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2017/05/14

復活した耶蘇の話   萩原朔太郎

 

  復活した耶蘇の話

 

 山から降りて來た時に、耶蘇は全く疲れきつて居た。數時間に亙る必死の祈禱も、彼の空虛の心を充たすことができなかつた。重たい疲れた足を引きずりながら、傷だらけになつた耶蘇の心が、麓の方へ步いて來た時、午後の日光は大地に照りつけ、赭土の上に輝いて居た。そこには弟子のぺテロが寢て居た。ベテロは師の歸りを待つてる中に、何時しか寢入つてしまつたのである。耶蘇はその姿を悲しく眺めた。生死の境に立つてる自分が、最後の祈禱をして居る間、吞氣にも心地よく眠つてる弟子の姿が、悲しくもまた羨ましく思はれた。

「その心は願ふなれども、肉體弱きなり。」

 と、耶蘇はペテロに言ふのでもなく、獨り言のやうにつぶやいた。その言葉の深い意味には、彼自身に對する憐憫と寂寥がこめられて居た。

 

 耶蘇はこの頃になつてから、自分の破滅が近づいてることを直覺した。民衆は彼を羅馬人に訴へた。法律によつて私刑が禁じられてなかつたら、羅馬の裁判に訴へる前に、寧ろ民衆自身の手で殺したかつたのであらう。耶蘇はその民衆の怒りをよく知つて居た。なぜなら民衆の求めた神は、耶蘇の説く神とはおよそ正反對の神であつた。民衆は何よりも自由と獨立を欲求して居た。エヂプト人や羅馬人やによつて、その民族の故國を奪はれ、奴隷として長く逆壓されて居た猶太人等は、彼等に約束されてる新約の神の姿を、あの怒りと復讐の神である舊約のエホバに眺めた。エホバの子がもし眞にエホバの子であるならば、火と電光によつて彼等の敵(惡むべき暴虐者共)を擊滅し、地上に於ける猶大人の復讐を完成してくれなければならない筈だ。すべての猶太人等が、火のやうに渇き求めて居るキリストはそれであつた。所で耶蘇は、彼等に無抵抗主義の愛を教へた。「カイゼルの物はカイゼルに返せ。」不幸な隷屬者としての猶太人等は、永久に隷屬者としての宿命を天に約束されて居るのである。耶蘇がもし眞に新約のキリストだつたら、猶太人のあらゆる歷史的熱望は水泡である。耶蘇を殺さなかつたら、猶太人の夢が死んでしまふ。

 耶蘇は死を恐れなかつた。だが彼は近頃になつて、肉體の疲勞の加つて來ることを強く感じた。彼の年齡はまだ若かつた。しかし彼の過去の戰ひは、長くそして苦しかつた。至るところに、彼はその強大な敵を持つて居た。パリサイの學者と、僞善者と、猶太の愛國者と、民族主義者と。そして實に猶太人全體でさへもあつた。彼は自身の弟子のことを考へて寂しくなつた。ペテロも、ヨハネも、ヤコブも、無知な漁師の素朴性から、單に彼の奇蹟を信じて居るにすぎないのである。そしてこれだけが彼の全體の味方なのだ。この頃になつて、耶蘇は戰ふことに疲れて來た。或る夜の夢では、猶太人の氏神であるエホバが、民衆と共に彼を怒つてる幻さへ見た。そのエホバは戰車に乘り、萬軍をひきゐて羅馬人等と戰つて居た。

 

 耶蘇はマリアのことを考へて居た。星のやうな明瞭と、胡麻色の髮毛とを持つた若い娘は、耶蘇の魂にとつての音樂だつた。心のひどく疲れた時、絶望的な懷疑に惱んだ時、耶蘇はいつもマリアの所へ歸つて來た。マリアは彼の心の「休息」だつた。その外のどんな世界も、耶蘇に休息をあたへなかつた。美しいマリアは、疲れ傷ついてる耶蘇の額に、いつも優しい接吻をした。

 耶蘇はまたマリアの家で、近頃した宴會のことを思ひ出した。十二人の弟子の外に、美しいマリアが列つて居た。もう一人の女、マリアの姉は臺所で働いて居た。耶蘇は絶えず酒盃を乾し、元氣に愉快らしく話をして居た。その間中、マリアは耶蘇の側に寄りそひ、さも樂しげに男の顏を眺めて居た。耶蘇の高い秀麗な鼻、貴族的な廣い額、縮れた金色の髮毛。すべて皆マリアにとつての夢想的な歎美であつた。耶蘇の語るすべての言葉は、詩か音樂か何かのやうに、彼女の耳に恍惚として聽えるのだつた。

「お前つたら。何だね。側にばかり食つ付いて居て、少しはお料理の方も手傳つてくれないの。私一人で働いてるのに。」

 と、その時臺所から出て來た姉娘が、少しは嫉妬も混つてマリアに言つた。

「はふつておけ。俺は自分の爲に料理をこしらへてくれる親切より、俺の話を聽きたがる女の方が嬉しいのだ。」

 と耶蘇が言つた。うら若いマリアにとつて、耶蘇の言葉は愛の表現のやうに感じられた。彼女は興奮して立ち上り、卓上の美しい花瓶を兩手に抱いた。その花瓶の中には、アラビアの高貴な香油が充たしてあつた。マリアはそれを耶蘇の身體にふりかけた。

 目ざめるやうな百合の匂ひが、部屋中いつぱいにむせ返つて、異常な昂奮が人々の心を捉へた。

「馬鹿な眞似をするなツ。」

 と、隅の椅子の上からユダが叫んだ。

「世には貧乏人が澤山居るのだ。そんな贅澤な眞似をするなら、何故その金で飢ゑてる者を救はないのだ。」

 ユダの言葉の深い意味は、耶蘇によく解つて居た。民衆の求めてるものは愛でなくて復讐なのだ。その上に彼等は空腹で飢ゑて居るのだ。「先づパンをあたへよ。次に自由と平等の權利をあたへよ。然る後に汝の勝手な福音を説け」と彼等は叫ぶ。眞に民衆を救ふものは、靈の永生を説く宗教でなくして、物質の平等と革命を約束する、經濟上の法則であるかも知れない。ユダは耶蘇一行の財政を處理してゐたところの、唯一の弟子中での經濟學者であつた。

 ユダの思想は、いつも耶蘇の心を暗く寂しくした。彼は自分の福音を本質的に懷疑して居る。いつか自分の死後に於て、ユダは第二のキリストとなるだらう。自分の基督教は早く亡びる。だがユダの基督教は長く殘る。ユダは自分の福音を敵に賣り、地下にも長く耶蘇教の敵となるであらう。

 耶蘇は悲しくなつて目を伏せた。そして過失を犯した罪人のやうに、小さくおどおどして居るマリアの方へ、侘しく力のない視線をやりながら。

「許してやれ。こんな純情な若い娘を、皆であまり苛めるな。」

 と彼自身を憫むやうにつぶやいた。それから肉叉(フオーク)に肉を刺して、ユダの口へ入れながら、そつと耳元で囁いた。

「行け。敵に俺を賣つて來い。」

 

 ゴルゴタの砂丘の上に、三つの十字架が立てられて居た。その眞中の一つに耶蘇が架けられて居た。太陽は空に輝き、砂丘には白い陽炎が燃えて居た。耶蘇は肋骨から血を流して居た。兵卒は槍の先に海綿つけ、酢を含ませて耶蘇の口にあてがつた。それでもしかし、彼の烈しい渇きと苦痛は止まなかつた。

「これで俺は死ぬのか。だが死ぬといふ筈は絶對にない。俺は神から永遠の生命を約束されてる。俺が死ぬといふ筈は決してないのだ。いや、俺は死なない。俺は死といふ事實を承諾しないのだ。」

 耶蘇は恐ろしい意志の力を集中して、最後まで死と戰はうとして抗爭した。なぜならその死の實在する彼岸には、何もない虛無の暗黑が見えて來たから。彼は齒を喰ひしばつて苦痛に耐へ、意識を把持しようとして焦燥した。だが夜の闇が近づく頃に、彼の意識もまた次第に暗くかげつて行つた。

「えり。えり。らまさばくたに!」

 と、最後の殘された意志を集中して、引き裂くやうに烈しく絶叫した。その言葉の意味は「神よ。何ぞ我れを捨て給ふや。」といふのであつた。奇蹟は遂に起らなかつた。夜が靜かに更けて、星が空に輝やいて居た。

 仄かな薄暮のやうな意識が、長く墓石の下で持續して居た。耶蘇の呼吸は止つたけれども、彼の張りつめた意識だけが、地下に眠る冬眠の蛇のやうに、微かな明暗の境を彷徨して居た。耶蘇は墓場の下で生きて居たのであつた。

 初めはただ暗黑だつた。それから薄明のやうな日影が漂つて居た。

 「何故だ? 何故俺は蛇のやうに、こんな暗い地下に寢て居るのだらう。」

 と、その薄明の意識の中で、耶蘇は薄ら侘しく考へて居た。何といふ理由もなしに、存在することそれ自身が悲しかつた。彼は聲をあげて泣きたかつた。或る形而上學的な、それで居て本能的な強い悲しみが、胸をえぐるやうにせきこんで來た。「何がこんなに悲しいんだ?」と、彼は自身に反問した。そしてこの反問自身がまた悲しかつた。歔欷の情が喉の下までこみあげて來て、押へることが出來なかつた。夢の中の泣聲みたいに、聲は音響に現れなかつた。そしてただ淚だけが、顏中いちめんを濡らして流れ出し、止めやうもなく後から後からと湧くのであつた。

「此虚は何處だ? 俺は一體どうして居るのだ。何がこんなにも悲しいのだ?」

 と、再度また繰返して考へてみた。

「過去の地上に居た時の生活だらうか? あの民衆に對する敗れた戰ひの記憶だらうか? それとも信仰に對する自分の傷ついた懷疑だらうか? 否。ちがふ。ちがふ。もつと外の別の物だ。何か、もつと深く、曖昧で、俺の感情に食ひ込んでる別の物だ。」

 けれども認識を捕へることが出來なかつた。耶蘇の知つてるすべての事は、すべての現象する宇宙の中で、悲哀だけが實在するといふことだつた。そしてこれだけが、實にまざまざとはつきりした事實であつた。

 薄暮の仄明るい光の中で、何處か遠く遙かな方から、女のすすり泣くやうな聲が聽えた。その悲しげな女の聲が、宇宙に實在する本質の物、卽ち彼の悲哀の神祕を解きあかしてくれるやうに思はれた。耶蘇は墓の下で耳を澄まして居た。

 一筋の微かな光が、糸のやうにさまよつて居た。長い長い時間が過ぎた。それから次第に明るくなり、地下の暗闇の中の穴にも、幽かな黎明の氣合ひがした。

「死んではいや。死んではいや。」

 耶蘇が墓場から生き返つた時、一人の女が彼の側で泣き崩れて居た。それはマグダラのマリアであつた。彼女は淚に顏を濡らしながら、流血にまみれた耶蘇の體を兩手に抱き、烈しい接吻の雨をあびせて泣き悶えて居るのであつた。

「マリアよ。泣くな。俺は生きてる。生きてるのだ。」

 耶蘇の聲は、しかし女の耳に通じなかつた。なぜなら彼の聲は喉からでなく、肉體以外の別な靈的意識から出たのであるから。死して三日目に蘇生(よみがへ)つた耶蘇キリストは、その血まみれな死骸のままで、かうして永遠に女の手に抱かれて居たのであつた。アメン。

 

[やぶちゃん注:昭和一〇(一九三五)年六月号『若草』初出。昭和一一(一九三六)年五月発行の「廊下と室房」に収録された。昭和五一(一九七六)年筑摩書房刊「萩原朔太郎全集 第九卷」を底本とし、校異によって、初出にあったが、「廊下と室房」所収の際に削除された、最後の「アメン」を再現した。]

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