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2017/06/12

「想山著聞奇集 卷の五」 「鮑貝に觀世音菩薩現し居給ふ事」

 

 鮑貝(あはびがひ)に觀世音菩薩現(げん)し居(ゐ)給ふ事

 
Awabikannonn

 

[やぶちゃん注:以上の図は三ページに亙るものを、私が枠の消去を行い、更に一枚に見えるように処理合成したのものである。以下、キャプション。]

 

貝の大(おひき)さ、此通りにして、至(いたつ)て大(おほ)ひなる蚫(あはび)なり、緣(ふち)の所、圖のごとく缺損(かけそん)したる所有共(あれども)、幸(さひはひ)にして少しも尊像に障(さは)りなし。

 

 武藏の國荏原郡(えはらごほり)大井村來迎寺(らいごうじ)【品川鮫頭(さめづ)の先の所、海道より直(ぢき)左へ入(いる)村なり。】に、鮑貝に觀世音菩薩の像、現し居給ふもの有(あり)と聞及(きゝおよ)ひ、幸ひ良緣有(あつ)て、天保十五年【甲辰】[やぶちゃん注:一八四四年。]四月廿一日、思ひ立(たつ)て、かの地に行て、右の像を眞寫(しんしや)なし來りしを、左に圖し置(おき)ぬ。其來由(らいゆ)は、安房(あは)の隱士(いんし)如琴翁(じよきんをう)の懇(ねんごろ)に記せし文(ふみ)有ける故、是をも爰(こゝ)に記し置(おく)儘(まま)、今さら云に及ばず。

[やぶちゃん注:「來迎寺(らいごうじ)【品川鮫頭(さめづ)の先の所、海道より直(ぢき)左へ入(いる)村なり。】」東海道を京に向かって鮫洲(現行はこう書くが、調べてみると、現在の品川区東大井にある鮫洲八幡神社は「江戸名所図会」では「鮫頭明神祠」と出る)の先を左に折れるとなると、現在の品川区大井にある天台宗鹿島山来迎院ではないかと私は推測する。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「安房(あは)の隱士(いんし)如琴翁」不詳であるが、本記載内時制の四十四年前の寛政一二(一八〇〇)年洒落本「風俗通」を出している松風亭如琴(詳細事蹟不詳)という作家がおり、世間で全く知られていない田舎の御隠居なんぞに由来記を頼んだりしないであろうから、この人物が一つ、大きな同定候補者となろうか。

 以下の由来記の部分は、底本では全体が二字下げ、原典では一字下げ。]

 

   海中出現觀世音尊像之(の)記

抑(そもそも)、此尊像は安房國朝夷郡(あさひなごほり)白濱村(しらはまむら)犬(いぬ)か谷(たに)の海士(あま)市五郎と申者、同邑(むら)福聚(ふくじゆ)禪林の觀世音を信じ、朝夕(てうせき)、步(あゆみ)を運び、詣でける。然るに、其母、蚫(あはび)をたしなみければ、日每(ごと)に是を取、おのれも又、浮世渡(うきよわた)りのよすがとは、なしぬ。時に文政十年秋八月十七日夜、不思議の靈夢を蒙りはべりしが、凡俗なれば、あやしとも思ほへず。野島か崎に立(たち)いでつるに、海面、殊にひかりけり。されども、波間をくゞり、かろうして岩根を尋ぬるに、ゑもの、さらになく、地ひとつのひかり渡りにけるを、とりつゝ家路にかへり、眞珠てふものやあらむと、かねもてうちはなしければ、忝(かたじけな)くも觀世音の尊像、かくやくとあらはれたまひぬ。母子おどろきて、作りし罪をかこちわびつゝ、只、泣(なく)より外、なかりけり。その肉(にく)は、もとの海底(うなぞこ)へかゑしけり。尊像はとゞめて尊信し、其母も鮑をたのしまず、母子發心(ほつしん)し、産業(さんぎやう)をやめて道心者(だうしんじや)となり、子孫は百姓となりて、いよいよ、さかへ侍りぬ。

 文政十一年二月十五日    安房の隱士

                   如琴翁しるす

[やぶちゃん注:「安房國朝夷郡白濱村」旧朝夷(あさい)郡白浜村は幕府領。現在の南房総市白浜町(まち)白浜。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「犬(いぬ)か谷(たに)」不詳。

「福聚(ふくじゆ)禪林」同白浜町にある曹洞宗明堂山福寿院かと思われるが、ここの本尊は釈迦如来坐像で観世音菩薩像ではない。或いは別にあったものか。

「蚫(あはび)をたしなみければ」後にそれを売って生計を立てたともあるが、それ以上に、最後に「其母も鮑をたのしまず」とある通り、この老母は鮑が、自身、大好物であったのである。

「文政十年」一八二七年。

「野島か崎」「のじまがさき」。ここ(グーグル・マップ・データ)。房総半島最南端

「眞珠てふものやあらむ」あまり理解されているとは思われないのでここで言っておくと、近代の真珠養殖の技術が本格的になる以前の「本真珠」とは、実は本来は「鮑玉(あわびだま」のことで、まさに鮑(腹足綱原始腹足目ミミガイ科アワビ属 Haliotis のアワビ類)の内部に自然形成される天然真珠のことを指した

「かね」軟体部を剝くための磯金(いそがね)であろう。

「かくやく」「赫奕」。光り輝くこと。

「作りし罪」海漁(うみりょう)の殺生。

「かこち」嘆き。

「産業」漁師としての生計(たつき)。]

 

 右記錄に、靈夢と有は如何成(いかなる)夢ぞと寺僧に尋(たづぬ)るに、聢(しか)と尋置(たづねおか)ざりし故、慥(たしか)には答へ兼(かぬ)れども、海上(かいしやう)をあゆみ行(ゆき)たる夢とのことは、承りたりとの事なり。夫計(そればかり)にては有間敷(あるまじく)、何かまだ、靈告(つげ)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]ありたる事そと思はる。扨、其蚫の貝の内に、圖の如き寶冠(はうくわん)の半身(はんしん)の觀世音、現じ居(ゐ)たまへど、鳥渡(ちよと)[やぶちゃん注:ちょっと。]見ては聊(いさゝ)かも見えず、常の貝にして、能々(よくよく)日に照して熟拜(じゆくはい)する程、御面貌(ごめんざう)、如何にも鮮明(あざやか)にして生身(しやうじん)の如く、筆勢の絶妙、まことに不凡の名畫(めいぐわ)也。畫(ゑ)の所、僅(わづか)、美濃紙二枚程も高く成居(なりゐ)たれども、瞬(またゝき)もせず、篤(とく)と拜し見れば、實(じつ)に赫耀(かくやく)として鮮(あざやか)也。此貝、彼(かの)民家に其儘有(ある)との事、江戸牛込築土(つくど)八幡宮の別當無量寺、聞出(きゝいだ)されて、數金(すきん)を購(あがな)ひて得られたる品の由なり。右無量寺は、隱居して念佛院と云て、此寺に閑居成居(なりゐ)らるゝ由。扨、又、谷中(やなか)明林寺(みやうりんじ)の常行房(じやうぎやうばう)、に語(かたつ)ていわく、右の貝は、雨乞(あまごひ)に靈驗(れいげん)有(あり)と聞及び居(ゐ)候ひしが、當(たう)辰(たつ)正月十七日夜(よ)に少(すこし)雨降(あめふり)、路次(ろじ)惡敷(あし)かれ共、同十八日に大師河原の大師へ參詣なし、來迎寺へも立寄來(たちよりきた)りしに、來迎寺の所化(しよけ)の話に、舊冬(きうとう)以來、久々(ひさびさ)雨なく、乾き強き故、此程、彼(かの)貝に雨乞なせしに、きのふ、少しながら雨降(ふり)て、其應(おう)有(あり)しと申せしは妙成(めうなる)事に候といへり。仍(よつ)て、右雨乞の事をも、所化眞常房(しんじやうばう)と云(いふ)に尋(たづぬ)るに、日々祈念して、觀音經三十三卷づゝ、一七日の内、讀誦致し候得ば、是非、雨降申候。海中に生じ給ふ物故、雨乞には靈驗炳然(いちじる)き事と存候、との答(こたへ)故、左候はゞ、別に水天(すゐてん)の法などは修せられずに雨降候哉と尋るに、何も外の法は修し申さずして、必(かならず)、七日の内に、雨は降申候との答也。其餘の事共(ことども)をも祈念なし給ふにやと問(とふ)に、一度も祈念せし事なしとの事故、左候はゞ、大病人(たいびやうにん)等(ら)、平癒の事を祈念なしたまはゞ、急度(きつと)、靈驗は有べしと勸め來りたり。安齋隨筆(あんさいずゐひつ)に云(いふ)、[やぶちゃん注:以下の引用は、原典では特異的に草書体ではなく、総て楷書で示されてあるので、太字にしてみた。]池上本門寺(いけがみほんもんじ)ノ僧、來(きたつ)テ談話ノ序(つひで)ニ、本門寺ニ、蚫貝(あはびがひ)ニ南無妙法蓮華經ノ文字(もんじ)現(あらはれ)タルアリ、貴(たつと)キ事也ト云。予、聞(きゝ)テ、ソレハ細工物也、予、作(つくつ)テ見スべシ、トテ、作リ置(おき)テ、他日、僧、來リシニ、見セタリキ。其製法ハ、蚫貝ニ、佛像ニテモ佛名ニテモ、生漆(きうるし)【セシメウルシ也。】ヲ以(もつ)テ書(かき)テ、蚫(あはび)ノ穴ヲ蠟(らふ)ニテ塞ギ、漆ヲヨクカラシテ、酢ヲ十分ニ入(いれ)テ、二十日程置(おき)テ、扨、酢ヲ砂ヲ以テ能(よく)磨ケバ、漆ノ付(つき)タル所、高クアラハルヽ也、是、無益(むやく)ノ戲(たはむれ)ナレドモ、如ㇾ此(かくのごとき)事モシリ置(おけ)ハ、僧ナドニ訛(たぶらか)サルヽ事ナシ、奇妙不思議ハ皆、造事(つくりごと)ナリ。といへり。も漆にて書(かき)、鼠屎(そふん)に酢を入て腐(くさら)して、文彩(ぶんさい)を造る事は、聞置(きゝおき)て知居(しりゐ)る事なれども、此觀音の事は眞(まこと)也として、疑(うたがひ)を生(しやう)じ兼(かね)たり。奇妙不思議は、皆、造り事也とのみは申がたし。既に十七の卷に記しある、大神宮の文字(もんじ)、木中(ぼくちう)に出現の事等は、木の澁(しぶ)にて出來(いでき)たる人作(じんさく)となしても、此(この)卷(まき)に記し置たる柊木(ひゝらぎ)明神の奇(き)、幷(ならびに)、九の卷に記しある無住國師の靈驗奇木等の事は、造り事にあらずして、今、眼前に、衆人の見て知るところの奇妙不思議なり。凡例(はんれい)にも斷り置たることく、眞(しん)と僞(ぎ)と、可(か)と否(ひ)との論は、見る人の心に任するのみ。

[やぶちゃん注:「江戸牛込築土(つくど)八幡宮」現在の新宿区筑土八幡町(ちょう)にある筑土(つくど)八幡神社。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「別當無量寺」松雲山無量寺であるが、見当たらない。別当寺であるから、廃仏毀釈で廃寺となったのかも知れぬ。無量寺別当寺の住持と言いながら、実は「念佛院」と称して「隱居して」この房総半島の突先の来迎寺で悠々自適に「閑居」している人物らしいから、こんなアホなものを何両も出してありがたがって買ってしまうのであるから、無量寺の行く末も危ぶまれて仕方ないかとも私は思う。

「谷中(やなか)明林寺(みやうりんじ)」不詳。「江戸名所図会」にも出ない。

「當(たう)辰(たつ)」冒頭、想山が最初に現物を来迎寺で見た天保一五(一八四四)年ということになる。

「所化(しよけ)」僧侶の弟子。修行僧。

「一七日」「ひとなぬか」と読む。一週間。

「炳然(いちじる)き」「炳」は明らかなさま。

「水天(すゐてん)の法」「水天」は仏教に於ける天部の十二天の一人。須弥山の西に住んで西方を守護するとされ、水の神で龍を支配するとされる。それを祈る雨乞いの修法。

「雨降候哉」「哉」は疑問詞「や」。

「靈驗は有べしと勸め來りたり」表現不全。「となり」「と云ふなり」である。これは常行く房が来迎寺の修行僧に述べた直接話法の終った部分だからである。

「安齋隨筆」江戸中期の旗本で武家の有職故実家として知られた博覧強記の伊勢貞丈(さだたけ 享保二(一七一八)年~天明四(一七八四)年)の随筆。成立年代未詳。三十巻本と二十巻本がある。有職故実の用語・文字の訓詁・制度の沿革・文物の起源など広汎に亙る。活字本は所持しない。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で読めるが、多量なので今すぐには目は通せない。発見したら、追記する。

「池上本門寺」東京都大田区池上にある日蓮宗長栄山池上本門寺。

「生漆(きうるし)【セシメウルシ也。】」「瀬〆漆」。漆の枝からかき取った粘度が高く、接着力が強い漆液。一般には加工木材等の接合用や、その強度を増すための下地用に使われる。「石漆」とも呼ぶ。

「カラシテ」「枯らして」であるが、「乾燥させて」と言うにはやや問題がある。漆は実は湿気がないと乾燥しない特殊な性質を持つからである。

「酢ヲ砂ヲ以テ能(よく)磨ケバ、漆ノ付(つき)タル所、高クアラハルヽ也」酢によって殻の内側の光沢面に含まれる炭酸カルシウムが溶け出し、漆を塗った部分よりも柔らかくなり、それに磨きをかけると、漆で仏像を描いた箇所が凸となって浮き彫りとなるということであろうか?

「僧ナドニ訛(たぶらか)サルヽ事ナシ」相手が僧なんだから、この謂いはかなりキツイ。

「文彩(ぶんさい)」取り合わせた色彩。模様。色どり。彩(あや)。

「此觀音の事は眞(まこと)也として、疑(うたがひ)を生(しやう)じ兼(かね)たり」想山先生、コロッと騙されちゃってマス。

「十七の卷」既注の通り、現存しない。

「大神宮の文字(もんじ)、木中(ぼくちう)に出現の事等は、木の澁(しぶ)にて出來(いでき)たる人作(じんさく)」どこかの木に「大神宮」の字が突如として現われた事件は調べたところが、木に柿渋をその字の通りに塗って変色させた、人間による捏造であったというのであろう。ああ! 読みたかったなぁ! あと四十五册+外集(六冊?)!

「此(この)卷(まき)に記し置たる柊木(ひゝらぎ)明神の奇(き)」当最終五巻の掉尾にある「萬木(ばんぼく)、柊(ひゝらぎ)と化(くわ)する神社の事」。お待ちあれかし。

「九の卷に記しある無住國師の靈驗奇木等の事」これも現存しない。「無住國師」(嘉禄二(一二二七)年~正和元(一三一二)年)は鎌倉後期の僧で、優れた仏教説話集「沙石集」の作者として知られる。ウィキの「無住」によれば、『字は道暁、号は一円。宇都宮頼綱の妻の甥。臨済宗の僧侶と解されることが多いが、当時より「八宗兼学」として知られ、真言宗や律宗の僧侶と位置づける説もある他、天台宗・浄土宗・法相宗にも深く通じていた』。『梶原氏の出身と伝えられ』、十八歳で『常陸国法音寺で出家。以後関東や大和国の諸寺で諸宗を学び、また円爾に禅を学んだ。上野国の長楽寺を開き、武蔵国の慈光寺の梵鐘をつくり』、弘長二(一二六二)年に『尾張国長母寺(ちょうぼじ)を開創してそこに住し』、八十歳の時、寺内の『桃尾軒に隠居している。和歌即陀羅尼論を提唱し、話芸の祖ともされる』。八十歳の時の記録に「二十八日の卯の刻に生まれた」と『記しており、この年でこの時代の人間として誕生日を覚えていることは稀な例とされる』。『伝承によっては長母寺ではなく、晩年、たびたび通っていた伊勢国蓮華寺で亡くなったともされる』。『様々な宗派を学びながらも、どの宗派にも属さなかった理由については、自分の宗派だけが正しいとか貴いものと考えるのは間違いで、庶民は諸神諸仏を信仰していて、棲み分けており、場合や状況によって祀るものが異なり、そうした平和的共存を壊すのは間違った仏教の行き方だと考えていたためとされ、諸宗は平等に釈迦につながるため、どれも間違ってはいないという立場であったとする』。『また、説法の対象は読み書きのできない層だった』。著書には「沙石集」の他、「妻鏡」「雑談集(ぞうだんしゅう)」などがある。「沙石集」は五十四歳の時に執筆を開始し、数年かけてまず五巻を『完成させたが、死ぬまで手を加え続けた結果』、全十巻となって、『書いている過程で、他の僧侶に貸したものもあり、どの段階の本が無住の考えた最終的な本かを判断するのは難しいとされる』。歴史学者で中世思想史(仏教思想)が専門の『大隅和雄は、無住は鎌倉の生まれで、梶原氏の子孫と考えてよいとの判断をしている』。

「凡例」本文電子化後に電子化する。お待ちあれかし。

 最後に。ここに出る貝の真珠光沢に出現するそれは、「仏像真珠」などと称して、かなり古くから知られる、全くの人工の装飾用細工品、或いは、神霊仏像が示現したと人々を誑かすことを目的とした捏造品で、嘗て貝類コレクターであった私も何度か現物を見たことがある(人造のマガイモノであることを知っているから買ったことはない)し、質朴な老人が奇跡の霊仏としてこういう手合いのものを後生大事に礼拝しているのそれを見せて貰ったこともある(流石に事実を知らせる酷いことはしなかった)。中国で盛んに作られたもので、鴻阜山人氏のサイトの「真珠の養殖と加工」によれば(仏像真珠の写真有り)、十三世紀頃(南宋~元代)には『中国の南部に於いて淡水産の』真珠を形成することの出来る、殻の内壁に真珠層を持った烏貝(斧足綱古異歯亜綱イシガイ目イシガイ科イケチョウ亜科カラスガイCristaria plicata 『の貝殻と外套膜の間に土や鉛で仏像(主として座像)や半球を作り貝殻に貼り付けて、これに真珠層を』かぶらさ『せて作る「仏像真珠」と呼ばれる』殻付き真珠を人造する『技術が開発されていた』とある。要するに、現在の真珠養殖で異物である核を挿入して球体真珠を形成させると基本的には同じ貝類の自己の軟体部の防禦のための生理作用を用いて、仏像の形をした核を入れて真珠光沢に盛り上がった仏像真珠部を作らせるのである。但し、私はこの後半に書かれてあるような漆を用いた死貝の殻を処理する製法法は、ここで初めて知った。]

 

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