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2017/05/26

「想山著聞奇集 卷の參」 「雹の降たる事」 / 卷の參~了

 

 雹(ひよう)の降(ふり)たる事

 

[やぶちゃん注:遅蒔きながら、サイト「富山大学学術情報リポジトリ」内の「ヘルン文庫」から、かの小泉八雲旧蔵本である本「想山著聞奇集」の原本全部のPDF版ダウン・ロードが出来ることを知った(因みに、それを見て驚いたのは、先の「大蛇の事」の三枚の挿画の内、二枚に鮮やかな色彩が施されていることであった。是非、ご覧あれ! 画像使用には許可を申請する必要があるので提示はしない)。それによって総ルビの原本で読みを確認出来ることが判ったので、向後は原本を確認しながら、本文も校訂しつつ(漢字表記は原典に従わせるようと思ったが、略字が混交しているため、原則底本を採用し、一部の底本の誤りは注記せずに原典に従った)、読みを振ることとし、前章までの底本にある読みの太字表記は意味を成さなくなるので、やめることとした。また、ここまでくると、読みは誰でも確認出来、しかも読むにはだんだん五月蠅くなってくるだけなので、ストイックに絞ることとしたい。]

 

Syouzanhyo1

 

 文政十三年【庚寅】閏三月廿九日、昇龍、所々にありて、雷雨のうへ、氷(ひよう)[やぶちゃん注:「氷」はママ。]ふりたり。此昇龍と云は、俗に辰卷と云、所謂、騰蛇(とうじや)[やぶちゃん注:蛇が天に昇って龍となること。]の類(るゐ)なり。【本草綱目に云、騰蛇化ㇾ龍神蛇能乘雲霧而飛游千里云々。】扨、此(この)大い成(なる)氷(ひよう)が降る事は、舊記に見えて珍しからざれども、今、江戸にて、まのあたり、大なる氷(ひよう)をふらす。しかも、僅の場所の違ひにて同じからず。或人の記錄、至て詳(つまびらか)也。依(よつ)て、爰に其要を抄し置ぬ。二十九日晝過計(ばかり)に、空は一面に墨すりたる樣にて、雲の色、風の音、俄にかはり、市谷邊も、雷(らい)も餘程強く鳴(なり)はためきたり。忽ち、雨水(うすゐ)に大豆(おほまめ)程づゝの氷(ひよう)を交へて、暫時(しばし)、降たり。此氷(ひよう)、王子・日暮里・染井・谷中・上野・淺草邊(へん)、別(べつし)て甚敷(はなはだしく)、又、行德(ぎやうとく)・舟橋の方も甚だ強く荒(あれ)たりと。其概略(あらまし)を左(さ)に記(しる)す。

[やぶちゃん注:「文政十三年【庚寅】閏三月廿九日」グレゴリオ暦一八三九年五月二十一日。

「氷(ひよう)」「氷」はママ。底本では右に『(雹)』と訂正注するが、私はこの儘の方がよい。そもそもが「雹」は「氷の塊」であり(多くは雷雨に伴って降り、通常のものは直径は約五ミリから五センチメートルほど)、この「雹」の字音は本来は「ハク・ハウ」であるから、この「ひよう(ひょう)」というのは和訓であり、これは実は「氷」の音を当てたものとも、また、「氷雨(ひょうう)」の転とも言われるからである。

「本草綱目に云、騰蛇化ㇾ龍神蛇能乘雲霧而飛游千里云々。」原本の訓点に從うなら、

「本草綱目」に云く、「騰蛇(とうしや)、龍(りよう)に化(け)し、神蛇(しんしや)は能く雲霧(うんむ)に乘り、千里に飛游(ひいう)す云々。」と。

であろうが、李時珍の「本草綱目」の「鱗之二」の「諸蛇」の中にやっと発見したものの、そこでは、

   *

螣蛇化龍(神蛇能乘雲霧而飛游千里)。螣蛇聽孕(出「變化論」。又「抱朴子」云、『螣蛇不交。

   *

となっており、この想山の訓点にはやや疑義を感じた。この中文ウィキソースの丸括弧(割注)が正しい(実は他のデータを見ても正しいと判断出来る)とするなら、これは、

   *

螣蛇(とうだ)は龍と化す【神蛇たり。能く雲霧に乘りて千里を飛游す。】。螣蛇は聽きて孕(はら)む(「變化論」に出づ。又、「抱朴子」に云はく、『螣蛇、交はらず。』と)。

   *

だろう。「螣蛇」は「騰蛇」とも書くとあるから、それはよいとして、これは飛翔する能力を有するが、羽は持たないとし、あくまで神蛇であって龍ではないようだ。龍になるためのステージの下・中級程度なのかも知れぬ。面白いのはこの神蛇は交尾をせず、雄の声に応じてその声で雌が孕むらしいことである。]

 

 御本丸邊(へん)は、雹に大豆ほどの氷(こほり)交りて降たりと。

[やぶちゃん注:後に出る「西丸」、現在の皇居から濠(蓮池濠)を挟んだ東北位置。この間は三百メートルほどしか離れていないのにこちらは大豆(「だいず」大ととってよかろう)ほどの雹が降ったのに、あちらはただ雨ばかりである。]

 

 本所石原は、大豆程なるが降たるに、同所一ツ目邊は、團子程のぶん、交りて降、傘を破りたりと。

[やぶちゃん注:「本所石原」現在の東京都墨田区石原。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

 市谷・大久保・四谷・赤坂邊も、大豆ほどなるが降たるに、内藤新宿は、雨計(ばかり)にて氷(ひよう)はふらざりしと。

[やぶちゃん注:「内藤新宿」現在の新宿御苑。当時は信州高遠藩主内藤家下屋敷があり、甲州街道への出口として宿場町が形成されて賑わった。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

 西丸下(にしまるした)は雨計なるに、櫻田外(そと)は空豆程なるがふりたりと。

[やぶちゃん注:「櫻田」門「外」は西丸から、ほぼ南へ直線で八百メートルの位置。こちらはソラマメ大だから、本丸よりでかい。]

 

 芝神明(しばしんめい)邊も雨計なりと。

[やぶちゃん注:皇居から真南に三キロほど。増上寺門・東京タワーの東海側。]

 

 御濱御殿(おはまごてん)邊も氷はふらざりしと。

[やぶちゃん注:浜離宮。芝神明の東北東直近の江戸湾奥。]

 

 小日向(こびなた)邊は、空豆程なるが一圓に降り、中には、茶碗ほどの大さなるも數十交りて降て、家根瓦、損じたりと。

[やぶちゃん注:「小日向」文京区小日向は皇居の西北三キロほど。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

 小石川氷川上(ひかはうへ)邊より白山邊は、拳(こぶし)程の雹多く降、柿の枝など、四五寸程の分(ぶん)を打折しもあり。尤、瓦は大(おほひ)に損じ、畑(はた)の苗類は悉く打潰せしと。

[やぶちゃん注:「小石川氷川上」は現在の文京区千石にある簸川神社の裏手(ここ(グーグル・マップ・データ))で、「白山」は現在の小石川植物園の東北の文京区白山の白山神社一帯である(ここ(グーグル・マップ・データ))。]

 

 上野・根岸・大塚邊は、團子或は玉子程なるが降り、板橋邊は、茶碗程もありて、畠は皆損じたりと。

[やぶちゃん注:「板橋」は小石川植物園から北西に三・五キロメートルほど離れる。ここで示される地域の中では最も内陸である。]

 

 大塚上町【波切不動の前の通り】此所へは、雹に白石(しろいし)を交(まぜ)てふらす。常の火打石のごとくなれば、試に、火打鎌(ひうちかま)にて打見るに、火打石に更に異(こと)なる事なしとぞ。勿論、初めの程は、みな人も、氷(ひよう)の大ひ成(なる)のと思ひ居(ゐ)たるが、爰彼所(こゝかしこ)に石有(あり)とて心付たれば、所々にて拾ひたるは、甚だ奇事(きじ)なり。

[やぶちゃん注:「大塚上町【波切不動の前の通り】」現在の文京区大塚の日蓮宗大法山本伝寺の門前。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「火打鎌」時代劇でお上さんが夫の出掛けに火打石にかっつけて打つ、あの板に鉄片を嵌めこんだ火打ち金(ひうちがね)の関東での呼称。

 以下の引用は「歷史等にも往々有と覺えし。」までは底本では全体が二字下げ(原典は一字下げ)。]

 

年代記に、後堀川院寛喜二年、奥州石降如ㇾ雨。

[やぶちゃん注:「年代記」「鎌倉年代記」。鎌倉時代の年表風の歴史書。幕府滅亡の二年前の元弘元(一三三一)年頃の成立で、編者は鎌倉幕府吏員と推定される。

「後堀川院」(ごほりかはのゐん)は正しくは「後堀河」で、しかも当時は「院」ではなく、現役の天皇

「寛喜二年」一二三〇年。

「奥州石降如ㇾ雨」「奥州、石、降ること雨のごとし」。]

 

續日本紀(ぞくにほんぎ)に、光仁帝寶亀七年九月、是月每夜瓦石及塊自落内竪曹司及京中往々屋上、明而鋭ㇾ之、其物見在經二十餘日乃止。

[やぶちゃん注:「續日本紀」現行では「しょくにほんぎ」と読む。平安初期に編纂された勅撰史書で「日本書紀」に続く六国史の第二。菅野真道らが延暦一六(七九七)年に完成させた。文武天皇元(六九七)年から桓武天皇延暦一〇(七九一)年まで九十五年間を扱う。全四十巻。

「寶亀七年」(亀は底本は「龜」だが、原典は「亀」)七七六年。

「是月每夜瓦石及塊自落内竪曹司及京中往々屋上、明而鋭ㇾ之、其物見在經二十餘日乃止。」原典の訓点に従って書き下すと、「是の月、每夜、瓦石(くはせき)及ひ塊(つちくれ)自(おのづか)ら内竪(ないじん)の曹司(さうし)及び京中の往々(わうわう)・屋上(おくしやう)に落ち、明けて之を視れは、其の物、見在(げんざい)なり。二十餘日を經て、乃(すなは)ち止(や)む。」。]

 

五雜俎に、萬曆(ばんれき)壬子十二月廿五日申時、四川順慶府安州無ㇾ風無ㇾ雲、雷忽震動墜石六塊、其一重八斤、一重十五斤、一重十七斤、小者重一斤或十兩と見えたり。是等、同日の談なり。また石の降たる事は、春秋をはじめ、歷史等にも往々有と覺えし。

[やぶちゃん注:「五雜俎」明末の謝肇淛(しゃちょうせつ 一五六七年~一六二四年)の書いた考証随筆集。全十六巻。本邦でも江戸時代に広く愛読され、一種の百科全書的なものとして利用された。「五雑組」とも書く。

「萬曆(ばんれき)壬子」万暦四十年でグレゴリオ暦一六一二年。

「申時、四川順慶府安州無ㇾ風無ㇾ雲、雷忽震動墜石六塊、其一重八斤、一重十五斤、一重十七斤、小者重一斤或十兩」原典の訓点に従って書き下すと、「申の時、四川順慶府安州、風、無く、雲くして、雷(らい)、忽ち、震動す。石を墜(おと)すこと六塊(くわい)、其の一は重さ八斤、一は重さ十五斤、一は重さ十七斤、小なる者は重さ一斤或ひは十餘兩。」。「四川順慶府安州」は四川省南充市順慶区内か(ここ(グーグル・マップ・データ))。明代の一斤は約五百九十七グラム、一両は約三十七グラムであるから、最大のものは十キログラムを越える。当たったら、即死である。

「春秋」中国の歴史書で五経の一つ。]

 

 巣鴨邊は、なかんづく強氷(がうひよう)にて、或人、王子へ行(ゆく)迚(とて)、氷をさけて植木屋何某方へ立寄たるに、其大(おほき)さ尺計も有が落て碎けたり。余り珍敷(めづらしく)覺えて、辨當箱の中(なか)へ入來(いれきた)り、一時半程過て歸宅の後(のち)、右箱を明て見れば、解殘(とけのこ)り、未(いまだ)、茶碗ほど有たりと。此邊は、家根を打拔(うちぬく)所多く、七八寸ほどなるが降たる所、所々(しよしよ)に有(あり)と。

 

 大塚御厩畠(おんまやばたけ)の墓守の飼置(かひおき)たる鷄(にはとり)、雄の方、雹に打れて死せし由。

[やぶちゃん注:「大塚御厩畠」現在の文京区大塚五丁目附近の旧地名。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

 千駄木御鷹匠(おたかじやう)八木氏(やぎうじ)の庭に、餘程大成が降たり。手に取て見るに、中(なか)に黑きものあり。石にても有䌫(あるらん)とて、盆の上に置たり。解(とく)るに隨ひ、よく見れば、大黑の形を鑄付(いつけ)たる古錢(こせん)也。土石(どせき)の類(るゐ)は左も有べけれど、錢(ぜに)の出(いで)たるは奇なりとて、近隣よりは、皆(みな)見に行たるよし。

[やぶちゃん注:「千駄木」現在の文京区千駄木。ここ(グーグル・マップ・データ)。

 以下の想山の附言「いと珍敷事也。」までは、底本では全体が二字下げ。]

 

想山(しやうざん)云(いふ)。江戸の氷(ひよう)は、此(この)末に云置(いひおく)通り、中禪寺又は榛名の湖水より、騰蛇(とうじや)の卷上來(まきあげきた)る事と見えたり。既にこの氷中(ひやうちう)に有たる錢は、中禪寺の湖水中に久敷(ひさしく)沈み居(ゐ)たる錢と見えたり。毎年(まいねん)七月に至り、山禪定(やまぜんぢやう)とて、人々囘峰する時、此湖上(こしやう)をも舟にて巡(まは)り歩行(ありく)事にて、賽錢(さいせん)を水中へ投するものも多しといへば、夫(それ)を、彼(かの)騰蛇の卷上來りて、降(ふら)せしものと見えたり。左すれば、不審とするには及ばねども、いと珍敷(めづらしき)事也。

[やぶちゃん注:「山禪定」修験道に於いて、夏、日光の男体山登拝を中心とした回峰が行われるのを指していよう。]

 

 少しの事にて、板橋の先、戸田川(とだがは)邊は、雨ばらばらと降來りたる迄にて、雹はなしと也。

[やぶちゃん注:「戸田川」恐らくは荒川の左岸で北の埼玉県戸田市を縦断する支流を指すか、或いは荒川のこの附近での呼称とも思われる。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

 福山侯本郷丸山の屋敷内(うち)、伊澤良安庭へ降たる雹は、二百廿匁有たりと。同藩の婦人、衣類の上より二の腕を打れて、翌朝に至り、痛み甚敷(はなはだしく)、右良安、療治すと云。又、下男壹人、脚に當りて、足たゝずとも云り。

[やぶちゃん注:「福山侯」備後福山藩(藩主阿部氏)の中屋敷。現在の東大赤門の道を隔てた西側奥(「本郷丸山」は現在の本郷五丁目)にあった。

「二百廿匁」八百二十五グラム。]

 

 駒込富士前にては、三人迄、頭をうたれ怪我せし由。

[やぶちゃん注:現在の文京区本駒込にある駒込富士神社の前であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

 三河島の農人(のうにん)も頭を打れ、大ひになやみたるもの有と。

[やぶちゃん注:現在の荒川区荒川の三河島地区。この附近(グーグル・マップ・データ)。]

 

 淺草新鳥越邊も、眞白に成程ふり、中には、拳の大さなるも有たりと。

[やぶちゃん注:「淺草新鳥越」この中央付近と思われる(グーグル・マップ・データ)。]

 

 上野御本坊の御庭へ降たるは、壹貫拾匁餘有たる由。是は、同所小林氏の物語にて、慥成(たしかなる)事也と。

[やぶちゃん注:「上野御本坊」寛永寺。

「壹貫拾匁」約三キロ七百八十八グラム。]

 

 亀井戸邊も、團子(だんご)程の分(ぶん)ふりて、夫より段々東のかた、大きく成(かり)、行德(ぎやうとく)邊に至りては、大荒(おほあれ)にて人家損じ、つむじ風、卷來(まききた)りて、農人壹人卷揚(まきあげ)、遙過(はるかすぎ)て落(おつ)。夫より種々(しゆじゆ)手當致し遣(つかは)しけれども、息(いき)の有のみにて、言語(ごんご)も分らず、藥も通らずといえり。後、如何(いかゞ)致せしにや。是も慥成事也と。

[やぶちゃん注:「亀井戸」現在の江東区亀戸(かめいど)。ここ(グーグル・マップ・データ)。今までの報告例の中では最も東に位置する。]

 

 此日、不忍の池より龍卷(りゆうまき)出(いで)たりと、専(もつぱ)ら云ふらす。何にもせよ、水上(すゐしやう)一面に黑雲(くろくも)と成(なり)て恐ろしく、更に樣子は分らざりしよし。仲町(なかちやう)邊へは、鮒・魦(はや)・泥鰌(どじやう)の類(るゐ)多くふり、湯島の切通へは、大(おほき)さ尺餘の鯉を降らすと。これも慥成事なり。

[やぶちゃん注:「仲町」不忍の池の東南の直近の不忍通りを一本南に入った通り附近であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

 此日、惣躰(そうたい)、小日向小石川邊より、染井・巣鴨・谷中邊も、暫(しばらく)はすべて黑雲と成、物すごかりしといへり。

 

淺草堂前邊の者の云には、三軒町(さんげんちやう)へ【田原町(たはらまち)のうらなり。】きのふ、雷雨の最中、町家のうらへ、異獸(いじう)落(おち)たり。雷獸のごとく、前足のみ三本有て、跡足(あとあし)はなし。腹(はら)破れて死居(しにゐ)たりと云。又、頭(かしら)は猫の如く、身は鼬(いたち)のごときものとも云。今一人、その邊のものゝ咄には、私(わたくし)は見申さず候得ども、兒童の見來(みきた)るを聞(きく)に、兎(うさぎ)の子の未だ毛も生(はえ)ざるやうのものにて、前足のみ三本有(ある)にはあらずと云て、區(まちまち)なれども、死傷の異獸、落居たるには相違なき事と聞ゆ。去(さり)ながら、此程は雑説多(おほき)故、おぼつかなし。然(しかれ)ども、惣躰、爰にしるすは、皆、夫々に慥成咄のみを撰取(えらみとり)て、記し置たり。扨(さて)、人は心得もあれども、禽獸には其わかちなければ、鳥はあはて、馬は驚き、犬は狂ひて、打(うた)るゝも多かり。既に駒込土物店(つちものだな)にて荷付馬(につけうま)一疋、はねくるひたる有て、鎭めかたなく困りたりと。左も有べきことにこそ。

[やぶちゃん注:「三軒町」旧浅草三間町、現在の東京都台東区寿及び雷門。

「雷獸」ウィキの「雷獣」を引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『落雷とともに現れるといわれる日本の妖怪。東日本を中心とする日本各地に伝説が残されており、江戸時代の随筆や近代の民俗資料にも名が多く見られる。一説には「平家物語」において源頼政に退治された妖怪・鵺は実は雷獣であるともいわれる』。『雷獣の外見的特徴をごく簡単にまとめると、体長二尺前後(約六十センチメートル)の仔犬、またはタヌキに似て、尾が七、八寸(約二十一から二十四センチメートル)、鋭い爪を有する動物といわれるが、詳細な姿形や特徴は、文献や伝承によって様々に語られている』。『曲亭馬琴の著書「玄同放言」では、形はオオカミのようで前脚が二本、後脚が四本あるとされ、尻尾が二股に分かれた姿で描かれて』おり、『天保時代の地誌「駿国雑誌」によれば、駿河国益頭郡花沢村高草山(現・静岡県藤枝市)に住んでいた雷獣は、全長二尺(約六十センチメートル)あまりで、イタチに類するものとされ、ネコのようでもあったという。全身に薄赤く黒味がかった体毛が乱生し、髪は薄黒に栗色の毛が交じり、真黒の班があって長く、眼は円形で、耳は小さくネズミに似ており、指は前足に四本、後足に一本ずつあって水かきもあり、爪は鋭く内側に曲がり、尾はかなり長かったという。激しい雷雨の日に雲に乗って空を飛び、誤って墜落するときは激しい勢いで木を裂き、人を害したという』。『江戸時代の辞書「和訓栞」に記述のある信州(現・長野県)の雷獣は灰色の子犬のような獣で、頭が長く、キツネより太い尾とワシのように鋭い爪を持っていたという。長野の雷獣は天保時代の古書「信濃奇勝録」にも記述があり、同書によれば立科山(長野の蓼科山)は雷獣が住むので雷岳ともいい、その雷獣は子犬のような姿で、ムジナに似た体毛、ワシのように鋭い五本の爪を持ち、冬は穴を穿って土中に入るために千年鼹(せんねんもぐら)ともいうとある』。『江戸時代の随筆「北窻瑣談」では、下野国烏山(現・栃木県那須烏山市)の雷獣はイタチより大きなネズミのようで、四本脚の爪はとても鋭いとある。夏の時期、山のあちこちに自然にあいた穴から雷獣が首を出して空を見ており、自分が乗れる雲を見つけるとたちまち雲に飛び移るが、そのときは必ず雷が鳴るという』。『江戸中期の越後国(現・新潟県)についての百科全書「越後名寄」によれば、安永時代に松城という武家に落雷とともに獣が落ちたので捕獲すると、形・大きさ共にネコのようで、体毛は艶のある灰色で、日中には黄茶色で金色に輝き、腹部は逆向きに毛が生え、毛の先は二岐に分かれていた。天気の良い日は眠るらしく頭を下げ、逆に風雨の日は元気になった。捕らえることができたのは、天から落ちたときに足を痛めたためであり、傷が治癒してから解放したという』。『江戸時代の随筆「閑田耕筆」にある雷獣は、タヌキに類するものとされている。「古史伝」でも、秋田にいたという雷獣はタヌキほどの大きさとあり、体毛はタヌキよりも長くて黒かったとある。また相洲(現・神奈川県)大山の雷獣が、明和二年(一七六五年)十月二十五日という日付の書かれた画に残されているが、これもタヌキのような姿をしている』。『江戸時代の国学者・山岡浚明による事典「類聚名物考」によれば、江戸の鮫ヶ橋で和泉屋吉五郎という者が雷獣を鉄網の籠で飼っていたという。全体はモグラかムジナ、鼻先はイノシシ、腹はイタチに似ており、ヘビ、ケラ、カエル、クモを食べたという』。『享和元年(一八〇一年)七月二十一日の奥州会津の古井戸に落ちてきたという雷獣は、鋭い牙と水かきのある四本脚を持つ姿で描かれた画が残されており、体長一尺五、六寸(約四十六センチメートル)と記されている。享和二年(一八〇二年)に琵琶湖の竹生島の近くに落ちてきたという雷獣も、同様に鋭い牙と水かきのある四本脚を持つ画が残されており、体長二尺五寸(約七十五センチメートル)とある。文化三年(一八〇六年)六月に播州(現・兵庫県)赤穂の城下に落下した雷獣は一尺三寸(約四十センチメートル)といい、画では同様に牙と水かきのある脚を持つものの、上半身しか描かれておらず、下半身を省略したのか、それとも最初から上半身だけの姿だったのかは判明していない』。『明治以降もいくつかの雷獣の話があり、明治四二年(一九〇九年)に富山県東礪波郡蓑谷村(現・南砺市)で雷獣が捕獲されたと『北陸タイムス』(北日本新聞の前身)で報道されている。姿はネコに似ており、鼠色の体毛を持ち、前脚を広げると脇下にコウモリ状の飛膜が広がって五十間以上を飛行でき、尻尾が大きく反り返って顔にかかっているのが特徴的で、前後の脚の鋭い爪で木に登ることもでき、卵を常食したという』。『昭和二年(一九二七年)には、神奈川県伊勢原市で雨乞いの神と崇められる大山で落雷があった際、奇妙な動物が目撃された。アライグマに似ていたが種の特定はできず、雷鳴のたびに奇妙な行動を示すことから、雷獣ではないかと囁かれたという』。『以上のように東日本の雷獣の姿は哺乳類に類する記述、および哺乳類を思わせる画が残されているが、西日本にはこれらとまったく異なる雷獣、特に芸州(現・広島県西部)には非常に奇怪な姿の雷獣が伝わっている。享和元年(一八〇一年)に芸州五日市村(現・広島県佐伯区)に落ちたとされる雷獣の画はカニまたはクモを思わせ、四肢の表面は鱗状のもので覆われ、その先端は大きなハサミ状で、体長三尺七寸五分(約九十五センチメートル)、体重七貫九百目(約三十キログラム)あまりだったという。弘化時代の「奇怪集」にも、享和元年五月十日に芸州九日市里塩竈に落下したという同様の雷獣の死体のことが記載されており』(リンク先に画像有り)、『「五日市」と「九日市」など多少の違いがあるものの、同一の情報と見なされている。さらに、享和元年五月十三日と記された雷獣の画もあり、やはり鱗に覆われた四肢の先端にハサミを持つもので、絵だけでは判別できない特徴として「面如蟹額有旋毛有四足如鳥翼鱗生有釣爪如鉄」と解説文が添えられている』。『また因州(現・鳥取県)には、寛政三年(一七九一年)五月の明け方に城下に落下してきたという獣の画が残されている。体長八尺(約二・四メートル)もの大きさで、鋭い牙と爪を持つ姿で描かれており、タツノオトシゴを思わせる体型から雷獣ならぬ「雷龍」と名づけられている』(これもリンク先に画像有り)。『これらのような事例から、雷獣とは雷のときに落ちてきた幻獣を指す総称であり、姿形は一定していないとの見方もある』。『松浦静山の随筆「甲子夜話」によれば、雷獣が大きな火の塊とともに落ち、近くにいた者が捕らえようとしたところ、頬をかきむしられ、雷獣の毒気に当てられて寝込んだという。また同書には、出羽国秋田で雷と共に降りた雷獣を、ある者が捕らえて煮て食べたという話もある』(下線やぶちゃん)【2018年8月9日追記:前者は「甲子夜話卷之八」の「鳥越袋町に雷震せし時の事」。但し、原文では「獸」とのみ記し、「雷獸」と名指してはいない。しかし、落雷の跡にいたとあるので、雷獣でよろしい。後者は「甲子夜話卷之二」の「秋田にて雷獸を食せし士の事」で2016年10月25日に電子化注済み。】。『また同書にある、江戸時代の画家・谷文晁(たに ぶんちょう)の説によれば、雷が落ちた場所のそばにいた人間は気がふれることが多いが、トウモロコシを食べさせると治るという。ある武家の中間が、落雷のそばにいたために廃人になったが、文晁がトウモロコシの粉末を食べさせると正気に戻ったという。また、雷獣を二、三年飼っているという者から文晁が聞いたところによると、雷獣はトウモロコシを好んで食べるものだという』。『江戸時代の奇談集「絵本百物語」にも「かみなり」と題し、以下のように雷獣の記述がある。下野の国の筑波付近の山には雷獣という獣が住み、普段はネコのようにおとなしいが、夕立雲の起こるときに猛々しい勢いで空中へ駆けるという。この獣が作物を荒らすときには人々がこれを狩り立て、里の民はこれを「かみなり狩り」と称するという』。『関東地方では稲田に落雷があると、ただちにその区域に青竹を立て注連縄を張ったという。その竹さえあれば、雷獣は再び天に昇ることができるのだという』。『各種古典に記録されている雷獣の大きさ、外見、鋭い爪、木に登る、木を引っかくなどの特徴が実在の動物であるハクビシン』(ネコ(食肉)目ジャコウネコ科パームシベット亜科ハクビシン属ハクビシン Paguma larvata『と共通すること、江戸で見世物にされていた雷獣の説明もハクビシンに合うこと、江戸時代当時にはハクビシンの個体数が少なくてまだハクビシンという名前が与えられていなかったことが推測されるため、ハクビシンが雷獣と見なされていたとする説がある。江戸時代の書物に描かれた雷獣をハクビシンだと指摘する専門家も存在する。また、イヌやネコに近い大きさであるテンを正体とする説もあるが、テンは開発の進んでいた江戸の下町などではなく森林に住む動物のため、可能性は低いと見なされている。落雷に驚いて木から落ちたモモンガなどから想像されたともいわれている。イタチ、ムササビ、アナグマ、カワウソ、リスなどの誤認との説もある』。『江戸時代の信州では雷獣を千年鼬(せんねんいたち)ともいい、両国で見世物にされたことがあるが、これは現在ではイタチやアナグマを細工して作った偽物だったと指摘されている。かつて愛知県宝飯郡音羽町(現・豊川市)でも雷獣の見世物があったが、同様にアナグマと指摘されている』とある。なお、私の電子化訳注「耳嚢 巻之六 市中へ出し奇獸の事」もご覧あれかし。

「駒込土物店」現在の文京区本駒込一丁目にあった江戸の三大青果市場の一つ(後は神田・千住)。起源は元和年間(一六一五年~一六二四年)とされる。文京区公式サイトのこちらの解説によれば、『当初は近隣の農民が野菜を担いで江戸に出る途中、この地で休むのが毎朝の例となり、付近の住民が新鮮な野菜を求めたのが起こり』で、他にも『近くの富士神社の裏手は駒込ナスの生産地として有名であり、大根、にんじん、ごぼうなどの土のついたままの野菜(土物)が取り引きされた』とある。(天栄寺境内)ここ(グーグル・マップ・データ)。だから「荷付馬」が腑に落ちるというもんだ。]

 

 扨、氷(ひやう)の説(せつ)色々有(ある)中に、或人の記(き)に、先年、老人の説に、江戸へ降(ふる)氷(ひやう)は、多くは中禪寺の湖水の氷(ひやう)を、かのたつ卷の騰來(あげきた)りてふらすなりといヘり。また山崎美成(やまざきよしなり)の記に、雹は霰(あられ)の大ひなるものにて、その零(ふり)しこと史に見えたり。【書紀に、推古天皇三十六年夏四月壬午朔辛卯、雹零、大如桃子。壬辰雹零大如李子、自ㇾ春至ㇾ夏旱之【云々】、持統天皇五年六月朔、京師及郡國四十雨ㇾ氷、此後(このご)しばしば見えたり。】仍て奇とするにはたらねども、此大城(たいしやう)のもとに住み侍りては、かゝる事も、いともいとも珍敷(めづらしく)、後(のち)にきけば、其始(はじめ)は日光山のかたより雲起り、向ひかぜ勵敷(はげしく)、東南をさして雹をふらす事甚だしく、殊に駒込なる西教寺(さいきやうじ)の、駒山(くさん)が、墓所(はかしよ)へふりしを、手づから摸(も)したるは、重さ六匁計りにて、全く梅の花・牡丹の花のごとく、是を以他人(たにん)の云傳るもうべなひぬ。唐土(たうど)、元(げん)の世に零(ふり)し雹の其狀(そのかたち)は、龜のことく、兒(ちご)の如く、獅子のごとく、象のごとくありしとかや。

[やぶちゃん注:「山崎美成」(寛政八(一七九六)年~安政三(一八五六)年)は随筆家で雑学者。江戸下谷長者町の薬種商長崎屋の子で家業を継いだものの、学問に没頭して破産、国学者小山田与清(ともきよ)に師事、文政三(一八二〇)年からは随筆「海錄」(全二十巻・天保八(一八三七)年完成)に着手している。その間。文政・天保期には主として曲亭馬琴・柳亭種彦・屋代弘賢といった考証収集家と交流し、当時流行の江戸風俗考証に勤しんだ。自身が主宰した史料展観合評会とも言うべき「耽奇会」や同様の馬琴の「兎園会」に関わった。江戸市井では一目おかれた雑学者として著名であった(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「推古天皇三十六年夏四月壬午朔辛卯、雹零、大如桃子。壬辰雹零大如李子、自ㇾ春至ㇾ夏旱之【云々】、持統天皇五年六月朔、京師及郡國四十雨ㇾ氷」原典の訓点に従って読み下す。

   *

推古天皇三十六年夏四月壬午朔辛卯、雹(はく)、零(ふ)る。大(をほき)さ桃子(たうし)のごとし。壬辰、雹、零る。大さ李子(りし)のごとし。春より夏に至つて旱(ひで)りす【云々】。持統天皇五年六月朔、京師(けいし)及び郡國(ぐんこく)四十処に氷を雨(あめふ)らす。

   *

「推古天皇三十六年」は六二八年、「持統天皇五年」は六九一年。

「大城(たいしやう)」江戸城。

「西教寺(さいきやうじ)」原典ではるびは「さいきうじ」であるが、訂した。現在の文京区向丘(むこうがおか:旧駒込片町)にある浄土真宗涅槃山(ねはんざん)西教寺であろう。前身は常州那珂郡村松(現在の茨城県東海村)にあったものを寛永七(一六三〇)年に神田金助町に移し、また、明暦三(一六五七)年に現在地に移転している。東京大学農学部キャンパスの隣、旧中山道本郷追分の近く。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「駒山」不詳であるが、一つの推理として、後に本文に出、注も附した江戸後期の歌人隈川春蔭(くまかわはるかげ)のことではなかろうか? 彼の号は「駒山」だからである。識者の御教授を乞うものである

「手づから摸したる」これが本文でも後に語られ、また掲げられる挿絵のそれ。

「六匁」二十二・五グラム。

 以下の漢文引用は全体が二字下げ、原典は一字下げ。]

 

元史五行志に云、至元四年四月癸巳、淸州八里塘雨ㇾ雹大過於拳其形有如ㇾ龜者、有小兒、有獅象、有環玦、或楕如ㇾ卵、或圓如ㇾ彈、玲瓏有ㇾ竅白而堅、云々。

[やぶちゃん注:原典の訓点に従って書き下す。

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「元史五行志」に云、至元(しげん)四年四月癸巳、淸州(せいしう)八里塘(たう)、雹(はく)を雨(あめふ)らす。大(おほき)さ拳(こぶし)に過ぎたり。其の形、龜のごとき者有り、小兒のごとき者有り、獅(し)・象(ざう)のごとき者有り、環玦(くわんけつ)のごとき者有り、或ひは楕(だ)にして卵(らん)のごとく、或ひは圓(ゑん)にして彈(だん)のごとし。玲瓏(れいろう)として竅(あな)有り、白うして堅(かた)し。

   *

「元史五行志」は元代に書かれた正史の中の「志第三上 五行一」と「志第三下 五行二」のこと。「至元四年」一二六七年。「淸州八里塘」不詳。「玲瓏」玉(ぎょく)のように美しく輝くさま。冴えて鮮やかなさま。]

 

 按ずるに、漢籍(かんじやく)に載する所の説、多くはみな理(ことわ)りに拘泥して、其論ずる所はいかめしけれども、決して左にあらず。殊に、蜥蝪(せきやく)の水を含みて雹を仕出(しいだ)すといふに至(いたつ)ては、辨を待ず。走卒(そうそつ)・兒童といへども、はやく其妄誕(まうたん)なるをしらん。雨は、雲氣の冷際(れいさい)に薄(せま)りて凝(こつ)て降(ふる)ものなれども、雹は、全く、地中の氷(こほり)を水とゝもに、騰蛇(とうじや)の類(るゐ)、空中にまきて零(ふら)す所の物也。されば、雨のごとくにはあらで、そのふる所、隧(みち)ありて普ねからず。曾て聞(きゝ)けるは、上野國榛名山の麓に住(すめ)る農家にては、夏月、雹のふる事を、春來(しゆんらい)、早く知りて、田畑(でんはた)に其心がまへをする事とぞ。榛名山には、御手洗(みたらし)とて、大ひ成(なる)湖水あり。其湖水の冬氷りて、春に至り、中心より解(とく)るときは、雹なし。岸より解るときは、雹有とて、おそるゝよし。中心より解初(とけはじむ)れば、殘りなく解(とけ)、岸より解初(とけはじむ)るときは、中心の氷、其儘、水底(すゐてい)に沈み、夏月といへどもとけざるを、水と共に、かの騰蛇のまきてふらす也といへり。日光山の湖水も同じさまなるよし。こたび零(ふり)し雹は、中禪寺の湖水の氷(こほり)ならんといふ。これら、ゆめゆめ虛説にあらず。その麓の里人(りじん)、常に經驗する所なりと云。謝在抗云、雹似二是最之大者一、但雨ㇾ霰寒而雨ㇾ電不ㇾ寒、霰難ㇾ晴而霰易ㇾ晴如二驟雨一、然北方常遇ㇾ相ㇾ之、傳龍過則雹下四時皆有、余在二齊魯一、四五月間、屢見ㇾ之、不二必冬一也といへる、實に知言(ちげん)と云べし。

[やぶちゃん注:「蜥蝪(せきやく)」とかげ。

「辨を待ず」お話にならない。

「走卒」使い走りをする下僕。

「妄誕(まうたん)原典では左にもカタカナで「みだりなるいつはり」とルビする。意味は「言うことに根拠のないこと」或いはそうした話の意。「ばうたん(ぼうたん)」とも読む。

「冷際(れいさい)」鈴木牧之の名著「北越雪譜」の「初編卷之上」の冒頭に、『太陰、天と地との間に三ツの際(へだて)あり、天に近(ちかき)を熱際(ねつさい)といひ、中を冷際(れいさい)といひ、地に近(ちかき)を溫際(をんさい)といふ』とし、更に、『雲、冷際にいたりて雨とならんとする時、天寒(てんかん)甚しき時は雨(あめ)氷(こほり)の粒となりて降り下(くだ)る。天寒の強きと弱きとによりて粒珠(つぶ)の大小を爲(な)す、是を霰(あられ)とし、霙(みぞれ)とす。【雹は夏あり。その辯(べん)こゝにりやくす。】地の寒強き時は、地氣(ちき)、形をなさずして天に升(のぼ)る微温湯氣(ぬるきゆげ)のごとし。天の曇るは是れ也。地氣、上騰(のぼ)ること多ければ、天、灰色(ねずみいろ)をなして雪ならんとす。曇りたる雲、冷際に到り、先づ、雨となる。此時、冷際の寒気、雨を氷(こほ)らすべき力たらざるゆゑ、花粉を爲(な)して下(くだ)す、是れ、雪也』と述べている。雹の叙述を略されたのは痛いが、これで何となく意味は解るように思われるので引いておいた。

「御手洗(みたらし)とて、大ひ成(なる)湖水あり」榛名山の神を祀る榛名神社の御手洗沼である榛名湖のこと。

「謝在抗云、雹似二是最之大者一、但雨ㇾ霰寒而雨ㇾ電不ㇾ寒、霰難ㇾ晴而霰易ㇾ晴如二驟雨一、然北方常遇ㇾ之、相傳龍過則雹下四時皆有、余在二齊魯一、四五月間、屢見ㇾ之、不二必冬一也」底本は原典の判読を誤っている箇所があるので原典で訂した。原典の訓点に従って書き下す。

   *

謝在抗(しやざいがう)云、雹(はく)は是れ、霰(さん)の大ひなる者に似たり。但し、霰を雨(あめふ)らすは寒くして雹を雨らすは寒からず。霰は、晴れ難く、雹は晴れ易し。驟雨(にはかあめ)のごとし。然かるに北方(ほくはう)は常に之れに遇ふ。相い傳ふ、龍(りよう)、過ぐれば、則ち、雹、下(くだ)る。四時、皆、有り。余、齊(せい)・魯に在りて、四、五月の間(あひだ)、屢(しばしば)之れを見る。必しも冬ならず。

   *

「謝在抗」は明代の「五雑組」(先に既注)の著者謝肇淛の字(あざな)。

「齊」現在の山東省北部を中心とした地方名。

「魯」現在の山東省南部を中心とした地方名。

「知言」道理に適った言葉。]

 

 和訓栞(わくんしほり)曰。新撰字鏡(じかがみ)・和名鈔に、雹(ひよう)とよめり。逆散(ぎやくさん)の儀をもて、名づくる也といへり。霰をもよめり。※は吾邦の造字なり[やぶちゃん字注:「※」=(上)「雨」+(下)「丸」。]。萬葉集に、丸雪を義訓せり。今の俗、是れをヒヨウといふは、氷雨(ひようう)の音なるべし。陸氏(りくじ)が説に、雹は氷雨也と見えたり。駒山潮音雨雹紀事に云。文政十三年歳次庚寅閏三月念九午後、晴天忽然晦冥、迅雷兩三聲降ㇾ雹、半時餘、破ㇾ瓦穿ㇾ屋株草多敗、都下駒籠根津上野淺草之地、尤甚矣、其雹小者、如梅子栗實大者如ㇾ拳如ㇾ肬、每ㇾ塊有ㇾ文、如重瓣梅花、或似牡丹花、皆於中心一堅實、如水精白玉、外邊絁類花瓣、東叡山中所ㇾ降大者共二三十錢、或至五十錢、駒籠西教寺裏所ㇾ降大者六錢二分或六錢、橫量二寸三分、或三寸、皆有花文、乃是千歳之一奇事也。曾門稗雅曰、形全似玉珠、其粒皆三出、此唯合小者、形不ㇾ同今所ㇾ見大而有花文者上、乃錄見聞以傳後世云。

[やぶちゃん注:「和訓栞」一般には「わくんのしをり(わくんのしおり)」と助詞を補って読む。原型は江戸中期の国学者谷川士清(ことすが 宝永六(一七〇九)年~安永五(一七七六)年)の編著になる辞書。全九十三巻。安永六 (一七七七) 年から実に明治二〇(一八七七)年までの百年に亙って刊行された。本邦近世に於ける最大の国語辞典。以下、漢文の前までが、総てその引用なので注意されたい。しかも、サイト「電子資料館」の「古事類苑データベース」のこちらを見ると、

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あられ 新撰字鏡、和名鈔に雹をよめり、迸散の義をもて名くる也といへり、霰をもよめり、※は和俗の造字也、万葉集には丸雪を義訓せり、今俗これをひやうといふは、氷雨の音なるべし、陸詞が説に雹氷雨也と見えたり

   *

とあり、一部の漢字の誤りが判明する。

「新撰字鏡」平安時代の昌泰年間(八九八年~九〇一年)に僧の昌住が編纂したとされる、現存する最古の漢和辞典。寛平四(八九二)年に三巻本が完成したとされるが、原本や写本は伝わっていない。その三巻本を基に増補した十二巻本が同時期に作られたが、その写本が現存して伝わる。十二巻本の収録漢字字数は約二万千字に及ぶ。

「和名鈔」「和名類聚抄」承平年間(九三一年~九三八年)に源順(みなもとのしたごう 延喜十一(九一一)年~永観元(九八三)年)が編纂した辞書。

「逆散」底本も原典もこうなっているが、前注で示した通り、これは「迸散」が正しい。これは「ホウサン」と読み、「迸(ほとばし)る・飛び散る」の意である。雲からガツンと飛び散るの儀(義)というである。

「霰をもよめり」は「霰(あられ)」を「ひよう(ひょう)」とも和訓するということ。現在は区別している。気象学上は「霰(あられ)」は直径五ミリメートル未満の氷の粒、五ミリメートル以上のものは「雹(ひょう)」と区別する。即ち、違いは大きさだけであるから、この昔の通用は正しい。

「萬葉集に、丸雪を義訓せり」「義訓」は「戯訓」のこと。「万葉集」の用字法の特殊なもので、漢字の形態・意義をかなり自由に利用して遊戯的・技巧的或いは洒落のめしたような感じで読みを当てたものを指す。これは、「万葉集」の「卷第七」の「旋頭歌」で柿本人麻呂の歌として載るものの第一二九三番歌で、

 

 丸雪降 遠江 吾跡川楊 雖苅 亦生云 余跡川楊

 

 霰(あられ)降り

 遠(とほ)つ淡海(あふみ)の

 吾跡川(あとかは)楊(やなぎ)

 刈れども

 またも生(お)ふといふ

 吾跡川(あとかは)楊(やなぎ)

 

であるが、実は「丸雪」を「あられ」と読む戯訓はこれだけで他に例はないから、ここで取り立てて示すほど偉そうなものではない。

「陸氏(りくじ)が説」前注通り、ここは「陸詞」が正しい(まあ、意味上は「氏」で誤りとは言えないが)。而してこれは隋代の音韻学者陸法言(生没年不詳:名は「詞」又は「慈」)のことである。ウィキの「陸法言」によれば、彼は『漢字の発音の標準を定めるため、古来の韻書の記述を統合し』、六〇一年に、かの知られた、中国語の語学上のバイブルとも言うべき韻書「切韻」全五巻を編纂した人物である。

「駒山潮音雨雹紀事」不詳であるが、この「駒山」とは江戸後期の歌人隈川春蔭(くまかわはるかげ 寛政一三・享和元(一八〇一―)年?~天保八(一八三七)年)の号ではないか? 兄で歌人であった春雄と和歌の研鑽に山陽道の各地を旅したが、長崎で病いのため没したという(兵庫県赤穂郡上郡町(かみごおり)公式サイト内のに拠った)。

 以下、漢文を原典の訓点に従って書き下しておく。

   *

文政十三年、庚寅(こういん)に歳次(さいじ)す。閏(うるう)の三月念九午後、晴天、忽然、晦冥、迅雷、兩三聲、雹(はく)降らすこと、半時餘(よ)、瓦(かはら)破(わ)り、屋(おく)を穿(うが)ち、株草(ちうさう)多く敗(やぶ)る。都下(とか)駒籠(こまごめ)・根津・上野・淺草の地、尤も甚だし。其の雹(はく)、小なる者、梅子(ばいし)・栗實(りつじつ)のごとく、大ひなる者、拳(こぶし)のごとし。肬(こぶ)のごとし。塊(くわい)每(ごと)に文(もん)有り、重瓣(やえ)の梅花(ばいくわ)のごとく、或ひは牡丹花(ぼたんくわ)に似たり。皆、中心に於いて、一堅實(けんじつ)有り、水精白玉(ししやうはくぎよく)のごとし。外邊(ぐわいへん)、絁(はなは)だ花瓣(はなびら)に類(るゐ)す。東叡山中、降る所、大ひなる者、共(とも)に二、三十錢(せん)、或ひは五十錢に至る。駒籠西教寺裏(さいけうじり)に降る所、大ひなる者、六錢二分、或ひは六錢、橫に量(はか)るに二寸三分、或ひは三寸、皆、花文(くわもん)有り、乃(すなは)ち、是(こ)れ、千歳(せんざい)の一奇事(きじ)なり。曾門(そうもん)稗雅(はいが)曰く、「形(かたち)、全(また)く玉珠(ぎよくじゆ)に似(に)たり。」。其(そ)の粒(つぶ)、皆(みな)、三出(しゆつ)、此(こ)れ、唯(たゞ)、小(せう)なる者なるべし。形(かたち)、今(いま)、見(み)る所(ところ)、大(おほ)ひにして、花文(くわもん)有(あ)る者(もの)に同(をな)じからず。乃(すなは)ち、見聞(けんもん)を錄(ろく)して以(も)つて後世(こうせい)に傳(つた)ふ。

   *

「念九」「ねんく」。二十九日のこと。「念」は「廿」と音通であることに依る。

「半時」現在の約一時間。

「株草」草木。

「重瓣(やえ)」八重。

「一堅實(けんじつ)有り」一つの堅い核がある。

「東叡山」寛永寺。

「二、三十錢、或ひは五十錢」この「錢」は重量単位。一銭は三・七五グラムであるから、七十五~百十二・五グラム或いは百八十七・五グラム。

「六錢二分、或ひは六錢」二十三・二五或いは二十一・九グラム。

「二寸三分」ほぼ七センチメートル。

「曾門(そうもん)稗雅(はいが)」不詳。識者の御教授を乞う。そのために、どこまでが引用かも判らぬ。取り敢えず、一文までとした。

 

「皆(みな)、三出(しゆつ)」意味不詳。三つの角を持つ結晶のように見えるという意味か? 判らぬ。]

 

Syouzanhyo2

 

[やぶちゃん注:挿絵の左右はこの前後の本文であって、キャプションではないので注意されたい。]

 

 又、勝田氏(かつだうじ)の大雨雹行(たいうはくかう)の詩、甚だ具(つぶ)さなり。聞(きく)まゝに左(さ)に記(しる)す。呉々も、近來(きんらい)、聞及ばざる降氷(ばうひよう)なりき。

 

[やぶちゃん注:以下、漢詩は前後に一行空けた。]

 

   大雨雹行   勝田 獻

 

庚寅閏月春盡日、節入淸和陽景驕、向ㇾ晩天氣忽變更、寒威刺々生迅飈一、雷公怒擊散硬雨、明珠圓轉迸且跳、須臾怪雲蔽四野、林谷振動泣、大丸小丸破屋瓦、千矢萬矢下九霄、鳥雀飛回無ㇾ處ㇾ避、女兒錯愕互叫囂、忽疑馮夷發憤怒、手握神槌瓊瑤、更怪女媧補ㇾ天處、誤觸列宿斗杓、別有花紋麗可一ㇾ愛、三出五出巧於描、君不ㇾ聞昔時雨ㇾ雹如人頭、耳目鼻口婉含ㇾ嬌、天工奇絶不ㇾ可ㇾ測、甚勝人間費刻彫、安知天公好伎戲、別發祕藏無聊、人道此物非吉兆、陰氣肅殺傷稼苗、誰知大平無事朝、縱有災異忽氷消、只今四海無一事、此物何足ㇾ爲氛妖、雖ㇾ然祥異天所ㇾ戒、只恐嘉穀不豐饒、默禱皇天后土含和氣、五風十雨玉燭調。

[やぶちゃん注:原典の訓点に従って書き下す。一部の清音送り仮名を濁音化、改行して読み易くした。これ、基本は七言ながら、途中でどうしても七言では訓読出来ない箇所があり、かなり苦しんだ。とんでもない誤りを犯しているかも知れぬので、学術的には原典を必ず参照されたい。但し、私は私なりに詩想を感受出来たとは思っている。注を附け出すとドツボに嵌りそうなので附ささぬこととするが、したり顔をするわけでもないことは断っておく。

   *

 

   大雨雹行(たいうはくかう)   勝田 獻(かつだ けん)

 

庚寅(かういん)閏月(じゆんげつ)春盡(しゆんじん)の日

節 淸和に入る 陽景 驕(ほこ)る

晩に向つて 天氣 忽ち變更

寒威(かんゐ) 刺(し)々 迅飈(じんへう)を生ず

雷公 怒擊 硬雨を散ず

明珠(めいじゆ) 圓轉 迸(ほとばし)りて且つ跳(をど)る

須臾(しゆゆ) 怪雲 四野を蔽ふ

林谷(りんこく) 振動 山魈(さんせく) 泣く

大丸(ぐわん)小丸 屋瓦(おくぐわ)を破(わ)る

千矢(せんし)萬矢 九霄(きうせい)を下(くだ)る

鳥雀 飛回 避くる處無し

女兒 錯愕(さくがく) 互ひに叫囂(けいがう)

忽ち疑ふ 馮夷(へうい) 憤怒を發す

手に神槌を握つて 瓊瑤(けいえう)を碎き

更に怪しむ 女媧 天を補ふ處

誤つて列宿に觸れて 斗杓(とひやう)を墜(お)とすかと

別に花紋麗はししふして愛すべき有り

三出五出 描(ゑが)くより巧みなり

君 聞かずや

昔時(せきじ) 雹(はく)雨(あめふ)らすこと 人頭(じんとう)のごとく

耳目鼻口 婉(えん)にして嬌(けう)を含む

天工奇絶 測るべからず

甚だ人間(げん) 刻彫(こくちう)を費すに勝(まさ)る

安(なん)ぞ知らん 天公 伎戲(ぎげ)を好み

別に祕藏を發して無聊(むれう)を慰(い)するを

人は道(い)ふ 此の物 吉兆に非ずと

陰氣 肅殺 稼苗かべう)を傷(そこな)ふ

誰(たれ)か知らん 大平無事の朝(てう)

縱ひ災異有るも忽ち氷消(ひようせう)す

只今 四海 一事 無く

此の物 何ぞ氛妖(ふんよう)と爲すに足らん

然りと雖も 祥異(しやうい)は天の戒しむる所

只だ恐る 嘉穀(かこく)豐饒ならざるを

默(ぼく)して禱(いの)る

皇天后土(くわうてんこうど) 和氣を含み

五風 十雨 玉燭 調(とゝの)ふ

 

   *]

 

 又、天保七年【丙申】五月三日。伯耆の國大山(たいせん)より、一朶(いちだ)の黑雲(くろくも)起り來りて、但馬の國大屋谷(おほやだに)と云一谷(いちこく)へ【山間(やまあひ)の狹き所なれども長さ五里計も有所也と。】雹ふりたり。大ひなるは重さ四十匁餘、小なるは四五匁程にして、人は怪我も少なけれども、野飼(のがひ)の牛は斃(をち)たりとの事也。是は其時、其地へ行合居(ゆきあひゐ)し何某より聞たり。然(しかれ)ども、人には怪我なくして、牛の斃たりとは如何(いかゞ)と問(とふ)に、此時の雹は二三尺降積(ふりつみ)たる故、多くの雛牛(ひなうし)などは斃たるも多かりしときく。又、伯耆の大山よりは、因幡一國を隔てゝ、その間(あ)ひ廿餘里も有(あれ)ども、其道通(みちどほ)りは、少しも雹はふらずして、此所(このところ)へ來りて、斯(かく)仰山(ぎやうさん)に降たるは、一奇事(いつきじ)也といへり。

[やぶちゃん注:「天保七年【丙申】五月三日」一八三六年六月十六日。

「大屋谷」現在の養父市大屋町附近か。ここ(グーグル・マップ・データ)。大山は西に百キロメートル弱。

「四十匁」百五十グラム。

「四五匁」十五グラムから十九グラム弱。

 

 以上、現在の気象学から見れば雹発生の元などには誤りもあるものの、雹被害の詳細な記録として実に興味深いものである。私は結構、面白く読んだ。]

 

 

 

 想山著聞寄集卷の三 終

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