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2017/05/19

南方熊楠 履歴書(その36) 神社合祀反対運動

 

 御存知かもしれず、前年原敬氏首相たりし時、神社合祀の令を出し、所によりこれを強行することはなはだしく、神社神林を全滅して私腹を肥やすこと大いに行なわれ、心ある人々は国体を害することこれより大なるはなしと申せしも、誰一人立ってこれをいう者なかりし。その時伊勢に生川(なるかわ)鉄忠という神官ありてこのことを論ぜしも、ただ筆さきに止まり何の影響なかりしに、大正九年、小生このことを言い出し、代議士中村啓次郎氏に頼み数回国会へもち出し、またみずからこれを論議するのはなはだしかりしより、十八日間未決監につながれしことあり、その後もやめずにこれを論じ、ちょうど十年めに神社合祀は無益とのこと貴族院で議決され申し候。およそ十年このことに奔走し、七千円という、小生に取りては大なる金円を損じ申し候。しかして神社合祀無益と議決されし時は、すでに多くの神社が合祀全滅されたる後にて、何の役に立たざりしようなれど、これがため今も全国に存残せる神社は多く、現に当町の神社などは、一、二の外はみなのこれり。さて今日となって、神社へまいりたきも道遠くしてまいり得ざる等の事情より田舎の人心離散せること、都会で思うよりもはなはだしきもの多く、これが農村疲弊思想濫違(らんい)の主たる源由(げんゆ)となりおり申し候。小生自分の予言の当たりしは、国家衰運に向かいしと同然で決して喜ぶべきにあらざれども、とにかく国民としていうべきことをいい憂うべきことを憂いたるは本心において慙(は)ずるところなし。研究所の件のごときも、すでに一度いい出せしことはひくべきにあらず。いわんや数万円の金ができ集まりおるにおいてをやで、この上いかに難儀するとも、鉄眼(てつげん)が一切経を翻刻せし時の心がけで集金すべく、ずいぶん骨を折りおり申し候。

[やぶちゃん注:「前年原敬氏首相たりし時、神社合祀の令を出し」この部分の叙述にはかなり問題がある。そもそも神社合祀政策は明治三九(一九〇六)年の勅令「神社寺院佛堂合倂跡地ノ讓與ニ關スル件」(明治三十九年八月十日勅令第二百二十號)に基づくもので(「国立公文書館デジタルアーカイブズ」で画像で視認出来る。検索ボックスに「神社寺院仏堂合併」を入れると二種の画像が出、下が勅令であるが、上の「神社寺院仏堂合併跡地譲与方」がその施行規則風の内容で詳しく、その冒頭に、『別紙内務大臣請議社寺合併跡地無代下付の件を審査するに現在社寺の數は甚た多きに失し社殿堂宇の頽破し維持困難にして崇敬の實擧らす法用行はれす名ありて實なきもの尠なからす斯かる社寺は宜しく合併を行はしめ可成其の數を減し完全なるものと爲すを得策と認むるを以て合併を爲す場合に於ては其の結果不用に歸したる境内官有地は之を其の合併したる社寺に讓與し以て其の資産を増加し體面維持の基礎を鞏固にすると同時に之に依り以て社寺整理の目的を遂行するの便宜に供せんとするものにして相當の儀と思考す依て請議の通閣議決定せられ可然と認む』とある。勅令の最後の連署者は確かに原敬であるが、これは内務大臣であって、当時の内閣は第一次西園寺内閣(第十二代内閣総理大臣西園寺公望/明治三九(一九〇六)年一月七日~明治四一(一九〇八)年七月十四日)であって、次の第二次桂内閣(桂太郎/明治四一(一九〇八)年七月十四日~明治四四(一九一一)年八月三十日)もこの政策を積極的に引き継いだ。これは、各集落毎に複数ある神社を合祀し、一町村一神社を標準とせよとするもので、この後、第二次西園寺・第三次桂・第一次山本(海軍大将山本権兵衛/この内閣は六十二日間で短命に終わった)・第二次大隈(大隈重信)・寺内(元帥陸軍大将・軍事参議官寺内正毅)の各内閣が継続的に運用したものと考えられる。その後、第十九代内閣総理大臣として立憲政友会総裁で衆議院議員の原敬が選ばれて原内閣が大正七(一九一八)年九月二十九日に誕生した。彼は最初の勅令の連署である以上、この政策をやはり強く実施しようとしたであろうと推測することには吝かではないが、「南方熊楠記念館」公式サイト内の「神社合祀反対運動」を見ると、既に『大正に入ってからは、次第に不合理な神社合祀がされることはなくなり』とあり(下線やぶちゃん)、結果として、実はこの原内閣の時、まさにここに記されている通り、大正九(一九二〇)年に貴族院で「神社合祀無益」と決議され、終息したのであった。この南方熊楠の謂いには、神社合祀令が原内閣によって出令されたという点で誤りであり、寧ろ、この内閣時にこの政策は停止されたという事実を語っていない点で二重の誤りであることは指摘しておかねばならない。因みに、原は大正一〇(一九二一)年十一月四日に東京駅丸の内南口コンコースに於いて、大塚駅駅員で右翼青年の中岡艮一(こんいち)に襲撃されて殺害され、十一月十三日に解散している。但し、ウィキの「神社合祀」によれば、この政策によって全国で大正三(一九一四)年までに約二十万社もあった神社の内、約七万社が『取り壊された。特に合祀政策が甚だしかったのは三重県で、県下全神社のおよそ』九『割が廃されることとなった。和歌山県や愛媛県もそれについで合祀政策が進められた。しかし、この政策を進めるのは知事の裁量に任されたため、その実行の程度は地域差が出るものとなり、京都府では』一『割程度ですんだ』(下線太字はやぶちゃん)。『この官僚的合理主義に基づいた神社合祀政策は、必ずしも氏子崇敬者の意に即して行なわれなかった。当然のことながら、生活集落と行政区画は一致するとは限らず、ところによっては合祀で氏神が居住地からはほど遠い場所に移されて、氏子が氏神参拝に行くことができなくなった地域もある。合祀を拒んだ神社もあったが、所によってはなかば強制的に合祀が行なわれた』とある。先の「南方熊楠記念館」公式サイト内の「神社合祀反対運動」を見ると、熊楠は『各地で住民が身近な神社の無くなるのを嘆くのを見て、当時、さきがけて合祀反対の立場をとっていた『牟婁新報』の社主』で熊楠の盟友であった毛利清雅の当該新聞に『反対意見を発表し、合祀を推進する県や郡の役人を攻撃した』。『『牟婁新報』には毎号、反対意見を投稿し、掲載され賑わしたが、さらに『大阪毎日新聞』、『大阪朝日新聞』、『東京朝日新聞』などにも反対意見の原稿を送り、また中央の学者に応援を求める働きかけをした』。『なかでも、東京大学教授で植物の権威、松村任三(じんぞう)に、国・県の神社合祀のやり方をきびしく批判した長文の手紙を寄せた。これを、民俗学者で当時内閣法制局参事官であった柳田國男が、『南方二書』として印刷し、関係者に配布して熊楠の運動を助けた』とある。

「生川(なるかわ)鉄忠」伊勢四日市の諏訪神社の社司生川鉄忠(なるかわてつただ)。詳細事蹟不詳。

「中村啓次郎」(慶応三(一八六七)年~昭和一二(一九三七)年)は政治家・弁護士・実業家。後に衆議院議員・衆議院議長を務めた。和歌山生まれ。明治四一(一九〇八)年五月の第十回衆議院議員総選挙で和歌山県郡部区の立憲政友会候補として出馬して初当選。その後、再選・落選を繰り返したが、大正一三(一九二四)年五月の第十五回総選挙で政友本党から出馬して当選しており(ウィキの「中村啓次郎」に拠る)、本書簡(大正一四(一九二五)年二月)当時は衆議院議員であった。先の「南方熊楠記念館」公式サイト内の「神社合祀反対運動」には、『熊楠のひたむきな情熱が次第に世論を動かし』、明治四五(一九一二)年三月(初回当選時)、『県選出の衆議院議員中村啓次郎が本会議で合祀に関する反対質問を一時間余りもしたり、貴族院議員の徳川頼倫(よりみち)が努力したりして』、神社合祀政策の停止に功あった人物である。

「またみずからこれを論議するのはなはだしかりしより、十八日間未決監につながれしことあり」やはり「南方熊楠記念館」公式サイト内の「神社合祀反対運動」に、明治四三(一九一〇)年八月、『田辺中学校講堂(現田辺高校)で夏期教育講習会があり、主催者側として出席した田村某は神社合祀を進める県の役人で、熊楠はこの人に会おうと閉会式の会場を訪れたところ、入場を阻止されたので、酒の酔いも手伝って、持っていた標本の入った信玄袋を会場内へ投げ込んだ。このことから「家宅侵入罪」で連行され』、十八日間(「南方熊楠コレクション」の注によれば、八月二十二日から九月七日とあり、これだと十七日間となる)、『未決のまま監獄に入れられた。結局、無罪で釈放となったが、その間本を読み、構内で粘菌を見つけたりした。釈放される時、看守がそのことを知らせると、「ここへは誰も来ないので静かだし、その上涼しい。もう少し置いてほしい」と言って、出ようとしなかったと伝えられている』とある。

「ちょうど十年め」大正九(一九二〇)年に貴族院で「神社合祀無益」と決議されて停止しているから、その十年前は明治四三(一九一〇)年となり、これは、直前に書かれた反対主張をせんとして、熊楠が拘置された時点から、の謂いであるので注意されたい。

「しかして神社合祀無益と議決されし時は、すでに多くの神社が合祀全滅されたる後にて、何の役に立たざりしようなれど、これがため今も全国に存残せる神社は多く、現に当町の神社などは、一、二の外はみなのこれり。さて今日となって、神社へまいりたきも道遠くしてまいり得ざる等の事情より田舎の人心離散せること、都会で思うよりもはなはだしきもの多く、これが農村疲弊思想濫違(らんい)の主たる源由(げんゆ)となりおり申し候」「濫違」は「違濫」・「違乱」と同義で、本来は「法に背き、秩序を乱すこと」であるが、ここはそれではおかしいので、所謂、法の側の偏頗にして狭量な思想による「濫用」「乱用」の謂いである。やはり「南方熊楠記念館」公式サイト内の「神社合祀反対運動」には、『しかしこの間、熊楠の運動の成果として伐採を免れた神社林は何ヵ所かあるが、かなりの社殿や、森、社叢、原生林が姿を消した』。『このため、熊楠はとくに田辺湾の神島をはじめ、貴重な天然自然を保護するため、様々な反対運動や天然記念物の指定に働きかけをした。この戦いは晩年まで続き、熊楠が今日、エコロジ-の先駆者といわれる所以である』とあり、また、ウィキの「神社合祀の「合祀反対運動」にも、『氏子・崇敬者の側としては、反対集会を開くこともあったが、主として大きな運動もできず、合祀によって廃された神社の祭神が祟りを起こしたなどと語る形でしか不満を示すことはできなかった』。『とはいうものの、この合祀政策は、博物学者・民俗学者で粘菌の研究で知られる南方熊楠ら知識人が言論によって強い反対を示した。南方は、合祀によって①敬神思想を弱める、②民の和融を妨げる、③地方を衰微する、④民の慰安を奪い、人情を薄くし、風俗を害する、⑤愛国心を損なう、⑥土地の治安と利益に大害がある、⑦史跡と古伝を滅却する、⑧天然風景と天然記念物を亡滅すると批判した』。『こうした反対運動によって次第に収束して、帝国議会での答弁などを通して、明治四三(一九一〇)年『以降には急激な合祀は一応収まった。しかし、時既に遅く、この合祀政策が残した爪跡は大きく、多数の祭礼習俗が消えてしまい、宗教的信仰心に損傷を与える結果となった』とある。

「鉄眼(てつげん)が一切経を翻刻せし」「鉄眼」は江戸前期の黄檗僧鉄眼道光(てつげんどうこう 寛永七(一六三〇)年~天和二(一六八二)年:肥後国益城郡守山村(現在の熊本県宇城市小川町南部田)生まれ)。ウィキの「鉄眼道光によれば、寛文四(一六六四)年に「大蔵経」(=「一切経」)を刊行することを発願、寛文七年には全国行脚を行って施材を集め、途中、畿内の飢えに苦しむ住民を見かねて集まった施財を二度も給付し尽くしてしまったが、三度目にして、『ようやく施財を集めることを得、京都の木屋町二条の地に印経房(のちの貝葉書院)を開設』、寛文八年、『中国明の万暦版を基に覆刻開版し』、発願から十四年後の延宝六(一六七八)年に実に千六百十八部七千三百三十四巻を完成させ、『後水尾法皇に上進した』ことを指す。]

 

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