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2017/06/30

柴田宵曲 續妖異博物館 「埋もれた鐘」

 

 埋もれた鐘

 

 むかし京の町に不思議な夢を見た男があつた。異名を釋迦右衞門と呼ばれる信心者であつたが、家主の寢間の下に九寸ばかりの金佛が埋もれてゐるといふ夢を五十日續けて見た。掘り出す費用は私が負擔致しますから、どうか掘らせていたゞきたい、と云ひ出した。家主は精進嫌ひの無信心者であつたから、その夢は判金千枚ばかりにして掘りたいものだと茶化して取り合はぬのを、傍から口を添へる人があつて、遂に家主も承知した。板敷を外し鋤鍬を鳴らして、その日の暮れ方までに五尺足らず掘つたが、口の吹けた茶壺、消炭、榮螺殼(さざえがら)が出ただけで、佛らしいものは何も見當らなかつた。それ見た事かと家主は腹を立て、釋迦右衞門は恐れ入つて引き下る。然るに翌日またやつて來て、昨夜たしかに幻に拜まれました、今二三寸辰巳(たつみ)の隅にある、是非に掘り出せとの御託宣でござる、といふことで、再度掘り出しにかゝつたところ、成程佛像が出現した。先づ水で洗つて見ると、底光りのする樣子が如何にも古佛らしい。家主にも慾心が起つて、繹迦右衞門との爭ひになり、奉行所へ訴へ出た。役人は佛像に封印をさせ、洛中の佛具師を呼び出して、何年ぐらゐ埋もれてゐたものかと尋ねられた時、いづれも吟味の上、五七年は土中に在つたものと申上げる。その家の普請はいつ頃かと云へば、四十年餘も經過してゐる。一切はこれで明白になり、釋迦右衞門が前日掘り返しの際、ひそかに本尊を埋めたものとわかつた、といふのが「本朝櫻陰比事」にある「佛の夢は五十日」の概略である。

[やぶちゃん注:「辰巳」南東。

「佛の夢は五十日」は私の好きな「本朝櫻陰比事」の「卷二」の三番目にある。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像(大正十四(一九二五)年~大正十五年日本古典全集刊行会刊の与謝野寛等編「日本古典全集 西鶴全集 第二」)を視認して電子化した。句読点や記号はオリジナルに適宜、変更・追加した。読みは一部従えないので、オリジナルに一部に歴史的仮名遣で附した。その際は、所持する明治書院版「対訳西鶴全集」第十一巻を参照し、注もそれを参考にして附した。適宜、改行し、段落の頭は一字空けた。

   *

 昔、都の町に、不思議の夢を見し人有。世わたりは時計の細工人、此鐘の音(ね)に浮世の眠(ねぶ)りを覺まし、明暮、後の世を一大事と願へば、異名(いみやう)を釋迦(しやか)右衞門と云へり。自然(しぜん)と縐頭(ちゞみがしら)[やぶちゃん注:縮れ毛。釈迦もそうでことから、彼もそう綽名したのでもあろう。]にて其形、殊勝なり。年ひさしく烏丸(からすま)の下(しも)[やぶちゃん注:下ったところ。所謂、現在の京でも言う「下ル」である。]に借宅(しやくたく)して住ぬ。

 其家主(やぬし)は一向宗にて、隱れも無き精進嫌(しやうじんぎら)ひ、霜月二十八日[やぶちゃん注:親鸞の忌日。]も構はず、杉燒(すぎやき)の𢌞り振舞(ぶるまひ)して[やぶちゃん注:杉の枌板(へぎいた)に魚や鳥の肉を載せて炙った料理を振る舞い。殺生戒をものともせぬ不敵な仕儀である。]、町衆(まちしゆ)四、五人參會の折節、借家の釋迦右衞門、腰を屈(かが)め、

「私(わたくし)、名譽(めいよ)の夢を、夜前(やぜん)まで、五十日、續けて見えさせ給ふ。御託宣(おんつげ)ありありと、さながら夢とは思はれず候。御長(おんたけ)九寸ばかりの金佛(かなぶつ)、こなたの御寐間(おんねま)の下(した)なる土中に埋もれまします。是れ、弘法大師の御作(おんさく)なるが、我等が枕許(まくらもと)に金色(こんじき)の光を射し給ひ、

『汝、佛緣の深き者なれば、後世(ごせ)の爲に掘り出だすべし。然らば、衆生、救ひ、諸(もろもろ)の難病を助けん。』

の御事(おんこと)。是れ、萬人(まんにん)の慈悲なり。番匠(ばんじやう)・人足の入用は此方(こなた)より仕(つかまつ)るべし。今日、掘らせて賜はれ。」

と申せば、此(この)家主、佛(ぶつ)とも法(ほふ)とも辨(わきま)へ無く、手を拍(う)つて笑ひ、

「世の中の夢と云ふものが合へる[やぶちゃん注:夢なんどというものが事実として当たる。]事ならば、其夢を判金(はんきん)[やぶちゃん注:小判。]千枚ばかりにして掘りたきもの。」

と云ふ。

 此座に分別㒵(ふんべつがほ)なる人ありて、是れを聞きながら、

「其儘置くこと、心宜しからず。あのかたより入目(いりめ)[やぶちゃん注:掘り出しための全費用。]をせらるるならば、掘らせても見給へ。」

と云ふ。時に亭主も同心して、俄かに諸道具を取り直し、板敷(いたじき)を打(うち)はづし、鋤(すき)・鍬(くは)を鳴らし、其日の暮方までに五尺足らず掘りぬれども、佛(ほとけ)らしきものは見えずして、口欠(くちかけ)の茶壺、または消炭(きへずみ)、螺殼(さゝいがら)より外は何も無かりき。

 興覺めて、本(もと)の如くに埋めける。

「初めから、斯く有るべき事なり。」

と亭主は腹立(ふくりふ)、借家の者は何とも言葉無くて歸りぬ。

 また明(あけ)の日、家主(やぬし)へ云ひけるは、

「夜前(やぜん)、また正(まさ)しく幻(まぼろし)に拜まれされ給ひ、

『今二、三寸下(した)の辰巳(たつみ)の隅(すみ)に有りけるを、今少しの事に出現(しゆつげん)せざるは念(ねん)無し。是非に掘り出せ。』

との御願(おちか)ひなれば、とてもの事に御掘(おんほ)らせ給はれ。」

と望み、今一度(ひとたび)、掘(ほ)りて見しに、御告(おつ)げに違(たが)はず、佛像、顯はれ給へば、各(おのおの)有難く拜し、先づ、水に灌(そそ)ぎて見しに、底光(そこびかり)の躰(てい)、如何さまにも古佛(こぶつ)と見えさせ給へば、家主、欲心發(おこ)りて、

「此(この)本尊、我等が物。」

と云ふ。借家の者は、此事、合點(がつてん)せず、

「萬事、入用(いりよう)を此方(こなた)から拂ひぬる上は、私(わたくし)の佛(ほとけ)。」

と云ふ。

「如何にも掘りたき大願(だいぐはん)なれば、其段は此方(こなた)も同心なり。然れども佛(ほとけ)を其方(そのはう)の物にする約束は致さず。」

と言分(いいぶん)募(つの)つて、既に御前(ごぜん)の沙汰に成。[やぶちゃん注:ここは底本では「なり」で下に続くが、奉行所の裁きとなる転回点として、明治書院の処理を採った。]

 初めは聞かせられ、其佛(ほとけ)に兩人の封判(ふうはん)を致させ、三日預かり給ひ、洛中の佛具師を召寄(めしよ)せられ、

「此(この)金佛(かなぶつ)、年數(ねんす)何程(なにほど)か埋もれしものぞ。」

と御尋(おんたづ)ね遊ばされしに、何(いづ)れも吟味の上に申上(まうしあ)ぐるは、

「凡そ、五、七年も土中に有りし物。」

と申上ぐる。

 其後(そののち)、彼(かの)者どもを召されて、其(その)町の者に仰せられしは、

「この家(や)、普請(ふしん)は何程に成るや。」

と御尋ね有りしに、

「四十年餘(よ)に罷り成り候。」

由を申上ぐる。

 時に釋迦右衞門を召され、

「己(おの)れ、世間へは後生願(ごしやうねが)ひと見せ掛け、心中(しんちう)は淺ましき曲者(くせもの)なり。此事、豫(かね)て工(たく)み、前日(まへじつ)、掘る時、本尊を埋め置き、明(あけ)の日、其れを顯はし、京都の風聞致させ、何れの賣僧(まいす)とかと馴合(なれあ)ひて散錢(さんせん)取込(とりこ)むべき仕掛(しかけ)、疑ひ無し。有りの儘に白狀すべし。此時、僞(いつは)るに於ては、さまざま僉議(せんぎ)の爲樣(しやう)あり。」

と仰せ出だされし時、釋迦右衞門、驚き、貧より惡事を工(たく)み申す由、心底、殘さず申上ぐる。

「己(おの)れ、世の費男(つひえをとこ)、殊に佛の眼(まなこ)を拔く事、彼れ是れ以て、惡人なり。急度(きつと)仕置(しおき)に申付(まうしつ)くべき者なれども、未だ外の者を欺瞞(たぶらか)さざれば、命は助け置くなり。此(この)過怠(くわたい)[やぶちゃん注:罪の償い。]に、其佛を鍬(くは)の柄(え)に附けて荷擔(かた)[やぶちゃん注:底本の二字へのルビ。]げさせ、右の次第を札(ふだ)に記るし、洛中、三日が間(あひだ)𢌞(まは)らせて、後生(ごしやう)盜人(ぬすびと)[やぶちゃん注:信心深い素朴なる民を騙す悪人。]の㒵(かほ)を諸人(しよにん)に見知らせ、其後(そののち)、京都を追ひ拂ふべし。また、家主(やぬし)の義は、無用の爭ひ仕る事、是れ惡人(あくにん)近し[やぶちゃん注:「惡人に近し」の脱字であろう。]。是れに由つて、袴・肩衣(かたぎぬ)[やぶちゃん注:町人の礼装。]を着(ちやく)し、高札(たかふだ)を持つて、釋迦右衞門同事(どうじ)[やぶちゃん注:同様。]に𢌞(まは)るべき。」

と仰せ付けられけるとなり。

   *]

 

 かういふ手段は世の賣僧(まいす)によつて時折企てられたらしく、「朝野僉載」には白鐡餘の話がある。先づ深山に入つて柏の樹の下に鋼佛を埋め、數年たつてその上に草が生えるやうになつてから、こんな事を云ひ出した。昨夜この山の下を通つたところ、山中に佛の光りが見える、日を期して齋を設け、聖佛を世に出すことにしたい――。その日になつて數百人が集まると、この人々から多分の布施を求め、柏の根を掘り返して佛像を取り出した。この時が遠近に傳はつて、白鐡餘は聖人と崇(あが)められ、聖佛を拜しに來る者引きも切らずといふ有樣になる。紺紫紅緋黃の綾を以て數十重の袋を作り、これを佛像に被せて、布施に從つて一重を取ると定めたから、忽ち多くの金を獲た。一二年の間に郷人は皆彼に歸伏したので、自ら光王と稱し、亂を起すところまで持つて行つた。

[やぶちゃん注:「朝野僉載」(ちょうやせんさい)は唐代の則天武后の頃、張族鳥が朝廷と民間とで見聞した事柄を書き留めた随筆集。 以上は同書の「第三卷」にある以下。

   *

白鐵餘者、延州稽胡也、左道惑衆。先於深山中埋一金銅像於柏樹之下、經數年、草生其上。紿人曰、「吾昨夜山下過、每見佛光。」。大設齋、卜吉日以出聖佛。及期、集數百人、命於非所藏處劚、不得。乃勸曰、「諸公不至誠布施、佛不可見。」。由是男女爭布施者百餘萬。更於埋處劚之、得金銅像。人以爲聖、遠近傳之、莫不欲見。乃宣言曰、「見聖佛者、百病即愈。」。左側數百里、老小士女皆就之。乃以緋紫紅黃綾爲袋數十重盛像、人聚觀者、去一重一囘布施、收千端乃見像。如此矯僞一二年、郷人歸伏、遂作亂。自號光王、署置官職、殺長吏、數年爲患。命將軍程務挺斬之。

   *

これは岡本綺堂「中国怪奇小説集」にある。「青空文庫」のこちらの「仏像」で、より本文に即した現代語訳(但し、新字新仮名)が読める。]

 

 釋迦右衞門の佛像は貧からの思ひ付きで罪がなかつたが、白鐡餘の方はさう單純でない。財を獲、信望を集め、聖人と渇仰されるあたりで滿足すればよかつたのに、光王と名乘つて亂を起したのが運の盡きで、將軍程務挺のために討伐されてしまつた。尤もこの類の話は昔から無いこともないので、地中に埋められた銅の提子(ひさげ)の精が、人の形をして出步いた話が「今昔物語」にある。それだけなら奇譚で了るわけであるが、釋迦右衞門や白鐡餘のは、慾にからんだ工作であるため、馬脚を顯さざるを得なかつたのであらう。

[やぶちゃん注:「獲」「とり」。

『中に埋められた銅の提子(ひさげ)の精が、人の形をして出步いた話が「今昔物語」にある』これは「今昔物語集」の「卷第二十七」の「東三條銅精成人形被掘出語第六」(東三條の銅(あかがね)の精(たま)、人の形と成りて掘り出だされたる語(こと)第六)である。以下に示す。

   *

 今は昔、東三條殿[やぶちゃん注:藤原兼家の旧邸宅。京都の二条附近にあった。]に式部(しきぶの)卿の宮と申しける人の住み給ひける時に、南の山に、長(たけ)三尺許りなる五位(ごゐ)[やぶちゃん注:物の怪が人に変ずる場合、当時は五位・六位にの装束を着て出現することが多かった。]の太りたるが、時々、行(あり)きけるを、御子(みこ)、見給ひて、怪しび給ひけるに、五位の行(あり)く事、既に度々に成りにりければ、止む事無き陰陽師(おむやうじ)を召して、其の祟(たたり)を問はれければ、陰陽師、

「此れは物の氣也。但し、人の爲に害を可成(なすべ)き者には非ず。」

と占ひ申しければ、

「其の靈(りやう)は何(いど)こに有るぞ。亦、何の精(たま)の者にて有るぞ。」

と被問(とはれ)ければ、陰陽師、

「此れは銅(あかがね)の器(うつはもの)の精也(たま)。辰巳の角に、土の中に有り。」

と占ひ申したりければ、陰陽師の申すに隨ひて、其の辰巳の方の地(ぢ)を破(わ)りて、亦、占はせけるに、占に當たる所の地を、二、三尺許り掘りて求むるに、無し。

 陰陽師、

「尚、可掘(ほるべ)き也。更に此(ここ)は不離(はなれ)じ。[やぶちゃん注:この場所以外のところではなく、ここであることに間違いない。]」

と占ひ申しければ、五、六寸許り掘る程に、五斗納(ごとなは)許りなる[やぶちゃん注:有に五斗は入りそうな。「五斗」は凡そ九十リットル。]銅の提(ひさげ)[やぶちゃん注:注ぎ口と弦(つる)の附いた銀や錫製の鍋形の器。しかしこれは異様に大きい。大き過ぎる。]を掘り出でたり。其の後よりなむ、此の五位、行(あり)く事、絶えにけり。

 然(しか)れば、其の銅の提の人に成りて行きけるにこそは有らめ。糸惜(いとほ)しき事也[やぶちゃん注:「哀れなことであった」という感懐である。長い年月を経た道具などに神や精霊などが宿った付喪神(つくもがみ)に対する同情の思いが示されている点に注意されたい。]。

 此れを思ふに、

「物の精(たま)は此(か)く人に成りて現ずる也けり。」

となむ、皆人(みなひと)、知りにけり、となむ、語り傳へたるとや。

   *]

 

 小野篁が愛宕寺を建てた時、鑄師をして新たに鐘を鑄させた。その鑄師の話によると、この鐘は人が撞かないでも、十二時に鳴るやうにする、その代り鑄てから三年間は土に埋めて置いて、滿三年といふ日に掘り出して下さい、もし三年たゝぬ前に掘り出せば、十二時に鳴る鐘にはなりません、といふことであつた。然るに愛宕寺の別當になつた法師が、三年の月日を待ちきれず、二年餘りで掘り出したものだから、やはり撞かなければ鳴らぬ、世間竝の鐘になつてしまつた。――この話も「今昔物語」に出てゐる。

[やぶちゃん注:これは「今昔物語集」の「卷第三十一」の「愛宕寺鑄鐘語第十九」(愛宕寺(あたぎでら)の鐘を鑄(い)る語(こと)第十九)。愛宕寺は現在の京都市東山区にある大椿山六道珍皇寺(ろくどうちんこうじ)の前身とされる寺院。現在は臨済宗建仁寺派であるが、当時は真言宗。創建は延暦年間(七八二年~八〇五年)とされ、開いたのは慶俊(空海の師)とも空海とも、或いはまた、ここに出るように小野篁自身とする伝承もある。小野篁が冥界に通ったと伝わる井戸があることでよく知られる。(グーグル・マップ・データ)。

   *

 今は昔、小野の篁(たかむら)と云ひける人、愛宕寺を造りて、其の寺の料(れう)に[やぶちゃん注:用立てるものとして。]鋳師(いもじ)を以て鐘を鑄(い)させたりけるに、鋳師が云く、

「此の鐘をば、搥(つ)く人も無くて十二時に鳴らさむと爲(す)る也。其れを此く鋳て後(のち)、土に堀[やぶちゃん注:ママ。]り埋(うづ)みて、三年可有令(あらしむべ)きなり。今日(けふ)より始めて、三年に滿てらむ日の其の明けむ日、可掘出(ほりいだすべ)き也。其れを、或いは日を不令足(たらしめ)ず、或いは日を餘して堀り開けたらむには、然(し)か搥(つ)く人も無くて、十二時に鳴る事は、不可有(あるべから)ず。而(しか)る構へをしたる也。」

と云ひて、鑄師(いもじ)は返り去りにけり。

 然(さ)て、土に堀り埋みてけるに、其の後、別當にて有りける法師、二年(ふたとせ)を過ぎて、三年(みとせ)と云ふに、未だ其の日にも不至(いたら)ざりけるに、否(え)待得(まちえ)ずして、心もとなかりけるままに、云ふ甲斐無く、堀り開けてけり。然(しか)れば、搥(つ)く人も無くて十二時に鳴る事は無くて、只、有る鐘にて有る也けり。

「鑄師(いもじ)の云ひけむ樣に、其の日堀り出だしたらましかば、搥(つ)く人も無くて十二時に鳴らなまし。然(さ)鳴らましかば、鐘の音(おと)の聞き及ばむ所には、時をも慥(たしか)に知り、微妙(めでた)からまし。極(いみ)じく口惜しき事したる別當也。」

となむ、其の時の人、云ひ謗(そし)りける。

 然(しか)れば、騷がしく物念(ものねむ)じ不爲(せ)ざらむ人は、必ず、此く弊(つたな)き也。心愚かにて不信なるが至す所也。

 世の人、此れを聞きて、

「努々不信ならむ事をば可止(とどむべ)し。」

となむ、語り伝へたるとや。

   *]

 

 時計といふものが普及せぬ時代に、時を告げて鳴り渡る鐘の有難味は、今の人の想像を許さぬものであつたらう。もしこの鑄師の言の如く、十二時每に自然に鳴る鐘が成就してゐたとしたら、明治の大時計の先驅のやうなもので、正に天來の神器と解すべきであつた。たゞ三年間地下に潛つてゐるだけで、果してそんな鐘が出來たかどうかは固より疑問である。

 

 唐の開元中、淸江郡叟なる者が、牧場に於て地中に異樣な聲の起るのを聞いた。叟は牧童數人と共に驚いて逃げ出したが、それから熱が出て病臥してしまつた。十日ばかりしていくらか快くなつた時、夢に靑い著物を著た男が現れ、我を開元觀に遷せと云ふ。叟は目が覺めてから考へて見ても、何の事かわからぬ。數日後再び野に於て同じ事を聞いたので、郡守にその話をしたら、何を寢惚けた事を云ふかと叱られた。靑い著物の男はその夜また夢に現れて、自分は地下に在ることが已に久しい、汝速かに我を出せ、さうしなければまた病氣になるぞ、と云つた。叟大いに懼れ、曉に及びその子と共に郡南の地を掘つたら、一丈餘りの鐘が出て來た。その色の靑い事、夢中の男の著物と同じであつた。よつて再びこの旨を郡守に申し出で、郡守は鐘を開元觀に置いたところ、その日の辰の時に至り、鐘は誰も撞かぬのに鳴り出したといふ話が「宣室志」に出てゐる。「今昔物語」の話はこれから思ひ付いたのかどうか。久しく地下に埋もれてゐた鐘が、掘り出されて自然に鳴ることは同じである。

[やぶちゃん注:「唐」実は底本は「廣」であるが、引用元原典と突き合わせて(突き合わせるまでもないのだが)誤植と断じて特異的に訂した。

「唐の開元」七一三年から七四一年。

 以上は「宣室志」の「清江郡叟」。

   *

唐開元中、淸江郡叟常牧牛於郡南田間、忽聞有異聲自地中發。叟與牧童數輩俱驚走辟易、自是叟病熱且甚。僅旬餘、病少愈、夢一丈夫、衣靑襦、顧謂叟曰、「遷我於開元觀。」。叟驚而寤、然不知其旨。後數日、又適野、複聞之。卽以其事白於郡守封君。怒曰、「豈非昏而妄乎。」。叱遣之。是夕、叟又夢衣靑襦者告曰、「吾委跡於地下久矣、汝速出我、不然得疾。」。叟大懼。及曉、與其子偕往郡南、卽鑒其地、約丈餘、得一鍾、色靑、乃向所夢丈夫色衣也。遂再白於郡守、郡守置於開元觀。是日辰時、不擊忽自鳴、聲極震響。淸江之人俱而驚嘆。郡守因其事上聞、玄宗詔宰臣林甫寫其鍾樣、告示天下。

   *]

 

 時計のことを自鳴鐘といつた時代がある。「今昔物語」のは不成功に了つたから仕方がないが、「宣室志」の方は慥かに自鳴鐘の實を擧げた。鐘自身先づ地下に異聲を發し、次いで夢に現れ、遂に叟をして掘り出さしめたのは、徹頭徹尾自鳴的であつた。

 

「子不語」に張家口外の總管廟に妖鐘があり、三更故なくしておのづから鳴るとあるが、その由來は何も書いてない。

[やぶちゃん注:宵曲は「子不語」と言っているが、これは同じ袁枚の手になる続篇の「續子不語」の「第六卷」の「飛鐘啞鐘妖鐘」の最後の一節である。

   *

武夷伏虎山之巓有鐘繫焉、相傳唐時飛來、離地三十餘丈、無人能擊、故又號啞鐘。張家口外總管廟有妖鐘、三更外無故自鳴。

   *]

北條九代記 卷第十一 准后貞子九十の賀

      ○准后貞子九十の賀

 夫(それ)、人間世(にんげんせん)の有樣、古(いにしへ)今に亙(わたつ)て、上壽は百年、中壽は八十、下壽は六十歳、猶、是までも存(ながらへ)難く夭傷(えうしやう)する者、數知らず。人生七十古來稀なりとこそ云ふに、此、此世にめでたき御事とて、京、田舍、申し傳へ、いみじき事に持(もて)はやすは、鷲尾(わしのをの)大納言隆衡(たかひら)卿の娘貞子(さだこ)は、故西園寺相國實氏公の北の政所なり。御子(おんこ)、數多(あまた)設けらる。中にも御娘(おんむすめ)は本院、新院の御母后(おんぼこう)、大宮〔の〕女院とて、院號、蒙(かうぶ)らせ給へば、御母も外祖母にて、北山の准后(じゆごう)從一位の宣を蒙り、當今(たうぎん)、東宮の御爲には曾祖母なり。本朝、古來、御后(おんきさき)の珍圖(めづらし)き例(ためし)ありといへども、或は壽(ことぶき)短うして皇子(みこ)の御在位を見給はず、或は皇子の帝に後れて長き命を悔ゆるもあり。この大宮の女院は、帝三代の國母(こくも)にて、主上後宇多、東宮伏見院を御孫に持ち、我が御母の准后は、猶、存生(そんじやう)にて、一家の富榮(ふえい)なる事、申すも愚(おろか)なり。准后從一位貞子、今年、九十の賀、行はる。誠に以て例(ためし)少き果報なりとて、同八年二月上旬、主上、北山へ行幸(ぎやうかう)あり。新院、本院、東宮も行啓(ぎやうけい)にて、舞樂、歌の會、その下々(したじた)まで酒宴、遊興、程々に付けて賜(たまもの)あり。

 

[やぶちゃん注:「准后貞子」四条(藤原)貞子(さだこ 建久七(一一九六)年~正安四(一三〇二)年)は西園寺実氏(既に注しているが、親幕派の公家として知られ、第三代将軍源実朝が暗殺された鶴岡八幡宮での右大臣拝賀の儀式にも参列しており、承久の乱の際には後鳥羽上皇の命令によって父公経とともに幽閉されている。寛喜三(一二三一)年に内大臣、嘉禄元(一二三五)年に右大臣、寛元四(一二四六)年には太政大臣まで登りつめ、関東申次・院評定衆も兼務した)の正室。父は権大納言四条隆衡(後に出る「鷲尾大納言」は彼の通称)、母は坊門信清(後鳥羽天皇の外叔父で娘で貞子の姉信子は源実朝の室)女である。父隆衡の母は平清盛の女(建礼門院の同母妹)であり、清盛の曾孫に当たる。西園寺実氏の室となり、嘉禄元(一二二五)年に姞子(きつし:後の後嵯峨天皇中宮・大宮院)を、貞永元(一二三二)年に公子(きんし:後の後深草天皇中宮・東二条院)を生んだ。逝去した時は数えで実に百七歳で、まさに現代から見ても正真正銘の長寿であった(以上は主にウィキの「四条貞子に拠った)。ここに出る弘安八(一二八五)年二月三十日に催された彼女の九十の賀の華やかな様子は「増鏡」の「第十 老のなみ」の最後に異様に詳しく述べられてあり、本条もそれを参考に極度に圧縮したものと思われる。当初は原文を引くつもりであったが、あまりに長く、それをこれだけ切り詰めた筆者の気持ちを考えると、引用する気にならなくなった。悪しからず。但し、ご要望があれば示す。なお、何度も注しているが、再掲しておくと、「准后」(「じゅんこう」とも読む)は、朝廷に於いて太皇太后・皇太后・皇后の三后(三宮)に准じた処遇を与えられた者を言い、准三后(じゅさんごう)・准三宮(じゅさんぐう)とも称した。ここは女性だが、「后」があるために勘違いされる方が多いので言っておくと、これは男女とは関係がない

「人生七十古來稀なり」知られた杜甫の七律「曲江」中の一句。

「御娘(おんむすめ)」後嵯峨天皇中宮姞子。

「本院」後深草天皇。

「新院」亀山天皇。

「當今(たうぎん)」今上天皇である後宇多天皇。

「東宮」後の伏見天皇。この後の弘安十年十月即位。彼の「御爲には曾祖母なり」とあるのは、これは貞子の次女公子が後深草天皇の后となった関係から、後深草天皇の第二皇子であった彼(母は左大臣洞院実雄の娘愔子(いんし))が公子の義理の子となったことから、かく言っている。

「帝三代」誤り。「大宮〔の〕女院」姞子は後深草天皇と亀山天皇の母であるから「二代」が正しい。

「同八年二月上旬」おかしい。これは貞子の九十の慶賀の前日で二月二十九日である。]

宿直草卷二 第九 建仁寺の餠屋、告をうる事

 

  第九 建仁寺の餠屋、告(つげ)をうる事

 

 寛永十四年の事なり。建仁寺の門前に住(すむ)、餠屋が所に、不思議の告(つげ)有(あり)。

 六十(むそぢ)餘りの旅の僧、餠を食(く)いけるが、その事となふ咄(はなす)に、既にその日も暮れたり。僧のいふやう、

「我は關東(あづま)の者也。初めて京へ上りたれど、聊か知りたる人もなし。何方(いづく)へ行くも旅なれば、同じくはこれに宿貸し給へ。」

といふ。あるじ、聞(きい)て、

「法度(はつと)にて候へ共、桑門(よすてびと)の事、何かは苦しかるべき。」

と許す。僧も喜びて、宿る。夜も更けぬれば、

「おやすみ候へ。」

と、僧を奧に入れ、亭主は勝手にぞ臥す。

 此餅屋、娘を持ちしが、その容姿(かたち)、人に優れて美しけれど、色(いろ)惡(あし)ふして、惡しき病(やまひ)あり。おこるときは、其聲、

「ひゐひゐ。」

といふ。脇にて聞くに、たゞ、板などにて押すが如し。一時ばかりもおこり、半時ばかりにて止み、又、かつて、おこらぬ夜もあり。然(しか)れども、娘は、かつて、これを知らず。たゞ、寢言と思へり。

 その夜も一時ばかりおこりて止みぬ。

 客僧、これを聞(きき)て、翌朝(あした)[やぶちゃん注:底本の漢字化で二字へのルビ。]とく起き、あるじの側(そば)にさし寄りて、

「扨(さて)さて、夫婦は情なくも寢(いね)られたり。過(すぎ)し夜、娘と覺しくて、苦しむ聲し侍りしを聞き給はずや。」

といふ。あるじのいはく、

「などか今夜の聲を聞かざるべき。珍しからず侍れば、聞き候へども起(おき)申さず候。あの者、今宵の如くする事、五歳(いつとせ)になる。はじめの程は大きに驚き、これを起すに、目も醒めず。また、働きもせず。病(やまひ)なるべしと思ひ、藥のみかは、鍼(はり)を立て、灸を据(す)ゆるに、さらに驗(しるし)もなし。洛中洛外の靈佛靈社へ參らぬ所もなく、名師高僧を賴み、巫(かんなぎ)祝(はうり)を訪(たづ)ね、いろいろ祈れども、これぞそれよ、と、思ふ事もなし。今ははや、詮方(せんかた)、淚にうち捨(すて)て置く。今年十六になり侍れども、誰(た)が情(なさけ)に見てくれんと思へば、中々、緣の沙汰にも及ばず。お僧さまは諸國御覽候はんが、彼(かれ)が樣(やう)なる因果なる者や、御座候べき。」

と、淚とともに語りけり。

 僧、聞(きき)て、

「我(われ)、一夜の假寢を侘(わ)びしも、此物語りをせん爲(ため)也。我、關東(あづま)にて、身の有方(ありがた)も定めなく、明(あけ)暮れ、流離(さすら)へ侍りしに、ある時、道を行くに、俄(にはか)に日暮れたり。心得がたく有(あり)ながら、立ち寄るべき方やあると求めしに、森の陰に寺ありて、景色(けいしよく)、この建仁寺に似たり。如何なる佛とは知らねども、法施(ほつせ)しばしば參らせて、未だ夢も結ばざりしに、其さま、恐ろしき鬼、俎板(なないた)を持(も)て來(き)、庭上(ていしやう)に置く。又、跡より鬼、四、五頭(づ)、若き女一人、具(ぐ)し來(き)て、かの板にのせて、同じやうなる板にて、力を出だし、聲を揃へて押す。かの女、悲しむに堪えず叫ぶ聲、

「ひゐひゐ。」

といふ。身(み)より血流るゝを、ひとりの鬼、枡(ます)にて量(はか)る。しばしして云(いふ)やう、

「今宵は如何ほどぞ。」

と。友鬼(ともおに)のいはく、

「二合五杓(しやく)なり。」

と。

「しからば良きぞ、はや、置け。」

といふ。

 上なる板を取るに、女、苦しげなる體(てい)にて起(おき)上がれり、鬼はいづくともなふ去るに、女は跡に殘り、我方(わがかた)へ步み來(き)ていふやう、

「さてさて、恥づかしき事、御目(おめ)にかけ候。さりながら、見(ま)みえ申すも、言傳(ことづて)申したき爲也。自(みづか)らは、都、建仁寺の門前に餠屋の何と申(まうす)者の娘なり。妾(しやう)、死(しゝ)て、此(この)苦を受くるにてはなし。生きながら苦しむこと、はや、五歳(とせ)になれり。わが父母(かぞいろ)の知らざれは、此(この)報ひ、止む事なし。それをいかにと申(まうす)に、建仁寺の兒喝食(ちごかつしき)、わが家(いへ)にして油を持つて餠を買(かふ)に、私欲のほだす所、あさましうして、廿錢が油には、十錢十五錢が餠をやり、卅文が油には、二十文廿五文の餠を送る。其代(しろ)足らざればとて、鬼、來たりて、我(わが)血を取る。昨日(きのふ)の商ひに油二合五勺の依怙(ゑこ)あるによりて、鬼、また、血を取るに、その考へ有(あり)。生きてさへ責めらるれば、死しての後(のち)、思ひやられ侍る。御慈悲にて侍へば、都へ御のぼりなされ、父母(ちゝはゝ)に此(この)物語りなされ、油に當(あた)る程、餠(かちん)を送り給へと細やかに語り給れ。」

といふ。

「やすき事なり。さりながら、何をしるべに語るべきぞ。」

といふに、

「げに尤(もつとも)なり、覺束(おぼつか)なきに思(おぼ)しめさば、これを證(しるし)に參らせん。」

と、着たる小袖の袂(たもと)を解いて、我に渡す。受け取り立たんとするうちに、若き女も失(うせ)行きて、ありし寺も野原となる。夢の醒めたる心地せしに、證(しるし)の片袖、そのままに、あり。

「扨は。たふとき御告ぞ。」

と思ひ、千里(ちさと)遠しともなく、はるばる上(のぼ)るに、はたして此所(このところ)も違(ちが)はず、御身の名も變らず、また、あの娘も、その時見たる女房に變る事なし。證(しるし)に越(こ)せし片袖はこれなり。『ひゐひゐ』と叫ぶ聲、さらに變る事なし。」

と語る。

 夫婦、これを見て、疑ふ所もなく、今年正月に着せし片袖なり。不思議のあまり、長持(ながもち)を開けてみるに、片袖、なし。是(これ)を合せてみれば、一つ也。

「さては、娘の病は、わが科(とが)なり。」

と悲しめり。

 旅の僧は右の言傳(ことづて)屆けて、教化(けうげ)して出(いで)給ひしが、何處(いづく)の人とも知らず。

 此僧、直(ぢき)に佛にてもあらんか。

 

[やぶちゃん注:現世悪報譚であるが、瞬時にして日暮れる怪異、その僧の前に出現する寺、そこに展開する奇体な情景、しかもそこには血を計量するという異様なリアリズムがあり、それが餅屋のせこくおぞましい欲と呼応、しかも、最後にそれを告げ知らせた僧は実は示現した仏ででもあったかとする末尾は、なかなかの怪談結構と言える。なお、前話とは、自身の賽銭泥棒/父の不正利益による孰れも現世での地獄の鬼による応報という構造で美事に連関している。

「建仁寺」現在の京都府京都市東山区大和大路四条下る四丁目小松町の臨済宗建仁寺派大本山東山(とうざん)建仁寺。本尊は釈迦如来。開基は鎌倉幕府第二代将軍源頼家、開山は栄西。寺名は創建年を建仁二(一二〇二)年とするのに因む。

「寛永十四年」一六三七年。徳川家光の治世。

の事なり。建仁寺の門前に住(すむ)、餠屋が所に、不思議の告(つげ)有(あり)。

 六十(むそぢ)餘りの旅の僧、餠を食(く)いけるが、その事となふ咄(はなす)に、既にその日も暮れたり。僧のいふやう、

「法度(はつと)にて候へ」、江戸時代は宿場の正規に許可された旅籠以外での、旅人の宿泊は主に治安と、宿場及びそこの旅籠業者の権利保護の観点から禁じられていた。

「勝手」厨房。

「一時」二時間。

「かつて、おこらぬ夜もあり」ついぞ発作を起こさない夜もあった。この日は、かの寺の子どもらが餅を買いに来なかった日なのである。

「色(いろ)惡(あし)ふして」顔色がひどく悪く。後の話から、青白い貧血症状と推定される。

「おこるとき」この「おこる」は漢字を当てるならば「起こる」ではなく、「瘧(おこ)る」が正確であろう。狭義には所謂、「瘧り」は、一定の周期で発熱を繰り返し、悪寒や振顫(しんせん:全身性の震え)が発作的に生ずる病気。主疾患としては当時は本邦で猖獗していたマラリア性の熱病と同定される。「わらわやみ」と称して、光源氏も罹患しているように、古来からあった。ここはもっと広義な、顕著な身体反応を示すヒステリーなどをも含む睡眠時発作を言っている(彼女のそれは昼間に発作が起こらない点でマラリア起因ではない)。

「かつて、これを知らず」未だ一度たりとも、自分がそうした激しい発作を起こしていることを自覚していなかった。現実世界のこの娘は、苦しいはずの発作自体の認識さえないのである。即ち、以下に明らかにされるその現世での因果応報の由来も生身の彼女自身は何も知らぬのである。何か、夜分に自身が何事かを口にしているようだという程度の意識はあるけれども(それは父母が苦しがっているとして療治や祈禱・誓願などをすることで理解はしているが)、それを彼女は「たゞ、寢言と思」っていただけなのである。ここにこそ実は本話の救いの伏線がある

「巫(かんなぎ)」「神和(かんな)ぎ」の意で「かむなぎ」とも読む。基本は神道系の呪術者(但し、そのルーツは神道成立以前の土着のシャーマン由来であろう)で、神に仕えて神楽を奏しなどして神意を慰め、神降ろしなどをする者。男を「おかんなぎ(覡)」、女を「めかんなぎ(巫)」と分けたりすることもある。

「祝(はうり)」狭義には神主・禰宜に従って祭祀を掌る下級神職を指すが、ここは前に巫(かんなぎ)を出しているから、寧ろ、正規の巫よりもさらに格下の民間の(時に怪しげな)祈禱師を言っていると考えてよかろう。

「詮方(せんかた)、淚に」岩波文庫版の高田氏の注に、『打つ手もなくただ手をこまぬいていること。「せんかた涙に伏し沈む」(謡曲『松風』)』とある。なお、これは単なる用例を示されただけで、本話と能「松風」との関係性があるわけではないので注意。

「誰(た)が情(なさけ)に見てくれん」反語。この彼女の原因不明の発作が知れ渡り(療治を求めれば瞬く間に事実は周囲に知られる)、「緣の沙汰にも及ばず」、誰一人として縁談を持ち込む者はないのである。

「杓(しやく)」後で出るように「勺」に同じ。

「父母(かぞいろ)」上代語で父母を指し、最も古くは「かそいろは」で、「かぞ」は父(実父)、「いろは」は母(生母)を指す。語源は不詳のようである。

「兒喝食(ちごかつしき)」岩波文庫版は「兒」と「喝食」の間に中黒(・)を打つが、ここは私は一語と見る。ウィキの「稚児」によれば、平安頃より真言宗・天台宗等の大規模寺院では、剃髪しない少年修行僧(現在の十二~十八歳ほど)が現れ始め、これを「稚児(ちご)」と呼んだ(皇族や上位貴族の子弟が行儀見習いなどで寺に預けられる「上稚児」、利発さが買われて世話係として僧侶に従う「中稚児」、芸道などの特殊な才能が見込まれて雇われたり、破戒僧である売僧(まいす)に売られてやって来た「下稚児」の区別があったらしいが、おしなべて彼らは男色の対象とされた性的奴隷であった)が、鎌倉以降、禅宗では彼ら「稚児」を「喝食」と呼んだからである(建仁寺は創建当時から臨済宗)。但し、ウィキの「喝食」によれば、「喝食」(「かつじき」とも読む)とは、本来は「喝食行者(あんじゃ)」のことで禅寺に於いて斎料(ときりょう:食事)を衆僧が摂る際、食事の順序などを大声で唱える者を指し、年齢とは無関係であった。『禅宗とともに中国から日本に伝わったが、日本に以前からあった稚児の慣習が取り込まれて、幼少で禅寺に入り、まだ剃髪をせず額面の前髪を左右の肩前に垂らし、袴を着用した小童が務めるものとされた。室町時代には本来の職掌から離れて稚児の別称となり、中には禅僧や公家・武家の衆道の相手を務めるようになった』とある。ただ、この台詞は餅屋の娘の台詞の中での語であるから、或いは彼女は「稚児」をより若いそれ、「喝食」を少し大きくなった少年として使用していないとは言えず、その場合は分離すべきかも知れぬ

「わが家(いへ)にして油を持つて餠を買(かふ)」喝食は普通は定給与などは無論ない奴隷的使用人扱いであるから、寺で用いる灯明の油をかすめ取る形で、銭の代わりに持ち出し、餅を買いに来る(この辺りが如何にも少年らしい)のであろう。複数の彼らがそれをやっているところを見ると、彼らを若衆道の相手としていた成人僧らは、それを見て見ぬふりをして許していたものと見える。

「ほだす」「絆す」。繫ぎ止める。自由を束縛する。ここは使役的で「支配される」の意。

「依怙(ゑこ)」依怙贔屓(えこひいき)のそれで、これだけで「一方だけを贔屓にすること・不公平」の意が原義であるが、それ以外に「自分だけの利益・私利」の意があり、」岩波文庫版の高田氏の注では、『不正なもうけ』とする。

「餠(かちん)」「餅」を指す女房詞で「おかちん」とも言う。「搗(か)ち飯(いひ)」の音変化とされる。

「何をしるべに語るべきぞ」「しかし、そなたの言ったことが真実であることをその父母なる者に語り諭すに際し、それがまことであることを何を以って証拠とせんとするか?」。

「受け取り立たんとするうちに、若き女も失(うせ)行きて、ありし寺も野原となる。夢の醒めたる心地せしに、證(しるし)の片袖、そのままに、あり」非常に好きな無限的シークエンスである。

「扨は。たふとき御告ぞ。」

「越(こ)せし」寄越した。]

2017/06/29

柴田宵曲 續妖異博物館 「樽と甕」

 

 樽と甕

 

 唐の汝陽王は酒が好きで、一日中飮んでも醉拂ふなどといふことがなく、客があればその人を相手に幾日でも飮み續ける。或時葉靜龍といふ術士が來たので、例によつて酒を飮ませようとすると、葉はこれを辭退して、私は酒はいたゞきませんが、弟子に酒量測るべからずといふのがございます、見かけは小さな男ですが、酒ではひけを取りません、明日この男を伺はせることに致しませう、と云つた。翌日道士持滿と稱する男がやつて來たので、直ちに引見したところ、成程葉の云つた通り、極めて矮小な男である。倂し座に就いて話しはじめると、三皇五帝以來、歷代の治亂興亡の迹を説くのに、種々の書物を引用すること、あだかも掌を指すが如くであつた。王は啞然として口を拜むことが出來ない。持滿はやがて話頭を轉じ、通俗的な方面に持つて行つたから、王もホツとした樣子で、見受けるところ、師は酒を好みさうだがどうか、と問うた。いくらでも頂戴致します、といふ答へを得て、左右に命じて酒を注がせる。盃が幾度か巡つたが、持滿はもどかしさうな樣子で、かやうな小さなものでは酒を飮む中に入りませぬ、もつと大きなものに入れて、好きなだけ飮むやうにしていたゞきたい、十分頂戴致しましたら、それでやめることに致します、と云ひ出した。王は承知して數石を容れる大きな器(うつは)に、なみなみと酒を湛へ、大きな盃で酌むことにした。さうして飮み續けるほどに、王は少し醉ひを發して來たが、持滿は全然亂れず、端坐したまゝである。この狀態はやゝ暫く續いた。今度は持滿の方が、私はこの一杯でやめます、もう醉ひました、と云つた。師の量を見るのに、このくらゐではまだ足らぬだらう、と云つて更にすゝめても、持滿は頭を振つて、あなたは度量に限りあることを御存じありませぬか、と云ひ、その一杯を盡したかと思ふと、その場に倒れてしまつた。よくよく見たら彼は人間ではない、大きな酒樽であつた。樽は五斗入りであつたから、正に定量に達したものであらう。

[やぶちゃん注:「五斗」唐代の原典であるから、当時の「斛」(こく=石)は十升ながら、一升が現行の半分である約〇・六リットルしかなったので、約三十リットルとなり、現在の一升瓶では十六本と半分ほどとなる。

 以上は「河東記」の「葉靜能」。

   *

唐汝陽王好飮、終日不亂。客有至者、莫不留連旦夕。時術士葉靜能常過焉、王強之酒、不可、曰、「某有一生徒、酒量可爲王飮客矣。然雖侏儒、亦有過人者。明日使謁王、王試與之言也。」。明旦、有投刺曰、「道士常持蒲。」。王引入、長二尺。既坐、談胚渾至道、次三皇五帝、歷代興亡、天時人事、經傳子史、歷歷如指諸掌焉。王呿口不能對。既而以王意未洽、更咨話淺近諧戲之事、王則歡然。謂曰、「觀師風度、亦常飮酒乎。」。持蒲曰、「唯所命耳。」王即令左右行酒。已數巡、持蒲曰、「此不足爲飮也、請移大器中、與王自挹而飮之、量止則已、不亦樂乎。」。王又如其言。命醇酹數石、置大斛中、以巨觥取而飮之。王飮中醺然、而持蒲固不擾、風韻轉高。良久、忽謂王曰。「某止此一杯、醉矣。」王曰。「觀師量殊未可足、請更進之。」。持蒲曰。「王不知度量有限乎。何必見強。」乃復盡一杯、忽倒、視之則一大酒榼、受五斗焉。

   *

「太平廣記」でも「持滿」ではなく「持蒲」であるが、グーグル・ブックスのある中文書では「持滿」で出るから、或いはそうした伝本があるのであろうし、比喩名とすれば確かに「滿」の方が問題ない。]

 

 この「河東記」の話に似たのが「瀟湘錄」に出てゐる。妻修なる者は井州の酒家で、常に酒浸りになつて居り、少し醒めた時に喜んで人を相手に飮むといふ風であつた。井州の人達は彼の大酒に恐れをなし、多くは敬遠して近付かなかつたから、修の交友は極めて少かつた。然るに或日突然黑衣の客がたづねて來て、酒を飮ませて貰ひたいと云ふ。修が出て見ると、身の丈(たけ)は三尺ばかりしかないが、腰の幅は頗る廣い。二人は早速席を設けて飮みはじめた。客は愉快さうに笑つて、私は平生酒が好きなのですが、殘念ながら腹一杯飮んだといふことがありません、もし腹一杯飮めたらどんなに嬉しからうと思ふのです、幸びあなたにお目にかゝりましたから、久しい私の望みを叶へていたゞけるでせう、と云つてゐる。修の方でも、あなたは眞に我が黨の士だ、といふやうな相槌を打つうちに、遂に三石近くの酒を平らげてしまつたが、客は少しも醉はない。これには修も驚くと同時に、たゞの人ではあるまいといふ畏敬の念を生じて來た。容(かたち)を改めて客を拜し、その郷里や姓氏を問ふと、我が姓は成、名は德器と答へたが、郷里に至つては甚だ明瞭でない。更にどうしてそんなに多く飮み得るかを尋ねたら、自分は已に老いてしまつた、腹を滿たし得る量は五石であらう、腹を滿たせば初めて安んずることが出來る、と云つた。修はこの言葉を聞いて、また酒をすゝめた。途に五石に達するに及び、客は俄かに醉態をあらはし、狂歌狂舞とゞまるところを知らず、遂に地に倒れてしまつた。修は家の者に命じ、醉客を室内に連れて行かせたが、室内に至ると共に客は躍然として外へ飛び出した。心許ないので後を逐はせると、何か石にでもぶつかつたやうな音がして、客の姿はそれきり見えなくなつた。夜では搜しやうがない。明方になつて行つて見たら、多年使用した酒甕がこはれてゐるだけであつた。

[やぶちゃん注:「瀟湘錄」唐の李隱撰の伝奇小説集。

「井州」は「幷州」の誤りと思われる(以下の原文参照)。

 以上は「瀟湘錄」の「薑修」(きょうしゅう」現代仮名遣)。

   *

薑修者、幷州酒家也、性不拘檢、嗜酒、少有醒時、常喜與人對飮。幷州人皆懼其淫於酒、或揖命、多避之、故修罕有交友。忽有一客、皂衣烏帽、身才三尺、腰闊數圍、造修求酒、修飮之甚喜、乃與促席酌、客笑而言曰、「我平生好酒、然每恨腹酒不常滿。若腹滿、則既安且樂、若其不滿、我則甚無謂矣。君能容我久托跡乎。我嘗慕君高義、幸吾人有以待之。」。修曰、「子能與我同好、真吾徒也、當無間耳。」。遂相與席地飮酒、客飮近三石、不醉、修甚訝之、又且意其異人、起拜之、以問其郷閭姓氏焉、復問何道能多飮邪、客曰、「吾姓成、名德器、其先多止郊野、偶造化之垂恩、使我效用於時耳。我今既老、復自得道、能飮酒、若滿腹、可五石也、滿則稍安。」。修聞此語、復命酒飮之、俄至五石、客方酣醉、狂歌狂舞、自歎曰、「樂哉樂哉。」。遂仆於地。修認極醉、令家僮扶於室、至室客忽躍起、驚走而出、家人遂因逐之、見客誤抵一石、割然有聲、尋不見、至曉睹之、乃一多年酒甕、已破矣。

   *]

 

 二つの話は同工異曲、大同小異である。樽にしろ甕にしろ、酒を容れる分量に限りがあるから、定量に至れば倒れてしまふのであらう。持滿といひ、成德器といふ名前を見てもわかるやうに、どこか一點の理が潛んでゐて、神韻標瀞たるところは寧ろ乏しい。共に矮小な男であるといふのも、最後に樽や甕の正體をあらはす伏線と思はれる。倂し得體の知れぬ男がやつて來て、えらさうな事を云ひながら、いくらでも酒を飮むあたりはちよつと面白い。支那人でなければ思ひ付きさうもない話である。

 

宿直草卷二 第八 誓願寺にて鬼に責めらるる女の事

 

 第八 誓願寺にて鬼に責めらるる女の事


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 昔、宇治の里(さと)より、京誓願寺へ隔夜(かくや)に參る山伏、有り。またその頃、五十(いそぢ)あまりの女、これも怠りなく、每日、七つ下がりに參る。山伏見て、

「扨々、女性(によしやう)にて、かく修行堅固なる人こそなけれ。さだめて六十萬人決定往生の人にや。」

と殊勝の思ひをなす。

 さて、御堂に通夜(つや)して心中(しんぢう)を澄ますに、夜半(やはん)ばかりの比(ころ)、鬼、四、五頭(づ)、女一人具して來たる。

「何事ぞ。」

と恐ろしき思ひをなすに、堂の庭に、忽ち、火焰(くわえん)燃えたり。五(いつつ)の鬼、かの女の髮、四つの手足を取りて引き張り、打返(うちかへ)し打ちか返し、炙(あぶ)る。叫ぶとすれど、聲も出ず、遍身(へんしん)より血流るゝ事、油など絞るが如し。然(しか)れども、

「此女、つれなき命の消えもせで、苦を受くる事、見るも忍びがたし。さても又、如何なる罪人か。」

と立ち寄りて見れば、この比(ごろ)、賞(ほ)めそやしたる女房なり。

「さてさて。日ごとによく參りて、缺(か)くる事もなき人の、案に相違せし事かな。如何なる隱せる罪のあるぞや。」

と見るに、曉(あかつき)告ぐる鐘の音(ね)に、鬼も女も消え行けば、

「さては夢か。」

と疑がへば、袖(そで)片敷(かたし)くにも有らざれば、ありしを儘の現(うつつ)なり。引く橫雲も散り行(ゆき)て、程なく夜も明ければ、佛(ほとけ)を禮(らい)し、をのが住家(すみか)に歸り、次の夜は來らず。

 又、次の日、參るに、かの女も時も違へず、その身、つつがなふして來(きた)る。

「如何樣(いかさま)にも、ただならぬ咎(とが)を持ちたる人なめれ。」

と、しばし、片方(かたへ)にこれを見るに、佛(ほとけ)の御前に手を糾(あざ)へ、合掌なんど、いと懇ろなり。しばらく拜むと見しが、人目の隙(ひま)を數(かぞ)へ、散錢(さんぜん)二包(つゝみ)、祕かに取り、さらぬ體(てい)にて下向(げかう)す。

「さてこそ。女の罪は知れたれ。」

と思ひ、御堂(みだう)に其夜も越夜(おつや)するに、鬼、來たりて、かの女を責むる事、一昨日(おととひ)の夜に變る事なし。

「扨は、この女に教化(けうげ)せよとの佛の示(しめ)しにこそ、此相(さう)も見るらめ。」

と納得して、明(あく)れば、また、宇治に歸り、その翌日(あくるひ)、參りしに、女もまた、參れり。

 やがて、袖を引き、片脇へ誘(いざな)ひ、

「さても我、この御寺(おほんてら)に參り初(そ)めてより此方(このかた)、御身(おんみ)、參り給はぬ日もなし。いと貴(たふと)くこそ侍れ。さりながら、心得がたき事の候。我(われ)、御堂(みだう)に籠り候に、五つの鬼ありて、女を責むる。其責めらるゝ人、形(なり)も、㒵(かほ)も、年頃も、紛(まが)ふところもなく、御身(おんみ)なり。度度(たびたび)の事なれば、見誤るにもあらず。不審ならば、今宵、見給へかし。願はくは、心中にをゐて、道惡(だうあく)の覺ゆるところあらば、など、隱(つゝ)み給はんや。有りの儘に語り給ひて、後の世、助かり給へかし。」

と語る。

 その時、女、㒵(かほ)、打(うち)赤めて涙を流し、

「さては。恥づかしや。左樣(さやう)の御告(おほんつげ)の御座候ぞや。かく懇にの給ふに、何かは包み申べき。我は此處より二、三町へだてて、年久しく住む者にてさふらふが、夫(をつと)もなく、子もなし。たゞひとりある此の身の、渡りかねたる世中に、春、渇(かつ)へ、冬、凍(こゞ)ゆる、一日(ひぐらし)、此寺に參りしに、人目(ひとめ)の關(せき)のひま有(あり)て、佛前の錢(ぜに)二十文、盜みしかば、明(あ)けの日、易く過(すぐ)せり。かく仕染(しそ)めてよりこのかた、每日、申の下刻に參り、恭敬(くきやう)するよしにて、多くも取らず。たゞ、十五錢、二十錢づゝ取りて歸り、今、三季(みとせ)の命をつぎ侍る。隱(つゝ)むに漏れし其咎(とが)の、今はた、顯はれ、御教化にあづかり參らせ候事、且つうは、大悲の憐愍(れんみん)、又は貴士(きじ)の恩顧(をんこ)なり。一紙(いつし)の信施(しんせ)も爲(な)しがたき身をこそ恨み申(まうす)べけれ。却(かへ)りて、犯し盜みし咎(とが)、そも又、如何(いかゞ)すべきぞ。」

と、袖に雫(しづく)の風情(ふぜい)して、後悔の淚、如何ともしがたし。

「幸(さひはひ)、今宵、通夜(つや)申(まうす)べし。その有樣(ありさま)、見せ給へ。」

といふ。山伏も、

「ありがたき心入(こころいれ)なり。惡に強かりし昔に代(か)へて、善にいよいよなり給へ。」

などいふうち、夜にもなり、時分ともなりしに、鬼來たりて、女を責むる。見れば見るほど、我が形(かたち)なり。山伏も、

「あれ、見給へ。」

といふ。女、限りなふ悲しみ見るに、二時(ふたとき)ばかり、責めて、去りぬ。

 さて、夜、明けぬれば、山伏は宇治へ歸る。女はまた、方丈へ行きて、右の事を懺悔(さんげ)して、すなはち、尼になり、その庭にありて、參詣の諸人に、隱(つゝ)まず語りしと也。

 

[やぶちゃん注:本話は先行する世阿弥作の謡曲「誓願寺」の結構を世俗的に判り易くインスパイアしたものと思われる。私は同曲を観たことがないので、観世流シテ方能楽師中所宜夫氏のブログ「能・修羅しゅシュSyu」の「『誓願寺』について」から引用させて戴くと、この曲は『凡そ二時間を要する大曲』であるにも拘わらず、『文学的情趣に乏しく、またワキに一遍上人、シテに和泉式部を配しながら、踊念仏の開祖たる融通無碍の魅力を描くでもなく、恋多き宮廷歌人の苦悩を描くでもない、つまり演劇としてこの曲を見た時、その構成に興趣をそそられない事などが相まって、長いばかりで退屈な能と言うのが、大方の評価』であろうと述べられつつも、『しかし私は、世阿弥の創作過程を辿る上で、この曲を大変重要な曲と考えて』おり、何故、『世阿弥がこの曲を書いたのかを考えてみる時、この曲ならではの魅力が見えて来るのだと思』うと記された上、謡曲「誓願寺」の梗概を語っておられる。一部に敬体が混入する不全性があるが、そのまま引く。

   《引用開始》

熊野に参籠し、夢の告を受けた一遍上人(ワキ)は、「六十萬人決定(けつじょう)往生」の御札を配ろうと都に上る。念佛の教えに多くの聴衆が集まる誓願寺。一遍から御札を受ける人々の中に、信心深げな気品高い一人の女がいる。札を見て「六十萬人しか往生出来ないのですか」と女が尋ねるのに、一遍は熊野の夢想で示された四句の文の頭の字が「六十萬人」なのだと答え、その子細を語る。

六字名号一遍法(南無阿弥陀佛の六文字で表される佛の名前は、それだけで一つにして普遍の世界の有り様を表している。)

十界依正一遍体(それが分かれば、この世界全体が一つにして普遍の存在であると感得する事になる。)

萬行離念一遍証(そうすれば全ての修行が雑念を離れ、世界が一つにして普遍である事を明らかにしてくれる。)

人中上々妙好華(この念佛行を行う人は、人の中でも上々の位の人であり、蓮の花の様な存在である。)

女は忽ちに了解し、一遍と共に教えを喜ぶ。やがて念佛は夜半に及び、法悦境も頂点に至るかと見えた頃、女は思わぬ事を口にする。

「いかに上人に申すべき事の候」「何事にて候ぞ」「誓願寺と打ちたる額を除け。上人の御手跡にて。六字の名号になして給わり候へ」。

余りの事に住処を尋ねる上人に、「わらわがすみかはあの石塔にて候」と答え、あれは和泉式部の墓だと聞いていますと言う一遍に、それこそが私の名前ですと答えて、石塔に寄って行く。俄かに石塔から光が射して姿を消す。

一遍が六字名号の額を掲げると、和泉式部が歌舞の菩薩として、二十五菩薩と共に現れる。辺りは清浄な光に照らされて、極楽世界のようだ。この誓願寺が極楽世界に変じるのは何の不思議もないのですと、式部は曲舞を謡い舞を舞う。

「此処は天智天皇の創建の尊い寺で、その上、ご本尊は春日明神がお作りになったもの。神佛の違いは水と波の様なもので、この日の本では春日明神が二人の菩薩の姿となってこれを作り、衆生を済度して下さるのです。つまりこの如来様は毎日一度は西方浄土に通って、死後の往生を約束して下さっているのです。

歌舞の菩薩が語る様は阿弥陀如来の姿と重なる様だ。

辺りには天上の歌が響き、尊き方々が来迎されている。昔お釈迦様は霊鷲山に一人いらしたが、今は有難い事に、西方浄土から阿弥陀如来が観音菩薩として様々な姿で衆生の前に現れて助けて下さる。この恩恵に浴する念佛の行者は、何の苦労もなく浄土に至り、その楽しみには限りがない。その道を辿っていると知れば、邪心の引き起こす迷いも無くなる。悟りを得る西方浄土も、この誓願寺からは遠くない。ただ心の持ち方一つで此処こそが浄土なのだと拝むのです。」

歌舞の菩薩が様々な佛事をなし、清浄の気が辺りに満ちる。暫しその法悦境に浸っていると、思いは現実世界に生きる自分に帰って来る。

其処で一人なお、南無阿弥陀佛と称えるのです。

その一人一人の称名の声が大きな響きとなり、虚空には天上の歌が流れ、甘やかな香りに包まれて花が雪の様に降る。菩薩たちは舞い乱れ、一遍上人の教えを讃えて、六字の額に礼を尽くす。

この誓願寺で繰り広げられたこの有様は、本当に得難く尊い、有難い事であった。

   《引用終了》

展開に於いて意外なのは、中所氏もこの後で述べておられる通り、ここにはかの『恋多き女流宮廷歌人としての和泉式部の姿は全く描かれて』おらず、それどころか、彼女の『和歌の一首さえ歌われ』ていない点で、これについて中所氏は謡曲「誓願寺」はたまたま、この『誓願寺に和泉式部の墓と伝えられる石塔があったので、シテを和泉式部に設定したのであって、もし其処に清少納言の墓があれば清少納言をシテとした』であろうと推測された上で、『そう言う意味で、この曲の主眼はむしろ一遍上人に据えられていると言え』とされる。しかしかと言って、『一遍上人の生涯に目を転じれば、確かに三熊野での霊夢は時宗草創の一大画期ではあ』るものの、御札賦算(ふさん:私の後注参照)時の『女信者との六十萬人問答や、和泉式部の幽霊との遭遇説話(この説話自体、本曲以後の創作である可能性も高い』『)などは、後々踊り念佛を創出した後の諸国遍歴の姿などに比べれば、さして魅力を感じ』ない点では、実は『作者の目は一遍上人の上にもそれ程の重きを置いていない』と断ぜられた上で、この「誓願寺」の謂わんとするところのものは『私には、霊夢を得て己れの道を定めて歩き始めた者を、歌舞の菩薩が祝福する、その一事にあると』される。以下、非常に興味深い考察なので、敬体の引用元のまま引用を終わらさせて戴く。

   《引用開始》

哲学者の井筒俊彦氏によれば凡そ東洋哲学に共通する神秘主義には、例えば坐禅による悟りや、神の啓示、霊夢などの神秘体験が実体験としてあり、また多くの優れた芸術家にもそれを窺わせるものが確かにあるとの事です。最近の人では宮澤賢治は当に神秘家でしょうし、古代では空海がそうでしょう。夢幻能を作り出した世阿弥がこれに列なるのは当然の事と思います。

観阿弥は非常に優れた役者であり劇作家でしたが、物狂いや神懸かりと言う現実世界の現象としてしか超越世界を捉えていません。世阿弥の天才と特異さはこの点にあります。

他でもない世阿弥が何処かで何らかの神秘体験をしたのです。歌舞の菩薩と言う存在を作り出す訳ですから、それは本番か稽古かはわかりませんが、舞を舞っている最中の事かも知れません。

それでは何故、己れの神秘体験を投影する素材として一遍を選んだのでしょうか。おそらくは芸能民も含めた「道々の者」達にとって、一遍は念佛の教えを自分達に広めた特別な存在だった事もあり、また、一の谷近くで終焉を迎えた上人の足跡が大変に親しいものだったからだと思います。

以前に「『自然居士』と『東岸居士』」を論じて、『東岸居士』を、世阿弥が初めて曲舞を作り、其処に自分の独自性を確立して行こうとする宣言の曲だと断じた事がありますが、その『東岸居士』の曲舞も一遍法語の引き写しでした。

私はこの『誓願寺』こそ、世阿弥の最初の夢幻能だと思います。後々の多くの傑作に繋がる「歌舞の菩薩」が登場する最初の曲でもあるでしょう。

   《引用終了》

「京誓願寺」現在の京都市中京区新京極通三条下ル桜之町にある浄土宗西山深草派総本山誓願寺。ここ(グーグル・マップ・データ)。本尊阿弥陀如来。ここは宇治から直線距離で十三キロメートルはある。ウィキの「誓願寺」によれば、天智六(六六七)年に『天智天皇の勅願により奈良に創建。三論宗の寺院となるが、いつしか改宗し、法相宗の興福寺の所有となっていた。その後、誓願寺は法相宗の蔵俊僧都が法然上人に譲ったことにより、浄土宗の所属となる。そこに法然上人の弟子である西山上人証空が入り、自らが唱える西山義の教えを広め始め、浄土宗西山派が成立して』行き、天正一九(一五九一)年には、『豊臣秀吉の命を受けて現在の新京極へ移転し、秀吉の側室であった京極竜子とその生家の京極家から広い敷地が与えられ』、『木食応其の勧進もあり』、慶長二(一五九七)年には『落慶法要が行われ、高野衆』五十『人が参列したという。天明、弘化、元治年間に三度大火に罹り、さらに明治維新とそれに続く廃仏毀釈で寺地を公収され』、『境内は狭隘となったが、扇の塚のある寺として芸能関係にはよく知られた寺である』。『京都御所に近いことから朝廷との交流も多く見られた。能の曲目に『誓願寺』があるが、この本山のことを指している。説教から発達した講談、落語、漫才などの芸人の成就を祈願する寺として知られている。また、落語発祥の寺とも言われている』とある。

「七つ下がり」現在の午後四時を過ぎた頃。

「六十萬人決定往生」時宗に於いては「南無阿彌陀佛決定往生六十萬人」と記した札を配るが、これを「賦算」と呼ぶ。これはウィキの「賦算」によれば、「六十万人」の意には二説あり、一つは、『時宗宗門の伝統的教えによると、一遍の偈(『一遍聖絵』第三)、「六字名号一遍法 十界依法正一遍体 万行離念一遍証 人中上々妙好華」の四句の首字をとったものと解されている』。一方で、「一遍聖繪」の第三では、『「六」は「南無阿弥陀仏」の六字名号を、「十」は、阿弥陀如来が悟りを開いてからの十劫という長い時間を、「万」は、報身仏である阿弥陀如来の「万徳」(あらゆる徳)を、「人」は、一切衆生が往生して、安楽世界の人となることを意味するとする』という。『いずれにしても、極楽往生ができる人数を数的に』六十『万人に限定することを意味し』たものではないことは明白であることは押さえねばならない。即ち、浄土教を源とする時宗の、「一切衆生の往生は弥陀の本願によって既にして決定(けつじょう)している。されば念仏によって生きとし生けるものは極楽往生する」ということを指すと考えてよい。「一遍聖繪」の『第二によると、一遍が四天王寺で仏戒を受けてから、念仏を勧めて賦算を始めた』とし、同絵詞の第三では、『「一念の信をおこして南無阿弥陀仏ととなへて、このふだをうけ給ふべし」といって、一念の信を起こすことと、「南無阿弥陀仏」と称することを条件に札を配っていた。しかし既に一切衆生の往生は南無阿弥陀仏と定まっているので、受け取る人の、信・不信、浄・不浄を嫌わずに配るべきである、という夢における熊野権現の神勅に基づいて、その後は、無条件で配ったという。これと踊念仏によって時宗は鎌倉時代から室町時代にかけて大いに発展した』とある。

「袖片敷くにも有らざれば」自分の衣服の片袖を敷いて仮り寝をしたわけでもなかったので。終夜念仏を唱え、姿勢を崩したわけでもなかったことを自身で確認出来たことを指す。

「ありしを儘の現(うつつ)なり」夢なんぞではなく、実際に見たそのままの確かな事実であった。

「糾(あざ)へ」絡み合わせて。組み合わせ、交差させて。

「人目の隙(ひま)を數(かぞ)へ」人の目の隙(すき)をさっと窃(ひそ)かに偸(ぬす)んで。

「散錢(さんぜん)」仏前に上げられた賽銭。

「二、三町」二百十八~三百二十七メートル。

「關(せき)」人の出入りを取り締まる関所を人の視線に擬えたもの。

「二十文」江戸初期の一文は二十円から二百円相当であるから、四百円から四千円相当にはなる。翌一日を安楽に過ごせるというのだから中をとって千円か二千円というところか。

「かく仕染(しそ)めてよりこのかた」このうま味をを味わってしまって、それにすっかり狎れてしまってよりこの方。

「申の下刻」午後四時台。

「恭敬(くきやう)するよしにて」参詣を兼ねてのことでありますから。「よし」(由)は装っての意味ではあるまい。身勝手な自己正当化ではあっても、確信犯ではないのである。

「三季(みとせ)」三年。

「大悲の憐愍(れんみん)」阿弥陀如来の広大無辺な大慈悲心の絶対の憐憫。

「貴士(きじ)」正法(しょうぼう)に衆生を導く仏菩薩や現世の僧。山伏個人を指すものではない。

「一紙(いつし)の信施(しんせ)」価値も何もないただの紙切れ一枚の布施。

「二時(ふたとき)」四時間。]

2017/06/28

宿直草卷二 第七 似たるは似てさらに是ならざる事

 

  第七 似たるは似てさらに是(ぜ)ならざる事

 

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[やぶちゃん注:挿絵は底本のもの。]

 

 右にかはれる話あり。さる所に器量骨柄(ことがら)、水たるやうの、若き者、寄りあへり。

 奈良茶などきしりて、腹おほきなる夜、

「その宮こそ妖(ばけもの)ありて、牛馬(ぎうば)人間の別(わき)もなく、摑み食(くら)ふ鬼なんすむ。巷(ちまた)、此はなしのみなり。」

といふ。一人、聞(きゝ)て、

「摑まるゝものは摑まれもせよ、我におゐては行くべし。」

といふ。傍(そば)なる人、

「いはれぬ若氣(わかげ)なり。無用。」

といふにぞ、猶、募(つの)りて云ひける。後には、止(と)め手(て)もなく、行くべきになり、成るまじきにいひけして、はや、賭(かけもの)になる。

「此札、宮の柱に、をせ。」

なんどいひて、滿座、これが相手となる。

「さらば。」

と、印(しるし)をとり、座をたつ。

 殘りし人々、

「さては行(ゆき)なんぞ。向後(きようこう)、わなみ、女わらんべともいはん。誰にても先へ𢌞り、かの者、脅(おど)せかし。」

といふ。

「尤(もつとも)。」

とて、其(その)座にはやりし者、白き物を着、さばき髮になりて宮へ行きしが、

「人をさへ『無用』と云ひしに、徑路(たつき)もしらぬ此處へきたる、はかなき我が心かな。」

と、うつつとしもなく、いまやいまやと待つにも、まだき見えざれば、心細さのあまり、鳥居にあがりて、あらぬ事のみ思ひつつ、抱きつきて侍り。

 さて又、はじめの者も、

「詮(せん)ない爭ひして、今更、止(や)まるべくもなし。行かでかなはぬ。」

と心得て、印の札、取(とり)出したるは、やさしくもみゆれど、くやむ心の臆病さは、かの綱には似げなくぞ侍る。

 此さまにてただに出でんも恐ろしければ、頭(かしら)にしやぐま被(かづ)き、身に赤色(あかいろ)の物をき、顏(つら)には鬼の面(めん)を當(あ)て、腰の刀の差し姿、あつぱれ、鬼神(きしん)もかくやと見えし。

 しかはあれど、羊質虎皮(やうしつこひ)の譬(たと)へなれや、姿恐ろしうして、心はあくまで取り亂せり。宮へ行くにも、見やり見かへりなんどして、進まぬ體(てい)にて、程ちかくなる。

 かくて、宮にある男は、いとゞ待ちかねたるに、馬場前(ばばさき)へ足音して、物影、かすかに見えたり。

「すは。來りたるは。やら、嬉しや。」

と力を得、といきながらに脅さんと巧む(たく)み、やうやう近づくを見れば、それにはあらで、赤鬼なり。

「こはいかに。なにとなる悲しや。」

と震(ふる)ひつゝも、鳥井(とりゐ)にしがみ付ゐるに、はや、下へ來りぬ。

 また、件(くだん)の鬼殿(おにどの)は、はや、宮なるが、いかなる事かあるらんと思へば、摑(つか)みつくやうに怖(こは)し。

 鳥井の柱に寄り添ひて、方方(はうばう)と遠目(とをめ)つかふに、息ざしするが如くに有(あり)ければ、仰(あふ)のひて見るに、笠木(かさぎ)のうへに、色白き物、あり。

 『南無三寶』と思ふ内、上なる者もたまりえで、鬼が上へ、どうと、落つ。

 鬼はまた、『化物のつかむにこそ』と『助け給へ』といひもあへず、これもまた、倒れけり。

 ともに絶入(たえいり)て、氣つかず。

 宿(やど)に殘りし者、あまり遲さに行て見るに、鬼も化け物も同じ枕に臥(ふ)したり。やがて、呼び生(い)けて、藥などのませて本性(ほんしやう)となれり。

「かく、似せ者は役に立たぬものか。」

とて、大笑ひになりて、止(や)めり。

 闇(やみ)に二人の僧、有(あり)て、互ひに鬼見(きけん)をなす。夜、明(あけ)て見るに、親しき友どちにてありしと。佛(ほとけ)、經(きやう)に譬(たと)へ給へり。これまた、その類(るい)なり。

 

[やぶちゃん注:本書では初めての肝試し失敗型の疑似怪談大爆笑パロディ物である。この肝試しに行く肝の小さい男の扮装は明らかに能の鬼の格好であるが、川底に溜まった漆を独り占めにするために、この恰好をして人を脅したものの、悲劇の最後を遂げる「諸國百物語卷之五 十三 丹波の國さいき村に生きながら鬼になりし人の事」がある。未読の方は、是非、どうぞ。標題「似たるは似てさらに是(ぜ)ならざる事」は、冒頭で「右にかはれる話あり」で判る通り、前の話(女の本性は肝が太いこと)と「よく似ている話ではあるが実はそうではない肝っ玉のまるでない情けない話」に、「化け物に実に似ているものは、似ているようで、実はそうではないという笑い話」の謂いを掛けている謂いか。本文には笑いの雰囲気と臨場感を出すために、改行と記号をオリジナルに追加してある。なお、注の最後に至ったあたりで、とあるフレーズで検索をした結果、これにそっくりな狂言「弓矢太郎」(現行では和泉流のみで上演)が存在することをネット上で知った。天神講での連歌仲間の話として、より複雑な展開を示し、狂言としては上演時間五十分余りとかなり長く、しかも登場人物は八人もいる異例な作品らしい。その「弓矢太郎」について私が最初に参照したのは、juqcho氏のブログ「塾長の鑑賞記録」のである。是非、読まれたい。また、最後の注にも出す岩崎雅彦論文狂言「弓矢太郎」と「鬼争」の構想PDF)によれば、鷺流(大正以降に廃絶した狂言流派)の「鬼争」はより本篇に近いとし、その成立の影響関係を書誌的には確定出来ないものの、最後の注に示す仏教の経典及び注釈書に載る仏教説話を元に狂言が書かれ、それに影響を受けて「宿直草」の本篇が書かれたものと推定してよいようである。

「器量骨柄(ことがら)、水たるやう」男としての器量も人格も全く以って水のように手応えのないどうしようもない奴らの謂いか。

「奈良茶」「奈良茶飯」(ならちゃめし)。大豆・小豆・栗などを入れた塩味の茶飯。混ぜご飯。もともとは奈良の東大寺・興福寺などで作ったというところからの呼称。

「きしりて」齧るように喰らい。ばくばくと食い。

「腹おほきなる」すっかり満腹になった。冒頭から登場人物総てが食うことしか能のない愚か者どもであることを描出する。

「此はなしのみなり」「この話で持ちきりだぜ。」。

「いはれぬ若氣(わかげ)なり。無用。」「言わぬが花の若気の至りだ。止めとけ!」。

「募(つの)りて云ひける」売り言葉に買い言葉で、互いに激しく言い争うこととなってしまったのであった。

「止(と)め手(て)もなく」制止する術(すべ)がなくなり。

「行くべきになり」「絶対、行ってやろうじゃねえか!」と啖呵をきることとなってしまい。

「成るまじきにいひけして」「そんなことは出来やしねえだろが!」と口に出して否定して揶揄した結果。

「はや」遂には。

「をせ」「確かに行ったという証拠として差して来いや!」。

「滿座、これが相手となる」満座の者が、行くと言ってきかない、その一人の男と相手になって賭けをすることとなった。

「さては行(ゆき)なんぞ」「あんだけの啖呵を切った以上は、あの野郎、必ず行くべえよ。」。

「向後(きようこう)」(それを言った通りに成し遂げて仕舞ったら)これ以降。

「わなみ、女わらんべともいはん」「わなみ」は代名詞一人称で対等の相手に対して用いるから、ここは「俺たちのことを意気地なしの『女子供』と蔑称するに違いねえ。」か。

「さばき髮」ざんばら髪。幽霊・化け物の真似である。

 

「人をさへ『無用』と云ひしに」格助詞「を」がやや気になるが、あの馬鹿を除いて、満座の者が「やめとけ!」と言ったのに。

「徑路(たつき)もしらぬ此處へきたる」「徑路」は底本の当て字。この字面だと、その宮へと行く経路もよく知らぬの謂いとしか読めないが、だったら、「此處へきたる」と続いて、確かにその宮へ辿り着いているのとうまくジョイントしない(但し、能狂言ではありそうな台詞のようには見える)。されば、この「たつき」は「方便」で「様子・ありさま」の謂いなのではあるまいか? 要するに、来てはみたものの、あまりよく境内の様子も知らず、夜のこととて身を隠す場所も覚束ない、というのではあるまいか? だからこそ、彼は物蔭に潜むのではなく、鳥居の上に登るしかなかったのだとすれば、私は納得がいく。

「はかなき我が心かな」脅し役の徹底した情けない心情をリアルに活写して面白い。

「うつつとしもなく」呆然として。

「まだき」「未き」で副詞。肝試しの男よりも早く来過ぎてしまったことを言っている。

「心細さのあまり、鳥居にあがりて、あらぬ事のみ思ひつつ、抱きつきて侍り」まさにこの辺りは能狂言のようである。

「詮(せん)ない」馬鹿げた無益な。

「やさしくもみゆれど」殊勝なようにも見えはするものの。

「かの綱には似げなくぞ侍る」「綱」は源頼光の四天王の筆頭として知られる平安中期の武将渡辺綱のことであろう。彼は頼光とともに大江山の酒呑童子を退治し、京の一条戻橋の上で鬼の腕を切り落とした逸話で知られる。序でに言っておくと、彼は無双の剛勇であったと同時に美男としても有名であったから、ここでその比較による落差がさらに笑いを誘うのである。

「しやぐま」「赤熊」。或いは「赭熊」とも書く。赤く染めたヤク(ウシ目ウシ亜目ウシ科ウシ亜科ウシ属ヤク Bos grunniens の尾の毛。ウィキの「ヤク」によれば、インド北西部・中国(現在の甘粛省及びチベット自治区)・パキスタン北東部に分布し、このヤクの尾の毛は、本邦では『兜や槍につける装飾品として武士階級に愛好され、尾毛をあしらった兜は輸入先の国名を採って「唐の頭(からのかしら)」と呼ばれた』とある)また、それに似た赤い髪の毛。仏具の払子(ほっす)・鬘(かつら)、兜(かぶと)・舞台衣装・獅子舞の面の飾りなどに用いる。

「羊質虎皮(やうしつこひ)」中身は羊で、外観は虎の皮を被っていること。見かけ倒しで内容が伴わないことの譬え。前漢の揚雄の著になる思想書「揚子法言(ようしほうげん)」(「論語」に擬して問答形式で儒教思想を説き、孟子の性善説と荀子の性悪説との調和を試みたもの)の「吾子(ごし)卷第二」に基づく故事成句。

「宮へ行くにも、見やり見かへりなんどして」「見やり」は「見遣り」で、そっちの方を遠くから見やる。さらに後ろを見返してばかりいる、即ち、気後れがして歩が進まぬさまをダメ押しで表現している。序でに「宮」の「みや」を「見やり」の「みや」に掛けて面白おかしく洒落てもいるのであろう。

「馬場前(ばばさき)」宮の神域なので、鳥居の手前の馬止めを言う。

「やら」感動詞。「やあ!」「ああ!」。

「といきながらに」「吐息乍に」か。今は遅しと待ちながら、自分も怖くて仕方がないので、溜息交じりながらも。

脅さんと巧む(たく)み、やうやう近づくを見れば、それにはあらで、赤鬼なり。

「なにとなる」何という。

「摑(つか)みつくやうに怖(こは)し」誰かに抱きつきたくなるほど恐ろしい。「摑む」はこの宮に巣食っているという「妖(ばけもの)」が「牛馬(ぎうば)人間の別(わき)もなく、摑み食(くら)ふ鬼」であるという噂を引っ掛けた滑稽表現であろう。

「息ざしする」何か妖しのものが荒く息遣いする。

「鬼はまた」「化物のつかむにこそ」鬼に変装して来た肝試しの男は「本当の鬼が俺を摑んだッツ!」と思い、「どうか、お助け下され!」と声をあげることもままならず「これもまた、倒れけり」で、脅しの男はもともと気絶して落ちたのであるが、肝試しの男もそれで気絶してしまったのである。

「鬼も化け物も同じ枕に臥(ふ)したり」喜劇のクライマックスである。

「本性(ほんしやう)となれり」二人とも正気に戻った。

「似せ者は役に立たぬものか」肝試しの男の無益な鬼に酷似させた装束も、脅しのために赴いた男の如何にもちゃすい化け物に似せた白装束のざんばら髪も「似せ者」はやっぱり「贋者(にせもの)」なれば、役に立たんわい! という言上げと、人々の哄笑で、この喜劇の舞台の方の幕は閉じるのである。

「闇(やみ)に二人の僧、有(あり)て、互ひに鬼見(きけん)をなす」ある全くの闇夜のこと、ある僧が一人、また別の僧が一人、それぞれ別個に互いの行動を知らずに、「鬼見」、妖異心霊を見んとして、確かにその姿を捉えた。因みに、主に道教や陰陽道では「見鬼(けんき)」と称して、常人には目に見えぬはずの死者の霊や鬼神妖怪を見ることの出来る能力を有する者があるとする。

「佛(ほとけ)、經(きやう)に譬(たと)へ給へり」岩崎雅彦論文狂言「弓矢太郎」と「鬼争」の構想PDF)によれば、『岡雅彦氏はこれは「百喩経」所載の話で、さらに類話が「宝物集」「雑談集」にも見えることを指摘されている』とされ、この「百喩経」とは『計九十八話の譬喩因縁話を集めた譬喩経の一つで、五世紀の成立。四九二年に漢訳され、日本では寛永三年(一六二六)に出版されている』とあり、以下、その『巻三の六十四の「人謂故屋中有悪鬼喩」が当該話である』として原文と書き下し文(人、故屋の中に悪鬼有りと謂ふ喩)を示しておられるので引用させて戴く。

○原文

   《引用開始》

昔有故屋。人謂此室常有悪鬼。皆悉怖畏不敢寝息。時有一人。自謂大譫。而作是言我欲入此室中寄臥一宿。即入宿止。後有一人。自謂譫勇勝於前人。復間傍人言此室中恒有悪鬼。即欲入中排門将前。時先人者謂其足鬼。即復推門遮不聴前。在後来背後謂有鬼。二人闘諍遂至天明。既相覩已方知非鬼。

   《引用終了》

○書き下し文

   《引用開始》

昔故屋有り。人、「此の案に常に悪鬼有り」と謂ふ。皆悉く怖ぢ畏れ敢へて寝息せず。時に一人有り。自ら「大譫」と詔ふ。而して是の言を作す。「我此の室中に入り、寄臥し一宿せんと欲す」。即ち入り宿止す。後に一人有り。自ら「譫勇前の人に勝れり」と謂ふ。復た傍らの人の言ふを聞く。「此の室の中に恒に悪鬼有り」。即ち中に入らんと欲し、門を排き将に前まんとす。時に先に入る者、其れを「是れは鬼」と謂ひ、即ち復た門を推し、遮りて前むを聴さず。後に在りて来たる者、復た「鬼有り」と謂ふ。二人闘諍し遂に天明に至る。既に相覩て巳に方に鬼に非ざるを知る。

   《引用終了》

この後に岩崎氏は『悪鬼が住むという隙のある古い家に、一人の胆力自慢の男が泊まる。後からもう一人これも剛胆な男がやって来てこの家の中に入ろうとする。二人はお互いを鬼と思い戦うが、夜が明けて鬼ではないことに気づく。この後に』、『然れば諸衆生、横しまに是非を計り、強ちに訴訟を生ず。彼の二人の如く、等しく差別なし。』『と結び、諸衆生の差別のないことを説いている』と解説しておられる。但し、この原典を見る限りでは、二人は友人ではない。実は、岩崎氏はこの後で、『さらにこれらの類話が、天台僧栄心の箸で天文十五年(一五四六)以前成立の「法華経」の注釈書』(経典ではない)「法華経直談の中の『「女児思戦事」に見えることが堤邦彦氏により指摘されている』として、やはり原典を以下のように示しておられる。

   《引用開始》

一人ノ比丘有リ。道ヲ行ニ日暮テ、有里ニ立寄宿ヲ借ニ、処人云様ハ、「此里ニハ宿ヲ不ㇾ借法也。山ノアナタニ古堂有リ。彼ニ行テ留給へ」ト教ケリ。「但其ノ堂ニハ、夜ニ成ハ鬼神有テ人ヲ悩ス也。用心有レ」ト云ケリ。彼僧怖クハ思へドモ、宿無間不ㇾ及ㇾ力、行テ堂内ニ入テ戸閇居リ。亦別ノ僧一人来テ、如ㇾ今宿ヲ借ニ「彼堂ヱ行テ留レ」ト教。此僧モ怖ヂ々行テ戸ヲ開テ党内へ入ントスルニ、内ナル僧ガ思様ハ「外ヨリ鬼来テ戸ヲ開」ト心得テ、杖ヲ以ハタト打。又外ヨリ来僧ハ「内ヨリ鬼我ヲ打」ト思、「何程ノ事可ㇾ有」心得テ、又打。如此明迄互ニ戦也。夜明テ見バ、終夜戦タル者ハ知人也。是即闇夜故ニ知人ヲ不ㇾ知シテ鬼ト心得テ戦也。

 是ヲ法ニ合ル時、我等衆生ハ迷故ニ自他之隔情ヲ存シ、我ヨ人ヨト思ヒ、敵ニ非ヲ敵ト心得テ戦也。

   《引用終了》

そうして岩崎氏は、『「宿直草」には、闇で二人の僧がお互いを鬼と思い、夜が明けてみると親しい友達であったと「仏経」にあるとしている。これは知り合いではない二人の男という設定の「百喩経」よりも、二人の知人の僧という設定の「法華経直談抄」に近い。安静の念頭にあったのは「百喩経」の形ではなく、「法華経直談妙」に見られるような話だったのだろう』と分析しておられる。目から鱗!]

宿直草卷二 第六 女は天性、肝ふとき事

 

  第六 女(をんな)は天性(てんせい)、肝ふとき事

 

Onnatensei

 

[やぶちゃん注:挿絵は底本のもの。]

 

 津の國富田(とんだ)の庄の女、郡(こほり)をへだてゝ、男の方(かた)へかよふ。道も一里の余(よ)ありければ、行きて臥すにも暇(ひま)惜しむのみ也。また、さだかなる道にもあらず。田面(たづら)の畦(あぜ)の心細くも、人をとがむる里の犬、露の玉散る玉鉾(たまぼこ)の、道行(みちゆく)人の目繫(しげ)きをも、忍び忍びに通ひしは、げに戀の奴(やつこ)なりけり。賤(しづ)が夜なべの更け過ぎて、曉(あかつき)まだき夜(よ)をこめしも、情(なさけ)にかゆる有さま、いとあやかりたきわざなりけらし。

 この通ひ路(ぢ)に西河原(にしかはら)の宮(みや)とて、森深き所有(あり)。そこを越ゆるに、また、渭(い)のための溝(みぞ)あり、一つ橋ありて渡る。

 ある夜、この女の通ふに、例の橋なし。其溝、上り下りて見るに、非人のまかりたるが、溝に橫たはり、仰(あふ)のけになりて臥(ふ)す。女、

「幸ひ。」

と思ひ、かの死人(しびと)を橋に賴みて渡るに、この死人、女の裾を銜(くは)へて離さず。引きなぐりて通るが、一町ばかり行き過(すぎ)て思ふやう、

「死人(しびと)、心なし。いかで我が裾を食はん。如何樣(いかさま)にも訝(いぶ)かし。」

と、また元の所へ歸りて、わざと、己(をの)が後(うしろ)の裾を、死人の口に入れ、胸板(むないた)を蹈まへ、渡りて見るに、元の如く、銜(くは)ゆ。

 さてはと思ひ、足を上げてみれば、口、開(あ)く。

「案のごとく、死人に心はなし。足にて蹈むと蹈まぬとに、口を塞(ふさ)ぎ、口を開(あ)くなり。」

と合點して、男の方(かた)へ行く。

 さて、敷妙(しきたへ)の枕に寄り居(ゐ)て、右のことを賞(ほ)められ顏(がほ)に話す。男、大きに仰天して、その後(のち)は逢はずなりにけり。

 げに、理(ことは)りなり。かゝる女に、誰(たれ)とても添ひ果てなんや。天性(てんせい)、女は男(おのこ)より猶、肝(きも)太きものなり。そこら、隱すこそ、女めきて、よけれ。似合はぬ手柄(てがら)話、「臆病になき」などいふ人は、たとひ、其人に戀すてふ身も、興醒(けうさ)めてこそ止(や)みなん。只人(たゞうど)の女とても、肝太き袖は㒵(かほ)眺めらるゝわざよ。まして、上(うえ)つ方(かた)はさらなり。松虫・鈴虫のほかに、異樣(ことやう)なる虫見たるときも、

「あ、怖(こは)。」

など、答(いら)へたるは、氣高(けだか)きよりは心憎し。

 

[やぶちゃん注:本話は湯浅佳子氏の論文『「曾呂里物語」の類話』によれば、先行する「曾呂里物語」の巻二の七「天狗はなつまみの事」のインスパイアである。私は「曾呂利物語」の書籍版を所持しないので、同論文から梗概を引用させて貰う。

   《引用開始》

 三河国のどうしんという坊主は怖いもの知らずの者である。平岡の奥の古宮の社僧であったが、人々に斎非時[やぶちゃん注:「ときひじ」。「斎」僧の正式な一日一度の午前中のみの食事。「非時」はそれでは実際にはもたないので午後に採る非公式の食事を指す。]を乞うていた。ある時道端で死人があり、坊主が腹を踏んで通ると、死人は坊主の衣の裾を銜えて引き止めた。坊主がなお腹を押さえると離した。踏むと口を開き、足を上げると銜える(無刊記版。寛文三年版では足を上げると離す、とある)。その後、坊主は寺の門前の大木に死人を縛り付けた。夜更け、死人がだうしんの名を呼び、自ら縄を解いて寺に入ってきた。坊主が右腕を斬り落とすと、死人は消えた。夜明けに参詣の老女が訪れ、坊主が出来事を話すと、老女は斬った腕を見たいと所望し、自分の腕だといって体に差し接いで帰り、あたりは再び暗闇となった。後に、本当の老女が訪れて坊主を介抱したが、その後坊主は臆病者になってしまった。これは、坊主の高慢の鼻を天狗がつまんだのだ。

   《引用終了》

ご覧の通り、「曾呂利物語」は真正の怪談であるのに対し、こちらは主人公を男の元に通う女の疑似的怪異体験に変え、それを物理的現象として説明し、それを別に現実的に、本来の女性が汎用属性として持っている(と筆者の主張するところの)現実に対する先天的な〈肝の太さ〉という〈女の本性の恐ろしさ〉への指弾(というか、その「げに恐ろしきは女の本性」というホラー性という点では立派に怪談ではある)というテーマへとずらしてある。また、この「曾呂利物語」版は「諸國百物語」の「卷之一 三 河内の國闇峠道珍天狗に鼻はぢかるゝ事」で遙かに原話に近い形でインスパイアされてある(リンク先は私の電子化注)。なお、ここで荻田が暗に謂いたいその濫觴は言わずもがな、「伊勢物語」の第二十三段、所謂、「筒井筒」の、「高安の女」が「はじめこそ心にくもつくりけれ、いまはうちとけて、てづから飯匙(いひがひ)とりて笥子(けこ)のうつはものにもりけるを見て、心うがりていかずなりけり」であり、また、今風に批判するなら、男性の身勝手な差別意識に基づく限界性を持ったように見える最後に称揚される女性像でさえも、かの紫式部がその日記で清少納言を批判した内容に起原を求められるものであろうと私は思う。

「津の國富田(とんだ)の庄」現在の大阪府高槻市富田町一帯。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「郡(こほり)をへだてゝ」富田の庄は急島上(しまかみ)郡。郡を越えてはいるが、距離は一里とするなら男のいたのは「島下(しましも)郡」か。後に出る「西河原(にしかはら)の宮(みや)」は不詳であるが、単純に「西」から、富田から西に「一里」、四キロメートルも行けば、旧島下郡に属する茨木市である。

「露の玉散る玉鉾(たまぼこ)の、道行(みちゆく)人の」男のもとに通う夜道の夜露の美称表現の「露の玉散る」から「玉」で「道」の枕詞である「玉鉾の」を引き出した。

「戀の奴(やつこ)」恋の虜(とりこ)・奴隷。

「賤(しづ)が夜なべの更け過ぎて」「夜なべ」(夜鍋:深夜に鍋で夜食を作りつつをしたことに由来するとされる)仕事は「賤」、貧しい民のみのすることで、そこから逆方向で、女が男のもとに通う「更け過ぎ」た「夜」の時間を引き出したに過ぎない修辞。

「曉(あかつき)まだき夜(よ)をこめしも」暁にならぬごく短い間の逢瀬に心をこめんがためと夜道を急ぐのも。

「情(なさけ)にかゆる有さま」恋の思いを、深夜の道を男のもとへと走らせるという実行動に「替ゆる」様子。

「いとあやかりたきわざなりけらし」と見かけ上、この女をヨイショするのである。そうしておいてあらためて〈あら、恐ろしき本性(ほんしょう)じゃわいのう!〉と蹴落とすのである。極めて厭らしいアイロニカルな手法である。

「渭(い)」岩波文庫版の高田氏の注では『灌漑のために掘る通水路』とする。

「例の橋なし」流失してしまっていたのであろう。富田の庄一帯はやや小高い丘となっており、当時は南北と西の三方が湿地帯で、富田自体は淀川による水運の便はよかったものの、その周辺域はかなりの水害を被った地域であったから、かく、橋が流されてしまっていたとしてもおかしくはない。ともかくもこれ自体は怪異でもなんでもなく、その水路は女がひょいと飛び越えるには有意に川幅があり、水量も多かったのである。

「非人」私の「小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附原文 附やぶちゃん注(16) 組合の祭祀()」の「非人」の注を参照されたい。

「まかりたるが」死んでいる者が。行路死病人である。

「引きなぐりて」引き外して。裾をぐいと引っ張って口から外し。

「一町」百九メートル。

「敷妙(しきたへ)の」「しきたへ」(「敷栲」とも書く)は原義は「寝床に敷く布」で、また「枕」を指す女性語でもあるが、ここは文字通り、「枕」の枕詞。「敷妙」に関わることから「枕」の他、「床 (とこ)」・「衣」・「袖 」「袂」「黒髪」「家」などの枕詞となる。

「賞(ほ)められ顏(がほ)」疑似的怪異の真相を理路整然と解き明かしたことを褒められたいといった感じがありありと窺える顔で。非人とは言え、死者を橋代わりに踏みつけにしたばかりか、彼女が死体が裾を噛み銜えたという事態を全く恐懼しなかったばかりか、死んだ奴が裾を銜える道理があろうはずがないと不審を抱き、わざわざ舞い戻って、説明出来る事実を、遺体の胸を何度か踏みつけることで、ただ顎が閉じたり開いたりするだけに過ぎないという物理的実験によって実証証明した。その一連の行動と考察に過程に於いて、自分の成したことを何ら、不謹慎・不道徳にして非道な人非人のすることと微塵も認識していない。それどころか、それを「褒めてよ」顔で自慢したのである。この男ならずとも、私でも「大きに仰天して、その後(のち)は逢はずなりにけり」とすること間違いない。だって万一、こんな女に恨まれでもしたら、何をされるか考えてみれば判ることだ。

「臆病になき」「あたしって臆病じゃ、ないわよ。」。

「只人(たゞうど)」一般庶民。

「袖」人。

「㒵(かほ)眺めらるゝわざよ」相手にはなはだ呆れられて凝っと見つめられるのがオチだ。

「上(うえ)つ方(かた)」中・上流階級の女。

「松虫・鈴虫のほかに」鳴き音を楽しんだこれらの虫は(荻田には)例外とされている。因みに私には孰れもゴキブリとたいして変わらぬようにしか見えず、触りたくない昆虫である。

「異樣(ことやう)なる虫見たるとき」荻田にとっては「松虫・鈴虫」型でない昆虫は怪異(けい)なのである。清少納言のように(「枕草子」第四十段「虫は……」)動く小さな木の枝みたような妖しい「われから」(甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱フクロエビ上目端脚目ドロクダムシ亜目ワレカラ下目 Caprellida に属するワレカラ類)や、パッチンパッチン音をさせる「額づき虫」(昆虫綱鞘翅目(コウチュウ)目カブトムシ亜目コメツキムシ上科コメツキムシ科 Elateridae の「米搗き虫」類)、夏の夜に怪しく灯に近づいては飛び込んで捨身する驚くべき「夏虫」(灯取り虫:昆虫綱鱗翅目の中の蛾(ガ)の類)なんぞは怪虫なんではあるまいか? 因みに私は海産動物はオール・クリアーで何でも平気なのではOK、「米搗き虫」も平気(刺毒等を持たない種で、クチクラ層が堅い昆虫群はどちらかというと大丈夫)であるが、蛾はダメ!

「氣高(けだか)きよりは心憎し」「虫尽くし」などを得意げに論っては博識をひけらかし、それをまた「雅び」なこととしてお高くとまっているどこかの才媛なんぞよりは、カマトトぶってでも、「おお、怖(こわ)!」と怯えたふりをして(本当に怯えているのならもっとよい)私の袖をきゅっとつかむような女の方が、これ、遙かに心惹かれるね、といったニュアンスであろう。]

2017/06/27

柴田宵曲 續妖異博物館 「不思議な車」

 

 不思議な車

 

 崔彦章といふ人が客を送つて城東に宴を張つた時、どこからともなく小さな金色の車が現れた。高さ一尺餘り、席を一巡する樣子が何か求むるところあるものの如くであつたが、彦章の前まで來ると、ぴたりと止つて動かなくなつた。彦章の眼には何が見えたものか、その場に倒れ、輿に乘せられて饒州に歸つた。幾何もなく彼の訃が傳へられた。

[やぶちゃん注:「崔彦章」「さいびんしょう」(現代仮名遣)と読んでおく。

「饒州」(じょうしゅう)は現在の江西省上饒市鄱陽(はよう)県一帯に相当する。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

 十朋といふ僧が弟子を連れて澄心僧院に宿ると、初夜(午後八時)の窓外が急に明るくなつた。一團の火の燃える中に金の車があつて、火と一緒にごろごろと音を立てて行く。十朋は初め頗る懼れて主人に話したが、主人は存外平氣で、これを見るのはもう何年にもなります、每晩必ず僧堂の西北隅の地中から出て、堂の周圍を幾度か𢌞つて、またもとのところへ消えてしまひます、別にこのために何事も起りませんから、土を掘り返して見る者もないのです、といふことであつた。

[やぶちゃん注:「十朋」「じっぽう」(現代仮名遣)と読んでおく。]

 

 この二つの話は共に「稽神錄」に出てゐる。金色の車乃至金の車といふ點は似てゐるやうだが、崔彦章の場合は明かに凶兆であるし、十朋の方は每晩出ても遂に何事もないといふのだから、性質は全然違ふのであらう。ちょつと讀むと、火を伴ふ車の方が物騷に感ぜられるに拘らず、その方は無事で、何事もなささうな小車が凶を載せて來たものと見える。尤も彦章に關する記事は極めて簡單だから、こゝに記す以外の事は少しもわからない。

[やぶちゃん注:最初の話は「稽神錄」の「第四卷」の「崔彦章」。

   *

饒州刺史崔彦章、送客於城東、方燕、忽有一小車、其色如金、高尺餘、巡席而行、若有求覓、至彦章遂止不行。彦章無因卽絶倒、攜輿歸州而卒。

   *

後者は同じ「第四卷」の少し前にある「僧十朋」。

   *

劉建封寇豫章、僧十朋與其徒奔分寧、宿澄心僧院。初夜見窗外有光、視之見團火高廣數尺、中有金車子、與火俱行、嘔軋有聲。十朋始懼、其主人云、「見之數年矣。每夜必出於西堂西北隅地中、繞堂數周、復沒於此。以其不爲禍福、故無掘視之者。」。

   *]

 

 日本の話にはかういふ不思議な車は見當らぬが、「諸國里人談」は片輪車の話を載せてゐる。寛文年間、近江國甲賀郡に片輪車といふものがあつた。夜更けに車のきしる音がして通るだけで、どこからどこへ行くのかわからぬ。たまたまこれに逢ふ人は、氣絶して前後不覺に陷るので、夜更けては往來の人がなくなる。町中の家も戸を締めて、しんとしづまり返るのである。もしこれを嘲つたりすると、外より罵り、重ねてかやうな事があれば崇りをするといふので、皆恐れて聲も立てなかつた。或家の女房がこの事の正體を見屆けたくなつて、車のきしる音が聞える時、戸の節穴からそつと覗いて見た。曳く人もない片輪車に、美女がたゞ一人乘つてゐたが、その家の前に車をとゞめ、我れを見るよりも我が子を見よ、と云つた。驚いて閨(ねや)に戾つて見れば、二歳になる子の姿が見えぬ。悲歎に暮れても詮方なく、翌晩は「罪科(つみとが)は我にこそあれ小車のやるかたわかぬ子をばかくしそ」といふ一首の歌をしたゝめて、戸に貼り出して置いた。片輪車はその夜も同じやうに來て、闇の中でこの歌を高らかに讀んでゐたが、やさしの者かな、さらば子は返すぞ、我れ一たび人に姿を見られては、この地に居りがたい、と云ひ、それきり片輪車の音は聞えなくなつた。「諸國里人談」には何も書いてないが、子供はいつの間にか母の手に還つてゐたことと思はれる。

[やぶちゃん注:「寛文年間」一六六一年から一六七二年。

 以上は「諸國里人談」の「卷之二」の掉尾にある。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。読点と読み(歴史的仮名遣)及び記号や改行をオリジナルに附した。

   *

 近江國甲賀郡に、寛文のころ、片輪車といふもの、深更に車の碾音(ひきおと)して行くあり。いづれよりいづれへ行(ゆく)を知らず。適(たま)にこれに逢ふ人は、則(すなはち)、絶入して前後を覺えず。故に夜更ては、往來、人なし。市町も門戸を閉(とぢ)て靜(しづま)る。此事を嘲哢(てうらう)などすれば、外(そと)より、

「これを詈(ののし)りかさねて左(さ)あらば崇(たたり)あるべし。」

などゝいふに、怖恐(おそれ)て一向に聲も立(たて)ずしてけり。

 或家の女房、これを見まくほしくおもひ、かの音の聞ゆる時、潛(ひそか)に戸のふしどより覗見(のぞきみ)れば、牽(ひく)人もなき車の片輪なるに、美女一人、乘(のり)たりけるが、此門にて車をとゞめ、

「我(われ)見るよりも汝が子を見よ。」

と云(いふ)におどろき、閨(ねや)に入(いり)て見れば、二歳ばかりの子、いづかたへ行(ゆき)たるか見えず。歎悲(なげきかな)しめども爲方(せんかた)なし。

 明けの夜、一首を書(かき)て戸に張りて置けり。

    罪科(つみとが)は

     我にこそあれ

        小車(おぐるま)の

      やるかたわかぬ

         子をばかくしそ

その夜、片輪車、闇にて、たからかによみて、

「やさしの者かな、さらば子を歸すなり。我、人に見えては所にありがたし。」

といひけるが、其後、來らずとなり。

   *

なお、この妖怪「片輪車」に就いては、私の「諸國百物語卷之一 九 京東洞院かたわ車の事」の本文及び注も参照されたい。そこでは覗いた女の子供は共時的に引き裂かれて殺されている。]

 

 これは日本の近世の怪談としては、型の變つた物凄い話である。片輪車なればこそ、特にきしる音が耳につくのであらうが、深夜に美女一人、曳く人なしに行くことも、眞暗な中にその姿が見えることも、すべて普通の幽靈などと違つた凄みがある。歌を書いて罪を謝し、その歌に感じて子供を還すあたり、江戸時代よりもつと古い書物にありさうな氣がする。「譚海」にはこの話が信州某村の話として出てゐるが、二つの國に同じ話が傳へられたか、一方の話が後に移動したか、這間の消息は吾々にはわからない。

[やぶちゃん注:「譚海」のそれは「卷の七」の「信州某村かたわ車の神の事」。底本は一九六九年三一書房刊「日本庶民生活史料集成 第八巻」所収の竹内利美氏校訂版を用いた。読みは総て私のオリジナル推定で歴史的仮名遣で附した。因みに、海」電子化ってい(作業中で未だ「卷之二」)。

   *

○信州某村に片輪車と申(まうす)神まします。此神御出の日は一村門戸をとぢ、往來をとゞめて堅く見る事を禁ずれば、昔よりいかなる事とも物がたりするものなし。ある年御出の日その村の一人の女、ゆかしき事におもひて、ひそかに戸に穴をうがちうかゞひしに、遙なる所より車のきしる音きこへて、やうやうその門を過(すぐ)るほどなれば、此女穴よりうかゞひみしに、誠に車の輪ひとつにて、誰(たれ)挽(ひく)人もなきにめぐりて過る。そのうへにうつくしき女房一人乘(のり)たるやうにて有(あり)、車の過るまで見て此女閏へ歸りたれば、先までありしいとけなきむすめの、何方(いづかた)へ行(ゆき)たるにやみえず。しばしははひかくれしにやと、おぼつかなくまどひしが、所々さがしても見へず。さてはうせぬるにや、此神のあるきをみぬ事にいましめたるを、もどきて[やぶちゃん注:ママ。不詳。「のぞきて」の誤字か?]うかゞひしゆゑ、神のとり給ひし成(なる)べしといひ合(あひ)て、歎(なげく)事限(かぎり)なし。一二日(ひとふたひ)過(すぎ)けれど行方(ゆくゑ)しれねば、此女おもひわびて、その社(やしろ)にもふでて、あやまちをくひなげきて、扨(さて)一首の歌をよみける、「罪科は我にこそあれ小車のやるかたもなき子をなかくしそ」といひて、なくなくありて歸りなんとするときに、むすめの聲すればふりかへりて見るに、社頭に此むすめありしままにて泣居(なきゐ)たれば、いとうれしくかきいだきて歸り來りけるとぞ。和歌には神もなごみ給ふ事、かしこしといへり。

   *]

 

 火の車といふものは、日本では地獄の連想がある。「今昔物語」に放逸無慚の人が末期(まつご)に及んで火の車を見、地獄に墮ちること必定であると悔い悲しんだが、僧に勸められて一心に南無阿彌陀佛を唱へる。僧が火の車はまだ見えるかと尋ねたら、火の車はもう消えました、金色の大きな蓮の花が一つ目の前に見えます、と答へた。この火の車と金色の蓮華は「六の宮の姫君」(芥川龍之介)の中に用ゐられてゐる。六の宮の姫君の事は「今昔物語」にあるけれども、火の車も蓮華もそれには見えぬ。緣もゆかりもない人の話を應用したのである。

[やぶちゃん注:「六の宮の姫君」(大正一一(一九二二)年八月発行の雑誌『表現』に発表)は私の特に偏愛する一篇で、私は私の古い電子テクスト芥川龍之介「六の宮の姫君」で、その本文だけでなく、芥川が素材とした「今昔物語集」中の三つの話の本文「卷第十九 六宮姫君夫出家語第五」(六宮(ろくのみや)の姫君の夫(おうと)、出家する語(こと)第五)」(これがメイン・ストーリー)、「卷第十五 造惡業人最後唱念佛往生語第卌七(惡業(あくごう)を造る人、最後に念佛を唱へて往生する語第卌七)」(悲劇に変質させた形で姫君の末期に使用される)、「卷第二十六 東下者宿人家値産語第十九(東(あづま)に下る者、人の家に宿りて産(さん)に値(あ)ふ語第十九」(作中の男の話の中に現れる不吉な挿話)の原文を末尾に総て電子化してあるので参照されたい。]

 

 平淸盛の病中、北の方の夢に見えた火の車は、牛頭馬頭(ごづめづ)が前後に立ち、車の前に「無」の一字が現れてゐた。おびたゞしい火の燃える車であつたので、北の方が夢の中で何處より何處へと尋ねると、入道殿の惡行超過し給ふにより、閻魔王宮より御迎への車である、無間(むげん)地獄に沈める筈で、「間」の字はまだ書かれぬのぢや、と答へた。「夢に見てさへよいとや申す」といふことがあるが、火の車などは夢に見ただけでもよくない。

[やぶちゃん注:以上は「平家物語」の「卷第六」の「入道逝去」の一節。講談社文庫版を参考に、漢字を正字化して示す。

   *

 又、入道相國の北の方、二位殿の夢に見給ける事こそ恐ろしけれ。猛火(みやうくわ)の夥しく燃えたる車の、主(ぬし)もなきを、門の内へ遣り入れたるを見れば、車の前後に立つたる者は、或いは牛の面(おもて)の樣(やう)なるものもあり、或は馬(むま)の樣なる者もあり。車の前には、「無」といふ文字許り顯はれたる、鐵(くろがね)の札(ふだ)をぞ打つたりける。二位殿、夢の内に、

「これは何(いづ)くより何地(いづち)へ。」

と問ひ給へば、

「平家太政(だいじやうの)入道殿の惡行(あくぎやう)超過(てうくわ)し給へるに依つて、閻魔王宮(えんまわうぐう)よりの御迎(おんむか)ひの御車なり。」

と申す。

「さて。あの札は如何に。」

と問ひ給へば、

「南閻浮提(なんえんぶだい)金銅(こんどう)十六丈の盧遮那佛(るしやなぶつ)、燒き亡ぼし給へる罪に依つて、無間(むげん)の底に沈め給ふべき由、閻魔の廳(ちやう)に御沙汰(おんさた)ありしが、『無間』の『無』を書かれたれども、未だ『間』の字をば書かれぬなり。」

とぞ申しける。二位殿、夢覺めて後(のち)、汗水(あせみづ)になりつつ、これを人に語り給へば、聞く人、皆、身の毛よだちけり。靈佛靈社へ金銀(こんごん)七寶(しつぱう)を投げ、馬鞍(むまくら)・鎧甲(よろひかぶと)・弓箭(ゆみや)・太刀(たち)・刀(かたな)に至るまで、取り出(い)で、運び出(いだ)して、祈り申されけれども、叶(かな)ふべしとも見え給はず。只、男女(なんによ)の君達(きんだち)、跡・枕にさしつどひて、歎き悲しみ給ひけり。

   *

因みに、「無間」の「間」が書かれていないという不全性は恐らく、この時点では未だ清盛には救いようがあることを意味するように私には読める。]

 

宿直草卷二 第五 三人、品々、勇ある事

 

  第五 三人、品々、勇(よう)ある事

 

Banyuu

 

[やぶちゃん注:挿絵は底本のものであるが、やはり清拭し、上下左右の枠部分を除去した。]

 

 さる所に、里遠き宮(みや)有(あり)て、妖(ばけもの)住み、夜になれば、人、通(かよ)はずといふ。

 其の近き所に、馬鹿もの、三人(みたり)有て、

「人の行かぬ所には、何たる事かある。後の話の種(たね)なり。いざ、見に行かん。」

といふ。似るを友なふ習ひなれば、頭(あたま)なる血に任(まか)して、三人同(どう)じて、出(いで)けり。

 さて、かの宮の拜殿に並みゐて、闇の夜暗しともなく、鳴りを靜めて有(あり)しに、異(こと)なる事もなく、堪(こら)へすましてゐるに、やや時を經て、天井に人の寢返(ねが)へる音してげり。車座に並みゐるもの、

「かたがた、今の音、聞きしや。」

といふ。中に居る者のいはく、

「最早、先程の事よ。我(わが)頭(かうべ)の上へ、しばしづゝ、間(ひま)有(あり)て、三雫(しづく)ものゝ落(おち)けるが、指につけて嗅いで見れば、殊の外、生臭(なまぐさ)し。いかさまにも天井にあやしき物あると見えたり。」

といふ。

 其時、いと哀れなる女の聲にて、

「下にまします人々、一人御あがり候て、我をたすけ給へ。」

と呼ぶ。

 すさましくぞありける。

 左(ひだり)に居たる男、つゐ立ちて、

「いづくよりか上(あが)る。」

といふ。

「其隅(すみ)に梯(はし)の候はん。」

と。

 聽きながら探りつゝ、天井へのぼり、

「さていかなる者ぞ。」

といへば、

「恥かしくは侍れども、申さねばこそ理(ことはり)も知れね。みづからは、その里の其家にて、誰(たれ)がしが妻にて候に、又、片方(かたへ)より、わりなくも云ひこし、藻(も)に住(すむ)虫のわれからと、身もこがす由(よし)に聞えし袖のさふらひしかば、まさなき心のはかなさに、げに、其人の情(なさけ)も捨てがたく、風に尾花(おばな)のいと亂れつつ、結ぶ契りも淺茅生(あさぢふ)の、小野の篠原忍ぶれど、あまりて人の目に漏れて、徒名(あだな)も餘所(よそ)に立田越(たつたご)え、ふた道かくるありさまの、包むとすれど紅葉(もみぢ)ばの、濃きはわが身の思ひかは、色(いろ)てふ增さる戀衣(こひごろも)、垢(あか)づかぬ間(ま)に顯(あら)はれて、何時(いつ)しか隱す甲斐もなく、我(わが)夫(おつと)、これを知り、過(すぎ)にし夜、その人も殺し、こゝにしも連れ來て、亡き人の首(かうべ)を抱(いだ)かせ、かく搦(から)めて、

『化(ばけ)物のために喰はれよ。さなくは、干死(ひじに)にせよ。今なん思ひ知るべし。』

なんどいふて、かく恐ろしき遠近(をちこち)の、方便(たつき)も知らぬここへしも、連れ來たれり。」

「さりとては、憂きにはたへぬ玉の緒(を)の、長(なが)かれとだに思はぬに、つれなき命の消えなくも、今更、恥を爰(こゝ)にさらす。あさましきにかかづらふも、我(わが)心よりの事なれば、誰(たれ)託(かこ)つべきにもあらず。また、今日(けふ)、晝も來てはんべれば、『たゞに殺しくれよ』といへど、なかなかにさはせずして、小刀にて股(もゝ)のほど、三かたな突きて歸りしも、此身よりなす事なれば、更に恨(うらみ)をやる方(かた)ぞなき。下(した)なる御袖の、『三雫(しづく)おちて生臭し』とありしは、其血にてこそ侍らめ。かくなりゆきて、命を惜しむにてはなけれど、今ひと度(たび)、古郷(ふるさと)へ歸り、老たる母にも會ひ、後の世の事も申し置きたく侍れば、知らぬ袖の御情(おなさけ)にも、繩を解きて助け給へかし。」

といふ。

 あさましながら、哀れ也。

 下なる者に、

「如何にせむ。」

といへば、二人の者、

「今宵、ここに來(く)べき我々にあらず。然(しか)るに、珍しくも思ひ立つは、その人助けよとの、神佛(かみほとけ)の告(つげ)にや。連れて下(お)り給へ。」

といふ。

 やがて、繩ども切り捨(すて)て、かの女を率て降(お)りけり。さて、

「夫(おつと)の里へ歸るべうなし。親ざとはいかに。」

といふ。

「其處(そこ)。」

と答ふれば、

「何條(なんでう)、五十町には過(すぎ)じ。いざ、とてもの事に送り參らせん。」

といふ。

「尤(もつとも)。」

とて、女を先に押し立(たて)てゆくに、日を經て食物(しよくもつ)を食はず、繩に搦められ、あまさへ、股を突かれて、痛めり。いとゞ步みかねてぞ見ゆ。手を引き、腰を押して、二町ばかりも行(ゆき)しに、女、かき口説(くど)くやう、

「さてさて、我(われ)ゆへに、空しくなりたりし人の、首(くび)のさふらひしを、得て歸り、灰(はい)にもなさば、尸(かばね)の恥も有(ある)まじきに、うれしさのまま慌てゝ忘れ侍り。草葉の陰に恨むべくは、わが黃泉(よみぢ)の障(さは)りともならなん。これまでも、いと罪深くこそ。」

と、さめざめと泣く。

 拜殿にて右(みぎ)に居たる男、

「やすき事、取りて參らせん。人々は送り給へ。我は、後(あと)より追ひつかん。」

と、たち歸りしが、やがて、首をもて來(きた)れり。

 さて、かの首を畔(くろ)に埋(うづ)み、女をば、慥(たしか)に送り屆(とゞ)けしと也。

 あゝ、この三人(みたり)、肝(きも)太(ふと)ふして、甲乙(かうをつ)、その差別(けぢめ)なし。血のかかりて生臭きに、三雫までも問はぬまでは云はず、慌てざる事、知りぬべし。鬼(おに)かなきかの女の聲に、呼ぶに任せて天井へ上がる、又、痴(し)れ者とや云はん。猶、生首を取(とる)に、道より獨り歸るも、大方(おほかた)の血之助(ちのすけ)なり。功(こう)はとりどりなれど、その勇健(けなげ)、同じ。天晴(てんせい)、破家(ばか)者、虎口(こぐち)にも向け、先にも賴(たの)ままし。

 

[やぶちゃん注:この話は「諸國百物語」の「卷之二 五 六端の源七ま男せし女をたすけたる事」と同源である(リンク先は私の電子化注)。但し、こちらが、不倫女を救うのが三人の痴れ者で、彼らへの侠気もほぼ三分割されてしまって著しく減衰してしまうのに比して、「諸國百物語」では救うのは侠客の博打打ち「六端の源七」一人である。その点に於いて私は躊躇なく「諸國百物語」版に軍配を挙げる。なお、本篇は疑似怪談であって、解釈不能な怪異は出来しない。しかし、妻の不貞を苛む夫の仕打ちは真正怪談以上に惨たらしく猟奇的で、まさに人の心の鬼の怪奇を描いて恐ろしい。

「勇(よう)」心が強く物事に恐れぬ、いささか危険な蛮勇。「頭(あたま)なる血」もそうしたエキサイトした血気を指す。

「同(どう)じて」同意して。

「てげり」完了の助動詞「つ」の連用形+過去の助動詞「けり」の濁音化したもので、平安末頃からは「てんげり」とも言った。強調表現。

「間(ひま)有(あり)て」間を置いて。

「つゐ立ちて」歴史的仮名遣は正しくは「ついたちて」。つっと立ち上がって。

「梯(はし)」梯子(はしご)。

「片方(かたへ)より、わりなくも云ひこし」たのは間夫(まぶ)、間男である。「わりなし」は道理に合わない・無理に・無茶をしての謂いであるが、基本、この語の元は理屈では割り切れないほどの男女が深い関係に陥ることを謂うから、この使用は語りの始めとして暗示的で、専ら、男の方から「藻(も)に住(すむ)虫のわれからと、身もこがす由(よし)に聞えし袖」なのである(「聞えし袖」は、強引に節操なくも「言い寄ってきた人」の意)。かの古歌にも詠まれた小さな甲殻類「われから」(節足動物門甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱フクロエビ上目端脚目ドロクダムシ亜目ワレカラ下目 Caprellida に属するワレカラ類。代表種はワレカラ科ワレカラ属マルエラワレカラCaprella acutifrons・トゲワレカラ Caprella scaura・スベスベワレカラ Caprella glabra など)を、「我から」どうしようもなく恋してしまい、その恋の炎は我が身を焦がすほどだ、という謂いを引き出すのに序詞としたものである。

「まさなき心」尋常ならぬ心。同にも制御出来ない感情。ここではこの女も、その間男に実は惹かれてしまって、女自身の感情をもどうしても制御し得なかったことを多重させている点に注意したい。

風「に尾花(おばな)のいと亂れつつ」の「いと」は「糸」に掛けて、次の「結ぶ」と縁語。

「結ぶ契りも淺茅生(あさぢふ)の、小野の篠原忍ぶれど」「百人一首」三十九番歌で知られる、「後撰和歌集」の「卷第九 戀一」にある嵯峨天皇の曾孫源等(みなもとのひとし)の一首(五七七番歌)、

   *

 淺茅生の小野(をの)の篠原(しのはら)忍(しの)ぶれどあまりてなどか人の戀ひしき

   *

に基づく。「淺茅」は疎らに生えている茅(ちがや)で、「生」は「生えている場所」、「小野」の「小」は調子をとるための接頭語、而して「淺茅生の小野の篠原」全体が「しのはら」の「しの」によって「忍ぶ」を引き出すための序詞である。以前に述べた通り、以下の台詞の如何にもな修辞技巧の説明は原則、略す。

「徒名(あだな)」不倫をしているという噂。

「ふた道かくる」実の夫と間男の二人の男と「二道(ふたみち)」の爛れた関係を持ち続ける。

「垢(あか)づかぬ間(ま)に」垢がつくほどに馴れ親しむ時間が相応に経つこともなく、あっという間に。「あか」は間男(「夫」でもよいが、そうすると、駆け落ちか夫殺しへと展開するから、ここは女の気持ちを良心的に考え、そうはとりたくはない)にいい加減「飽く」(飽きる)の意も掛けていよう。

「干死(ひじに)」飢え死(じに)。

「かく恐ろしき遠近(をちこち)の、方便(たつき)も知らぬここ」「近」は対象があることの添え辞で、意味はなく、「方便」は逃げるための方法もないで、「かくも辺鄙なる、化け物の出るとされるような、逃げようのないこの場所」の意と採る。但し、岩波文庫版の高田氏の注では、「遠近の」に『ここでは現在と未来をさす』とする。これだと、まさに今「現在」の虜となっている状態から、ほど遠からぬ「未来」に於いて「恐ろしき」死を迎えるところの「この」如何なる逃走手段もない「場所」の謂いとなろうか。

「たへぬ」は、このような責め苦に「堪へぬ」の意と、後の添え修辞の「玉の緒(を)の」「絶え」に掛けていよう。それがまた「長(なが)かれ」と縁語にはなる。

「つれなき命の消えなくも」恥知らずな私の命、それがすぐには絶えなかったとしても。

「託(かこ)つ」不平を言う。

「はんべれば」「侍(はん)べれば」。ここは聴き手らへの丁寧表現であろう。

「下(した)なる御袖の」下におられたお方が。

「五十町」五キロ五百メートル弱。

「とてもの事」救い下ろしてやったのだから、どうせ同じことなら序でのことに。

「二町」約二百十八メートル。

「畔(くろ)」道端の耕地の畦(あぜ)。

「甲乙(かうをつ)、その差別(けぢめ)なし」その三人の血気・蛮勇は甲乙つけ難いものであって、そこに有意な差はない。

「鬼(おに)かなきかの女の聲」鬼の声ではないのかと聴き紛うような女の声。岩波文庫版本文では『鬼が哭(な)き、彼の女の』聲とするが、それではどうも上手く意味がとれない気がするので採らない。

「血之助(ちのすけ)」岩波文庫版の高田氏の注では『血気にはやる男』とする。

「天晴(てんせい)」岩波文庫版の高田氏の注では『「天性」のあて字』とする。

「破家(ばか)者」岩波文庫版の高田氏の注では『「馬鹿者」のあて字。常軌を逸した向う見ず、の意』とする。

「虎口(こぐち)にも向け」極めて危険な事態にも、臆することなく、その暴虎馮河とも言える蛮勇で立ち向かい。]

宿直草卷二 第四 甲州の辻堂にばけものある事

 

  第四 甲州の辻堂にばけものある事

 

Kousyutujidou

 

[やぶちゃん注:挿絵は底本のものであるが、清拭し、上下左右の枠を除去してみた。]

 

 元和(げんわ)五年の冬、よはひ三十ばかりの人、語りしは、

 『我、おさなかりしとき、道心者(だうしんじや)ありて、我(わが)家にてかたりしは、

「我(わが)生國は伊賀の甲賀なり。若き時は奉公をして、賴みし主(しゆ)は近江侍(あふみさふらひ)にて、其(その)連れ合ひは京育ち也。信玄の家中に仕へられしに、戰(たゝかひ)たびたびにして、武田の運(うん)も、はや、傾(かたふ)きければ、我(わが)主、かねて知りけるにや、ひそかに某(それがし)を近づけ、

『重ねて戰(いくさ)あらば、我も討死をすべし。然る時は、妻、一日も立寄(たちよ)らん方(かた)なし。召(めし)つかふ者、多しといへども、皆、東(あづま)の者にして、都の案内(あない)、知らず。汝は上方(かみがた)の者なれば、ひたすらに賴むぞ。あの妻を、明日(あす)、ひそかに連れて京へ上(のぼ)れ。殊更、ただならぬ身とも聞けば、如何(いか)ならん行衞(ゆくゑ)も見屆けよ。何事も奉公なれば、軍陣(ぐんぢん)に供(とも)したるよりは、過分の忠に思ふべし。』

など聞えければ、再三、辭するに、及ばず。

 主命(しゆめい)にまかせて、御内(みうち)の諸人(もろびと)・女房たち・婢(はした)なんどにも深く隱し、たゞ二人、忍び出るに、さすが、一期(いちご)の別れ、殊に飽かぬ中(なか)の事なれば、たがひの名殘(なごり)、いと、哀れなり。さて有(ある)べきにもなければ、旅(みち)の代(しろ)など給(たまは)り、又、腰に差したる刀を拔き、

『これは重代相傳(ぢうだいさうでん)の重寶(ちようほう)なれど、道の用心に、上(のぼ)すぞ。もし、胎内の子、異(こと)なふ生(むま)れて成人もせば、見もせぬ父が形見(かたみ)ぞと、語れ。万に一も存命せば、我も後(あと)より上(のぼ)るべし。』

と、しばし慰め給へども、袖の水柵(しがらみ)せきあへも給はず。

 心づよく立退(たちのき)たまへば、我もかの人の手を引きて、泣く泣く、宿(やど)をいでぬ。

 心ばかりは急げども、何時(いつ)習はじの憂き旅に、殊にあからさまにも、輿物(のりもの)なんどにてこそ、遠山(ゑんさん)の花をも手折(たをり)給へ、けしかる徒步道(かちぢ)などは、おぼろけにも步みたまはぬに、殊にその身も重(おも)げにして、やをら、道の捗(はか)も行かず。たまたま、むぐつけき小荷駄(こにだ)などに、助け乘するも、見るさへ危うく侍る。まだ、さがなき世の癖(くせ)かは、容易(たはやす)く行く道にもあらず。ここは關(せき)、かしこは陣取(ぢんと)りなれば、あれに𢌞り、これに隱れて、徒(いたづ)らに日數(ひかず)を送る。都に着かば、やうやう、産(さん)の比(ころ)にやと思ひしに、かく暇(ひま)とるにぞ、案の外、はや、月ごろになりぬ。

 ある日の沙汰に、海道には陣どり有(あり)て、通ひがたく聞えければ、やがて、脇道(わきみち)を經て行く。鄙(ひな)びたる有樣(ありさま)にして、不自由なること、いふばかりなし。あまつさへ、借るべき馬もなし。くたびれたる人を、おどしすかしなどして行くに、その日の巳の刻より、腹を痛めり。知らぬ山路を辿(たど)り行き、かの面(も)此の面に休みつつ步むに、申(さる)の頭(かしら)に、大きなる辻堂に着(つく)。隣りし家も見えなくに、五十(いそぢ)ばかりの男(をのこ)、行きかふ人のために、擔(にな)ひ茶屋(ちやや)と見えたり。先(まづ)、彼(かれ)が方に立ち寄り、湯、貰ひ、藥など勸むるに、いよいよ、腹、痛み出て、進退(しんだい)、途方(とはう)を失ふ。

 かの男にも、しかじかと語るに、茶屋、聞(きき)て、

『さてさて、かかるいたはしき事こそなけれ。これより先へも三里行かざれば、里、なし。脇(わき)とても遠し。また、此所には化け物ありて、夜になれば、人、通(かよ)ひ侍らず。我(わが)住むところは廿町余(よ)の道、此(この)山の彼方(あなた)なり。此(この)所へ出(いづ)るも、朝(あした)は五つ過(すぎ)に罷(まか)りて、暮れには七つ以前に歸る。ただ惡しき所なり。願はくは、我家に來たり給へ。よきに勞(いたは)らん。』

と、いとまめやかに優しくも聞えければ、かなしき中にもうれしく、その由、尋ね見れば、

『今ははや、一足(あし)も步む事、ならず。』

とのたまへば、力、及ばず、

『さては、是(これ)にて御明(あか)し候へ。』

と、茶釜・敷物・茶碗・手桶などを殘し、

『焚き木はあれに御座候へば、いか程も御焚き候へ。構へて御用心あるべし。我もこれに留(とど)まるべく候へども、宿(やど)に案じ可申(まうすべく)候へば、御いとま申(まうす)。』

とて、歸りけり。いとど便(たよ)りなくぞ侍る。

 かくて黃昏(いりあひ)の比(ころ)、安(やす)く産(さん)し給ふに、まうけ給ふは女子なり。詮方(せんかた)く取(とり)上げ、似合はしき衣(きぬ)に包み、母の懷(ふところ)に抱(いだ)かせ、用意にもちたる白米(しらげ)とり出(いだ)し、粥に炊(た)き、茶碗に盛りてこれを勸め、殘りを喰(たう)べて、あまり淋しさのまま、用(よう)にもあらぬ釜の下(もと)に、焚き火愛(あい)して居(ゐ)たるこそ、行衞思はるゝわざなれ。

 過行(すぎゆく)ままに夜を明かすに、はや、半(なかば)の比、二八ばかりの女房、何處(いづち)と無(な)ふ、來(きた)る。

『すは。』

と思ひ、

『如何なるものぞ。』

と問へば、

『我は晝間、此のところに有(あり)し茶屋が娘なり。御ありさま、親の語り候にぞ、あまり御いたはしく、思ひやる心の苦しからんより、參りて仕へ申さんにはと、さてこそ、訪(とふら)ひ候。』

と、語る。暫時(しばし)は、まこととも思はざりしに、水を汲み、火など焚きて、勞(いたは)るにぞ、少し、心は緩(ゆる)びける。運の盡くべきはかなさとは、後(のち)こそ悔しく思ひけれ。

 ややして、かの女房、

『まづ、其御子これへ遣(つか)はされよ。後朝(こうてう)までは、妾(わらは)、抱き申さん。殿樣も、まづ、御休み候へ。』

と、懇(ねんご)ろに聞えければ、如何樣(いかさま)に母も退屈氣(たいくつげ)に見え給へば、

『遣はされ候へ。』

といふにぞ、取りだして、やり給ふ。女(むすめ)、甲斐甲斐(かいがい)しく扱(あつか)ひて、

『さてさて。よき御子や。玉にも比(たぐ)ひ給ふ。』

なんどいふて賞(ほ)むるにも、なを、心を許さず侍りしが、夜增(よま)し日增しの旅疲(たびづか)れ、刀(かたな)を膝(ひざ)に拔(ぬ)きくつろげ、心に油斷はなかりしかども、壁にそふて寄りかゝり、少し居眠(いねむ)るともなきに、母、聲立てて、

『なふ、恐ろし、あの女房の、我が子を食ふ。』

と喚(よ)ぶ。

『やれ。』

と思ひ、驚(おどろき)て刀を拔きて立ち上がるに、又、母をも取(とり)て、堂の外へ出づ。

『遣(や)るまじき。』

とて追(をつ)かくるに、虛空(こくう)をさして飛(とび)行くにぞ、心、はや、猛(たけ)に思へども、羽(はね)なき身には力なく、口惜しなども愚かなり。

 母の叫ぶ聲、かすかに聞えしが、後には堂の天井に聲ありて、

『なふ、悲しや。』

といふ。しばしして、其聲も止みぬ。まことに肝(きも)を斷つわざ也。

 かくて、耳を澄まして聞くに、四、五人ほど寄りて、もの食(く)ふ口音(くちをと)せり。其中に、上嗄(うはが)れたる聲にて、

『今一人の男も連れ來たれかし。』

といふ。例(れい)の女の聲にて、

『あれは銘作の刀持ちたれば、連れ難し。』

といふに、二、三人の聲して、

『しからば。其(その)分(ぶん)よ。』

といふ聲ども、いづれ、聞き馴れず、怪しうして凄(すさ)まじ。

 あるもあられぬ事なれば、天井へ上がりたく思へども、案内(あない)疎(うと)かりければ、その手段(てだて)もなし。

『さてさて口惜しや、主人に賴まれたる甲斐もなく、また、此頃(このごろ)、骨折りたる詮(せん)もなし。三寶(さんばう)の冥加(みやうが)にも盡き侍り。いで、爰(ここ)にて、腹、切らん。』

と、刀を拔く事、二、三度せしが、又、夜も明けば、天井へ上がり、妖(ばけもの)もあらば、一つなりとも從(したが)へ、仇(かたき)を討ちて意趣(いしゆ)をも晴らさんと思ひ直して、明かす。

 我身ながら恥がはしく侍り。

 亡き人の形見となりし衣裝など取(とり)集めゐるうち、夜も更に明(あけ)て、昨夜(ゆふべ)の茶屋も來たれり。是も化け物かと怪しみしは、理(ことは)りに過(すぎ)たり。面(おも)無きながら、茶屋に語りければ、

『扨(さて)は。さふか。さればこそ。』

とて悔みかなしみ、

『われも心もとなくて、朝食(あさげ)、疾(と)く食べ參りしに、甲斐なき事のうたてさ。』

と、ともに淚に及びしが、

『先(まづ)、天井を見給はんか。』

といふ。

『さらば。』

とて、あちこちとする。

『もし、此(この)隅よりや、上がられ申すべきか。』

といふ。やがて、茶屋を力として、登りて見るに、あへて、これぞ化け物と思ふものもなし。骨を積(つむ)事、安達が原もかくやと、そこら見まはすに、主人の尸(かばね)と覺しくて、まだ新しきをしるべにして、散り亂れたる頭(かうべ)・手・足なんど拾ひしに、肉(しゝ)は殘さず喰(くら)ひけり。

『さても、昨夜(よべ)までは、つつがなかりし人の、かやうにもなり給ふものかは。何たる因果なれば、同じ道にも行きやらで、強面(つれなく)殘る身の上に、かゝる憂き目を見る事ぞ。』

と、心も迷ひ、目も眩(く)れて、泣く泣く、天井より降り、其(その)骸(から)を一包みにして、茶屋が在所へ持ち行(ゆき)、そこなる僧を賴み、形(かた)ばかりに葬(はうふ)り、裝束(さうぞく)どもを花柄(はながら)に參らせ、

『さてさて、ありし昔ならば、御弔ひの品(しな)も、かばかりにておはすべきかは。常なき世こそままならぬ事なれ。御慈悲にきこしめさば、よきに弔ひ給れ。』

と契(ちぎ)り、茶屋にも禮をいひて、白骨(はくこつ)を首にかけ、東國(あづま)ヘや下(くだ)る、都へや上(のぼ)ると、思案未(いま)だわかざるに、武田の運も盡き、内の侍(さふらひ)も皆、討死ときこえしかば、

『さては我主も果て給し。』

と、此處(こゝ)の憂さ、かしこの辛(つら)さ、見るも、聞くも、淚にて。

 それより、京に上り、亡き人の緣(ゆかり)を尋(たづね)れども、朧(おぼろ)けにて知らるべきにあらざれば、

『今はこれまで。』

と思ひ定め、件(くだん)の白骨を黑谷(くろだに)へ籠(こ)め、名作の刀、布施(ふせ)に參らせ、我もそこにて髮を剃り、今、はた、其の二人を弔(とふら)ふ。かくのごとき事、此身の恥に侍れば、いかで言葉へはいださんなれど、昔の武士(もののふ)の身(み)にしもあらで、此(この)あつき緣(えん)に催されて、かしこくも、桑(くは)の門(もん)に入(いり)侍れば、懺悔(さんげ)物語(がた)り、申す。」

と語りし。』

と、話せり。

 

[やぶちゃん注:銘刀を所持せるが故に魔物が襲うことが出来ずに命が救われるという話柄は本書の前にも後にもゴマンとあるが、全体の結構が、滅んだ武田信玄の代に仕えた忠臣を主人とする近江武士を主人公とし、妖魔の犠牲者はその彼の主人であった武田家忠臣の正妻と、生まれたばかりの女児であったという、すこぶる現実的な設定は、なかなかに上手い。また、ある人物の語った話を聴いているというまた聞き構造は都市伝説(アーバン・レジェンド)のありがちな特性であるが、それが、無理なく、額縁内の額縁、直接話法の「入れ子」構造となっている点でも素晴らしい。それが判るように本文では改行と記号を駆使したつもりである。

「元和(げんわ)五年」一六一九年或いは「冬」となると、翌一六二〇年年初。第二代将軍徳川秀忠の治世。

「齡ひ三十ばかりの人」単純計算で数え三十を引くと、荻田に直接話しているこの人物の生まれは一五九〇年で

「武田の運も、はや、傾(かたふ)きければ」信玄(病没)の庶子で彼を継いだ武田勝頼は、美濃に進出して領土をさらに拡大したものの、次第に家中を掌握し切れなくなり、天正三(一五七五)年の長篠の戦いに敗北、父の代からの重臣を失うとともに一挙に衰退を始め、天正一〇(一五八二)年、天目山の戦いで織田信長に攻め込まれ、甲斐武田氏はここに滅亡した。エンディング近くに「武田の運も盡き、内の侍(さふらひ)も皆、討死ときこえしかば」とある。

「ただならぬ身」後で判る通り、妊娠している。

「たがひの名殘(なごり)」主人公の仕えていた主人夫婦の訣別。

「心づよく」きっぱりと決心して。

「何時(いつ)習はじの憂き旅」今までの体験したことのない、極めて絶望的な予兆に満ちた旅。

「殊にあからさまにも、輿物(のりもの)なんどにてこそ」は以ての外。

「遠山(ゑんさん)の花をも手折(たをり)給へ」見知らぬ田舎の山中の、名も知らぬ、咲く花なんどをも、道すがら、手折りなさったりはしたけれども。

「けしかる徒步道(かちぢ)などは、おぼろけにも步みたまはぬ」都育ちであられただけに、ちょっと変わった短い徒歩の道も、未だ嘗て、ほんのちょっとでさえも歩かれたこともあられない。

「むぐつけき」賤しい。

「小荷駄(こにだ)」室町時代以降,兵糧(ひょうろう)などを運んだ馬子(まご)の牽く馬や馬車。ここは彼らが秘かに逃げる以上、そうした輜重(しちょう)として各戦国大名らに雇われた民間の者の、小規模な或いは単独の車馬のそれ(或いは輜重労役を終えて帰る途中のもの)であろう。

「まだ、さがなき世の癖(くせ)」未だ乱世のただ中の如何にも治安も人心も劣悪な世の状況。

「關(せき)」旧来のものに加えて、戦国の力関係の中で新たに設けられた防衛上の関所。

「陣取(ぢんと)り」同じく防衛や侵攻目的として新たな場所(時には奪取された土地)に設けられた前線本部や索敵用の陣などの軍事前線拠点など。

「月ごろ」臨月。

「脇道(わきみち)」原典は「わきみち」。底本は「裏道」として「わきみち」とルビする。岩波文庫版を採った。

「くたびれたる人」言わずもがな、主人の妊娠した妻本人を指す。

「巳の刻」午前十時前後。

「腹を痛めり」陣痛が始まっていしまったのである。

「申(さる)の頭(かしら)」午後三時過ぎ。

「擔(にな)ひ茶屋(ちやや)と見えたり」その辻堂の建物の近くの道端で、旅人にちょっとした水や薬などを担ってきて、即席に茶屋まがいの行商型の商いしている者と出逢ったのである。「茶屋」の建物があるわけではなく、辻堂の庇の下か何かで品物を広げているのであろう

「脇(わき)とても遠し」山の間道を通っても難道で本道を行くのと変わらぬぐらい遠い。

「廿町余(よ)」二キロメートル強。

「五つ過(すぎ)」午前七~八時過ぎ頃。

「七つ以前」午後四時より以前。

「焚き木はあれに御座候へ」薪であるから雨露は凌ぐ必要があるので、辻堂の縁の下辺りか。

「宿(やど)に」自宅の者が。

「案じ可申(まうすべく)候へば」心配致すでありましょうからに。

「安く産し給ふ」流石にこれは辻堂の中でである。後のカタストロフに「母をも取(とり)て、堂の外へ出づ」と出る。

「白米(しらげ)」精米した米。

「用(よう)にもあらぬ釜」最早、釜で湯を沸かす必要もなく、また、焚いてみても少しも暖房の用にもならぬの両用の謂いであろう。

「二八」数え十六歳。

「運の盡くべきはかなさとは、後(のち)こそ悔しく思ひけれ」ここは聴き手に語っている現在時制での悔やんでも悔やみきれぬ話者の直話の感懐として示されている。リアリズムを出す非常に上手い手法である。

「御子」「みこ」と読んでおく。

「退屈氣(たいくつげ)」疲弊しきった様子。出産直後であるから当然。

「夜增(よま)し日增しの旅疲(たびづか)れ」隠密の逃避行で、昼夜兼行とまでは言わないまでも、夜は主人の妻の警護のため、殆んど睡眠をとっていなかったと考えられる。

「なふ、悲しや」主人の妻の末期の声であろう。

「しからば。其(その)分(ぶん)よ」ちょっと判らぬが、私は「そうか。それはわしらの「分」(能力)を超えているから、仕方あるまいよ」という謂いか?

「あるもあられぬ事」あってはならない忌まわしく怪奇な、凡そあり得てはならぬ(しかし、事実としてあったことと認めざるを得ない)こと。

「詮(せん)もなし」「詮」は「なすべき方法・手段・術(すべ)」で「最早、何を成しても無益だ」の意。

「三寶(さんばう)」この世に示現した「仏」、仏が説いた正しき「法」(正法(しょうぼう))、その法を正しく伝える「僧」の集団(僧伽(そうぎゃ))という、衆生を正しき仏道に導く仏法の宝。

「冥加(みやうが)」三宝に心から帰依することによって、自ら意識しないうちに受けることの出来る仏の援助・保護。「冥利」に同じい。

「從(したが)へ」他動詞で「降伏(こうぶく)させ」。

「意趣(いしゆ)」他者の仕打ちに対する恨み。

「我身ながら恥がはしく侍り」ここも聴き手に語っている現在時制での自己批判である。要するに、「何故、あの時に潔く腹を切ってしまわなかったのだろうかという慚愧の念に、後には何度も襲われたことが御座いました」という感じのかつての武士としての面目に基づく謙遜である

「理(ことは)りに過(すぎ)たり」あまりに当然過ぎることにては御座いました(が、それは疑心暗鬼で御座いました)。

「面(おも)無きながら」あまりの為体(ていたらく)なれば、面目(めんぼく)なく、恥ずかしい限りでは御座ったれど。

「先(まづ)、天井を見給はんか」荷い茶屋主人の台詞。

「安達が原」言わずもがな、奥州の安達ヶ原(阿武隈川東岸或いは安達太良山東麓とも伝える)に棲んで人を喰らった「安達ヶ原の鬼婆」伝承を踏まえる。

「肉(しゝ)は殘さず喰(くら)ひけり」肉や脂肪の類は綺麗に削ぎ落とすように喰われているのである。

「強面(つれなく)」厚かましくも。恥知らずにも。自己批難。

殘る身の上に、かゝる憂き目を見る事ぞ。』

「裝束(さうぞく)どもを花殼(はながら)に參らせ」底本は「花柄」とするが、岩波文庫版で採った。「花殼」は仏前などに供えた花の枯れたものを指す語。岩波文庫版で高田氏は、『「花殻」は仏前に供えたものをとしさげて施すこと。また』、『その物。「参らせ」はお布施の代りとして与えて』の意と注しておられる。

「亡き人の緣(ゆかり)を尋(たづね)れども、朧(おぼろ)けにて知らるべきにあらざれば」主人の妻は「京育ち」とあった。

「黑谷(くろだに)」京の墓地(「京都七墓」「五三昧」などと称したが、名数は時代によって異なる)の一つ。国立国会図書館の「レファレンス協同データベース」の事例の回答によれば、貞享三(一六八六)年刊の洛下寓居著になる浮世草子「諸國心中女」の記述によるものは七ではなく八で、鳥部山・阿弥陀峰・黒谷・船岡・蓮台寺・金光寺・西院・狐塚の八つの墓地を記し、また勝田至氏によると、歴史的記載と諸説を五つの地域に纏めて考えることが出来るとして、①鳥辺野(鳥辺山・鳥部山・鳥部野・鶴林・阿弥陀峰・華頂山・延年寺)/②蓮台野(千本・蓮台寺・船岡山・船岡)/③中山(黒谷)/④最勝河原(西院)/⑤四塚(狐塚・金光寺)を挙げてある。なお、黒谷(現在の京都市左京区黒谷町)にある寺で最も知られ、武家の帰依者の多かったのは、法然所縁として知られる「くろ谷さん」、紫雲山金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)である。

「昔の武士(もののふ)の身(み)にしもあらで」昔の勇猛果敢にして信心堅固な武士(もののふ)の身にては御座いませぬが、という献辞であろう。

「かしこくも」有り難く勿体なくも。畏れ多くも。

「桑(くは)の門(もん)に入り」出家し。「桑門(そうもん)」はもともとは梵語の「出家して修行する人・僧侶」の音写漢訳。

「懺悔(さんげ)」古語は清音が普通。]

 

2017/06/26

宿直草卷二 第三 百物語して蛛の足をきる事

 

  第三 百物語して蛛(くも)の足をきる事

 

100kumo

 

[やぶちゃん注:底本の挿絵は左端がひどく汚いので、岩波文庫版のものを採用した。]

 血氣(けつき)の袖どち、群れつゝ、話す。

「夜、百物語すれば、恐ろしき事、有りといふ。いざ、せん。」

と切(せち)に話すに、はや、九十九にをよぶ。

「よし。さら、まづ、三寸汲(く)みてよ、事急(ことせ)くな。」

などいひて、順盃(じゆんはい)とりどり、色めいて侍るに、ひとり立(たち)て、重(ぢう)の肴(さかな)たづさへて、圓居(まどゐ)のこらず、末座(ばつざ)まで、引きまはりしに、其(その)時、

「ここへも、ひとつ。」

とて、おほきなる手を天井より差し出(だ)す。

 はやき者有(あり)て、ぬき打(うち)に斬る。手ごたへ無(な)ふして、糸なんど、斬るがごとし。落つるを見るに、蜘蛛の手、三寸ばかり、斬りたり。

「さてこそ百の話(はなし)の驗(しる)し有りけれ。」

と語る。

 まことにおそろしき虫にあらずや。

 鬼蜘蛛(おにぐも)の名に負(お)ひて、上﨟蜘蛛(じやうらうぐも)の媚(こび)過(すぎ)たるも、げに穴蜘蛛(あなぐも)のふかき巧(たく)みやあらん。土蜘蛛(つちぐも)の土氣(つちけ)にも見こなせど、また靑蜘蛛(あをぐも)の草にまじりては、大象(だいざう)をも殺す、おそろしき毒ともなれり。

 汀(みぎは)の風も冴えわたり、浪にうき藻(も)の夜晝(よるひる)となく、たゞ、水蜘蛛(みづぐも)の哀(あは)れなるは、心もいとも亂すらんと見るに、賢(かしこ)くも身仕舞(みじま)ひして、平屋(ひらや)のいへか平蜘蛛(ひらぐも)の、間口(まぐち)に狹(せ)ばふ作(つくり)なし、壁にむかへる殊勝(すせう)さは、かの少室(せうしつ)の寄る方(べ)とやいはん。猶、蠅(はへ)とり蜘蛛(ぐも)よ、夏の晝寢の宿直(とのゐ)とも賴(たの)まん。

 たゞかきみだしたる心も解(ほど)けて、己(をの)が糸筋(いとすぢ)、素直(すなほ)ならば、一葉(ひとは)の舟(ふね)の例(ため)しにも乘らなん。何とてか、わが背子(せこ)が、來(く)べき良い事には引かれずして、童子(どうじ)が靈(れい)となりては、賴光(らいくはう)にも、近づきしぞや。今はた、巷(ちまた)に殺されても、童子(わらはべ)などの「一昨日(おとゝひ)こよ」と呼ぶも、その性(しやう)、執心の深ければこそ。

 

[やぶちゃん注:荻田はよほど興に乗ったものか、評言の「蜘蛛尽くし」の部分が事件パートの一・五倍もある。その分、斬られて落ちた蜘蛛の脚の長さもしょぼく、せっかくの百物語怪異示現譚としてのホラー性はひどく減衰してしまっている。

「血氣(けつき)の袖どち」既出既注の通り、「袖」は「人」の意。血気盛んな若者たち。

「切(せち)に」それぞれが皆、すこぶる熱心に。

話すに、はや、九十九にをよぶ。

「さら」離れているが、これは文末の「事急(ことせ)くな」という禁止に掛かる呼応の副詞で「決して」の意であろう。

「三寸汲みてよ」この「三寸」は実寸ではなく、「少ないこと・薄いこと」を意味し、「酒をちょいとばかり盃(さかずき)注いで酌み交わそうではないか」の意であるが、ここにそれを用いたのは、後の化け蜘蛛の脚の実寸として「三寸」への伏線である。

「順盃(じゆんはい)とりどり」順々に盃(さかずき)を取り交わしては酒を酌み交わして賑やかになりゆくさまを言っている。

「色めいて」活気づいて。酔って顔が赤くなるさまも掛けていよう。

「重(ぢう)」重箱。

「圓居(まどゐ)」同座している者たち。

「末座(ばつざ)」その場には、その百物語を開いた家に勤める下男或いは同席者の中間(ちゅうげん)などもいたのであろう。

「はやき者」太刀捌きの素早く巧みな者。

「鬼蜘蛛(おにぐも)」以下、現在の生物学で同名の和名を持つ種を示す。但し、荻田がその種を指しているというわけではなく、その仲間や類似の形態や生態を持つものを広範に含むと考えるべきことは言うまでもない。鋏角亜門クモ綱クモ下目クモ亜目クモ目コガネグモ科オニグモ属オニグモ Araneus ventricosus。まさに荻田の言う通り、「名に負」いし通りの恐持ての大型種で、しかも実際に「鬼」っぽい感じのする蜘蛛である。体長はで三~二センチメートル、で二~一・五センチメートルほど、背甲は黒褐色から赤褐色を、歩脚は黒褐色でそこにより暗い色の輪紋を持つ。歩脚には多数の棘も生えている。

「上﨟蜘蛛(じやうらうぐも)」女郎蜘蛛・絡新婦。クモ下目クモ亜目コガネグモ上科ジョロウグモ科ジョロウグモ属ジョロウグモ Nephila clavata。先行する「卷二 第一 急なるときも思案あるべき事」で詳細に注済み。ここはあでやかさで「媚(こび)」の過剰な感じとする調子に合わせるために、「女郎(ぢよらう)」ではなく「上らう」(原典の表記)としたものであろう。

「穴蜘蛛(あなぐも)」クモ亜目ジグモ科ジグモ属ジグモ Atypus karschi。糸で作った細長い筍の頭のような形の袋状のかなり目立つ巣を壁際や木の根元などの地面に十センチメートルほど立てることでよく知られている。ウィキの「ジグモ」によれば、『この袋の地上に出た部分は、捕虫装置としての性格をもっている。餌は小型甲虫、ダンゴムシ、ワラジムシといった地表性の小動物などで、これらがこの袋の表面を歩いた時に、ジグモは袋越しに長大な鋏角で咬みつき、袋を破れるままに巣内に引きずり込む。食べかすは袋の先端から捨てられる。このクモは比較的飢餓には強いことが知られている』とあり、荻田はそうした捕食行動を観察していたのであろう。そうでなくては、「ふかき巧(たく)みやあらん」という推定表現は決して添えられない。彼は俳人でもあったから、そうした歳時記的博物学的知識は旺盛だったと考えてよい。

「土蜘蛛(つちぐも)」これは前の「穴蜘蛛」=ジグモの別名であるが、荻田は別種として示している以上、ここは前話で注した、地中に穴を掘ってその入り口に扉を付けることを特徴とする戸立蜘蛛(鋏角亜門蛛形(クモ)上綱蛛形(クモ)綱クモ亜綱クモ目クモ亜目カネコトタテグモ科 Antrodiaetidae 及びトタテグモ科 Ctenizidae に属する種群(事実上の主な種群はトタテグモ科に属する類)類の総称と採っておく。中でも本邦で最も普通に観察されるのはキシノウエトタテグモ Latouchia swinhoei typica で、ウィキの「トタテグモ」によれば、このキシノウエトタテグモは『本州中部以南に分布し、人家周辺にも普通に生息』し苔の『生えたようなところが好きである。地面に真っすぐに穴を掘るか、斜面に対してやや下向きに穴を掘る。穴は深さが約』十センチメートル『程度、内側は糸で裏打ちされる。巣穴の入り口にはちょうどそれを隠すだけの楕円形の蓋がある。蓋は上側で巣穴の裏打ちとつながっている。つながっている部分は狭く、折れ曲がるようになっていて、ちょうど蝶番のようになる。蓋は、巣穴と同じく糸でできている。そのため、裏側は真っ白だが、表側には周囲と同じような泥や苔が張り付けられているため、蓋を閉めていると、回りとの見分けがとても難しい』(下線やぶちゃん)とあり、このカモフラージュをこそ荻田は「土氣(つちけ)にも見こな」す(この「見こなす」というのは「見る」に、他の動詞の下に付いてその動作を「楽々としてしまう・巧みにする」のニュアンスである)と表現しているのである。

「靑蜘蛛(あをぐも)」私は、薄などの大型のイネ科の植物の葉を巻いて営巣する、大きな顎と種によっては非常に強い毒を有するクモ亜目フクログモ科コマチグモ属 Cheiracanthium の一種ではないかと推測する。体長は六~十四ミリメートルと小さく、一部の種は薄黄色を呈していて「草にまじ」ると目立たない。「大象(だいざう)をも殺す、おそろしき毒」は大袈裟であるが、本邦産のクモ類中では最強毒の一種とされるコマチグモ属カバキコマチグモ Cheiracanthium japonicum は神経毒を含み、咬まれると激しく痛み、重傷例ではショック症状などを起こす場合もある。ただ、これを本邦産でない、渡来人の話や海外の書にある、実際に「靑」い、噂では猛毒を持つと恐れられたところの「蜘蛛」とするならば、大型で鮮やかなコバルト・ブルーを呈する、かの毒蜘蛛として恐れられる(事実は毒は強くない)「タランチュラ」類の一種であるクモ亜目オオツチグモ科 Haplopelma 属コバルトブルータランチュラ Haplopelma lividum などを挙げてよい。

「汀(みぎは)の風も冴えわたり、浪にうき藻(も)の夜晝(よるひる)となく、たゞ、水蜘蛛(みづぐも)の哀(あは)れなるは」「汀」「風」「浪」に「うき」(浮き)「藻」「水」は縁語で、「うき」は「憂き」の掛詞として以下の「哀れなる」引き出しつつ、「心」「亂す」と新たな縁語群を形成する。

「水蜘蛛(みづぐも)」本邦だけでなく、世界でただ一種のみ完全に水中に棲息する一科一属一種のクモ亜目ミズグモ科ミズグモ属ミズグモ Argyroneta aquatica がいる。ウィキの「ミズグモ」を引いておく。『水際で生活するクモや、時々水中で活動するクモは珍しくないが、水中生活と言って良いのはこの種だけである』。一センチメートル『程度の大きさの黒っぽい体色のクモで』、『全身が毛深いことを除けば、外見上は近縁のタナグモ科』Agelenidae『のものとほとんどかわらない』。『体長は雌雄とも』八~十五ミリと小さく、『頭胸部は赤褐色、腹部は灰色から黒褐色、特に斑紋はない。歩脚も褐色から黒褐色。背甲前方に』二列八個の『眼が並ぶ。頭胸部は卵形、腹部は楕円形』を成す。『形態的には水中生活にふさわしいような特徴があまりない』が、第三・第四脚の『腿節内側に長い毛を密生』しており、『これは水中活動する際に空気を抱える部位に当たる。また。気管気門が一般のクモでは腹部腹面後方の糸疣』(しゆう:クモ類のの腹部下面後端の肛門の前方にある出糸突起のこと)『近くにあるのに対して、ミズグモではほぼ中央にあり、空気を抱える後方歩脚間に近いのも、水中生活への適応ともとれる』。『水中を泳ぐときには、体の表面を覆う微毛の間に空気の層ができるので、銀色に光って見える。水中では水草をたどって歩き、また足を掻いて泳ぐことができる。ヨコエビなどの小型の甲殻類や水生昆虫といった水中の小動物を捕らえて餌とする』。『また、水中に巣を作る。巣は糸を重ねてできた膜によるドームで、ここに空気を蓄え、その中で休息する。空気は水面に出て、後ろ足の間と腹部の微毛の間に通常より厚い空気の層を抱えるようにして潜り、巣内に放すことを繰り返して集める。餌はこの巣に持ち帰って食べる』。『卵嚢もこの巣の中に作る。幼生はふ化後はそのまま水中に出て、巣を作って水中生活を始め』る。但し、『水中生活への適応は、例えば昆虫のゲンゴロウのような完全なものではなく、時折り』、『陸上に出て体を乾かさなければならない。水槽内で飼育する時、水草などが入っていても、水面から出ていられる場所を作らないと、次第に体の表面に空気を維持できなくなり、水底に沈んでしまう。この段階で取り出し、体を乾かしてやれば回復するが、放っておくと溺死する』。『ヨーロッパから日本を含むアジアまで、旧北区に広く分布する』が、本種はそのライフ・サイクルを殆んど水中で行い、通常のクモ類のかなりの種がよくやるバルーニング(幼体が糸を使って空を飛んで棲息息を拡大すること)を『行わないため、この広い分布がどのように実現されたのかは興味深い』。本邦では昭和五(一九三〇)年に『京都市の深泥池で吉沢覚文』(当時は中学三年)『が初めてミズグモを発見・採集した。彼はタヌキモを採集観察中にこれを発見し、「子供の科学」誌で見たミズグモを思い出して調べたところ、どうやらそれらしいと判断、ところが周囲の誰に聞いても「日本にミズグモはいない」と言われたという。しかし博物科担当教諭であった秋山蓮三、清水初太郎が実物を見た上で岸田久吉に連絡、岸田は京都に出向いてこれを観察、ヨーロッパのミズグモと同じ種であると確認、新聞紙上をにぎわすまでのニュースとなった』。『が、それから数十年の間』、二回目が昭和一六(一九四一)年の『北海道厚岸』、三回目が昭和五二(一九七七)年に再び京都と、極めて稀に『報告されるだけであった。この後』、『全国で発見例が増え、北海道から九州まで分布することが判明した。北海道道東地方では確実な観察例が多いが、継続的な生息を確認できない所が多い本州以南では絶滅が危惧されている。きれいな湿原や池の、浅くて水草が多いところで、なおかつ』、『大型魚のいない場所でなければ生存できないなど、生息条件が厳し』く、『環境省のレッドデータでは絶滅危惧II類に指定されている』。なお、日本固有亜種が Argyroneta aquatica japonica として『記録されているが、これについてはまだ確定的ではなく、変異の範囲とも見られている』とある。荻田が正しく本種を名指しているとしたら、彼が真正の和名の命名者となるが、恐らくは彼が「水蜘蛛」とと言っているのはそれこそ、水際で生活したり、時に水中で活動をするクモ類を広汎に指しているととるべきか

「いとも」「より一層にも」に蜘蛛の「糸」を掛ける。

「身仕舞(みじま)ひ」身を隠すこと。カモフラージュ。擬態。

「平蜘蛛(ひらぐも)」体が平たい蜘蛛の総称であるが、種としては文字通り、偏平な、クモ亜目ヒラタグモ科ヒラタグモ属ヒラタグモ Uroctea compactilis の俗称、というか漢字表記は「平蜘蛛」と、相同ではある。

「間口(まぐち)に狹(せ)ばふ作(つくり)なし」家の間口に狭くささやかな網を張り巡らせて巣を作り成し。上記のヒラタグモ(平蜘蛛Uroctea compactilis は人家の壁面などに好んで巣を作り、ウィキの「ヒラタグモ」によれば、『ヒラタグモの巣はテント型と言われることもあ』り、『巣は雨のあまり当たらない平らな広い面の上に作られる。外見はほぼ円形で中央が少し盛り上がる。輪郭は多数の突起を出していて、粗い歯車の形。この突起からは糸が出ていて、周囲の表面に張り付いている。また、巣の表面は、周囲のゴミ等をその表面につけて、周囲の色と紛らわしくなっている』。『巣その物は糸を重ねて作られた膜からなる。このような膜が上下に二枚重なったものが巣の本体であり、クモはその二枚の隙間に入っている。ヒラタグモの扁平な体はこのような巣に身を隠すのに都合がよい。上面の膜をはがすと、底面の膜の上にクモがいるのを見ることができる。クモは二枚の膜の隙間から出入りする』。『巣の外側の所々から壁面に糸が伸びる。この張られた糸は、ややジグザグになりながら巣から放射状に広がり、その面に張り付いたようになっている。この糸を受信糸と言い、これに昆虫等が引っ掛かると、振動が巣にいるクモに伝わることで、クモはえさの接近を知ることができる。えさが近づくとクモは巣から飛び出し、えさに食いついて巣に持ち込むか、えさの周囲をぐるぐる回りながら糸をかけ、動きを封じた後に噛み付いて巣に持ち込む』。『産卵は春から秋に散発的に行われる。卵は巣の中に柔らかな糸でくるんだ卵塊として生み付けられる。』摂餌や繁殖以外では『本体は常に巣にこもっていて出歩くことは少ない』とある。「壁にむかへる殊勝(すせう)さは」は、まさに荻田が本種ヒラタグモをよく観察していなければ記せぬ内容であり、荻田の博物学的関心の高さが判る

「少室(せうしつ)の寄る方(べ)とやいはん」岩波文庫版で高田氏は『不詳。謡曲『氷室』によるか』とのみ注しておられる。謡曲「氷室(ひむろ)」は宮増 (みやます)作と言われる脇能物。亀山院に仕える朝臣が丹波の氷室山に立ち寄るったところが、氷室守(もり)の老人が氷を都へ運ばせる由来を語り、やがて、氷室の中から氷室明神(老人の後シテ)が現れ、采女(うねめ)が氷を運ぶのを守護するという内容らしいが、この高田氏の注の謂わんとするところが私が馬鹿なのか、よく判らぬ。識者の御教授を乞う。単に「少室」は「氷室」の誤りで(しかし原典には御丁寧に「せうしつ」とルビが振ってあるんだがねぇ?)、氷が解けぬように外気に触れぬよう、しっかりと遮蔽されているされていることと蜘蛛の巣のカモフラージュを喩えて言ったものか? よう、判らんね。

「蠅(はへ)とり蜘蛛(ぐも)」私が大好きなクモ亜目ハエトリグモ科 Salticidae のハエトリグモ類。家屋内で普通に出逢うあの可愛いやつはオビジロハエトリグモ属アダンソンハエトリ Hasarius adansoni であることが多い。

「一葉(ひとは)の舟(ふね)の例(ため)し」岩波文庫版で高田氏は『舟の起源は、中国の貨狄(かてき)』(黄帝の臣であったとされる)『が蜘蛛の柳の一葉から作った舟を皇帝に献じたとする伝説』と注しておられる。

「わが背子(せこ)が、來(く)べき」岩波文庫版の高田氏の注によれば、流布本「古今和歌集」の「卷第二十」の終りに附されている「墨滅歌」(すみけちうた/ぼくめつか:「古今和歌集」の歌の中で古写本に書かれてはいるが、墨で消されてあるもの)の中の「卷第十四」の一首(一一一〇番歌)、及びそれを援用した酒呑童子退治の謡曲「土蜘蛛」を元にしているとする。

    *。

  衣通姫(そとほりひめ)の、獨り居(ゐ)て帝を戀ひ奉りて

 わが背子が來べき宵(よひ)也(なり)ささがにの蜘蛛(くも)の振舞ひかねてしるしも

    *

ここではいとしい彼がやって来てくれるという「良い」(よひ)予兆が蜘蛛の動作の動きに示されている「宵」だというのである。糸に引かれるように、そうした瑞兆に引かれるのではなく、その反対に、鬼神の悪霊となった酒呑童子が頼光に近づいたが故に滅ぼされたというのであろうか? どうもこの辺りは圧縮が過ぎ、謡曲に冥い私にはよく判らぬ。或いは、蜘蛛に繋げるとすれば、頼光に退治された酒呑童子が恨み骨髄の悪霊となって、後の妖怪土蜘蛛となって、またしても頼光に滅ぼされたという入れ子的謂いなのか? 一応、ウィキの「土蜘蛛の「妖怪土蜘蛛」の部分を引いておく。『人前に現われる姿は鬼の顔、虎の胴体に長いクモの手足の巨大ないでたちであるともいう。いずれも山に棲んでおり、旅人を糸で雁字搦めにして捕らえて喰ってしまうといわれる』。十四『世紀頃に書かれた『土蜘蛛草紙』では、京の都で大蜘蛛の怪物として登場する。酒呑童子討伐で知られる平安時代中期の武将・源頼光が家来の渡辺綱を連れて京都の洛外北山の蓮台野に赴くと、空を飛ぶ髑髏に遭遇した。不審に思った頼光たちがそれを追うと、古びた屋敷に辿り着き、様々な異形の妖怪たちが現れて頼光らを苦しめた、夜明け頃には美女が現れて目くらましを仕掛けてきたが、頼光はそれに負けずに刀で斬りかかると、女の姿は消え、白い血痕が残っていた。それを辿って行くと、やがて山奥の洞窟に至り、そこには巨大なクモがおり、このクモがすべての怪異の正体だった。激しい戦いの末に頼光がクモの首を刎ねると、その腹からは』千九百九十『個もの死人の首が出てきた。さらに脇腹からは無数の子グモが飛び出したので、そこを探ると、さらに約』二十『個の小さな髑髏があったという』。『土蜘蛛の話は諸説あり、『平家物語』には以下のようにある(ここでは「山蜘蛛」と表記されている)。頼光が瘧(マラリア)を患って床についていたところ』、身長七尺(約二・一メートル)の『怪僧が現れ、縄を放って頼光を絡めとろうとした。頼光が病床にもかかわらず』、『名刀・膝丸で斬りつけると、僧は逃げ去った。翌日、頼光が四天王を率いて僧の血痕を追うと、北野神社裏手の塚に辿り着き、そこには』全長四尺(約一・二メートル)の『巨大グモがいた。頼光たちはこれを捕え、鉄串に刺して川原に晒した。頼光の病気はその後すぐに回復し、土蜘蛛を討った膝丸は以来』、「蜘蛛切り」と呼ばれた。『この土蜘蛛の正体は』『神武天皇が討った土豪の土蜘蛛の怨霊だったという』とある。

「童子(どうじ)が靈」「童子」は原典でも後の「わらはべ」と区別してかくルビが振られてあることから判る通り、酒呑(しゅてん)童子のこと。だから、源「賴光(らいくはう)にも、近づきし」と続く。これは岩波文庫版の高田氏注によれば頼光の酒呑童子退治を主題とした謡曲「大江山」に基づくとされる。私のここへの不審は前の注の下線太字部分を参照されたい。

「一昨日(おとゝひ)こよ」現在も厭な者を罵って追い払う際に浴びせる罵詈雑言の一つである「一昨日(おととい)来やがれ!」は「もう二度と来るな」の意で、恐らくは過去の一昨日に来ることは不可能であることからであろう(と私は思っている)。不可能なこと言上げすることによって相手を永遠に封じてしまう呪言である。]

宿直草卷二 第二 蜘蛛、人をとる事

 

  第二 蜘蛛、人をとる事

 

 ある人、まだ朝まだき、宮へ詣りて、瑞垣(みづがき)のほとり、嘯(うそぶ)くに、拜殿の天井に、こちたくも呻(うめ)くものあり。いぶかしかりければ、上(あが)りてこれを見るに、大きなる𧍱蟷(つちぐも)、をのが糸にて人を卷き、首筋に喰(く)いつきてゐたり。上ると、そのまゝ、蜘蛛は逃げぬ。

 やがて立ちより、取まく蜘(くも)の糸筋をとりて、

「さて、いかなる人ぞ。」

といへば、

「さればとよ。是は旅いたすものに侍るが、昨日(きのふ)の黃昏(たそがれ)、此のところにきたり。求(もとむ)べき屋(や)どしなければ、この宮居にあかさんと思ひ、行方(ゆくゑ)も知らぬ旅の空、憂さもつらさも身をかこちて、つれづれに侍りしに、また跡より座頭、これも疲れ顏の、をちかた人(びと)とみえて、きたる。ともに寄りゐて、あだくらべの旅の物語などするにぞ、我にひとしき人もあめりと思ふに、かの琵琶法師、香合(かうばこ)のやさしきを取りだし、『これ良きものか、見て給(たまは)れ』とて、わが方(かた)へ投げたり。さらば、とて、右の手にとるに、鳥黐(とりもち)の如くして、離れず。左にて押(おさ)ふるにも、又、とりつく。左右の足にて蹈み落とさんとせしに、足も離れず。とかくとする内に、かの座頭、蜘蛛と現じて、我をまとひて、天井へのぼり、ひたもの、血を吸ひ喰(くら)ふ。いたく堪へがたふして、命も消ゆべきにきはまりしに、不思議に救ひ給ふ。命(いのち)の親なり。」

と語り侍りしと也。

 

[やぶちゃん注:本話は湯浅佳子氏の論文『「曾呂里物語」の類話』を読む限り、先行する「曾呂里物語」巻三の六「おんじやくの事」のインスパイアと見て間違いない。私は「曾呂利物語」を所持しないので、同論文から梗概を引用させて貰う。

   《引用開始》

 信濃国すゑきの観音堂で、愚かな若者が肝試しで一夜を明かしていると、夜半過ぎに琵琶箱を持った座頭が来る。互いに名乗り合い、若者が平家を所望し座頭は数曲を語る。すると琵琶の転手が軋んだので、座頭は温石を糸に塗る。若者が興味を持って温石を受け取ると、両手にくっ付いて離れなくなる。そのうち手が板敷に付いて動かなくなると、座頭は一丈ほどの高さの恐ろしい鬼となり、若者を嬲り威して後、消えた。若者がようやく温石を離して悔しがっていると、大勢の仲間が様子を見に訪れる。若者が事情を語ると、皆手を打って笑う。見ると、仲間と思ったのは皆例の化物であったので、若者は気絶する。夜明けに本当の仲間が尋ねてきたが、若者は正体も無く、後に本性を取り戻して語ったということだ。

   《引用終了》

また、これもやはり、本書と同年刊行の「諸國百物語」の、それも以前にも類話として掲げた「卷之三 一 伊賀の國にて天狗座頭(ざとう)にばけたる事」と物が接着して手足が動かせなくなる怪異で酷似し、しかも怪が化けているのが「座頭」を自称し、しかも「琵琶法師」であるという設定は確信犯である。同様の接着系怪異は同書の「卷之五 四 播州姫路の城ばけ物の事」にも出る(リンク先は孰れも私の電子化注)。こちらは怪異を受けるのが姫路城酒城主秀勝で場所も本丸内という設定で甚だ結構は異なるものの、同様の趣向で変化が見知りの「座頭」に化けており、くっつくのが琴の爪「箱」でアイテムの点でも意識的な類似性と思しき部分を見出せる。

「嘯(うそぶ)くに」詩歌を口ずさんでいたところが。

「こちたくも」ものものしい感じで。

𧍱蟷(つちぐも)」底本は「土蜘蛛」。原典に従った。「𧍱蟷」は現代仮名遣の音「テツトウ」で、現行では、地中に穴を掘ってその入り口に扉を付けることを特徴とするトタテグモ(戸立蜘蛛:鋏角亜門蛛形(クモ)上綱蛛形(クモ)綱クモ亜綱クモ目クモ亜目カネコトタテグモ科 Antrodiaetidae 及びトタテグモ科 Ctenizidae に属する種(事実上の主な種群はトタテグモ科に属する類)群を指すこととなっているが、ここはその生物種とは無関係で、恐らくは妖怪としての「土蜘蛛(つちぐも)」のニュアンスである。土蜘蛛は本来は本邦の各地に元からいた土着民族たちの内で、古代に於いて朝廷に反抗した者たちに対する卑称であって、原義は蜘蛛とは無関係と思われるが(穴居生活を意味する「土隠(つちごもり)」が語源と推定される)、後代、その不恭順から蜘蛛の妖怪へと零落させられたものである。別名を「八握脛・八束脛(やつかはぎ)」「大蜘蛛(おおぐも)」などとも称し、「八束脛」は「すねが長い」という意で、その辺りが後に蜘蛛に附会されたものかも知れぬ。詳しくはウィキの「土蜘蛛などを参照されたい。

「屋(や)どしなければ」「屋(や)ど」は「宿」(但し、この場合は旅宿ではなく、心地よく寝泊り出来そうな民「屋」の意)で、「し」は「そんな民家の一軒さえも」の強意の副助詞。

「身をかこちて」「かこつ」は「託つ」で、「心が満たされずに不平を言う・愚痴をこぼす・嘆く」の意。しばしば「身の不運(不幸)を託つ」と使われ、己自身の運の悪さを嘆き、ぼやくの意。

「つれづれに侍りしに」することもなく、退屈してぼんやりしておりましたところが。

「跡より」後から。

「をちかた人(びと)」「遠方人」で原義は「遠方の人・あちらにいる人」であるが、ここは「是(これ)も」と前にあるように、単に、生地を離れて遠方の地を彷徨(さすら)うところの「旅人」の意である。

「あだくらべの旅の物語などする」漢字を当てるなら「徒競べ」といったところで、しがない賤しい流浪の民として、何一つ、実も結ばず、むなしく、無益な旅を人生とする者同士の、その儚さを謂い競うようなしょぼくらしいエピソードなんぞを語り合うことを意味する。

「香合(かうばこ)」香箱(こうばこ)。香を入れる蓋の附いた容器。通常はこれで「かうがふ(こうごう)」と読み、「香盒」とも表記する。木製・漆器製・陶磁器製などがあり、用途上、中・上流階級の持ち物である。

「やさしき」上品な。優美な。

「鳥黐(とりもち)」小鳥や昆虫などを捕らえるために竿の先などに塗って用いる粘り気の強い植物性物質。黐の木(バラ亜綱ニシキギ目モチノキ科モチノキ属モチノキ Ilex integra)・黒鉄黐(くろがねもち:モチノキ属クロガネモチ Ilex rotunda)及び全くの別種の山車)やまぐるま:マンサク亜綱ヤマグルマ目ヤマグルマ科ヤマグルマ属ヤマグルマ Trochodendron aralioides)などの樹皮から採取する。詳しくは私の囊 之七 黐を落す奇法の事注を参照されたい。

「まとひて」絡み付かせて。身につけて。

「ひたもの」「直物」と漢字表記は出来るが、副詞で、「一途に・只管(ひたすら)・矢鱈(やたら)と」の意。]

サイト「鬼火」開設十一周年記念 佐藤春夫 未定稿『病める薔薇(さうび) 或は「田園の憂鬱」』(天佑社初版版) 本文版

サイト「鬼火」開設十一周年記念(二〇〇六年六月二十六日開設)として、

佐藤春夫 未定稿『病める薔薇(さうび) 或は「田園の憂鬱」』(天佑社初版版)の本文版

(ブログ・カテゴリ「佐藤春夫」で18回に分けて行った僕の電子化注から、概ね、校訂注を残して、他の多量の私注を除去したもの)を公開した。

2017/06/25

宿直草卷二 第一 急なるときも思案あるべき事

 

宿直草 卷二

 

  第一 急なるときも思案あるべき事

 

Kumokai

 

[やぶちゃん注:挿絵は底本のもの。中央のものが拝殿で、左手奥にあるのが祭殿で、そちらの天井裏が化け蜘蛛の巣であったものか。]

 

 靑侍(なまさふらい)ありて、道をゆくに、里遠き所にて、日、暮れたり。

「如何(いかゞ)せん。」

とあたりをかけるに、林下(りんか)に古き宮あり。すなはち、拜殿にあがり、柱にそふて、

「こゝにしも、夜をあかさん。」

と思ふに、朱(あけ)の玉垣は年ふる苔に埋もれ、幣帛(ゆふしで)、風に飛んで、淺茅(あさぢ)がもとに朽(く)つ。巫女(をとめ)の袖の鈴(すゞ)たへて、巫(きね)が手向(たむく)る祝(のつと)もなし。露になく滋野(しげの)の虫は、榊(さかき)をさそふ嵐にこたへ、壁に亂るゝ蜘蛛(くも)の網(ゐ)は、庭の眞葛(まくず)が蔓(つる)にあらそふ。荒れしをまゝの有樣は、いとゞ秋てふ悲しかりける。

 やゝ宵も闌(たけなは)にして、四更の空とおぼしきころ、十九(つゞ)二十(はたち)ばかりの女房、孩子(がいし)を抱(いだ)きて、忽然と、きたる。

「かゝる人家も遠き所へ、女性(によしやう)として夜更(よふけ)て來(く)べきにあらず。いかさまにも化生(けしやう)の者にこそ。」

と、うしろめたく用心して侍りしに、女、うちゑみて、抱きたる子に、

「あれなるは、父にてましますぞ。行(ゆき)て抱かれよ。」

とて、突き出す。

 この子、するすると來(く)るに、刀に手かけて、はたと、睨めば、そのまま歸りて、母にとりつく。

「大事ないぞ、行け。」

とて、突き出す。重ねて睨めば、また、歸る。かくする事、四、五度にして、退屈やしけん、

「いで、さらば、自(みづか)ら參らん。」

とて、件(くだん)の女房、會釋(ゑしやく)もなく來るを、臆せずも、拔き討ちに、ちやうど、斬れば、

「あ。」

といひて、壁をつたひ、天井へ、上がる。

 明けゆく東雲(しのゝめ)、しらみ渡れば、壁にあらはな貫(ぬき)を蹈(ふ)み、桁(けた)なんど傳(つた)ひ、天井を見るに、爪(つま)さき長(ながき)事、二尺ばかりの女郎蜘蛛、頭(かしら)より背中まで斬りつけらて、死したり。人の死骸有(あり)て、天井も狹(せば)し。

 あゝ、誰(た)がかたみぞや。また、連れし子とみえしは、五輪の古(ふ)りしなり。

 凡そ思ふに、化物と思ひ、氣(き)を逼(せ)きつゝも、五輪をきらば、莫耶(ばくや)が劍(つるぎ)もあるは折れ、あるは刃(は)もこぼれなん。その時にして、人をとりしにや、よき工(たく)みなりかし。此人も心せきて、身も逸(はや)らば、心の外(ほか)に越度(おつど)もあるべし。思案して五輪を斬らざるは、あゝ、果報(くはほう)人かな。

 

[やぶちゃん注:本話は湯浅佳子氏の論文『「曾呂里物語」の類話』によれば、先行する「曾呂里物語」(寛文三(一六六三)年刊)の巻三の一「いか成化生の物も名作の物にはおそるゝ事」のインスパイアであるが、そのプロトタイプは「今昔物語集」の「卷第二十七」の「賴光郎等平季武、値産女語第四十三」(賴光の郎等(らうどう)平季武、産女(うぶめ)に値(あ)ふ語(こと)第四十三)である。また、「諸國百物語卷之一 二 座頭旅にてばけ物にあひし事」は、その「曾呂里物語」版の完全な同話であり、同じ「諸國百物語」の「卷之四 十 淺間の社のばけ物の事」の趣向に至っては、本「宿直草」版に異様なほど酷似する但し、後者ではエンディングで主人公の肝試し目的の侍が脇差を逆手に持って塔の九輪を突き通していたという為体(ていたらく)となっており、本条の最後の荻田安静の評言は、あたかもこの後者の話を意識したかのように読めるのも面白い。以前に述べた通り、「諸國百物語」は「宿直草」と同じ年の刊行であり、当時の人々が先に「諸國百物語」を読み、後で本話を読んだら、殆んどの人が、明らかに「宿直草」が「諸國百物語」をインスパイアし辛口評を附したのだとさえ考えるであろうと思う。こうなってくると、両書の影響関係は非常な興味を喚起すると言える(リンク先は孰れも私の電子テクスト注)ので是非、比較されたい

「靑侍(なまさふらい)」身分の低い若侍。なお、狭義の「あをさぶらひ」は公卿の家に仕える六位の武士で、彼らが「青色の袍(ほう)」を着たことに由来する。「袍」は衣冠束帯などの際に着用する盤領(まるえり)の上衣。更に言っておくと、この「青色の袍」は「麴塵の袍(きくじんのほう)」を指し、それは元来は天皇が略儀に着用した桐・竹・鳳凰・麒麟を組み合わせて一単位とした文様が織られた上着であったが、これを六位の蔵人が拝領して着用することがあり、それが以上の武士階級に広く着られるようになり、意味も格変化していったものである。

「かける」「驅ける」。よほどの鄙で、雨露を凌ぐべき場所が視界域には何も見えなかったから焦ったのであろう。

「幣帛(ゆふしで)」岩波文庫版では『木綿垂』と漢字表記する。「木綿四手」とも書くが、「四手」は当て字。元来は「垂らす」意の動詞「垂(し)ず」の連用形の名詞化したもので、原義は「木綿 (ゆう) を垂らすこと」である。「木綿 (ゆう)」は現行の木綿(もめん)ではなく、和紙の原料として知られる「楮」(イラクサ目クワ科コウゾ属雑種コウゾ Broussonetia kazinoki × Broussonetia papyrifera。「姫楮」(コウゾ属ヒメコウゾ Broussonetia kazinoki)と「梶の木」(コウゾ属カジノキ(Broussonetia papyrifera)の雑種)の皮の繊維を蒸して水に晒し、細かく裂いて糸としたものであって、主に幣(ぬさ)として神事の際に榊(ツツジ目モッコク科サカキ属サカキ Cleyera japonicaの枝に懸けたものを指す。所謂、玉串(たまぐし)や注連繩(しめなわ) などに附けて垂らす現在は紙になってしまったあれである。ここは氏子も参る者もいなくなった廃社で、古い注連繩に附いていたその木綿垂(ゆうしで)も、すっかり風に吹き飛ばされて、なくなってしまっているのである。

「淺茅(あさぢ)」丈の低い茅(ちがや:単子葉植物綱イネ目イネ科チガヤ属チガヤ Imperata cylindrica)の叢。

「巫女(をとめ)」後の「鈴」から神楽舞いをする未婚女性の巫女/神子(みこ)。

「巫(きね)」「巫覡」(音は「フゲキ」)とも書く。これは広義には神に仕える神官や巫女 (みこ)を指すが、前に「巫女」を出しているから、こちらは祭儀を主宰する男性神官を「祝(のつと)」祝詞(のりと)。

「滋野(しげの)」草生い茂る野原。

「虫」原典の字体。

「榊(さかき)をさそふ嵐」かつて神前に手向けられた榊を吹き散らす大風。ここの祠の荒廃の寂寥を次のそれに「「こたへ」(應へ)る如き虫の音とともに倍化させる。

「網(ゐ)」岩波版の漢字表記を用いた。「ゐ」は「居」で蜘蛛の巣であるが、「蜘蛛の網(い)」という語があり、それは「ゐ」ではなく、「蜘蛛の巣」或いは「蜘蛛の糸」の意も示す。

「眞葛(まくず)」葛(マメ目マメ科マメ亜科インゲンマメ連ダイズ亜連クズ属クズ Pueraria lobata)の美称。

「いとゞ秋てふ悲しかりける」秋という季節の、激しく、哀しく切ないことを思わせることであろうか。詠嘆の連体中止法。

「四更」丑の刻。現在の午前一時或いは二時からの凡そ二時間を指す。

「十九(つゞ)」「つづ」は本来は「十」を意味する。事実、「つづはたち」という語が存在し、これは本来は「十かや二十」という不定数(或いは定倍数)を指す古語であったものが、特に「十(つづ)や二十(はたち)の」年齢の謂いとして使用された際に、誤まって「十九か二十の」の意に用いられてしまった結果、「つづ」が「十九」の意に慣用化されてしまったものという(「日本国語大辞典」等を参考にした)。因みに、この下の「づ」は「一つ」などの助数詞「個(つ)」と同語源で「十個(とつ)」が転訛したものとも言うが、何だか私には怪しい感じがしてならない。因みに、「十九(つづ)」から「九十九折(つづらおり)」を連想する方もいるかも知れぬが、これは「葛折」で藤蔓などの蔓性植物が幾重にも折れ曲がって伸びていることからの比喩表現であり、「九十九」は当て字に過ぎない。しかし、私は「九十九」が「つづら」なら、「十九」を「つづ」と読もうとする人間が居たとしても強ち変ではない気がした(その場合、牽強付会するなら「ら」は複数を現わす接尾語と考え、それを落すことが「九」の一つを外すことになり「十九」と洒落てみたい気もする)。それが「十九」を「つづ」と読むようになってしまったとする説があっても、これ、よさそうな気さえするのである。

「孩子(がいし)」幼児。現代中国語でも年齢制限なしに「子ども」の意で用いる。因みに、現代の本邦では五歳位までに亡くなった子どもの戒名にこれを附すぐらいで、日常の「子ども」という使用例はまず見ない。

「うしろめたく」どうなるか不安で。

「ちやうど」一種のオノマトペイア的副詞。濁音が古いあ、後に清音「ちやうと(ちょうと)」ともなった。物と物とが強くぶつかったり、打ち合う音の形容。所謂「はっしと」や現代の「バシッと」に同じい。

「貫(ぬき)」穴。

「桁(けた)」柱の上に横に渡して垂木 (たるき) を受ける材で、梁 (はり) と打ち違いになる。

「爪(つま)さき長(ながき)事、二尺ばかりの女郎蜘蛛」間違ってはいけない。脚の先端節部分だけで二尺、六十一センチ弱もある女郎蜘蛛(鋏角亜門クモ綱クモ目クモ亜目クモ下目コガネグモ上科ジョロウグモ科ジョロウグモ属ジョロウグモ Nephila clavata)というのだから、巨大である。この数値を第一脚の先端の長い鉤のように湾曲した節の長さと採ると、その実際の同種の脚節と全長比から見て、脚の全長(第四対脚の先端まで。ジョロウグモは脚が長い種である)では五倍はあるから三メートルは有にあり、実際の同種の頭胸部+腹部だけの比で見ても、脚を本体も六十センチ以上はあるだろう。因みにジョロウグモは性的二形が著しいことで知られ、成体の体長はで十七~三十ミリメートルに対し、は六~十三ミリメートルとの半分以下である。ここは母として化けてもいたことでもあり、この異様な巨大さからも、まず、である

「狹(せば)し」原典は「せばし」。底本は『挾し』(ルビなし)であるがこれは採れない。岩波文庫版を参考に、かく、した。

「あゝ、誰(た)がかたみぞや。また、連れし子とみえしは、五輪の古(ふ)りしなり」この前後は原典は勿論、底本なども総て繋がっているのであるが、私は恣意的に以上のような改行を施した。その理由は、この堰を切ったような感懐表現は前の天井裏に山と積もれた「人の死骸」へのそれではなくて、青侍が恐怖の天井裏から降りて来て、ふと近くの地面を見て思わず「連れし子とみえしは、五輪の古(ふ)りしなり」と気づき、その崩れた五輪塔は一体「あゝ、誰(た)がかたみぞや」と感慨を催した倒置法と読むからである。

「莫耶(ばくや)が劍(つるぎ)」名剣の譬え。この伝承(リンク先参照)で名剣の名となっている「干將(かんしょう)」と「莫耶(ばくや)」は、実はもともとは刀鍛冶の男干將とその妻莫耶の名である。時間の許す方は、先日、電子化したばかりの柴田宵曲 續妖異博物館 「名劍」(その1)の私の注の冒頭の長い「干將鏌耶(かんしょうばくや)」を是非、参照されたい。

「その時にして、人をとりしにや」それを好機として蜘蛛怪は人を襲ったのではなかろうか。或いは、朽ち崩れた五輪塔には何箇所もの刀傷の痕があるのを青侍は見たのかも知れぬ。その方がまた、映像的には優れる。

「よき工(たく)み」蜘蛛怪が人間を襲うための巧妙な戦略。

「心の外(ほか)に」予想外の。

「越度(おつど)もあるべし」致命的な過ちを犯していたかも知れぬ。

「果報(くはほう)人」「人」は「にん」か。幸運な人、或いは、前世の善き因果によってかくもからき命を救われた人の謂い。]

2017/06/24

宿直草卷一 第十二 弓法の德をおぼえし事

 

  第十二 弓法の德をおぼえし事

 

 むかし、弓をたしむ人あり、ひとり、夜みちゆく。己(をの)がわざなれば、祕(ひ)めにし弓に矢を十筋(すぢ)取(とり)添へて出でけるが、また、道にて小竹原に入つて、篠(しの)を一本切(きり)、矢のたけにくらべ、根をそぎ、筈(はず)をつけて、十筋の箭(や)にとりそへて持ちけり。

 さて行くに、みちの眞中(まんなか)に、その色(いろ)、黑きもの、あり。人よりは小さふして、さらに動かず。

「退(の)け。」

といへど、いらへず。

「いかさまに狐、貉(むじな)なるべし。」

と思ひ、矢をはなちて射るに、手ごたへして、あたると見しも、飛(とび)のく音、かねなど、射るがごとし。しかれども、やをら、はたらきもせず。また射るも始めのごとし。一筋一筋と射るほどに、十筋みな射て、たゞ一本、殘れり。

 このとき、かの物、動きて、上(へ)にかづきし物を、わきへのけて飛(とび)かゝるを、のこる一すぢにて射止(いと)めたり。さて、間(ま)ちかく見れば、狸にて、上にかづきしは鍋(なべ)也。おそろしきたくみにあらずや。その十の數(まず)、知りしにや。また、十は數の常(つね)にして、物每(ものごと)に是を用ゆ。狸すら、それをくりて、うかゞふ。まして、人なんどの智には考ふべきをや。きりそへて、十一にしてゆきしは、心憎く侍る。

 『祕事(ひじ)は、まつげのごとく、これ、弓法(きうぼう)の德なり』といへり。惣(すべ)て、人にぬきでて藝ある人は、つねづねの心がけも各別なりけらし。この事にかぎらず、氣をつけ、心をくばらば、物ごと、よくとゝのふべきものをや。三番のあどの外に、猶、物に心得たる人こそ、世中の寶なめれ。如夢僧都(によむそうづ)のゑぼしも、河風すさぶ折柄(をりから)には、ひとかど、晴(はれ)の用にたてりとあればとて、四明年(しみやうねん)にことくどき人も、我におゐて、うるさし。

 

[やぶちゃん注:弓で軽く連関。前話の一般論としての「見越し入道」が狸の変化(へんげ)であることを確定的なものするなら、狸の変化で直連関する。

「筈(はず)」矢筈(やはず)。弓矢の尻のV字形に加工した弓弦(ゆづる)を懸ける部分。

をつけて、十筋の箭(や)にとりそへて持ちけり。

「いかさまに」ここは副詞的用法で、「きっと・恐らくは」の意。

「貉」ここは前に狐を出して並列しているので狸のこと。

「やをら」元は対象生物などがゆっくりと動作を始めるさまを指す。ここは「おもむろに」。

「はたらきもせず」動こうともしない。

「十筋みな射て」その中で追加して作った即製の仮の箭(や)は既に交ぜ射ているのである。そうでないと、流石に篠竹の鏃なしのそれは、とどめを刺す一本にするには心もとないからである。

「かづきし」被っていた。

「その十の數(まず)、知りしにや」一応、疑問文であるが、この狸は、殆んど確述用法で十という数を認識していたのである。

「十は數の常(つね)にして、物每(ものごと)に是を用ゆ」十という数はありとあらゆる場面の中で常用される数で、種々の複数の対象物の一揃えにこの数を用いている。

「それをくりて」「くりて」「繰りて」。その放った矢の数を冷静に順に一つずつ数えて。

「まして、人なんどの智には考ふべきをや」畜生の狸でさえそうなのだから。まして、人間なぞの普通の者の持つ智恵などに於いては、これ、容易に考えつくことに決まってる。

「きりそへて、十一にしてゆきしは、心憎く侍る」そう考えると、この弓術師が敢えて即席の矢を作り添えて、総数を十プラス一にして夜道を行ったのは、まっこと、心憎い仕儀ではないか。

「祕事(ひじ)は、まつげのごとく」「祕事は睫(まつげ)の如し」容易くは理解出来ぬとされる奥義や秘密というものは学ばなければなかなか習得出来ないものの、実は睫毛は直ぐ眼の前にあるにも拘わらず、近過ぎて見えているという認識がないように、秘事・奥伝といったものは意想外に誰でも知っている常識のほんの近くにあるものであるといった意味の故事成句。「我が眼(まなこ)を以つて我が睫を見んとするが如し」或いはもっと短く単に「秘事は睫」とも言い、より知られた類義成句は「灯台下暗し」である。

「三番のあど」不詳。能狂言でシテに対する相手役を「アド」と称し、相手役が二人以上登場する場合は,主な相手役の「アド」を「主(おも)アド」または「一のアド」と称し、以下「次(じ)アド(二のアド)」、「三のアド」と言うが、その最後のものか? 端役であるが、能狂言の端役中の端役とも言えるが、彼が居なければ、芝居は成り立たないから、バイ・プレーヤー乍ら、芝居成立に必須な人物=知恵者の謂いか。そういう意味であるなら、ここはさらにその「三番のあどの外に、猶、物に心得たる人こそ、世中の寶なめれ」と常人の気づかぬ、この世の中には実は必須であり、同時に名もなき知恵者の存在が厳然としてあるのだと謂うのであろうか。大方の御叱正を俟つ。

「如夢僧都(によむそうづ)」これは恐らく、「如無僧都」の誤りであろう。「十訓抄」の「上」の「第一」の中に、平等院僧正行尊の気配りを讃えた一条の最後に、

   *

昔、宇多法皇、大井川に御幸の日、泉大將の、烏帽子(ゑぼし)、落したりけるに、如無僧都、三衣(さんえ)箱より烏帽子取り出でたりけんに、劣らずこそ聞ゆれ。

   *

と出る出来事を指すものと思われる。如無僧都は平安前期の公卿藤原山蔭の子で法相宗の僧。興福寺に住し、延喜六(九〇六)年に権律師に任ぜられて宇多天皇の覚え宜しく、承平元(九三八)年に大僧都となって、天慶元(九三八)年に遷化している。

「四明年(しみやうねん)にことくどき人」不詳乍ら、四年も先のあれこれのことを、くどくど言っては何やかやとそのときのためにあれをしろ、これをした方が良いなどとお節介をする人の謂いか? 大方の御叱正を俟つ。

宿直草卷一 第十一 見こし入道を見る事

 

  第十一 見こし入道を見る事


Mikosinyuudou

 ある侍(さふらひ)の語りしは、

『我、ますらおの若かりしとき、犬をつれて狩(りやう)にいでしが、その夜、仕合(しあはせ)惡(あし)し。一里ばかりの道越えて、はや歸るべきとおもひ、山の頂上にやすらひしに、岩(いは)漏(も)る滴(しづく)、物さびて、篠ふく風もらうがはしく、天漢(てんかん)ほしひまゝに橫(よこたは)りて、昴星(はうせい)うつすべき露なし。落ち葉、道ふさぎては、蛛蜘(ささがに)もまた糸をみだせり。

 此(この)山、西、ひがしに嶺つゞけるに、北向きてたちしが、前の谷より、なにとなふ、大きなるもの立ち上がる。そのかたち、彷彿(はふほつ)として見わけがたけれど、れんれんに立(たち)あがるにぞ、化け物とは知りぬ。かくて見守(まも)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]りゐるに、向ふの山のいたゞきより、その背、猶、高し。星の光りにすかして見れば、大きなる坊主なり。

「さては古狸などの化くる、見越し入道といふものにこそ。おそらくは射止めんものを。」

と、弓、取り直し、素引(すび)きして、猪(い)の目透(す)かせる雁俣(かりまた)の矢をとり、かの坊主の面(つら)を、目も離(はな)たず、睨(にら)みゐるに、ひた物、高くなりて、後(のち)には、見あぐる事、結し髮の襟(えり)につくまでせり。

「もはや、時分もよし、一矢、射ん。」

と、弓引きしぼり、ねらへども、あまり大きにして、矢つぼ、定めがたく、案じわづらふ間に、ふつと、消えて、更にそのかたち、なし。

 このときに、見えし星の影もなく、にはかに暗ふして、前後、途(と)を失ふ。何の害もなかりしかども、有無(うむ)に、道、見えず。目指すとも知がたし。所詮、歸らんと思ひけるにも、行くべき方を知らず、口惜しく思へども、すべきやうなし。連れし犬に嘯(うそ)かけて呼び、犬の頸綜(くびたま)に鉢卷を結(ゆひ)、わが帶(おび)の端(はし)に是をつけて、行くやら、歸へるやら、其(その)方角もしらず。犬にまかせて歸るに、ひとつの家、みえたり。其とき、心を付(つ)くるに、暗さも止みて、もとの星月夜(ほしづくよ)となり。見つけし家はわが家なり。その後(のち)は、友いざなひて、ひとりは出でず。」

と、いへり。

 

[やぶちゃん注:狩人が山巓で体験する怪として前話と繋がるが、全体の結構や巨怪の出現及び挿絵の人と見越入道の配置構成などは、二話前の「第九 攝川本山は魔所なる事」との親和性がすこぶる高い。

「見こし入道」日本の妖怪の一種としては、かなりメジャーな、しかもその巨大さとインパクトから、しばしば妖怪の首魁として登場する一種である。ウィキの「見越し入道」を引く。『江戸時代の怪談本や随筆、及び日本各地の民俗資料に見られる』もので、『夜道や坂道の突き当たりを歩いていると、僧の姿で突然現れ、見上げれば見上げるほど大きくなる』。『見上げるほど大きいことから、見上げ入道の名がついた。そのまま見ていると、死ぬこともあるが、「見こした」と言えば消えるらしい。主に夜道を』一『人で歩いていると現れることが多いといわれるが、四つ辻、石橋、木の上などにも現れるという』。『見越し入道に飛び越されると死ぬ、喉を締め上げられるともいい、入道を見上げたために後ろに倒れると、喉笛』『をかみ殺されるともいう』。『九州の壱岐島では見越し入道が現れる前には「わらわら」と笹を揺らすのような音がするので、すかさず「見越し入道見抜いた」と唱えると入道は消えるが、何も言わずに通り過ぎようとすると』、『竹が倒れてきて死んでしまうという』。『岡山県小田郡では、見越し入道に出遭った際には頭から足元にかけて見下ろさなければならず、逆に足から頭へと見上げると食い殺されてしまうという』。『その他の対処法としては「見越した」「見抜いた」と唱えるほか、度胸を据えて煙草を吸っていたら消えたとか(神奈川県)』、『差金で見越し入道の高さを計ろうとしたら消えた(静岡県)などの例もある』。『岡山県のある地域では、厠で女性がしゃがんでいると、キツネが化けた見越し入道が現れて「尻拭こうか、尻拭こうか」と言って脅かすという』。『また、大晦日の夜に厠で「見越し入道、ほととぎす」と唱えると必ず見越し入道が現れるともいう』。『これらの厠に関する伝承は、厠に現れるといわれる妖怪・加牟波理入道』(かんばりにゅうどう:僧形で厠を覗き、口から鳥を吐く妖怪))『と混同したものとの説もある』。『西村白鳥による江戸時代の随筆『煙霞綺談』では見越し入道は人を熱病に侵す疫病神とされており、以下のような話がある』。正徳年間(一七一一年~一七一五年)、『三河国吉田町(現・愛知県豊橋市)の商人・善右衛門が名古屋の伝馬町へ行く途中でつむじ風に遭い、乗っていた馬が脚を痛め、善右衛門も気分を害してうずくまっていたところ、身長』一丈三、四尺(約四メートル)『もの大入道が現れた。その入道はまるで仁王のようで、目を鏡のように光らせつつ善右衛門に近づいてきた。善右衛門が恐れおののいて地に伏していると、入道は彼を踏み越えて去って行った。夜明けの頃に善右衛門が民家に立ち寄り「この辺りに天狗などの怪異はあるか」と尋ねると「それは山都(みこしにゅうどう)と呼ばれるものではないか」との答えだった。後に善右衛門は目的地の名古屋に辿り着いたものの、食欲が失せ、やがて熱病に侵され、医者の手当ても薬も効果がなく』、十三『日目に亡くなってしまったという』。『見越し入道の正体は不明とされることが多いが、変化(へんげ)能力を持つ動物とする地方もある。福島県南会津郡檜枝岐村』(ひのえまたむら)『の伝承ではイタチが化けたものとされ、入道の巨大化につられて上を見上げると、その隙にイタチに喉を噛み切られるという』(ここで、ウィキの筆者は「宿直草」ではタヌキが化けたものとされていると記すが、それは本条で狩人が世間でそう言われているとして口にするものであって、この狩人が遭遇した見越し入道が本当に狸の変化(へんげ)であったかどうかは判らないようになっているので注意されたい)。『キツネが化けているという地方もある。信濃国(現・長野県)ではムジナが化けたものといわれる』。『また前述の檜枝岐では見越し入道は提灯、桶、舵などを手に持っており、その持ち物こそが本体で、持ち物を叩けば入道を退治できるともいう』。「妖怪画」の項。『単に見越し入道といっても、妖怪画では様々な姿として伝えられている』。『江戸時代の妖怪絵巻『百怪図巻』(画像参照)や妖怪双六『百種怪談妖物双六』では、顔や上半身のみが画面に大きく捉えられているのみで、身体的特徴ははっきりとしない構図となっている』。『鳥山石燕の妖怪画集『画図百鬼夜行』に「見越」の題で描かれた見越し入道』(リンク先に画像有り)『は大木の陰から覆い被さるように出現した様子を捉えたもので、首が長めになっているが、これは背後から人を見る格好で、ろくろ首のように首の長さを強調しているわけではない』。『このように巨大な妖怪という特徴で描かれた見越し入道が存在する一方で、江戸時代のおもちゃ絵などに描かれた首の長いろくろ首かとさえ思える見越し入道も決して珍しくない』。『ろくろ首との関連を思わせるものも存在し』、『ろくろ首の伝承の多くが女性であることから、男性版のろくろ首とも例えられることもある』。『この首の長さは時代を下るにつれて誇張されており、江戸後期には首がひょろ長く、顔に三つ目を備えているものが定番となっている』。『妖怪をテーマとした江戸時代の多くの草双紙でも同様に首の長い特徴的な姿で描かれており、そのインパクトのある容姿から、妖怪の親玉として登場することがほとんどである』。北尾政美(まさよし)の黄表紙本「夭怪着到牒(ばけものちゃくとうちょう:天明八(一七八八)年刊)では、『尼入道(あまにゅうどう)という毛深くて長い首を持つ女の妖怪が登場しており、これは女性版の見越し入道とされている』(リンク先に画像有り)。『民間伝承における見越し入道に類する妖怪は、』「次第高(しだいだか)」・「高入道(たかにゅうどう)」・「高坊主(たかぼう)」・「伸び上り」・「乗越入道(のりこしにゅうどう)」・「見上入道(みあげにゅうどう)」・「入道坊主」・「ヤンボシ」或いは単なる「見越し」などがある。また、『静岡県庵原郡両河内村(現・静岡市)ではお見越しともいって、道端にいる人に小坊主の姿で話しかけ、話している途中に次第に背が高くなり、その様子を見続けていると気絶してしまうが、「見越したぞ」と言うと消えるという。道端に優しい人の姿で現れ、通りかかった人が話しかけると、話の内容によっては大きくなってみせるともいう』。『熊本県天草郡一町田村(現・天草市)では』漢字表記の異なる「御輿(みこし)入道」として『伝承されている。下田の釜という地の一本道に現れるという身長』五丈(約十五メートル)『の妖怪で、出遭った人を今にも嘗めるかのように舌なめずりをするという。ある者がこれに出遭い、一心に神を念じたところ、入道は恐れをなし、御輿のようなものに乗り、布を長く引いて山のほうへと飛び去ったという』とある。

「ますらおの若かりしとき」「ますらお」は「益良男・丈夫・大夫」などと漢字表記するが、歴史的仮名遣としては「ますらを」が正しい。若く、且つ、雄々しく強い男であった頃。採話した折りの話者は既に老齢に入っていると読める。

「仕合(しあはせ)惡(あし)し」猟の仕儀が頗る悪い。猟果が全くない。

「物さびて」何ともいえず、古めかしい感じで寂れており。

「もらうがはしく」騒がしく、耳について五月蠅い。

「天漢(てんかん)」銀漢。銀河。天の川のことであるが、ここは狭義のそれというよりも、星が密集している感じを与えるという謂いでとってよいと思う。

「ほしひまゝに」その光を夜空にそのままずらりと鏤め敷いたままに横たわって夜空を異様に明るくしてしまい、その結果として露に「昴星(はうせい)」(おうし座の散開星団であるプレアデス星団(Pleiades)。和名は「すばる」。通常、肉眼でも輝く五~七個の星の集まりを見ることが可能なほどよく光って集合して見える)の光りが見えないのである。ここは、その昴(すばる)の星の光りを映すはずの夜露が全くないという意味ではなく、あまりに満天の星空が冴えきって、総ての星が孰れも光り輝いているために、却って普段なら目立って小さな露にさえ映るはず昴の星の光りが、露の中に「つゆも」見えないというニュアンスで言っているものと私は採る。ここがそのように異様に降るような満天の星空であることは、「蛛蜘(ささがに)もまた糸をみだせり」と、細い細い蜘蛛の糸にさえ、それらの星々の光りが輝いていることからも判るのである。そしてまた、この異様な綺羅星こそが、最後のシーンの暗転の恐怖へと転ずるための伏線なのである。

「彷彿(はふほつ)として」ここは、姿・形がぼんやりとしか見えないさま。

「れんれんに」形容動詞。その対象物がずっと続いていて絶えないさま。

「おそらくは」「きっと・必ずや」或いは「憚りながら」の意。

「素引(すび)き」弓に矢をつがえずに弦だけを引くこと。これは矢を射る準備行動ではなく、所謂、「弦打ち」で、妖魔を避けるための呪的防禦行動と思われる。

「猪(い)の目透(す)かせる雁俣(かりまた)の矢」岩波文庫版の高田氏の注に、『心臓形の猪の目の透かし彫りを施し、鏃の先を二股に作って内側に刃を付けたものを取りつけた矢。狩猟用』とある(挿絵がただの征矢なのは残念)。刀鍛冶福留房幸氏のブログ「一閑人 刀鍛冶 福留房幸の日々」のらねかりまたの画像を見られたい。素晴らしい!

「ひた物」副詞。無暗と。ひたすら。

高くなりて、後(のち)には、見あぐる事、結し髮の襟(えり)につくまでせり。

「矢つぼ」「矢壺・矢坪」で矢を射る際に狙いを定める所。矢所(やどころ)。

「有無(うむ)に」副詞。すっかり。全く。

「目指すとも知がたし」完全な暗黒で、今歩いてはいても、自分が一体どこを目指しているものやら判り得ない為体(ていたらく)であることをいう。後の「行くやら、歸へるやら、其(その)方角もしらず」も同じい。

「所詮」副詞。結局のところは。

「嘯(うそ)かけて犬を呼び」唇をすぼめて口笛を発し、犬を呼び。

「頸綜(くびたま)」犬の頸部に附けた索状か。それとも「首っ玉」という単に首の謂いか。識者の御教授を乞う。ただ、「鉢卷」一本を犬の首に結いつけてその端を腰帯に結び付けるというのはその鉢巻の長さが相当にないと無理と思われる。]

宿直草卷一 第十 本山の岑に天火おつる事

 

    第十 本山の岑(みね)に天火おつる事

 

 本山(ほんざん)の近邊に萩谷(はぎたに)といふ山家(さんか)あり。そこなる人、たゞひとり、夜行(やこう)に出でたり。しばし、あされども、狸の床にも尋ねあはず、高嶺(たかね)にいこふて、烟草(たばこ)なんど喰(た)うべしに、西の方よりも、物の鳴る音、おびたゞし。しばし有て、長さ一町もやあらん。太さも二腕(かい)ばかりの天火なり。其(その)左右(さう)に鞠(まり)ほどなる火とんで、さらに數へがたし。光り、爛漫として、あたかも白晝のごとし。とゞろきて本山の嶺(みね)に落(おち)たり。炎(ほのほ)、四方(よも)にちる事、五、六町もやあらん。落ちて響(ひゞき)やまず。三十町ばかりへだてし我がゐる山も地震(ぢしん)のごとし。

 さて、靜まるよ、と見るに、二、三千人の聲して、鬨(とき)をつくる事、押しかへして、三度、せり。山彦、こたへて、目覺(めさ)ましき有樣(ありさま)なり。恐ろしなんど云ふばかりなし。帝釋(たいしやく)、阿修羅(あすら)の戰(たゝかひ)のごとく、天狗どちの爭ひにやあらん。また、寺、近けれども、心なき身の、たゞ狩りくらしぬる我にしも、かしこくも示し給ふ、多聞天のつげにやと、日來(ひごろ)にあらため、これも獵(かり)を止(や)めけるとなり。

 

[やぶちゃん注:本山寺ロケーションで前話「第九 攝川本山は魔所なる事」と直連関するだけでなく、話柄内容も夜に狸を狩る狩人の殺生への誡めを変怪が示すという点で完全一致しており、しかも筆者は末尾の一節で「これも獵を止めけるとなり」とし、この「これも」は明らかに前話で二人の狩人が夜行をやめたことをダイレクトに受けた続篇として確信犯で記していることが判る。

「天火」一応、「てんくわ(てんか)」と読んでおくが、「てんび」「てんぴ」でもよい。一般名詞としては、落雷によって起こる火災である雷火、或いは、人為でない自然発火による火災一般を指すが、ここは明らかに空中に浮かぶ怪奇現象としての妖火、妖怪としてのそれである。ウィキの「天火」によれば、『天火(てんか、てんび、てんぴ)は、日本各地に伝わる怪火の一種。江戸時代の奇談集『絵本百物語』や、松浦静山の随筆『甲子夜話』などの古典に記述があるほか、各地の民間伝承としても伝わっている』。『愛知県渥美郡では夜道を行く先が昼間のように明るくなるものを天火(てんび)といい』、『岐阜県揖斐郡では夏の夕空を大きな音を立てて飛ぶ怪火を天火(てんぴ)という』。『佐賀県東松浦郡では、天火が現れると天気が良くなるが、天火が入った家では病人が出るので、鉦を叩いて追い出したという』。『熊本県玉名郡では天上から落ちる提灯ほどの大きさの怪火で、これが家の屋根に落ちると火事になるという』。『佐賀県一帯でも火災の前兆と考えて忌まれた』。『かつては天火は怨霊の一種と考えられていたともいい、熊本県天草諸島の民俗資料『天草島民俗誌』には以下のような伝説がある。ある男が鬼池村(現・天草市)へ漁に出かけたが、村人たちによそ者扱いされて虐待され、それがもとで病死した。以来、鬼池には毎晩のように火の玉が飛来するようになり、ある夜に火が藪に燃え移り、村人たちの消火作業の甲斐もなく火が燃え広がり、村の家々は全焼した。村人たちはこれを、あの男の怨霊の仕業といって恐れ、彼を虐待した場所に地蔵尊を建て、毎年冬に霊を弔ったという』。『天火は飛ぶ』際、『奈良県のじゃんじゃん火のように「シャンシャン」と音を出すという説もあり、そのことから「シャンシャン火」ともいう』。『「シャンシャン火」の名は土佐国(現・高知県)に伝っている』(個人的には、この見た者に死を齎すともされる音を伴う不吉な妖火。「ジャンジャン火」は私の妖火の好みの最たるものである)。『『甲子夜話』によれば、佐賀の人々は天火を発見すると、そのまま放置すると家が火事に遭うので、群がって念仏を唱えて追い回すという。そうすると天火は方向転換して逃げ出し、郊外まで追い詰められた末に草木の中に姿を消すのだという』。『また、天火は雪駄で扇ぐことで追い払うことができるともいい、安政時代の奇談集『筆のすさび』では、肥前国で火災で家を失った人が「ほかの家の屋根に火が降り、その家の住人が雪駄で火を追いかけたために自分の家の方へ燃え移ったため、新築の費用はその家の住人に払って欲しい」と代官に取り計らいを願ったという語った奇談がある』。『江戸時代の奇談集『絵本百物語』では「天火(てんか)」として記述されており、これにより家を焼かれた者、焼死した者があちこちにいるとある。同書の奇談によれば、あるところに非情な代官がおり、私利私欲のために目下の者を虐待し、目上の者にまで悪名を負わせるほどだったが、代官の座を降りた翌月、火の気のないはずの場所から火が出て自宅が焼け、自身も焼死し、これまでに蓄えた金銀、財宝、衣類などもあっという間に煙となって消えた。この火災の際には、ひとかたまりの火が空から降りてきた光景が目撃されていたという』とある。但し、ここの「天火」は少なくとも現認した狩人の認識は毘沙門天(多聞天)の示した殺生の誡めとしてのものとして不吉なものではなく、事後に災いを受けた後日談もない。また、やめたのも狩り総てではなく(山家に住まう主人公はそれを主たる生計(たつき)としていた可能性がすこぶる高いから完全にやめることは出来ないはずである)、前の話を受けている点でも、危険な「夜行の狸狩り」のみと読める。なお、科学的な側面から見ると、現象的には激しい地響きを立てて落ちるところ(しかも落雷の光が先行して落ち、後に落雷音が時間差で聴こえる点)などは自然現象としての落雷の印象(放電や接地箇所を探るように延びるその細部をそれなりにスローで観察したもの。夜間に動体視力のある狩人が、ある程度の距離(後注参照)から観察したものとするなら、私はあり得ぬことではないように思われる)が強いようには思う。

「萩谷(はぎたに)」現在の大阪府高槻市萩谷であるが、本山寺より西或いは西南に四~五キロは隔たっている。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「狸の床」「たぬきのとこ」タヌキの寝床。巣。

「いこふ」「憩ふ」。

「烟草(たばこ)なんど烟草喰(た)うべしに」煙草を吸っていたとろ。「たぶ」は「食ぶ」で、本来は「のむ」の謙譲語・丁寧語。

「一町」百九メートル。

「二腕(かい)」実際の腕二本分の太さでは長さと比して細過ぎるから(見かけ上の比喩で述べたのならそれで不信はない)、これを人体スケールの両腕幅(両腕で抱えた大きさ)である「比呂(ひろ)」と採るとすると、一比呂は一メートル五十一・五センチメートルであるから、三メートル強といったところか。ちょっと思ったが、この火の柱は毘沙門天がしばしば持つ宝棒、或いは宝塔の九輪をイメージしているものかも知れぬ

「四方(よも)」原典は平仮名で「よも」。底本は「四面」を当てるが、ルビがなく、不親切である。「よも」ならば「四方」の方がルビ無しでも「よも」と読めようと思い、変えた。

「五、六町」五百四十六~六百五十五メートル弱。

「三十町」三キロ二百七十三メートル。

ばかりへだてし我がゐる山も地震のごとし。

「帝釋」帝釈天。梵天とともに仏法の守護神で、十二天の一つとして東方を守る。須弥山(しゆみせん)の頂きの忉利天(とうりてん)の主で喜見城に住むとされる。古代インドのベーダ神話のインドラ神が仏教に取り入れられたもの。

「阿修羅」古代インド神話の悪神で、インドラ神(仏教に入って帝釈天となる)と激しく戦ったとされる軍神である。釈迦によって教化されたと見做され、八部衆の一つとして仏教の守護神となった。]

宿直草卷一 第九 攝川本山は魔所なる事

 

  第九 攝川本山(ほんさん)は魔所なる事

 

Honnzannmasyo

 

[やぶちゃん注:図は底本のものであるが、清拭し、さらに汚い左右の枠を意図的に除去して空間的広がりを持たせた。]

 

 津の國本山(ほんさん)は毘沙門天の靈場なり。山城の鞍馬寺、河内(かはち)の國信貴(しぎ)の山、今此(この)所と日本の三毘沙門といへり。雲たなびいて、懸繒(けんぞう)たえず、月すみて、然灯(ねんとう)とこしなへなり。千尋(ちひろ)の溪谷(たに)、前後にふかく、數里(すり)の嶺峯(みね)、左右(さう)につゞけり。こゝにして現世安穩(けんぜあんをん)の寶祚(ほうそ)をいのり、當來解脱(たうらいげだつ)の惠炬(ゑこ)をかゝぐ。またかくれなき魔所なり。

 そのふもと、川久保と云(いふ)里に、獵(かり)する人、ふたりつれて、夜行(よこう)ひきにゆく【たぬきをとりに夜出づる事】。ひとりは弓箭(ゆみや)をもち、またの袖は樫(かし)の棒をつく。常になれたる犬を連れて、まだ宵かけて出でしに、やうやう月もおち、夜も更(ふけ)ゆけど、獵(りやう)、さらにきかず。あまり殘り多かりければ、多門(たもん)におそれて日ごろは行かざりけれど、今宵は本山さして向ふ。坂、けはしふて、いかんともしがたし。やゝ登れども、道、なをはるけきに、連れたる犬、震ひわななきて、あまさへ、股倉(またぐら)のしたに隱る。さだめて、猪(いのしゝ)、狼(おほかみ)やうのもの來るにこそと、片手、矢はげて進むに、行くべき坂の眞中(まんなか)に、その長(たけ)八、九尺にして、色は炭(すみ)にまがふ頭(かうべ)を下へなし、白き鉢卷(はちまき)を帶(おび)たり、足は上(かみ)にのけぞつて、弓手(ゆんで)のかた、丈餘の棒を、をく、眠るが如くにして仰(あふ)のきに臥したるものあり。

 其間(あひ)十間(けん)ばかりになりて、二人のもの、見つくるといへど、とかく物もえいはず。たゞ尻(しり)ざりに半反(はんだん)ばかり退(しりぞき)て、わが里十餘町の坂道を、石につまづき、僜僜(ころびころび)歸りしが、互(たがひ)に家になりて、

「今のもの見たるか。」

と吐息(といき)して云ひけり。

 そのゝち、夜行(よこう)を止(や)めしと也。

 

[やぶちゃん注:【 】はここで初めて出る割注。原典では二行でポイント落ち。

「本山」大阪府高槻市大字原にある天台宗北山(ほくさん)霊雲院本山寺(ほんざんじ)。本尊は毘沙門天。ウィキの「本山寺(高槻市)」によれば、高槻市北郊の京都府との境に近い山間部に位置する。『本山寺の寺号は戦国時代の記録には見えて』いるが、『寺伝によると、役小角が葛城山で修行中に北西に紫雲のたなびくのを見て霊験を感じ、北摂の山に来て自ら毘沙門天像を彫り、堂を建てて修験の道場として開山したのが始まりと伝えられている。その後、宝亀年間』(七七〇年頃)『に光仁天皇の子・開成皇子が諸堂宇を建立して本格的な仏教寺院として創建したと伝えられている』。『北摂三山寺として、根本山と号する神峯山寺、南山と号する安岡寺とともに北山と号して天台宗に属している』。天正一〇(一五八二)年の『山崎の戦いの際に高山右近の兵火に罹って』焼失したものの、慶長八(一六〇三)年には『豊臣秀頼が鐘楼、楼門などを再建』、江戸時代に入って宝永年間(一七〇五年頃)に第五代『将軍徳川綱吉の生母・桂昌院が改修を加え』ている。『現在の中の門は、伏見桃山城から移築されたと伝えられる』。『戦国時代には、松永久秀がこの寺で立身出世を祈願し、その後望みがかなったことから五百住(よすみ)にある所領の良田を寄進しているほか、芥川山城』(あくたがわやまじょう/あくたがわさんじょう:同高槻市の三好山にあった日本の山城から畿内にかけて広汎に『権勢を奮っていた三好長慶や、キリシタン大名としても知られる高山友照・右近親子、甲斐国武田信玄の信濃侵攻により駆逐され三好家に身を寄せていた前信濃守護・小笠原長時らが寺領の安堵状を出している』。また、『江戸時代には、高槻城主・永井氏や皇室などの崇敬を受け』たとある。本文にもある通り、鞍馬寺・信貴山朝護孫子寺とともに「日本三毘沙門天」の一つとされる。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「毘沙門天」先行する「第二 七命ほろびし因果の事」の「多聞(たもん)の鉾(ほこ)」の私の注やウィキの「毘沙門天を参照されたいが、毘沙門天(四天王の一人としては多聞天と呼び、本文の後に出る「多門(たもん)」は多聞天のことである)の像型ではしばしば右手に宝棒や三叉戟(さんさげき)を持ち、この異形の怪人が右手に持つそれとの類似性が認められ、首が炭のように人間の肌(はだえ)とは全く異なるところも、中国の民間信仰に於いて毘沙門天像の顔を緑色に塗るのと類似しているようには見える。

「山城の鞍馬寺」京都府京都市左京区鞍馬本町にある、当時は天台宗であった鞍馬山(さん)鞍馬寺(くらまでら)(戦後の昭和二四(一九四九)年に天台宗より離脱独立して鞍馬弘教総本山となった)。本来は当寺が都の北に位置することから、四天王の中で北方を守護する毘沙門天を本尊とし、併せて千手観世音を祀った寺院であった(現在の鞍馬弘教としての本尊認識は独特な説明で異なるが、それはくだくだしくなるだけなので、ウィキの「鞍馬寺」などを参照されたい)。

「信貴(しぎ)の山」現在の奈良県生駒郡平群町(へぐりちょう)にある真言宗信貴山朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)。本尊は毘沙門天。本寺は信貴山寺とも称する。

「懸繒(けんぞう)」「げんぞう」と濁るのが寺院では一般的か。「繒」は織りを詰めて細かく織った高級な絹の生地で、この帛(きぬ)絹を仏殿や内陣の天蓋(てんがい)に荘厳(しょうごん)として懸けることを称する。 ここは信者からの高価な布施が不断に多くあることを言うのであろう。

「然灯(ねんとう)とこしなへなり」「燃燈永久(とこしな)へなり」。「燃燈」は法灯のこと。絶え間なく燃え続ける実際の本尊の献灯を永遠に絶えることのない本寺の法灯及び仏法の光明に喩えたもの。

「嶺峯(みね)」二字へのルビ。

「寶祚(ほうそ)」天子の位・皇位。平安旧仏教である天台宗は国家宗教である。

「當來解脱(たうらいげだつ)」必ず来る来世に於ける煩悩から解き放たれた涅槃。

「惠炬(ゑこ)」岩波文庫版の高田氏の注には『大いなる光明』とある

「川久保」現在の高槻市川久保。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「夜行(よこう)ひき」これで一語であろう。殺生であることに注意

「またの袖」頻出している通り、「袖」は「人」の意。連れである今一人。

「さらに、きかず」一向に得物が得られない。

「あまり殘り多かりければ」一匹も獲れない(ものと思われ、それが実は怪異の前兆であることに彼らは気づいていないのである)ので、このまま手ぶらで帰るのは心残りであり、また無性に癪に障るので。

「矢はげて」矢を番(つが)えて。

「八、九尺」凡そ二メートル五〇センチから二メートル七三センチ弱。

「弓手(ゆんで)」右手。岩波文庫版は『弓矢』とするが、誤判読である。

「をく」歴史的仮名遣が誤っているが、「置く」。

「其間(あひ)十間ばかりになりて」狩人二人とその道に長々と横たわった怪人との距離が十八・一八メートルほどになったところで。月も落ちて更けた頃合いの山道に於いて、この距離で、この怪人の姿を二人がともどもにしかりと現認出来たというのは不審であり、それはとりもなおさず、彼らが異界に導かれてつつあったことを示し、或いは、狩人の夜目の良さというよりも、この怪人自体妖しく光っていたからだったのではなかろうか?

「とかく物もえいはず」互いにものを言い交すことが出来なかったというのであるが、実は、これが効果的であったと言える。変怪に遭遇した際、相手が何ものであるかを見切ることが出来ずに、恐怖の余り、言葉を発してしまうと、変怪に有利に事態が進行してしまうのが民俗世界での一つの定理でもあるからである。世界的な神話の形式に於いても誤った言上げや恐怖の叫び声は神霊鬼神の勝ちとなってしまうことが多いからである。

「尻ざりに」後退(あとじさ)りで。

「半反」「はんたん」で、「反」はかつての距離単位の一つ。「六間」(一〇・九メートル)を「一反」とするから、凡そ五メートル半。

「十餘町」十町は一キロ九メートル相当。

「僜僜(ころびころび)」「轉び轉び」。中文サイトを見るに、「僜」には酔って躓くの意があるようである。]

2017/06/23

僕は

僕は君に嫉妬することがない。それは結局、鏡返しの自慰行為に過ぎぬからだ。

宿直草卷一 第八 天狗つぶて附心にかゝらぬ怪異はわざはひなき弁の事

 

  第八 天狗つぶて心にかゝらぬ怪異(けい)はわざはひなき弁(べん)の事

 

 寛永改元、予、いときなき比、大坂石(こく)町邊へ細々(さいさい)行きて泊りしに、その町のさる家へ、夜ごとに礫(つぶて)うつ。數(かず)もおほからず、七つ八つ、あるは戸を十四、五も打つ。打ちて音なきもあり、また、玉霰(たまあられ)のかれ野の篠(しの)を走るが如く、その音(をと)、ころころするもあり。されど、覆垂(おほたれ)、雨落(あまお)ちまで轉(こく)ることは、なし。かくする事、夏の最中(もなか)より秋の末かけて止まず。

 合壁(がつへき)、これに怖れ、隣家(りんか)、眉をひそむ。露の玉ゆら訪(とふら)ふ袖も、

「ゆゝしき大事なり。天狗つぶて打つ家は、かならず燒亡(ぜうまう)の難あり。しかるべき祈りなんど、し給へかし。」

など、いさむれば、まして身ちかき人々は、猶、

「加持拂(かぢはら)へなど、し給へ。」

といふ。しかれ共、此(この)家主、一向宗(いつかうしゆ)なり。何と尊く聞きいれられしにや、

「我、もと、情(じやう)の強(こは)きにてもなし、萬行圓備(まんぎやうゑんび)の念佛より外、わが宗(しゆ)に別(べち)に祈り、なし。」

といひて、曾(かつ)て驚かざれば、いさむる袖も力なく、やめり。案の如く、そのけぢめもなく、家、つゝがなく住(すみ)侍り。

 四十(よそぢ)の春秋を經て、去年なん、その門(かど)を過(よぎ)りしかば、むかしの事思はれて、すぎがてに、内もせ、見いれしにも、あへて古へにかはる事もなし。主(あるじ)はまかりて子の代と見えたり。されば心にかゝらぬ怪異(けい)は、更にその難なきものをや。なふ、お目のまけを取(とり)給へ。空(そら)に花はさき候まじ。「鳴子をばをのが羽かぜに動かして心と騷ぐむらすゞめかな」と、忌(いみ)の文字も己(を)のが心とは書けり。梅をおもへば口に酢(す)たまり、虱(しらみ)ときけば肌(はだ)かゆくなる。心(しん)生(しやう)ずれば種々の法(ほう)生ず。いはれぬ氣つかひに、色々を案じ、まちまちのわざはひを設(まふ)く。芥(あくた)の中に蚓(みゝず)をほり出すが如し。むさと、物事、機(き)にかけまじき事也。惣(そうじ)て小事は身のたしなみ、心のおさめやうにもよるべし。

 身ほろび、家絶ゆるなどは因果なり。あへて觸(いら)ふべからず。

 子路(しろ)、夫子(ふうし)のやまひを祈らんといふ。子の曰(のたふま)く、

「丘(きう)が祈る事、ひさし。」

と。

 目蓮(もくれん)、釋氏(しやくし)をすくはむといふ。佛いはく、

「やみなん、やみなん、助くべからず。これ、因果なり。」

と。

 夫子の仁にをよばす、佛の慈(じ)に及ばず、業(ごう)のなせる所、さらに手はつけられじ。明德眞如(めいとくしんによ)を尊(たと)ぶ人こそ、げに、やんごとなき祈りならまし。咎(とが)をなしても祈るべきを賴(たの)みにせん人、なじかは内證(ないせう)に違(たが)はざるべき。世の中の憂(う)さには神もおはしまさぬに、すゞしめ給ひしいにし人は、いと愚かにはおはしまさずや。士農工商ともに、身の程をしり、職(しよく)の常(つね)をわすれず、理(ことはり)のとをりに勤めば、いづれのところに害あらんや。祈らずとても神は守らずやはあらん。

 また、易に遊ぶ人の外に、四條繩手(なはて)の風寒み、白川橋(しらかはばし)に踞(しりうた)ぎして、莚(むしろ)・屛風のところ狹(せ)きまで、仮名(かんな)まじりの八卦(け)の書を讀み、梅花心易(ばいくはしんゑき)なんど引きちらして、綴り侘(わ)びたる素紙子(すがみこ)や、垢(あか)につめたきひとへ物に、時ならぬ編笠の内、蓍(めど)など亂(みだ)しつゝも、人の吉凶(きつけう)直(なほ)すなんどひしめくこそ、嗚呼(おこ)がましくも受けとられね。

 さりとて、祈禱なんど無益(むやく)と云(いふ)にはあらず。をよそ、現世の利益(りやく)は佛(ほとけ)の道の方便(てだて)にして、いと有難き操(みさほ)なりけり。むかしの才(ざえ)すぐれ德(とく)尊(たと)き世捨人は、雨をこひ、疫(えき)をやめて、造化の變をとゞめ、人民(にんみん)の助けとす。是、その德にあらずや。たゞ怨むらくは、愚(おろか)に迷ひ、祈りを賴みて、心をほしゐまゝにせん人、歎くにも猶あまりあり。わざはひは病(やまひ)なり。祈(いのり)は藥なり。藥、よく病をいやすとて、毒もおそれず用ひべくは、誰(た)があやまちぞや。平生(へいぜい)、此(この)理(ことはり)を以て、まどふべからず。理をたづねば、匹夫(ひつぷ)とても舜門(しゆんもん)の人ならん。あくまで道理をたづぬべきか。

 しかるに、此(この)つぶてうたれし家主も、自然と機にもかけざるは、理の常(つね)をえし冥加(みやうが)ならんか。

 

[やぶちゃん注:第六の「天狗の礫」から「天狗の石切」に移り、再びここで「天狗礫」へ、しかも筆者自身の実体験として戻ってくるのは、まことに実録怪談の真骨頂と言うべ観があって素晴らしいなお、再度示すが、「天狗礫」については、私の『柴田宵曲 妖異博物館 「そら礫」』の冒頭の私の注を参照されたい。

「弁(べん)」漢字は原典のママ。道理に従った主張・論説。

「寛永改元」元和十年二月三十日(グレゴリオ暦一六二四年四月十七日)に改元している。徳川家光の治世。この前年、家光は第二代将軍秀忠とともに上洛し、七月二十七日に征夷大将軍の宣下を受け、江戸帰着後に秀忠は隠居している。この時、筆者荻田安静は「いときなき比」(ころ)であったと言っている。安静は生年未詳であるが、没年は寛文九(一六六九)年である。引き算すると、寛永元年は四十五年前である。「いとけなき」というのは数え十代未満と考えてよく、しかもその折りの天狗礫に纏わるこのような話をここまで正確に細部まではっきりと記憶しているとなると、満年齢で八~九歳を推定し得るとすれば、荻田安静の生年は元和元(一六一五)年か翌二年が大きな候補とはなろうと思う

「大坂石(こく)町」現在の大阪市中央区石町(こくまち)。大阪城の西直近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「細々(さいさい)」漢字表記は原典のママであるが、これは「再々」で「たびたび」の意であろう。岩波文庫版でも「再々」と表記し直してある。

「覆垂(おほたれ)」「尾垂(おだ)れ」。屋根庇(やねびさし)の、主に関西での謂い。

「雨落ち」軒先から落ちる雨水が地面に当たっては跳ね返り、その跳ねた雨水で建物の壁等を汚してしまうことを避けるため、砂利を敷き詰め、雨水の跳ね防止を意図として考えられた軒下の人工部分。この当時、調べた限りでは、民屋で廂の先に雨樋(あまどい)を持っているというのは普通はなかったようである。

「轉(こく)る」転がる。

「夏の最中(もなか)より秋の末かけて止まず」ここでの天狗礫がこの期間限定で、しかも連続して発生し続けるものところが面白い。この特性は、これが全くの気象現象であるにしろ、人為であるにしろ、その真相を解明する一つの鍵となるやも知れぬ

「合壁(がつへき)」壁一つ隔てた隣家。後の「隣家」それよりも離れたそれであろう。

「露の玉ゆら訪(とふら)ふ袖も」「露の玉ゆら」は「訪ふ」を引き出す序詞。「訪ふ袖」はこの家を「訪問する」(親しい)「人」の意。

「加持拂(かぢはら)へ」怪しげな修験者の山伏風の者などが民間で行った加持祈禱染みたお祓い。

「一向宗(いつかうしゆ)」岩波文庫版の高田氏の注に、『今の浄土真宗。専修念仏を重んじ、加持祈禱の類を嫌った宗旨』とある。だから、以下なのである。

「何と尊く聞きいれられしにや」反語。一向宗であればこそ、どうしてそんな慫慂を受け入れられようか、いや、断固として断った、というのである。

「情(じやう)の強(こは)き」人々の心配の思いに対して冷淡にして頑固な性質(たち)。

「萬行圓備(まんぎやうゑんび)」岩波文庫版の高田氏の注に、『仏教徒の修めるべき行が全て備わっていること』とある。

「けぢめ」岩波文庫版では『区別(けじめ)』とある。ある対象や状況が次第に移り変わってゆく、その前と後の違い。凶兆ならば禍いとなるような大きな変化があるはずであるが、そんなことは何も起こらなかったのである。

「去年」「こぞ」と訓じておきたい。

「すぎがてに」「過ぎがてに」無視して通り過ぎることが出来ずに。「がてに」は連語で、動詞の連用形に付いて「~することが出来ないで」の意を表す。これは元来は上代語「かてに」(可能の意の補助動詞「かつ」の未然形+打消の助動詞「ず」の上代の連用形)であったが、その語源認識が薄れてしまい、「難(がた)し」の語幹変形と解されて生じた語。但し、既に上代からその誤用例は見られる。

「内もせ」岩波文庫版の高田氏の注に、『家がまえ。「もせ」はおもて、の意』とある。

「見いれしにも」何か、その後によくないことでも起こってはおるまいかとよく家構えを外から観察してみたが。

「お目のまけ」「眚」「目氣」等と漢字表記し、眼病の一種を指す。岩波文庫版の高田氏の注には『眼に白いもやがかかるように見えるのを指す。目気とも。転じて膜』とあるから、白内障の類いであろう。

「空(そら)に花はさき候まじ」「そら」は原典のルビであるから、空中に忽然と花が咲くとは御座いますまい、であろうが、意義としては何もない虚「空」(こくう)に「花」が化生(けしょう)して咲き開くなどということはあり得ないでしょう? と言っているのであろう。

「鳴子をばをのが羽かぜに動かして心と騷ぐむらすゞめかな」「禅林世語集(ぜんりんせごしゅう)」(私のデータは昭和三二(一九五七)年に京都の其中堂が刊行した土屋悦堂編のそれであるが、これは近世に禅語の内容を判り易い俗謡にしたものを近代に蒐集して編したものと思われる)に「鳴子をば己が羽風に動かして心と騷ぐ群雀」とある。全くの自己責任に基づく疑心暗鬼という自業自得を意味していよう。

「忌(いみ)の文字も己(を)のが心とは書けり」確かに。「忌」という漢字は「己」と「心」から成る。解字としては「心」は音符。「己」も音符ではあるが、と同時に「畏れる」の意を持たせる。

「心(しん)生(しやう)ずれば種々の法(ほう)生ず」いい意味でも悪い意味でもある一つの心理状態が生成されると、それに対し、さまざまな見かけ上の「物の在り方」が生成される、但し、それは単なる仮りの現象に過ぎぬ、と言った意味合いであろうと私は解する。

「いはれぬ」はたの者どもが好き勝手に口にしてしまった。「ぬ」は完了。

「芥(あくた)の中に蚓(みゝず)をほり出す」そのままにしておけば、気持ちの悪いそれを見て不快な思いをすることもないものを、わざわざ必要もないのに、芥溜(ごみため)めをほじくりかえしては、蚯蚓を引っ張り出すような余計なことをする。

「むさと」「むざと」。むざむざと。無暗矢鱈に。

「機(き)」「氣」に同じい。誤字ではなく、禪機などのそれのように、心の働き方を表現する語。

「觸(いら)ふ」「弄(いら)ふ」。もてあそぶ。思いつきとして安易に口にすべきことではない。

「子路(しろ)、夫子(ふうし)のやまひを祈らんといふ。……」「論語」の「述而篇第七」に載る。

   *

子疾病。子路請禱。子曰。有諸。子路對曰。有之。誄曰。禱爾于上下神祇。子曰。丘之禱久矣。

   *

 子の疾(やま)ひ、病(へい)す。子路、禱(いの)らんと請ふ。子、曰く、「諸(これ)、有りや。」。と。子路、對(こた)へて曰く、「之れ、有り。誄(るい)に曰く、『爾(なんぢ)を上下(しやうか)の神祇(しんぎ)に禱る』と。」と。子、曰く、「丘の禱ること、久し。」と。

   *

「諸(これ)、有りや。」「そのような病気平癒の祈禱などをし、それが治る、或いは、治ったとする先例などがあるのか?」。「誄」は本来は死者の生前の功績を讃える弔辞であるが、ここは祈禱を集めたものの篇名であろう。「丘の禱ること、久し。」「子路よ、そういった類いの祈禱ならば、私はもう久しい間、やってきたよ。――やってはきたが、思い通りになった試しはこれ、一度としてなかった。」と言うのである。但し、子路は孔子より先に細切れにされて塩漬けにされ死んでいるので、これは孔子の実際の死の直前のものではない。

「目蓮(もくれん)、釋氏(しやくし)をすくはむといふ。……」目蓮は通常は「目連」で仏陀十代弟子の一人で「神通第一」とされた人物。これは恐らく、「太平記」の「北野通夜(つや)物語の事付けたり靑砥(あをと)左衛門事」の中で、法師が南朝には期待し得る臣下がいないことを説明するために語る仏陀の摩訶陀(まかだ)国絡みの故事を元にしている。非常に長いのである程度のシークエンスと因果律の語りが判る部分までを引用する。

   *

……斯かる處に釋氏の中より、時の大臣なりける人一人、寄せ手の方へ返忠(かへりちゆう)[やぶちゃん注:裏切り。]をして申しけるは、

「釋氏の刹利種(せつりしゆ)[やぶちゃん注:古代インドの四姓の第二で釈迦もその出自である。]は五戒を持ちたる故に、かつて人を殺す事をせず。たとひ、弓強くして遠矢を射るとも、人に射當つる事は有るべからず。ただ寄せよ。」

とぞ教へける。寄せ手、大きに悦びて、今は楯をも突かず、鎧をも著ず、鬨(とき)の聲を作りかけて寄せけるに、げにも釋氏どもの射る矢、更に人に當らず、鉾(ほこ)を使ひ、劍(けん)を拔いても、人を斬る事無かりければ、摩竭陀國(まかだこく)の王宮、忽ちに責め落され、釋氏の刹利種、悉く一日が中に滅びんとす。この時、佛弟子目連尊者、釋氏の殘る所無く討たれなんとするを悲しみて、釋尊の御所(みもと)に參つて、

「釋氏、已に瑠璃王(るりわう)の爲に亡ぼされて、僅かに五百人殘れり。世尊、何ぞ大神通力を以つて五百人の刹利種を助け給はざるや。」

とされければ、釋尊、

「止みなん止みなん、因果の所感、佛力にも轉じ難し。」

とぞのたまひける。目連尊者、なほも悲しみに堪へず、

「たとひ定業(ぢやうごふ)なりとも、通力を以つてこれを隠弊(いんぺい)せんに、などか助けざらんや。」

と思し召して、鐡(くろがね)の鉢の中に、この五百人を隠し入れて、忉利天(たうりてん)に置かれける。

 摩竭陀國の軍(いkさ)はてて、瑠璃王の兵ども、皆、本國に歸りければ、今は子細あらじとて、目連、神力の御手を暢(の)べて、忉利天に置かれたる鉢を仰(あふ)けて御覽ずるに、神通を以つて隱さるる五百人の刹利種、一人も殘らず、死ににけり。目連、悲しみて、其の故を佛に問ひ奉る。佛、答へて宣はく、

「皆、是れ、過去の因果なり。爭(いか)でか助かる事を得ん。……[やぶちゃん注:以下、略。]

   *

「明德眞如(めいとくしんによ)」仏教に於ける正しく公明な徳と、あるがままの絶対の真理。

「なじかは内證(ないせう)に違(たが)はざるべき」反語。「内證」は仏教に於いて自分の心の内で真理を悟ること。

「すゞしめ」「涼しめ」。清(きよ)め。祭事を行って神を慰めること。

「いにし人」「往にし人」「いにし」は連体詞で、元は動詞「往ぬ」の連用形に過去の助動詞「き」の連体形「し」が付いたもの。過ぎ去った過去の人々。

「いと愚かにはおはしまさずや」反語。後の「いづれのところに害あらんや」も「祈らずとても神は守らずやはあらん」も同じく反語。

「易に遊ぶ人」易学を趣味好事(こうず)とする人々。ここに出すのは取り敢えず、本来の「易經」をちゃんと読み、学ぼうとする人々を指すのであろう。そうした人々より低級で胡散臭い「外」の自称易者が以下にリアルに描写されるのである。

「四條繩手(なはて)」四条以北の鴨川の土手の呼称。祇園白川は直近。

「白川橋」現在の滋賀県大津市及び京都府京都市を流れる淀川水系鴨川支流の白川の、京都市東山区内に架かっていた橋。現行のそれは(グーグル・マップ・データ)であるが、ここで言っているのが、これと全く同一かどうかは知らぬ。

「踞(しりうた)ぎして」腰かけて。

「莚(むしろ)・屛風のところ狹(せ)きまで」川風や寒気の防ぎにもなりそうにもない莚や屏風で狭く囲ったところで。

「仮名(かんな)まじりの八卦(け)の書」「かんな」は「かな」に同じい。世俗に堕した怪しげな占い書。

「梅花心易(ばいくはしんゑき)」「先天易」と称する易学を樹立した北宋の思想家邵雍(しょうよう 一〇一一年~一〇七七年)の著わした占筮法(せんぜいほう)について書かれた書。岩波文庫版の高田氏の注には、『任意に一字の画数を取り、八を減じて余数から卦を得、易理に依って吉凶を断ずる。手引書が江戸初期に数種類』、出版されていた、とある。

「素紙子(すがみこ)」柿渋を引かない白地の紙子(かみこ:紙で仕立てた衣服)。安価で貧者が用いた。ここは見た目も妖しい、当時の売卜者・辻占い師などの着衣や被っていた笠の粗末さの描写であろう。

「蓍(めど)」占い師の用いる筮竹(ぜいちく)。

「ひしめく」野次馬のように群がっては言い立てて騒ぐ。

「嗚呼(おこ)がましく」分不相応にして差し出がましく、出過ぎたことだ、或いは、如何にも馬鹿げている、全くばかばかしいという謂い。文脈上は前者であるが、結局は後者の謂いで纏めていよう。

「疫(えき)をやめて」疫病の流行を収束させ。

「誰(た)があやまちぞや」「愚(おろか)に迷ひ、祈りを賴みて、心をほしゐまゝにせん人」自身の過ちであると喝破するのである。

「舜門(しゆんもん)」「舜」は中国古代の伝説上の聖王舜で、ここはその正統な流れを汲むところの儒教の真の理解者のことを言う。]

宿直草卷一 第七 天狗、いしきる事

 

  第七 天狗、いしきる事

 

 右のはなしの次に、さる侍のいはく、

『我主(わがしう)も日光山の御普請の事承りて、筑紫(つくし)の山にて多く石を切るに、奉行三人云ひ付る内、我も其一人なり。ある夜、つれぐなるまゝに、小屋をいでゝ四方(よも)を見るに、例の山に火ありて、石切る音、高(たか)う聞えり。

「さては相奉行(あいぶぎやう)兩人の談合(だんかう)にて、夜普請を申しつくるにこそ。さてさて心得ぬ事かな。ことに此頃、石工人步(せきこうにんふ)、粉骨のせいを致すに、そのわたくしなし。しかるに夜詰(よつめ)までは情なし。よしまた思ひよるとも、我も奉行なり。したりがほに相談もなく申しつくる段、すこぶる奇怪の事、かつうは、はらぐろなり。意趣をとふて異義に及ばゞ、打ち果すべき。」

と思ひ、小屋にかへりて臥(ふ)す。

 夜あくるを待ちかねて、杖つきの者を使にして、相役(あいやく)兩人のかたへ、

「石の事、日算、用いたし候へば、やがて出來申べきに、いかで、さのみはいそぎ給ふ。夜前、三更まで仰つけられ候こそ、心得がたく侍れ。ことに吾(われ)、不祥なればとて、知らし給はず。隔意(きやくい)さしはさまるゝ段、うらみ入(いり)候。急度(きつと)、返事に聞かさるべく候。」

と云ひつかはしければ、兩人ともに、

「かつて知らず。」

といふ。石切り人步(にんぷ)に問へど、おなじ返事にして、あまさへ、我を胡亂(うろん)に思へり。

 さて、つぎの夜、三人ともに出て見るに、石切る音ありて、火、みえたり。

 あくる日みるに、石の切目(きりめ)は、かはる事なし。

 夜も夜も切る音、十餘日にして、此石、出來ければ、舟につみ、東國へくだせしに、終(つゐ)に難風(なんふう)にあふて、遠江灘(とうとうみなだ)にて海底(かいてい)へしづめり。

 さては、此石、用にたつまじき先表(せんひよう)に、かゝる怪異はありけりと、後に思合(おもひあは)せし。』

とかたれり。

 

[やぶちゃん注:前話を採録したのと同じ席で、しかも同じ日光山普請であって、最早、前話の顕在的続話として確信犯で示されている。しかも「天狗礫」を変形した「天狗の石切」という怪異内容でもダイレクトにジョイントしてある。しかも実録怪談としては細部にまで実に気遣いがなされた超弩級にリアルな話であり、この藩を特定出来ないが(後注参照)、或いは、筑紫のある藩史の記載から、日光山普請のための石材の切り出し任務及びそれを運搬した輸送船が遠州灘で沈没した記録が見出され、それをこの話に附帯して示すことが出来たならば、これは恐るべき「本当にあった怪奇事実」として歴史に残る話となるレベルの一章である。こういう強い現実感を持つ怪談は創作性の強い近世の怪奇談物の中では実は珍しく(採録型の著聞奇談集では普通に多くあるが)、歴史的事実や人物に見え見えの齟齬を施す(或いはきたす)ものが殆んどだからである。

「筑紫(つくし)の山」広域としての旧筑紫国は現在の福岡県の東部(豊前国)を除いた大部分に相当するが、七世紀末までには筑前国と筑後国とに分割されている。しかしそれ以降も両国は「筑州(ちくしゅう)」と呼ばれており、筑前国は筑前福岡藩(江戸前期は黒田家)及び支藩として秋月藩と、一時期(本書刊行時と重なる)には東蓮寺藩(直方藩)があり、筑後国は北部が久留米藩、南部の内、現在の柳川市及びみやま市などの大半に当たる地域に柳河藩、大牟田市に相当する地域には柳河藩と親類関係にあった三池藩が置かれていた。この全六藩の内、藩内に石を切り出せるような山があるのが対象藩となるが、山と限定しなければ複数箇所存在する。ぴったり符合する箇所を郷土史研究家の御教授にて俟つものである。

「火」夜作業用の灯火(としか見えぬもの)。

「人步(にんふ)」人夫。

「そのわたくしなし」その粉骨砕身の日々の努力には、工賃目当てなどという私心などは、これ、微塵もない。あくまで御領主様への御奉公という思いでのみ精を出しているのだ。

「夜詰(よつめ)までは情なし」そんな風に昼間、身を粉にして働いている彼らに、残業の、しかも徹夜仕事をさせるなどというのは、あまりにも人として非情極まりない暴挙ではないか。

「思ひよるとも」そうした過剰労働を自分以外の二人或いは一人の奉行人(監督者)が思いついてやらせているとしても。

「かつうは」「且つうは」。副詞で「一つには・一方では」の意。「且つは」の音変化。

「はらぐろ」「腹黑」。

「杖つきの者」山案内の者の謂いであろう。

を使にして、相役(あいやく)兩人のかたへ、

「日算、用いたし候へば、」予定通りの日程で普通に作業をやって御座れば。

「三更」子の刻相当。現在の午後十一時又は午前零時からの二時間を指す。

「ことに吾(われ)、不祥なればとて」主人公は他の二人の奉行とはこの石切作業の奉行人となる以前には殆んど面識がなかったということ。

「隔意(きやくい)」対人間に於いて内心に有意な隔たりがあること。まるで打ち解けないこと。要らぬ遠慮。

「急度(きつと)」即刻、きっちりと、必ず。

「石切り人步(にんぷ)に問へど」業を煮やした主人公は恐らく、翌日、昨夜、音のしたところの石切り現場に実際に行き、その人夫に直接、徹夜した事実を糺したのである。でなければ、彼らが主人公を胡乱(うろん)に思うこと、「何、訳わかんないこと、言ってんだ? 徹夜仕事なんぞしてねえのに。」と逆に疑わしく怪しむことはないからで、この辺りこそ、映像的で優れたリアルな描写であると言えるのである。

「三人ともに出て見るに」主人公の体験を猜疑していた他の二奉行を主人公は自分の小屋に招き、実地にその不審を晴らしたのである。それぐらいのことを相奉行らに要求するぐらい、主人公は頭に血が上っていた、怒り心頭に発していたのである。よろしいか? でなければ、彼らを「はらぐろなり」と断じ、「意趣をとふて異義に及ばゞ、打ち果すべき」とまでは思わぬ

「あくる日みるに、石の切目(きりめ)は、かはる事なし」ところが、三人して前夜に火と石切り音を皆で確認した場所に行ってみると、前日の夜になる前に終了した折りの石の切り跡は、全く変化していなかったのである。書かれてはいないが、複数の人夫に直接、その一帯総てを検分確認させたのであろう。

「夜も夜も」それ以降も毎夜毎夜。

「十餘日にして」そんなことが十日余り続いたちょうど、その頃。

「此石、出來ければ」実際の人夫らによる切り出し作業が終わったので。但し、予定の作業日程通りではなく、藩主の怒りを買わない程度には遅れたものと推定する。何故なら、この深夜の石切り音と灯火という怪異は誰よりも実地作業をする人夫らが知って、「山怪」として恐怖し、作業の遅滞や混乱がなかったはずはないからである。

「難風(なんふう)」船の航行を困難たらしめる暴風。海上の疾風(はやて)。

「遠江灘(とうとうみなだ)」所謂「遠州灘」であるが、これは広義には東海地方の太平洋岸沖合の東西の広い海域、伊豆半島先端の石廊崎から現在の三重県大王崎に至る約百八十キロメートルの海域を呼称し、狭義にはその中でも駿河湾の西に突き出る御前崎から渥美半島西側の伊良湖水道までを限定し、現行では「遠州灘」というと後者で認識されているが、ここは怪異のスケールを大きく採るために是非、前者で採りたく思う。

「先表(せんひよう)」歴史的仮名遣としては「せんへう」が正しい。「せんべう」「せんぺう」とも読み、「前表」とも書く。ある物事の起こる前触れ。前兆。]

2017/06/22

宿直草卷一 第六 天狗つぶて打つ事

 

    第六 天狗つぶて打つ事

 

 ある侍のかたりしは、

『日光山(につくわうさん)御普請(ふしん)の奉行にくだりしに、また他家に有て、ことにひさしくあはざる從弟(いとこ)、これも奉行にて、くだる。互に喜び、狀ども取りかはし、對面の望みありけれども、他家(たけ)の人を、小屋(こや)へいるゝ事、法度なりければ、力なふ、日數をふるに、一日(ひくらし)、從弟のかたより、

「その日其山にて話すべき。」

など云ひ越せしかば、やがて、

「しかるべき。」

と返事して、その日を待ちて出合、越しかた行くすゑまでをかたり、小竹筒(さゝえ)のかすみ汲みつゝも、あくとしもなく話し侍るに、はや、日の駒(こま)も端(は)山におち、餘光(よくわう)もやうやう影くらみければ、提燈(ちようちん)に燭(しよく)をかゝげ、今の時をおしむのみか、又いつの日の音信(をとづれ)など、名殘(なごり)までに及びければ、はや、亥の刻(こく)になりぬ。

 かく暇(いとま)ごひするうちに、いづちよりともなふ、大きなる石を礫(とぶて)[やぶちゃん注:「と」はママ。]にうつ。

「こは、狼籍。」

といへど、きかず。たがひに他人より猶はづかしき恥しる中の事なれば、下下(しもじも)も一際(きは)働くべきに見えけれど、向ふべき相手もなし。とかくするほどに、氈(せん)むしろ疊まんとするに、刀(かたな)にうち、挾箱(はさみばこ)にうつ。あたれる程のもの、みな、損じて、あまさへ、賴み切(きつ)たる挑燈(ちようちん)も打(うち)くだきて、火もつゐに消えぬ。はふはふのていに暇乞(いとまこひ)して、道具などすてゝ、くらき道を主從ともに身(み)がら歸りしに、人には、かつて、あたらず。

 さて、朝(あした)、人をつかはしければ、碎(わ)れしとおもふ道具、そのまゝ有て、取りかへりしなり。

 あまり不審なりしかば、從弟のかたへ尋ねにつかはしければ、其下人が差したる刀の鞘も、

「ゆふべは割れしと思ひしに、けさ見れば、つゝがなし。」

と云ひこせり。まのまへ、かゝる不思議にあひし。』

と語れり。

 

[やぶちゃん注:前話とは天狗で連関し、暫く天狗譚が続く。前の浅草観音堂連関など、本書の筆者が、完全ではないにしても、ある種の構成上の各話の関連性を強く意識していたことが判る。そうして、こうした傾向はある意味で、前話に刺激されて次話が語られる百物語形式の萌芽であるようにも私には見受けられるのである。話者の直接話法形式を採る点でも、信じられる優れた構造を持ってもいる。ここに記された現象は「天狗礫(てんぐつぶて)」などと呼称された、石が空から突然降ってくるという、かなり知られた怪奇現象で、海外では、こうした「その場にあるはずのないもの」が突如、降って来る現象を総称して“Fafrotskies”(ファフロツキーズ:英語)と呼ぶが、そちらは石だけでなく、魚や蛙やオタマジャクシ、獣類の毛、血のような雨等を含んだ異物の広範囲な降下を含んでいる。なお、詳しくは私の『柴田宵曲 妖異博物館 「そら礫」』の冒頭の私の注を参照されたい。サイト「不思議なチカラ」の大天狗の住む日光。天狗の社・古峯ヶ原古峯神社(栃木・鹿沼市)によれば、古くから日光は天狗の棲家として知られ、日本の四十八天狗に数えられる「日光山東光坊」や、後に群馬県の妙義山に移ったとされる「日光山(妙義山)日光坊」という大天狗がいた。また、日光東照宮の南西十三キロキロメートルの位置にある、現在の栃木県鹿沼市の古峯ヶ原(こぶがはら)高原にある古峯ヶ原古峯神社(こみねじんじゃ:ここ(グーグル・マップ・データ))は別名「天狗の社」とも呼ばれ、古くから参籠宿泊を行う「天狗の宿」として知られていたという。そもそもが、日光の寺社の開山は奈良時代に遡るとされ、『現在の栃木県真岡市に生まれた勝道上人という人が日光の地に入り、紫雲立寺(現在の四本龍寺)という寺を建立したのが始まりで、中禅寺湖や華厳の滝を発見したのもこの勝道上人だと言われて』いるが、『その後、勝道上人は「古峯大神」というこの地の山神の神威によって、古峯ヶ原を修行の地とし』、それ以降、『多くの僧侶や修験者が古峯神社を中心とした古峯ヶ原を訪れ、修行に励んだという』。『そういった勝道上人や修験者の姿から、御祭神または古峯大神の使いである天狗への信仰が生まれたようで』、この『古峯神社には、天狗を崇敬する人にもし災難が起きたときには、天狗が飛んで来てその災難を取り除いてくれるという、天狗への民間信仰が生まれ』た。ここ『峯ヶ原には隼人坊という天狗がいたと』伝えるが、『この天狗は実は日本の修験道の開祖と言われる「役小角(役の行者)」の弟子であった妙童鬼(前鬼・後鬼)の子孫だという説もあ』り、『古峯ヶ原が修行の地であったことから、この地を護る天狗が修験道の開祖である役小角やそれに従った弟子の前鬼・後鬼と結びついたので』はないかとサイト主は述べられ、『このように修験道や山の神などを介して、鬼と天狗が結びつくこともあ』るとする。本書刊行よりずっと後のことであるが、文政一一(一八二八)年には第十一代『将軍家斉が日光に社参した際に、日光に棲む数万とも言われる天狗たちが騒がないように、一時退去させる命令が江戸幕府から出された』とあり、この時に『幕府の奉行と連名で名を連ねたのが古峯ヶ原の隼人坊であったそうで、一躍、隼人坊の名声が高まったという』話も遺っている、とある。

「日光山御普請の奉行」この場合の「奉行」とは普請奉行ではなく、現場の指揮監督者の謂い。とすれば、この二人の武士は所謂、幕府が各藩に命じた日光山の諸社修復のための「手伝普請(てつだいふしん)」で派遣された武士である。実は次の第七話も同じ場での別な侍からの採話でなのであるが、そこでは冒頭で自分の主君が日光山普請のために藩内の筑紫の山で多くの石を切り出したと始まるから、同席していたこの主人公もそうした手伝普請の派遣職であったと考えてよいと思う。現地には臨時の藩ごとの本部及び出張小屋(本文の「小屋」とはそれであろう)のが設けられ、単純な力仕事の人足などは近隣の村などからを集めて労賃を支払って作業に当たった参照したウィキの「手伝普請」によれば、『江戸時代の初期には、各藩が費用を負担し、実際に藩が取り仕切って普請が行われていたしかし、時代が下るにしたがって、落札した町人などが現場の責任を負う請負形式が多くなり、さらには金納化も進行した。そして』、安永四(一七七五)年『以降は完全に金納化が通常の形となった。基本的には、各藩は費用を負担するだけとなり、幕府が直接担当役人を派遣して指揮監督するようになった』。『江戸時代の手伝普請』に於ける『各藩の負担は過重であり、藩の財政を逼迫させる要因のひとつとなった。ただし、他の課役・重職を担っている藩には、手伝普請を軽減あるいは免除する処置がとられた。中後期の例では、尾張藩・紀州藩・水戸藩・加賀藩、老中などの要職在任中の藩、溜間詰の大名、長崎警固を担う佐賀藩・福岡藩は免除されていた』(下線やぶちゃん)とあるが、本書の出版は延宝五(一六七七)年であり、話柄内の描写からも江戸初期のそれであることが判る。

「狀」書状。手紙。

「他家(たけ)」前の注で示したように、この二人は親戚ではあったが、仕えていた藩は違っていたものと思われる。

「その日其山」伏字。実際には実際の日付と実在する山の名が書かれてあったのである。

「小竹筒(さゝえ)のかすみ」「小竹筒」は「小筒」「竹筒」とも書き、それも「ささえ」と読み、酒を入れる携帯用の竹筒を言う。「かすみ」は酒の異名であるが、これは恐らく、現在の清酒以前の、滓(おり)の部分が含まれた「滓がらみ」を「滓(かす)み酒」と称したことによるものと推測する。

「あくとしもなく」「飽くとしもなく」。飽きるということもさらになく。「としも」は連語(格助詞「と」+副助詞「し」+係助詞「も」)で「ということも」の意。ここのように下に打消表現を伴うことが多い。

「日の駒(こま)」ギリシア神話の太陽神ヘリオス(古代ギリシア人は太陽は天翔けるヘリオスの四頭立て馬車と考え、これは後にアポロンと習合した)ではないが、太陽の運行を馬に擬えたものであろう。

「亥の刻」現在の午後九時から十一時。

「といへど、きかず」と石を投げた者を批難したが、それに応える様子もなく、礫の投擲はやまない。

「たがひに他人より猶はづかしき恥しる中の事なれば」主人公と甥は、常人以上になおも武士としての面目をまず第一とし、いわれなき無礼を受けることの恥を、孰れも、最も嫌悪し、言語道断として許さざる性質(たち)の者たちであったので。

「下下」武士である主人公とその甥の、従者たち。

「一際(きは)働くべきに見えけれど」主人たちへの無法な無礼にいきり立って、その石を投げた者に立ち向かわんとしたところが。

「氈(せん)むしろ」毛氈の敷物。

「挾箱(はさみばこ)」諸道具(ここは物見遊山のための)を持ち運ぶための長方形の浅い箱、蓋ふたに棒をとりつけてあり、従者が担いだ。

「あまさへ」「剩(あまつさ)へ」。副詞で「事もあろうに・あろうことか」の意。「あまりさへ」の転。

「身(み)がら」ただ己が身一つ。礫が異様なほど波状的に間断なく、寧ろ、ますます回数を増やして生じたことが窺われる。

「まのまへ」「目の前」。眼前(がんぜん)間近く実際に。]

宿直草卷一 第五 ある寺の僧、天狗の難にあひし事

 

  第五 ある寺の僧、天狗の難にあひし事

 

Tenngu

 

[やぶちゃん注:この図は底本「江戸文庫」版のものであるが、汚損除去と合わせて、今回は四方の枠を総て除去して見た。]

 

 我(わが)朝(てう)にいふ天狗とはなにものやらん。古今(ここん)の大德(だいとこ)これを病めり。今とても自勝他劣(じせうたれつ)の見(けん)にしづみ、我慢增上(がまんぞうじやう)の念あらば、嘴(くちばし)も翼もなくて、生(なま)の天狗なるべし。才智藝能につき、自(みづか)ら足れりと思はん人は、鞍馬の奧を訪ぬべからず。遠からぬ心の奧の道にまよひては、いにし世にもみな彼(か)の道に落ち給ひしぞかし。いはゆる、佛の毒、魅鬼(みき)のたぐひか。

 かゝるついでに、さる人の語りしは、醍醐へんにての事なりしが、あるつれつれ、出家たち寄り合(あひ)なんどして遊びしに、なにがしの沙門(しやもん)、ただかりそめに座を立(たち)て返らず。圓居(まとゐ)の僧、不審して、寺へ戾りしかと、人やりて見するに、居(ゐ)ず。醍醐中は申すにをよばず、伏見・栗巣野(くるすの)・宇治(うぢ)・瀨田のわたり、所々尋(たづぬ)れども、行方(ゆくゑ)さらにしれず。院内・門前・兒(ちご)・同宿(どうじゆく)、大きに歎きあへり。

 しかるにその三日過(すぎ)て、ある寺の下部(しもべ)、爪木樵(つまきこ)りに山に行きしに、遙けき嶺(みね)を見れば、其(その)色白きもの、大木の、えも至りがたき所に飜(ひるが)へりけるを、寺に歸り、諸人(もろひと)にかたりければ、人々、不審して、かの下部を率て行き、案内(あない)のまゝに鹿の通ひ路(ぢ)わけ越えて、岩の角(かど)、草の蔓(つる)にとりつき、九折(つゝらをり)を登りて見れば、まがふべうもなき、それとしるき、骸(から)なりけり。

 白き小袖は木にかゝり、屍(かばね)は方方へひきちらせり。印契(ゐんけい)むすびし左右(さう)の手も、所々にみだれ、陀羅尼(だらに)を唱(となへ)し唇(くちびる)も、はや、色かはりぬれば、中中に訪ねて悔(くや)む有樣(ありさま)なりかし。これなん天狗の所爲(しわざ)ならん。何たる犯戒(ぼんかい)したまひて、降魔(がうま)の加護もなかりけると、あさましくもかなし。

 

[やぶちゃん注:「天狗」「我(わが)朝(てう)にいふ天狗とはなにものやらん」ウィキの「天狗」より引く。天狗は『日本の民間信仰において伝承される神や妖怪ともいわれる伝説上の生き物』で、『一般的に山伏の服装で赤ら顔で鼻が高く、翼があり空中を飛翔するとされる。俗に人を魔道に導く魔物とされ』、外法様(げほうさま)ともいう。元来、『天狗という語は中国において凶事を知らせる流星を意味するものだった。大気圏を突入し、地表近くまで落下した火球』(流星)『はしばしば空中で爆発し、大音響を発する。この天体現象を咆哮を上げて天を駆け降りる犬の姿に見立てている』。中国の史記を初めとして、「漢書」「晋書」には『天狗の記事が載せられている。天狗は天から地上へと災禍をもたらす凶星として恐れられた』。『仏教では、経論律の三蔵には、本来、天狗という言葉はない。しかし』、「正法念處經」の巻十九には「一切身分光燄騰赫 見此相者皆言憂流迦下 魏言天狗下」『とあり、これは古代インドの』ウルカ『(漢訳音写:憂流迦)という流星の名を、天狗と翻訳したものである』。『日本における初出は『日本書紀』舒明天皇』九(六三七)年二月、『都の空を巨大な星が雷のような轟音を立てて東から西へ流れた。人々はその音の正体について「流星の音だ」「地雷だ」などといった。そのとき唐から帰国した学僧の旻』(みん ?~白雉四(六五三)年:飛鳥時代の学僧で、ウィキの「旻」によると、元々が中国系の渡来氏族の出自で、魏の陳思王曹植の後裔とする系図があるとし、推古天皇一六(六〇八)年に『遣隋使小野妹子に従って、高向玄理・南淵請安らとともに隋へ渡り』、二十四年間に亙って、『同地で仏教のほか易学を学び』、舒明天皇四(六三二)年八月に『日本に帰国』、『その後、蘇我入鹿・藤原鎌足らに「周易」を講じた』。この流星を天狗の吠え声とした他、七年後の舒明天皇十一年『に彗星が現れた時には飢饉を予告するなど、祥瑞思想に詳しかった』と記す)『が言った。「流星ではない。これは天狗である。天狗の吠える声が雷に似ているだけだ」』と主張している。『飛鳥時代の日本書紀に流星として登場した天狗だったが、その後、文書の上で流星を天狗と呼ぶ記録は無く、結局、中国の天狗観は日本に根付かなかった。そして舒明天皇の時代から平安時代中期の長きにわたり、天狗の文字はいかなる書物にも登場してこない。平安時代に再び登場した天狗は妖怪と化し、語られるようになる』。『空海や円珍などにより密教が日本に伝えられると、後にこれが胎蔵界曼荼羅に配置される星辰・星宿信仰と付会(ふかい)され、また奈良時代から役小角より行われていた山岳信仰とも相まっていった。山伏は名利を得んとする傲慢で我見の強い者として、死後に転生し、魔界の一種として天狗道が、一部に想定されて解釈された。一方、民間では、平地民が山地を異界として畏怖し、そこで起きる怪異な現象を天狗の仕業と呼んだ。ここから天狗を山の神と見なす傾向が生まれ、各種天狗の像を目して狗賓、山人、山の神などと称する地域が現在でも存在する』。従って、『今日、一般的に伝えられる、鼻が高く(長く)赤ら顔、山伏の装束に身を包み、一本歯の高下駄を履き、羽団扇を持って自在に空を飛び悪巧みをするといった性質は、中世以降に解釈されるようになったものである』。『事実、当時の天狗の形状姿は一定せず、多くは僧侶形で、時として童子姿や鬼形をとることもあった。また、空中を飛翔することから、鳶のイメージで捉えられることも多かった』。『さらに驕慢な尼の転生した者を「尼天狗」と呼称することもあった。平安末期の成立した「今昔物語集」には、『空を駆け、人に憑く「鷹」と呼ばれる魔物や、顔は天狗、体は人間で、一対の羽を持つ魔物など、これらの天狗の説話が多く記載され』ており、これは例えば、永仁四(一二九六)年の「天狗草紙」(「七天狗繪」)として描写されている。『ここには当時の興福寺、東大寺、延暦寺、園城寺、東寺、仁和寺、醍醐寺といった』七『大寺の僧侶が堕落した姿相が風刺として描かれているこれら天狗の容姿は、室町時代に成立したとされる『御伽草子・天狗の内裏』の、鞍馬寺の護法魔王尊あるいは鞍馬天狗などが大きな影響を与えていると思われる』。「平家物語」には、『「人にて人ならず、鳥にて鳥ならず、犬にて犬ならず、足手は人、かしらは犬、左右に羽根はえ、飛び歩くもの」とあり、鎌倉時代になると、『是害坊絵巻』(曼殊院蔵)を始めとする書物に、天台の僧に戦いを挑み、無残に敗退する天狗の物語が伝えられるようになる。また、林羅山の『神社考』「天狗論」、また平田篤胤の『古今妖魅考』に、京都市上京区に存在する「白峯神宮」の祭神である金色の鳶と化した讃岐院(崇徳上皇)、長い翼を持つ沙門となった後鳥羽上皇、龍車を駆る後醍醐天皇ら、『太平記』に登場する御霊が天狗として紹介され』ている、とある。また、「吾妻鏡」の天福二(一二三四)年三月十日の条の記述には、「二月頃、『南都に天狗怪が現れ、一夜中にして、人家千軒に字を書く(「未来不」の三字と伝えられる』)」と記述されている。他にも「吾妻鏡」では彗星に関する記述が多く記載されてあるが、この記述からこのケースでは『彗星ではなく、別の怪異(けい)と認識していたことが分かる。外観についての記述はないが、字を書けるということは分かる内容である(一夜にして千軒の家に字を書くことが、人ではなく、天狗の所業と捉えられた)』。『天狗は、慢心の権化とされ、鼻が高いのはその象徴とも考えられる。これから転じて「天狗になる」と言えば自慢が高じている様を表す。彼等は総じて教えたがり魔である。中世には、仏教の六道のほかに天狗道があり、仏道を学んでいるため地獄に堕ちず、邪法を扱うため極楽にも行けない無間(むげん)地獄と想定、解釈された』とある(下線やぶちゃん)。

「見(けん)」見識。基本的な考え方。思想。

「鞍馬の奧」岩波文庫版の高田氏の注に、『天台宗鞍馬寺奥の院不動堂から貴船へ至る鞍馬山中の称。「そもそもこれは、鞍馬の奥僧正が谷に、年経て住める大天狗なり」(謡曲「鞍馬天狗」)』とある。所謂、牛若丸に兵法を教えたという、あれである。これを「訪ぬべからず」と禁ずるのは、増長慢から妖魔と化した鞍馬天狗は同じ機因を持つ輩を最も嫌うからであろう。

「佛の毒」岩波文庫版の高田氏の注に、『「仏頼んで地獄に落つ」という諺がある』とある。願っていたこととは正反対の意図しない結果に陥ることの譬え。

「魅鬼(みき)」「鬼魅(きみ/きび)」と同じい。鬼と化け物・妖怪変化。この二単語自体は恐らく、「日本書紀」の欽明天皇五(五四四)年十二月を初出とする(「有人占云、是邑人、必爲魅鬼所迷惑。」(人ありて占ひて云く、「必ず魅鬼(おに)の爲に迷惑(まど)はされん。)極めて古い語である。ただ、その意味には実在した当時の、主に日本国外の異民族の海賊などの意味もあった。後代、鼻の高い西洋人を天狗にカリカチャライズした後代との偶然の親和性が面白い。

「醍醐」現在の京都府京都市伏見区東部の広域地名であるが、地名自体が同区醍醐東大路町にある真言宗醍醐山(深雪山とも称する)醍醐寺に由来する。先の注の下線部を参照されたい。

「つれつれ」徒然(つれづれ)。暇な折り。

「圓居(まとゐ)」まどい。原義は丸くなって居並ぶ、車座になることであるが、ここは親しい人たちが集まって語り合ったりして楽しい時間を過ごしたその団欒に同席した者の意。

「栗巣野」ここは旧山城国宇治郡山科村(今の京都市山科区。町名等の中に栗栖野が残る)附近のそれであろう。稲荷山の東麓、醍醐寺の北西三キロ圏内に当たる。

「兒(ちご)」稚児。寺で召し使われた少年。概ね、男色の対象であった。

「同宿」同僚僧。

「下部(しもべ)」下僕。

「爪木樵(つまきこ)り」薪採(たきぎと)り。「爪木」(「つまぎ」とも読む)は手の爪先(指先)で折り取れる程度の、薪用の細い枝のこと。

「骸(から)」死骸。

「方方」ここは「はうばう」と読みたい。

「印契(ゐんけい)」現行では「いんげい」と濁る。印相(いんぞう)とも称し、密教の作法に於いて、手と指を組み合わせて印を結び、諸仏菩薩の悟りを行者の身に表示するもの。僧が行うそれは普通は法衣の下で結ぶのが作法(なお、仏像に於いては、手と指を組み合わせたものを「印」、それ以外の仏体が法具として剣・法縄・蓮華などを持つことを「契」と呼んでいる。以上は平凡社「マイペディア」に拠る)。

「陀羅尼(だらに)」サンスクリット語の「ダーラニー」の漢音写で、「能持」「総持」「能遮」などと意訳される(「保持すること」「保持するもの」の意)。本来は「能(よ)く総(すべ)ての物事を摂取して保持して忘失させない念慧(ねんえ)の力」を意味する。元は一種の記憶術であり、一つの事柄を記憶することによってあらゆる事柄を連想して忘れぬようにすることを指し、それは種々な善法を能く持つことから「能持」、種々な悪法を能く遮ぎることから「能遮」と称する。通常は長い句のものを「陀羅尼」、数句からなる短いものを「真言」、一字二字などのものを「種子(しゅじ)」と称する場合が多い。「大智度論」の巻五によれば、聞持(もんじ)陀羅尼(耳で聞いたこと総てを忘れない呪文)・分別知(ふんべつち)陀羅尼(あらゆるものを正しく分別する呪文)・入音声(にゅうおんじょう)陀羅尼(あらゆる音声から影響されることのない呪文)の三種の陀羅尼を説き、略説するなら「五百陀羅尼門」、広説するならば無量の陀羅尼門があるとしている。また、「瑜伽師地論(ゆがしじろん)」の巻四十五では、「法陀羅尼」・「義陀羅尼」・「呪陀羅尼」・「能得菩薩忍(のうとくぼさつにん)陀羅尼」の四種の陀羅尼が挙げられている(ここまでは小学館の「日本大百科全書」に拠った)。意訳せずに梵語音写のまま唱える。

「犯戒(ぼんかい)」破戒。仏の戒めを犯すこと。

「降魔(がうま)」修行を妨害する妖魔(法理から言えばこれは本人の煩悩の外化したもの)を降伏(ごうぶく)すること。]

 

2017/06/21

宿直草卷一 第四 淺草の堂にて人を引さきし事

 

  第四 淺草の堂にて人を引(ひき)さきし事

 

 聖曆(せいれき)寛永七、八の年かとよ。都の人、江戸へ下りて、見世(みせ)借(か)る風情(ふぜい)のあきなひし侍るに、そのあたりに町人の娘、ゆふに優しきありけり。またなきものに戀そめて、人づてならで云ふ由もなかりければ、しかるべき袖を託(かこ)ち、淺からず思ふまでを艷書(えんじよ)につらね、せちに落ちよと言(こと)の葉(は)を、かきくどきつゝ云はせければ、情(なさけ)に弱るならひかは、こがれ流るゝ稻舟(いなぶね)の、いなまでもなく打(うち)なびけり。さなきだに親には問はぬ妹背(いもせ)のみち、殊になをざりなふ包みければ、親はかつて是をしらで、結ぶべき緣(えん)の事など定むべきに聞えければ、娘、いとかなしく思ひ、通ひぬる男に、かくと知らせ、

「年頃日頃(としごろひごろ)、むつまじき中をもわかれ、また云ひをきし約言(かねごと)も、いつしか僞(いつはり)になりやはせん。いつまでとてか信夫山(しのぶやま)、忍ぶ甲斐なきこゝにしも居(を)ればこそきけ、うき事をたゝ、蛟(みづち)の峒(ほら)・わに住む沖(おき)のなかなかに、君(きみ)もろともに出(いで)なば、なにか、悲しからん。今宵、とく連れ給へ、紛(まぎ)れ出でん。」

と口説(くど)きけれは、男(おのこ)も年來(としごろ)ぬすみ出(いだ)し、都べに率(ゐ)て行きたく思ひし事なれば、まふけ得たる事に思ひ、さ夜(よ)のさむしろきぬきぬに、手々(てで)取りくみて出でしかど、夜は、はや更(ふけ)ぬ、借(か)るべき宿もなし。

 先(まづ)、淺草の堂に行(ゆき)、こよひを明(あか)して旅立(だ)たんと、かの堂の緣(えん)に袖かたしきて、たゞ二人寢ぬるともなく打ち傾(かた)ふきしに、つゐ、夜の明(あけ)しに驚きて、側(かたへ)を見るに女房なく、裝束(さうそく)・帶(おび)なんど引きちらせり。

「こは口惜しや。」

と、かなたこなた、尋ぬれども、見えず。途方なく呆(あき)れしに、眉(まゆ)、霜にまがふ翁(おきな)の來りて、

「汝は何を歎くぞ。」

といふ。泣く泣く、樣子、かたりければ、

「さては、汝が尋(たづぬ)るは、あれ、なるか。」

と指(ゆび)ざしするを見れば、十二、三間ばかりの大木の枝に、情なくも、二つに引き裂きて、かけたり。あるもむなしき骸(から)なれば、やる方もなふ悲しきに、教へたる翁も、あとかた失(うせ)てさりぬ。

 いとゞ恐ろしく思ひ、江戸には住みもあへず、今ほどは紀州にあり。かの人、直(ぢき)に懺悔(さんげ)ものがたりせりと、さる座頭(ざとう)のはなし侍り。

 

[やぶちゃん注:この一章は鬼に人が食われてしまうところの、所謂、「鬼一口(おにひとくち)」伝承ウィキの「鬼一口などを参照のこと)の変形譚で、その中でもシチュエーションの類似から、「伊勢物語」の第六段の有名な通称「芥川」の段が直接のモチーフと推定される本文中でも「伊勢物語」の中の別の章段の一首をインスパイアしている形跡がある(後注。しかし引用箇所が全然ひどくて話にならぬ)。また、前話の続きといった感じで浅草の観音堂がまた出るのであるが、実は浅草寺の東方一帯は浅茅ヶ原(あさじがはら)と呼ばれ、ここにはまさに「鬼婆」の一変形とも言うべき「浅茅ヶ原の鬼婆」の伝承があった場所であることもロケーションをここにした大きな一因があると私は思う(但し、この鬼婆は人食いはせず、金品を奪って殺すというものである。ィキの「浅茅ヶ原の鬼婆などを参照されたい)。しかし、どうにも描写が薄っぺらく、全体の分量が如何にも少ないのに修辞技巧をべたべたに重ねてしまった結果、リアリティも糞もなくなってしまい、最後の引き裂かれて高枝にぶら下がった女の遺体の肉感(肉は食われたから「皮膚感」と言うべきか)も伝わって来ず、つまらぬ一篇に堕してしまっているように思われる。なお、湯浅佳子氏の論文『「曾呂里物語」の類話』では、本話を「曾呂里物語」の巻四の「六 惡緣にあふも善心のすゝめとなる事」の類話とした上で、そのルーツを「今昔物語集」の「卷二十七」の「産女行南山科値鬼逃語第十五」(産女(うぶめ)、南山科に行きて鬼に値(あ)ひて逃げし語(こと)第十五)や同書の「卷第二十七」の「在原業平中將女被噉鬼語第七」(在原業平中將の女(おむな)鬼に噉はれむ語第七)及び「東人宿川原院被取妻語第十七」(東人(あづまびと)、川原の院に宿りて妻(め)を取られたる語第十七)に求め、後代では「伽婢子」の十三の七にある「山中の鬼魅」、「諸百物語」之二」十一 熊野にて百姓わが女ばうを変化にとられし事」及び」の 丹波申へんげの物につかまれし事」(リンク先は私の電子テクスト注)を挙げ、また本「宿直草」の「卷二」の「第四 甲州の辻堂にばけものある事」(後日、電子化する)も類話として掲げておられる。

「聖曆(せいれき)」ここは元号のこと。

「寛永七、八の年」一六二九年末から一六三二年年初相当。徳川家光の治世。

「見世(みせ)」店。

「借(か)る」借りる。

「しかるべき袖を託(かこ)ち」しかるべき仲介者に密かに(親に知られぬようにするため)頼んで。

「艷書(えんじよ)」恋文。

「せちに落ちよ」何としても靡いてこよ。

「ならいかは」の「かは」は反語の係助詞に、「川」を掛けて以下の「漕がれ」「流る」「稻舟」という縁語群を引き出す。

「こがれ」「漕がれ」と恋「焦がれ」を掛ける。

「稻舟」稲を運ぶそれに「否(いな)」を掛けて以下の「いなまでもなく」を引き出す。以下のこうした「信夫山」等の修辞技巧の説明は、私には判り切っていて、しかも退屈なので(私は和歌が嫌いで、そのうざうざした痙攣的に増殖する修辞技巧が好きでないからである)、ここに限らず、原則的にこれ以降の章でも省略することとする。

「さなきだに」そうでなくてさえ。

「親には問はぬ」親から教えてもらおうとなどはしない。

「妹背(いもせ)のみち」夫婦になるための恋人同士の関係。

「なをざりなふ」いいかげんな綻びなど全くないように。

「包みければ」包み隠していたので。

「結ぶべき緣(えん)の事」親が決めた具体的な縁談話。

「わかれ」別々になって逢えなくなってしまい。

「約言(かねごと)」未来を「予」測して口に出した「言」葉、具体には夫婦として契る「約束」言(ごと)ではあるが、岩波文庫版は『予言(かねごと)』とし、この方が古語としても、言上げとしての民俗語としてもよりしっくりくる。

「忍ぶ甲斐なきこゝにしも居(を)ればこそきけ」「こそ」已然形の逆接用法であるが、謂いの中身に焦燥的な捩じれのある表現である。耐え忍んでみても最早、約束は成就されないことになりそうな今日只今、それでもこうしてここにこうして現に二人して逢っていられるからこそ、まだ、こんなことも申し上げられますけれども。

「蛟(みづち)の峒(ほら)」「わに住む沖(おき)」深い川淵の底の蛟龍の住む水中の穴、大海の底の鰐(=鮫)の棲む海底洞窟、「の中」を繫ぎ出す序詞的修辞であろう。その「中」から「なかなかに」(ここはこのまま二人が別れるのとは全く「反対に」の意の副詞的用法であろう)の語をさらに引き出しているのである。

「ぬすみ出(いだ)し」親の許しを得ずに密かに駆け落ちし。

「都べに」京の方(かた)に。

「まふけ得たる」歴史的仮名遣としては「まうけえたる」で「設(儲)け得たる」、自分がもともと望んでいた通りの状況を手に入れた。

「さ夜(よ)のさむしろきぬきぬに」岩波文庫版の高田氏の注に、『「さむしろに衣かなしき今宵もや恋しき人に逢はでのみ寝む」(『伊勢物語』)を踏むか。あわただしい情事のあとで、の意。「きぬきぬ」は普通、男女が共寝した翌朝のこと』とある。この一首は「伊勢物語」の第六十三段、通称「つくも髪」などと呼ばれる章段であるが、三人の子持ちの好色なとんでもないばあさんの大年増が、子の力で、在五中将と契りを結ぶも(というよりも在五中将がその子の健気さに哀れを感じたのであろう)、訪れは絶える。後に、彼女のことをいとしいとはこれっぽちも思っていない在五中将は、その老女のことを、これまた、哀れを感じて情けをかけるという、如何にも私にはいやな感じがする話で、ここに引く気も起こらない。挙げられた歌は、見限りとなった在五中将へ老女の思いを詠んだものである。

「淺草の堂」前章と同じく、浅草観音堂であろう。

「打ち傾(かた)ふき」岩波文庫版の高田氏の注に、『うとうととする』とある。

「つゐ、夜の明(あけ)しに驚きて」「つゐ」は「じきに・忽ち」の意の副詞であるが、歴史的仮名遣は「つい」でよい。この時間経過の圧縮感覚には、私はおぞましき妖怪変化の眩暈力が彼に作用したのだと感ずる。

「十二、三間」二十一・八二~二十三・六三メートル。]

 

宿直草卷一 第三 武州淺草にばけ物ある事

 

  第三 武州淺草にばけ物ある事

 

Asakusakanondoubakemono

 

[やぶちゃん注:この図は底本「江戸文庫」版のもの。]

 

 元和(げんわ)の始めの頃、淺草の觀音堂に化物あるといひふれりしに、江府(こうふ)御鷹匠(たかじやう)の内、器量の士(ひと)ありて、

「我、行きて見ん。」

といふ。其むしろに侍る士士(ひとびと)、

「良かるまじき。」

など答へけれど、なまじゐの我(が)になりて、その日の暮に馬に乘り、少々つれし下人に、

「あくる卯(う)の一天に迎ひに來れ。」

と云ひふくめ、その身は堂に入(いり)て越夜(おつや)するに、亥のかしらとおもふ刻(きざみ)、夜まはりの者とうち見えて、鐵棒つきて二人來り、咎めていふやう、

「堂内へ俗人の入(い)る事、堅く禁制なり、とく、出で給へ。」

といふ。

 侍(さぶらひ)、聞きて、

「是は救世(くせ)に宿願ありて籠り居る者なり。免したまへ。」

といふ。

「是非とも。」

といふ。

「ひらに。」

と答へて出(いで)ざれば、力をよばぬ體(てい)に、出でさると見えしが、かき消ちてうせぬ。

「さては宿直(とのゐ)の者にてはなし。是こそ化物よ。」

と思ひしに、また夜半(よは)の比、僧徒五、六十人、十(と)あまりの提灯(ていとう)に火ともして、いかさまにも闍維(しやゆい)の規式(きしき)にて來(きた)る。殊勝(すせう)におぼえしに、さはなくて、堂内にきたり、

「俗人は法度(はつと)也。とく出でよ。」

と、いろいろに責め罵(のゝし)れども、『今宵はいかやうの事ありとも出まじき』と思ひ、後々は返事もせず、進退用心してこらへければ、是も、そのまゝ、うせけり。

 やうやう明かして、はや七鼓(しちこ)の時分とおぼしき比、十六、七ばかりの小僧、後門(ごもん)より内陣に入(いる)。輪灯(りんとう)に火とぼして禮拜(らいはい)す。また、その容(かたち)、色々に現ず。あるひは、面(おもて)長くなり、短かくなり、あるひは、㒵(かほ)、赤くなり、白くなり、その姿、高ふして天井も低(ひき)く、その顏面(かほばせ)、廣ふして堂内も狹(せば)し。しかれども、これに少(すこし)も臆せず、刀の柄(つか)を拳(こぶし)も碎けよと握り、かの化物の面(つら)を睨みつけて居(ゐ)ければ、せんかたなくて、是も、かき消して失せけり。此(この)うせし後、

「はつ。」

と思ひしかども、亂るゝ心を取り直しぬるうち、夕告鳥(ゆふつげどり)も鳴きつれて、鐘の音(ね)もそふ。しのゝめも明(あけ)ゆく空となりぬれば、迎ひや來ると、あい待ちしに、馬を引きて、たゞ一人、來たれり。

「殘りの者は。」

といへば、下人のいはく、

「皆、いまに參り申すべく候。某(それがし)は御身上(しんしやう)おぼつかなく、慮外(りよくはい)にも御馬に乘り參候。」

といふ。さて、まづ、馬に乘りしに、下人のいはく、

「去夜(きよや)、かはりたる事も御座なく候や。」

といふ。

「その事よ、變りしことこそあれ。以上、化物、三度、來たりしかども、はじめ二度は、さも思はず。三番目に小僧が來りて、面がまへ、いろいろに變(か)へにしこそ、興(きよう)がる恐ろしき事よ。」

といへば、馬取(とり)のいふやう、

「その顏は此やうに御座候べしや。」

といふを見れば、かの恐ろしき小僧が面(つら)に少しも違(ちが)ふ事なし。

「さて、これも化物よ。」

と、腰の刀に手をかけしに、馬も變化(へんげ)の物なれば、いたふ、跳(は)ねて、まつ逆樣に落ちける時、

「さて、たばかられけるよと思ふと心亂れし。」

と、後に語り侍りしと也。かくて、約束の下人、迎ひに行(ゆき)て見るに、絶入(たえいり)てありしかば、藥など與へ、介錯(かいしやく)して歸りしと也。

 後の評判、いろいろにして、始末よろしからざれば、無念にや思ひけん。お暇(いとま)申し、行方(ゆくゑ)知らず、出でけり。粗(ほぼ)、人人、知りたる事なり。

 『智者はまどはず、勇者は恐れず』といへど、恐るべきを恐れざるは、賞(ほ)むるにかいなし。凡そ、將(しやう)の勇(よう)と、兵(へい)の勇と、取捨、各別なるをや。これなん兵の勇にして、化物に向ふ、何の手柄(てがら)かあらんや。慕虎馮河(ぼこひようか)[やぶちゃん注:「慕」はママ。]して死すとも悔ゆる事なきものには與(く)みせじと、夫子(ふうし)のいましめも、ひとりこの人の爲(ため)にや。

 

[やぶちゃん注:この話は恐らくは「曾呂利物語」の「卷三」の「六 をんじやくの事」(温石の事)をインスパイアしたものではないかと思われ(これは湯浅佳子論文「曾呂里物語」の類話でもそう推定されてある)、また、本「宿直草」と全く同じ年に板行された諸國百物語の「卷之三 一 伊賀の國にて天狗座頭にばけたる事も同じくそれを素材としており(リンク先は私の電子化注)、しかも、限りなくどちらかがどちらかを真似をしたものと思われる。何故なら、リンク先の挿絵を見て戴けば判る通り、展開だけでなく、その主人公と変化の配置さえもよく似ているからである。

「元和(げんわ)の始め」「元和」は通常は「げんな」と読む。一六一五年から一六二四年まで。初めとあるから第二代将軍徳川秀忠の治世(彼は元和九(一六二三)年に嫡男家光に将軍職を譲っている)。

「淺草の觀音堂」現在の聖観音(しょうかんのん)宗総本山金龍山浅草寺。第二次世界大戦後の改宗までは天台宗。推古天皇の頃、宮戸川(現在の隅田川)から引き上げた観音像を土師真中知(はじのあたいなかとも)が祀ったのを始まりと伝え、大化元(六四五)年に勝海が堂宇を建立して開山となった。中興開山は円仁。江戸時代は幕府の祈願所であった。本尊は聖観音菩薩で秘仏。ウィキの「浅草寺」によれば、天正一八(一五九〇)年、『江戸に入府した徳川家康は浅草寺を祈願所と定め、寺領五百石を与えた。浅草寺の伽藍は中世以前にもたびたび焼失し、近世に入ってからは』寛永八(一六三一)年・同一九(一六四二)年に『相次いで焼失したが』、第三代『将軍徳川家光の援助により』、慶安元(一六四八)年に五重塔が、同二年に『本堂が再建された。このように徳川将軍家に重んじられた浅草寺は観音霊場として多くの参詣者を集めた』とある。なお、この日秘仏本尊は『長期間にわたって見る者がなかったため、明治時代には実在が疑われるようにな』り、そこで明治二(一八六九)年に役人が『調査を行ったところ、本尊はたしかに存在していたことが明らかになったという。この時の調査によれば、奈良時代の様式の聖観音像で、高さ』約二十センチメートル程で、『焼けた跡が伺え、両手足がなかったという』。『現在、常時拝観可能な「裏観音」が秘仏本尊と同じ様式であるとされるが、高さは』八十九センチメートルと異なっている、とある。

「御鷹匠」家康が鷹狩を好み、慶長年間(一五九六年~一六一五年)に幕府の職制として位置づけられ、天和元(一六八一)年の時点では実に百十六名を数えた。その後、「生類憐みの令」の発布に伴い、漸次減少し、元禄九(一六九六)年十月に一旦、完全に廃職となったが、二十年後の享保元(一七一六)年八月、徳川吉宗による放鷹制復活によって鷹匠職も復活し、四十名余の定員で、幕末まで至った。

「むしろ」「蓆」。「その会合の席」の意。

「なまじゐの我(が)になりて」口に出して言ってしまったことから、却って強情を張ってしまい。

「卯(う)の一天」卯の刻の「一點(点)」が正しい。一時を四等分した最初の時間帯。午前五時から五時半頃。

「越夜(おつや)」徹夜。

「亥のかしら」「かしら」は「頭」。午後九時頃。

「刻(きざみ)」時刻。

「救世(くせ)」救世観世音菩薩(ぐぜかんぜおんぼさつ)のことであるが、聖観音菩薩は正式でも通称でも「救世観音」とは言わない。ウィキの「救世観世音菩薩」によれば、救世観音とその信仰は、平安時代、法華経信仰から広まった名称であるが、この名称は経典等には説かれておらず、そう呼称する観音像は仏像として正統的な尊像ではないとされる。但し、『救世は「人々を世の苦しみから救うこと」であり、救世だけで観音の別名ともされる。救世観音の名称の由来は「法華経」の観世音菩薩普門品の中の』「觀音妙智力 能救世間苦」という『表現にあると推測され、法華経信仰が平安時代に盛んになったこと、さらには聖徳太子の伝説が付帯されることで、この尊名が生まれ、民間で定着したと考えられている』とあるから、ここでの武士のこの謂いもイコール「觀音」のことと解してよい。

「是非とも。」夜回りの体(てい)の者の台詞。

「ひらに。」主人公の武士の台詞。

「宿直」原典は「とのゐ」。底本は「殿居」であるが、岩波文庫版の表記を採った。

の者にてはなし。是こそ化物よ。」

「提灯(ていとう)」ちょうちん。

「闍維(しやゆい)の規式(きしき)」「闍維」は火葬・荼毘(だび:パーリ語の漢訳音写)のこと。ここは広義の葬送・埋葬、死者を葬るための定式法を指す。

「殊勝(すせう)におぼえしに」実に厳粛な雰囲気が伝わってきたのだが。

「さはなくて」そうではなくて。本来の主体である葬儀の厳かさを破ってまで、まず真っ先に彼を堂内から排除しようとやっきになったことに対する謂いでろう。これは堂への祈願の籠り人(実際には主人公はそうでなく、肝試し目的の不届き者なのであるが)に対する措置としては確かに不審とは言える。

「七鼓(しちこ)」午前の七つ時。定時法では午前四時頃。

「後門(ごもん)」観音堂の後部の入口。岩波文庫版では『こうもん』とルビするが、原典に従った

「輪灯(りんとう)」仏前に灯を献ずるための灯明具の一つで、天井から吊るして油皿を載せて灯芯を立てる。

「㒵(かほ)」「顏面(かほばせ)」同義乍ら、異様なメタモルフォーゼをするこのシーンに別表現を使った筆者の意図はなかなかのものと言える。

「夕告鳥(ゆふつげどり)」鷄の別称。

「御身上(しんしやう)おぼつかなく」御主人様の御身の上が心配で心配でたまらず。

「慮外(りよくはい)にも」御無礼とは存じつつも、気がはやって、ただ一人先に。

「興(きよう)がる」岩波文庫版の高田氏の注に、『異常な。一風変わった』とある。

『「その顏は此やうに御座候べしや」/といふを見れば、かの恐ろしき小僧が面(つら)に少しも違(ちが)ふ事なし』このシークエンスはまさにかの小泉八雲の「貉」の遠い濫觴と言える(私の『柴田宵曲「續妖異博物館」「ノツペラポウ」附小泉八雲「貉」原文+戸田明三(正字正仮名訳)』を参照されたい)。

『「さて、たばかられけるよと思ふと心亂れし」/と、後に語り侍りしと也』ここに突如、後の時制の談話を挿入しているのは、怪談を事実らしく見せる手法として、すこぶる効果的で、筆者がただの怪奇談収集を宗とする好事家レベルではないことをよく示すものである。

「介錯(かいしやく)」介抱。傍に付き添って面倒を見ること。

「後の評判、いろいろにして、始末よろしからざれば、無念にや思ひけん。お暇(いとま)申し、行方(ゆくゑ)知らず、出でけり。粗(ほぼ)、人人、知りたる事なり」後日の主人公の顛末を添えるのも、真実味を添える上手い方法であるが、この手法はまた古くは、かの「竹取物語」で蓬莱の玉の枝の偽物で失敗し、行方知れずになった車持皇子に既に原形がある。

「智者はまどはず、勇者は恐れず」「論語」の「子罕篇第九」に『子曰。知者不惑。仁者不憂。勇者不懼。』(子、曰く、「知者は惑はず。仁者は憂へず。勇者は懼れず。)と出るのを指す。これは同じ「論語」「憲問第十四」にも『子曰。君子道者三。我無能焉。仁者不憂。知者不惑。勇者不懼。子貢曰。夫子自道也。』(子、曰く、「君子の道なる者、三(みつ)あり。我、能くする無し。仁者は憂へず、知者は惑はず、勇者は懼れず。」と。子貢、曰く、「夫子(ふうし)自(みずか)ら道(い)ふなり。」と。)と重出する。

「將(しやう)」真の軍師・軍略家。

「兵(へい)」実動する血気にはやるばかりの兵士。

「慕虎馮河」「暴虎馮河」が正しい。虎に素手で立ち向かおうとし、黄河を徒歩で渡らんとするで、血気にはやって無謀無益なことをすることの譬え。やはり、「論語」の「述而第七」に出る。私の好きな一節なので引いておく。

   *

子謂顏淵曰。用之則行。舍之則藏。唯我與爾有是夫。子路曰。子行三軍則誰與。子曰。暴虎馮河。死而無悔者。吾不與也。必也臨事而懼。好謀而成者也。

   *

子、顔淵に謂ひて曰く、「之れを用ふれば則(すなは)ち、行なひ、之れを舎(す)つれば、則ち、藏(かく)る。唯、我れと爾(なんぢ)とのみ、是れ、有るかな。」と。子路、曰く、「子、三軍を行(や)らば、則ち、誰(たれ)と與(とも)にせんか。」と。子、曰く、「暴虎馮河し、死して悔い無き者は、吾、與にせざるなり。必ずや、事に臨みて懼(おそ)れ、謀(はかりごと)を好(この)みて成さん者なり。」と。

   *

断わっておくが、私がこの条が好きなのは、これが孔子が徳行第一とした唯一の弟子にして、若くして死んで、孔子を激しく歎かさせた、かの顔回(=顔淵)への感懐を彼が素直に述べている点、そして、それ以上に、ここで蛮勇を揮う「暴虎馮河」な者と強く注意された子路が、実は誰よりも私は好きだからである。

「夫子(ふうし)」孔子の尊称。]

 

宿直草卷一 第二 七命ほろびし因果の事

 

  第二 七命(みやう)ほろびし因果の事

 

 むかし、行脚の僧、山路を步むに、をりしも初秋(はつあき)の頃、殘る暑さも眞夏にこえ、さわたる雁(かり)もいと珍しく、凉しき木陰(こかげ)にいこふ所へ、なめくじりなんいふ虫、はらばひ出でたりしに、ひとつの蛙(かはづ)有て、飛びきたりて、これを呑む、かゝりしを又、蛇(へび)、見つけて蛙(かはづ)をのむ。猪(ゐのこ)、見て、又、蛇をくらふ。僧、みて、

「あゝ、鳩(はと)のはかりに身を隱る術(じゆつ)も、我におゐてなき事よ。」

と恨むに、猪(ゐ)は喜びて去るに、どこより狙ひけん、この猪(しし)も矢にいられて、忽(たちまち)、目(ま)のまへに死す。かかるところへ、腰に靫(うつぼ)つけたる狩人(かりうど)きて、此猪(しし)をとり、嬉しげにかへる。

「さてさて、強者伏弱(がうじやぶくにやく)のことはりなるかな。なめくじりより次第に殺されて、猪(しし)、今、狩人の手に入る。しらず、此狩人も行方(ゆくゑ)、いかがあらん。」

 末(すゑ)おぼつかなく思ひければ、跡につきて、狩人の家に行き、宿(やど)かりたき由いへば、情(なさけ)ある者にてゆるし侍り。内に入(いり)、見れば、四面(しめん)あれたる柴の戸の、嶺(みね)の松風(まつかぜ)、らうがはし。隣るべき家もなふ、起臥(おきふし)ともにたゞ淋(さむ)しき住居(すまゐ)なめれど、かれが心に百敷(もゝしき)の、軒(のき)の並ぶも知らなくには、たんぬして住(すみ)つらめと、あさまし。似あはしき飼糧(かれゐひ)とゝのへて、洗足(せんそく)など迄いたはり、狩人夫婦(ふうふ)、たゞ三吟(きん)に話せしにぞ、夜(よ)もはや、いたふ更(ふけ)ける。明(あ)けてこそ語らめとて、あるじも寢(いね)ければ、僧も臥し侍りしに、なにとやら、胸(むな)さはがしく、つやつや、目も閉ぢでより居しに、外(そと)より鼠鳴(ねずな)きして、をとづるゝものあり。獵師の妻(つま)、得たり顏に、ひそかに立て、戸をひらく。物蔭より見れば、刀・脇差に、長刀(なぎなた)もちたる男、入ぬ。とかくすると見る程に、かの獵師を刺し殺す。

 僧、さればこそと、恐ろしく、身をひそめて見る。古き皮籠(かはご)を取りいだし、死骸を入れ、繩、十文字にかけて、

「年ごろの本望(ほんまう)、達しぬ。」

と、よろこぶ。

「さて何とすべきぞ。」

といへば、女のいはく、

「上(うへ)の山に埋(うづ)み給へ。」

といふ。

「いかゞして持ち行かん。」

といへば、

「さいはひ、旅人の候。これに持たせて御行き候へ。」

といふ。

「然(しか)るべし。」

とて、僧をあらけなく起し、

「皮籠(かはご)を荷なひ、きたれ。」

といふ。いつならはじの事なれば斟酌(しんしやく)なれど、否(いな)といはゞ、殺すべき氣色(けしき)に見えければ、力をよばず、これを荷なふ。件(くだん)の男、片手に鍬(くは)、かた手に長刀にて、おそろしき出立(いでたち)なり。

 かくて、山へゆき、埋(う)むべき所を見たて、をのれは奉行して、穴を僧に掘らするに、ぶん取、殊の外、ひろし。僧、心に思ふやう、

「我も埋(う)むべき巧(たく)みなるべし。我、ながらへば、女房も、密夫(まおとこ)も、事あらはれんなれば、一定(いちぢやう)、我をも殺すにこそ。扨(さて)さて、前業(ぜんごう)のかんずる所とはいひながら、無用(むよう)の所へ尋ねきて、非法(ひはう)の死(しに)をする事かな。ねがはくは、佛陀の加護、神明(しんめい)の靈驗ありて、助け給へ。」

と祈誓(きせい)して、彼(かれ)に先(せん)を越されじと思ひ、

「いかに、聞(きき)給へ、我ならはぬ事ながら、きめて掘れとのたまふゆへ、かほどまでは掘りたり。ゆるし給へ、まづ、少し休まん。」

といへば、男、聞(きき)て、

「今休みなば、やうやう、夜(よ)も明(あけ)なん。無下(むげ)に弱き法師かな。いで、退(の)きたまへ、我、掘らん。」

とて、鍬と長刀、取りかへて、よほどふかき穴に入(いり)、精をいだして掘りけるぞ、しかるべき運の盡きなる。

 僧、屠所(としよ)の羊の惜しむべき間(ひま)なり、

「穴、出來(でき)たらば、命あらじ。逃(のが)るべきは、こゝなり。」

と、

「汝是怨敵發菩提心(によぜをんてきほつぼだいしん)。」

と、心の内に弔(とふら)ひ、持ちたる長刀、取り直し、多聞(たもん)の鉾(ほこ)となぞらへて、かの男の首、うち落とし、さて山傳(やまづた)ひに迯(にげ)やはせんとおもひしが、

「いやいや、かの女、跡にて、わが過(とが)のやうに云ひなしなば、いかばかりの難義(なんぎ)かあらなん。たゞ正直(しやうぢき)に云はんには、しかじ。」

と、かの所の地頭(ぢとう)に、いちいちに斷りければ、

「沙門(しやもん)は神妙。」

とて褒美にあづかり、女房は定めの如く、刑(けい)に仰せつけられけるとかや。

 むべ、尊(たつと)きも賤しきも、なれては秋の色好(いろごの)み、よその袂(たもと)の香をとめて、誘ふ水に心をみだし、義理にはなれて名に殘るは、いとも口惜しからずや。狹衣(さごろも)の大將は、聞きつゝも淚にくもるとながめ、光(ひかる)君は、いかゞ岩根(いはね)の松はこたへんと詠ぜしも、膽(きも)にしみて淺ましくこそ侍れ。かの高麗人(こまうど)の、色(いろ)ある婦(をんな)の姿の雅びやかなると、家の富めるとに、よすがを定めかねたるも、道理は一往(わう)あれど、思ふに別れ、思はぬに添ふも、不祥(ふしやう)の常(つね)なれば、何とも、しがたし。さればこそ、重きが上の小夜衣(さよころも)といひ、貞女は二夫(じふ)に見(まみ)えずとも、王燭(わうしよく)はいましめ、和漢ともに五の常(つね)を守りて、我人のたしなみとす。

 然るに、この女、振分髮(ふりわけがみ)の馴(な)じみを忘れ、あらぬ方に心を移し、あまさへ、その夫(おつと)を殺す。まことに、天網恢々(てんまうくはいくはい)、罪(つみ)をいづこに贖(あが)なはんや。因果歷然、こゝを以て知るべし。目(め)のまへに七命(みやう)、ほろび侍り。をのれに入る者は、をのれに出づ。科(とが)を天に得ては、祈るにところなしと、此はなしに知られてぞ侍る。

 

[やぶちゃん注:「七命」(しちみょう)という特定の名数は仏語にはない。これは本話に於いて命を滅ぼすことになる因果を持った七つの生きとし生けるもの、①「なめくじり」(蛞蝓)に始まって、②蛙・③蛇・④猪・⑤狩人・⑥「密夫(まおとこ)」と、⑦女房(本文ではただ「定めの如く、刑に仰せつけられけるとかや」としかないが、不義密通を働き、しかも間男を手引きして夫を殺させ、その死骸を埋めるように指示した彼女は江戸時代の判例に従うなら死罪である。但し、この話柄の時制は後で法刑事権を握っている者としての「地頭」が出ることから、筆者(話者)の時代想定は鎌倉・室町時代のこととしているのかも知れぬ。にしてもこの女は本話中の最悪の悪人で何よりも死ぬべき存在であり、読者も七人目を彼女ととったことはまず間違いない)を指していると採るなお、湯浅佳子氏の論文『「曾呂里物語」の類話』では、本話を「曾呂里物語」の巻五の五「因果さんげの事」の中間部をインスパイアしたもの(事実、よく似ている)、冒頭の因果律の箇所は、やはり「曾呂里物語」の五の六「よろつうへうへの有事」の類話(これも実際によく似ている)とされている。湯浅氏は同論文の結語で、「垣根草」には都合、「曾呂里物語」の十二の話との類話がみられるとされつつ、但し、『『宿直草』のそれらの話は、『諸国百物語』に比べると『曾呂里物語』との類似性はそれほど緊密ではない。しかし、『曾呂里物語』巻五の五のやや冗漫な長話が『宿直草』で三話に分けられるように記されていること等を考えると、『宿直草』は『曾呂里物語』に拠ったか、もしくは『曾呂里物語』と話材を共有しつつ、創作的姿勢をもって話を描きなおしたといえるだろう』と述べておられる。大変、首肯出来る見解である。リンク先(PDF)の論文を是非、読まれたい。

「さわたる」沢山飛び行く。雁の類は冬鳥の渡り鳥で、やや設定が早い気もするが、風雅の景として詠み込んだものであろう。「いと珍しく」があるのでそうした確信犯である。或いは、ロケーションを特定していないものの、これによって未だ真夏の暑さのぶり返すような初秋でありながら、雁の渡りあるというのは、暗にそれを東北地方に設定していることを暗示しさせているのかも知れぬ。

「はらばひ」這い。

「鳩(はと)のはかりに身を隱る術(じゆつ)も、我におゐてなき事よ」「はかり」「謀り」であろう。「鳩が持つ防衛戦略のような羽根の保護色などで身を隠す術」である。野生のハト類は周囲の色に合わせて羽根色を変え、天敵がいる場合は、叢や木蔭に凝っとして姿を隠す防禦姿勢をとることがある。それを言っているものと思われる。この「我」はそうした食うか食われるかの因果、食物連鎖を傍観した僧自身がそうした弱肉強食の因果の輪から遁れるための術(すべ)を全く持っていないことの感慨であると同時に、この後の危機一髪の展開への不吉な伏線のモノローグとなっている。

「靫(うつぼ)」前話に出たが、再注しておくと、「空穗」とも書き、弓の射手が弓矢を納めるために腰につける細長い筒状の入れ物。

つけたる狩人(かりうど)きて、此猪(しし)をとり、嬉しげにかへる。

「強者伏弱(がうじやぶくにやく)」「強き者は弱きを伏す」で「大無量寿経」の下巻の一節。人間が行うところの五つの悪である「五惡段」を釈迦が説く、その最初に第一の悪として出すものである。基本、これは「殺生」に収斂され、後の四悪は「偸盗」・「邪淫」・「妄語」・「飲酒(おんじゅ)」である。

「かれが心に百敷(もゝしき)の、軒(のき)の並ぶも知らなくには」「百敷」はこの鄙に対する狩人の見たこともない京の素晴らしい「皇居」の甍に、「ももしき」の「も」を係助詞「も」の不定の用法で――その彼の心でさえ「も全く以って」、繁華な軒の居並ぶ今日の都の壮大な景観さえも知らず、想像だに出来ぬのは――の謂いであろう。

「たんぬ」「足んぬ」。「たりぬ」の転訛で「堪能」に同じく、「十分に満ち足りて満足していること」という意の名詞である。賤しい生計(たつき)乍ら、狩人の心の平穏と最愛の妻との生活への満足を描いて後の展開の残酷さをより高めて上手い

「あさまし」ここは「呆れた」の謂いであるが、直下の「似あはしき」(その貧しさを感じさせるに足るいかにもみすぼらしい)「飼糧(かれゐひ)」(現代仮名遣「かれいい」であるが、正しい歴史的仮名遣は「かれいひ」。ここは狭義の旅行などに携帯した炊いた米を乾燥させた「乾飯/餉」ではなく、ごく粗末な糧食の謂い)にも影響を与えて、如何にも貧しい雰囲気を伝える効果がある。

「洗足」順序が逆(普通は訪れた最初にされねばならぬ)なのは、狩人の家がみすぼらしく、別に足を洗って上がるようなものでなかったことを伝え、夜話するうち、夫(妻ではあるまい)が僧の足の汚れているのに気づき、その労りのために、妻に命じて足洗いの水を用意させたものであろう。さりげなく狩人の質朴さを読者の印象づける気遣いが作者には感じられる。

「三吟(きん)に話せし」三人で話し合った。この貧家の楽しげな団欒の描きも、この直後でカタストロフへと暗転していく最後として非常に上手いと私は思う。

「つやつや」少しも。いかにしても。

「鼠鳴(ねずな)き」無論、「鼠の鳴くような声を出すこと」であるが、狭義には、この語自体に「女のもとに忍んできた男などが出す鼠の鳴きまね」の意がある

「皮籠(かはご)」皮を張った籠(かご)。後世には紙や竹で編んだ行李(こうり)をも言った。ここは猟師ではあるが、後者の竹行李でとっておく。

「いつならはじの事」不詳。殺された人の死体を入れた行李を背負うなどということは、今までもどんな時にでも習ったことない仕儀であることを指すか。

「斟酌」「条件などを考え合わせて適当に処置すること」か。ここは、以上のような「特殊な条件下の作業」の謂いか。或いは、(とてものことに殺人者である)「相手の事情や心情を汲み取って答えること」の謂いか。後の「否」を考えると、後者が適切かも知れぬ。

「ぶん取」「ぶんどり」で地面を掘らせている、その指定面積の区画分。それが人一人分を埋めるだけとは到底思えぬほどに広いのである。

ひ殊の外、ひろし。僧、心に思ふやう、

「一定(いちぢやう)」副詞で「きっと・必ず」。

「前業(ぜんごう)のかんずる所」自身の知らぬ前世(ぜんせ)の業(ごう)に感応した報い。

「きめて」ここは「責めて」の謂いであろう。

「運の盡き」間男の「運(うん)の尽(つ)き」。

「屠所(としよ)の羊の惜しむべき間(ひま)なり」「屠所の羊」は屠殺場に牽かれて行く羊で、刻々と死に近づいていることの譬えで、「大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)」の北本(ほくほん)を出典とする。ここは「死に向かわんとする者が手を拱いている余裕など最早ない」という反語的心内表現である。

「汝是怨敵發菩提心(によぜをんてきほつぼだいしん)」これは「大藏經」等に見られる一節、「汝是畜生發菩提心(によぜちくしやうほつぼだいしん)」(たとえ犬畜生のような動物や虫であっても仏を信じ求める心を起したならば必ず救われる)のパロディである。というより「怨敵を殺生してもそれが即菩提となる」という刑法に於ける殺人罪の不適応となる「緊急避難」や「正当防衛」的な方便としての言上げであろう。

「弔(とふら)ひ」これから殺そうとする間男の命を事前に供養するという、滅多に見かけない驚天動地の僧の仕儀である。

「多聞(たもん)の鉾(ほこ)」多聞天は天部の武神毘沙門天のこと。持国天・増長天・広目天とと合わせて「四天王」の一尊として数える場合は多聞天となる。ウィキの「毘沙門天」によれば、本邦では『一般に革製の甲冑を身に着けた唐代の武将風の姿で表される。また、邪鬼と呼ばれる鬼形の者の上に乗ることが多い。例えば密教の両界曼荼羅では甲冑に身を固めて右手は宝棒、左手は宝塔を捧げ持つ姿で描かれる。ただし、東大寺戒壇堂の四天王像では右手に宝塔を捧げ持ち、左手で宝棒を握る姿で造像されている。奈良當麻寺でも同様に右手で宝塔を捧げ持っている。ほかに三叉戟を持つ造形例もあり、例えば京都・三室戸寺像などは宝塔を持たず片手を腰に当て片手に三叉戟を持つ姿である』(下線やぶちゃん)とある。リンク先に兵庫県高砂市時光寺の多聞天像の写真がある。この僧はまさに間男を殺害する際に自らを仏法の正法(しょうぼう)を守護堅持する多聞天に自らを擬えることで敢えて斬首殺人という惨たらしい最大級の殺生行為の正当化を自らに賦与させたというわけである。

「過(とが)」「咎(とが)」。犯行。

「なれては」馴れては。「秋」は「飽き」を掛け、相手に馴れて飽きてしまうと。

「名」ここは「芳しくない噂」「ゴシップ」の謂いか。

「狹衣(さごろも)の大將」平安中期、禖子(ばいし)内親王の女房であった宣旨(せんじ:女房名)の作とされ、延久・承保(一〇六九年~一〇七七年)頃に成立した「狹衣物語」の主人公。堀川関白の子で、総てに於いて人に優れた男であったが、同じ邸内に養われた従妹の源氏宮(げんじのみや)に恋しながら、報われず、心ならずも飛鳥井姫・嵯峨院の女二宮・一品宮(いっぽんのみや)・宰相の中将の妹などと関係を重ね、彼女らの不幸を招き、狭衣自身も帝位に上るという異例の幸運を得ながらも、遂に悶々たる思いは晴れることがなかったといった悲恋物語。その筋書きは殆どが「源氏物語」の換骨奪胎に過ぎないものの、緊密な構成・巧みな和歌・洗練された文章などによって鎌倉時代には「源氏物語」と並称されるほど好んで読まれた(私は同作を所持するが、全く読んだことがないので、以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「光(ひかる)君は、いかゞ岩根(いはね)の松はこたへんと詠ぜし」「源氏物語」の「柏木」の中に出る光の詠んだ、

 

 誰が世にか種は蒔きしと人問はばいかが岩根の松は答へむ

 

を指す。光の親友頭中将の子柏木と妻女三の宮の間に出来た不義の子である薫の生誕の五十日目の祝いが過ぎ、三の宮を見舞った際、光が妻の不倫をあからさまに詠んだ嫌味な一首である。

「かの高麗人(こまうど)の、色(いろ)ある婦(をんな)の姿の雅びやかなると、家の富めるとに、よすがを定めかねたる」

「不祥」不運。

「さればこそ、重きが上の小夜衣」「新古今和歌集」の「卷第二十 釋教歌」の中の寂然法師(じゃくせん/じゃくねん 元永年間(一一一八年~一一一九年)?~?:平安末期の官人・歌人。俗名は藤原頼業(よりなり)。藤原北家長良流で丹後守藤原為忠の四男。近衛天皇の下で六位蔵人を務め、康治元(一一四一)年に従五位下に叙されて翌年には壱岐守に任ぜられたが、遅くとも久寿年間(一一五四年~一一五五年)に出家し、大原に隠棲した。参照したウィキの「寂然によれば、『西行とは親友の間柄であったと言われている。また、各地を旅行して讃岐国に流された崇徳院を訪問したこともある。寿永年間』(一一八二年~一一八三年)『には健在であったとみられるが』、『晩年は不詳』。『和歌に優れ』、『強い隠逸志向と信仰に裏付けられた閑寂な境地を切り開』き、『今様にも深く通じていた』とある)の一首(一九六三番歌)、

 

   不邪淫戒(ふじやいんかい)

 さらぬだにおもきがうへの小夜衣(さよごろも)わがつまならぬつまな重ねそ

 

に基づく。「不邪淫戒」は十戒(不殺生・不偸盗・不淫・不妄語・不飲酒(ふおんじゅ)・不塗飾香鬘(ふずじきこうまん:香水や貴金属の装飾を身に帯してはならない)・不歌舞観聴(ふかぶかんちょう・歌舞音曲を遠ざけるねばならない)・不坐高広大牀(ふざこうこうだいしょう:膝よりも高い高級な寝具や装飾を施した閨(ねや)に寝てはいけない)・不非時食(ふひじじき:食事は一日二回(午前中の正式な斎(とき:時)と午後の非時食)としてそれ以外に間食をしてならない)・不蓄金銀宝(ふちくこんごんほう:金(かね)や金銀・宝石類を含めて個人の財産となるような物を所有してはならない))の一つである女犯罪(にょぼん)を禁じた不淫戒(現実的には不道徳な性的行為の禁止、或いは、妻又は夫以外の者と性交を禁ずること)を指す。「小夜衣」夜具の雅語。なお、この語は後、この歌を語源として「浮気女」を指す隠語となった。「つま」配偶者の意に「衣」の縁語である「褄(つま)」(着物の裾の左右両端の部分或いは襟下)の意の掛詞。歌意は、

――ただでさえ、夜具とする衣は重いもの。その上に自分のものではない衣の褄(つま)を重ねるな。ただでさえ、女犯は罪深いことであるのに、その上に我が妻でない人妻と関係を結んで邪淫を重ねてはならぬ。――

といった謂い。ネット上には事実に基づく背景を憶測する解説もあるが、採れない

「貞女は二夫(じふ)に見(まみ)えずとも、王燭(わうしよく)はいましめ」「史記」の「田單列傳第二十二」に出る。「王燭」は「王蠋」が正しい。王燭は斉王の忠臣で王によく諫言したが、王は聞き入れず、彼は身の不徳を嘆いて辞任して隠居した。そこに隣国の燕王が楽毅を総大将として斉に攻め入り、斉は亡んでしまう。その直後、かねてより王燭の人徳を聞き知っていた楽毅は、王燭を燕の高官として迎えたい旨、何度も礼を尽くして慫慂したが、王燭は頑として応じなかった。それでも楽毅がそれを諦めず、王燭を脅迫しつつ招聘した際、その使者に向かって言ったのが、「忠臣不事二君。貞女不更二夫。」(忠臣は二君に事(つか)へず、貞女は二夫(にふ)を更(か)へず。)で、その喝破した直後、王燭は自邸の庭先の木に繩を懸け、自ら縊れて死んだという。これは「忠臣不事二君」への譬えであって、ここに出すに相応しい引用とは、私には思われない

「五の常(つね)」儒教で説く五つの徳目である五常(五徳)。仁・義・礼・智・信。

「我人」自己と総ての他者。

「あまさへ」「剩(あまつさ)へ」の近世以前の表記。副詞で「あまりさへ」の転。好ましくない状態が重なるという条件下での「そればかりか・その上に・おまけに」、或いは「こともあろうに・あろうことか」の意。ここは後者。

「天網恢々(てんまうくはいくはい)」「天網恢恢、疎(そ)にして漏らさず」の略。「天の神仏のめぐらした衆人を守るための網は広大で、それは一見、目が粗いようにも思えるけれども、悪事については決して僅かなりとも逃すことはない」の意で、「悪事はいずれ必ず報いを受けるものである」という成句。

「をのれに入る者は、をのれに出づ」この「をのれに」は自発の意か。ある対象に自然に内在するようになったものは、同じように自然に穏やかにその対象から出て行くものである。それが自然である。しかし、自己の内省や罪障感とは無縁に、その「科(とが)」が「天に」よって指弾され、決定(けつじょう)し、断罪されてしまった上は、天に「祈」って最早、何の赦免も与えられるものではない、という意味であろうか。大方の御叱正を俟つ。]

 

2017/06/20

宿直草(御伽物語)〔大洲本全篇〕 荻田安靜編著 附やぶちゃん注 始動 /宿直草卷一 第一 すたれし寺を取り立てし僧の事

宿直草(御伽物語)〔大洲本全篇〕 荻田安靜編著 附やぶちゃん注

 

[やぶちゃん注:本書は延宝五(一六七七)年に京の松永貞徳直系の貞門俳人荻田安静(おぎたあんせい ?~寛文九(一六六九)年:姓は「荻野」とも)の編著になる「宿直草(とのゐぐさ)」として、京の知られた書肆西村九郎右衛門から出版した怪談集であるが、後に「御伽物語」と改組・増補編集され(その主たる作業は富尾似船(とみおじせん 寛永六(一六二九)年~宝永二(一七〇五)年:京都の俳人で初め、まさに荻田安静に師事したが、後に談林に転じ、元禄期の京俳壇で活躍した)によるものと推定されている)、この二様の名、寧ろ、「御伽物語」の名で流布してきた、「曾呂利物語」と並ぶ近代怪異小説集の濫觴ともされるものである(実際の改版や改題及び異版は複雑で、詳しくは以下に示した底本の高田衛氏の解題に詳しい)。

 本電子化注の底本は一九九二年国書刊行会刊の「叢書江戸文庫」の「近世奇談集成(一)」を基礎底本としたが、底本は新字であるため、私のポリシーから恣意的に漢字を正字化したサイト「富山大学学術情報リポジトリ」内の「ヘルン文庫」の小泉八雲旧蔵本である本「宿直草」も参考にした。但し、この原本(PDF版(カラー)でリンク先で全巻ダウン・ロード可能)は草書で平仮名が多い上に破損が甚だしい。読みは原典に加えて同編者である高田衛氏が附したものも含まれるが、更に私が歴史的仮名遣で概ね原典に従って大幅に追加しておいたまた、以下の同氏編の岩波文庫版のそれも参考にした(同じ大洲本を用いているはずであるが、表記や読点・ルビ等が一部でかなり異なり、寧ろ、原本の平仮名を漢字にした箇所は岩波版の方が躓かずに読める場合が多々あることから、そちらの表記を元に正字化して示した箇所も多く、また、私個人の判断でオリジナルな別漢字表記にした箇所もかなりある注の一部は同じ高田氏が刊行した一九八九年岩波文庫刊「江戸怪談集 上」(但し、こちらは抄録版)の注を参考にさせて戴きつつも、基本、オリジナルに施した。但し、私自身が必要と認めないものには附していない。悪しからず。読み易さを考えて、改行や句読点や濁点も増やした(一部には底本のそれに私が従えず、変更した箇所もある)。踊り字「〱」「〲」は正字化した。挿絵は底本画像或いは岩波版のそれを用いた。後者を採用したものは底本画像の汚損が激しいからである。これはその都度、採用版を示す。

 序及び目録は最後に電子化する。【2017年6月20日始動 藪野直史】]

 

 

宿直草卷一

 

  第一 すたれし寺を取り立てし僧の事

 

Sutaresitera

 

[やぶちゃん注:挿絵は岩波文庫版である。底本のそれは、僧や狐の変化の顏部分がひどく汚損しており、正直、見るにたえない。岩波版のそれも一部を清拭した。]

 

 古人、燭(しよく)をとりて、日を繼(つ)ぐに夜(よ)を以てす。何とて、お眠(ねふ)り候や。籠耳(かごみみ)に聞きはつりし咄(はなし)、お茶受けひとつ、申(まう)さふか。

 むかし、智行兼備の僧、諸國さすらへしに、ある所に興景無雙(けうけいぶさう)の寺ありて住持の僧なし。庭に草しげく、床(とこ)、蜘蛛(ささがに)のいと、みだれり。此(この)靈境、見過ぐしがたく、かたへの在家(ざいけ)に入り、樣子たづね侍れば、

「さればとよ、所々(しよしよ)のお僧、いく袖(そで)か來たり、すみ給ふべきと兼て御すはり候へども、宵に入(いり)て、あくる朝(あさ)は、行衞(ゆくゑ)更に見え給はずさふらへば、いたづらに悲しび、悔むばかりにて、今ははや、住持の沙汰もいたさず候。さだめて、化物なんど、さふらふにやと申す事にて候。」

と、かたる。僧、聞きて、

「しからば、その寺、望みにて候。許されて我ら預りたく候。その外の人々へも云ひあはされ候て、据(す)え給(たまは)るまじや。」

と。あるじ、

「やすき事にてさふらへども、右申し候通りにて、あやしの所なれば、御無用にこそ。さりとて、我心ひとつにて否(いな)び申すべきにもあらず。」

とて、檀中(だんちう)あつめて相談するに、みな一同に、

「無益(むやく)。」

といへば、僧のいはく、

「尤(もつとも)なり。さりながら、不惜身命不求名利(ふしやくしんみやうふぐみやうり)と侍れば、捨てん命も惜しからず候。只、消えなん法灯(ほつとう)をかゝげたきのみ。ねがはくは、許し給(たまは)れ。」

と、再三に及べば、

「さては力(ちから)なし。けふ、かりそめに見えまいらせ、あすの噂となりたまはん事こそ、そなたの爲に悲しけれ。」

と、寺を預くるになりけり。

 哺時(ほじ)になりて、油、灯心、抹香をたづさへ、佛前、形(かた)ばかりかざり、看經(かんきん)、やうやう、時うつれば、夜も四更(しかう)になんなんたり。煩惱の霧すさびては、はれぬ眞如(しんによ)の月の影、たゞ觀念のあらしならずもと、心も澄みわたるをりふし、庫裏(くり)より長(たけ)一丈あまりの光物(ひかりもの)、見えたり。

「すは。」

と、おもふところに、また、外より、

「椿木(ちんぼく)さふらふか。」

と聲す。かの光物、

「たぞ。」

といへば、

「東野(とうや)の野干(やかん)。」

とこたへて、壁の破間(やれま)より入る。長(たけ)五尺ばかり、まなこ、日月(じつげつ)の如し。火ともして來たる。又、呼ぶ。

「たぞ。」

といへば、

「南池(なんち)の鯉魚(りぎよ)。」

と名のりて、橫行(わうぎやう)の物、たけ七、八尺、まなこは黃金(こがね)にて、身は白銀(しろがね)の鎧(よろひ)なり。

 次に呼ぶ。答(こたへ)れば、

「西竹林(さいちくりん)の一足(いつそく)の鷄(けい)。」

と名のりて、朱(あけ)の冑(かぶと)、紫の鎧、左右(さう)に翼ありて、たけ六尺ばかり。天狗もかくやと恐ろし。

 また、案内(あない)す。いらへすれば、

「北山(ほくざん)の古狸(こり)。」

といひて、色(いろ)、見別けがたく、たけ四尺ばかり、進退、利(さとしく)して、いづれ、妖(あや)しの物なり。此五つのばけもの、僧を中に取りこめ、鳴き、啀(いが)み脅(おど)しけれども、僧、怖(お)ぢずして、魔佛一如(まふついちによ)と觀(くわん)じ、心經(しんきやう)誦(ず)じ侍れば、せんかたなくや有りけん、何處(いづち)となふ、去りぬ。

 とかくせし内に、東岱(とうたい)、雲ひいて、常世(とこよ)の鳥も、聲みだせり。晨朝(じんでう)のつとめ、𢌞向(ゑかう)のなごりに、昨日(きのふ)の檀那五、六人來たり、僧を見て、不思議の思ひをなす。

「さて。危うき事も、なしや。」

と問ふ。僧、事の次第、いちいちにかたる。

「さこそ候はめ。かしこくも寺を預けしものかな。さて、その化物は如何にいたし侍らん。」といふ。僧のいはく、

「その事よ。殺生(せつしやう)の事、佛、いましめ置けり。さりながら、興隆佛法のため、一殺多生(いつせつたしやう)の善とは、これらをや申すべき。退治し給へ申さん。をよそ化物、四つは外(ほか)、ひとつは内に候。五つながら所を覺え候。まづ、東の野に狐あるべし。南の池に鯉、西の藪に足ひとつある庭鳥(にはとり)、北の山に狸、これ外(ほか)より來る四つなり。」

といヘば、

「さてはそれか。」

と弓・うつぼ、鑓(やり)、長刀(なぎなた)なんど、こしらへて、犬追ふものにあらねども、那須野(なすの)の昔とふらひて、狩場(かりば)に出(いづ)れば、狐、いでたり。やがて殺してけり。池の樋(ひ)をぬき、水ほして見れば、大きなる鯉あり。これもずんずんに切り捨(すて)つ。藪に網(あみ)はり、三方より聲して狩(かる)に、庭鳥、出でしを、やがて、とる。山をたづね、穴をもとめて、靑松葉、かきくべて、古き狸をえたり。

「さて、此堂の材木に椿や使はれ候か。」

といへば、其中にも古き人、

「げに。乾(いぬゐ)の隅の柱こそ、椿の木よ、と語りつたへて侍れ。」

といふ。

「さては。内(うち)の光物は、それにてこそ候へ。」

とて、やかて番匠(ばんじやう)をやとひ、別(よ)の木にとりかへけり。これより後、寺、いよいよ繁昌しけりとなん。

 

 宜(むべ)なるかな、この僧、德ありて妖怪にさまたげられず。多くの僧の、あるは果(は)て、あるは失せ給ひしに、寺も再び榮へしは、いみじきにはあらずや。また、東野(とうや)の野干(やかん)と聞きて、東(ひがし)の野(の)の狐(きつね)と讀まずは、詮(せん)はあらじ。物ごと、心を配るべきをや。外(ほか)より來たる四つは、年へて化くる術(じゆつ)をおぼゆる事もあるべし、内の椿の光るこそ、おぼつかなくも、怪しけれ。朽(くち)たる葦(あし)はきりぎりすとなり、稻また𧉪(よなむし)となると、出世(しゆつせ)の書(ふみ)に侍る。これまた、其たぐひか。かからば、などか、古下駄(ふるげた)も師走をまちて踊らざらん。化けまじき物の化けたるこそ、咄の中の咄ならめ。かの戀路(こひぢ)の關(せき)の夕霧(ゆふぎり)に、梅が小路(こみち)の露をわけてふ、熊谷笠(くまがへがさ)に息こめて、ひたに人目を忍ふ袖も、怖(こは)さの外(ほか)の化物(ばけもの)ならし。

 

[やぶちゃん注:ちょっと思うのだが、この中央に木、東西南北に動物を配したそれは、五行説の四神のパロディのように思われる。五行では中央は「土」であるが、これは植物の芽が地から萌え出でるシンボルとされる。なお、本話は湯浅佳子氏の論文『「曾呂里物語」の類話』によれば、先行する「曾呂里物語」(寛文三(一六六三)年刊)の巻四の「四 万の物年をへては必化事」をインスパイアものである。私は「曾呂利物語」を所持しないので、同論文から梗概を引用させて貰う。

   《引用開始》

 伊予国いづしの山寺は、にゐという僧が創立したのだが、何時の時からか化物が棲み、住持の僧たちを捕っていったので、今は主無き寺となっていた。ここに、関東の足柄から僧が訪れ、にゐに山寺の住持を無理に願い、山寺に入った。すると夜に「こんかのこねん」「けんやのばとう」「そんけいが三ぞく」「こんさんのきうぼく」という物が訪れ、寺の内から「ゑんよう坊」が出て、今夜は生魚があると言って客を歓待する。僧は化物の正体を見抜き、化物に名乗りをあげ、金棒で化物を打ち砕くと、いずれも数百年を経て形を変じて現れた物々であった。夜明けてにゐとその使いが訪れたが、僧は無事で、夜の出来事を語った。にゐは僧を中興開山の智者とし、寺は今でも仏法繁昌の霊地ということである。

○  出石寺は、現在の愛媛県喜多郡出石山にあった寺。『愛媛の面影』(五巻五冊、慶応三年刊、半井梧庵著)巻四「喜多郡」に「金山出石寺(きんざいづしでら)」とある。

   《引用終了》

「古人燭をとりて、日を繼ぐに夜を以てす。何とてお眠り候や」。「古詩十九首」(文選に載る漢代の五言詩群)の「十五」の「生年不滿百」(生年 百に滿たず)の冒頭前半の「生年不滿百 常懷千歳憂 晝短苦夜長 何不秉燭遊 爲樂當及時」(生年 百に滿たざるに/常に千歳の憂ひを懷く/晝は短くして 夜の長きに苦しむ/何ぞ燭を秉(と)りて遊ばざる/樂しみを爲すは當(まさ)に時に及ぶべし)や、それに基づく李白の「春夜宴桃李園序」(春夜桃李園に宴するの序)の一節、冒頭の『夫天地者萬物之逆旅、光陰者百代之過客。而浮生若夢、爲歡幾何。古人秉燭夜遊、良有以也。』(夫れ、天地は萬物の逆旅(げきりよ)にして、光陰は百代(はくたい)の過客(くわかく)なり。而して浮生(ふせい)は夢のごとし、歡(くわん)を爲(な)すこと幾何(いくばく)ぞ。古人、燭を秉(と)りて、夜(よ)、遊ぶ、良(まこと)に以(ゆゑ)有るなり。)などを下敷きとし、巻首に本篇の話者が直接話法の形で登場し、夜長を楽しむ夜伽話の怪談の面白さを読者に誘う形式をとっている。

「籠耳に聞きはつりし咄」「籠耳」は、竹籠に入れた水が編目からすぐ漏れてしまうことから、聴いてもじきに忘れてしまうこと。ここはそうした凡愚な私が聴きかじった(「はつる」は「斫る・削る」)、しかもなんとまあ、そんな私が未だ忘れておらぬ奇怪な話、という話者の謙辞である。

「お茶受け」ちょとした退屈しのぎの御茶飲み話。

「興景無雙」景色や雰囲気が二つとないほどに如何にも興趣に富んでいること。

「無益」無駄なこと。ここは前例に徴して、好意的に、その僧のためにならぬこと、の意で採る。

「不惜身命不求名利」身命を惜しまず、名利を求めず。インドの僧龍樹の記した「大品(だいほん)般若経」の注釈書を鳩摩羅什(くまらじゅう)が漢訳した「大智度論」に出る。

「あすの噂となりたまはん事こそ、そなたの爲に悲しけれ」檀家連中がこの僧に全く期待しておらず、前の連中と同じように、翌朝になる前に寺を逃げ出に違いないと憐れんでいる。まさに前の「無益」の一発声と心底が響き合っているのである。

「哺時(ほじ)」狭義には申の刻、現在の午後四時前後を指し、広義には日暮れ時の意。

「形ばかり」手持ちのものもなく、荒れ寺であるから、かくするしかなかったのである。檀家連中も何も布施しなかったと考えてよい。それだけ、彼への期待が零であることがはっきりと判るからである。

「看經」主に禅宗などで声を出さずに経文を読むこと(対語は「諷経(ふぎん)」であるが、広義には声を出して経文を読む読経の意でも用いる。

「四更」丑の刻。現在の午前一時或いは二時からの凡そ二時間を指す。

「煩惱の霧すさびて」「煩惱の霧」は岩波文庫版の高田氏の注で『煩悩を、悟りの智恵である光明をさえぎる霧にたとえた』とする。ここはその比喩を実景に逆転させたもので、深い霧が甚だしく立ち込めてくるのを描出したもの。

「はれぬ眞如(しんによ)の月の影」「眞如の月」は岩波文庫版の高田氏の注で『煩悩が消え去って現われるすみきった心の本体を月にたとえた語』とする。前者と同じ逆転表現で、雲が厚く、射し込むはずの月光が至らぬ実景を描く。前の時刻から、このロケーションが旧暦の月の下旬であることが判る

「たゞ觀念のあらしならずもと」「あらし」は嵐。煩悩による心の乱れを「觀念の」嵐と譬えながら、その実、戸外には実際に妖しげな強風が吹き荒んでいるのである。

「長(たけ)一丈あまりの光物」「一丈」は三・〇三メートル。ここで「丈」と言っている点に着目すべきで、これは挿絵でもそうであるが、床からの高さがそれなのである。最後に明らかになる通り、これは実は柱に用いられた椿の精であるから、床面から立ち上っている光体なのである。

「椿」は岩波文庫版の高田氏の注では「莊子」の「逍遙游」の冒頭にある、「上古有大椿者、以八千歳爲春、八千歳爲秋。」(上古、大椿(たいちん)なる者、有り、以つて八千歳を春と爲(な)し、八千歳を秋と爲す。)を引かれ、『椿は古来長寿の霊木とされ、また』、『その古木は奇異をもたらすものとされた』と記しておられる。これは、その「大椿」なる巨木の一年は人間の三万二千年に当たるということで、この「大椿」(たいちん/だいちん)は人の長寿を祝いで言う語となったのであるが、しかし、中国語の「椿」は本邦の椿(ツツジ目ツバキ科 Theeae 連ツバキ属ツバキ(ヤブツバキ)Camellia japonica)とは全くの別種である中国中部及び北部原産の「香椿」(中国語音写:チャンチン:ムクロジ目センダン科 Toona属チャンチン Toona sinensis)を指し、本邦とツバキとは何の関係もない(因みに、現代中国語で日本のツバキは「山茶花」「山茶」などと表記する)。そもそもが、「荘子」の冒頭に登場する、とんでもない大きさの動植物群は、想像不能の譬えようのない(そこが荘子の謂わんとする核心)、全くの伝説上の架空のものであって、「荘子」の「大椿」自体を本邦産の「椿」と並べて論じること自体は植物学的にまず無効である上に、そういう意味で駄目押しで無効なのである。無論、同字であることから、日本の「椿」が同様霊木や化物候補として誤認された事実はある訳ではあるから、ウィキの「ツバキ」にも、『年を経たツバキは化けるという言い伝えが日本各地に残る。新潟の伝説では、荒れ寺に現れる化け物の正体が椿の木槌であったり、島根の伝説では、牛鬼の正体が椿の古根だったという話がある』とはある。しかし私は、明白に違う部分は違っていることをはっきりと言わなければ、正しく注したことにはならぬと考える人種である

「火ともして來たる」挿絵の右手の狐の変化は右手先に紙燭(しそく)というにはコンパクトな付木(つけき)様のものを持っているのが、ちゃんと描かれている。

「朱(あけ)の冑(かぶと)」雄鶏の鶏冠(とさか)が隠喩(メタファー)されている。

「紫の鎧」地鶏の一種は、胸から腹にかけて濃い青黒い色をしているものがよくいる。古語の「紫」はくすんで暗く青に近い。

「橫行(わうぎやう)の物」岩波文庫版の高田氏の注に、『異類、動物をいう。横に歩くもの』とある。

「啀(いが)み」動物が吠えたり、噛みつこうとする動作を指す。現在の互いに敵意を持って激しく争う意味の「いがみ合う」はこれが原義。

「魔佛一如」「生仏(しょうぶつ)一如」などと同じく、魔物も凡夫の衆生も悟った仏もその本性は全く同じ一つのものであるとするもの。

「觀じ」心を乱すことなく、観想し。

「心經」般若波羅蜜多心経。ここまで出てきた種々の語から見て(細かく示さないが、例えば南宋以降に座禅をする定刻とされた「哺時」など)、この僧は禅僧と考えてよい。

「東岱」原義は中国の霊山である泰山で、転じて東方の山のこと。

「常世(とこよ)の鳥」常世長鳴鳥(とこよのながなきどり)で鷄の異名。神話に於いて天照大神が天の岩戸隠れをした際、八百万神が天鈿女命(あめのうずめのみこと)にストリップを演じさせると同時に、この常世長鳴鳥を鳴かせて天照大神を呼び戻すことに基づく。即ち、一番鷄のそれは太陽の再生儀礼のひとつのアイテムでもあったのである。

「みだせり」「亂せり」。魑魅魍魎の跳梁する夜の闇の世界を掻き乱した。

「晨朝(じんでう)のつとめ」早朝の勤行。

「𢌞向(ゑかう)のなごり」これは勤行や法会の終わりに修めたところの功徳を一切の衆生に振り向けるために唱える願いの経文である「回向文(えこうもん)・回向偈(えこうげ))」のことであろう。普通は偈頌(げじゅ)又は陀羅尼(だらに)を唱える。

「一殺多生の善」これも仏語。一つの生けるものを犠牲にして、沢山の生けるものが助かることを善とする考え方。多くの衆生を救わんがために、悪しき存在である一つの生ける存在を犠牲にするという善行。無論、望ましいことではないが、方便として仕方ないとする場合の口上と考えてよい。「瑜伽師地論」(ゆがしじろん:玄奘が六四八年に訳した仏典。全百巻)を出典とするという。

「うつぼ」「靫」或いは「空穗」とも書く。弓の射手が弓矢を納めるために腰や背につける細長い筒状の入れ物。

「犬追ふもの」犬追物。中世武士の武芸の一つで、馬上から犬を標的として弓を射、その技能を競ったもの。馬場の中央に繩で円形の囲いを作ってその中に犬を放ち、三手(みて)に分かれた射手が外周からこれを射た。流鏑馬(やぶさめ:疾走する馬上から鏑矢(かぶらや)で的を射る。通常は直線馬場で距離は百二十間(約二百二十メートル)、的は一尺四寸(約五十センチメートル)四方の檜板を竹に挟んで地面に挿した)や笠懸(かさかけ:騎射である点では流鏑馬と似るが、的の位置が凡そ三十メートル離れた遠い位置にある)などと合わせて騎射三物(きしゃみつもの)の一つとして流行ったが、室町末期には戦術法が変化するとともに衰えた。

「那須野の昔とふらひて」寵妃玉藻前(たまものまえ)に変じて鳥羽天皇を惑わし、下野国那須野原(現在の栃木県北部の那須町付近)で退治されて殺生石に変じた九尾狐の伝承を受ける。ウィキの「玉藻前」によれば、帝の病いの元凶を『陰陽師・安倍泰成(安倍泰親、安倍晴明とも)が玉藻前の仕業と見抜』き、『安倍が真言を唱えた事で玉藻前は変身を解かれ、白面金毛九尾の狐の姿で宮中を脱走し、行方を眩ました』。『その後、那須野(現在の栃木県那須郡周辺)で婦女子をさらうなどの行為が宮中へ伝わり、鳥羽上皇はかねてからの那須野領主須藤権守貞信の要請に応え、討伐軍を編成』、『三浦介義明、千葉介常胤、上総介広常を将軍に、陰陽師・安部泰成を軍師に任命し』、八万余りもの『軍勢を那須野へと派遣した』。『那須野で、既に九尾の狐と化した玉藻前を発見した討伐軍は』直ちに、『攻撃を仕掛けたが、九尾の狐の術などによって多くの戦力を失い、失敗に終わった。三浦介と上総介をはじめとする将兵は犬の尾を狐に見立てた犬追物で騎射を訓練し、再び攻撃を開始』、『対策を十分に練ったため、討伐軍は次第に九尾の狐を追い込んでいった。九尾の狐は貞信の夢に娘の姿で現れ許しを願ったが、貞信はこれを狐が弱っていると読み、最後の攻勢に出た。そして三浦介が放った二つの矢が脇腹と首筋を貫き、上総介の長刀が斬りつけたことで、九尾の狐は息絶えた』。しかし、『九尾の狐はその直後、巨大な毒石に変化し、近づく人間や動物等の命を奪った。そのため村人は後にこの毒石を『殺生石』と名付けた。この殺生石は鳥羽上皇の死後も存在し、周囲の村人たちを恐れさせた。鎮魂のためにやって来た多くの高僧ですら、その毒気に次々と倒れたといわれている。南北朝時代、会津の元現寺を開いた玄翁和尚が殺生石を破壊し、破壊された殺生石は各地へと飛散したと伝わる』とある(下線やぶちゃん)。

「池の樋」後に抜いて水を干したとあるから、この場合は、水の出口に設けた堰き止めの板、水門の謂いである。

「ずんずんに」「寸寸に」で副詞。物を細かく幾つにも截ち切るさま。ずたずたに。
 
「靑松葉かきくべて」とは
脂が強く、煙が盛んに出る青松葉を掻き集めて穴に押し込み、それに火を放ち、より燃やして火煙を出すために青松葉を更に「くべて」(燒(く)べて)である。

「乾(いぬゐ)」北西。

「番匠」大工。

「詮(せん)はあらじ」全く役に立たなかっただろう。かくも美事に総てを退治することは出来なかったに違いない。

「おぼつかなく」(最も)気懸りで不審にして。

「朽(くち)たる葦(あし)はきりぎりすとなり、稻また𧉪(よなむし)となる」「𧉪(よなむし)」は「米蟲(よなむし)」で、甲虫目多食亜目ゾウムシ上科オサゾウムシ科オサゾウムシ亜科コクゾウムシ族コクゾウムシ属コクゾウムシ Sitophilus zeamais のこと。深い叢の奥や米の中から突如、生まれるように見えた彼らを、因果の理を越えて全く突然に生まれ出たものと捉えた、仏教生物学の四生の一つである化生(けしょう)説である。

「出世(しゆつせ)の書」岩波文庫の高田氏の注によれば、出家が所持している仏典の意とする。

「古下駄も師走をまちて踊らざらん」ある程度の長い年月を経たものか、或いはいわく因縁のある道具などに霊が宿った所謂、「付喪神(つくもがみ)」のこと。但し、妖怪めいたものとしてそれらが登場跋扈するのは中世以降で、近世には流行がすたった。「化けまじき物の化けたるこそ、咄の中の咄ならめ」という謂いには、こうした話を主君にして聴かせた御伽衆の発生が中世末期であることを考えると、この謂い方は本怪談集の深層的側面を剔抉しているようにも思われる。

「夕霧」岩波文庫版の高田氏の注では、『大坂新町の名遊女夕霧をさすか』とある。ウィキの「夕霧太夫」(ゆうぎりたゆう)によれば、彼女は生年は不詳で延宝六(一六七八)年没とし(これは本書刊行の翌年である)、『京都・島原、大坂・新町廓にいた太夫』で『本名は照。出身地は一説によると、現在の京都市右京区嵯峨の近くであるといわれる。いつ、どういう風に島原に入ったか不明であるが「扇屋」の太夫となり、のちに扇屋が大坂(大阪市)の新町に移転したため、新町の太夫となる。ここから大坂の太夫は生まれるのである。姿が美しく、また芸事に秀でた名妓であった。若くして病没すると、大坂中がその死を悼んだという。享年は』二十二とも二十七とも『伝えられ』、『亡くなった日は「夕霧忌」として俳句の季語にもある。墓は大阪の浄国寺、京都の清涼寺が有名だが』、『他に徳島や和歌山にもある』。『死後、夕霧とその愛人・藤屋伊左衛門とを主人公とする浄瑠璃・歌舞伎などの作品が多く作られ、それらは「夕霧伊左衛門」または単に「夕霧」と総称された。近松門左衛門の浄瑠璃『夕霧阿波鳴渡』を始めとして、浄瑠璃の『廓文章』、歌舞伎の『夕霧名残の正月』『夕霧七年忌』などがある』とし、現在でも清涼寺で「夕霧供養祭」が催されているとある。

「熊谷笠(くまがへがさ)」岩波文庫版の高田氏の注では、『武蔵国熊谷』で生産された『普通の編笠より深い』タイプの笠とある。しかし、どうもこれらの高田氏の注を繋げて見ても、このエンディングの「かの戀路の關の夕霧(ゆふぎり)に、梅が小路(こみち)の露をわけてふ、熊谷笠(くまがへがさ)に息こめて、ひたに人目を忍ふ袖も、怖さの外の化物ならし」の謂いは今一つ、私には半可通である。無理矢理、解釈するなら、

――かの美しい、人目を惹かぬことのないはずの遊女夕霧、その美女が許されぬ禁断の恋をして、その恋路の、越えようにも越えられぬ関道(せきみち)を、しかし秘かに抜け行く折り――匂いたちはするものの、儚(はかな)き梅の花の咲く、小路(こみち)を通り抜けてゆく――その華奢な足元をそぼ濡らす露、それを必死に振り分け振り分けして越えてゆく夕霧の――その苦しさ、辛さ、その振り切れぬ切ない恋の思いを、その顔を――深く深く熊谷笠(くまがえがさ)に隠し隠して、只管(ひたすら)に人目を偲び、その美しき面(おもて)をも、ただただ、隠し隠しゆく、その袖――その姿こそ――「怖さ」という外の言葉にては言い表わせはぬ、いやさ! 化け物にては、これ、御座いましょうぞ!……

といった感じか。大方の御叱正を俟つ。]

 

2017/06/19

「想山著聞奇集」序(二種)+凡例+全目録/「想山著聞奇集」全電子化注完遂

想山著聞奇集 序

 

日月星辰。晝夜晦明。造次顚沛。天下之人。仰觀而俯察焉。而至其不測之變。則或昧焉。山川草木。鳥獸轟魚。跋渉往還。視聽而畜養焉。而至其不測之化。則或惑焉。神佛感格。善惡報應。華竺經傳。紀述而贊揚焉。而至其不測之應。則或疑焉。蓋疑者。其知識之劣也。惑者。其視聽之狹也。昧者。其問學之淺也。三好想山。篤學而博渉。性敏而善書。夫書之爲道也。摹範天地陰陽。以傳造化不測之祕。乃在自己神腕之間。故至事物休咎。因果報應之迹。無有不寸管一揮。掌握其霸柄者。謂出其優遊漁獵。硯山墨海之餘力。而然者非哉。今方就其所纂述之異聞奇觀。數百千條之中。特抄錄核實著明。而近人情者。爲五十卷。題曰著聞奇集。集成請序余。余告想山曰。佳矣。此篇隨聞隨筆。故不緣飾文之浮華。靡麗之態。倣事實達意之法。而天地之恢宏。萬物之繁衍。報應之微密。莫不細論詮考。纖悉著明矣。莫道俚語猥駁。蕪辭冗長。不足釆觀焉。世人因此。擴充其見聞覺知。則昧者明矣。惑者決矣。疑者信矣。善哉想山。不啻筆鋒入于木。著書亦上梓。自非學識老錬。詎得能然耶。每事輯錄。絲解縷折。似微而著。然則。其題之於著聞。名固不空。或曰。想山腕力有神。此篇總括造化奇機。遊戲書道三昧者。豈不其然哉。豈不其然哉。

  嘉永二年歳次己酉嘉平月

          方外子無黨社主僧允識

         無黨社主〔印〕執中〔印〕

 

[やぶちゃん注:原典も句点のみが打たれたものである。前半部分は一部、私にはよく訓読出来ない(無論、意味も分らない)箇所があるが、力技で強引に訓読しておく。大方の御叱正を俟つ。想山の文章ではないこの序文に読解の時間を割かれるのは私には徒労であるので殆んど注を附さない。悪しからず。なお、この筆者、方外子無党社主僧允というのは底本の冒頭の解説によれば、尾張藩藩士深田精一かとも思われるものの、詳らかでないとする。柱の下に「精□」(二字目の篆書は私には判読出来ない)落款風のものがあるが、判らぬので示さなかった。

   *

○やぶちゃんの書き下し文

日月星辰。晝夜晦明。造次顚沛(ざうじてんぱい)[やぶちゃん注:咄嗟の場合と躓いて倒れる場合で、転じて僅かな時間の譬え。「論語」の「里仁篇」の「君子は食を終ふる間も仁に違(たが)ふこと無し。造次にも必ず是(ここ)に於いてし、顛沛にも必ず是に於いてす」に基づく。]。天下の人、仰ぎ觀(み)、而して俯察す。而れども、其の不測の變、至れり。則り、或いは昧(まい)。山川草木・鳥獸轟魚、跋渉、往還するを、視聽きして畜養す。而れども、其の不測の化、至れり。則ち、或いは惑ふ。神佛の感格、善惡の報應、華竺の經の傳へ、紀述して贊揚す。而れども其不測の應、至れり。則ち、或いは疑ふ。蓋し、疑ふ者は、其知識の劣れるなり。惑ふ者は、其の視聽の狹(せば)きなり。昧なる者は、其の問學の淺きなり。三好想山、篤學にして博渉、性、敏にして善く書す。夫れ、書の爲道たり。天地の陰陽を摹範(もはん)[やぶちゃん注:「摹」は「模」の異体字。]して、以つて造化不測の祕を傳ふ。乃(すなは)ち、自己神腕の間に在り。故に事物の休咎(きうきう)[やぶちゃん注:幸いと禍い。]に至れり。因果報應の迹、寸管の一揮せざる有る無し。其の霸柄を掌握する者は、謂はく、其の漁獵の優遊に出づ。硯山墨海の餘力。而れども、然(しか)る者は非かな。今、方(まさ)に其の所に就きての纂述の異聞奇觀、數百千條の中(うち)、特に抄錄して核實著明たり。而も近人の情(なさけ)ある者、五十卷と爲(な)す。題して曰く、「著聞奇集」。集、成りて序を余に請ふ。余、想山に告げて曰はく、「佳なり。此の篇、隨聞隨筆。故に飾文の浮華は緣せず。靡麗(びれい)の態、事實達意の法に倣(なら)ふ。而して天地の恢宏(かいこう)[やぶちゃん注:大きく広々としていること。]、萬物の繁衍(はんえん)[やぶちゃん注:殖え広がること。]、報應の微密(びみつ)[やぶちゃん注:義は「極めて細かいこと」であるからありとあらゆる小さなことにまでも応報の理(ことわり)が働き、漏れがないことであろう。]。細論詮考せざる莫(な)し。纖悉(せんしつ)[やぶちゃん注:繊細にして周到なこと。]著明たり。」と[やぶちゃん注:もっと後まで直接話法かも知れぬ。]。俚語、猥駁(わいばく)なるは道(い)ふ莫し。蕪辭(ぶじ)[やぶちゃん注:「乱雑で整っていない言葉」。前の「俚語、猥駁なる」と合わせて、自分のここで言っている賞讃の文章を卑下して言っているものと思われる。]は冗長たり。釆觀(べんかん)するに足らず[やぶちゃん注:意味不詳。]。世人、此れに因つて、其の見聞・覺知を擴充し、則ち、昧なる者は明たり、惑ふ者は決たり、疑ふ者は信たり。善(よき)かな、想山。啻(た)だ、筆鋒、木に入らず。著書、亦、上梓す。自ら、學識・老錬に非ず。詎(いづくん)ぞ能く然るを得るや。每事の輯錄、絲解縷折(るせつ)、似るは微にして著す。然らば則ち、其れ、之れに於いて「著聞」と題す。名、固くして空ならず。或いは曰はく、想山、腕力、神(しん)、有り、此の篇、括造化の奇機を總べて、書の道三昧に遊戲する者。豈に、其れ、然らざるや。豈に其れ然らざるや。

  嘉永二年の歳(とし)、己酉嘉平月(かへいげつ)に次(ついで)る

      方外子無黨社主僧允、識(しる)す

          無黨社主〔印〕執中〔印〕

   *

「嘉永二年」一八四九年。想山は翌嘉永三年三月六日に病没する。

「次(ついで)る」この序文を編した。

「嘉平月」旧暦十二月の異称。]

 

 

 

近著勸懲之書者、都鄙不爲少矣、然多靈誕妄説、唯驚一時之耳目耳、今閲想山著聞集、研究其事物、皆記其名實、可謂勤焉、若夫強盜奸賊雖不恐仁義之教訓、亦竊有懼天地妖薛之應報、而克省其身者也、豈於世教不無少補哉、因書此事以塞請序之責云。

  嘉永己酉孟夏  尾張 佐々木庸綱撰

       佐々木庸綱〔印〕鷦鷯〔印〕

 

○書き下し文

近ころ、勸懲の書を著す者、都鄙、少し〔と〕爲(せ)ず。然れとも、靈誕妄説、多く、唯、一時の耳目を驚かすのみ。今、想山著聞集を閲(けみ)するに、其の事物を研究し、皆、其(その)名實を記(しるし)、勤(つとめ)たりと謂ふべし。若(もし)、夫れ、強盜・奸賊は不仁義の教訓を恐(おそれ)ずと雖(いへども)、亦、竊(ひそ)かに天地妖薛(ようせつ)[やぶちゃん注:意味不詳。]の應報を懼(おそ)るること、有り。克、其(その)身を省(かへりみ)る者なり。豈に世教(せいきやう)に於いて少しき補ひ無にはあらざらん、因て、此(この)事を書(しよし)、以て序(じよの)請(せい)の責(せき)を塞(ふさ)ぐと云(いふ)。

  嘉永己酉孟夏  尾張 佐々木庸綱撰

       佐々木庸綱〔印〕鷦鷯〔印〕

 

[やぶちゃん注:まず原典を白文で示し、そこに附された訓点に従って書き下したものを後に附した。句読点は底本にあるものをオリジナルに変更・追加した。〔 〕は訓読上、不全となると思われる箇所に私が入れ込んだものである。難読と思われる箇所に推定で読みを附した。なお、筆者佐々木玩易齋庸綱(やすつな)は、底本の冒頭解説によれば、想山の大師流書道の師で、京の人。九条家に仕えた後、尾張名古屋に移って文化から文保の間(一八〇四年から文政を挟んで一八四四年までの四十年間)、『書を以って聞こえた。尾張の支藩、美濃国高須の松平義建(四谷家)』(よしたつ 寛政一一(一八〇〇)年~文久二(一八六二)年:美濃高須藩(旧石津郡高須(現在の岐阜県海津市))第十代藩主。藩主就任は天保三(一八三二)年)『が、これを江戸に招こうとしたが、庸綱は、老齢を故として固辞し、代わりに高弟の想山を推した』とある。想山には『門人が多く、俸禄三十石程度の下級の士とはいえ、中級の生活を保てたようで、庸綱に対しても、師恩に感じて、長く仕送りを怠らなかったといわれる』とある。]

 

 

 

[やぶちゃん注:以下の「凡例(はんれい)」は原典では全体が一字下げであるが、途中に出る柱の「一」は一字目に配されてある。]

 

  凡例

、若年より、聞(きく)所、見る所、千態萬躰(ばんたい)、數千箇條(すせんがでう)に及ぶ。然りといへども、年月(ねんげつ)を經るに隨ひ、次第に忘却し、記臆(きおく)[やぶちゃん注:ママ。]、空敷(むなしく)、臟腑に腐爛す。故に鄙陋(ひろう)[やぶちゃん注:見識などが浅はかであること。]を顧ず、如何樣(いかやう)とも筆記なし置(おき)、子孫にも示し、同友にも告(つげ)まほしく思ふ而已(のみ)にて打過(うちすぎ)ぬるも、又、久し。勿ㇾ謂今日不ㇾ學而有來日、勿ㇾ謂今年不ㇾ學而有來年、日月逝矣、歳不我延、嗚呼老矣、是誰之愆と、古人の誡(いましめ)も有(あり)。僅(わづか)に限り有(ある)齡(よはひ)をもて、限りなき緩怠(くわんたい)をなして、其儘に擱(さしをかん)([やぶちゃん注:原典は「閣」底本の補正注で特異的に訂した。]も殘(のこ)り多しと、去(さんぬ)る乙未(きのとひつじ)年[やぶちゃん注:天保六(一八三五)年。]の秋、頻りに思ひ立ち、奇談・雜談(ざつだん)・祕談・深祕談(しんぴだん)の四條(しでう)となして書記(しよき)なし置(おか)んと、筆に任せて草稿なし、漸(やうやう)、五十卷(くわん)に及びたり。同志の人々、右草稿を閲(けみ)して、此書は閑窓の眠(ねむり)を覺(さま)す而已(のみ)に非ず、童蒙(どうもう)、又は愚夫愚婦(ぐふぐふ)を善道へいざなふ教化(けうけ)にも成(なり)ぬれば、校訂して同友に示すべしと、あながちに勸めらるゝにまかせ、寸暇に隨ひ、追々校訂なして、綴り上置(あげおき)ぬ。

[やぶちゃん注:「勿ㇾ謂今日不ㇾ學而有來日、勿ㇾ謂今年不ㇾ學而有來年、日月逝矣、歳不我延、嗚呼老矣、是誰之愆」原典の訓点に従って書き下す。

   *

謂ふ勿(なか)れ、今日(こんにち)、學ばずして、來日、有りと。謂ふ勿れ、今年、學ばずして、來年、有りと。日月(じつがつ)逝(ゆ)く。歳(とし)、我れに延(の)びず、嗚呼(あゝ)、老いたるや、是れ、誰(たれ)が愆(あやまち)ぞ。

   *

これはかの宋の朱熹の名文「勸學文」(學を勸むるの文)である。]

 

一、人の話を聞に、正説(しやうせつ)也と云(いふ)も、十に七、八迄は、話傳(はなしづた)えの違ひ、又は聞取違ひの誤謬(ごべう)と思はるゝも多く、或は定(さだ)か成(なる)話にても、首尾連續せずして、筆記なし難きなども多く、其外、奇なる事を好めるは世俗の常なれば、珍異を語るに、辯舌を以て面白く語りなし、甚敷(はなはだしき)に至りては、虛(きよ)を添(そへ)て、有(あり)し事の樣に言傳(いひつたふ)る族(やから)も有(あれ)ば、實(まこと)に取捨(しゆしや)六ケ敷(むつかしく)、纔(わづか)に實事に相違なきと思ひて記錄せしは、十が一(いつ)なり。其纔の一にも、首尾不決(ふけつ)の事、又は十分に貫き兼(かぬ)る事もあるまゝ、猶、實事と相違の事も多かるべし。古人も夫(それ)を厭ふて、記し置(おか)ずして、勸善懲惡とも成(なる)べき譚(はなし)の、其場限りに滅却せしも多かるべし。又、急度(きつと)、教誡(けうかい)の龜鑑(きかん)とも成べき事にても、傳聞の誤り有(あら)ん事を恐れて、其記(き)なくして、後世へ傳らざるも多からん。倩(つらつら)、此事を思慮するに、眞實のことなれども、疑は敷(しき)を恐れて記(しる)さずして、後世(こうせい)へ傳えざるがよきか、疑は敷(しき)ながらも、記し置(おき)て傳ふるがよきかと、兩端(りやうたん)を考ふるに、記し殘し置(おき)なば、用捨(ようしや)は見る人の心にあり。或は又、後年にも其通りの事の出來(でき)て、漸(やうやう)と後(のち)の證(しよう)と成(なる)も有(ある)べければ、記し置(おく)かたや、勝(まさ)るらんとて、斯(かく)は記し得(え)たり。

[やぶちゃん注:「龜鑑」「龜(亀)」はカメの甲を焼いて占った亀卜を、「鑑」は実相を映し出す「鏡」の意。行動や判断の基準となるもの。手本。模範。]

 

一、抑(そもそも)、古來變異を語らざるは、一つの心得有(ある)事と聞置たり。靈應(れいおう)奇怪は自然の儀(ぎ)にして、再びせよ迚(とて)、出來(でき)ることならず。故を以、變怪を見て狐疑(こぎ)する人多く、更に容(いれ)ざる人も有。又、不思儀[やぶちゃん注:ママ。]を見て能(よく)感伏(かんぷく)なし、幽明三世(いうめいさんぜ)の理(ことはり)迄、悟る人もあり。左(さ)すれば、怪異も又、道を開く事、擧(あげ)て計(かぞ)へ難く、其身(み)を陷(おとしいれ)しも、またまた多かるべし。愼むべき事歟(か)。人、是を眞(まこと)とせば其通り、虛(うそ)とせば其通り、強(しい)て論ずるに非ず、見る人の意(こゝろ)に任(まか)するのみ。呉々(くれぐれ)も、唯(たゞ)此篇は、聞きく)所見る所の違はざらん事を恐れて、文飾なくしるせし而已(のみ)。

[やぶちゃん注:「狐疑」狐(きつね)は疑い深い性質であるとするところから、相手のことを疑うことの意。]

 

一、此書は思ひ出るまゝ、又は人の語るを聞(きく)まゝ、或は古人の筆記を見るまゝに、記し置(おく)も多く、因(よつ)て時代前後をわかず、混亂にして、殊に十餘年來、書置(かきおき)たるを、前後不次第に綴り上(あげ)、其儘、册子(さうし)となしたる也。元來、此書は、勸善懲惡の爲、子孫に而已(のみ)、示さんと思ひおこして、筆記なしたるなり。去(さ)るに仍(よつ)て、此書の文躰(ぶんてい)は、古今著聞集(ここんちよもんしふ)を擬(ぎ)して書(かき)たるにも非ず、又、新著聞集に似せて書(かき)たるにも非ず、素(もと)より文勢をみがきて筆(ひつ)せしにも非ず、唯、俗通(ぞくつう)而已(のみ)を思ひて深く意を加へず、時に隨ひ筆に任せて寄集置(よせあつめおき)たる迄の事にて、敢(あへ)て著述せしと云(いふ)書に非ず。故を以、勿論、博識の君子に示すべき書に非ざれば、文面等の拙(つたな)きを笑ひ玉ふ事なかれ。

[やぶちゃん注:「古今著聞集」鎌倉中期の説話集。全二十巻。橘成季編で建長六(一二五四)年成立。平安中期から鎌倉初期までの主に日本の説話約七百話を神祇・釈教・政道など三十編に分けて収めてある。

「新著聞集」寛延二(一七四九)年に板行された説話集。日本各地の奇談・珍談・旧事・遺聞を集めた八冊十八篇で全三百七十七話から成る。

「俗通」ごく通俗の談話。]

 

一、此書は、元來、一つとして虛談と思ふは書載(かきのせ)ずといへども、猶、其所(そのところ)に、噓(いつはり)を云(いふ)人にあらず、或は慥成(たしかなる)事、又は實事也などゝ云置(いひおく)は、猶更、其事の妄(もう)ならざるを示さん爲なり。且、又、話の義理、筋道の外、情態等に至るまで、煩雜を厭はず、其儘に書記(かきしる)せしは、其實(じつ)の貫通(くわんつう)を希(こひねが)ふ老婆心也。よつて鄙俚(ひり)重複(ちようふく)を省く事なし。

[やぶちゃん注:「鄙俚」表現や・内容などが田舎染みていて、賤しいこと。「野鄙」に同じい。]

 

一、今は昔語(むかしがた)りと成居(なりゐ)たる事、或は古人の筆記成置(なしおき)たるはなし、又は聞傳え置たる話等は、今、是を、再應(さいおう)、訂正せんと欲すれども、如何(いかゞ)とも力の及ばざる事は、捨(すて)て誌(しる)さゞる方(かた)、まさるべけれども、其事を厭ひて、よき話の夫(それ)なりに消失(せうしつ)せんも殘り多くて、書記したるもまゝ有(あり)。見る人、其(その)心し給へ。

 

一、此書、纔の一事といへども、意(こゝろ)の及ぶ丈(だけ)は訂正して、事實に齟齬(そご)せざる樣に記(すり)し置(おく)なり。然(しか)れども、事、多端(たたん)にして、理(り)も又、極(きはま)りなければ、其事實と違ひ居(ゐ)る事も有べし。是等の分(ぶん)を、自餘(じよ)の條に及ぼし、悉く取(とる)にたらぬと咎むまじ。

 

一、土俗の口碑は、惣(すべ)て證(しよう)とするに足(たら)ずとも云難(いひがた)きか。朝(てう)にすたれて野(や)に求むともいへば、農夫(のうふ)等の茶呑話(ちやのみばなし)といへる中(うち)に、採用すべき事、少(すくな)からざれば、夫等(それら)の事をも、其儘に記し置ぬ。兎角、此書は自意(じい)を加へず、人の咄(はなし)に任せて、有(あり)の儘(まま)に記すを第一とす。仍(よつ)て田夫野人(でんぷやじん)の鄙辭(ひじ)をも、違はぬ樣に書取(かきとる)を、却(かへつ)て主意とす。

 

一、人名地名等を記すに、髣髴(ほうふつ)として分り兼(かぬ)る分、又は、其人其名の正敷(まさしく)しれ居(ゐ)たるをも、或人、又は何某(なにがし)、或は其の村などゝ記し置たるもあり。且、文字のしれ兼(かぬ)るは、かな文字(もんじ)にて記(しる)し置(おく)もあり。是、闇推(あんすゐ)のたがひを恐るればなり。

[やぶちゃん注:「闇推」根拠のない問題を生ずるかも知れぬような憶測邪推。]

 

一、は尾陽(びやう)の産(さん)故、册中(さつちう)に、我(わが)云々(うんぬんん)と書置たるはみな本國の事なり。中年已後(いご)、東都に住(ぢゆう)する事、又、久し。故を以、江戸の事も、又、多し。仍て國を名乘(なのら)ずして、直(ぢき)に地名を云(いふ)ものは、皆、江戸の事なり。

 

一、は無畢管見(わんけん)、博(ひろ)く書を見されば、先人の論説等(とう)、有(ある)事を辨(わきま)へず、又、古來同樣の談有(ある)事等(とう)も知兼(しりかね)たり。然共(しかれども)、適(たまたま)、見及べるをは、其似類(じるゐ)を擧(あげ)て、後鑑(こうかん)に備(そなふ)るもあり。且、東遊記・西遊記、又は著聞集の類(るゐ)は、人々の座右に有(あり)て知居(しりゐ)る書なれども、童蒙の分り安き爲に、引書(いんしよ)なし置(おく)も有(あり)。強(しい)て意を加(くはふ)るにあらず。

[やぶちゃん注:「東遊記・西遊記」既に本文で示した橘南谿のそれ。]

 

一、猶、胸中に記臆する奇談雜談等(とう)、少(すくな)からず。且、日々夜々(にちにちやや)、聞(きく)所の珍異も量(はか)りなければ、已後も屢(しばしば)書記(しよき)なすべしと思へども、勤務の餘暇多からざるうへ、自己の俗事、又、多忙。しかのみならず、外(ほか)に志す道も有(あり)て、此册の毛擧(まうきよ)は更に遑(いとまあら)ずといへども、是も又、が癖(へき)にして、思ひとゞめ難し。嗚呼(あゝ)、勞を己(おのれ)に求(もとむ)るも、所謂、因緣にや侍らん。

  嘉永二年【己酉(つちのととり)】夏

  想山齋主人(しやうざんさいしゆじん)誌(しるす)

[やぶちゃん注:今までも何度も述べてきたが、三好六左衛門想山(しょうざん)は尾張藩右筆(ゆうひつ)であった。「外に志す道」というのは個人としての大師流の書家としての精進のことと思われる。最後の書名は原典ではクレジットの下にある。

「嘉永二年」前にも注したが、これが本当の最後の最後の注なので記しておくこととする。一八四九年。想山は翌嘉永三年三月六日に病没する。]

 

 

 

抑(そもそも)靈驗神異の第一は恐多(おそれおほ)くも太神宮(だいじんぐう)の御蔭參(おかげまゐ)りの一條にて、御幣御祓[やぶちゃん注:原本は「拔」。底本の訂正注で特異的に訂した。]の諸國へ降らせ給ふ事、初(はじめ)、種々(しゆじゆ)の奇瑞は申迄もなく、且、國々の人民擧(こぞつ)て參詣なし、惣(すべ)て人氣(じんき)の勇み立(たち)て、攝待施行(せぎやう)等(とう)をなせし奇珍(きちん)等(とう)を、聞及ぶ丈(だけ)、悉く集錄し給ひて、是を奇談の卷首として、五卷となし置給ひつれども、思ふ子細有(あり)て、右の五卷は續ひて上木(じやうぼく)なさばやと暫(しばし)擱(さしを)[やぶちゃん注:以前と同様に原典は「内閣」。やはり底本の訂正注に従って訂した。]き、こたびは、其次册(じさつ)の方(かた)より、斯(かく)上木なし畢(おはんぬ)。

  庚戊(かのえいぬ)孟春

       靑山直意(あをやまなほもと)

 

[やぶちゃん注:最後の想山の弟子で本書刊行の実質的な功労者であった青山直意の署名は原典ではクレジットの下にある。

「太神宮の御蔭參りの一條」に始まる原形の部分初巻パート五巻が存在したというのである。何度も言うように、我々は、かく本文でも語れらる、六巻目以下の膨大な幻を最早、見ることは出来ないのである。
 
 以下、目録を示す。本来ならば、全電子化注を終わっているので、総てにリンクを張ればよいのであるが、気持ちの上でそんなことをする気になれぬほど、この電子化が終わったことに残念さを抱いている。済まないが、ブログ・カテゴリ「怪談集」を開いて当該表題の記事を探してお読み戴きたい。悪しからず。]

 

 

 

想山著聞寄集卷の壹

   目錄

一出雲大赦遷宮の時、雲出る事

一天狗の怪妙幷(ならびに)狗賓餠(ぐひんもち)の事

一鏡魚(かゞみうを)と名付たる異魚の事

一蛸藥師靈驗の事

一頽馬(だいば)の事

一菖蒲(あやめ)の根、魚と化(け)する事

一毛(け)の降(ふり)たる事

一白蛇(じや)靈異を顯したる事

一狐の行列讎(あだ)をなしたる事

  附火を燈(とも)す事

一人の金を掠取(かすめとり)たる報ひ、螢にせめ殺さるゝ事

  附 虫ぎらひの事

一吉夢(きちむ)、應(おう)を顯す事

 

 

 

想山著聞寄集卷の貮

   目錄

一品川千體荒神尊、靈驗の事

一猫のもの云(いひ)たる事

一海獺(かいだつ)昇天するを打留(うちとむ)る事

一山𤢖(やまをとこ)の事

一風に倒れし大木、自然と起たる事

一剜拔舟(くりぬきぶね)掘出(ほりいだ)したる事

一鎌鼬(かまいたち)の事

一馬の幽魂殘りて嘶(いなゝ)く事

一辨才天、契りを叶へ給ふ事

 附 夜這(よばひ)地藏の事

一麁朶(そだ)に髮の毛の生(はえ)たる事

一神佛の靈驗にて車に曳(ひか)れて怪我なかりし事

 

 

 

想山著聞寄集卷の參

   目錄

一元三大師(ぐわんざんだいし)誕生水、籾(もみ)の不思議の事

一蟇(ひき)の怪虫なる事

一戲(たはむれ)に大陰囊(おほぎんたま)を賣(うり)て其病氣の移り替りたる事

 附 大陰囊の事

一狩人(かりうど)、異女に逢(あひ)たる事

一七足(しちそく)の蛸、死人を掘取(ごりとる)事

一天色(てんしよく)、火の如く成(なり)たる事

一油を嘗(なめ)る女の事

一金を溜たる執念、死て後(のち)、去來(さりかね)たる事

 幷、陰盜(いんたう)、現罸(げんばつ)を蒙りたる事

一いはな、坊主に化(ばけ)たる事

 幷、鰻(うなぎ)同斷の事

一雹(ひよう)の降(ふり)たる事

 

 

 

想山著聞寄集卷の四

   目錄

一日光山籠り堂不思議の事

 幷、氷岩(こほりいは)の事

一大名の眞似をして卽(そく)罰の當りたる事

一大い成(なる)蛇の尾を裁(きり)て崇られたる事

 幷、強勇(がうゆう)を以、右(みぎ)祟(たゝり)を靜(しづめ)たる事

一美濃國にて熊を捕(とる)事

一死に神の付たるといふは噓とも云難(いひがた)き事

一信州にて、くだと云(いふ)怪獸を刺殺(さしころし)たる事

一雁(がん)の首(くび)に金を懸(かけ)て逃行(にげゆき)たる事

 幷、愚民の質直(しちちよく)、褒美に預りたる事

一耳の大い成(なる)人の事

一龍(りよう)の卵、幷、雷(らい)の玉(たま)の事

一古狸(ふるだぬき)、人に化(ばけ)て來(きた)る事

 幷、非業(ひごふ)の死を知(しり)て遁(のが)れ避(さけ)ざる事

一西應房(さいおうばう)、彌陀如來の來迎(らいがう)を拜して徃生(わうじやう)をなす事

一美濃國須原神社祭事不思議、幷、靈驗の事

 

 

 

想山著聞寄集卷の五

   目錄

一柳谷(やなぎだに)觀音利益(りやく)の事

一蛇の執念、小蛇を吐出(はきいだ)す事

一天狗に連行(つれゆか)れて鐡砲の妙を得來(えきた)りし者の事

一にち蜂(ばち)の酒、幷、へぼ蜂(ばち)の飯(めし)の事

 附 蜂起(ほうき)の事

一馬の言云(ものいひ)たる事

一狸の人と化(ばけ)て相對死(あひたいし)をなしたる事

一磬石(けいせき)の事

一蚫貝(あはびかひ)に觀世音菩薩現(げん)し居(ゐ)給ふ事

※蚯蚓(はねみゝず)、蜈蚣(むかで)と變ずる事、幷、蜊(あさり)、蟹(かに)と化(け)する事

[やぶちゃん字注:「※」=「虫」+「發」。本文のそれも同じ。]

一縣道玄(あがただうげん)、猪を截(きり)たる事

一鮟鱇(あんかう)の如き異魚を捕(とらへ)たる事

一猫俣(ねこまた)、老婆に化居(ばけゐ)たる事

一萬木(ばんぼく)、柊(ひゝらぎ)と化(け)する神社の事



 
[やぶちゃん注:以上を以って「想山著聞奇集」の電子化注を総て終わるが、ヘルン文庫版の原典画像の存在の発見と入手が遅れたため、全体の3分の2近くの読みが私の推定になっていて、原典と異なる(特に「居」を想山は殆ど総てを「ゐる」と読んでいるのを、私は前後の状況から「をる」と推定読みしていること、想山は「有て」を「ありて」「あつて」と二様に読んでいることが後半の読み確認で判明している)。これらの原典未検証部分は後日、必ず行って修正する予定である。]
 
 
 

「想山著聞奇集」 跋(二種)

 

 

三好想山居士。篤奉三教。方外之友也。以善書聞。交道極廣。奇談異事。聞而識之。月益歳多。恐其久而遺忘也。乃錄爲數十册。名曰著聞奇集。談雖俚俗。事係報應。意欲留之以爲子孫勸懲之資也。以爲談也事也。已謂之奇異。世不常有。故人徃不疑則謗。能信焉者鮮矣。今居士必取其的證。詳其顚末。其地其時。鑿有徴。不墮浮虛無根之言。足以取覽者之信。斯可以爲衆善奉行諸惡莫作之助矣。方今昭代之化。苟有裨益世教者。概皆鏤板公諸世。况此集哉。宜爲天下後世勸懲之資也。奚止爲一家子孫哉。慫惥刻之。居士謙讓不肯曰。是奚足以傳世矣。會其門人濃州苗木藩士靑山子。來訪市谷精舍。因試言之。靑山子喜而從事。固請居士捐貲命工。嗚呼刻與不刻。何預吾事。而諄不已。乃一片利物婆心之所不能已也。亦吾輩之任也。不知者以爲好事。其復何傷。若夫辭藻之末則居士之所不屑也矣。亦奚暇論焉。

  嘉永三歳次庚戌孟春念八日江都鎭護山主蓮堂眞

   蓮堂〔印〕釋諶眞〔印〕字曰義海〔印〕

 

○やぶちゃんの書き下し文

 

 

三好想山居士、篤く三教を奉ず。予、方外の友なり。善書を以て聞(きこ)ふ。交道、極て廣し。奇談・異事、聞て之を識す。月々に益(ま)し、歳々に多し。其の久して遺忘(いぼう)せんことを恐るゝや、乃ち錄して、數十册と爲(し)、名て「著聞奇集」と曰ふ。談、俚俗と雖ども、事、報應に係(かかは)る。意、之を留て、以て、子孫勸懲の資と爲んと欲す。予、以爲(おもへらく)、談なり、事なり。已に之を奇異と謂へは、世に常に有(ら)ず。故に、人、徃々、疑はざれば、則ち、謗(そし)る。能(よく)焉(これ)を信する者、鮮(すくな)し。今、居士、必、其(その)的證を取り、其(その)顚末を詳にし、其の地・其の時、鑿々(さくさく)として徴(しるし)有(あり)。浮虛無根の言に墮(おち)ずして、以(もつて)覽者の信を取るに足れり。斯(かく)、以て衆善奉行(しゆぜんぶぎやう)・諸惡莫作(まくさ)の助と爲(す)べし。方(まさ)に今、昭代(せうだい)の化(くわ)、苟(いやし)も世教(せいけう)に裨益(ひえき)に有る者、概ね、皆、板に鏤(ちりば)めて、諸(もろもろ)を世に公(おほやけ)にす。况や、此の集をや。宜(よろし)く天下後世勸懲の資と爲(す)なり。奚(なん)そ止(とど)めて一家の子孫爲(ため)のみにせんや。慫惥(しようよう)して之を刻ましむれとも、居士、謙讓して肯(がへんぜ)ずして曰(いはく)、「是(これ)、奚(なん)そ、以(もつて)世に傳(つたふ)るに足らん。」と。會々、其(その)門人、濃州苗木藩士靑山子(し)、來(きたつ)て予を市谷(いちがや)の精舍(しやうじや)に訪(たづね)、因て試(こころみ)に之を言(いふ)。靑山子、喜(よろこび)て從事し、固(かた)く、居士に請ひ、貲(し)を捐(えんじ)て工(こう)に命(めい)す。嗚呼(ああ)、刻と不刻と、何(なん)そ吾(わが)事に預らん。而(しかして)諄々(じゆんじゆんとして)已(やま)ず。乃ち、一片利物(りもつ)婆心の已(や)む能(あた)はざる所なり。亦、吾輩の任なり。知ざる者、以て、事を好(よし)と爲(せ)ん。其れ、復(また)、何ぞ傷(きづつか)ん。夫(そ)の辭藻(じそう)の末のごとき、則(すなはち)、居士の屑とせざる所なり。予も亦、奚(なん)そ、論するに暇(いとま)あらん。

  嘉永三歳次庚戌孟春念八日江都鎭護山主蓮堂眞

   蓮堂〔印〕釋諶眞〔印〕字曰義海〔印〕

 

[やぶちゃん注:原典では「跋」の下に篆書の落款があり、それはドシロウトの私には「爲樂衆客三觀來園」といった感じに見えるが、篆書は学んだこともないので、割愛した(底本では省略されている)。この内、「三觀」は確定字で、最も知られたものは天台教学に於けるそれで、「ブリタニカ国際大百科事典」によれば、この世界の差別的現象(諸法)とその本体である絶対的真実(実相)との関わり合いを「空」・「仮」・「中」という三つの在り方(三諦)から観想する「空観」・「仮観」・「中観」を「空仮中の三観」と称するものを指す。「空諦」とは「総ての存在に実体はなく、空である」という真理、「仮諦」とは「総ての存在は縁起せるもので仮有(けう:仮の現象)である」という真理、「中諦」とは『これら「空」と「仮」の二面は不二一如である』という道理を意味する。天台の立場では、この「三諦」は相互に別個のものなのではなく、互いに円融している(円融三諦)ものであり、衆生の一念の心の中には、この真理が融け合って実現していると観じる「一心三観」を天台の究極の境地とするものである。後に注するように筆者は天台僧である。最後の印は最終行記名の直下に打たれてある。電子化では底本の句点のみを残した形をまず示し(因みに、原典は返り点と送り仮名のみ)、後に概ね訓点に従った(底本編者の句点は参考に留め、句読点及び記号は独自に附した)書き下し文を後に示した。読みは原典・底本ともにないが、難読と思われる箇所にのみ推定で歴史的仮名遣で附した。

「三教」ここは神道・儒教・仏教の謂いであろう。

「善書」優れた著作。

「交道」交際。

「遺忘」忘却。

「談なり、事なり」至極尤もな真実の主張であり、明確な事実の記載である。

「的證」確証。的確な証拠。

「鑿々」ここは言辞を的確且つ巧みに用いることの謂いであろう。

「衆善奉行」仏教の基本的な実践徳目を端的に述べた「七佛通戒偈」(釈迦以前に存在したとされる六人の仏と釈迦を含む七人の仏(過去七仏)がともに説いた教えを一つに纏めたとされている偈で「法句經」などに収録されており、上座部仏教及び禅宗に於いては特に重んぜられるもので、禅宗では日常の読経にも取り入れられている)の冒頭にある句。「衆(もろもろ)の善を行ひ奉る」と訓ずる。全体は、

   *

 諸惡莫作

 衆善奉行

 自浄其意(じじやうごい/自ら其の意(こころ)を淨(きよ)くす)

 是諸仏教(ぜしよぶつきやう/是れぞ諸佛の教へなり)

   *

である。

「諸惡莫作」同前。「諸々の惡を作(な)す莫(なか)れ」と訓読する。道徳的な意味に於いて悪しき行為をなしてはならぬという戒め。

「昭代」太平にして繁栄している世。目出度い帝と将軍の治世。

「化」正しき賢人らの教化によって人がよい方向に在る時(今現在)、の謂いであろう。

「世教」世に行われている正統な教え。

「裨益」役立つこと。助けにあずかること。

「後世」これは仏教の「ごぜ」ではなく、事実時間の「こうせい」と読んでいるものと思われる。

「慫惥」慫慂に同じい。

「濃州苗木藩士靑山子」次の彼の跋文と私の注を参照されたい。「子」は尊称。

「市谷(いちがや)の精舍(しやうじや)」この漢文の跋の筆者「江都鎭護山主蓮堂」とは、本文にもしばしば登場した、寛永寺の院家である、市谷自証院、現在の新宿区富久町にある天台宗鎮護山自證院圓融寺の住職である。

「貲(し)を捐(えんじ)て」板行のための資金をも寄付して。

「工」版元。

「嗚呼、刻と不刻と、何(なん)そ吾(わが)事に預らん」反語。出版の功績は偏えに青山氏にあり、私は全く以ってたいしたことはしていないのだ、という謙遜の辞。

「諄々」原義は、「良く判るように繰り返し教え諭すさま」の他に「ぐずぐずするさま」の意味もあるので、ここは以下の叙述から見ると、想山の推敲・執筆が精細を極めた結果、遅々として出版が進まないことを言っていると私は採る。大方の御叱正を俟つ。

「一片利物婆心」ごくごくつまらぬ利益にしかならぬ、ちょっとした私の老婆心。

「已(や)む能(あた)はざる所なり。亦、吾輩の任なり」想山に執筆と出版をことあるごとに急かしたことを指すか。それぐらいが、拙僧の役割に過ぎなかったという、やはり謙遜の辞と私は採る。大方の御叱正を俟つ。

「知ざる者、以て、事を好と爲ん。其れ、復、何ぞ傷ん。夫の辭藻の末のごとき、則、居士の屑とせざる所なり」難読。――出版の経緯を知らない者は、これを以ってしても良しとするべきである。また、そうしたことでこの優れた本書に瑕疵がつくものでも全くない。そこに記された記載の瑣末なもののように見える箇所でさえ、まさに、想山居士はそれを屑(ソウ/くず)とは見做していないのだ、全記載の一言一句までが必須な言辞なのである。――という意味で私は採る。大方の御叱正を俟つ。

「奚(なん)そ、論するに暇(いとま)あらん」本書に対して意地の悪い反論をするような輩とは、私は一切、議論をする意志も余裕もないの謂いであろう。大方の御叱正を俟つ。

「嘉永三歳庚戌に次(ついで)る」「ついでる」の読みは推定でこの跋文を編著したの意で採る。嘉永三年は一八五〇年。

「孟春念八日」一月二十八日。「孟春」は旧暦一月の異称。「念」は「廿」(「廿」の音が「念」に近かったことから中国で宋代から代用字として用いられた)。想山はこの凡そ一ヶ月後の嘉永三年三月六日に病没している

「眞」「しんす」か。楷書で記すの意で採っておく。大方の御叱正を俟つ。]

 

 

 

          苗木藩 靑山直意漢隷

           靜慮〔印〕直意〔印〕

 

不可思議と云ことは、人の心をもて思ひ得がたきをいふ也。直意が入木道の師、想山大人の、年ころ、人のものがたれる、善には福ひし、惡きには禍ひをかふぶるなど、かの不可思議と云べき事どもを、きゝしまにまに書しるし置給ひたる反古どもの若干、卷に及びけるを、人の勸めにまかせられて、子孫勸懲の爲とて、とうてゝ册子につゞり、常にしたしうし給ふ大人達に畫をもこひて、よき册子となし玉ひしを、見る人每に同しくは櫻木に鏤めて、しうねき人の心をもやはらげ、稚きものの道行しをりにもなし玉へかしと、すゝめ玉へど、うけかひたまはぬを、おのれ思ふやう、此書は勸懲のみの事にあらす、三世一貫の書にして、上りたる代のうるはしきにも、をさをさ、おとるましと思へは、有と有、おなじ心の人々にも見せまほしく、後の世にも傳えはやと、ゆるし玉はさるを、あなかちに乞得て、かくは物しつ。

          靑山直意靜慮〔印〕

 

        靑山直意藏

           老少斎藏板〔印〕

            津坂光霽書

            早川可靜刻

  嘉永三年【庚戌】十一月刻成

 

[やぶちゃん注:原典にもルビはない。

「靑山直意」「あほやまなほもと(あおやまなおもと)」。三好想山の門人で美濃国苗木藩藩士(恵那郡の一部と加茂郡の一部を領有していた、江戸時代最小の城持ちの藩。ここ(グーグル・マップ・データ))にして本書の刊行者である。最後のクレジットから、この跋文は想山の没後八~九ヶ月後に記されたものでことが判る。

「漢隷」漢字の書体の隷書の一種で「八分(はっぷん)」と称するもの。横画の終筆を右に撥ね上げるのを特徴とする。

「入木道」「じゆぼくだう(じゅぼくどう)」と読む。日本に於ける書道の異称。平凡社「世界大百科事典」によれば、唐の張懐瓘(ちょう かいかん)撰になる「書斷」に『王羲之、晋帝時、祭北郊更祝版。工人削之、筆入木三分』とあって、この「入木」とは書聖と仰がれる東晋の王羲之が祝版(祭文)を書いたところ、筆力が盛んなため、墨汁が木に沁み込むこと三分(ぶ)にも及んだという故事による。「入木三分」は「筆力の強い」ことを形容し、「入木」は文字を書くことから筆法・書法の意で使われるようになった。なお、宋の呉淑撰の「事類賦」には『逸少驚入木之七分』とあって、一説には「入木七分」とも伝えられたようである、とある。

「善には福ひし、惡きには禍ひをかふぶる」「ぜんにはさひはひし、あしきにはわざはひをかふぶる」で「かふぶる」は「蒙(こうむ)る」の意であろう。

「書しるし」「かきしるし」。

「とうてゝ」ママ。意味不詳。

「櫻木に鏤めて」「さくらぎにちりばめて」と訓じておく。出版して。

「しうねき人の心をもやはらげ」「執拗(しゅうね)き人」で奇談・怪談をはなっから信じない頑固者。ここは「古今和歌集」の紀貫之の「仮名序」の「目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ」をインスパイアしたものであろう。

「道行」「みちゆく」。人生行路の。

「三世一貫」前世(ぜんせ)・現世(げんせ)・後世(ごぜ)を貫いている定めとしての因果応報の理(ことわり)。

「上りたる代」今から遡るところの遙か前代。

「うるはしきにも」優れた書物。

「有と有」「ありとある」。あらゆる。

「老少斎」青山直意の雅号であろう。

「津坂光霽」不詳。「つさかこうせい(さい)」と読むか。

「早川可靜」不詳。「はやかはかせい」と読むか。]

2017/06/18

「想山著聞奇集 卷の五」 「萬木柊と化する神社の事」/「想山著聞奇集」~本文終了

 

 萬木(ばんぼく)柊(ひゝらぎ)と化(くわ)する神社の事

 

Subetehiiragi

 

[やぶちゃん注:左右のキャプション。]

 

南天は木振(きぶり)葉振(はぶり)とも早速(さつそく)に變じ兼(かね)、圖の如く、南天の儘にして、葉には角(かど)を生じて柊(ひゝらき)となり居(ゐ)たり。

 

何ぞ譯有(わけある)事にや、兎角(とかく)、人々、南天を多く納(おさむ)る事にて、纔(わづか)貮三寸より、四、五寸斗(ばかり)の納(おさめ)たての變ぜざる南天も多かれども、其中(そのなか)にも、納(おさめ)て年經(としへ)たるのにや、此(かく)のごとき小(ちひさ)きまゝ、能(よく)柊(ひゝらぎ)の葉と變じ居(ゐ)たるも數珠(すちゆう)あり。

 

 京師(けいし)下加茂(しもがも)の攝社に、土俗、比良木大明神(ひらきだいみやうじん)と稱する社(やしろ)有。疱瘡(はうさう)の事を願ひて、願望成就の後(のち)は、先(まづ)は柊の木を上(あぐ)れども、外の木を奉るものも少からず。然(しか)るに、その木、皆、柊と變化(へんくわ)すると聞及(きゝおよ)び居(ゐ)たり。、天保九年【戊戌】[やぶちゃん注:一八三八年。]彼(かの)地に至りし時、追々、此社(やしろ)へも參詣なし、能々(よくよく)見侍るに、神垣(かみがき)の内、方(はう)五、六間[やぶちゃん注:九メートル強から十一メートル弱。]もありつらん。種々(しゆじゆ)の木有(あれ)ども、皆、柊の葉を生じ、大躰(たいてい)、全木(ぜんぼく)、柊と成(なり)たる多し。其(その)木、椿・玉椿(たまつばき)・木穀(きこく)・山梔子(くちなし)・樫(かし)・柘(つげ)・南天・木犀・白榊(しらしやけ)・正木(まさき)等、過半、柊と變化(へんくわ)なしかけたる分(ぶん)、或は未だ捧(ささげ)たるまゝにて、僅(わづか)に變じ懸(かゝ)りたる分も有。又、植(うえ)たてにて、未だ少しも變じ懸らざる南天・正木抔(など)もありたり。右神垣の内は植(うえ)る場もなく、且、締(しま)りも有(あつ)て入難(いりがた)き故、垣(かき)の外にも、やたらに植行(うえゆく)者も有に、悉く變ぜし也。其内、右神垣の内に、接骨木(にはとこ)の木、三、四株(かぶ)もあり。何れも接骨木の葉を生じて、柊にならざる樣に見請(みうけ)たれども、押合(おしあひ)て植込(うえこみ)たる中なれば、下枝(したえだ)等は、柊と成懸り居しにや、聢(しかと)とは分り兼たり。玉椿・木犀抔は、木振葉振とも柊に似寄(により)たるもの故、變化(へんげ)懸(かゝ)りより見分けがたき程に、よき柊と成居(なりゐ)つれども、山梔子抔は、幹より小枝に至る迄、さつぱりと木振も替り居(お)れ共(ども)、夫(それ)なりに薄き葉も厚めになり、其薄き葉に角(かど)も生(しやう)し居(ゐ)て、段々、柊の葉に變化(へんげ)懸り居れども、幹などの振合(ふりあひ)は其まゝにして、木肌も未だ其儘なるも多し。中にも小(ちひさ)き南天は、別(べつし)て澤山に納め有(あり)て、未だ少しも變じ懸らざる木も多かりしが、元來、南天は木振葉振も大ひに違ひ居(ゐ)けれども、夫成(それなり)に葉に角を生じて、柊の葉となり居たり。其樣子、畫解(かきほど)き難きまゝ、形計りなれども、圖となして顯し置たり。【近世、一種、南天にして、葉形(はかた)は全く柊の如きもの舶來せり、俗に柊南天(ひゝらぎなんてん)と云、また、阿蘭陀南天(おらんだなんてん)共(とも)云いふ。尤(もつとも)、夫(それ)とは別なり。此(この)御社(おやしろ)に參らぬ人、疑ひを生(しやうず)る事なかれ。】隣家(りんか)の鈴木某(それがし)、が上京せしより僅二年及びも早く、彼地へ參詣して見來(みきた)るには、柘榴(ざくろ)有(あつ)て花も盛に咲居(さきゐ)たれども、葉は過半、角(かど)生出(はえいで)、柊と成居たるは、別(べつし)て不思議成(なり)とて、能々(よくよく)慥(たしか)に見來り、驚(おどろき)て咄したるを、聢(しか)と聞留置し故、其木は有(ある)かと、心を留(とめ)て尋ね索(もとむ)れども、柘榴の變じたるは一株(ひとかふ)もなし。最早、悉く變化(へんくわ)して常の柊と成し事と見えたり。呉々(くれぐれ)も、神佛の利益(りやく)は、怪敷(あやしき)迄に量り難きもの也。【伊豆の國小瀨明神(こせみやうじん)の社木(しやぼく)と同談なり、此事は追(おつ)て委敷(くはしく)記す積り。】扨、此神の事は、都名所圖繪等(とう)にも見えず、何の神におはしませしにや、人に尋(たづね)ても、唯、比良木大明神と申事のみ知居(しりゐ)て、近來(きんらい)、京地(きやうち)にては、十社參り抔云(いふ)事、流行(りうかう)なし出(いだ)して、此神も、其内にて、參詣人多く、衆人のしる社(やしろ)なれども、神躰は分り兼たり。仍(よつて)猶、社説の趣を懇(ねんごろ)に聞探(きゝさぐ)るに、祭神(さいじん)は素盞烏尊(すさのをのみこと)にして、延喜式内の御神(おんかみ)にて、則(すなはち)、出雲井於神社(いづもゐお)しんしや)也といへり。大嘗會(だいじやうゑ)・新嘗祭(しんじやうさい)の御神事(ごしんじ)、みあへの祭(まつり)に關(あづか)りおはします御神(おんかみ)にて、地主(ぢしゆ)の神にして、此(この)御社(おやしろ)より西、今の京に至りて、出雲大路(いづもおほぢ)、又は出雲の郷(さと)など申地名も、此社より出(いで)し舊號(きうがう)の由。文德(ふんとく)天皇仁壽(じんじゆ)三年[やぶちゃん注:八五三年。]の夏四月、疱瘡流行、人民疫死(えきし)多く、此時、敕使、此社(やしろ)に參向の砌(みぎり)、神人(しんじん)に神かゝりおはしまし、疱瘡の疫神(えきじん)祓ひ除くべき詫宣(たくせん)おはしまして、比良木大明神と仰ぎ奉るべきよし。比良木は比々良木(ひゝらぎ)、比禮矛(ひれほこ)等(とう)の緣語(えんご)におはしますと、右社(やしろ)の舊記にも見え、又、除夜(じよや)に、人家の門戸(もんこ)の上に柊の枝を差(さし)、疫神(えきじん)を避(さけ)しも、比良木大明神の詫宣なりと申傳へし由。今の世に至りても、小兒(せうに)の疱瘡の憂(うれひ)を除(のぞか)んと、人々、此神に祈願すれば、必(かならず)、其驗(げん)有(あつ)て、疱瘡、輕(かろ)しと也。兎も角も、眼(ま)の當り、萬木(ばんぼく)、柊と變化(へんくわ)するを拜し奉る上は、神慮(しんりよ)の空(むな)しからざる事は申も愚(おろか)にて、いとも尊(たふと)き御事也。

想山著聞奇集(しやうざんちよもんきしふ)卷(まき)の五

[やぶちゃん注:「柊」シソ目モクセイ科オリーブ Oleeae 連モクセイ属ヒイラギ変種ヒイラギ Osmanthus heterophyllus var. bibracteatus。。卵状の長楕円形をした葉の縁には先が鋭い刺となっている(老樹では消失する)。和名はこの刺に触ると「ヒリヒリと痛む」ことから、古語の当該の意の動詞である「疼(ひひら)く・疼(ひいら)ぐ」の連用形「疼(ひひら)き・疼(ひいら)ぎ」が名詞化したものである。柊は「延喜式」で邪気を祓う道具の一つである「卯杖(うづえ)」の材料の一つとして挙げられているように(但し、この起源は中国)、古えから、強靱な生命力と、それに付随する邪気や魔除けの呪力を保持する常緑樹として信じられた経緯がある柊に餅花をつけて神饌としたり、節分に柊の葉の燃え方で一年の気象を占う風習もあり、民間療法でも柊は病気除けとして使われてきた。家居の庭には鬼門除けとして表鬼門(北東)に柊を、裏鬼門(南西)に南天の木を植えると良いとされ、また、本文に「除夜に、人家の門戸の上に柊の枝を差、疫神を避」けたと出るように、節分の夜に柊の枝と大豆の枝に鰯の頭を挿して門戸に飾る邪気払いの風習「柊鰯(ひいらぎいわし)」として今に続く(節分は古くは「追儺(ついな)」「鬼やらい」「儺(な)やらい」などと称しして大晦日に行われた)ウィキの「柊鰯」によれば、『西日本では、やいかがし(焼嗅)、やっかがし、やいくさし、やきさし、とも』称し、『柊の葉の棘が鬼の目を刺すので門口から鬼が入れず、また塩鰯を焼く臭気と煙で鬼が近寄らないと言う(逆に、鰯の臭いで鬼を誘い、柊の葉の棘が鬼の目をさすとも説明される)。日本各地に広く見られる』。『平安時代には、正月の門口に飾った注連縄(しめなわ)に、柊の枝と「なよし」(ボラ)の頭を刺していたことが、土佐日記から確認できる』(やぶちゃん注:これは「土左日記」の最初の方の大湊の泊まりの元日の条で、船中の人々が都の元旦の様子をあれこれと想像する部分。そこに『今日(けふ)はみやこのみぞ思ひやらるる。小家(こへ)の門(かど)の端出之繩(しりくべなは[やぶちゃん注:注連繩。])の鯔(なよし)の頭(かしら)、柊(ひひらぎ)ら、いかにぞ。」とぞいひあへなる』とある)。『現在でも、伊勢神宮で正月に売っている注連縄には、柊の小枝が挿してある。江戸時代にもこの風習は普及していたらしく、浮世絵や、黄表紙などに現れている。西日本一円では節分にいわしを食べる「節分いわし」の習慣が広く残る。奈良県奈良市内では、多くの家々が柊鰯の風習を今でも受け継いでいて、ごく普通に柊鰯が見られる。福島県から関東一円にかけても、今でもこの風習が見られる。東京近郊では、柊と鰯の頭にさらに豆柄(まめがら。種子を取り去った大豆の枝。)が加わる』とある。但し、ここに書かれているような、ある一定区域内に植えた他の樹種が、総てヒイラギに変ずるという現象は、「木犀」(後の「木犀」の注を参照されたい)を除いては、私はあり得ないと思うこれは「比良木大明神」の当時の神官らが、社名にあやかって、こっそりと少しずつ、神垣内の植物(木犀を除く)を柊に巧妙に(あたかも変じたかのように見えるように)植え替えたものであろうと疑っている。

「下加茂(しもがも)」京都市左京区にある、通称、下鴨神社、賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)。

「攝社に、土俗、比良木大明神(ひらきだいみやうじん)と稱する社(やしろ)有」後にも出るが、下鴨神社の境内摂社の一つである「出雲井於神社」(いずもいのへじんじゃ:現行の表記呼称。「井於(いのへ)」とは「鴨川の畔(ほと)り」の意と伝える)で、式内社(しきないしゃ:延喜式内社或いは式社とも称し、「延喜式」の「神名帳」(じんみょうちょう))に記載されている神社のこと。全三千百三十二座・二千八百六十一社の記載を数える)としては「愛宕郡出雲井於神社」と呼ぶ。(グーグル・マップ・データ)。岡戸事務所のサイト内にある本神社のこちらの記載によれば、本社が通称で比良木神社(ひらきじんじゃ)と呼ばれているのは、『本宮の御陰祭(御生(みあれ)神事)が行われていた犬柴社』(御蔭祭と書く。葵祭の前祭で、比叡山山麓にある八瀬御蔭神社より神霊を迎える神事)『と愛宕郡栗田郷藪里総社柊社が同神で、この社に合祀されたため』、『この名がある』とし、『厄年に神社の周りに献木すると、ことごとく「柊」(ひいらぎ)となって願い事が叶うことから「何でも柊」と呼ばれ、「京の七不思議」に数えられている』。『現在の社殿は』、寛永六(一六二九)年の『式年遷宮のときに賀茂御祖神社(下鴨神社)本殿が移築されたもので、下鴨神社の中では最も古い社殿』(天正九(一五六一)年の造り替えで現在の重要文化財)とある。祭神は本文に出る通り、建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)=素戔嗚命である。

「疱瘡(はうさう)」天然痘。私の「耳囊 卷之三 高利を借すもの殘忍なる事」の注を参照されたい。

「椿」ツツジ目ツバキ科 Theeae 連ツバキ属ヤブツバキ(ツバキ)Camellia japonica日本原産で万葉時代から美しい花卉として好まれたが、特に近世には茶道の飾り花として「茶花の女王」の異名を持ち、早くから多くの園芸品種が作られた。但し、ツバキ類の多くの花は離弁花であるにも拘わらず、花弁が一枚一枚に時間差で散ることが少なく、花弁が基部の萼を残したまま、一気に丸ごと落ちる(「落椿」と称する)ものが多く、それが首が落ちることを連想させることから武家では嫌われた経緯があり、現在でも死や急死に繋がるイメージから見舞いの花としては禁忌とされる一面もある。

「玉椿(たまつばき)」椿の美称であるが、ここは前の椿と後に続く樹木名の並列関係から考えて、椿の多様な品種群のあれこれを指すものであろうと思われる。なお、ゴマノハグサ目モクセイ科イボタノキ属ネズミモチ Ligustrum japonicum の別称でもあり、これは葉が確かに椿に似るが、同種は花が全く椿とは異なり、この場面の叙述で、それをわざわざ「椿」と併置して出すかどうかという点で、私はそれに同定するのは留保したい

「木穀(きこく)」これは恐らく「枳殻」で、ムクロジ目ミカン科カラタチ属カラタチ Poncirus trifoliata のことと思う。本種は枝に稜角があり、三センチメートルにも達する非常に鋭い刺が互生する点で、柊の葉の棘との親和性があるからである。

「山梔子(くちなし)」リンドウ目アカネ科サンタンカ亜科クチナシ連クチナシ属クチナシ Gardenia jasminoides強い芳香は邪気を除けるとも考えられるし、庭の鬼門方向に植えるとよいともされ、「くちなし」は「祟りなし」の語呂を連想をさせるからとも言う真言密教系の修法では供物として捧げる「五木」(梔子・木犀・松・梅花・榧(かや:裸子植物門マツ綱マツ目イチイ科カヤ属カヤ Torreya nuciferaの五種の一つ

「樫(かし)」ブナ目ブナ科 Fagaceae の常緑高木の一群の総称。民家の垣根として植えられる主要な樹の一群。常緑樹であることから防風林として、また、燃え難い性質から防火対策ともなったから、霊的樹木としての歴史は古いものと思われる。細かな種群は参照したウィキの「カシ」などを参照されたい。

「柘(つげ)」ツゲ目ツゲ科ツゲ属変種ツゲ Buxus microphylla var. japonica。言わずもがな、神代から霊的呪物たる櫛の主原材とされた。

「南天」キンポウゲ目メギ科ナンテン亜科ナンテン属ナンテン Nandina domesticaウィキの「ナンテンによれば、中国原産であるが、古くに輸入されたものと思われ(現在は西日本や四国・九州に自生しており、これは渡来した栽培種が野生化したものとされている)、庭木として好まれた。江戸時代には『様々な葉変わり品種が選び出され、盛んに栽培された』。また、「なんてん」という発音が「難転」と同音であることから、語呂で「難を転ずる」に通ずるとして縁起の良い木とされて、『鬼門または裏鬼門に植えると良いなどという俗信がある。福寿草とセットで、「災い転じて福となす」ともいわれる。また、江戸の百科事典「和漢三才図会」には「南天を庭に植えれば火災を避けられる」とあり、江戸時代はどの家も「火災除け」として玄関前に植えられた』。『赤い色にも縁起が良く厄除けの力があると信じられ、江戸後期から慶事に用いるようになった』。厠の『前にも「南天手水」と称し、葉で手を清めるためなどの目的で植えられた』とある(下線やぶちゃん)。

「木犀」シソ目モクセイ科オリーブ連モクセイ属モクセイ(ギンモクセイ(銀木犀))Osmanthus fragrans。花が強い芳香を持ち、前に掲げた真言密教の修法の供物「五木」の一つである。しかも、本種はヒイラギとは同属であり、また、実際にヒイラギとギンモクセイの雑種といわれるヒイラギモクセイ(柊木犀)Osmanthus × fortunei なる種が実在する同種は生垣などによく利用されており、葉は大形で縁に鋸歯を多く持っていて、私のような素人が葉見る限りでは、ヒイラギの葉にしか見えない

「白榊(しらしやけ)」この呼称は不詳であるが、取り敢えずは、日本で古くから神事に用いられているツツジ目モッコク科サカキ属サカキ Cleyera japonica を指しているとしておきたい。同種は本州では茨城県・石川県以西・四国・九州に分布するウィキの「サカキによれば、『古来から植物には神が宿り、特に先端がとがった枝先は神が降りるヨリシロとして若松やオガタマノキ』(モクレン亜綱モクレン目モクレン科オガタマノキ属オガタマノキMichelia compressa:和名は神霊を招聘する神木の意の「招霊木(おぎたまのき)」由来)『など様々な常緑植物が用いられたが、近年は』、最も『身近な植物で』、『枝先が尖っており、神のヨリシロにふさわしいサカキやヒサカキ』(モッコク科ヒサカキ属ヒサカキ Eurya japonicaサカキが自生しない関東地方以北での代用品)『が定着している』。『サカキの語源は、神と人との境であることから「境木(さかき)」の意であるとされる』とある(下線やぶちゃん)。

「正木(まさき)」ニシキギ目ニシキギ科ニシキギ属マサキ Euonymus japonicus榊(さかき)がない場合の代用品の一つが本種、柾(まさき)である

「締(しま)り」神域へは入口が閉められてあって安易に立ち入りが出来ないようになっているのである。

「接骨木(にはとこ)」マツムシソウ目レンプクソウ科ニワトコ属ニワトコ亜種ニワトコSambucus sieboldiana var. pinnatisectaアイヌの神を祀る聖具イナウ(御幣様の呪具)の材料とされ、神道の御幣の現在の白い紙の部分は、古くは本種(他にヤナギ・ヌルデ・クルミ・マツなど)の樹皮の一部を薄く削って用いたりし、小正月の飾りにも用いた。魔除けにする習俗は日本以外でも見られる

「柊南天(ひゝらぎなんてん)」「阿蘭陀南天(おらんだなんてん)」キンポウゲ目メギ科メギ亜科メギ連 Berberidinae 亜連メギ属ヒイラギナンテン Berberis japonica。中国南部・台湾・ヒマラヤ原産。小葉は硬く、ヒイラギの葉に似て、鋸歯は棘状となる。

「柘榴(ざくろ)」フトモモ目ミソハギ科ザクロ属ザクロ Punica granatum

「伊豆の國小瀨明神(こせみやうじん)」不詳。お手上げ。識者の御教授を乞う。

「此事は追(おつ)て委敷(くはしく)記す積り」現存する「想山著聞奇集」は本条を以って終わっている。我々は永遠にそれを読むことは出来ないのである。

「都名所圖繪」確認したが、名すら載らない。

「十社參り」この時代の京都のそれは不詳。識者の御教授を乞う。

「大嘗會(だいじやうゑ)」大嘗祭。天皇が即位後に初めて行う新嘗(にいなめ/しんじょう)祭(新穀を神に捧げて収穫を感謝し、同時に来るべき年の豊穣を祈る祭儀)。その年の新穀を天皇が天照大神及び天神地祇に供えて自らも食する(神人共食)、天皇個人としては一代一度の大祭。

「みあへの祭(まつり)」底本の注には『飲食物によるもてなし。したがって、みあへの祭は、大嘗・神嘗』(かんなめ:毎年秋に天皇が新穀で作った神酒と神饌 を伊勢神宮に奉納する祭儀)『など、飲食に関係ある祭りをいう』とあるから、前に私の注した広義の神人共食の供儀を指すように書かれてある。確かに、ここまでの文脈からはそうさらっと読めてしまうのだが、しかし、どうもこれは私には、先に注した、この神社の原形の一つである犬柴社の、葵祭の前祭に於いて比叡山山麓にある八瀬御蔭神社より神霊を迎えるための神事本宮の御蔭祭=御生(みあれ)神事のことをも同時に指すと考えることも大切なのではなかろうかと思われる。

「地主(ぢしゆ)の神」その土地を本来、支配して守っていた神。

「出雲大路(いづもおほぢ)、又は出雲の郷(さと)など申地名も、此社より出(いで)し舊號(きうがう)の由」「月の光」成田亨サイト「出雲井於神社が地図もあって非常に判り易い。必見! それによれば、「出雲」は『玉依姫が子を産んで、隠れ住むようになった森に五色の雲が起こったため出雲路森(いづもじもり)と名付けられたという』。『御蔭神社があるあたりが、高野の森だろうか』とあり、『この出雲路森(いづもじもり)と出雲井於神社(いずもいのへ)の関連があるかもしれない』と述べておられる(但し、神代の話をそのまま現在の地図で理解しようとすると(少なくとも私には)無理が感じられる。しかし、リンク先の考察は面白い。『玉依姫命が、出雲の御子(御毛入命)を生み育てたことによって、御蔭山は、御生山(みあれやま)と呼ぶようになったのかもしれない』という一節は、先の注で私が述べた「御生(みあれ)神事」との絡みでもすこぶる興味深いからである)。

「文德天皇仁壽三年の夏四月、疱瘡流行、人民疫死多く、此時、敕使、此社に參向の砌(みぎり)、神人に神かゝりおはしまし、疱瘡の疫神祓ひ除くべき詫宣おはしまして、比良木大明神と仰ぎ奉るべきよし」この社の記載はないが、「日本文德天皇實錄」(六国史の第五。文徳天皇の治世である嘉祥三(八五〇)年から天安二(八五八)年までの八年間を扱った歴史書。文徳帝の第四皇子で次代の帝となった清和天皇が貞観一三(八七一)年に藤原基経らに編纂を命じ、元慶三(八七九)年に完成)の「卷五」には『仁壽三年四月乙酉【廿五】乙酉。以頗皰瘡染行。人民疫死故。停賀茂祭』とある。

「比良木は比々良木(ひゝらぎ)、比禮矛(ひれほこ)等の緣語におはします」前者は柊の邪気を払う棘を、後者は恐らく「領巾(ひれ)矛」で、儀式用の矛に附けた小さな旗であろう。この旗は元来は呪力を持ったものとして装着されたものであるらしいから、そうした意味での縁語性があると、想山は謂いたいのであろう。]

 

2017/06/17

「想山著聞奇集 卷の五」 「猫俣、老婆に化居たる事」

 

 猫俣(ねこまた)、老婆に化居(ばけゐ)たる事

 

Syouzannekomata

 

 上野の國某(それ)の村に、屋根葺を渡世とする男有。此者、生れ付、律義にして、一人の老母有けるに、事(つか)ふるの切なる事、實(まこと)に珍敷(めづらしき)孝なるものなり。されども貧民の事なれば、かの母を家に殘し置、自身は日々職を勵み、そこ爰(こゝ)と稼ぎ步行(あるき)たり。扨、彼(かの)老母、いつとなく酒好(さけずき)と成(なり)たるゆゑ、每日、歸りには、酒を二合程づゝ土産となし、母を能(よく)いつくしむを樂みとして暮しける。此母、年老たる故にや、誠に心さま惡敷(あしく)、荒(あら)らかに成(なり)つれども、彼(かの)孝心をもつて樂(たのし)む男なれば、いよく至孝(しかう)を盡しけると也。然るに彼男、もはや年もなかば過(すぎ)と成[やぶちゃん注:二十五歳前後から三十歳ほどか。謡曲「敦盛」の「人間五十年」が知られるが、江戸時代を通じての平均寿命は四十五歳前後であった。]、母も次第に老年になりしを留守に置、外(そと)へ計(ばか)り出(いで)て稼ぐ事も不安堵(ふあんど)に思はるべし、且は老母唯一人、留守をさせ置は不自由にもあるべし、孝道を欠(かく)の第一なり迚、人々妻(さい)をむかふる事をすゝめつれど、彼(かの)老母、嫁を取(とる)事を至(いたつ)てきらひたるまゝ、孝行なる男故、先々(まづまづ)母の存念にまかせ置たり。去(さり)ながら、兎角、妻を迎ふる事を人々勸め、母壹人、るすをさせるこそ、却(かへつ)て孝道を欠(かく)道理なり、多くの人の中(なか)には、如何樣(いかやう)にむつかしき母人なりとも、氣に入(いる)べき嫁も有べしなど、餘儀なきすゝめにさとされて、兎も角も、と、人にまかせ置しに、程なく、心さまなどよき女の有たりとて、強(しひ)て人の取持(とりもち)くるゝにまかせ、妻をむかへ取(とり)たるに、かたの如く能(よき)嫁にて、老母に事(つか)ふる事、殘る所なきものなるに、彼(かの)老婆、殊の外、此嫁をきらひて、彌(いよいよ)六(むつ)か敷(しく)なり、日々と無躰(むたい)にいぢむるまゝ、何を云ふも、孝を盡すとてよびたる女なるに、あの樣に母がきらひ給ふを、差置べきに非ずとて、あかぬ中(なか)なれども、妻(さい)に暇(いとま)を遣して後(のち)は、又々以前のごとく、老母壹人暮させけると也。扨、或時、何事か有て、此男の屋根葺仲間、此家へ寄集(よりあつま)りて、酒など給(たべ)てざゝめく[やぶちゃん注:これだと「ざさめく」であるが、「ざざめく」のつもりであろう。「大声をあげて騒ぐ」「賑やかに話す」の意の「さんざめく」「さざめく」は、古くは「ざざめく」であって、「ざざ」は擬声語である。]約束にて、晝後(ひるご)より仕事を休みて酒をたしみ、肴樣(さかなやう)のものも一、二種、拵へ、人々の來るを待受(まちうく)るに、みなみな、何事やらん、俄(にはか)の用事出來(でき)て、一向、人も來らず。手當せし酒も肴も澤山にあまりたるまゝ、常々こそ貧敷(まづしき)ゆゑ、母に存分に酒も得(え)すゝめざりし、けふこそ天より母に與へよとて、か樣に澤山に物の殘りしこそ幸ひなれとて、酒よ肴よ迚(とて)、かの老母を饗(もて)なしけるまゝ、老母もいつになく大悦びにて、酒も數盃(すはい)傾け、肴も悉く喰盡(くひつく)して、心持(こゝろもち)よく臥戸(ふしど)に入(いり)、件(くだん)の男も、そこ爰(こゝ)と跡を片付(かたつけ)て、程なく臥(ふせ)りしに、其内に、何か老母のおかしくうめく音の頻りに聞えけるまゝ、如何(いかゞ)なし給ふにやと、聲を懸(かけ)ても答(こたへ)もなく、何(なに)さま、是は老人のあまりとや[やぶちゃん注:老人であるのに、その節制すべき限度を超えてしまったからであろうか。]、心に任せ、何もかもしたゝめ過(すぐ)されしまゝ、當りたるのなるべし[やぶちゃん注:過飲過食によって食中毒に当たってしまったものでもあろう。]と心を痛め、直(ぢき)に起上(おきあが)りたれど、彼(かの)母、近年、あかりをきらひ出(いだ)して、いつもくらがり故、手さぐりにては何事も行屆(ゆきとゞ)くまじと、早速、火を打(うち)、あかりを燈(とも)して、寢間を見るに、こはいかに、母にてはなく、大ひなる猫の、母の着物を着(ちやく)し、酒に醉臥(えいふし)て、たはひもなきなりに成(なつ)て熟睡せし、その鼾(いびき)の音にて有(あり)たるの也。彼男も誠に膽(きも)を潰しけれど、能々(よくよく)性(せい)の靜まりて分別有(ある)をのこにや[やぶちゃん注:よほど、生まれつきの性質(たち)が冷静沈着で適正確実な判断力を持った男性であったからであろうか。]、倩(つらつら)と其事を思ふに、われは猫俣の子なりしにや、去迚(さりとて)も、此婆(ばゞさ)を見て、是切(これぎり)にも止(やむ)べきに非ず[やぶちゃん注:このまま何の対処もせずに、今まで通りにするわけには到底、参らぬ。]と心を決し、先(まづ)、繩を以(もつて)、彼(かの)猫の兩手と兩足を確(しか)と縊(くゝ)り上(あぐ)るに、天運の盡(つく)る所にや、能々(よくよく)醉(えい)たると見え、猫は少しも覺(おぼえ)なき躰(てい)なり。さて、近隣幷(ならび)村中心安き友達、庄屋・年寄など迄、呼起(よびおこ)し、大勢、棒・熊手の類(るゐ)を持(もつ)て内(うち)へ入(いり)て見るに、猫はまだ寢入居(ねいりゐ)るまゝ、何の雜作もなく其儘に生捕(いけどり)となしぬ。猶、夫(それ)より過去(すぎさり)し事を篤(とく)と考見(かんがへみ)るに、三年餘り以降(このかた)、酒も好(すき)となり、氣分も六(む)つかしく成(なり)、寢るにも明りを嫌ひ、息子と一緒の所に寢るをいやがり、輕(かろ)きもの、寢間(ねま)と云もなく[やぶちゃん注:「寝間」と呼ぶにはあまりに狭いちょっとの場所であるところの。]、一間(ひとま)のみ成儘(なるまゝ)、障子にて仕切(しきら)せ臥(ふせ)りし樣(やう)に成(なり)し故、本(ほん)の親は、全(また)く此猫俣が食(くひ)しにやとて、家の内、そこ爰と、殘る隈なく尋ね求(もとめ)たるに、緣の下、圍爐裏(いろり)のきはに、實(じつ)の老母の骨は、其まゝよせ隱し有し也。故に、此猫こそ母を捕食(とりくら)ひて、其母と化替(ばけかは)り居(ゐ)たるに相違なきとて、人々も彌(いよいよ)驚き、直(ぢき)に近村へも聞えたるまゝ、領主へも訴へ、代官役所へも彼(かの)猫を連行(つれゆき)て、評議も有(あり)て、其後(そののち)、此猫は彼(かの)男へ下さるゝまゝ、心まかせになし申べしとの下知(げち)故、正敷(まさしく)親の敵(かたき)なれば、生置(いけおく)べきにあらずとて、出刄樣(でばやう)のものにて、こなごなにきり碎(くだ)き、彼(かの)村の入口、道の分れ角(かど)に瘞(うづ)め[やぶちゃん注:異界の妖獣であればこそ、異界との接点と考えた、こうした場所に埋めるのが民俗社会の当然の習わしなのである。寧ろ、そうすることでそれが一つにメルクマール或いは防禦の御霊(ごりょう)となって運命共同体としての村を守ることともなるのである。]、猫俣塚(ねこまたづか)と云(いふ)大(おほ)ひ成(なる)石碑を建(たて)しと也。この事、其時に、彼(かの)近村へ行居(ゆきゐ)たりし大工の咄にて聞たり。此大工は同職筋故、彼(かの)葺師(ふきし)も知(しる)者にて、殊に田舍の事故、直(ぢき)に咄の聞(きこ)ゆるにまかせ、馳行(はせゆき)て見來りし由。其猫の形は如何(いかゞ)、昔咄(むかしばなし)の通りの猫俣なりしやなど、具(つぶさ)に尋ねたるに、成程、猫俣にて、大きさは、江戸に居る、格別、大ひなる犬程(ほど)有(あり)。【江戸の犬は、上方の犬よりは一振(ひとふり)大ひなる分も有(ある)事は、人々の知る所也。】去(さり)ながら、犬とは大(おほひ)に替りたるものにて、全(また)く猫故、顏など犬よりは甚だ大(おほき)く、其顏の大きなる恰好は、小き猫の割合ながら、見馴(みなれ)ぬゆゑ、殊の外、きみわるく、手足も犬の五つ懸(がけ)も六つ懸もあり[やぶちゃん注:「懸」は正に「掛け」算の「かけ」で「倍」、というか(単純なそれではデカすぎるので)、五回りも六回りもの謂いであろう。]。是も犬を見たるわりにては[やぶちゃん注:犬を比較観察して述べるならば。]、甚だ不恰好に見え、赤色(あかいろ)の茶と白黑の三色(みいろ)にて[やぶちゃん注:三毛猫であることがここで初めて明かされる。この毛色は性染色体の伴性遺伝で、通常では三毛猫は総てである(ヒトのクラインフェルター症候群と同様の染色体異常か、モザイク、及び遺伝子乗換によって、本来はX染色体上にある当該毛色(正確にはオレンジ(茶)色を支配するO遺伝子)の遺伝子がY染色体に乗り移った際にのみ、が生まれる。その確率は三万匹に一匹程度と言われる。]、尾の長き事、是又、犬とは大ひに相違して、四尺[やぶちゃん注:一メートル二十一センチ。]程も有て、先(さき)、七、八寸[やぶちゃん注:二十二~二十四センチメートル。]程、二つにわれ、股となり居(ゐ)て、酒は其夜、二升及び呑(のみ)たるよし。畜生の淺ましさに、遂には思ひよらぬ美食にこゝろを奪はれ、其身を墜(をとす)に至りしこそ、能々(よくよく)時節の來(きた)るのにや。件(くだん)の大工の見に行(ゆき)たる時は、早(はや)、鎖にて、大極柱(だいこくばしら)に二重(ふたえ)に繫(つな)ぎ、晝夜(ちうや)拾五人づゝ、番をなし居るに、猫は、一向、驚く氣色(けしき)もなく、うそ睡りをして居(ゐ)、見物の人々、立集(たちつど)ひ、彼是(かれこれ)と口囂敷(くちかまびしき)節(せつ)は、細々(ほそぼそ)と目を開きし、其眼中の尖(する)どさは、犬や鳥とは大違ひ、恐ろ敷(しき)眼精(がんせい)にて、尤(もつとも)、殘らず開きし眼(まなこ)は、如何計(いかばかり)か大きく、且、いか樣(やう)にか恐ろしかるべくとこそ思はれたる由。去ながら、驚きもせず、睡(ねむ)り睡りて居る樣(やう)なれども、内心には、隙(ひま)を見て逃出(にげいで)んとせし氣色(きしよく)見えたりとぞ。今にても、彼(かの)地へ至り、御覽なさるべし。此猫俣塚は目前(まのあたり)に有(あり)とて、村の名、件(くだん)の男の名、領主なども委敷(くはしく)聞(きゝ)て、能(よく)覺え置たれども、二十(はた)とせ餘りを經て、かく筆記せしかば、忘れて殘り多し。此事は、いつの年の事かと再應(さいおう)聞(きゝ)つれども、大工も卑賤の者故、年號など覺(おのえ)もなく、私(わたくし)が幾つの年の事と覺えたりと云故、其時年を繰戾し見るに、寛政八辰年[やぶちゃん注:一七九六年。本書の刊行は作者三好想山の没年である嘉永三(一八五〇)年の板行であるが、実は最後に「今嘉永二年」(一八四九年)とあるから、筆録時からは五十三年前となる(そこでは、この聴いたのは至って自分の年が若かった時分であったとも述べてるのであるが、想山の生年が不祥なために上手くその年を示すことが出来ない)。それにしても想山は死の直前まで、精力的に採話や過去の聞き書きの考証を丹念に続けていたことが判る。よろしいか? 本巻は現存する最終巻の第五巻であるが、原本は全五十巻存在し、それに別に「外集」が六冊あったのである。恐るべし! というより、それが失われてしまったことが激しく哀しい!!!]頃の事としられたり。

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が二字下げ、原典では一字下げ。]

 

武州荏原郡(えはらごほり)北澤(きたざは)村森巖寺(しんがんじ)【淡島大明神別當。】可雲(かうん)和尚[やぶちゃん注:不詳。]、此書を閲(けみ)して曰、領主より彼男へ猫を賜ひし時、何ぞ孝行の褒美はなかりしか、猫としらぬは、凡夫(ぼんぶ)の事なれば不覺には非ず、斯計(かくばか)り至孝(しかう)なる者も、世に珍敷(めづらしき)事なれば、定(さだめ)て何か賞(しよう)し品(じな)も有(あり)しかと押量(おしはか)りぬ。此一條は、猫が人と化(ばけ)たる奇事(きじ)のみの事に非ず、他日(たじつ)、孝子傳(かうしでん)を撰(えら)びなば、必(かならず)、加へ入(いる)べき事實也と尋ねらるれども、此咄を聞たるも、今嘉永二年[やぶちゃん注:一八四九年。]よりは三十餘年の昔の事にて、、年若成(としわかなる)時分故、別て是等の事に心付(こゝろづか)ず、聞漏(きゝもら)し置(おき)て殘念至極なり。ものを人に尋(たづぬ)るには、心得有(こゝろえある)べき事也。

[やぶちゃん注:「武州荏原郡(えはらごほり)北澤(きたざは)村森巖寺(しんがんじ)【淡島大明神別當。】」これは現在の東京都世田谷区下北沢付近を想起するが、実際にはこの寺の現存地からは、その南に接する、現在の世田谷区代沢で、寺は浄土宗八幡山森巌寺である。ウィキの「森巌寺(世田谷区)」によれば、『京都知恩院の末寺で』、『明治時代の神仏分離の時期まで、寺の東隣にある北沢八幡宮の別当寺を務めたことから山号を「八幡山」といい、正式の名称は「八幡山 浄光院 森巌寺」という』とあり、『江戸時代の森巌寺は、灸と針供養、そして富士講で名高い寺として知られ、多くの参詣者で賑わったとい』い、『灸は「淡島明神の灸」として知られ』、「江戸名所図会」によれば、『森巌寺の開山孫公和尚は紀州名草郡加太』(現在の和歌山県和歌山市加太(かだ)。医薬の神少彦名命(すくなびこなのみこと)を祀る淡嶋神社がある。ここは全国千社余りある淡嶋神社系統の総本社で、和歌山県内でも屈指の歴史を誇る古社である社名は、日本を創造したと伝えられる少彦名命と大己貴命(おほなむじのみこと:彼もこの社に祀られている)の祠が加太の沖合いの友ヶ島(群島)の内の神島(淡島)に祀られたことに因むとされる)『の人で、常日頃腰痛に苦しんで』いたが、『和尚は淡島明神に熱心に祈願を続けたところ、ある夜の夢に淡島明神が現れて灸の秘法を伝授した。和尚は淡島明神の夢告に従って灸を試し、積年の腰痛はたちどころに完治した』。『和尚はこの霊験に深く感謝し、加太から淡島明神をこの地に勧請して淡島堂を建立した』。『和尚はさらに森巌寺の僧侶たちにも灸の秘法を伝授し、その効能の確かさは世間の評判を呼んで』、『遠くから訪れる人も多かった』。『その名残で森巌寺の山門には、「粟嶋の灸」という看板が今でも掲げられている』とある(下線やぶちゃん)。また、『森巌寺境内には、かつて富士塚が存在し』、その『富士塚は江戸時代に盛んだった富士講のために』文政四(一八二一)年に『造成されたもので、標高はおよそ』四十メートルあったが、『森巌寺の墓地整備計画によって』二〇〇六年に切り崩され、消滅してしまった、とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

 最後にウィキの「猫又」を引いておく。『猫又、猫股(ねこまた)は、日本の民間伝承や古典の怪談、随筆などにあるネコの妖怪。大別して山の中にいる獣といわれるものと、人家で飼われているネコが年老いて化けるといわれるものの』二種があるとする。『中国では日本より古く隋時代には「猫鬼(びょうき)」「金花猫」といった怪猫の話が伝えられていたが、日本においては鎌倉時代前期の藤原定家による『明月記』に』、天福元(一二三三)年八月二日、『南都(現・奈良県)で「猫胯」が一晩で数人の人間を食い殺したと記述がある。これが、猫又が文献上に登場した初見とされており、猫又は山中の獣として語られていた』。但し、『『明月記』の猫又は容姿について「目はネコのごとく、体は大きい犬のようだった」と記されていることから、ネコの化け物かどうかを疑問視する声もあり』、『人間が「猫跨病」という病気に苦しんだという記述があるため、狂犬病にかかった獣がその実体との解釈もある』。また、『鎌倉時代後期の随筆』「徒然草」『に「奥山に、猫またといふものありて、人を食ふなると人の言ひけるに……」と記されている』。『江戸時代の怪談集である『宿直草』や『曾呂利物語』でも、猫又は山奥に潜んでいるものとされ、深山で人間に化けて現れた猫又の話があり』、『民間伝承においても山間部の猫又の話は多い』。『山中の猫又は後世の文献になるほど大型化する傾向にあり』、貞享二(一六八五)年の『『新著聞集』で紀伊国山中で捕えられた猫又はイノシシほどの大きさとあり』、安永四(一七七五)年の『『倭訓栞』では、猫又の鳴き声が山中に響き渡ったと記述されていることから、ライオンやヒョウほどの大きさだったと見られている。文化六(一八〇九)年の『『寓意草』で犬をくわえていたという猫又は全長』九尺五寸(約二・八メートル)とある。『越中国(現・富山県)で猫又が人々を食い殺したといわれる猫又山、会津(現・福島県)で猫又が人間に化けて人をたぶらかしたという猫魔ヶ岳のように、猫又伝説がそのまま山の名となっている場合もある』。『猫又山については民間伝承のみならず、実際に山中に大きなネコが住みついていて人間を襲ったものとも見られている』。『一方で、同じく鎌倉時代成立の『古今著聞集』』(建長六(一二五四)年稿)『の観教法印の話では、嵯峨の山荘で飼われていた唐猫が秘蔵の守り刀をくわえて逃げ出し、人が追ったが』、そのまま、『姿をくらましたと伝え、この飼い猫を魔物が化けていたものと残したが、前述の『徒然草』ではこれもまた猫又とし、山にすむ猫又の他に、飼い猫も年を経ると化けて人を食ったりさらったりするようになると語っている』。『江戸時代以降には、人家で飼われているネコが年老いて猫又に化けるという考えが一般化し、前述のように山にいる猫又は、そうした老いたネコが家から山に移り住んだものとも解釈されるようになった。そのために、ネコを長い年月にわたって飼うものではないという俗信も、日本各地に生まれるようになった』。『江戸中期の有職家・伊勢貞丈による『安斎随筆』には「数歳のネコは尾が二股になり、猫またという妖怪となる」という記述が見られる』。また、『江戸中期の学者である新井白石も「老いたネコは『猫股』となって人を惑わす」と述べており、老いたネコが猫又となることは常識的に考えられ、江戸当時の瓦版などでもこうしたネコの怪異が報じられていた』(下線やぶちゃん。以下同じ)。『一般に、猫又の「又」は尾が二又に分かれていることが語源といわれるが、民俗学的な観点からこれを疑問視し、ネコが年を重ねて化けることから、重複の意味である「また」と見る説や、前述のようにかつて山中の獣と考えられていたことから、サルのように山中の木々の間を自在に行き来するとの意味で、サルを意味する「爰(また)」を語源とする説もあ』り、さらに、『老いたネコの背の皮が剥けて後ろに垂れ下がり、尾が増えたり分かれているように見えることが由来との説もある』。猫は、『その眼光や不思議な習性により、古来から魔性のものと考えられ、葬儀の場で死者をよみがえらせたり、ネコを殺すと』七代祟る『などと恐れられており、そうした俗信が背景となって猫又の伝説が生まれたものと考えられている』。また、猫と『死者にまつわる俗信は、肉食性のネコが腐臭を嗅ぎわける能力に長け、死体に近づく習性があったためと考えられており、こうした俗信がもとで、死者の亡骸を奪う妖怪・火車と猫又が同一視されることもある』。『また、日本のネコの妖怪として知られているものに化け猫があるが、猫又もネコが化けた妖怪に違いないため、猫又と化け猫はしばしば混同される』。『江戸時代には図鑑様式の妖怪絵巻が多く制作されており、猫又はそれらの絵巻でしばしば妖怪画の題材になっている』。元文二(一七三七)年刊行の「百怪図巻」などでは、『人間女性の身なりをしなた猫又が三味線を奏でている姿が描かれているが、江戸時代当時は三味線の素材に雌のネコの皮が多く用いられていたため、猫又は三味線を奏でて同族を哀れむ歌を歌っている』とか、そうした事実に基づく『一種の皮肉などと』も『解釈されている』。『芸者の服装をしているのは、かつて芸者がネコと呼ばれたことと関連しているとの見方もある』。また、安永五(一七七六)年刊の画図百鬼夜行では(リンク先に画像有り)、『向かって左に障子から顔を出したネコ、向かって右には頭に手ぬぐいを乗せて縁側に手をついたネコ、中央には同じく手ぬぐいをかぶって』二『本脚で立ったネコが描かれており、それぞれ、普通のネコ、年季がたりないために』二『本脚で立つことが困難なネコ、さらに年を経て完全に』二『本脚で立つことのできたネコとして、普通のネコが年とともに猫又へ変化していく過程を描いたとものとも見られている』。『また、アメリカ合衆国のボストン美術館にビゲロー・コレクション(浮世絵コレクション)として所蔵されている『百鬼夜行絵巻』にもほぼ同様の構図の猫又が描かれていることから、両者の関連性も指摘されている』とある。]

 

ブログ960000アクセス突破記念 火野葦平 梅林の宴

 

[やぶちゃん注:これは本来は底本の「皿」の後に入る(意図はなく、ただ単にうっかり電子化を落してしまっただけである)。

 ネタバレを避けるために、注は本文の当該段落の後に附した。

 本電子化は、昨日、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが960000アクセスを突破した記念として公開する。【2017年6月17日 藪野直史】]

 

 梅林の宴

 

 野から、村から、山から、そのどよめきはおこつた。そして、とめどがなく、あまりにもけたたましすぎて、はじめはなんのことやらまつたく意味がわからなかつたほどである。革命がおこつたのかと考へた者もあつた。或ひは女のための出入りかと思つた者もある。一人の美しい女のために國が傾いたり、國と國とが戰爭したりする例はこれまでたくさんあつたし、その騷擾(さうぜう)のなかからはしばしば女の金切聲がきこえて來たからである。さうでないとわかると、ヤクザどもの出入りかと想像された。無知な博徒たちが繩張といふ勝手な勢力圈をこしらへて、一宿一飯の奇妙な仁義(じんぎ)をふりまはし、無意味に命のやりとりをする事件も、これまでうんざりするほどくりかへされたからであつた。しかし、そのどよめきは以上のどれでもなかつた。以上の三つのどれとも異つた悲壯で悽慘な趣を呈してゐた。

 ときに春がおとづれる季節であつたため、すでに雪のとけた大地からはきまざまの花が咲きいで、雲にも、村にも、山にも、鳥は樂しげにさへづつてゐた。まだ櫻は咲かなかつたが、梅はいたるところに紅く白くその高雅な花をひらき、馥郁(ふくいく)とした香をはるか遠くにまで放つて、これまで寒さにふるへてゐた人里に陶然(たうぜん)の風を吹き入れはじめたころなのである。每年の例からすれば、貧しい農家からもゆつたりとした歌聲がきこえ、梅林(ばいりん)に集まつた人間たちが一升德利から酒くみかはして、おどけた踊りで日の暮れるのを忘れるときなのである。ところが、今年は樣相が一變してゐた。筑豐(ちくほう)の野におとづれた春の姿は毎年と少しも變らなかつたのに、これを迎へる人間たちの方がまつたく變つてゐたのである。

 香春岳(かはらだけ)のふもとにある梅林に、紅白の花は撩亂(れうらん)と咲きいでても誰一人おとづれる者はなく、まして酒盛りなどの氣配もなかつた。このため河童たちが梅林で宴をひらく宿望を達することができたのである。先祖代々、蓮根畑といつた方がよい泥水の宮下池に棲みなれてゐた河童たちは、いつか一度は香春(かはら)の梅林で一杯やりたいと念願してゐた。しかし、毎年蕾(つぼみ)が咲きはじめてから散つてしまふまで、人間たらに占領されづくめで、その希望がはたされたことがなかつた。今年は大いばりでそれができた。蕾のときは無論のこと、どんなに紅白の花が咲きみだれても人間どもの姿はまつたくあらはれず、まるでこの美しい梅林を突然忘れ去つてしまつたやうな觀さへあつた。

[やぶちゃん注:「香春岳」(現代仮名遣では「かわらだけ」)は現在の福岡県田川郡香春町にある三連山で構成された山塊を指す。ウィキの「香春岳」によれば、地元では「香春岳」とは呼ばず、「一ノ岳」・「二ノ岳」・「三ノ岳」それぞれを分けて呼ぶことが多いという。最高峰は三ノ岳で標高五〇八・七メートルである。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

「どうも變てこだね」

 と、一匹の河童がおいしさうに、蓮根酒の盃をかたむけながら、小首をひねつた。

「たしかに變てこだ」と他の一匹が答へた。

「人間どもの考へてゐることはさつばりわからん。しかし、おかげでおれたちは幸(しあは)せした」

「さうだ。いつかはこんな日を迎へたいと、寢言にまで話してゐたからな」

「命がのぴるよ」

「うん、來年もこんな風だとええな」

「だけど、どうして今年は人間どもが梅の花なんか見向きもせんのぢやらうか」

「そんなこた、どうでもええぢやないか。どうせ人間世界なんて、おれたちと無關係なのだ。無關係なことに神經を使ふのは馬鹿げとる。おれたちは河童世界のことだけを考へとればええんぢや」

「わかつた。わかつた。人間のことなんか相手にせずに、大いにやらう」

 河童たちの梅林の饗宴はいつ果てるとも知れなかつた。連日これをつづけても人間からさまたげられることがなかつた。

 ところが、事態は急變した。人間どもと無關係だと超然としてゐたのに、はからずも河童たちはその人間の騷擾のなかに卷きこまれ、傳説の掟を破つて、人間とたたかはねばならぬ羽目におちいつたのである。

 

          二

 

 河童たちをおどろかせたけたたましいどよめきは農民と武士とのたたかひなのであつた。蓆旗(むしろばた)をおしたて、槍、鍬(くは)、竹槍などを持つた農民たちの一隊が、代官所を襲つて非道の代官をやつつけたところまでは景氣がよかつたのだが、城主のゐる町から討伐隊がかけつけて來ると、百姓たちは總くづれになつた。武士たちは刀劍をふりまはし、槍をしごき、鐡砲まで射ちかけたので、武藝の心得のない百姓たちはひとたまりもない。それでも必死になつて抵抗した。

 今年は梅林に人間があらはれなかつた理由を、河童たちもすこしづつ理解するやうになつた。それはすでに長い間、香春岳のふもとに棲んで、すこしは人間世界の事情を知つてゐたからである。騷擾が野にも村にも山にもひろがると、河童たちも梅林へなど行けなくなつた。しきりに流彈が梅林にまで飛んで來て、幹につきささり、花を散らしてゐた。のみならず、梅林が戰場になつて、はげしい戰鬪の後、南軍が去つた後には、農民たちの屍骸が散りしいた梅の花のなかにころがつてゐたこともある。

 蓮根池のなかで首だけ出して、河童たらはこの騷ぎをあきれた顏でながめてゐた。ときどき、ヒユーンと蜂のつぶやきのやうな音を立てて彈丸が頭上をすぎた。びつくりして水にもぐつた。しかし好奇心はおさへられず、またそつと頭を出す。ときどき、兩軍が池のほとりの道をあわただしげに走りすぎることもあつた。

「これは百姓一揆(き)といふもんぢやよ」

 と一匹の河童がいつた。

「おれもさう考へる」と、他の一匹が答へた。「百姓たらは去年の暮ごろから蹶起(けつき)する下心ぢやつたらしいぞ。いま思ひ當る節がある。それで春になつて梅が咲いても、酒盛りどころぢやなかつたんぢやよ」

「代官所でもうすうすそのことを氣づいとつたにちがはん。さうでなかつたら、梅林から百姓を追つぱらつて、武士たちが遊び步くはずだ。今年は武士も梅林にあらはれなかつたのは、酒盛りの途中、女とたはむれるところを百姓に襲はれることを恐れてゐたのだとおれは思ふ」

「だが、百姓も一揆をおこすまでにはずゐぶん我慢をしたものよ。あんなに武士からいぢめられ、重い税金をとりたてられ、米をつくる百姓のくせに米は食へず、粟(あわ)、稗(ひえ)、豆、それに水を飮むやうな暮しだつたからな。梅林の酒盛りだつて、ヤケ酒みたいなところがあつたからな」

「さうとも、きうとも。どうせ武藝のたしなみのない百姓がどんなに武士に刀向かつたつて勝ち目はない。なんぼ徒黨を組んだところでタカが知れとる。それがわかつてゐながら立ちあがらずに居られなんだところが可哀さうだよ」

「見ろ。あんなに、武士からひどい目に合はされとる」

 河童たちはおほむね農民へ同情的であつた。無論、河童たちに人間世界のからくりはわかるはずもなく、なぜ汗水たらして働く農民が一番みじめであるかといふ理由がさつぱりのみこめなかつた。城主の權力が絶對であつて、支配者が思ふままに農民を搾取(さくしゆ)できること、それに抵抗すれば重い罪になるといふことも容易に理解できなかつた。また、一揆を鎭壓に來た武士たちが同じ人間であるのに、まるで蟲けらでもひねりつぶすやうに、無造作に農民たちを殺し、多く殺すほど手柄になるといふことも不可解至極に思はれた。けれども、河童たちは農民の應援にまで出て行く氣はない。義憤は感じても、人間世界にかかはりを持たぬことが傳説の掟であつたし、好んで傷を求める愚もしたくなかつたのである。これまで人間と關係を生じて得になつたためしがなかつた。ヒユーマニズムは爆發させずに垣のこちら側においておく方が無難であると同時に、こころよい自己陶醉も感じる。蓮根池のなかで河童たちは橫暴な支配者へ怒りを燃やしながらも、池から出て行かうとはしなかつた。そして、やはり梅の散らぬ前に騷亂が終結することが河童たらのなによりの望みであつた。

 

          三

 

「一揆ヲ退治スル功名」を武士たちは誰も狙(ねら)つてゐた。鎭定後の恩賞にあづかれば昇進の道もひらける。そこでできるだけ多く百姓どもを殺さうとし、その首領を捕へようとした。けれども文字どほり必死の農民たらは、正常な武藝は知らないが、命がけの奮鬪をして、あべこべに武士をたふすことが多かつた。武士のなかにも腰拔けはゐて、百姓の竹槍に芋刺しにされた。

 討伐隊のなかに河童たちを瞠目(だうもく)させた一人の武士があつた。有馬藩中でも劍豪として知られた戸塚八左衞門である。そんなに身體は大きくなく、むしろ小柄といへるほどだが、その動作の敏捷で、太刀のひらめきの鋭さはおどろくばかりだつた。八左衞門が動きまはると、一揆はまるで大根か胡瓜のやうになで斬りにきれ、彼の周圍にはたちまち百姓たらの屍骸が山と積まれた。河童たちは百姓たらを哀れみ、百姓たちの勝利を祈つてゐたが、一週間ほどの後、一揆は鎭壓された。靜かになつた村の廣場で、一揆の首謀者十數人が磔(はりつけ)の刑に處せられた。その指揮をしてゐたのも戸塚八左衞門である。

[やぶちゃん注:「有馬藩」久留米藩は元和六(一六二〇)年から幕末まで摂津有馬氏が藩主を務めていたから、それを指しているとしか読めないが、香春は久留米からはあまりに距離があり、実際、同所は小倉藩の藩領であったと思われるので不審である。もし、私の理解(不審)に誤りがある場合は御教授戴けると嬉しい。

「戸塚八左衞門」不詳。彼が実在すれば、前の記載の不審も明らかとあるのだが。]

 十數本の十字架が立てられ、百姓たちはそれにしばりつけられた。

「お上に刃向かふ不屆者ども、以後の見せしめに命の根をとめてくれる。誰でも彼でも政府の方針にしたがはぬ奴はこのとほりだぞ」

 八左衞門はさういつて、十字架上の百姓から、竹矢來の外に押しよせて、歎きかなしんでゐる百姓の家族たちに視線をうつした。彼は城主への忠誠の念にあふれ、任務達成の快感にひたつてゐた。今回の一揆鎭壓における戸塚八左衞門の勳功は拔群である。彼は得意の絶頂にあつた。

 八左衞門のするどい三角眼がぐるッと一巡して、その視線が蓮根池に向いたとき、河童たちはびつくりして、水中に沈んだ。自分たちを睨んだやうな氣がしたのである。

[やぶちゃん注:「三角眼」「さんかくめ」と読んでおく。

 

まぶたの外側がつり上がり、三角形の形になっている目¥のこと。]

「なにがなんでも、恐しい人間どもとは關係を結ばない方が得策だ」

 誰もがさう思つてゐた。

 それから數日後、大勢の人夫たちがどこからか莫大な土砂を運んで、宮下池のほとりにやつて來た。赤や黒の土を積みあげた車力や馬車が陸續としてつづいた。

「いつたい、なにことがはじまるのだらう」

「人間どものすることはわからない」

「なにをしても相手になるな」

 河童たちは不安の面持でさきやきかはした。

 土砂運搬隊を指揮してゐるのも戸塚八左衞門だつた。彼は藩主からその手腕を買はれ、新しい任務をさづけられたのである。

「ようし、早く池を埋めろ」

 と、八左衞門は號令をくだした。

 人夫たちはいつせいに運んで來た土砂を蓮根池に投げこみはじめた。土と人數とが多いので、あまりひろくもない池は見る見るうちに埋めたてられて行つた。

 河童たちは仰天した。先祖代々からの棲家がうしなはれようとしてゐる。だんだん狹められて行く池の水の殘りの部分へ、右往左往して逃げて行きながら、河童たちはあまりのことに淚も出なかつた。まつたく人間どもの心はわからない。人夫となつて働いてゐるのはみんなこの村の百姓たちだ。ついこの間まで蓆旗を立て、鎌、鍬、竹槍をふるつて武士に反抗した百姓たちが、その敵の武士の手先になつて、唯々諾々(ゐゐだくだく)と命令にしたがつてゐる。河童たちは一揆の間、終始百姓たちに同情し、實際上の鷹援はしなかつたとしても、百姓たちの味方のつもりでゐた。それなのに、その百姓たちは河童のもつとも大切な住居を埋めたてて、追放しようとしてゐるのだ。

「こんな馬鹿なことがあるか」

 河童たちはあきれ顏でブツブツと呟(つぶや)きあつたが、そんな河童の思惑などどこ吹く風かと、池は急速に野と化して行つた。

「よし、おれが交渉して來る」

 つひに我慢しきれなくなつて、一郎坊が眉をあげた。

「賴む」

 と、他の河童たちも異口同音にいつた。

 人間どもの理不盡に對して、河童たちは團結してたたかふ勇氣はなかつた。梅林で酒盛りするときにはすぐ團結するが、人間とたたかふことは生命にかかはるので、おいそれと團結ができなかつたのである。それに、百姓一揆鎭壓における武士どものすさまじい暴力、刀、槍、鐡砲などの武器の恐しさを見たばかりだつたので、河童たちも躊躇せずには居られなかつたのであつた。誰も好んで危險に近よりたくはない。それで、一郎坊が交渉方を買つて出ると、ほつとした面持で、これに望みを托した。

 一郎坊は思慮と勇氣に富む若者であつた。宮下池には大頭目は居らず、もと筑後川九千坊の二十七騎の一人であつた三百坊が、その昔の閲歷(えつれき)によつて、名目上の頭領となつてゐたが、元來が愚圖で、お人よしなので、統率力などはない。九千坊から破門同樣になつて、たわいもない蓮根池に左遷されるくらゐだから、その器(うつは)も知れてゐる。そこで、仲間うちには三百坊をしりぞけて、一郎坊を首領にいただかうと考へてゐる者もあつたほどである。その一郎坊なので、河童たちも大いに期待をかけた。

 大きな石に腰をかけ、銀煙管でスパスパ煙草をくゆらしながら、人夫たちを監督してゐる戸塚八左衞門の前に、一郎坊は姿をあらはした。うやうやしく膝をつき、頭の皿の水がこぼれないやうに用心しながら、頭を下げた。

 八左衞門は、突然、奇妙な動物が眼前に出現したので、三角眼をパチクリさせ、

「その方は何者だ?」

「河童でございます」

「なに、河童?」

「わたくしどもは、いま、埋めたてられて居ります宮下池に、先祖代々棲みなれて居ります河童です。お役人樣、お願ひでございます。わたくしどもの命から二番目の家をとりあげないで下さい。この池を埋めたてることを思ひとどまつて下さい」

「馬鹿なことを申すな。われわれにはこの土地が必要なのだ。殿の命(めい)によつてここに大馬場(だいばば)を作ることになつたのだが、この池が邪魔になる。よつて埋めたてるのになんの異存があるか」

「異存がございます。この池がなくなればわたくしどもは放浪しなくてはなりません。われわれ河童にとりましては一大事でござ小ます」

「ワッハッハッハッ、河童なんどのために、國家が決定した工事の中止ができるものか。いくらいつても駄目だ。歸れ、歸れ」

「歸りません。埋めたてを中止していただくまでは、ここを動きません。なにとぞ、お情を持ちまして、わたくしどもの大切な池を……」

「うるさい奴だなあ。政府の方針に楯(たて)をつくと容赦はせぬぞ」

「戸塚八左衞門樣、このとほり、頭を地につけまして、一同のため御歎願申しあげます」

「くどい」

 その言葉と同時に、河童はあふむけにひつくりかへつた。背の甲羅にはげしい痛みをおぼえ、頭の皿から水が流れ出て氣が遠くなつた。さらに足や肩に火でも投げつけられたやうな疼(うづ)きをおぼえたが、そのあとは意識が朦朧となつた。

 太い木劍をにぎつて立ちあがつた八左衞門は、

「馬鹿なやつ奴」

 といつて、高らかに哄笑した。

 人夫たらは八左衞門の不思議な擧動を、眼を皿にして凝視した。袖をひきあつてささやきあつた。突然、氣がちがつたのではないかと思ふ者もあつた。なぜなら、彼等の眼には河童の姿は見えなかつたからである。

 

          四

 

 二年ほどが經つた。

 或る夜、月下の梅林で、河童の宴がひらかれてゐた。

 香春岳(かはらだけ)はくつきりと夜空に浮きあがり、空には滿月とともにきらめく星の數も多かつた。梅林には相かはらず春にさきがけて梅の花が吹きみだれたが、晝間は武士か百姓かに占領されてゐるので、河童たちは深夜をえらばねば仕方がなかつた。今年は天地開闢(かいびやく)以來の大豐作とかで百姓はホクホクだつた。しかし、苛斂誅求(かれんちゆうきゆう)は一層はげしくなつてゐて、いくら豐作であつてもその大部分は藩主からとりあげられる。しかし、その搾取のはげしさに對しても、二年前の失敗にこりた百姓たちは泣き寢入りをしてゐた。ただ、ものが豐富にあるといふことはなんといつても氣持のゆとりを作るので、百姓たちの鼻息も荒く、梅林での宴會も度かさなるといふわけだつた。

[やぶちゃん注:「度かさなる」「たびかさなる」。]

 月は夜ふけとともにすこしづつ西にかたむいて、地上にうつる梅の木の影もしだいに東へ向かつて長くなつて行つた。宮下池を埋めたてられたため、その狹かつた蓮根池よりもつと狹くて水のきたない、泥沼といつた方が早い夜宮池(よみやいけ)に引つこさざるを得なくなつた河童たちは、やはり環境の影響で氣力も減退してゐた。ひとり元氣溌刺として、この二年間變らなかつたのは一郎妨だけである。

「きつと、思ひをとげて見せる」

 その願望のはげしさによつて、彼はつねに内部を充足させ、この二年間で仲間を瞠目させる生長を遂げた。頭目三百坊がノイローゼでいよいよ器量を下げたので、一郎坊は仲間のホープとなつたのである。しかし、彼にはたかが夜宮池の小頭領になつていばらうといふやうなケチな考へはなかつた。彼の唯一の宿念は人間に打ち克つことである。全精神はそのことで燃え、この二年間、孜々(しし)として鍛錬に倦むところがなかつた。

[やぶちゃん注:「孜孜として」熱心に努め励むさま。]

 戸塚八左衞門から太い木劍で打擲(ちやうちやく)された傷は、一カ月ほどで癒へた。それから一郎坊は猛然として、武藝修業をはじめた。彦山川(ひこさんがは)にゐる阿修羅坊(あしゆらばう)は性格が粗暴のため、武藝の點では河童界にならぶ者がなかつたのに、つねに孤立してゐた。人德がないので、子分が寄りつかないのである。劍豪だといつておだてておいて敬遠してゐた。その阿修羅坊を師と仰いで、一郎坊は苦しい二年間の精進をした。戸塚八左衞門の腕前のほどは自分の眼でたしかめてゐるので、彼をたふすためには彼以上の力を必要とする道理である。

[やぶちゃん注:「彦山川」現在の福岡県田川郡添田町の英彦山(ひこさん)を源流とする全長約三十六キロメートルの川。同県の直方(のうがた)市で遠賀川に合流する。]

「一郎坊、みごとな上達ぢや。それならもう八左衞門に負ける心配はない」

 二年の後、師の阿修羅坊は滿足げにいつた。

「ありがたう存じます。これまでの御指導によつて彦山流奧義をきはめることができました以上は、ただちに大月に參上し、憎みてもあまりまる戸塚八左衞門を打ち負かして歸ります」

[やぶちゃん注:「大月」不詳。小倉藩にも久留米藩にもこのような地名はない模様で、現在の福岡県内にも現認出来ない。]

「まだ彦山流の免許皆傳といふわけぢやない。祕傳はなほある。ぢやが、今くらゐ上達すれば、戸塚八左衞門を負かすには事缺くまい。行け」

「きつと勝つてみせます」

 かういふ次第で、いよいよ宿望の仇討行を決行することになつた一郎坊のため、今宵は梅林で壯行の宴が張られてゐるのであつた。師の阿修羅坊も特にはるばるやつて來て出席してゐた。性粗暴な者が劍術の師範であることは警戒を要するので、河童たらはビクビクしてゐたが、噂とはちがつて、阿修羅坊は豪快な飮みぶりではあるが、格別、あばれたりからんだりする樣子はなかつた。それどころか、弟子のために、壯行の歌をうたひ、梅の木の枝を折つて手ごろな木劍をこしらへてくれた。

「一郎坊、この木劍を試合に使へ。わしなら枝に花をつけたまま試合をし、どんなにはげしく丁々發止(ちやうちやうはつし)とわたりあつても、花は散らさぬが、お前にはまだそれは無理ぢやらう。この梅の劍で、八左衞門の腦天を割れ」

「なにからなにまで、お薰情かたじけなく存じます」

一郎坊はその梅の木劍をおしいただいた。梅の香がまだ殘つて居り、折られたばかりの枝の切口からは伽羅(きやら)に似た芳香があふれ出てゐた。二三度打ちふつてみると、實に使ひよい恰好の武器で、

(これで勝てる)

 その自信が出來た。

[やぶちゃん注:「伽羅」梵語の音訳「多伽羅」の略で「黒沈香(じんこう)」の意。沈香の最優品を言う。沈香はジンチョウゲ科の常緑高木の幹に自然或いは人為的につけた傷から真菌が侵入、生体防御反応によって分泌された油・樹脂の部分を採取したもので、香木の代表とされる。当該木材の質量が重いために水に沈むところから「沈水香」とも呼ばれる。インド・ベトナム・東南アジア産であるが、その中でも特に優良な製品を伽羅と呼び、香道で珍重される。]

「一郎坊の武道長久を祈つて乾盃しよう」

 三百坊の音頭で、いつせいに盃があげられた。無氣力で無能力な三百坊頭領も乾盃の音頭をとることくらゐは出來た。數十の蕗(ふき)の葉の盃から、蓮根酒がせせらぎのやうに音をたてて飮み干された。

 夜目にも大馬場(だいばば)が望まれた。月光をうけてゐて湖のやうに見える。ここでは馬術のみならず、弓、槍、劍、薙刀(なぎなた)、手裏劍(しゆりけん)、鎖り鎌等、あらゆる武道の鍜錬がなされてゐた。馬場の右には實彈射擊場もつくられ、鐡砲の音もしばしば聞えた。それは武士の示威(じゐ)運動のやうでもあり、來るべき戰爭の備へのやうでもあり、庶民の血税によつて成立した軍事豫算を使ひすてる無意味な行爲であるやうにも見うけられた。人間のすることは河童にはわからないことだらけだが、一つだけ確實にわかつてゐることは、この大馬場の下には嘗てのなつかしい宮下池があるといふことであつた。

[やぶちゃん注:「鍜錬」「たんれん」。鍛錬。「鍜」は「鍛」の異体字。]

(おれが八左衞門の木劍で打らたふされたのは、あの、流鏑馬(やぶさめ)の的のある場所だ。畜生、今に見て居れ)

 復讐の念に燃える一郎坊の若々しい瞳は、妖しくギラギラ光つてゐた。

 

          五

 

 戸塚八左衞門の家は大月町のはづれにあつた。その一帶は中祿者(ちうろくしや)の武家屋敷になつてゐて、練土塀(ねりどべい)に冠木門(かぶきもん)のついてゐる家がならび、方々に海鼠壁(なまこかべ)があつて、火の見櫓が立つてゐた。周圍は松林である。その裏を尾奴川(をぬがは)が流れ、對岸に霧岳(きりだけ)がそびえてゐる。閑靜で、風光もまづ惡くない。

[やぶちゃん注:「大月町」前に注した通り不詳であるが、以下の「尾奴川(をぬがは)」もその対岸にあるとする「霧岳」も不詳なのは、或いは、この、一見、冒頭、香春の実在ロケーションと匂わせながら、実は存在しない「有馬藩」という仮想藩の、仮想の剣豪「戸塚八左衞門」という作者火野葦平の確信犯の虚構設定なのかも知れぬと思われてきた。

「練土塀」練った泥土と瓦を交互に積み重ねて築き上げたその上に瓦を葺いた塀のこと。

「冠木門」左右の門柱を横木(これを「冠木(かぶき)」と称する)によって構成した門。]

(これで、百姓一揆だの、戰爭だのがなかつたら申し分ないのだが、……)

 八左衞門は築山のある屋敷内の庭を散步しながら、そんなことを考へる。劍豪と稱せられる八左衞門も好んで人と爭ひたくはないし、人を斬りたいこともない。やはり、平和が好きだ。特に最近はさう思ふやうになつた。二年前の一揆鎭定の功を賞(め)でられて、馬𢌞り三百石にとりたてられてから、幸運が追つかけて來るやうに相ついだ。それをいちいち書くことは省くが、ともかく彼は家中の同僚たちから羨望の眼をもつて見られ、事あるごとに「戸塚氏にあやかりたいものでござる」と合言葉にいはれるほどになつてゐた。おまけに、家老の娘を嫁にもらつたばかりだ。このまま波瀾などなく幸福な一生をすごしたいのである。

(しかし、また、百姓一揆がおこるかも知れぬ。どうも最近不穩な動きがほのみえる。腹の立つ百姓ども奴)

 八左衞門はただ騷ぎをおこす百姓の方にばかり憎しみがわいた。なぜ百姓が蹶起せずには居られないのか、その原因の方には頭が向かない。一揆がおこれば八左衞門が討伐隊長に任命されることは既定の事實といつてよかつた。

 領主有馬種次(ありまたねつぐ)は口癖に、

「一揆は八左衞門にまかせておけばよい。八左衞門にかかつたら、どんなたちのわるい一揆でも、鼠か蚤のやうに、ひとたまりもなくひねりつぶされてしまふわ」

 といつてゐるからである。

[やぶちゃん注:太字「たち」は底本では傍点「ヽ」。

「有馬種次」不詳。久留米藩有馬氏の歴代藩主には「種次」なる人物はいない。ますます虚構性が、俄然、増してきた。]

(なんにもおこらんでくれ。このまま、十年でも二十年でも、平穩無事がつづいてくれ)

 八左衞門は必死のやうに、なにかに向かつて心中で祈るのだつた。

 或る夜、もう深更になつてから、八左衞門の寢處の雨戸をかるくたたく者があつた。

「戸塚八左衞門殿、……戸塚殿、……八左衞門殿、……」

 さう呼ぶ聲も聞える。聞きなれぬ聲音なので、八左衞門は小首をひねつた。男のやうでもあり、女のやうでもあり、皿をたたく音か、キツツキが木の幹をつつく音のやうでもあつた。しかし、この聲を八左衞門は聞いてゐるはずなのである。しかし、もはや二年前のことであるし、香春の大馬場埋立工事のとき、文句をいひに來た河童のことなどは、とつくに念頭から去つてゐたので、すぐには憶(おも)ひだせないのであつた。

「あなた、誰でせう?」

 妻の菊乃も眼を