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2017/06/10

「想山著聞奇集 卷の五」 「馬の言云たる事」

 

 馬の言云(ものいひ)たる事

 

Umanomonoihitarukoto

 

 天保九年【戊戌】[やぶちゃん注:一八三八年。]四月八日の事なるが、東海道藤澤宿(しゆく)の馬、平塚宿(じゆく)へ荷物を付行(つけゆき)しに、折節、平塚に馬拂底(ふつてい)ゆゑ、付越(つけこし)[やぶちゃん注:底本注に、『江戸時代の道中の制度の一つとして、荷物を付けた馬が往来する距離には、一定の限度があったが、種々の都合により、定められた地点よりも先まで荷を付け越すこと』を指すとある。]にさせられ、大磯の方(かた)へ登りたるに、間もなく、けはい坂(ざか)迄行くと、【けはい(化粧)坂と云は、平塚の少し西、僅(わづか)の松原のある坂なり。】[やぶちゃん注:kanageohis1964氏のサイト「地誌のはざまに」の『【旧東海道】その10余録:「化粧坂」について』で同定考証がなされているので、是非、参照されたい。平塚からは実測で七キロメートルはありそうだが、荷馬であれば「少し西」と言ってもおかしくはない。]向(むかふ)より大磯宿(じゆく)の權吉(ごんきち)といふ者の持馬(もちうま)、荷を付て、抱(かゝへ)の馬士(まご)[やぶちゃん注:馬子。]牽來(ひききた)る故、荷物を替合(かへあふ)約束して、付替んとおろせしに、【道中にては、互に我(わが)[やぶちゃん注:底本は「家」と誤読している。]宿への歸りを急ぎて、荷物を付替合(つけかへあひ)て歸り來(きた)ることなり。】大磯より付來りし馬の荷甚だ重き故、藤澤の馬士の云樣(いふやう)、是は折角替たれども、此荷は甚だ重くて、なかなか我等が馬には付兼(つけかぬ)るまゝ、止(やめ)申すべしと云と、大磯の馬士の未(いまだ)答へざる以前に、彼(かの)權吉の馬、人の通りにもの云樣、每日每日重荷を背負(しよは)する末(すゑ)の冥利(みやうり)がわるかんべいと云たり[やぶちゃん注:「冥利惡し」とは罰が当たるの意。]。兩方の馬士はもとより、外に聞居たる者も有て、誠に驚き、忽ち其咄、左右の宿中(しゆくぢう)に聞え、皆人、権吉の馬士が、馬を非道成(ひだうなる)遣ひ樣(やう)せしを惡(にく)みぬ。彼(かの)馬士も申譯なくて、其夜、逐電せしとぞ。【馬士の名も聢(しか)と聞置たるに忘れたり、殘り多し。】この馬士、甚(はなはだ)の惡者(わるもの)にて、常々、嵩(かさ)のなき重荷を撰(えらみ)て、本馬(ほんま)二駄分【八十貫目[やぶちゃん注:三百キログラム。]なり】を一駄にして付たりと[やぶちゃん注:「一駄」は当時の公的単位(馬一頭が背負わされる荷重単位)としては三十六貫で、現在の百三十五キログラム相当。酒の場合は三斗五升入り(約六十三リットル)で二樽(ふたたる)を一駄とし、一樽分を「片馬」と称し、また、醤油は八升入り八樽を「一駄」とした。]。此日も、荷嵩(にかさ)は左迄にはなき故、藤澤の馬士は目方多き事をしらず、替る約束にせしかども、二駄ぶりの貫目故、あきれて、前の如くは云たるなり。權吉の馬は奧馬(おくうま)[やぶちゃん注:奥州産の馬。奥州は古来より名馬の産地であった。]にして、價ひも十五金にて求(もとめ)、至(いたつ)て丈夫にて、八十貫目位(ぐらゐ)の荷は事共(こととも)せず。百貫目[やぶちゃん注:三百七十五キログラム。]位も快く附(つけ)る、鹿毛(かげ)[やぶちゃん注:全体に鹿の毛色のように茶褐色で、鬣(たてがみ)と尾・四肢の下部が黒色の馬の毛色を指す。]の七寸[やぶちゃん注:「寸」は「き」と読み、馬の丈(たけ:地面から背(跨る部分)までの高さ)を測るのに用いた古い単位である。四尺(一・二一メートル)を基準とし、それより一寸(すん:三センチメートル)高ければ「一寸(ひとき)」、以下「二寸(ふたき)」と順に「八寸(やき)」まで数え、三尺九寸は「かえりひとき」、或いは、その九寸以上のものを纏めて「丈(たけ)に余る」と称した。従って「七寸(しちき)」は一メートル四十二センチ。]有(ある)良馬とぞ。然(しか)れども、荷物には貫目の定(さだま)りも有(あり)て、物には限りの有事なるを、かく非道に遣ひ、剩(あまつさ)へ、主人へは一疋分の貸錢を出(いだ)し、殘り一疋分の賃は己(おのれ)の懷になし、みちならぬ事にのみ遣ひ捨(すて)し故の事なり迚(とて)、馬方仲間にても甚だ惡み、勿論、聞人も聞人も其馬士を惡まぬはなかりし也。昔、京方(きやうかた)の公方(くばう)義𠘕(よしひろ)公[やぶちゃん注:室町後期の第九代将軍足利義尚(よしひさ 寛正六(一四六五)年~長享三(一四八九)年)が晩年の改名した名。第八代将軍足利義政と正室日野富子の次男。]、江州の栗本郡(くりもとごほり)まかりの里[やぶちゃん注:長享の乱。近江守護六角行高(後の六角高頼)に対する親征で「六角征伐」とも称される(なお、後の第十代将軍足利義材(よしき:室町幕府第八代将軍足利義政の弟足利義視の子。後に義稙(よしたね)と改名)も同じ目的の近江出兵を延徳三(一四九一)年に行っており、そちらは「延徳の乱」と呼び、合わせて「長享・延徳の乱」とも呼称する)。その時の出陣は近江国栗太郡鈎(まがり)、現在の滋賀県栗東(りっとう)市上鈎(かみまがり:ここ(グーグル・マップ・データ))に在陣し、そこで客死した。享年二十五、満二十三歳の若さであったが、ウィキの「足利義尚」によれば、『死因は過度の酒色による脳溢血といわれるが、荒淫のためという説もある』とある。]に陣すゑられ、夏にして御病惱重らせ給ひ、延德元年三月廿六日[やぶちゃん注:長享三年は後の八月二十一日に延徳に改元された。]に薨(こう)じ給ふ。其前の夜(よ)、十五間(けん)[やぶちゃん注:室町時代の厩の「一間」は凡そ七尺五寸ほどで、二メートル二十七センチであった。その「十五間」分の厩は当時の最大規模のもので、三十四メートルに及ぶ(岩波の新古典文学大系「伽婢子」の一五八頁にある注を一部、参照した)。]の馬屋に立並(たちなら)べたる馬の中(なか)に、第二間(けん)の馬屋につながれたる葦毛(あしげ)[やぶちゃん注:灰色の馬。肌は黒っぽいが生えている毛は白いことが多い。本邦産の白馬は普通はこの葦毛の馬が脱色して白っぽくなったものを指す。]の馬、忽ちに人の如くもの云て、今は叶はぬぞやと云に、又、隣の河原毛(かはらげ)[やぶちゃん注:全体に黄色っぽいクリーム色の毛の馬。日本産の馬としては珍しい色ではない。]の馬、聲を合せて、あらかなしやとぞ云ける。其前には、馬取(うまとり)共(ども)、並居(なみゐ)て、中間(ちうげん)、小者(こもの)、多く居たりける。皆、是を聞(きく)に、正敷(まさしく)、馬共(ども)のもの云ける事、疑ひなし、身の毛よだちて恐敷(おそろしく)覺えしが、次の日、將(はた)して、義照公、薨じ給ひし。誠に不思議の事也と、伽婢子といふ双紙に見えて、文面の樣子等、慥成(たしかなる)事とは思ひ居たれども、夫(それ)は昔語りと成たるに、斯(かく)、今、目前に見聞(けんもん)するは珍敷(めづらしき)事故、委敷(くはしく)記し置(おき)ぬ。、此(この)戌年(いぬどし)、上京せんと、四月八日に江戸を發足(ほつそく)して、翌九日、此大磯宿を通り過(すぎ)しかども、此話を聞(きか)ず。其翌十日の早朝、が荷物を付たる馬士は、小田原宿(じゆく)の千之介と云者にて、此者の咄に、昨日、かの馬の咄を聞し故、虛實如何(いかゞ)と、わざわざ大磯宿まで參り、權吉方へ行(ゆき)て見て參り申候に、早(はや)、馬屋に注連(しめ)を張(はり)、法印來りて祈り居申候。中々、馬のもの云事は出來(でき)申さゞれども、畜生と侮り、餘り非道なる遣ひかたをなし、其金を又、道ならぬ惡事にのみ遣ひ捨申せし故、馬頭(ばとう)觀音樣の、馬に成替(なりかは)りてものを仰られ、我々誡(いまし)めあらせられ候のと存(ぞんじ)奉り候と、具(つぶさ)に語りたり。千之介は、かの權吉の馬士と、年來(ねんらい)、同宿に居て、右(みぎ)馬士の氣質をも知居(しりゐ)、色々不埒を働し事共迄も物語りをなして、實(じつ)に慥成事也。扨、彼(かの)言云(ものいひ)たる言葉を念入(ねんいり)て再三尋(たづね)たるに、每日每日重荷をシヨハする末の冥利がワルカンベイと云たりと。馬も馴(なれ)たる故、所の鄙言(びげん)にて云たるは尤(もつとも)の事也。馬の言云(ものいひ)し事、外(ほか)にもあるかと、其節、兩(りやう)街道通行[やぶちゃん注:「兩」は、平塚というロケーションから見て、東海道と、古くからあった相模国平塚と武蔵国江戸とを結ぶほぼ直線を成す中原街道のことであろう。こちらは多摩川を丸子で渡った(東海道は東京都大田区東六郷と神奈川県川崎市川崎区本町の間の六郷橋で渡る)。ウィキの「中原街道」この地図が判り易い。]の道すがら尋探(たづねさぐ)るに、枕神(まくらがみ)[やぶちゃん注:「神」はママ。]に立(たち)しなど云事はあれども、現に言云(ものいひ)たりと云事は至(いたつ)て少(すくな)く、漸(やうやう)慥成(たしかなる)儀、今一つ有。是は平塚宿より半道北に當りて、まさの村と云あり。【海道通り、此邊の北に當りて、東西へ長く成たる高麗山(かうらいさん)と云(いふ)孤山(こさん)あり、此山の麓也。[やぶちゃん注:この割注から現在の高麗山(こまやま)の麓である中郡大磯町高麗(こま)及び大磯の内とは思われるものの、近代の村名には「まさの」に相当する名を見出せなかった。識者の御教授を乞う。]】此村に、材木屋治(ぢ)右衞門と云者有て、商賣柄、かたがた相應の身代(しんだい)成しが、悴錠(ぢやう)五郎と云者、馬を好みて、よき馬を持(もて)ども、甚だ氣荒(きあら)にて、無躰(むたい)に馬を責叱(せめしか)り、人にも突懸(つきかゝ)りて、喧嘩を好みたるをのこ也しが、鹿毛(かげ)の至(いたつ)て能(よき)馬を飼置(かひおき)しに、或夜、老母の、夜半の頃、手水(てうづ)に起(おき)て厩(うまや)の前を通りたるに、かの馬の言葉を發し申樣(やう)、毎日々々重荷を付て、遠方步行(あるき)させらるゝも、馬と生れし故、荷の重き事は夫程大儀にもなけれども、此家(や)の息子の氣荒にて、日々腹を蹴らるゝは誠にかなしく絶兼(てへかむ)ると云たり。母、正敷(まさしく)此事を聞たる故、此馬は、らく成(なる)所へ遣はし、錠五郎にも其事を申含め、再び馬を牽(ひか)せざりしと也。是は吉原宿(よしわらじゆく)[やぶちゃん注:東海道五十三次十四番目の宿場。現在の静岡県富士市に相当する。]の馬士谷五郎と云者の咄にて、此谷五郎は、初め、藤澤宿に居て、錠五郎とは友達なりしが、馬の申せし通り、錠五郎は氣荒にて、差(さし)てもなき事に、直(ぢき)に馬の腹を力(ちから)まかせに蹴る癖有(あり)て、荷は常々一駄半づゝつけ、時によりては二駄ぶりも付(つけ)る故、馬の申せし筋は尤(もつとも)至極の事也迚、右節の事、能(よく)知居て咄せり。まだ文政七八年[やぶちゃん注:一八二三年から一八二六年。]頃に、上州大浦郡(おほうらごほり)靑柳(あをやぎ)村【館林領にて同所より壹里半南となり。[やぶちゃん注:「大浦郡」は想山の誤りで、底本では『邑樂』(おうら)郡と訂する。現在の群馬県館林市青柳町ここ(グーグル・マップ・データ)。]】七左衞門の持馬(もちうま)、赤鹿毛(あかかげ)の言云(ものいひ)たりと云(いふ)咄し、先年、聞置たれども、前生(ぜんしやうの事抔(など)を示し、餘り面白過(おもしろすぎ)たる事にて、其上、首尾も少々連續せず、虛實辨(わきま)へがたき故、書載兼(かきのせかね)たり。猶よく探り尋置度(たき)もの也。殘り多し。畜類にても、猩々(しやうじやう)[やぶちゃん注:ここは全くの想像上に妖怪というのではなく、猿或いは老猿の変化(へんげ)のニュアンスを含んでいるように思われる。]にもかぎらず、狐狸(きつねたぬき)はよく言云(ものいひ)、又、川童(かつぱ)も能(よく)人語をなし、猫俣(ねこまた)の類(るゐ)も能(よく)人語をなして、人を誑らかすもの成(なる)が、馬の言云(ものいひ)たるは其内にも珍敷(めづらしき)事と思はる。又、云、寛政年中[やぶちゃん注:一七八九年~一八〇一年。]の事にや、東海道坂(さか)の下(した)宿[やぶちゃん注:、東海道五十三次四十八番目の宿場。現在の三重県亀山市関町坂下。ここ(グーグル・マップ・データ)。]の馬、土山(つちやま)の宿[やぶちゃん注:東海道五十三次四十九番目の宿場。現在の滋賀県甲賀市土山町北土山(ここ(グーグル・マップ・データ)。以下はその南地域)及び土山町南土山に相当する。]へ行て泊りし夜(よ)、食物(しよくもつ)をあてがはず、翌朝(よくてう)、鈴鹿の坂を牽下(ひきくだ)りたる時、馬の言云(ものいひ)たるには、きのふ、相場(さうば)飛脚[やぶちゃん注:米飛脚(こめびきゃく)のことか。ウィキの「米飛脚」によれば、『江戸時代に大坂堂島米会所における米相場の情報を各地に伝えるために発せられた飛脚のこと』で、『主に堂島や北浜など米会所周辺の飛脚が務め』、一ヶ月に十回程度、『最新の相場情報を周辺地域や西国の米商人に伝え、商人たちはこれを参考に自前の米を大坂に売ったり、大坂の米を買い付けたりした。主に米相場の情報伝達を役割としていたが、時には依頼を受けて荷物も引き受ける場合もあった』とある。この場合、荷が重かったのはその最後のケースなのであろう。]の重荷を附て、駈登(かけのぼ)りしよりは、から荷にても、から腹(はら)にて下るは苦敷(くるしき)事也と云(いひ)たりとの事、風(ほのか)に聞居たり。夫より、馬がもの云(いふ)鈴鹿の關で、と云(いふ)馬士唄(まごうた出來(でき)て、今に此唄は諸國にて諷(うた)ふ事也。仍(よつ)て是も戌年通行(つうかう)の幸ひ、坂の下、又は鈴鹿にて馬士共に尋ね探るに、馬のもの云(いひ)たると云(いふ)事は承らず候得共、馬がもの云(いふ)鈴鹿の關でおまん女郎(ぢよろ)ならのせてゆこ、と申歌有れば[やぶちゃん注:「おまん」は江戸時代の女性の固有名詞としての名前として、ごくごく一般的なもの。線翔氏のサイト「線翔庵」の三重県尾鷲市に伝わる「尾鷲節」(幕末に尾鷲の港町の花柳界で酒席の騒ぎ唄や祭りの舞踊歌として流行った「なしょまま節」を元とするといい、熊野水軍の出陣の唄或いは大阪夏の陣で破れた真田一族の落武者が紀州路に落ち延びてこの尾鷲の地で匿われてその悲運を歌ったなどという伝承がある)に『【本唄】』『○馬が物言うた 馬越の坂でヨイソレ おまん女郎なら 乗しょと言うたノンノコサイサイ』『○おまん女郎でも ただでは乗せぬヨイソレ 一里百なら 乗しょと言うたノンノコサイサイ』とある。]、馬の言云(ものいふ)事も有(あり)しにやと云(いふ)。或は成程、馬が此(この)宿でもの申たと見えますると答(こたふ)る故、何と申せしと尋(たづぬ)るに、おまん女郎ならのせて行(ゆか)ふと申たと見えて、歌に迄、諷(うた)ひまするなど答へて、其土地へゆきて尋るに、一向、分り兼、證とはなしがたし。惣躰(さうたい)、奇談珍話の類も、十に八九迄は取留(とりとめ)ざる事多く、又、面白き咄に虛(うそ)多ければ、此(かく)の如く書記(しよき)なすにも、取捨(しゆしや)多く、呉々も慥成事のみを撰(えら)みてしるし置(おく)也。然共(しかれども)、此(この)鈴鹿にても、馬の言云(ものいひ)し事は相違なき樣に思はるれども、取留兼(とりとめかぬ)る也。殘り多し。

[やぶちゃん注:「伽婢子といふ双紙に見えて」は「第十三卷」の「義輝公之(の)馬(むま)言(ものいふ)事」(本文の表題は以下の通り、違う)。以下に示す。原典では挿絵があるが、怪異を感じさせるような面白いものではないので割愛する。

   *

 

   馬(むま)、人語(にんご)をなす恠異

 

 延德元年三月、京の公方(くばう)征夷將軍從一位内大臣源義𠘕 (よしてる[やぶちゃん注:読みはママ。])公は、佐々木判官高瀨[やぶちゃん注:六角高頼のこと。]をせめられんとて、軍兵を率して江州に下り、栗太郡(くりもとのこほり)(まがり)の里に陣を据ゑられ、爰にして御病惱重くおはしましつつ、同じき廿六日に薨(こう)じ給ふ。其前の夜、十五間(けん)の馬屋に立ちならべたる馬の中に、第二間の厩につながれたる芦毛の馬、怱ちに人の如く物いふて、

「今は叶はぬぞや。」

といふに、又、となりの河原毛の馬、聲を合せて、

「あら悲しや。」

とぞいひける。其前には馬取共なみ居て、中間・小者、多く居たりける。皆、是を聞くに、正しく馬共(ども)の物いひける事、疑(うたがひ)なし。

身の毛よだちて怖ろしく覺えしが、次の日、はたして、義𠘕公、薨(こう)じ給ひし。誠にふしぎの事也。

   *

 

 又、因果物語に、武州神奈川にて、旅人(りよじん)宿を取(とつ)て、雨、降(ふり)ける故、亭主の羽織を盜み着て行(ゆか)んとするに、夫(それ)は亭主の羽織なり、何迚(なにとて)、着て行(ゆく)ぞ、と馬が物云(ものいひ)、又、同書に、江州にて、或家へ盜人(ぬすびと)入(いつ)て、物を取(とつ)て出(いで)んとすると、馬、追駈(おつかけ)て、其(その)取(とる)物、遣間敷(やるまじ)、速(すみやか)に置(おけ)と云(いひ)し事有。【是れ何(いづれ)も前世(ぜんせ)に物をかり置(おき)て返さゞる故、馬と生れ來りて、其負目(おひめ)を償(つぐなふ)との事等、馬の語りたる趣も有共(あれども)、畧しぬ。】皆、同日の談なり。

[やぶちゃん注:「因果物語」は江戸初期の曹洞宗の僧侶で仮名草子作家、元は徳川家に仕えた旗本であった鈴木正三(しょうさん 天正七(一五七九)年~明暦元(一六五五)年)が生前に書き留めていた怪異譚の聞き書きを没後に弟子らが寛文元(一六六一)年に板行した仮名草子怪談集。その「中卷」の「馬の物言ふ事 付(つけたり) 犬の物言ふ事」。以下に犬も併せて示す。原典にはやはり挿絵があるが、同じく怪異もへったくれもないものなので、割愛する。

   *

 

   馬の物言ふ事  犬の物言ふ事

 

 武州神名川(かながは)に、旅人、宿を取りて、雨降りける故、亭主の羽織を盜み著(き)て行かんとするに、何者やらん、

「其れは亭主の羽織也。何とて著て行くぞ。」

と云ふほどに、傍らを見れども人はなし。聞かぬ由にて出(い)でんとすれば、亦、右の如く言ふを聞くに馬也。

 此の時、馬に向かつて、

「何事ぞ。」

と問へば、

「我、亭主の甥(をひ)也。伯父の造作(ざうさ)を受けたり[やぶちゃん注:生前、世話を受けたのだ。]。此の恩を報ぜん爲に馬と爲(な)り來たる。今少し債(おひめ)あり。錢(ぜに)七十五文出だせば、隙(ひま)、明(あ)くなり。」

と言ふ。

 餘り怖しく覺えて、亭主に委(くは)しく語る。亭主聞いて、

「さても不思議のことかな。此の馬、能く使はるること類ひなし。唯(ただ)、人の如くに覺えたり。」

と語る。其の後。人、來たりて彼の馬を借り、七十五文取りければ、則ち、死す。

 寛永年中[やぶちゃん注:一六二四年~一六四四年。]のこと也。内藤六衞門、慥かに語る也。

 

 江州にてある家に、盜人(ぬすびと)入りて物を取らんとするに、彼の家の馬、狂ひて怖しき體(てい)也。暫し靜まつて、又出でんとするに、馬追ひ掛けて、

「其れの取り物、遣(や)るまじ、速かに置け。」

と云ふ。

 駭(おどろ)いて子細を問ひければ、

「我、先の世に、此の亭主の米を一斗盜みたる科(とが)に依つて、今、馬と爲つて四年此に有り。九升(くしやう)相濟(あひす)まして、今一升、すまず。是を押さへて償(つぐ)のふべし。」

と云ふ。盜人、聞いて、贓物(ざうもつ)捨てて去りけり。

 盜人餘りに怖しく覺えて、其の後、彼の家に往(ゆ)きて、

「馬を借らん。」

と云ふ。亭主、

「此の程、間もなく使ふ故、馬、草臥(くたび)れたり。借すまじき。」

と云ふ。

「駄賃錢(せん)[やぶちゃん注:使用料。]、過分に出ださん。」

と云ひて、強ひて借りけり。彼の馬の債を償のはしめん爲也。其れより返つて、馬、卽ち、死す。盜人、後に來て懺悔(さんげ)しけり。人々知つて隱れ無き事也。

 

 秀賴樣の餌指(えさ)し[やぶちゃん注:餌差し。鷹匠の部下に属す職で、職務柄、獵犬を飼っていた。]の處へ、犬の生き肝(ぎも)を買ひに來たる。銀三枚に値(ね)を究(きは)め、女房、犬を引きて裏へ行くに、彼の犬、迹(あと)を見返りて、

「怖しき女哉(かな)。」

と云ふ。是を聞いて、買ふ人、逃げ去りたり。

 男、外より歸りければ、女房、悔(く)えて、

「今日(こんにち)、銀子(ぎんす)を取り迦(はず)したり。」

と云ふ。男、子細を問へば、女房、しかじかと語る。男、聞いて、

「さても怖しき女かな」

と云ふて、行き方(かた)知らずに、出で行きたりと也。

   *

 さても正直言うと、これらの殆んどは、怪異でも何でもはなく、たまたま馬の嘶きが、そのように偶然、聴こえてしまった錯覚か(無意識的罪障感などを淵源とする)、或いは、酷使される馬を哀れに思った誰かの人間の腹話術だったりするのではなかったかと私は思ったりしたことを言い添えて終りとする。

 

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