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2017/06/12

「想山著聞奇集 卷の五」 「磬石の事」

 

 磬石(けいせき)の事

 

[やぶちゃん注:「磬石」讃岐岩(さぬきがん)或いはサヌカイト(sanukite)と呼ばれる岩石。名称の元である旧讃岐国の香川県坂出市国分台周辺や、大阪府と奈良県の境にある二上山周辺及び三河鳳来寺山などで特徴的に採取される、マグネシウムに富んだ非常に緻密な古銅輝石安山岩(こどうきせきあんざんがん:bronzite andesite:斑晶として古銅輝石(ブロンズのような光沢を放つ斜方輝石(結晶系の一つで、互いに直交する長さの異なる三本の結晶軸をもつ結晶)の一つ)を含み、少量の斜長石を伴うガラス質で細粒の安山岩)。ウィキの「讃岐岩」など(引用部はそこ)によれば、『固いもので叩くと高く澄んだ音がするので、カンカン石とも呼ばれる』。『サヌカイトという名称は、明治政府に招かれ、日本各地の地質を調査したドイツ人地質学者』で「お雇い外国人」のハインリッヒ・エドムント・ナウマン(Heinrich Edmund Naumann 一八五四年~一九二七年)が、『讃岐岩を本国に持ち帰り、知人の』鉱物学者エルンスト・バインシェンク(Ernst Weinschenk 一八六五年~一九二一年)が研究、一八九一年(明治二十四年)に命名したものである。『古代には、石器の材料として使われ、打製石器、磨製石器に加工され』て『使われていた。そのため同じく石器の材料となる黒曜石同様に、古代の人々の遺物として、産出地以外の遙か遠方で、サヌカイトの破片が発見されている』。『固いもので叩くと』、『高く澄んだ音がする。玄関のベルの代わりに使われたりしている。博物館などで長さの違う石片を並べて木琴のように叩いて音を出す「石琴」(楽器名:サヌカイト)などの展示物やコンサートに』も使われており、『楽器としての演奏者も』いる。音楽家であった故金田真一氏を顕彰するサイトのこちらで、保存ダウン・ロード形式で素晴らしい音色を聴くことが出来る。但し、「磬」は中国の漢字であり、その原義も、同様に、玉製或いは石製の「へ」の字型(逆L字型)をした板状体を吊るして打ち鳴らす「詩経」にも出る古楽器を意味する。本文や諸中はあたかも、偶然に一致しただけで、本邦で独自に収斂進化した楽器のように書かれてあるが、中国由来の可能性を排除出来るものではない。ただ、後に注するように本邦の中国・四国地方に於いては中国とは無関係に打製石器の原石としてサヌカイトが使用されていたことが判っており、「磬」のような楽器として用いたかどうかは別としても、本邦独自の産物として重用されたことは事実であり、やはり後で注するように、日本の仏教寺院で用いられる「磬」(但し、現存するものは総て石製ではなく、鑄銅製)は本邦で独自に生まれたものとされている(しかし、この断定には私は疑問がある)。

 

Keiseki

 

[やぶちゃん注:右頁の右側の中央と下のキャプション。]

 

銕筆家(てつぴつか)細川林谷(りんこく)、奇石を好み、磬石數品(すひん)を藏す、一品を眞寫なし置(おく)。

 

石質も大同小異にして音(ね)も又、種々(しゆじゆ)なから、いづれも金銕(きんてつ)の音(ね)なり。

 

 面       橫       裏

 

[やぶちゃん注:「銕筆家」とは篆刻家のこと。

「細川林谷」(寛永九(一七八〇)年~天保一四(一八四三)年)は篆刻家で漢詩人。ウィキの「細川林谷」によれば、『本姓は広瀬氏、名は潔、字は痩仙・氷壺、林谷は号で他に林道人・忍冬葊・三生翁・白髪小児・天然画仙・不可刻斎・有竹家などと号している。通称は春平。讃岐の人』。『讃岐国大川郡寒川町石田東村森広(現在の香川県さぬき市)で生まれた。幼いうちに林村の阿部良山』『より篆刻』の技術を『受ける。その後、長崎・京都に遊学し、江戸に出て京橋の中橋広小路芝に住む。その篆刻は天下一と讚えられた。その後も各地を周遊し、浪華では文人墨客からの篆刻の依頼が引きも切らず、一冬滞在。毎晩の酒溺で散財した。このとき頼山陽の印も刻している。竹をこよなく愛したという。詩画をよくし、山水画・墨竹図を得意とした』とある。

「金銕」後の「金鐡」の同じで、金属の意。

「面」は「おもて」と訓じていよう。

 なお、左頁の左にある文章は、本文の末尾にあるもので、キャプションではない。「か樣成(やうなる)石」とあるその上に附図を示してあるのである。本文を参照されたい。

 

 磬と云物は樂器にして、石(いし)を以て拵(こしらへ)たる物故、磬の字の六書(りくしよ)は、諧聲(かいせい)の字ながら、石に從ひ聲に從ふて、會意(くわいい)をも含みたる字なり。【六書と云は、上古、文字を製作する規矩(きく)にして、諧聲を會意も皆其時の準繩(じゆんぢやう)なり、説文(せつもん)に、磬樂石也象縣虛之形殳擊ㇾ之也とあれども、會意のみの字にあらず。】漢土にては、洒濱(しひん)より出る事、書經の禹貢に見え、日本にては、讚州白峰(しらみね)の一山は、山内悉く磬石にして、大小數百千萬の磬、重(かさな)り上(あが)りたる山にして、夫(それ)に土の皮(かは)を被(かぶ)り居(ゐ)て、其土に草木(さうもく)覆ひ茂りたる山と也。此山、其高さは三里計りにして、京の愛宕山(あたごさん)程の恰好と也。山のなだれ口、又は岸(きし)[やぶちゃん注:切り岸(ぎし)。崖。]の崩れ口等は、悉く右の磬石にして、四、五寸より尺餘り、又、大なるは二尺三尺四尺位(ぐらゐ)のも有(あつ)て、厚さは四、五分[やぶちゃん注:一・三~一・五センチメートル。]より一二寸、又、厚きは七八寸より尺貮三尺位までのも有(ある)となり。形ちは、丸きも三角なりも、長きも短きも種々(しゆじゆ)にして、定(さだま)らざれ共、皆、金鐡(きんてつ)の音(ね)にして、全(また)く常の磬の音(ね)ながら、石每(ごと)に替りて、十は十ながら同し音(ね)はなし。隨分、律(りつ)に能(よく)合(あふ)も有べし。先(まづ)、薄き程、音色(ねいろ)よしと也。少しにても缺損(かけそん)じ有(ある)時は、音(ね)の響きなく、決て金鐡の音をなさず。然共(しかれども)、十が七、八迄は瑾(きづ)多(おほ)[やぶちゃん注:「おほき」の脱字か。]にして、全玉(ぜんぎよく)なるは至(いたつ)て稀なりといへり。其石色(いしいろ)は鼠色にして、砂土(すなつち)を付(つけ)たる如き、鮫肌(さめはだ)の石面(いしづら)にて、缺口(かけくち)は光澤(つや)なき黑色(くろいろ)なり。同國の西、香川郡葛西(かさい)村に、藏石家(ざうせきか)の高橋白峰(はくはう)と云(いふ)者、【白峰(はくはう)、夫婦とも奇人也、予が著聞外集に記し置たり。】近江の石亭(せきてい)にも劣らざる程の玩石家(ぐわんせきか)故、此石の缺口を、隙(ひま)を厭はずして、自身に磨き試るに、石質、至て堅く、玉(たま)の如き光澤(つや)出て、極上塗(ごくじやうぬり)の蠟色(らいろ[やぶちゃん注:「らういろ」の脱字かと思ったが、後にも出るので、こうも読むものか。なお、「ら」は「ろ」にも見える。])の如き色出(いで)て、全く赤銅(しやくどう)のごとく、無類なる見事の石と成(なり)たると也。其堅き事は金鐡の如くなれども、勿論、金(かね)にてはなし、石なり。元來、邊鄙の山中の事なれば、昔より磬石と云(いふ)事は知(しら)ずして過來(すぎきた)り居(ゐ)たるに、天明に、大内炎上の後、御所の君、燒たり迚(とて)、白峰へ取(とり)に來りて後(のち)、一山(いつさん)の石は磬石にて有たりと云事を、所の者も初(はじめ)て知(しり)たり。夫(それ)迄は、土俗、かね石とのみ唱へ來りしとなり。日本の内に、まだ、餘國にも、磬を生(しやうず)る山も有べきか。珍敷(めづらしき)石も有ものなり。茶政家(ちやせいか)の合圖の鳴物(なりもの)などゝせば、珍重かぎりなき物なるべしと思はる。然共、御所にて、右の石を磬となし給ひたる工匠の直(あた)ひ[やぶちゃん注:採取から工作完成までの総費用の謂いであろう。]は、夥敷(おびただしく)懸りたるとの風聞、讚州へも追(おつ)て聞えたる由、左も有べき事か。今、顯密兩宗等の佛家(ぶつか)にて用(もちふ)る所の磬は、皆、悉く銅磬(どうけい)にして、石磬を用ゆる事なきは、彫琢の直(あた)ひ、尋常ならざる故か。、中年の頃までは、樂器に用ゆる磬は石なる事をしらずして、磬といふは銅(あかゞね)にてのみ拵へたる物を、磬の字は金に從はずして石に從がふは、金と石とを取違へたるものなるかなどおもひ居(ゐ)たりしは、恥敷(はづかしき)ことにて有し。何事もしらぬ事のみにて打過(うちすぎ)、殘り多く思ふまゝ、せめては聞(きく)にまかせて記し置(おき)て、童蒙へ示さんと思ふのみ。

[やぶちゃん注:「六書(りくしよ)」漢字の造字法及び運用法の原理を六種(象形・指事・形声・会意・転注・仮借)に分類したもの。

「諧聲(かいせい)」形声の別称。事物の類型を表す記号(意符)と、発音を表す記号(音符)を組み合わせて新しい字を作る法で、漢字の基本構成としては九〇%以上と圧倒的である。但し、「磬」の甲骨文では象形文字で、吊るした鈎型の石を先端の大きな棒で打つさまを象っている。「殸」が初体字であったが、後に篆文で意味を明確にするために「石」が附加され形声文字となった(「磬」の解字部分は大修館書店の「廣漢和辭典」に拠った)。

「會意(くわいい)」既成の象形文字又は指事文字を組み合わせて新しい意味の漢字を新造すること。日本の国字は会意で作られたものが多いが、中国の漢字の会意文字解釈は研究者の個人的恣意に影響される傾向が強く、甲骨文字の発見以後は会意文字とされたものの多くが見直されつつある。先の甲骨文の解字から見ても想山も勝手な「会意」解釈をしていることがよく判る。

「規矩(きく)」「準繩(じゆんぢやう)」基準となるもの。規則・手本。多く前のそれと合わせて「規矩準繩」の四字熟語で使われる。「規」はコンパス、「矩」は物差し、「準」は水平を定める水盛り、「縄」は直線を引くための墨繩(すみなわ)の意である。

「説文(せつもん)」「説文解字」の略。後漢の許慎作の、最古にして優れた部首別漢字字典。西暦一〇〇年に成立し、一二一年に許慎の子である許沖が安帝に献納した。本文十四篇と「叙」(序)の十五篇から成り、「叙」によれば、小篆の見出し字九千三百五十三字、重文(異体字)千百六十三字を収録する(現在の通行本はこれより少し多い)。漢字を五百四十の部首に分類して体系づけ、その成立を解説、字の本義を記す。

「磬樂石也象縣虛之形殳擊ㇾ之也」訓点に従い、省略した読みを総て附けて、以下に書き下す。

   *

磬(ケイ)は樂石(がくせき)なり。縣(ケン)に象(かたど)る。虛(キヨ)の形(かたち)に、殳(シユ)は之れを擊つなり。

   *

但し、想山の引用は不全で、中文サイトを見ると、「樂石也。从石、殸。象縣虡之形。殳,擊之也。古者母句氏作磬。」とある。「虡」は尖った剣(ここでは叩くための棒)の意のようである。

「洒濱(しひん)」地名のようであるが、不詳。泗濱浮石(しひんふせき)という中国古代療法として使用していた石の名は存在する。後に出る「禹貢(うこう)」は「書経」の一篇で、紀元前の中国(漢族の居住地域)を九州(冀(き)州・兗(えん)州・青州・徐州・揚州・荊州・豫州・梁州・雍(よう)州)に分けて記述、地理書として後世に尊重されたmのであるから、この九州のどこかではあろう。

「讚州白峰(しらみね)」香川県坂出市東部にある標高三百三十七メートルの山。五色台(ごしきだい)山地の西部を占め、ここに出るサヌカイトは中国・四国地方の打製石器の原石となった。山頂近くには遠流された崇徳上皇の白峰陵、山腹に四国八十八ヵ所第 八十一番札所の白峰寺があり、かの上田秋成の名品怪談集「雨月物語」の冒頭を飾る「白峯」で知られる。

「三里計り」十一キロ七百八十二メートルほど。但し、登攀実測距離である。

「律」広義には、日本や中国音楽の音程単位で、十二律の一段階の差を示し、洋楽の半音(短二度)に相当する。狭義のそれもあるが、煩瑣であり、ここでは想山は大まかな音律の謂いで述べているので略す。

「香川郡葛西村」不詳。但し、旧香川郡には香西町(こうざいちょう)があり、ここには中笠居(なかかさい)村があった。ここか? 現在の高松市北西部にある香西(こうざい)地区。この附近(グーグル・マップ・データ)。

「藏石家」愛石家。石コレクター。夫婦そろってであろうから、「奇人」と言うたのであろう。

「高橋白峰」不詳。

「著聞外集」本「想山著聞奇集」の拾遺と考えられるもので、名古屋市鶴舞図書館に全六冊で写本が存在したが、昭和二〇(一九四五)年に戦火に遭って焼失してしまったらしい(底本解題に拠る)。実に実に「残り多し」。

「石亭」奇石収集家木内石亭(享保九(一七二五)年~文化五(一八〇八)年)。稀代の一大奇石書「雲根志」(安永二(一七七三)年に前編、安永八(一七七九)年に後編、享和元(一八〇一)年に三編をそれぞれ刊行している。

「天明に、大内炎上」天明八年一月三十日(一七八八年三月七日)に京都で発生した「天明の大火」によるもの。出火場所の名をとって「団栗焼(どんぐりや)け」、「都焼(みやこや)け」などとも称する。ウィキの「天明の大火」によれば、『京都で発生した史上最大規模の火災で、御所・二条城・京都所司代などの要所を軒並み焼失したほか、当時の京都市街の』八『割以上が灰燼に帰した。被害は京都を焼け野原にした応仁の乱の戦火による焼亡をさらに上回るものとなり、その後の京都の経済にも深刻な打撃を与えた』。同日『未明、鴨川東側の宮川町団栗辻子(現在の京都市東山区宮川筋付近)の町家から出火。空き家への放火だったという。折からの強風に煽られて瞬く間に南は五条通にまで達し、更に火の粉が鴨川対岸の寺町通に燃え移って洛中に延焼した。その日の夕方には二条城本丸が炎上し、続いて洛中北部の御所にも燃え移った。最終的な鎮火は発生から』二日後の二月二日早朝にまでずれ込んだ。『この火災で東は河原町・木屋町・大和大路まで、北は上御霊神社・鞍馬口通・今宮御旅所まで、西は智恵光院通・大宮通・千本通まで、南は東本願寺・西本願寺・六条通まで達し、御所・二条城のみならず、仙洞御所・京都所司代屋敷・東西両奉行所・摂関家の邸宅も焼失した。幕府公式の「罹災記録」(京都町代を務めた古久保家の記録)によれば、京都市中』千九百六十七町の内、焼失町数千四百二十四町、焼失家屋数は三万六千七百九十七に及び、焼失世帯六万五千三百四十戸、焼失寺院二百一寺、焼失神社三十七、死者は百五十名であったという。但し、『死者に関しては公式記録の値引きが疑われ、実際の死者は』千八百名は『あったとする説もある』。『この大火に江戸幕府も衝撃を受け、急遽老中松平定信を京都に派遣して朝廷と善後策を協議した。また、この直後に裏松固禅の『大内裏図考證』が完成し、その研究に基づいて古式に則った御所が再建されることになるが、これは財政難と天明の大飢饉における民衆の苦しみを理由にかつてのような壮麗な御所は建てられないとする松平定信の反対論を押し切ったものであり、憤慨した定信は京都所司代や京都町奉行に対して朝廷の新規の要求には応じてはならないと指示して』おり、また、『朝廷の動向が世間の注目を集めるようになり、尊号一件』(寛政元 (一七八九)年に光格天皇が父典仁(すけひと)親王に太上(だいじょう)天皇の尊号を贈りたい旨、江戸幕府に希望した際、老中松平定信が皇統を継がない者で尊号を受けるのは皇位を私(わたくし)するもの、として拒否した一連の事件)『などの紛争の遠因となった』とある。因みにこの「尊号一件」の後処理(同時期に第十一代将軍徳川家斉が実父一橋治済(はるさだ:吉宗の孫)に対して「大御所」の尊号を贈ろうとしていていたが、定信はこの事件で朝廷の尊号賦与を拒否した手前、この要請に対しても同様に拒否をせざるを得なくなった。これは実は定信が御三卿の一人として将軍位を狙える立場にあったところを、治済が白河藩へ放逐した政敵であったこと、治済が大御所として権力を掌握することに危機感を抱いていたことに起因し、定信としては、本末転倒乍ら、一橋治済の大御所就任を阻止するためにも典仁親王の上皇就任を拒否せねばならなかったものともされる。しかし、これによって定信は家斉の不興を買うこととなり、寛政五(一七九三)年七月二十三日に失脚している。

「茶政家」聴かない熟語であるが茶道家のことか。

「鳴物」茶事(ちゃじ)に於いて準備の整ったことなどを知らせるために叩いて音を出すための道具。サイト「茶道入門」の「鳴物」によれば、銅鑼(どら)・喚鐘(かんしょう)・板木(ばんぎ)・木魚(もくぎょ)などがあり、『一般的に銅鑼や喚鐘は亭主が中立後の後入の合図などに用い、板木や木魚は客が到着や連客の揃った合図などに用い』るとし、『鳴物は、亭主が茶席の用意を終えて客の入来を請うために用いるのを鳴物挨拶(なりものあいさつ)といい、鳴物による案内を始めたのは』、『古田織部が露地を拡大したために亭主が躙口』(にじりぐち)を開けることで客を招来する合図とする『それまでのやり方ができなくなったからとい』 う、とある。

「顯密兩宗」「顕教」と「密教」の両学派。「顕教」とは、衆生を教化するために姿を示現した釈迦如来が秘密にすることなく明らかに説き顕した教え及びその経典の修学を指し、「密教」とは、真理そのものの姿で容易に現れない大日如来が説いた、容易に明らかに出来ない奥義としての秘密の教え及びそれが記されているとする経典の修学を指す。真言宗開祖の空海が「密教」が勝れているとする優位性を主張する立場から分類した教相判釈の一つであって宗派ではないが、一般には鎌倉新仏教を含まない、国家鎮護を主とする天台宗・真言宗などを指すことが多い。

「佛家にて用る所の磬」ウィキの「磬」によれば、本邦の仏教寺院では法要の際の読経の合図に鳴らす仏具として用いられ、これは古代中国の磬に似ているものの、材質は石でなく、鋳銅製である。『奈良時代から制作され、平安時代には密教で必須の仏具となり、その後他宗派でも用いるようになった』。『仏教寺院では、金属製の碗を台の上に置いて棒で叩いて鳴らす楽器のことを「磬子」または「鏧子」と書いて「けいす」または「きんす」と読む』。『これは古代中国の磬とは別物である』とある(下線やぶちゃん)。

「御所の君」光格天皇(明和八(一七七一)年~天保一一(一八四〇)年:在位:安永八(一七八〇)年~文化一四(一八一七)年)。

 以下は総て全体が底本では二字下げ、原典では一字下げ。]

 

予が友、内藤廣庭(ないとうひろには)、此石を一つ所持なし居(ゐ)たり。か樣成(やうなる)石也。色は白目(しろめ)なる灰鼠(はいねづみ)にて、石肌(いしはだ)荒く麁(そ)にして鮫肌なれども、缺口は如何にも眞密(しんみつ)にて磨けば蠟色塗(らいろぬり)のごとく成(なる)に相違なし、此石片面の端の所に少し缺疵(かけきづ)有(あり)、此疵の方(かた)を下になし、釣(つる)して打(うつ)と鳴(なら)ず、又、疵の方を上になして釣して打と全(また)く金(かね)の音(ね)にて、其響き丁當(ていとう)として先(まづ)、鉦(しやう)などに近き音(ね)なり。

或人云(いふ)、唐土(たうど)には種々の磬石有(ある)事ときけり、瀛州(えいしう)の靑石磬(せいせきけい)、其長(たけ)一丈、輕き事、鴻毛(こうまう)の如し、など云(いふ)事有を見れば、其音(ね)も種々(しゆじゆ)有べし、讚州の石質は至(いたつ)て堅密(けんみつ)なれば其音(ね)金玉(きんぎよく)に近し、彼(かの)楊貴妃の弄(もてあそび)せし藍田(らんでん)の綠玉磬(りよくぎよくけい)などの類(たぐひ)なるべしと也。

[やぶちゃん注:「内藤廣庭」「猫のもの云たる事」に既出。そこで私は『不詳。ただ、想山と同時代人の、幕末の国学者で同じ尾張藩に仕えたこともある内藤広前(ひろさき 寛政三(一七九一)年~慶応二(一八六六)年)の初名は広庭である。同名異人か?』と注しておいた。

「麁(そ)」粗いこと。

「眞密(しんみつ)」緻密。

「丁當と」漢字は当て字で歴史的仮名遣では「ていとう」でよい。副詞で玉などが触れ合う音、瀧や鼓などの音を形容する語である。

「鉦」銅或いは銅の合金で作った平たい円盆形の打楽器。直径十二~二十センチメートルほどのものまであり、撞木(しゅもく)または桴(ばち)で打つ。伏せ鉦(がね)・摺り鉦(「ちゃんぎり」とも)・鉦鼓(しょうこ)などの種類がある。

「瀛州(えいしう)」はまず、古代中国神話に於ける仙人の住むという東方の三神山(他の二つは蓬莱と方丈)の一つで、そこから転じて日本を指して東瀛(とうえい)とも雅称したが、ここは磬石が出土した場所の謂いであろうから、実在した魏晋南北朝時代の四八七年から隋代にかけて実在した行政区ととっておく。現在の河北省滄州市河間(かかん)市に相当する。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「一丈」魏晋代では二・四〇メートル強、隋代では三メートル弱。日本では三・〇三メートル。ここではどの度量衡を採ればよいかは判らぬ。

「鴻毛」鴻(おおとり:大・中型の水鳥)の羽毛。非常に軽いものの譬え。

「藍田の綠玉磬」現在の陝西省西安市藍田県((グーグル・マップ・データ)。ここは盛唐の詩仏王維の別荘があったことで知られ、そこで読まれた友人裴迪(はいてき)と交わした詩「輞川集」二十首(「輞川(もうせん)集」。輞川は川の名)は「孟城拗(もうじょうよう)」「華子岡(かしこう)」「鹿柴(ろくさい)」「木蘭柴(もくらんさい)」「竹里館」など、高校の漢文教科書にもよく載るので御存じの方も多かろう)で産する緑玉石(エメラルド。サヌカイトではない)ウィキの「楊貴妃には「楊太眞外傳」からとして、彼女は磬の『名手でもあり、梨園の楽人ですらかなうものがなかった。彼女の琵琶は、ラサの壇で作られた蜀の地から献上されたもので、その絃は西方の異国から献上された生糸でできていた。磬は藍田の緑玉を磨いたものでできており、飾りの華やかさは当代並ぶものがないものであった。また、彼女の紫玉の笛は、嫦娥からもらったものであるという伝説もあった。また、「涼州」という歌を自分で作曲し、死後に玄宗によって、世に広められたと伝えている』とあり、「太平廣記」の「卷二百四」の「樂二」の「太眞妃」(楊貴妃の道号。玄宗自身の第十八子であった寿王李瑁(りぼう)の妻だった楊貴妃を無理矢理に奪うために出家させたのである。「開元住信記」を出典とする)にも以下のようにある。

   *

太眞妃多曲藝、最善擊磬。拊搏之音、玲玲然多新聲、雖太常梨園之能人、莫能加也。玄宗令彩藍田綠玉琢爲磬、尚方造簨簴流蘇之屬、皆以金鈿珠翠珍怪之物雜飾之。又鑄金爲二獅子、拿攫騰奮之狀、各重二百餘斤、以爲趺。其他彩繪絢麗、製作精妙、一時無比也。及上幸蜀囘京師、樂器多亡失、獨玉磬偶在。上顧之淒然、不忍置於前、促令載送太常寺。至今藏於太樂署正聲庫者是也。

   *]

 

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