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« 僕は | トップページ | 宿直草卷一 第十 本山の岑に天火おつる事 »

2017/06/24

宿直草卷一 第九 攝川本山は魔所なる事

 

  第九 攝川本山(ほんさん)は魔所なる事

 

Honnzannmasyo

 

[やぶちゃん注:図は底本のものであるが、清拭し、さらに汚い左右の枠を意図的に除去して空間的広がりを持たせた。]

 

 津の國本山(ほんさん)は毘沙門天の靈場なり。山城の鞍馬寺、河内(かはち)の國信貴(しぎ)の山、今此(この)所と日本の三毘沙門といへり。雲たなびいて、懸繒(けんぞう)たえず、月すみて、然灯(ねんとう)とこしなへなり。千尋(ちひろ)の溪谷(たに)、前後にふかく、數里(すり)の嶺峯(みね)、左右(さう)につゞけり。こゝにして現世安穩(けんぜあんをん)の寶祚(ほうそ)をいのり、當來解脱(たうらいげだつ)の惠炬(ゑこ)をかゝぐ。またかくれなき魔所なり。

 そのふもと、川久保と云(いふ)里に、獵(かり)する人、ふたりつれて、夜行(よこう)ひきにゆく【たぬきをとりに夜出づる事】。ひとりは弓箭(ゆみや)をもち、またの袖は樫(かし)の棒をつく。常になれたる犬を連れて、まだ宵かけて出でしに、やうやう月もおち、夜も更(ふけ)ゆけど、獵(りやう)、さらにきかず。あまり殘り多かりければ、多門(たもん)におそれて日ごろは行かざりけれど、今宵は本山さして向ふ。坂、けはしふて、いかんともしがたし。やゝ登れども、道、なをはるけきに、連れたる犬、震ひわななきて、あまさへ、股倉(またぐら)のしたに隱る。さだめて、猪(いのしゝ)、狼(おほかみ)やうのもの來るにこそと、片手、矢はげて進むに、行くべき坂の眞中(まんなか)に、その長(たけ)八、九尺にして、色は炭(すみ)にまがふ頭(かうべ)を下へなし、白き鉢卷(はちまき)を帶(おび)たり、足は上(かみ)にのけぞつて、弓手(ゆんで)のかた、丈餘の棒を、をく、眠るが如くにして仰(あふ)のきに臥したるものあり。

 其間(あひ)十間(けん)ばかりになりて、二人のもの、見つくるといへど、とかく物もえいはず。たゞ尻(しり)ざりに半反(はんだん)ばかり退(しりぞき)て、わが里十餘町の坂道を、石につまづき、僜僜(ころびころび)歸りしが、互(たがひ)に家になりて、

「今のもの見たるか。」

と吐息(といき)して云ひけり。

 そのゝち、夜行(よこう)を止(や)めしと也。

 

[やぶちゃん注:【 】はここで初めて出る割注。原典では二行でポイント落ち。

「本山」大阪府高槻市大字原にある天台宗北山(ほくさん)霊雲院本山寺(ほんざんじ)。本尊は毘沙門天。ウィキの「本山寺(高槻市)」によれば、高槻市北郊の京都府との境に近い山間部に位置する。『本山寺の寺号は戦国時代の記録には見えて』いるが、『寺伝によると、役小角が葛城山で修行中に北西に紫雲のたなびくのを見て霊験を感じ、北摂の山に来て自ら毘沙門天像を彫り、堂を建てて修験の道場として開山したのが始まりと伝えられている。その後、宝亀年間』(七七〇年頃)『に光仁天皇の子・開成皇子が諸堂宇を建立して本格的な仏教寺院として創建したと伝えられている』。『北摂三山寺として、根本山と号する神峯山寺、南山と号する安岡寺とともに北山と号して天台宗に属している』。天正一〇(一五八二)年の『山崎の戦いの際に高山右近の兵火に罹って』焼失したものの、慶長八(一六〇三)年には『豊臣秀頼が鐘楼、楼門などを再建』、江戸時代に入って宝永年間(一七〇五年頃)に第五代『将軍徳川綱吉の生母・桂昌院が改修を加え』ている。『現在の中の門は、伏見桃山城から移築されたと伝えられる』。『戦国時代には、松永久秀がこの寺で立身出世を祈願し、その後望みがかなったことから五百住(よすみ)にある所領の良田を寄進しているほか、芥川山城』(あくたがわやまじょう/あくたがわさんじょう:同高槻市の三好山にあった日本の山城から畿内にかけて広汎に『権勢を奮っていた三好長慶や、キリシタン大名としても知られる高山友照・右近親子、甲斐国武田信玄の信濃侵攻により駆逐され三好家に身を寄せていた前信濃守護・小笠原長時らが寺領の安堵状を出している』。また、『江戸時代には、高槻城主・永井氏や皇室などの崇敬を受け』たとある。本文にもある通り、鞍馬寺・信貴山朝護孫子寺とともに「日本三毘沙門天」の一つとされる。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「毘沙門天」先行する「第二 七命ほろびし因果の事」の「多聞(たもん)の鉾(ほこ)」の私の注やウィキの「毘沙門天を参照されたいが、毘沙門天(四天王の一人としては多聞天と呼び、本文の後に出る「多門(たもん)」は多聞天のことである)の像型ではしばしば右手に宝棒や三叉戟(さんさげき)を持ち、この異形の怪人が右手に持つそれとの類似性が認められ、首が炭のように人間の肌(はだえ)とは全く異なるところも、中国の民間信仰に於いて毘沙門天像の顔を緑色に塗るのと類似しているようには見える。

「山城の鞍馬寺」京都府京都市左京区鞍馬本町にある、当時は天台宗であった鞍馬山(さん)鞍馬寺(くらまでら)(戦後の昭和二四(一九四九)年に天台宗より離脱独立して鞍馬弘教総本山となった)。本来は当寺が都の北に位置することから、四天王の中で北方を守護する毘沙門天を本尊とし、併せて千手観世音を祀った寺院であった(現在の鞍馬弘教としての本尊認識は独特な説明で異なるが、それはくだくだしくなるだけなので、ウィキの「鞍馬寺」などを参照されたい)。

「信貴(しぎ)の山」現在の奈良県生駒郡平群町(へぐりちょう)にある真言宗信貴山朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)。本尊は毘沙門天。本寺は信貴山寺とも称する。

「懸繒(けんぞう)」「げんぞう」と濁るのが寺院では一般的か。「繒」は織りを詰めて細かく織った高級な絹の生地で、この帛(きぬ)絹を仏殿や内陣の天蓋(てんがい)に荘厳(しょうごん)として懸けることを称する。 ここは信者からの高価な布施が不断に多くあることを言うのであろう。

「然灯(ねんとう)とこしなへなり」「燃燈永久(とこしな)へなり」。「燃燈」は法灯のこと。絶え間なく燃え続ける実際の本尊の献灯を永遠に絶えることのない本寺の法灯及び仏法の光明に喩えたもの。

「嶺峯(みね)」二字へのルビ。

「寶祚(ほうそ)」天子の位・皇位。平安旧仏教である天台宗は国家宗教である。

「當來解脱(たうらいげだつ)」必ず来る来世に於ける煩悩から解き放たれた涅槃。

「惠炬(ゑこ)」岩波文庫版の高田氏の注には『大いなる光明』とある

「川久保」現在の高槻市川久保。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「夜行(よこう)ひき」これで一語であろう。殺生であることに注意

「またの袖」頻出している通り、「袖」は「人」の意。連れである今一人。

「さらに、きかず」一向に得物が得られない。

「あまり殘り多かりければ」一匹も獲れない(ものと思われ、それが実は怪異の前兆であることに彼らは気づいていないのである)ので、このまま手ぶらで帰るのは心残りであり、また無性に癪に障るので。

「矢はげて」矢を番(つが)えて。

「八、九尺」凡そ二メートル五〇センチから二メートル七三センチ弱。

「弓手(ゆんで)」右手。岩波文庫版は『弓矢』とするが、誤判読である。

「をく」歴史的仮名遣が誤っているが、「置く」。

「其間(あひ)十間ばかりになりて」狩人二人とその道に長々と横たわった怪人との距離が十八・一八メートルほどになったところで。月も落ちて更けた頃合いの山道に於いて、この距離で、この怪人の姿を二人がともどもにしかりと現認出来たというのは不審であり、それはとりもなおさず、彼らが異界に導かれてつつあったことを示し、或いは、狩人の夜目の良さというよりも、この怪人自体妖しく光っていたからだったのではなかろうか?

「とかく物もえいはず」互いにものを言い交すことが出来なかったというのであるが、実は、これが効果的であったと言える。変怪に遭遇した際、相手が何ものであるかを見切ることが出来ずに、恐怖の余り、言葉を発してしまうと、変怪に有利に事態が進行してしまうのが民俗世界での一つの定理でもあるからである。世界的な神話の形式に於いても誤った言上げや恐怖の叫び声は神霊鬼神の勝ちとなってしまうことが多いからである。

「尻ざりに」後退(あとじさ)りで。

「半反」「はんたん」で、「反」はかつての距離単位の一つ。「六間」(一〇・九メートル)を「一反」とするから、凡そ五メートル半。

「十餘町」十町は一キロ九メートル相当。

「僜僜(ころびころび)」「轉び轉び」。中文サイトを見るに、「僜」には酔って躓くの意があるようである。]

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