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2017/05/13

南方熊楠 履歴書(その32) 熊野習俗 / 隣家との攻防戦

 

 御承知の通り紀州の田辺より志摩の鳥羽辺までを熊野と申し、『太平記』などを読んでも分かるごとく、日本のうちながら熊野者といえば人間でなきように申せし僻地なり。小生二十四年前帰朝せしときまでは(実は今も)今日の南洋のある島のごとく、人の妻に通ずるを尋常のことと心得たるところあり。また年ごろの娘に米一升と桃色のふんどしを景物(けいぶつ)として、所の神主または老人に割ってもらうところあり。小生みずからも、十七、八の女子が柱に両手をおしつけ、図

 

Taneusukitutekudanse

 

のごとき姿勢でおりしを見、飴(あめ)を作るにやと思うに、幾度その所を通るもこの姿勢ゆえ何のことか分からず怪しみおると、若き男が鬮(きじ)でも引きしにや、おれが当たったと呟(つぶや)きながらそこへ来たり、後よりこれを犯すを見しことあり。また熊野の三個の最難所といわるる安堵ケ峰に四十余日、雪中に木小屋にすみ、菌類を採集中、浴湯場へ十四、五の小女(こむすめ)、小児(こども)を負って来たるが、若き男を見れば捉えて「種臼(たねうす)切って下んせ」と迫る。何のことか分からざりしが、女陰を臼に譬えしことは仏経にも多く例あれば、種臼とは子をまく臼ということと悟り申し候。夫婦のことに関してすらこんな乱坊(らんぼう)な所ゆえ、他は推して知るべしで、今も熊野の者は行儀の作法のということを知らず。

[やぶちゃん注:「紀州の田辺より志摩の鳥羽辺までを熊野と申し」熊野は古代の熊野国が律令制下に紀伊国に編入させて成立した牟婁郡(むろぐん)とほぼ一致する。牟婁郡は現在の和歌山県西牟婁郡・東牟婁郡・新宮市の全域と田辺市の一部に、三重県の北牟婁郡・南牟婁郡・尾鷲市・熊野市の全域と度会郡大紀町の一部を加えた非常な広域(紀伊国及び南海道で最大面積相当)を有する郡であった。

「『太平記』などを読んでも分かるごとく、日本のうちながら熊野者といえば人間でなきように申せし僻地なり」例えば、「太平記」(現行流布本で全四十巻。作者・成立時期不詳。但し、十四世紀中頃までに後醍醐天皇崩御が描かれる巻二十一辺りまでの部分を天台僧「五国大師」(後伏見・花園・後醍醐・光厳・光明天皇の五帝に戒を授けたことによる呼称)円観慧鎮(えちん 弘安四(一二八一)年~正平一一/延文元(一三五六)年)が記し、後半を室町幕府と密接な関わりを持つ僧らを中心に編纂、その原型がやはり同宗派系の僧侶らの手によって増補改訂されて、正平二五・建徳元/応安三(一三七〇)年頃までには現在の四十巻本が成立していたと推定されている(ここはウィキの「太平記」等に拠った)の「卷第五」の「大塔宮(おほとふのみや)熊野落ちの事」では、大塔宮護良(もりなが)親王の夢枕に童子が一人来たって、「熊野三山(さんざん)の間は尚(なほ)も人の心、不和(ふわ)にして大儀成(なり)難し。」と諫めるシーンが出る。この「尚」は当時現在の政治的人心状況を指すのではなく、土地柄、今も熊野の辺りは野蛮で人心が乱れているという謂いと読める。「卷十七」の足利尊氏の延暦寺攻略を描く「山攻めの事付(つけたり)日吉神託の事」で山攻めに参加する熊野八庄の庄司の軍兵は一軍、総て黑ずくめの異様な出で立ちであり、その戦闘シーンでは各人を「鬼歟(か)神と見へつる熊野人(くまのひと)」とか、「是も熊野人歟と覺へて、先(さき)の男」(前述の鬼か神かと見まごう武士)「に一かさ倍(まし)て、二王(にわう)を作損(つくりそん)じたる如(ごとく)なる武者」などとおよそ人間離れした者どもとして描いている。

「景物(けいぶつ)」添え物。景品。

「割ってもらう」破瓜(はか)してもらう。性交して貰うことで処女を喪失させること。処女権を奪取する権限が配偶者となる者以外にある風習は、日本の民俗社会では古くから存在し、実際には近代まで続いた。ウィキの「初夜権」によれば、『古代の神道において、神と交流できるのは、男性であれば神主、女性であれば巫女のみであった。したがって、まだ精通経験のない男性や童貞の男性、初潮経験のない女性や処女の女性は、神や共同体の所有物であり、彼らを成人の社会へ導けるのは神主や巫女のみとされた。ここから、処女や新婦の女性を臨時的に巫女と同等に見なし、神の代行役である神主や媒酌人が性交することで神の怒りや厄災を回避したとする説がある。また、こういった考え方を受け継いだ風習が近代前後まで各地に残っていたとする説も多い』とあり、中山太郎は「日本婚姻史」(昭和三(一九二八)年刊)で、『奈良時代の「日本書紀」(允恭紀)や平安時代の「本朝文粋」(意見十二箇条)などを事例に挙げ、神主や「座長(かみのくら)が処女を要求できた」とする説を紹介しつつ、「一種の呪術として処女膜を破る儀式」などが、現代では一般的に解釈される初夜権と同一視されがちだが「似て非なるものであることを注意されたい」と述べている』。『一方で、民俗学者の折口信夫は』大正一五(一九二六)年に『雑誌「人生創造」(人生創造社)に発表した「古代研究」の中で、少なくとも奈良時代以前の神主は初夜権と見なしてよい権利を持ち、現人神(あらひとがみ)と見なされた豪族などは「村のすべての処女を見る事の出来た風(確認することが可能だった世情)」が、近代まで残っていたと述べている。また、朝廷に従える采女(うねめ)や「巫女の資格の第一は神の妻(かみのめ)となり得るか」どうか、つまり処女であるかどうかが重視されており、たとえ常世神(とこよのかみ、神の代理役)であっても現実的に貞操を守り続けることは困難であったため、処女や新婦は一時的に「神の嫁として神に仕へて後、人の妻(ひとのめ)となる事が許される」ような儀式へと変化し、これらが「長老・君主に集中したもの」が初夜権と同等であっただろうと述べている。また、「神祭りの晩には、無制限に貞操が解放せられまして、娘は勿論、女房でも知らぬ男に会ふ事を黙認してゐる地方」などもあったため、当時の性に対する感覚や処女の立場、初夜権の発生原因などを理解しないと「古事記・日本紀、或は万葉集・風土記なんかをお読みになつても、訣らぬ処や、意義浅く看て過ぎる処が多い」とも述べている』とある。以下、リンク先には「近代以前」及び「近代以降」の初夜権やその名残りとして記録された事例が掲げられてある。さらに、このウィキの記者はまさに南方熊楠のこの「履歴書」のこの部分を「参考」として掲げて(快哉!)、『「割ってもらう」とは破瓜を意味し、「おりしを見」とは「折り敷き(おりしき)」と呼ばれる姿勢で「片膝立ちになってみせて」という意味である。ただし、これを以って南方自身が初夜権であると指摘しているわけではなく、当時の性交経験の年齢が現在よりも格段に低かったことなども考慮すると、くじ引きに当たった男性が犯した「十七、八の女子」が処女だったのかどうなのかは疑問も残る。実際、この記述の直後に、「十四、五に見える少女」が赤子を背負いながらに若い少年に「種臼(たねうす)切ってくだんせ」と頼む様子も見たことがあると述べている。「種」は「子種(こだね、男性器)」であり、「臼」を「女陰(にょいん、女性器)」として、仏典の事例から「悟り申した」と推測している』。また、熊楠は大正一〇(一九二一)年に『雑誌「太陽」(博文館)で発表した随筆「十二支考」の項目「鶏に関する伝説」の中では、カール・シュミットの「初婚夜権」を手初めに様々な初夜権の事例を挙げている』。『これは、南方が「読んだ」ことのある古今東西の文献から紹介されており、文中で雑多に列挙しながら「奇抜な法じゃ」や「処女権の話に夢中になってツイ失礼しました」と茶化すような記述もあって、その直後には続けて「女の立ち尿(たちいばり、立ち小便)」の歴史について脱線してしまうような破天荒な構成にもなっているため、その真偽までは不明である』とし、『以下、「鶏に関する伝説」で紹介された初夜権の事例を』インド・ヨーロッパ・中米・中国・日本に分けて簡単に解説している。中国まではリンク先或いは原当該論文(「青空文庫」のこちらで読める)で読んで戴くとして、当該ウィキの「日本」のパートを引いておくと、明和八(一七七一)年『版、増舎大梁の『当世傾城気質』四」にて、「藤屋伊左衛門(ふじやいざえもん)が諸国で見た奇俗」を述べており、結婚式の「振舞膳(ふるまいぜん)の後(のち)我女房を客人と云々(うんぬん、その他に色々あった)」という。「幼き頃まで紀州の一向宗の有難屋(ありがたや、神仏を盲信する人々)」であったため、「厚く財を献じてお抱寝(だきね)と称し、門跡(神社仏閣など)の寝室近く妙齢の生娘を臥せ(がせ、ふせ、寝る)させもらい、以て光彩門戸(こうさいもんこ、最初の手習い)に生ずと大悦び」するような風習だったという』。『和歌山県にある「勝浦港では年頃に及んだ処女を老爺に托して破素(はす)してもらい」、返礼として「米や酒、あるいは桃紅色の褌(ふんどし)」を渡したという』(本記載内容と同じ)。『「藤沢(藤沢衛彦)君の『伝説』信濃(信濃国)巻に百姓の貢米(ぐまい)を責められて果す事が出来ないと、領主は百姓の家族の内より、妻なり、娘なりかまわず、貢米賃(ぐまいちん)というて連れ来って慰んだ」という』とある。

「飴(あめ)を作るにや」この女の姿勢は何かを踏んで潰しているように見える。しかし、調べて見たが、古式の飴作りの行程で、このような作業は見当たらない。蒸した米を用いたが、それを踏んで潰すような行程は見当たらない。識者の御教授を乞う

「熊野の三個の最難所といわるる安堵ケ峰」和歌山県と奈良県の県境沿いに位置する果無(はてなし)山脈にある安堵山(あんどさん)。標高一一八四メートル。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「果無山脈」(ファンジー物にでもありそうな名前の由来はリンク先をどうぞ)によれば、『後醍醐天皇の王子・護良親王が、元弘の変の際、鎌倉幕府の追討を逃れて十津川村方面へ向かっている時、「ここまで来ればもう追手もないだろう」と安心したという故事にちなむ』とある。「最難所」は他の二つはよく判らないが、まず一つは「雲取越」(くもどりこえ:「大雲取越」(おおぐもとりごえ:那智山から小口(こぐち:現在の新宮市熊野川町)までで、舟見峠・石倉峠・越前峠と標高八百メートル前後の三つの峠の登り降りを繰り返しながら結ぶルート)と後半の「小雲取越」(こぐもとりごえ:小和瀬(こわぜ:新宮市熊野川町)から請川(うけがわ:田辺市本宮町)を結び、熊野本宮大社に至るルート)をセットにしたもの。場合によっては以上の全「雲取越」を最難所とする。総延長は三十キロメートルに及ぶ。以上は主にウィキの「雲取越に拠った)であろうし、今一つは古来「西国一の難所」と言われた「八鬼山(やきやま)道」(尾鷲市矢浜大道から同市三木里町へ下るルート。)かと私は思う。誤りであれば、お教え戴きたい。

「湯浴場」「ゆあみば」。温水のある浴場のようだが、現行の航空写真を見る限り、この安堵山周辺はかつては深山幽谷であったと思しく、人家があった様子さえない。或いは、熊野詣での古道としては明治末から大正初期(この菌類採取の時期が不明のためかく示した)頃までは、そうした巡礼者を接待する古い宿などがあったものか? 識者の御教授を乞う。]

 

 これは昔話のようだが、上野(うわの)という所(紀州の最南端にて無線電信局のある岬なり)に喜平次という旧家あり(旧家といっても元禄ころの地図にこの地名さえ見えぬほどゆえ、米国の旧家と斉(ひと)しく知れたものなり)、今も多額納税者なり。この家の老主婦がある年本願寺とかへ参るとて、自家の船に乗り大阪の川口に到りしに、たまたま暴風起こり諸国より集まりし船舶大いに混雑するを見て、この老婆が、みなみな静まれ、喜平次の船じゃ喜平次の船じゃと呼びしという。熊野の小天地で勢いあればとて、天下の船場処たる大阪の川口で、みなみな静まれとて名乗りしも、遠州浜松の町通り同然広いようで狭きのはなはだしきものと、後年まで万人の諺となり、笑うところとなりおる。

[やぶちゃん注:「上野」現在の和歌山県東牟婁郡串本町(くしもとちょう)潮岬(しおのみさき)。ここ(グーグル・マップ・データ)。サイト「み熊野ねっと」内「紀伊すぽっと」の「上野浦:現・和歌山県東牟婁郡串本町潮岬」に「紀伊續風土記」(紀州藩が文化三(一八〇六)年)に、藩士の儒学者仁井田好古(にいだこうこ)を総裁として編纂させた紀伊国地誌。編纂開始から三十三年後の天保一〇(一八三九)年)完成)の「上野浦」の現代語訳が載るが、そこには何と! 最後に『地士』(土地の著名士)として『鈴木喜平次』の名が挙げられてある!

「遠州浜松の町通り」これは遠江国(現在の静岡県の大井川以西)が侠気が高く、粗暴な連中が多いとされたことから譬えたものであろう。]

 

Kumagusuteiryoudonarinozu

 

[やぶちゃん注:挿絵のキャプションは右(及び上から下へ)から、

「北隣リノ宅」

「小生ノ宅地」

「書庫」「居宅」

「研究室」「小生ノ袋長屋」

「小生ノ宅地」(庭部分の中央に書かれてある)

「試驗畑」(長方形三つに指示線で)

「南隣ノ宅ノ長屋」

「マド」((イ)の指示線の下にあり、上下二箇所の短い縦線(窓)を指している)

「南隣ノ宅」

である。右側が「北」であるから、南隣直近に二階屋が建つと試験畑に日が当らなくなるという意味が分かる。]


Mekakusi

 それに違わず小生南隣に移り来たりし男も、川添村とて何とも知れぬ僻邑の生れで、わずかな成り金となりたればとて、他人のことを一際(いっさい)かまわぬものなり。それが小生の隣宅を買い移り来たりてのち、その長屋(前図(イ))で蜜柑箱の製造を始める。この長屋に窓二つあって小生宅の後園に向かう。これは成規によれば隣宅の内部を見るはよろしからぬことゆえ、空気だけ通して眼視るを得ざるように目かくしを設くべきものなり。しかるに、これまで南隣の宅に住せし人は小生の知人にもあり、礼儀をも心得たる人ゆえ、かつは小生よりも久しく住せし人にて、もとこれらの隣接せし三家は一人の住宅たりしゆえ、かかるこむつかしきことを要せず。拙方の者どもが後園に出れば南隣の人が長屋の窓をしめきり、拙方の者どももまた長屋に人ありと見るときは、斟酌(しんしゃく)してなるべく近づかざりしなり。しかるに件(くだん)の成り金がミカン箱製造を始めてより、立ちかわり入れかわり、どこの人とも知れぬ者を傭い来たり、長屋の窓を終日開けはなして拙方を自由自在に見通すから、子女ども恥じて後園に出ること能わず。幾日経ってもこの次第ゆえ、小生その窓辺にゆき、你(なんじ)らここよりわが園内をのぞくなと言いしに、それより事起こって、この南隣の者が右の長屋(二階なしの低きもの)を高さ二丈ばかりの二階立ちに改築せんとす。

[やぶちゃん注:「川添村」かつて和歌山県西牟婁郡にあった村で、現在の白浜町の東端、日置川の中流域及び同支流である将軍川の流域に相当する。この附近(グーグル・マップ・データ)。

「僻邑」「へきゆう」。僻地の村。

「成規」この語は本来は「成文化された規則」の意であるが、ここは寧ろ、判例法に基づく、他人の住居を妄りに覗いてはならぬという「礼儀」「一般常識」の謂いである。

「眼視る」「めみる」「まみる」とでも訓じているか。或いは二字で「み」と当て訓しているのかも知れぬ。

「斟酌(しんしゃく)」相手の事情・心情などを汲み取ること。「斟」も「酌」も「汲む」の意。因みに、最近、馬鹿者どもばかりの国会でオール馬鹿どもが悪義で使っている「忖度(そんたく)」という語は「忖」も「度」も「量(はか)る」の意であって、「他人の気持ちをおしはかること・推察」という至ってフラットな意味である。馬鹿どもが国語を歪曲することに堪えがたい。脱線であるが、どうしても言っておきたい。

「子女ども」この隣りが買われた当時(大正九(一九二〇)年)は長男熊弥が満十三、長女文枝は九歳であった。

「二丈」六メートル六センチ。]

 

Rinkazoutiku

 

 左様さるると五年このかた試験し来たりし前述の畑は冬三月間(みつきかん)全く日光が当たらず、試験ができなくなる。よって抗議を申し込みしも聞き入れず、止むを得ず和和歌山に登り、当時の県知事小原新三氏に頼み、同氏より長さ三尺ばかりの長文の諭書を出し、郡長、学務課長をして説諭せしめしに、表面半ば聞き入れし体(てい)を装い、せっかく材木を集めたことゆえまるで工事を止むることはならざるも、図のごとくロロロなる旧長屋をイイイなる高き二階立ちにするに正中の処だけは大分低くすべし、しかる時は日光が多少畑に及ぼし、あまりに全く冬中畑に及ぼさぬということなかるべしとのことで、イイの点において構造組み立ての棟を切って見せる。よって学務課長らも安心して県庁へ引き上げ、小生もまずはやや安心して外出せし間に、隣主多くの人足を急に集め、件(くだん)の一度切ったる棟をつぎ合わせ、全く二丈ばかりの高さの建築を立てたり。これがため小生の試験畑はまるで無効のものとなり、累年の試験は全廃となり申し候。

[やぶちゃん注:太字「イイ」は底本では傍点「ヽ」。

「小原新三」(おはらしんぞう 明治六(一八七三)年~昭和二八(一九五三)年)は当時、就任したばかりの和歌山県知事。以下、ウィキの「小原新三によれば、東京府出身で新潟県庶務課長を務めた小原実の長男として生まれた。第一高等学校から東京帝国大学法科大学政治学科を明治三〇(一八九七)年に卒業、同年十二月に『文官高等試験行政科試験に合格。貴族院事務局に入局した』。翌年、『貴族院事務局書記官兼内務省参事官に就任。以後、青森県事務官、奈良県内務部長を歴任』、明治四三(一九一〇)年十月、『朝鮮総督府に転じ』て『内務部地方局長に就任。さらに、忠清南道長官を経て』、大正五(一九一六)年には『総督府農商工部長官とな』った。その後、大正九(一九二〇)年二月に和歌山県知事に就任。『不況下での緊縮予算の編成を実施。財政難のなか』、大正十二年に行われた郡制廃止に伴い、『郡立施設の県立への移管を進めたが、県吏員の人員整理や消耗品等の減額を余儀なくされた』。しかし同年六月に新潟県知事に転任、大正一四(一九二五)年十月に知事を依願免本官して退官している。『その後、松江市に隠棲したが』、昭和六(一九三一)年には『愛国婦人会事務総長に就任し』、昭和一七(一九四二)年まで在任している。

「諭書」訓ずるなら「さとしがき」、音なら「ユショ」。説諭説得を成した勧告書の謂いであろう。後の文(三段落後の冒頭)から見ても、これは法的な正式手続きを踏んだ命令書や通達ではなく、一種の和解提案を促すためのものと思われる。]

 

 しかしてもっとも不埒なことは、この高き建築と拙宅界限との間に少しも空間をおかず、ただちに限界を摩して右の建築を立てたるゆえ、人足ら棟上(むねあ)げの時足場の余裕少しもなければ拙方の邸地内に多人入り来たり、件(くだん)の試験畑を蹂躙し、小生不在なるゆえ妻子が咎めると悪口雑言し、はなはだしきは小便をたれちらす。(その人足というはあまり人々の好まぬ人群といえば、そのいかようの人群なるかは貴察あるべし。)

[やぶちゃん注:「多人」「たにん」と読んでおくが、正直言うと「たにんず」(多人数)と読みたい。]

 

Rinnkazoutikukoubousen

 

[やぶちゃん注:熊楠が張った「曲鉤刺(かぎばり)」(有刺鉄線)が見える。]

 

 小生帰り来たりてこの由をきき大いに怒り、次日右の高厦(こうか)の小生方へ向けたる方に壁をぬらんとするを知り、再び小生宅地内に入り込まざるように、こちらも限界に摩接(ませつ)して、曲鉤刺(かぎばり)を具せる鉄条を三列にはりつめたり。故にこの鉄条網と壁との間に、壁ぬり人足が身を入るること能わず。いろいろ歎願せしも小生聞き入れず、到底壁をぬること成らぬゆえ、図のごとく、屋根の上より大き綱を下げ、狭き板を中釣(ちゅうづり)にし、その上に人が坐して屋根の上より渡す板を一枚一枚とりて粗壁(あらかべ)に打ちつけて、ようやくこれを蓋(おお)えり。その時小生方に軍師ありて、この高建築に近接して堭(ほり)をほるべしと言いしが、小生は左様なことをすると、件の建築が必ず小生の邸地内へ倒れ込むからと言って見合せにせり。

[やぶちゃん注:「堭(ほり)」濠(ほり)。「堭」は「外堀り」。]

 

 当時県庁より吏人を派し説諭せしめ、また県知事みずから長文の諭書を出せしなどは(知事も学務課長も)法学士なるにしてははなはだ不穿鑿(ふせんさく)なことにて、一年後に東京で控訴院判事尾佐竹猛氏に聞きしに、家と家との間には必ず三尺の空間を除きおくべしと明文あり、またこれを犯せし者を訴えて改築せしめることを得れば、損償をとることもできることの由。もと当地に検事たりし、田村四郎作という新宮の弁護士、去秋来訪されしときも、民法にその箇条ありとて示され申し候。小生はいろいろの学問をかじりかいたが、亡父が、亡兄を法律をふりまわして多くの人ににくまれ、ついに破産すべき者なり、熊楠は必ず法律に明るくなるべからずといわれしを守りて、少しも法律を心得ざりしゆえ、かようの屈すべからざることをも屈せねばならぬへまをやらかし申し候。

[やぶちゃん注:「不穿鑿」この場合の「穿鑿」はフラットな「綿密にどこまでも調査すること」の意。調査が甚だ杜撰で不徹底であることを言っている。

「尾佐竹猛」(おさたけ たけき 明治一三(一八八〇)年~昭和二一(一九四六)年)は法学者(法制史専門)で明治文化研究者。ウィキの「尾佐竹猛」によれば、『石川県金沢に旧加賀藩の儒者の子として生まれる。上京後、明治法律学校(現明治大学)に学び』、明治三二(一八九九)年卒業。同年、第一回『判事検事登用試験に合格し、司法官試補。福井地方裁判所、東京控訴院・名古屋控訴院の判事を務め』、大正一三(一九二四)年から昭和一七(一九四二)年までは大審院判事となった。『判事の地位に留まらず、憲政史や刑罰史など法制史の研究を手がけた。研究姿勢は、史料を重視した実証主義、洒脱な着眼点、談話調で達意な文章を特徴とする。一方で』、大正一三(一九二四)年には『吉野作造・宮武外骨らとともに明治文化研究会を設立し、『明治文化全集』などを編集、後に吉野の後を継いで第』二代会長に就任している。大正七(一九一八)年以降、『執筆活動を活発化させ』、大正九年には日本の新聞人の先駆者の一人であった柳川春三を論じた論文「(新聞雑誌之創始者)柳川春三」を発表っした。その後、大正一四(一九二五)年には「維新前後に於ける立憲思想」を出版、これによって昭和三(一九二八)年には法学博士を授位された。昭和五(一九三〇)年に出版された「日本憲政史」では、『幕末から帝国議会開設に至る立憲政治の確立過程を描』き、昭和十一年からは『法律及政治』に於いて「帝国議会史前史」を『連載、大政奉還・五箇条の御誓文・自由民権運動などに関して新たな視点を提起した』。昭和一三(一九三八)年には『貴族院五十年史編纂会と衆議院憲政史編纂会の委員長に就任。このほか、明治大学法学部教授、九州帝国大学法学部講師を務めた。退官後は憲政史研究に専念するも、戦災などによって困難を極め、志半ば』にして戦後すぐに亡くなった。

「家と家との間には必ず三尺の空間を除きおくべしと明文あり、またこれを犯せし者を訴えて改築せしめることを得れば、損償をとることもできる」これは現在も有効な「民法」の「(境界線付近の建築の制限)」を規定した「第二百三十四条  建物を築造するには、境界線から五十センチメートル以上の距離を保たなければならない。」及び「2  前項の規定に違反して建築をしようとする者があるときは、隣地の所有者は、その建築を中止させ、又は変更させることができる。ただし、建築に着手した時から一年を経過し、又はその建物が完成した後は、損害賠償の請求のみをすることができる。」を指す。

「田村四郎作」不詳。

「いろいろの学問をかじりかいたが」「かいた」は「掻く」或いは「欠く」(部分を欠いて得た)で「かじる」の強調形であろう。

「亡父」父南方弥兵衛(後に弥右衛門)(文政一二(一八二九)年~明治二五(一八九二)年)。既に南方熊楠が述べた通り、明治二五(一八九二)年八月八日に数え六十四歳で死去した。熊楠は同年九月二十八日にアメリカから渡った直後のロンドンで父の訃報を受けている。

「亡兄」兄南方藤吉(後に弥兵衛)(安政六(一八五九)年~大正一三(一九二四)年)。明治十一(一八七八)年十月に父「弥兵衛」(当時)が隠居して家督を相続し「弥右衛門」を名乗り、藤吉は「弥兵衛」を襲名した。放蕩止まず、晩年には家を出、熊楠がこの「履歴書」を書いている前年、数え六十六で呉市西城町で没している。サイト「南方熊楠資料研究会」の「南方熊楠を知る事典」内のこちらのページの中瀬喜陽氏の彼の解説によれば、藤吉と妻の愛の間に生まれた『長女くすゑ』(明治二一(一八八八)年生)『は、熊楠から目をかけられた一人であ』り、また、『熊楠の戸籍は、昭和三年六月の分家届まで藤吉とその長男弥太郎を戸主とする、和歌山市十三番庁七番地にあった』とある。

「少しも法律を心得ざりしゆえ、かようの屈すべからざることをも屈せねばならぬへまをやらかし申し候」「南方熊楠コレクション」の注には、この一件について、大正一〇(一九二一)年『三月に起った出来事』と時期を明らかにしており、『当時の大阪毎日新聞には「新設される南方植物研究所、鶏小屋事件が誘因」の題で、「近頃南隣に移つて来た某は去年の秋、前記研究園の直後にあつた小さな納屋を取壊』(とりこぼ)『つて其処に鶏小屋を建てるのだと云つてゐたが、何と思つたか長さ七間』(約十二メートル七十三センチ)、『高さ一丈四尺』(四メートル二十四センチ)『もあらうと云ふ可なり大きな建築に取りかかつた。(中略)驚いた南方氏から種々懸合つたが、埒明かずお互に感情の行きちがひから問題が益々大きくなつて仲裁者も飛び出したがとうとう妥協が出来ず偉大な『鶏小屋』は研究園を圧して聳え立つた。」と出る』とある。熊楠は蜜柑箱製造工場のように記し、養鶏場とは書いていない。実際に鷄小屋であったとしたら、鶏糞やダニや臭気で熊楠は致命的にキレたであろうから、ここは鷄小屋(最初の目論みはそうであったと仮定しても)とはならなかったものと考えられる。]

 

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