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2017/05/30

南方熊楠 履歴書(その44) 遠近法に従わない絵の教訓

 

Smunakatasannjysointohune

 

 小生前般来申しのこせしが、三神と船はこんなふうに、船が視る者に近いでも三神が見る者に近いでもなく、視る目より同じ近さにある体(てい)に画くが故実と存じ候。しかるときは、会社を主とせるにも連合会を主とせるにもなく、はなはだ対等でよろしかりしことと存じ候。しかし、今はおくれて事及ばざるならん。

[やぶちゃん注:「小生前般来申しのこせしが」本書簡の冒頭でも宗像三女神の話はしているが、それではなく(船の話はそこにはない)、「南方熊楠コレクション」の注によれば、大正一三(一九二四)年『十一月二十九日付矢吹宛書簡、通称「棉神考」の補足をさす』とある。私は全集を所持せず、この遠近法に従わない画法と、矢吹が勤める日本郵船と大日本紡績連合会の関係についての判り易い注をすることは出来ない。悪しからず。冒頭及び私の注は僅かながら参考にはなるものとは思う。それにしても、二つの集団の対等性を諷喩するに、非常に面白く、厭味でない謂いと挿画であると私は思う。]

 

 小生は他の人々のごとく、何年何月従何位に叙(じょ)し、何年何月いずれの国へ差遣(さけん)されたというような履歴碑文のようなものはなし。欧米で出した論文小引は無数あり。それは人類学、考古学、ことには民俗学、宗教学等の年刊、索引に出でおるはずなり。帰朝後も『太陽』、『日本及日本人』へは十三、四年もつづけて寄稿し、また『植物学雑誌』、『人類学雑誌』、『郷土研究』等へはおびただしく投書したものあり。今具するに及ばず。もっとも専門的なは日本菌譜で、これは極彩色の図に細字英文で記載をそえ、たしかばできた分三千五百図有之(これあり)、実に日本の国宝なり。これを一々名をつけて出すに参考書がおびただしく必要で、それを調(ととの)うるに基本金がかかることに御座候。

[やぶちゃん注:「太陽」博文館が明治二八(一八九五)年一月に創刊した日本初の総合雑誌。「南方熊楠コレクション」の注によれば、明治四五(一九一二)年『一月号「猫一疋の力に憑って大富となりし人の話を寄稿、その後大正三』(一九一四)『年より毎年の干支に関する史話と伝説、民俗を寄稿した』(「十二支考」のこと。但し、「鼠に関する民俗と信念」(子)については出版者の都合(不詳)で掲載されず、部分的に『民俗学』及び『集古』(明治二九(一八九六)年十一月に考古と歴史を愛する趣味人の集りである「集古会」の会報『集古會誌』として創刊、後に『集古』と改称して昭和一九(一九四四)年七月まで続いた雑誌。蔵書印譜・花印譜・商牌集の連載物、稀覯書の紹介、伝記資料の翻刻、会員書誌の随筆などを掲載した)に発表された(現在、我々が読めるものは『太陽』のために書かれた一括版に、分割されたものが挿入されたものである)。なお、全十一篇で「牛」(丑)は存在しない。しばしば幻の最後の「十二支考」として都市伝説的に語られることあるが、「牛」についての論考は準備は進められながらも遂に陽の目を見ることはなかったのが事実である)。『太陽』は大正デモクラシーの世相に乗り遅れ、昭和三(一九二八)年二月まで計五百三十一冊を発行して廃刊した。

「日本及日本人」(にほんおよびにほんじん)は明治四〇(一九〇七)年一月から昭和二〇(一九四五)年二月まで国粋主義者が創始した政教社から出版された、言論の主とした国粋主義色の強い雑誌。前半は思想家三宅雪嶺が主宰した「南方熊楠コレクション」の注によれば、明治四五(一九一二)年『三月号「本邦詠梅詩人の嚆矢」ほかを投稿、没年まで寄稿を続けた』とある。「政教社」も参照されたい。

「植物学雑誌」日本植物学会名義で牧野富太郎が明治二〇(一八八七)年二月に友人らと創刊した植物学の学術雑誌。「南方熊楠コレクション」の注によれば、明治四一(一九〇八)年『九月「本邦産粘菌類目録」を掲載』が最初の投稿らしく、創刊号から購読していたが、明治二二(一八八九)年『五月から会員となったことがうかがわれる』とある。当時の熊楠はアメリカのアナバー在であった。なお、牧野は熊楠が日本学術雑誌にろくな論文を出していないことを言いつのって、彼を学者として認めていなかった節がある。苦学独歩の牧野にして非常に残念な事実である。

「人類学雑誌」「南方熊楠コレクション」の注では、日本人類学会が明治四四(一九一一)年四月に創刊したとするが、自然人類学者坪井正五郎(彼は南方熊楠と柳田国男を結びつける仲立ちとなった人物でもある)を中心に運営されていた「東京人類学会」の機関誌『人類学雑誌』が前身であり、それは明治一九(一八八六)年の創刊である。熊楠は『明治四十四年六月号「仏教に見えたる古話二則」ほかを寄稿。以後しばしば寄稿している』とある。

「郷土研究」柳田國男らが郷土研究社から大正二(一九一三)年三月に創刊した民俗学雑誌で、創刊当時から熊楠は精力的に投稿した。「南方熊楠コレクション」の注によれば、同年『四月号「善光寺参りの出処」ほかを寄稿、以後大正六年、同誌の休刊まで小品を夥しく投じた』とある。

「日本菌譜」キノコの自筆彩色図譜。遂に刊行することは出来なかった。長女南方文枝氏によって後にその一部が「南方熊楠菌誌」全二巻(昭和六二(一九八七)年~昭和六四・平成元(一九八九)年)として公刊され、別に実寸大複製になる「南方熊楠 菌類彩色図譜百選」(エンタープライズ社一九八九年刊)も刊行されている。この辺りの経緯は紀田順一郎氏の「南方熊楠─学問は活物で書籍は糟粕だ─」の「柿の木から発見した新種」及び「日々これ観察」の章を参照されたい。]

 

 また仏国のヴォルニーの語に、智識が何の世の用をもなさぬこととなると、誰人も智識を求めぬと申され候。わが国によく適用さるる語で、日本の学者は実用の学識を順序し整列しおきて、ことが起こるとすぐ引き出して実用に立てるという備えはなほだ少なし。友人にして趣意書を書きくれたる田中長三部氏の語に、今日の日本の科学は本草学、物産学などいいし徳川時代のものよりはるかに劣れりとのことなり。これはもっともなことで、何か問うと調べておく調べておくと申すのみ、実用さるべき答えをしかぬる人のみなり。小生はこの点においてはずいぶん用意致しあり、ずいぶん世用に立つべきつもりに御座候。箇人としても物を多くよく覚えていても、埒(らち)もなきことのみ知ったばかりでは錯雑な字典のようで、何の役に立たず。それよりはしまりのよき帳面のごとく、一切の智識を整列しおきて惚れ薬なり、処女を悦ばす剤料なり、問わるるとすぐ間に合わすようの備えが必要に御座候。

[やぶちゃん注:「仏国のヴォルニーの語に、智識が何の世の用をもなさぬこととなると、誰人も智識を求めぬ」「ヴォルニー」なり人物自体が私には不詳。識者の御教授を乞う。

「しまりのよき帳面のごとく」これは前の女性器のそれを洒落てあることは間違いない。]

 

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