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2017/05/24

「新編相模國風土記稿卷之九十八 村里部 鎌倉郡卷之三十」 山之内庄 大船村(Ⅳ) 常樂寺

 

○常樂寺 粟船山と號す、臨濟宗【鎌倉建長寺末】北條泰時が開基の道場にして〔村民所藏、永正十二年、建長寺西來菴修造勸進狀に、常樂檀那武藏守權大夫泰時云々、〕【東鑑】に粟船御堂とある是なり〔【東鑑】の文下に引用す。又同書に、嘉禎三年十二月十三日、右京兆泰時爲室家母尼追福於彼山内墳墓之傍、被建一梵宇、今日有供養儀云々と見えたるもの、其舊跡今別に存せされば、恐らくは當寺なるべく覺ゆ、但し當寺創建の年代を傳へず、又泰時が母尼、室家等の墳墓の事も、こゝに傳へもしなければ推考もて決し難し、〕仁治三年六月十五日泰時卒してこゝに葬す〔後に墳墓山あり。〕寛元々年六月信濃法印道禪を導師とし、奉時が小祥の佛事を修す〔【東鑑】曰、六月十五日、故武州禪室周闋御佛事、於山内粟船御堂、被修之、北條左親衛幷武衞參給、遠江入道前右馬權頭、武藏守、以下人々群集、曼茶羅供之儀也、大阿闍梨信濃法印道禪讃衆十二口、此供幽儀御在生之時、殊抽信心云々、〕同四年宋の蘭溪本朝に歸化し鎌倉に下向して龜谷山壽福寺に寓せしを、北條時賴建てこゝに居しめ、軍務の暇屢訪ひ來たりて禪道を學べり、〔【元亨釋書】道隆傳曰、以淳祐六年、乘商船、着宰府、本朝寛元四年丙午也、乃入都城寓泉涌寺之來迎院、又杖錫相陽、時了心踞龜谷山、隆掛錫於席下、副元帥平時賴、聞隆之來化、延居常樂寺、軍務之暇、命駕問道、〕隆こゝに任する事七年〔按ずるに【鎌倉志】に、元は台家なりしが、隆入院の後、禪家に改む、故に隆を開山と稱する由記したれど、今此等の事寺家に傳へなし、又隆を開山と稱する事は、其始當寺は全き一宇の寺院たらず、泰時が持佛堂の如くなり、故に定まりたる、常住の僧はなかりしなり、されば【東鑑】にも、粟船御堂と記して、寺號を云はず、釋書に、時賴、隆を延て、常樂寺に居らしむと書せしは、全く追記の文にて、當時寺號を唱へし證とはし難し、泰時が歿後、時賴香花誦經等廢絶なからしめんが爲、隆を延てこゝに居らしめしと覺ゆれば、隆をもて住僧の始めと云ふべし、さては後傳へて、開山祖と思ひまがへるも理なきにあらず、志に云所は、全く梵僊が榜文に據て、ふと思ひ違へし訛なり、彼は福山の開山と云へるなり、榜文下に註記せり、合考して了解すべし、又按ずるに、當寺撞鐘、寶治二年の銘文に、初て寺號を見るに據れば隆が住するに及て一宇の寺院となし、寺號を唱ふる事も、こゝに草創せしなるべし、〕建長四年時賴建長寺を創する後、隆、福山に入て開山祖となる、五年六月故泰時が十三周の忌辰に値り、當寺にて追福の供養あり、又信濃僧正道禪を請て導師とす〔事は【東鑑】に見えたり、泰時墳墓の條に引用す、〕後建長寺の末となり、其寺領のうちを配當あり、されど當寺は彼開祖隆が出身の地なる故建長寺根本と稱せり、此頃の事が隆定規一篇を送り、凡て福山の法則に據るべき旨を寺僧に示す〔全文は寺寶の條に註記す、〕近來無住にして福山の塔頭龍峯庵兼管せり。

[やぶちゃん注:「永正十二年」ユリウス暦一五一五年。足利幕府第十代将軍足利義稙(よしたね)の治世(明応の政変による逃亡からの帰還後)。

「嘉禎三年」一二三七年。今までもそうだが、細かいことを言い出すときりがないので、特に指摘しないが、「吾妻鏡」の引用は完全なものではなく、省略(時には誤植かと思われるもの)があるので注意が必要である(「吾妻鏡」については読み難い部分は極力、私のオリジナルな注を附してあるが、それでも読めないという方には、「吾妻鏡」のサイトはかなり多いけれども、私は現代語訳がかなり進行しており、注も堅実なサイト「歴散加藤塾」のこちらを強くお勧めする)。ここを書き下すと、「右京兆室家(しつか)の母尼(ははに)の追福の爲、彼(か)の山内の墳墓の傍らに於いて、一梵宇を建てらる。今日供養の儀有り。」で「室家の母」は親族である実母の意。生没年などの詳細は不詳であるが、泰時の母は御所に仕える女房で、名を「阿波局(あわのつぼね)」と伝える。但し、これはかの北条時政の娘で源実朝乳母・阿野全成の妻である「阿波局」とは同名異人であるので注意されたい。

「梵僊」鎌倉末に元から渡来し、南北朝期の日本で亡くなった臨済僧竺仙梵僊(じくせんぼんせん 一二九二年~貞和四/正平三(一三四八)年)。古林清茂(くりんせいむ)の法嗣。一三二九年(元徳元年:南宋の淳祐六年)六月、九州豊後の守護大名大友貞宗の要請を受けて明極楚俊(みんきそしゅん)に従って日本へ来た。一三三〇年(元徳二年)、鎌倉に下り、足利尊氏・直義兄弟の帰依を受けた。後、浄妙寺・浄智寺を経、京の南禅寺・建長寺の住持となった。学識は一山一寧の次位とされ、各寺に於いて多くの弟子を養成した。公武からともに帰依を受け、五山文学発展の基礎を築いた人物であった。淨智寺に戻って、寺内に彼が建てた塔頭楞伽(りょうが)院にて示寂。彼が従った楚俊も建武三(一三三六)年、建仁寺の方丈で示寂している。

「仁治三年」一二四三年。

「寛元々年」一二四三年。「周闋御佛事」は「周闋(しゆうけつ)の御佛事」で一周忌のこと。引用の終りの部分は「此の供(ぐ)は、幽儀御在生の時、殊(こと)に信心を抽(ぬき)んずと云々。」と読み、「この供養は故人が存命中、殊に熱心に信心しておられた故に執り行われたものであるとのことである。」の意。

「蘭溪」蘭渓道隆(らんけいどうりゅう 一二一三年~弘安元(一二七八)年)は南宋から渡来した禅僧。建長寺にて示寂した。無明慧性(むみょうえしょう)の法嗣。寛元四(一二四六)年三十三歳の時、渡宋した泉涌(せんにゅう)寺の月翁智鏡(がっとうちきょう)の縁によって弟子とともに来日、筑前円覚寺や京の泉涌寺来迎院を経、鎌倉の寿福寺などに寓居、宋風の本格的臨済宗を広めた。この辺りのシークエンスも含めて「北條九代記 卷之八 陸奥守重時相摸守時賴出家 付 時賴省悟」の本文と私の注、及び私の「新編鎌倉志卷之三」の「建長寺」の項を参照されたい。

「台家」「だいけ」。天台宗。

「宰府」大宰府。

「乃入都城寓泉涌寺之來迎院、又杖錫相陽」書き下すと、「乃(すなは)ち、都城に入りて泉涌寺の來迎院に寓(ぐう)し、又、相陽(=鎌倉)に錫杖(しやくじやう:赴くこと)す」。

「時了心踞龜谷山、隆掛錫於席下、副元帥平時賴、聞隆之來化、延居常樂寺」「時に了心、龜谷山(きこくさん:寿福寺の山号)に踞(きよ)す(住持として勤めていた)。隆、錫を席下に掛く」。「了心」は仁治(にんじ)年間(一二四〇年~一二四四年)前後の臨済僧大歇了心(だいかつりょうしん)のこと。退耕行勇の法嗣で渡宋の後に帰国、寿福寺や建仁寺の住持を勤めた。禅僧の衣服・礼典等を整備したとされる。

「來化」「らいげ」。仏法を広めるために大陸から来ること。概ね生きて国に戻れぬ覚悟であったから(帰った僧も兀庵普寧(ごったんふねい 一一九七年~一二七六年:蘭渓道隆らの招きにより文応元(一二六〇)年に来日、時頼の招聘を受けて建長寺第二世となったが、弘長三(一二六三)年に強力な帰依者であった北条時頼が亡くなると支持者を失い、文永二(一二六五)年に帰国。元のスパイと疑われたことや、彼が日本語を殆んど学ぼうとせず、多くの御家人と意志疎通がなかったことにもよると思われる)のようにいるが)、事実上の「帰化」とも同義的と言えば言える。

「延居常樂寺」「延(ひ)きて常樂寺に居(を)らしめ」。「延きて」は「進んで・積極的に・招聘して」の意。

「命駕問道」「駕を命じて道を問ふ」。「駕」は貴人の乗り物。自ら寿福寺に車を向かわせて親しく問答したことを指す。

「按ずるに【鎌倉志】に、元は台家なりしが、隆入院の後、禪家に改む、故に隆を開山と稱する由記したれど」「新編鎌倉志卷之三」にの常楽寺の項に(リンク先は私の電子テクスト注)、「按ずるに、【元亨釋書】に、副元帥平時賴、隆蘭溪(りうらんけい)が來化を聞、延(ひ)いて常樂寺に居(を)らしむと有。此の寺(てら)元(もと)は天台宗なりしが、蘭溪入院以後、禪宗になりたりと云傳ふ。故に梵仙の榜には開山蘭溪とあり」とある。この以下の本「相模國風土記稿」の考証割注は非常に優れたものであって、近代の鎌倉史研究に於ける常楽寺成立史を先取りするものと私は思う。現在、常楽寺は嘉禎三(一二三七)年の創建で開基を北条泰時、開山を栄西の高弟退耕行勇とする。これは、道隆が建長寺に移って以降、現在に至るまで、臨済宗建長寺派に老いては建長寺開山の道隆が最初に落ち着いた名跡であることから「常樂は建長の根本なり」と重視され続けてきていることによる誤認である。

「榜文」「はうぶん(ほうぶん)」「ひやうぶん(ひょうぶん)」或いは「ばうぶん(ぼうぶん)」と読み、告示文・触れ書きのこと。ここは以下に示される「定規」(ていき:文章化された規則・具体的規律)を指す。

「志に云所は」「(新編鎌倉)志に云ふところは」。

「訛」音で「クワ(カ)」と読んでおく。本来の話や考えなどの内容が、何時の間にか変わって、それが誤って慣用化されて流布されてしまうことを指す。

「福山」彼が常楽寺から移って開山となった巨「福山」(こふくさん)建長寺のこと。

「寶治二年」一二四八年。前年、宝治合戦で三浦氏が滅び、北条得宗による占有支配が確立した。

「及て」「およびて」。

「建長四年時賴建長寺を創する」一二五二年。「吾妻鏡」では建長三(一二五一)年から造営が開始さられ、建長五(一二五三)年に落慶供養が行われたとある。現在、公式には建長五年を創建としている。これは本格的な最終工期に入ったものと読めばおかしくはない。だからこそ「後、隆、福山に入」りて「開山祖となる」と続くと読めるからである。

「忌辰」「きしん」忌日に同じい。

「値り」「あたり」。

「近來無住にして福山の塔頭龍峯庵兼管せり」江戸後期の寂れようが伝わってくる。]

【寺寶】

△定規二篇〔共に梓に鏤ばむ、〕一は道隆の書たり〔曰、光陰有限六七十歳、便在目前、苟過一生、灼然難得復本、既挂佛衣之後、入此門來、莫分彼此之居、各々當行斯道、儻以粟船上殿、爲名、晝夜恣情於戲、非但與俗無特、亦乃於汝何益、今後本寺主者、既爲衆僧之首、當依建長矩式而行、畫則誦經之外、可還僧房中客前坐禪初後夜之時、以香爲定式、領衆坐禪、二更三點可擊鼓房主歸衆方休息、四更一點、依復坐禪、至閑靜時方人寮、夜中不可高聲談論、粥飯二時、並須齊赴、不可先後、今立此爲定規、不可故犯、若有恣意不從之者、申其名來、可與重罰住山道隆華押〕

[やぶちゃん注:以上に限らず、以下での引用も、一部に脱落或いは誤判読又は誤植がかなり見られるが、それを訂正注すると厖大でしかも非常に読み難くなるので、誤りは誤りのママに電子化した必ず私の「新編鎌倉志卷之三」に載るそれらと対比されたい(ここ以下に引用されているものは概ね同書にも書かれてある)リンク先では私の訓読文と注も加えてあるので是非、参照されたい。

「梓に鏤ばむ」「あずさにちりばむ」。版木に刻む。「出版・上梓する」の意。昔、中国では梓(シソ目ノウゼンカズラ科キササゲ属キササゲ Catalpa ovata。但し、別な樹種を指すとする異説も多い)の木を版木に用いたところに由来する。]

一は梵僊の筆なり〔曰、常樂寺乃建長之根本也、開山板榜、切々訓誨、明如日月誠不可忽、今以晩來之者、似不知之、於輪番僧衆、多遊它所、今評定宜時々撿點、或住持自去、或臨時委人、若乃點而不到之者、卽時出院、各宜知悉、評定衆、前堂・柏西堂・都管・信都寺・興維那・習藏主・方首座・安首座・桂首座・用都聞・衣鉢胃淸、貞和丁亥三月二日 住山梵僊、華押、按ずるに、梵僊字笠仙、自號來々禪子、元の明州の人、元德二年二月、鎌倉に來り建長に寓す、后淨智・南禪・眞如の三寺に歷住、貞和三年建長に住して、二十九世の僧となる、后又淨智に再住し、同四月十六日寂す、〕

[やぶちゃん注:「貞和丁亥」「ぢやうわひのとゐ(じょうわひのとい)」は貞和三/正平二(一三四七)年。

「元德二年」一三三〇年。

「后」盛んに出るが、「のち」。「後に」の意。]

△硯一面〔佛光禪師牛澤の物なり、其圖左の如し〕

[やぶちゃん注:「佛光禪師」無学祖元(嘉禄二(一二二六)年~弘安九(一二八六)年)。明州慶元府(現在の浙江省寧波市)生まれの臨済僧。建長寺にて示寂。建長寺及び円覚寺に兼住、本邦の臨済宗に大きな影響を与えた。

「牛澤」意味不詳。識者の御教授を乞う。

 

Jyourakusuzuri

 

[やぶちゃん注:右のキャプション(活字化)「直經九寸三分」は約二十八センチメートル。以下、画像は視認底本としている国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングして加工したものである。]

 

△佛殿 祈禱の額を掲ぐ、本尊三尊彌陀を安ず、傍に泰時の牌〔牌面に、過去觀阿靈の五字見ゆ、餘は磨滅して讀むべからず〕及其室〔牌面に、歿故淨覺靈位の字見ゆ、鬼簿に、淨覺禪定尼と記し、卒年を載せず、〕其女の牌〔歿故戒妙大姉靈位とあり、〕を置、殿前に銀杏の老樹あり〔圍一丈七八尺〕

[やぶちゃん注:「過去觀阿靈」北条泰時の法名は「觀阿」で、「新編鎌倉志卷之三」に「位牌に、過去觀阿禪門とあり」と記す。

「其室」不詳。泰時の継室であった安保実員(あぼ/あぶさねかず 生没年未詳)の娘か?

「其女」不詳。

「圍」「めぐり」。

「一丈七八尺」五・一五~五・四五メートル。蘭渓道隆お手植えの公孫樹とされる木が現存はする。]

△客殿 釋迦〔座像長一尺八寸、日蓮植髮の像と云ふ、〕地藏〔中古建長寺門前の堂より移せりと云〕を置、圓鑑の額を扁す〔佛光禪師の筆、左に縮寫す、〕

[やぶちゃん注:「釋迦」木造釈迦如来坐像。南北朝時代の作。

「一尺八寸」五十四・五四センチメートル。

「日蓮植髮の像」私はそのような伝承は知らない。]

 

Ennkan

 

[やぶちゃん注:右側に扁額の縦の長さ「八寸八分一厘」(二十六・九六センチメートル)、上部に「一尺六寸五分八厘」(六十六・〇五センチメートル)と手書きである。]

 

△鐘樓 寶治二年三月の鑄鐘を懸く、序文に據ば北條時賴祖父泰時追善の爲に、左馬允藤原行家に命じ、撰せしむる所なり〔其序銘曰、鎌縣北偏、幕府後面、有一仁祠、蓋家君禪閤、墳墓之道場也、境隔囂喧、足催坐禪之空觀、寺號常樂、自擬安養之淨刹、弟子、追慕難休、夙夜于苔壠之月、遺恩欲報、欣求於華界之雲、便鑄鳧吼之鐘、聊添鴈堂之飾、於是狂風韻遠、可以驚長夜之夢、輕霜響和、可以傳三會之曉、當時若不記錄者、後代誰得相識哉、仍課刀筆、以刻銘文、寶治二年戊申三月廿一日、左馬允藤原行家法師、法名生蓮作辭曰、偉哉斯器造化自然、陰陽炭調、山谷銅甄、鳧氏功舊、蒲牢名傳、入秋今報、應律今懸、響和靑女、聲驚金仙、動三千界、振九五天、於是先主、早告歸泉、爾來弟子、屢溺淚淵、深恩如海、淺報似涓、夙夜之志、旦夕未悛、桑門閑鎖、房墳墓邊、花鐘新鑄、安道場前、揚九乳韻、祈七覺緣、開曉獲益、長夜罷眠、下自八大、上至四禪、以此善種、萌彼福田、〕

[やぶちゃん注:以上も「新編鎌倉志卷之三」に載るそれと対比されたいリンク先では私の訓読文と注も加えてある

「鳧吼之鐘」例外的に注するが、「鳧乳」(ふにゅう)の誤り。「鳧乳之鐘」は梵鐘のこと。中国古代の音楽をつかさどる鳧氏(ふし)が最初に作ったとされることからで、「乳」は「九乳」で梵鐘に特徴的な上部にある九つの出っ張り部分を言う

「寶治二年」一二四八年。既注。

「據ば」「よれば」。]

△文殊堂 本尊の左右に不動・昆沙門を安ず〔【鎌倉志】に據れば、始め道隆文殊の像のみ携へ來たり、此土にして全體を造り添へたるとなりとぞ。〕永祿十年五月住持九成の時甘糟太郎左衞門〔後佐渡守と稱す。〕長俊・同正直等信施して文殊の像を修飾し、其事を木牌に記して胎中に收む〔曰、文殊御影色、御檀那被成候間奉拜事、永祿十丁卯年五月十八日、平正直、平長俊、各華押、相模國東郡粟船山常樂寺、住持比丘九成叟、沙門僧菊拜書と記す、按ずるに、長俊は舊家小三郎の祖なり、〕、秋虹殿の額を扁す、蘭溪の筆なり、左に縮寫す、

[やぶちゃん注:この「文殊堂」について、「鎌倉市史 社寺編」では、諸本は『明治初年英勝寺から移建したものであると』するが、『古老は山上からひいて来たといっている』とあり、本書でかく記す以上、明治の移築というのはおかしい。

「始め道隆文殊の像のみ携へ來たり、此土にして全體を造り添へたるとなりとぞ」脱落があって意味が通じない。「新編鎌倉志卷之三」の当該条を読んで戴くと判るが、「文殊は、首ばかり、蘭溪宋より持來り、體は本朝にて蘭溪作り續(つ)ぎたるとなり」なのである。

「永祿十年」一五六七年。室町幕府第十四代将軍足利義栄(よしひで)の治世というか、既に戦国時代。

「住持九成」「僧菊」住持の名。

「甘糟太郎左衞門〔後佐渡守と稱す。〕」「鎌倉市史 社寺編」の「常楽寺」によれば、『口碑によれば上杉氏の臣、後に北条氏に属し』たとする、『この地方の豪族で、江戸時代には名主であった』とある。地元の「のり」氏のサイト内の「大船町内会管内の史跡めぐり」の「甘糟屋敷」を参照されたい。先の「大船村」の「熊野社」に出、後の「○舊家小三郎」にも記される。

「信施」「しんせ」。布施に同じい。

「秋虹殿の額を扁す、蘭溪の筆なり」「鎌倉市史 社寺編」は蘭渓筆は『疑わしい』とする。]

 

Syuukoudenn

 

△辨天社 客殿の後背に池あり〔色天無熱池と呼ぶ〕、其中島に勸請す、是江島辨天社に安ずる十五童子の一、乙護童子を祀れりと傳ふ〔其本體は建長寺に安じ、爰には其模像を置くと云、〕蘭溪江島に參寵の時、感得せしものなりとぞ〔建長寺西來庵永正十二年の勸進狀に、大覺禪師下向關東、江島一百日參籠、辨財天所感天童一人付與禪師也、居粟船常樂寺云々、故に江島には童子一體を缺と云傳ふ、〕相殿に志水荒神〔木曾冠者義高の靈を祀ると云、〕姫宮明神〔泰時の女を祀れりと云〕稻荷・天神等を祀れり、

[やぶちゃん注:「乙護童子」「おとごどうじ」。仏法を守るために姿を現す、童子の姿をした鬼神。乙護法(おとごほう)とも呼ぶ。

「永正十二年」一五一五年。]

△天神社

△北條武藏守泰時墓 客殿の背後山上にあり、【東鑑】建長六年六月北條時賴祖父泰時十三回の忌辰に値り、眞言供養を修せし條に、靑船御塔と見えしは是なり〔六月十五日、迎前武州禪室十三年忌景被供養彼墳墓靑船御塔、導師信濃僧正道禪、眞言供養也、請僧之中、中納言律師定圓、備中已講經幸、藏人阿闍梨長信等在之、爲此御追善御八講、自京都態所被招請也、相州御聽聞、〕按ずるに泰時は義時の長子なり、小字は金剛江間太郎或は相模太郎と稱す、建曆元年九月八日修理亮に任じ、建保四年三月廿八日式部少丞に迂り讃岐守を兼、固辭して州任に就かず、承久元年正月廿二日駿河守に任ず、十一月十三日武藏守に轉じ、三年洛に上り六波羅探題北方に居る、元仁元年六月鎌倉に歸り、廿八日、父に代りて執権の職を奉る。嘉禎二年十二月十八日、左京権大夫を兼、曆仁元年四月六日武藏守を辭し、九月廿五日、左京兆を辭す、仁治三年五月十五日薙髮して觀阿と號す、六月十五日卒。年六十、常樂寺と號す〔碑圖左の如し〕

[やぶちゃん注:「建長六年」一二五四年。以下、「吾妻鏡」の書き下し文を示す(省略があるが、ここで示されたものを読み下す)。

   *

六月十五日。前武州禪室の十三年忌景(きけい)[やぶちゃん注:回忌。]を迎へ、彼の墳墓靑船(あをふね)の御塔(ごたう)を供養せらる。導師は信濃僧正道禪。眞言供養なり。請僧(しゆあそう)の中(うち)に、中納言律師定圓(ぢやうゑん)[やぶちゃん注:当時、歌人として知られた葉室光俊(はむろみつとし 建仁三(一二〇三)年~建治二(一二七六)年)の子。]・備中已講(いこう)經幸(きやうこう)・藏人(くらうど)阿闍梨長信(ちやうしん)等、之れ、在り。此の御追福(ごついぶく)御八講(ごはちこう)の爲、京都より態(わざ)と招請せらるる所なり。相州[やぶちゃん注:北条時頼。]、御聽聞。

   *

「小字」「こあざな」。幼名。

「建曆元年」一二一一年。

「建保四年」一二一六年。

「州任」国守号のことか。

「承久元年」一二一九年。

「三年洛に上り六波羅探題北方と居る」)承久の乱の直後の承久三(一二二一)年六月十六日に泰時は六波羅探題北方に就任している。

「元仁元年」一二二四年。「六月」は改元前なので貞応三年が正確。

「嘉禎二年」一二三六年。

「曆仁元年」一二三八年。正確には嘉禎四年が正しい(暦仁元年改元は嘉禎四年十一月二十三日)。

「仁治三年」一二四二年。]

 

Yasutokihaka_2

 

[やぶちゃん注:図の右上に「高四尺五寸」(約一メートル三十五センチメートル)のキャプション(活字化)がある。]

 

△姫宮塚 佛殿後の山上にあり、老松二株あり〔圍一丈五尺〕、泰時が女の墳なりと云〔元は祠堂ありしが、頽廢して、神體は今辨天社に合祀す、西來庵永正勸進狀に大覺禪師居常樂寺、平泰時息女歸依佛法、號戒妙大姉、抽戒枝結常樂果と見ゆ、北條系譜を閲するに泰時三女を生む、長は足利義氏の室字、次は三浦若狹前司泰村、次は武藏守朝直に嫁す、此三女の内なるや、慥かなる所見なし〕

[やぶちゃん注:「一丈五尺」約四メートル五十四センチメートル。]

△木曾冠者義高塚 姫宮塚の山腹にあり、小塚の上に碑を建【高三尺許】古塚は小名木曾免の田間にあり〔當寺の坤方、二町餘を隔、〕延寶八年二月廿一日村民〔石井氏、〕塚を穿ち靑磁の瓶を得たり、瓶中に枯骨泥に交りてあり、由て爰に塚を築き收藏せしと云〔舊地にも、今尚古塚あり、〕按ずるに義高は〔系圖義基に作る、今【東鑑】に從ふ、〕木木曾義仲の長子なり、壽永元年鎌倉に質たり、賴朝女を以て是に妻す、元曆元年義仲江州にて討れし時、賴朝後患を慮り誅戮せんことを謀る、義高伺ひ知て密に遁れ四月廿六日武州入間河原にて追手の兵、堀藤次親家が郎等藤内光澄に討る〔【東鑑】曰、元曆元年四月廿一日、自去夜殿中聊物忩、是志水冠者、雖爲武衛御聟、亡父已蒙勅勘被戮之間、爲其子其意趣尤依難度、可被誅之由、内々思食立、被仰含此趣於昵近壯士等、女房等伺聞此事、密々告申姫公御方、仍志水冠者𢌞計略、今曉遁去給、此間假女房之姿、姫君御方女房圍之出、而海野小太郎幸氏者、與志水同年也、日夜在座右片時無立志、仍今相替之、入彼帳臥、宿夜之下出髻云々。日闌後。出于志水之常居所、不改日來形勢、獨打雙六、志水好雙六之勝負、朝暮翫之、幸氏必爲其合手、然間至于殿中男女、只成于今、令坐給思之處、及曉綺露顯、武衛太忿怒給、則被召禁幸氏、又分遣堀藤次親家以下軍兵於方々道路被仰可討止之由云々。姫公周章令銷魂給、廿六日甲午。堀藤次親家郎從、藤内光澄歸參、於入間河原、誅志水冠者之由申之、此事雖爲密議、姫公已令漏聞之給、愁歎之餘、令斷漿水給、可謂理運、御臺所又依察彼御心中、御哀傷殊太、然間殿中男女多以含歎色云々、〕光澄首を携へ歸り實檢の後當村に葬りしなるべし、

[やぶちゃん注:ここは「吾妻鏡」も完全に引いて訓読も附した、私の北條九代記 淸水冠者討たる 付 賴朝の姫君愁歎をご覧あれ。私はこの二人が哀れでたまらぬ。

「木曾冠者義高」(承安三(一一七三)年?~元暦元年四月二十六日(一一八四年六月六日)。木曾義仲嫡男。

「古塚は小名木曾免の田間にあり」後掲される。

「坤方」「ひつじさるがた」。南西。

「二町」二百十八メートル。

「延寶八年二月」グレゴリオ暦一六八〇年。徳川家綱の治世であるが、この年の五月に彼は死去し、綱吉が江戸幕府第五代将軍となっている。

「石井氏」大船・玉繩地区の地の者に多い姓である。

「壽永元年」一一八二年。

「質」「じち」。人質。

「賴朝女」悲劇の長女大姫(おおひめ 治承二(一一七八)年~建久八(一一九七)年)。寿永二(一一八三)年の春、頼朝と対立していた義仲は当時十歳(推定)の源義高を人質として鎌倉に送り、当時六歳の大姫の婿とすることで頼朝と和議を結んだ(義高と大姫は又従兄妹に当たる)。

「元曆元年」一一八四年。

「入間河原」「いるまがはら」。現在の狭山市入間川付近。

「堀藤次親家」「ほりのとうじちかいへ」。

「藤内光澄」「とうないみつずみ」。]

△大應國師墓 地後山麓にあり、五輪塔を立、師は延慶二年建長寺にて寂す、當寺は茶毘の舊跡なるが故に塔を建となり〔【高僧傳】を按ずるに國師名は紹明南浦と號す、駿州の人、正元年間入唐し、文永四年東歸す、七年、筑州興德寺に住持し、繼て大宰府の常樂寺洛の萬壽寺に轉住し、東山嘉元禪院の開祖となり、德治二年、建長寺に住し、十三世の職を董し、延慶二年十二月廿九日寂す、舍利を獲る無數、勅して圓通大應國師と諡す、弟子建長、崇福にあるもの、各舍利を奉じて塔を建建長の塔中、天源庵と云、今に支院たり、崇福の塔を瑞雲と云、〕

[やぶちゃん注:「大應國師」臨済僧で建長寺住持であった南浦紹明(なんぽしょうみょう/なんぽじょうみん 嘉禎元(一二三五)年~延慶元(一三〇九)年)。出自は不詳乍ら、駿河国安倍郡の出身。勅諡号が「円通大應國師」。ウィキの「南浦紹明によれば、『幼くして故郷駿河国の建穂寺に学び』、建長元(一二四九)年、『建長寺の蘭渓道隆に参禅した』。正元元(一二五九)年に『宋に渡って、虚堂智愚の法を継いだ』。文永四(一二六七)年、日本に帰国して建長寺に戻り(この時点では南溪道隆は未だ存命であった)、その後は文永七年に筑前国の興徳寺、文永九年には博多の崇福寺の住持を勤めた。嘉元二(一三〇四)年に『後宇多上皇の招きにより上洛し』、現在の京都市東山区にある東福寺塔頭の『万寿寺に入』った。徳治二(一三〇七)年になって鎌倉に戻って『建長寺の住持となったが』、その二年後、七十五歳で示寂した。没した翌年、『後宇多上皇から「円通大応」の国師号が贈られたが、これは日本における禅僧に対する国師号の最初である。南浦紹明(大応国師)から宗峰妙超(大灯国師)』(しゅうほうみょうちょう 弘安五(一二八二)年~延元二/建武四(一三三八)年)は、鎌倉時代末期の臨済宗の『を経て関山慧玄』(かんざんえげん 建治三(一二七七)年~正平一五/延文五(一三六一)年)と『へ続く法系を「応灯関」といい、現在、日本臨済宗は』皆、『この法系に属する』とある。]

△門 粟船山の額を掲ぐ、黃檗僧木庵の筆なり、

[やぶちゃん注:「黃檗僧木庵」江戸前期に明から渡来した黄檗(おうばく)宗(曹洞宗・臨済宗と並ぶ日本三禅宗の一つ。本山は現在の京都府宇治市にある黄檗山万福寺。承応三(一六五四)年に明から渡来した僧隠元隆琦(いんげんりゅうき 一五九二年~寛文一三(一六七三)年によって齎された。宗風は臨済宗とほぼ同じであるが、明代の仏教的風習が加味されている。明治七(一八七四)年に一旦、臨済宗と合併したが、二年後に独立、今も一宗派となっている)の僧木庵性瑫(もくあんしょうとう 一六一一年~貞享元(一六八四)年)。寛文元(一六六一)年に山城国宇治の黄檗山萬福寺に入り、寛文四年、かの隠元の法席を継いだ。翌年には江戸に下り、第四代将軍徳川家綱に謁見して優遇され、江戸の紫雲山瑞聖寺を初めとして十余ヶ寺を開創、門下も五十余人に及び、寛文九年には将軍から紫衣を賜っている。延宝八(一六八〇)年二月、黄檗山の第三代法席を、やはり明から渡来した僧慧林性機(えりんしょうき 一六〇九年~天和元(一六八一)年)に譲って山内の紫雲院に隠退、そこで亡くなった(以上はウィキの「木庵性瑫に拠った)。]

 

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