。劉も自分の見た通りを話して聞かせた。

 

「今昔物語」は雙方が夢であつたが、「三夢記」の話は一方が現實で、他人の夢の世界に入り込むことになつてゐる。その點は「夢遊錄」も「河東記」も皆同じで、瓦を擲つと共に一切空に歸す。夫の疑惑がさういふ幻を見たものと解せられるが、「夢遊錄」の張生の如きは、瓦が妻の額に中(あた)つたため、妻は已に死せりとして慟哭して歸る。家人がよろこび迎へる時、婢僕の話に娘子(ぢやうし)夜來頭痛すといふやうな餘沫を作つてゐる。不破の關の安永にも無論疑惑はあるが、雙方夢を見るよりは、一方現實である方が話としては面白さうである。

[やぶちゃん注:「夢遊錄」のそれは「太平廣記」の「夢七」の「張生」から引く(そこでは「纂異記」からの引用とあるが、ほぼ同文が「夢遊錄」にあることを確認した(そちらを示さないのは句読点なしのベタ漢文だからである。悪しからず)。

   *

有張生者、家在汴州中牟縣東北赤城坂。以饑寒、一旦別妻子遊河朔、五年方還。自河朔還汴州、晚出鄭州門、到板橋、已昏黑矣。乃下道。取陂中逕路而歸。忽於草莽中、見燈火熒煌。賓客五六人、方宴飮次。生乃下驢以詣之。相去十餘步。見其妻亦在坐中、與賓客語笑方洽。生乃蔽形於白楊樹間、以窺之。見有長鬚者持盃。請措大夫人歌。生之妻、文學之家、幼學詩書、甚有篇詠。欲不爲唱、四座勤請。乃歌曰。歎衰草、絡緯聲切切。良人一去不復還、今夕坐愁鬢如雪。長鬚云。勞歌一盃。飮訖。酒至白面年少、復請歌。張妻曰。一之謂甚、其可再乎。長鬚持一籌筯云。請置觥。有拒請歌者。飮一鍾。歌舊詞中笑語、准此罰。于是張妻又歌曰。勸君酒、君莫辭。落花徒繞枝、流水無返期。莫恃少年時、少年能幾時。酒至紫衣者、復持盃請歌。張妻不悦、沉吟良久、乃歌曰。怨空閨、秋日亦難暮。夫壻斷音書。遙天鴈空度。酒至黑衣胡人、復請歌。張妻連唱三四曲、聲氣不續。沉吟未唱間、長鬚觥云。不合推辭。乃酌一鍾。張妻涕泣而飲、復唱送胡人酒曰。切切夕風急、露滋庭草濕。良人去不囘、焉知掩閨泣。酒至綠衣少年、持盃曰。夜已久、恐不得從容。即當暌索。無辭一曲、便望歌之。又唱云。螢火穿白楊、悲風入荒草。疑是夢中遊、愁迷故園道。酒至張妻、長鬚歌以送之曰。花前始相見、花下又相送。何必言夢中、人生盡如夢。酒至紫衣胡人、復請歌云。須有艷意。張妻低頭未唱間、長鬚又抛一觥。於是張生怒、捫足下得一瓦、擊之。中長鬚頭。再發一瓦、中妻額。闃然無所見。張君謂其妻已卒、慟哭連夜而歸。及明至門、家人驚喜出迎。君問其妻、婢僕曰。娘子夜來頭痛。張君入室。問其妻病之由。曰。昨夜夢草莽之處、有六七人。遍令飮酒、各請歌。孥凡歌六七曲、有長鬚者頻抛觥。方飮次、外有發瓦來、第二中孥額。因驚覺、乃頭痛。張君因知昨夜所見、乃妻夢也。

   *

「河東記」のそれは「獨孤遐叔」とある以下のそれか?

   *

貞元中、進士獨孤遐叔、家於長安崇賢里、新娶白氏女。家貧下第、將游劍南、與其妻訣曰、「遲可周歸矣。」。遐叔至蜀、羈棲不偶、逾二年乃舊。至鄠縣西、去城尚百里、歸心迫速、取是夕及家、趨斜徑疾行。人畜既殆、至金光門五六里、天已暝、無逆旅、唯路隅有佛堂、遐叔止焉。時近淸明、月色如晝、繫驢於庭外。入空堂中、有桃杏十餘株。夜深、施衾幬於西窗下。偃臥、方思明晨到家、因吟舊詩曰、「近家心轉切、不敢問來人。」。至夜分不寐、忽聞牆外有十餘人相呼聲、若里胥田叟、將有供待迎接。須臾、有夫役數人、各持畚鍤箕帚、於庭中糞除訖、復去。有頃、又持牀席牙盤蠟炬之類、及酒具樂器、闐咽而至。遐叔意謂貴族賞會、深慮爲其斥逐、乃潛伏屛氣、於佛堂樑上伺之。輔陳既畢、復有公子女郎共十數輩、靑衣黃頭亦十數人、步月徐來、言笑宴宴。遂於筵中間坐、獻酬縱橫、履舄交錯。中有一女郎、憂傷摧悴、側身下坐、風韻若似遐叔之妻。窺之大驚、即下屋袱、稍於暗處、迫而察焉、乃真是妻也。方見一少年、舉杯矚之曰、「一人向隅、滿坐不樂。小人竊不自量、願聞金玉之聲。」。其妻冤抑悲愁、若無所控訴、而強置於坐也。遂舉金爵、收泣而歌曰、「今夕何夕、存耶沒耶。良人去兮天之涯、園樹傷心兮三見花。」。滿座傾聽、諸女郎轉面揮涕。一人曰、「良人非遠、何天涯之謂乎。」。少年相顧大笑。遐叔驚憤久之、計無所出、乃就階陛間、捫一大磚、向坐飛擊。磚才至地、悄然一無所有。遐叔悵然悲惋、謂其妻死矣。速駕而歸、前望其家、步步淒咽。比平明、至其所居、使蒼頭先入、家人並無恙。遐叔乃驚愕、疾走入門、靑衣報娘子夢魘方寤。遐叔至寢、妻臥猶未興、良久乃曰、「向夢與姑妹之黨、相與玩月、出金光門外、向一野寺、忽爲兇暴者數十輩、脅與雜坐飮酒。」又夢中聚會言語、與遐叔所見並同。又云、「方飮次、忽見大磚飛墜、因遂驚魘殆絶、才寤而君至、豈幽憤之所感耶。」。

   *]

 

 この話を材料に使つたのが奇談小説の「凩草紙」で、都築織部といふ士が、良馬を求めに關東に赴くのは、「今昔物語」と大同小異であるが、留守を守る妻のところへ美しい女が來て、夫に逢はせると云つて、逢坂の關の手前まで連れて行く。その間に穿いてゐた板金剛で足を疵付けるのは、瑣事のやうで後の話に關係がある。馬に乘つて來た織部は、例の美女の家に伴はれて彼女と戲れてゐるので、妻は口惜しさに飛び出して入水しようとすると、後ろから抱き止める者がある。妻は織部とばかり思ひ、その肩に嚙み付いたら、自分の弟の藤八であつた。藤八は姉から子細を聞いて、美女の家に石を投げ込み、織部は頭に負傷する。こゝで目がさめて、それまでの事は夢になるのであるが、妻の足の疵は殘つて居り、翌日歸つた織部は頭を裹(つつ)んでゐる。たまたま來合せた藤八は肩に疵がある。夢を見たのは妻だけであるのに、夢の中に登場する夫にも弟にも疵があるのは少々念入り過ぎる。作者はこれだけごたごた書いても、まだ滿足出來ぬと見えて、鬼哭子といふ易者を持ち出し、夜行遊女金(さぶるこがね)の塚を蹄にかけた崇りだといふことにした。不破の關の代りに逢坂の關、童でなしに美女と、「今昔物語」の線に沿うてゐるが、投石の一條は支那から借用したらしい。

[やぶちゃん注:「凩草紙」医者・蘭学者で戯作者でもあった森島中良(ちゅうりょう 宝暦六(一七五六)年?~文化七(一八一〇)年)が寛政四(一七九二)年に板行した読本「拍掌奇談 凩草紙」(後に「曠世奇談」と改題)。国書刊行会の「叢書江戸文庫」に入っているが、当該巻は所持していないので原典は示せない(翻刻はこの「江戸文庫」版が初めて)。慚愧の年に堪えぬ。この如何にもぐちゃぐちゃした展開は浄瑠璃作家の習癖である(森島は幾つかの浄瑠璃も手掛けている)。

「夜行遊女金(さぶるこがね)」原話を読んでいないので何とも言えぬが、この「夜行遊女」というのは「酉陽雑俎」(前集卷十六)及び「太平廣記」(卷四百六十二)に載り、『人の赤子を奪うという夜行性の妖鳥で「或言産死者所化(或いは産死者の化せる所なりと言う)」とされる』(ウィキの「産女より)とあるから、これは所謂、本邦の妖怪「産女(うぶめ)」(「姑獲鳥」とも書く。難産で死んだ妊婦と子の妖怪化したもの)の塚である。]

 

「今昔物語」ほど古くはないが、「凩草紙」より大分先んじてゐるのが「伽婢子」である。これには不破の關も逢坂の關もない。大内義隆が上洛して正三位の侍從太宰大貮に補任せられた時、隨從した濱田禰兵衞なる者が、義隆の歸國と共に山口に歸り、夜更けて城中から戻る時の事になつてゐる。これは月下の路傍に幕を打ち囘し、燈火を挑げて酒宴をする體で、濱田の妻もその中に居つた。盃を𢌞らして吟詠などするほどに、一人の投げた盃が濱田の妻の額に當る。妻怒つて石を擲てば、また人の額に當つて血を流し、座中騷動と見えた途端に、燈火消えて人もなく、「唯草むらに蟲の聲のみぞ殘りたる」といふことになつた。濱田は妻が空しくなつて、幽靈の顯れたかと疑ひ、家に歸つたら妻は無事で、今見た夢の話をする。この話では濱田が全然傍觀の立場に在り、座上の酒興から盃や石を投げることにしたのは、少しく振はざる憾みがある。たゞ濱田の妻が頭が痛いなどゝ云つてゐるところは、「夢遊錄」の話を取り込んだらしく見える。「伽婢子」は支那小説の飜案を主とした書物だから、「今昔物語」を經由して居らぬことは云ふまでもない。

[やぶちゃん注:「大内義隆」(永正四(一五〇七)年~天文二〇(一五五一)年)は周防国の在庁官人大内氏の第三十一代当主にして戦国大名。周防・長門・石見・安芸・豊前・筑前の守護を務めたが、文治政治に不満を抱いた家臣の陶隆房に謀反を起こされ、義隆とその一族は自害して大内家は滅亡した。

 以上は「伽婢子」の「卷之三」の冒頭に配されてある「妻の夢を夫(をつと)面(まのあたり)に見る」である。以下に示す。岩波新古典文学大系版を参考底本とし、恣意的に漢字を正字化した。読みは必要と考えられるものを、参考底本により附した。踊り字「〱」「〲」は正字化或いは「々」に換えた。和歌の前後を行空けした。今様はブログのブラウザ上の不具合を考え、読点で改行した。漢詩は白文で出し、後に〔 〕で訓点に従って書き下したものを示した。直接話法及び心内語の一部は改行して、読み易くした。挿絵も参考底本のものを使用した(左右二枚のものを合成処理した)。

   *

 

      妻の夢を夫面に見る

 

 周防山口の城主大内義隆の家人(けにん)、濱田(はまだの)與兵衞が妻は、室(むろ)[やぶちゃん注:現在の兵庫県兵庫県たつの市御津町(みつちょう)室津(むろつ)。(グーグル・マップ・データ)。]の迫(とまり)[やぶちゃん注:湊(みなと)。]の遊女なりしが、濱田これを見そめしより、わりなく思ひて、契りふかくかたらひ、つゐにむかへて本妻とす。かたちうつくしく、風流ありて、心ざま情深く、歌のみちに心ざしあり。手もうつくしう書(かき)けるが、しかるべき前世(ぜんぜ)の契りにや、濱田が妻となり、たがひに妹背(いもせ)のかたらひ、此世ならずぞ思ひける。

 主君義隆、京都將軍の召(めし)によりて上洛し、正三位の侍從兼太宰大弐(だざいのだいに)に補任(ふにん)せられ、久しく都に逗留あり。濱田もめしつれられ、京にありけり。妻これを戀て、間なく時なく待(まち)わび侍べり。比(ころ)は八月十五夜、空くもりて月のみえざりければ、

 

  おもひやるみやこの空の月かげをいくえの雲かたちへだつらむ

 

とうちながめ、ねられぬ枕をひとりかたふけて、あかしかねたる夜をうらみふしたり。その日義隆國にくだり給ひて、濱田も夜更るまで城中にありて、漸(やうやく)家にかへる。その家は惣門(さうもん)の外にあり。

 

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 雲おほひ月くらくして、さだかならざりける道のかたはら、半町[やぶちゃん注:五十四メートル半。]ばかりの草むらに幕(まく)打まはし燈火(ともしび)あかくかゝげて、男女十人ばかりこよひの月にあこがれ、酒宴するとみゆ。濱田おもふやうは、

「國主かへり給ひ、家々よろこびをなす。誰人(たれびと)か、こよひこゝに出てあそぶらん」

とあやしみてひそかに立より、白楊(やなぎ)の一樹しげりたる間に、かくれてうかゞひみれば、わが妻の女房もその座にありて物いひわらひける。

「是はそもいかなる事ぞ。まさなき[やぶちゃん注:怪しからぬ、あってはならぬ無様な。]わざかな」

と、うらみふかく、猶の有樣をつくづくと見居たり。

 座上にありける男いふやう、

「いかにこよひの月こそ殘りおほけれ。心なの雲や。是になど一詞(ことば)のふしもおはせぬか」

といふ。濱田が妻辭しけれども、人々しゐて

「歌よめ」

とすゝむれば、

 

  きりぎりすこゑもかれ野のくさむらに月さへくらしこと更になけ

 

 とよみければ、柳陰にかくれて聞ける濱田も、あはれにおもひつゝ淚をながす。座中の人はさしも興じてさかづきをめぐらす。かくて十七八とみゆる少年の前に、さかづきあれども、酒をうけざりしを、座中しゐければ、

「此女房の歌あらば飮侍べらん」

といふ。女房、

「一首こそ思ふ事によそへてもよみけれ、ゆるし給へ」[やぶちゃん注:底本は「よみけれ」の後に句点を打つが、ここは「こそ」已然形の逆接用法であるから、読点に変えた。]といふに、きかず。さてかくなむ、

 

  ゆく水のかへらぬけふをおしめたゞわかきも年はとまらぬものを

 

 さかづきあるかたにめぐりて、濱田が妻に、

「又歌うたひ給へ」

といふに、今やう一ふしをうたふ、

 

  さびしき閏(ねや)の獨(ひとり)ねは、

  風ぞ身にしむ荻はらや、

  そよぐにつけて音づれの、

  絶ても君に恨(うらみ)はなしに、

  戀しき空にとぶ鴈に、

  せめてたよりをつけてやらまし

 

 その座に儒學せしとみえし男、いかゞ思ひけん、うちなみだぐみて、

 

  螢火穿白楊

  悲風入荒草

  疑是夢中遊

  愁斟一盃酒

  〔螢火(けいくわ) 白楊を穿(うが)ち

   悲風 荒草(くわうさう)に入る

   疑ふらくは是れ 夢中の遊び

   愁へて斟(く)む 一盃の酒〕

 

と吟詠するに、

「いかでかこよひばかり夢なるべき。すべて人の世はみな夢なるものを」

とて、濱田が妻そゞろに淚をながす。座上の人大(おほき)にいかりて、

「此座にありて淚を流す、いまいましさよ」

とて、濱田が妻に盃をなげかけしかば、額にあたる。妻いかりて、座の下より、石をとり出しなげたりければ、座上の人の頭(かしら)にあたり、血ばしりて、ながるゝ事瀧のどとし。座中おどろき立さはぐかと見えし、ともしびきえて人もなく、たゞ草むらに蟲の聲のみぞ殘りたる。濱田大にあやしみ、

「さてはわが妻むなしくなりて幽靈のあらはれみえけるか」

と、いとゞ悲しくて、家に歸りければ、妻はふしてあり。

 「いかに」

とおどろかせば、妻おきあがりよろこびてかたるやう、

「あまりに待わびてまどろみしかば、夢の中に十人ばかり草むらに酒のみあそびて歌をのぞまれ、その中にも君のみ戀しさをよそへてうたひ侍べり。座上の人みづからが淚をながす事をいみて、盃(さかづき)をなげかけしを、みづから石をとりて打返すに、座中さはぎ立(たつ)とおぼえて夢さめたり。盃の額にあたりしとおぼえしが、夢さめて、今も頭(かしら)の痛(いたく)おぼゆ」

とて、歌も詩も、かうかうとかたる。白楊(やなぎ)の陰にして見きゝたるに、少(すこし)も違(たが)はず。濱田つらく思ふに、

「白楊陰(やなぎかげ)にかくれて見たりし事はわが妻の夢のうちの事にてありける」

となむ。

   *]

 

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